歌舞伎座 九月秀山祭 『伽羅先代萩』

<政治の日常化>を生活時間の中に組み込むことを心がけようと意識したら、これが怪物で時間がどんどんとられ、新聞を読むにしても時間が多くなる。というわけで、日常の習慣化につとめ時間配分の工夫に努めるしかない。もう一つ、生活の中での思考が観た芝居などの想いに影響されるようで、歌舞伎のような古典芸能も現代に生きる感情が左右され過ぎる傾向にあるように思い、冷静になってからとも考えた。しかし、古典であろうと現代に演じられ、現代の人が観るのであるからそれはそれと考えることにする。

『伽羅先代萩』。玉三郎さんの政岡の<人としての政岡>が胸に一撃を受ける。<飯(まま)炊き>の場は、じっくりと鑑賞させてもらったが、上手くできた場面である。主君・鶴千代を孤立無援で守る乳人・政岡、鶴千代を守るために我が子千松を身代わりとして教育する母親としての政岡。その二面性が、茶道具で飯を炊く美しい自然な所作と相まって展開される。お腹を空かす二人の子供は、低い屏風からそーっと覗きにくる。そこには主従の関係のない頑是ない子供である。

千松に対しては、母として叱り、次に来た鶴千代には千松がまた来たと思って叱ろうとして、鶴千代と知ってへりくだるあたりも二人の子供を挟んでの政岡の立場がわかる。この場での政岡のあらゆる行動によって、鶴千代と千松のそれぞれ立場を教え込む政岡の心のうちが伝わる。母として甘えたい千松。鶴千代にとっても母と同じであるが、その二人の甘えを拒否して、屏風をくるっと廻し自分を隠して涙を流す政岡の後ろ姿。こういう道具の使い方の先人の考えには唸ってしまう。ここでの三人の交流があってこその千松は母に教えられた行動へとつながるのである。ある意味で、政岡は意識的にか意識外なのかは判然としないが、千松をコントロールするのである。

千松は鶴千代の毒見役である。幼い当主を殺そうと企む執権仁木弾正(吉右衛門)一派から守るためである。そのため管領(将軍の補佐職)の妻・栄御前(吉弥)のお見舞いのお菓子を千松は走り出て口にするのである。毒のため苦しむ千松をみて弾正の妹・八汐(歌六)が手にかけ殺害してしまう。鶴千代をかばい懐刀の紐を解く政岡。鶴千代に害が及ばないと判断するや、静かにその紐を巻き整える。眼は逸らさず大きく見開き我が子の最期を見つめる。

栄御前が殺されたのは入れ替えた鶴千代と誤解し連判状を預けて去り、全てを身に受け、政岡は千松の遺骸の前で初めて母政岡となる。こともあろうに八汐のような者に殺された悲しみ。今回一番耳に残ったのは懐剣を持つ手を千松の首の上から反対側に渡し、懐剣を畳に立てた形で 「死ぬるを忠義と云う事はいつの世からの習わしぞ」 である。胸にぐっときた。母政岡の悲痛な叫びである。主人に仕えるキャリアの政岡が子供までも捧げる立場の嘆き。

ここまで至る憎っくき八汐も、沖の井(菊之助)と毒薬を調合した医師の妻・小槙(児太郎)の助力もあり政岡の怒りの一刺しとなる。ところが、連判状を鼠に持ち去られる。その鼠を捕らえようとするのが、荒獅子男之助(松緑)である。忠儀者で床下で鶴千代を守っていたのである。この設定も面白い。ところが、鼠は妖術を使う仁木弾正だったのである。花道に現れ太々しさを残し消える。

さらに面白いのは、妖術を使う仁木弾正も忠臣の渡辺外記左衛門(歌六)らの訴えにより幕府の問注所での裁きとなる。栄御前の夫・管領山名宗全(友右衛門)が弾正に有利な判決をだすが、管領細川勝元(染五郎)が現れ外記等の逆転勝訴とする。弾正は外記に襲いかかるが、忠臣たちに助けられ痛手を受けた外記は弾正に止めを刺す。

目出度く鶴千代の家督相続が許可される。

では、鶴千代の父上とは。それが最初にある<花水橋>に登場する、足利頼兼(梅玉)である。闇夜での出来事、だんまりの情景であるが、見えても見えなくても頼兼はゆったりと品格をみせ、闇から伽羅の匂いを醸し出さなくてはならない。こういう役は梅玉さん。いつも足の歩幅や動きの流れに目がいく。この感じを会得するには時間を要す。この殿様の放蕩からお家騒動となるわけである。

役者さんの置き所が的確で、それぞれの見せ場をたくさん作り芝居の空間を絞め、お家騒動ならではの苦慮が浮き彫りになった。

刺客に襲われる頼兼を助ける絹川の又五郎さんも力士の愛嬌と力がある。忠臣の沖の井の菊之助さんも八汐にしっかり対抗し政岡の忍に答える。児太郎さんも落ち着いて役どころの転換を見せる。男之助は出は少ないが弾正の正体を知らしめ、女たちの世界から男たちの世界へ転換する大事な場面であることを押し出してくれた松緑さん。八汐の歌六さんは憎々しく今までの八汐を演じた役者さんたちと肩を並べる。ガラッと変わった外記はお手の物。

大きな色悪の仁木弾正の吉右衛門さん。<対決>で自筆を書くだんで心の中で迷っている様子が吉右衛門さんならではの思索の人の一面が。その弾正の悪を暴く勝元の染五郎さん。高い音質が細くなるので心配したが、高低自在に変化をセリフに乗せ聞かせる工夫がみられ、急に高い声を張らせて語るあたりこれからのさらなる楽しみが増える。

今回の芝居でも、空白のある年代があることを思わせられるが、そのことを乗り越えて心している役者の意気が頼もしい。

常総市の石下

大雨による鬼怒川の氾濫で、常総市が大きな被害を受けてしまった。常総市の石下は二回ほど訪れたことがあり、テレビ映像から見ていて、あの静かで平和な田園に泥水が襲い亡くなられたかたやまだ行方がわからかたもおられ、なんとも痛ましい限りである。一日も早く生存の確認が取れることを願う。自然の残酷さを思い知らされる。

細長い常総市の真ん中を常磐線の取手駅から水戸線の下館駅へつながる関東鉄道常総線が鬼怒川と平行して走っていて、この鉄道も水に埋もれたようである。

石下は、歌人で作家の長塚節さんの生まれた土地であり、生家がある。石下駅から鬼怒川にかかる石下橋を渡り歩いて50分位のところに生家があり、西地区といわれ、そちらの方は少し高いようである。石下駅から川を渡らず10分くらいのところの東地区に、お城の建物があり、常総市地域交流センターである。

 

 

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交流センターの六階に長塚節さんの関係資料が展示されている。この交流センターも一時は孤立状態となったようである。豊田城として市民の交流の場とされ図書館や多目的ホールもあり、ここは高く位置しているのであるが、その高さをも孤立させるだけの水かさとなったのである。

七階は展望室になっていて、そこからは、遥か彼方に筑波山が見え、一面田畑なのである。二回目に行った時は、東日本大震災の後だったので、上階には上がれなかった。茨城は震災のときも被害を受け、農作物も放射能汚染の疑いから苦しい立場となり、やっとそれを乗り越えてきたところである。

農作物の被害も相当なものとなるであろう。収穫できない想い。心のケアと同時に経済的ケアが必要である。再び芽を出す田畑の整備がなされれば、また自然とともに生きる力も湧いて来るであろう。そのための経済的援助が欠かせない。そのことも平行して、先に進む道をつけてあげて欲しい。

被害は石下だけではないが、豊田城から一度目にした風景が焼き付いていて、目にした土地が特別となっている。一日も早く再び優しい実り多き大地となることを祈るばかりである。そして亡くなられた方々のご冥福を。(合掌)

 

旧東海道の言葉遊びとアニメ

井上ひさしさんが文を書き、さしえ絵は山藤章二さんの『新東海道五十三次』という本がある。言葉の好きな井上さんならではの言葉のことがたくさん出てくる。こちらとしては、井上さんと山藤さんの弥次喜多道中と思って購入したが、開いてみたら東京圏内での東海道体験では、つんのめるばかりで先に読み進めない。では府中まで進んだのだからと思って開くと少し楽しめた。

たとえば、江戸の寺子屋では、『都路』というのが教材として用いられていたそうである。どんなのかというと次のような文である。

都路は五十(いそじ)余りに三(み)つの宿、時を得て咲くや江戸の花、波静かなる品川や、やがて越えくる川崎の、軒波(のこは)並ぶる神奈川は、はや程ヶ谷のほどもなく、暮れて戸塚に宿るらむ、紫匂ふ藤沢の、野面に続く平塚も、ものの哀れは大磯か、蛙(かわづ)鳴くなる小田原は、箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や、宿は沼津の真菰草(まこもぐさ)さらでも原の露払ふ、富士の根近き吉原と、ともに語らん蒲原や、休らふ由井の宿なるを、思ひ興津の焼塩の、後(のち)は江尻のあさぼらけ、けふは駿河の府中行く

 

この調子で京まで続くのである。そして、この変形のひとつが明治期の「鉄道唱歌」ということである。この『都路』を覚えて次の東海道歩きのときには、紹介したいものであるが、暗記は苦手。コピーを渡すことになりそうである。

「道中新内節」というのもあって、

日本橋から二人連れ、七つ発(だ)ちにてやつやまをはなし品川いそいそと、磯辺伝いの鈴ケ森、古川薬師横に見て、わたしを越して川崎へ、ひとり行くとは胴欲な、晩に必ず神奈川(かんなかわ)

 

と続くのである。

枕詞東海道などというのもある。それが、戦争中カナダ人修道士が日本の収容所にいれられ、監督官が軍部から軍人勅諭を暗記させろと命令されたがあんなもの覚えても仕方がないから、むかし寺子屋で枕ことばを暗記するのに使ったものを教え、それを習ったカナダ人の修道士から井上さんが教わったのである。

おおふねの 沼津。あおやぎの 原。よしきがわ 吉原。あおやぎの 蒲原。さつひとの 由井。みさごいる 興(沖)津 ・・・

そこから、井上さんは枕詞に凝る。

岸恵子さん「いわそそぐ岸の恵子さま」。若尾文子さん「わかくさ若尾のむさしあぶみの文子さま」。五木寛之兄「みずとりのかもめのジョナサンしずたまき数にぞ売れしかきかぞう五木さん」。佐藤愛子さん「しろたえの月の光も照り負くる男まさりの愛子姉さま」などなど。

井上さんと山藤さんに比べようもないのが、こちらの東海道のお遊びはアニメの突っ込みであった。アニメ『バケモノの子』が面白そうというと、細田守監督のアニメ幾つかDVDになっているというので、ネタとして『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』を観る。アニメは実写の映画より突っ込みどころが沢山あり、道中には楽しいなぐさみとなる。時として突っ込みに夢中になり道を間違え暑い中をもどる羽目となってしまったりもした。

『時をかける少女』は、大林宣彦監督のとどう関係するのか尋ねたら、大林監督の続きがアニメ映画で、博物館で修復の仕事をしていた女性が原田知世さんで、アニメの方の時をかける少女はその姪にあたるのである。なるほど。

『サマーウォーズ』の旧家の素敵なお婆ちゃんの声は富司純子さん。『おおかみこどもの雨と雪』の頑固なお爺ちゃんは菅原文太さんの声である。『葛の葉』などは、狐が子供を産むのであるが、『おおかみこどもの雨と雪』は、人間が狐の子供を産み、その子は人間の世界で暮らしてもいいし、狼の世界で暮らしてもよく、子供が成長の段階で選ぶのである。子供が夢中になると、耳が出て狼のように走ったり発想が面白いと思ったが、かなり突っ込まれる。

ネタも必需品だが、テーピングも必需品である。箱根から三島への「下長坂」は「こわめし坂」とも呼ばれる急な長い坂である。あまりにも長く急な坂で、背負っていたお米が、汗と熱でこわ飯になったといわれる坂である。ここで足を痛めてしまった。なんとかテーピングで、次の日も歩くことが出来たのでホッとした。どういうわけかその日はテーピング持参していたのである。カンが働いたのか。ところがハサミがなくて、友人が爪切りを持っていてそれで引きちぎった。旅はなにがあるかわからない。くわばらくわばら旅まくら。

旧東海道と『興津坐漁荘(おきつざぎょそう)』(興津宿・江尻宿・府中宿)

 

17番目の宿・興津宿。

 

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東海道ぞいにあった、『興津坐漁荘』について書く。

興津坐漁荘』は西園寺公望(さいおんじきんもち)さんの別荘である。本来の『坐漁荘』は、愛知の犬山にある明治村に移築された。その後で、興津に復元され、『興津坐漁荘』として公開されているのである。本来の『坐漁荘』に忠実に復元されているらしい。材料が吟味されていながら、これ見よがしの所が無いシンプルな日本家屋である。時間が早かったため、家屋の雨戸などを開けている途中であったのが係りの方が、快くよく見学させてくれ、もう少しすると詳しく説明できる者が来るのですがと言ってくれたが、先を急ぐ旅人ゆえ、簡単な説明で充分に堪能できた。

 

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『坐漁荘』は、劇団民芸の『坐漁荘の人びと』(2007年)という芝居を観て、頭の中に残っていた。西園寺公望さんという方は、最後の“元老”と言われた人で、政界を退いても影響力のある人であったようだ。しかし国の行方は彼の思うようには行かず憂いを残して亡くなられたようである。

『坐漁荘の人びと』は、昭和10年(1935年)の夏から、昭和11年(1937年)の二・二六事件を通過した、3月までの『坐漁荘』の中での使用人や警備の人々に囲まれた西園寺さんの登場である。視点はあくまで、一般の人々の目線である。

以前奉公していた新橋の芸者・片品つるが坐漁荘を訪れる。そこで、もう一度女中頭として勤めて欲しいと執事に懇願され、引き受けることとなる。新しい女中頭のつるが、奈良岡朋子さんで、西園寺が大滝秀治さんであった。

西園寺さんは、軍部に対しても物申す人で、身辺の危険が心配され、坐漁荘の中は女中と西園寺さんだけの世界である。そのため、内なる女達のまとめ役が必要であったわけである。女中頭のつるは、今までの経験を駆使して、ご主人の気の休まるような環境をと、七人の女中をまとめていくのである。

『興津坐漁荘』を見て廻ると、女性達の動線が自分の動きと重なる。兎に角、開け放たれた部屋はどこも明るい光が入り、台所も明るく、暗い場所がない。庭からの景色は風光明媚である。かつては。今は埋め立てられグランドになっていて、野球部の学生が練習に励んでいる。それもまた、主の居ない風景としては理に適っているかもしれない。戦争の足音の聞こえる時代の風景が今は、若者が好きな野球に打ち込んでいる。一部の人々のための風光明媚よりも現代に相応しい明るさと美しさである。

『坐漁荘の人びと』を観ていなければ、政治家の別荘の一つとしてしか見なかったであろう。竹が好きなようで、窓の格子も竹であるが、侵入を防ぐため竹の中には鉄棒が入っていた。そういうところも、きちんと復元したようで、中の網代や外の桧皮壁も質実剛健に見えるのが好ましい。

“元老”は西園寺公望さんが最後でよい。

作・小幡欣治/演出・丹野郁弓/出演・奈良岡朋子、樫山文枝、水原英子、鈴木智、千葉茂則、伊藤孝雄、河野しずか、大滝秀治

 

旧東海道にもどると右手に『清見寺』。徳川家康が人質として今川家にいた竹千代時代時々ここで勉学に励んだと言われている。五百羅漢など見どころが多いお寺である。

 

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延命地蔵尊と常夜灯

 

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旅の途中で倒れた人々の埋葬碑

 

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巴川にかかる稚児橋の河童の像の一つ。稚児橋は家康の命によってかけられた。渡り初めに地元の老夫婦が選ばれ渡ろうとしたらおかっぱ頭の稚児があらわれ橋を渡って府中方面に消えたという伝説がある。

 

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久能山に向かう追分の道標

 

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清水次郎長が森の石松のかたきを討った場所で討たれた都鳥を哀れに思った里人が建てた都鳥の供養塔

 

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東海道の解説版

 

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草薙一里塚  (江戸から43番目の一里塚) 一里塚のそばに大きなタヌキの像があった。笠を首にかけ徳利を持っている。それらには意味があるようなのである。狸八相縁起

 

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旧東海道記念碑。昭和37年国鉄操車場の建設により旧東海道が分断され旧東海道が一部消えたことから記念碑を残す。

 

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西郷・山岡会見跡の碑。江戸城無血開城についての会談。

 

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東海道も弥二さん喜多さんや、浮世絵の世界だけでなく、時代時代の動きを垣間見せてくれる。時には、出会った人から、市町村合併の理不尽を聞かされることもある。その話しを聴いた後で歩くと、その人の怒りがもっともに思える町並みの風景に出会うこともある。集めるだけ集めて回って来ない置き去りにされる地域が生じることもあることを知る。

8.30国会包囲10万人集会と映画

8月30日、『国会包囲10万人集会』の安保法案反対の集会に参加する。その前に、7月28日の日比谷野外音楽堂での集会とデモに参加していて8月30日の行動を知る。7・28の集会では、脚本家の小山内美江子さんが元気な姿を見せられ、座ったままで良いというのでと、その場で発言された。かつて、小山内さんの著作を読ませてもらったので、この場に居なくてはとの力強いお元気な声が聴けて嬉しかった。集会が1時間位でそのあと国会までのデモであった。

8・30は、2時間の集会である。日比谷野外音楽堂は座っていれたが今回は立ち尽くしを覚悟しなくてはならない。

国会議事堂前は混むであろうと永田町駅で降車。永田町の駅構内には食事処があり、食べる予定ではなかったが空腹よりも良いと食事をする。お手洗いには15分くらい並ぶ。降車予定駅のもう少し手前の駅で済ませなかったのを反省。それから目的の改札口に向かうと、動きが取れないので他の改札へと案内があり、そちらへ回る。改札と階段はスムーズであった。外は人でいっぱいである。

さてさてどうしようか。国会正面までは迂回しなくてはならないらしいし、子供連れの方々もいるし、さらに込み合う必要もない。国会の裏とする。まずは歩道を渡り歩く。スピーカーからは、無理に進まずにそこに留まって下さいという。しかし、この位置はスピーカーの音が大きすぎ、長くは居られない。スピーカーの音が適度で、人の群がらないところを探すことにする。歩道の半分は参加の人々が三列ぐらいに並ばれている。後ろのほうの方は座られている。そのうち、集会が始まり政治家のアピールが始まる。

歩きつつ、スピーカーの設置位置により、全然聞こえない位置もあるのを知る。やっと右手に人々が程よく両脇に並んでいる歩道を見つける。スピーカーの音も程よい。ではゆっくりと拝聴しよう。位置を決める間に政治家の話しは終わっていた。時々、皆さんしっかり聞かれていて、時々笑いがあったり、拍手があり、シュプレヒコールが入り、それぞれの思いで時間が経過する。雨が降り出してもかなりのかたが傘以外の雨具持参である。こちらも、ポンチョを着る。

若い人たちのシュプレヒコールがラップ調で、<何々だー!>ではなく<何々だろう>と巻き舌になる。年配者も次第に調子に慣れてくる。

SEALDs(シールズ)のデモときは、時には過剰警備が疑われ弁護士が不当な扱いがないか監視して見回っているそうである。メッセージも映画関係となると耳がそばたつ。神山征二郎監督は師匠の新藤兼人監督の『一枚のハガキ』の意思を伝える。神山監督の『郡上一揆』秩父事件の『草の乱』『宮沢賢治』が頭に浮かぶ。坂本龍一さんがあきらめていたが若者に期待すると。坂本さんが出てくると、『戦場のメリークリスマス』を思い浮かべるが、よく解からなかった。デヴィッド・ボウイにハグされ戸惑う坂本さんの顔。たけしさんの「メリークリスマス」という時の笑顔。大島渚監督の映画のイチ押しは『少年』である。前日、京橋のフィルムセンターで数十年ぶりで観た。最初に観た時の想いは裏切られなかった。少年の心の内。雪一面の中の少年と三歳の弟。映像的にも美しかった。

横を歩く方々がそれぞれのメッセージを前にかざして通る。連帯の意思表示であろう。誰かとはぐれた人が携帯で連絡しながら歩いている。そんな動きもスピーカーから流れるメッセージやアピールの邪魔にはならない。発言者が係りの人に話が長いといわれているらしく、あと少しですからと焦られたりして聞いているほうにも笑いが起こる。シュプレヒコールのあと拍手で終わりそれぞれの思いを胸に帰路につく。2時間近く立ちっぱなしというのは後で応えた。主権は国民にある。

集会の日の夜、返す期日が迫っている映画『日本列島』(熊井啓監督)を観た。これは、芦川いづみさんが観たかったのである。芦川さんは、日活だけでなく、松竹系も似合いそうな女優さんであった。シリアス系もコミカル系もこなされていた。『日本列島』に、1960年安保闘争の国会前の抗議行動の映像が出た。

映画『日本列島』は、昭和34年に米軍基地で通訳として勤務していた秋山(宇野重吉)が、上司の中尉から、米軍の軍曹が殺された真相を調べるよう要請される。そこには占領下時代の闇の部分が介在していて、その闇の組織に父親を拉致された娘・和子(芦川いずみ)と秋山は出逢う。軍曹の死の真相の探索を頼んだ中尉自身から中止の命令があり、如何にやっかいな組織であるかがわかるが、秋山は真相究明を続ける。和子の父が沖縄で生きているらしいとの情報から秋山は沖縄に向かう。和子のもとに届けられたのは、秋山と父が殺されたという情報であった。

この知らせを聞いたときの芦川さんの演技が見事である。ラスト、国会をバックに和子が、胸を張って穏やかな表情で歩く姿には違和感があるが、負けるなという意味であろうか。下山事件、松川事件などの当時の迷宮入りの事件も映し出され、時代性が膨らみ、真相が隠されているので映画としては捕らえづらいが、そういう事もあったというドキュメンタリー的要素が強い映画である。劇団民芸の役者さん達が、リアリティーを加える。その中で芦川さんは大奮闘である。(原作・吉原公一郎/監督・脚本・熊井啓/撮影・姫田真佐久/出演・宇野重吉、芦川いづみ、二谷英明、鈴木瑞穂、武藤章生、大滝秀治、佐野浅夫、内藤武敏、北林谷栄)

日活がこういう社会派と言われる映画を創っていたのである。

映画人のほうが、今の政治家以上に勉強されている人が多いであろうと思える。政治家のお金目当ての私利私欲の姿がテレビの映像に現れそのリアルさに呆れかえる。演技賞は政治家に贈ったほうが良いかもしれないが、恥も外聞もなく国民に税金という観覧料を払わされているのに腹が立つ。

 

加藤健一事務所 『滝沢家の内乱』

『滝沢家の内乱』は再演である。2011年に加藤健一さんが劇団で100本目のプロデュース作品として選んだ作品である。『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴家の内幕である。

劇作家の吉永仁郎さんが、馬琴さんの残っている日記を探り、文字の演劇の馬琴像を作り上げた。あの『南総里見八犬伝』を書いた戯作者がどんな生活をしていたのか興味があるが、自分で日記を読んで馬琴像を作り上げる努力をする気がないので、吉永仁郎さんとカトケンワールドに任せることとする。

これが、面白かった。よく<面白かった>という言葉を使うと自分で自覚しているが、先ずは何かを食して「美味しかった。ご馳走様でした。」の感覚である。それから、味わいがあれば、何か言葉が生まれて来るであろう。

登場人物は、馬琴と、息子の嫁のお路である。初演も再演も、馬琴は加藤健一さんで、お路は加藤忍さんである。滝沢家の家族構成は、馬琴、妻のお百、息子の宗伯、嫁のお路、その後孫が二人と増える。お百は、高畑淳子さんが、宗伯は風間杜夫さんが声だけでの出演である。基本的に二人芝居であるが、声の出演の応援もあって、『滝沢家の内乱』がよくわかる。お百は神経の病気で宗伯も身体が弱く明るさの微塵もない家庭である。さらに暮らしは慎ましく、観ていると逃げ出したくなる状態である。

お路は二人の子を産み、筆記など出来ないほど目の不自由な馬琴に代わって口述筆記の代筆をして、『南総里見八犬伝』を完結させるのである。それが、7か月半の間で、漢字の書けないお路は漢字を馬琴から習いつつ書き上げるのである。初演のパンフレットに、代筆を始めたころの文字と八犬伝脱稿の文字の写真が載っていたが、信じられないほど美しい文字となっている。

再演のほうが、笑いが多くなった。なぜか。馬琴とお路の生き方のすれ違いである。それが顕著になり可笑しさを誘うのである。お路は、家族皆で話しを楽しむ家庭で育ち、『南総里見八犬伝』の作家の家に嫁にこれて、楽しい話しが沢山あるであろうと思ったのに、想像外のしつけに厳しく、倹約、節約の家である。お路の驚きと落胆、馬琴のお路に対する驚きと教育が、他人ごとなので可笑しい。お路の加藤忍さんが、どうすりゃいいのよこの私、バージョンである。

それに輪をかけて、声の出演だと思って勝手なこと言わないでよの高畑さんと風間さん。馬琴の加藤健一さんは屋根の上でしばし、現実を忘れるしかないのである。

お路さん次第に馬琴さんが、一人で滝沢家を守っていることが分って来る。世間で本が人気でも、その頃の戯作者の手にするお金は、今の流行作家の足元にも及ばない。さらに、滝沢家の内乱は、馬琴さんが戯作を書きたいう願望と息子を自分の思う方向に育てたいとの願望から生じた亀裂なのであるが、それは口にせず、お路さんは自分の役目を自覚する。そして、一度だけ、渡辺崋山が幕府からお咎めを受けた時、自分の気持ちを主張する。魅力的な女性である。馬琴さんが、ちょっと夢をみるのもわかる。

最期のお路さんの活躍は『南総里見八犬伝』の代筆である。お路さんが、滝沢家で我慢出来たのは、お路さんが『南総里見八犬伝』の読者であり、現実から逃避できたのは、『南総里見八犬伝』があったからで、漢字を知らないお路さんが代筆ができたのは、登場人物らがお路さんの中に生きていて、その名前などが漢字となる事に、お路さんは喜びを感じていたのであろう。ふりがなで読んでいたものが、自分で漢字を書くことが出来、登場人物との関係に新たな光がさし、読者として一番に八犬伝の先がわかるのである。これこそ、『南総里見八犬伝』の戯作者の家に嫁に来た時の自分の気持ちになれるのである。

演出の髙瀨久男さんがお亡くなりになられ、加藤健一さんが今回演出をされたようであるが、髙瀨さんの演出されたものに、二人の役者さんのさらなる演技が加味され、滝沢家の内乱は、より明確に個々を確立してくれた。偏屈であったと言われる馬琴さんも<馬琴の事情>として加藤健一さんの馬琴はよく判ったし、加藤忍さんのお路も大戯作者馬琴に負けないだけの生き方を示してくれた。『滝沢家の内乱』も<忠・孝・悌・仁・義・礼・智・信>をもって納まったわけである。

下北沢・本多劇場 8月26日~30日

滝沢馬琴さんは、江戸時代で亡くなられている。今、河竹黙阿弥さんと三遊亭圓朝さんが、江戸から明治を超えて生きたことに興味がある。

そして、やっと山田風太郎さんの『忍法八犬伝』に入れる。『滝沢家の内乱』を観てからと思っていた。山田風太郎さんのことである、滝沢馬琴さんもびっくりの世界であろう。

 

 

『春琴抄』

NHKBSプレミアムの『妖しい文学館 こんなにエグくて大丈夫?“春琴抄”大文豪・谷崎潤一郎』で、作家の島田雅彦さんが、佐助が眼に縫い針を刺す箇所の文章に言及されていた。

試みに針を以て左の黒眼を突いてみた黒眼を狙って突き入れるのはむづかしいやうだけれども白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔らかい二三度突くと巧い工合にづぶと二分程度這入ったと思ったら忽ち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのがわかった出血も発熱もなかった痛みも殆ど感じなかった此れは水晶体の組織を破ったので外傷性の白内障を起こしたものと察せられる

 

島田雅彦さんは、金目鯛の目で試されたそうで、谷崎さんも試したのではと言われていた。そのことで面白い文を見つけた。

佐藤春夫さんは『最近の谷崎潤一郎を論ず 「春琴抄」を中心として』という文章の中で『春琴抄』を作品として高く評価している。そして、徳田秋声さんのこの佐助の失明の部分が不用意で痛くない訳がないとの意見に対し、佐藤春夫さんは専門家の意見を聞き、医学的には間違っていないらしいとしている。

さらに佐藤春夫さんは、谷崎潤一郎さん本人に尋ねている。「谷崎は自信に充ちた顔つきで、僕は専門家をそれも二人まで意見を微して安心して書いているのだからね」と書いている。

これらは失明の描写の問題であるが、作品の中での佐助の失明について、佐藤春夫さんは失明以後を好むとし、かれの小説は佐助の失明によって始まるとし「春琴抄」は寧ろ「佐助抄」であろうとしている。

佐藤春夫さんはさらに谷崎潤一郎さんに意見を言う。「作中の春琴の小鳥道楽の部分は甚だ手薄で間に合せな素人くさいものに見えたと言ってみると、すぐ兜を脱いで、あれはあんなに詳しく書かないですませて置けばよかったのに、とあっけなく承認してしまった。」谷崎さんは佐藤さんの自分の作品に対する意見を素直に認めているところに、佐藤さんと谷崎さんの関係が垣間見えて面白い。

谷崎夫人だった千代子さんが谷崎さんと離婚して佐藤さんと結婚したのが昭和5年(1930年)、谷崎さんが丁未子(とみこ)さんと再婚したのが、昭和6年(1931年)、『春琴抄』が発表されたのが昭和8年(1933年)、谷崎さんが丁未子さんと離婚して後の松子夫人と同棲したのが昭和9年(1943年)である。

佐藤春夫さんの『最近の谷崎潤一郎を論ず 「春琴抄」を中心として』が書かれたのが昭和9年(1943年)であるから、佐藤さんと谷崎さんの関係は良好で、佐藤さんにが谷崎文学を好意的に論じるだけのゆとりがあり、谷崎さんも佐藤さんからの意見を素直に受け入れる創作上の環境が出来たということである。

松子さんに対する谷崎さんの手紙は『春琴抄』の佐助である。佐藤さんが『春琴抄』は「佐助抄」であると言われた意見に賛成である。失明することによって佐助は、自分の中に永遠の<春琴>を完成させる。肉体関係にありながら最後まで師と弟子という関係を保つ。それは、失明しても<春琴>は永遠であり、失明することによってさらに研ぎ澄まされた<春琴>から学んだ<音>は常に自分の手の中にあり、再現できるのである。

佐助は春琴が亡くなってから21年後の同じ日に亡くなっている。この21年間のために<春琴>は存在してたともいえる。<春琴>も自分が亡き後、<佐助>のなかで生きる自分の存在を、佐助が失明した時悟ったのであろう。佐助が失明したのを春琴が知った箇所が次の文である。

佐助、それはほんたうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思してゐた佐助は此の世に生まれてから後にも此の沈黙の数分間程楽しい時を生きたことがなかつた

 

その後に例えとして、失明した悪七兵衛景清のことを書き足している。

佐助は、春琴に滅私奉公するが、きちんと検校となるだけの技量も会得している。現実離れしているが、きちんと土台も出来ていて、滅私奉公も耽美に描かれ、この辺りは谷崎さんの狡猾に構築された構成力と物語性である。

佐藤さんは、『春琴抄』に対する泉鏡花さんの受け取り方も書かれている。

「鏡花先生はめくらの女の琴の話の出るのは朝顔日記以来閉口(何でも少年時代にでもへたな村芝居か何かでいやな印象を得てしまったらしいので)で、好きな作者のもので少しでもいやな気がするのは不本意で読了せぬと理由は先生らしい特別なもので」「好きな作者のものでいやな気がしたくないというのは尤も千万な心理と僕にもうなずける。」

『春琴抄』から、作家達の感想、谷崎作品の分析、谷崎さんとの直接の会話など、作家佐藤春夫さんならではの文であった。この佐藤さんの文があるから、折り畳まれた『春琴抄』を開いてみたが、不用意な開きかたでありながら、手を離せば何もせずとも元の『春琴抄』にもどる力がある作品なので、安心して遊ばせて貰った。

 

 

旧東海道・吉原宿

JR東海道本線の吉原駅から始める。このすぐそばから岳南電車の吉原駅が始まる。

JR吉原駅手前に元あった吉原宿でかつて津波の被害があり中吉原宿へ。さらに新吉原宿へと移転している。新吉原宿は岳南電車の吉原本町駅あたりである。

先ずはそこまで目指すこととする。吉原は工場地帯で先に歩いた仲間は左富士は見えなかったと言っていた。

酒屋の看板に < ちょっと一息 左富士 > とある。

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左富士神社のあたりが中吉原宿であった。

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名勝・左富士の案内板

東から西に進とき今まで右手に見えていた富士が左手にみえることから名勝となった。安藤広重の道中日記 < 原、吉原は富士山容を観る第一の所なり。左富士京師(京)より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ。一丁ばかりの間の松の並木を透かして見るまことに絶妙の風景なり。ここの写生あり。>今は工場や住宅で当時の風情はないが一本だけ老松が残っていて貴重であると。

えっ! 広重の道中日記があるんですか。読んでみたい。

残念ながら左富士も富士山そのものも見えなかった。

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名勝・左富士の碑

左脇の広重の絵の説明が詳しい。

右方に見える黒い山は愛鷹山である。左に富士山を眺めながら馬に乗った旅人が行く。前方の馬は背の両脇に荷物を入れたつづらを付け(37.5kgずつ)その上にふとんを敷いて旅人を載せる。この方法はのりじりといい賃料がかかった。手前は馬の鞍の左右にこたつのやぐらのようなきくみを取り付けそれに三人の旅人が乗っている。これを「三宝荒神」といっていた。

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平家越えの碑

この場所であったのかと驚き。

治承四年(1180)十月二十日。富士川を挟んで、源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙した。その夜半、源氏の軍勢が動くと近くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立った。その羽音に驚いた平家軍は源氏の夜襲と思い込み、戦い交えずして西へ逃げ去りました。源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのはこの辺りといわれ「平家越」と呼ばれている。

この頃、八幡神社で頼朝と義経が石に座し対面しているのである。

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平家越えの橋

この下を流れているのは和田川

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平家越の石碑

これはかなり古いですね。横に東海道の道標

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東木戸跡

いよいよ新吉原宿である。

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身代わり地蔵さん

昔、寺町(今の東本通り付近)に悪性の眼病がはやった時、町の人々がこのお地蔵さんに願をかけると、たちまち潮が引くように治った。その時お地蔵さんにはいっぱい目やにがついていたので「身代わり地蔵」というようになった。その後もはしか、おでき等身体の弱い子に霊験あらたかと信仰を集めていた。

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商店街を歩くが本陣など吉原宿の印は何も見つけられなかった。

清水次郎長と山岡鉄舟が泊まったという宿「鯛屋」がありました。今も営業されているようです。

間宿・本市場案内板

本市場の名物は、白酒、葱雑炊、肥後ずいきなど。

広重の絵には旅人が「名物 山川志ろ酒」の茶店で休んでいる。浮世絵には「吉原」と。広重は旧東海道の浮世絵を20種類くらい出している。右の本市場の地図には旅館が並んでいるが芝居小屋もある。川止めのときはかなりにぎわったのであろうか。

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鶴芝の石碑

かつてこの辺りに「鶴の茶屋」があった。ここから見える冬の富士山は中腹に鶴が一羽舞っているようにみえたという。

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一里塚石碑

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猿田彦大神石碑

きちんとお水と果物が供えられている。

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札の辻跡案内

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道標と常夜灯

JR身延線の柚子の木駅近くの線路を渡った先。JR東海道本線富士駅から身延線が出ている。

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水神の森と富士川渡船場の説明版

富士川は船で渡った。家康の交通政策によるものである。渡船は岩淵村と岩本村との間でおこなわれた。東側の渡船場は上船居、中船居、下船居の三か所あり、下船居のあった水神ノ森辺りを「船場」と呼んでいた。水神ノ森には安全を祈願し水神社を祀った。

用いた船には定船に定渡船、高瀬舟、助役船があった。定渡船には人を三十人、牛馬四疋を乗せ船頭が五人ついた。

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松岡水神社

境内に富士山道の道標富士川渡船場跡碑がある。

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富士川

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富士川を渡ると間宿・岩淵渡船場跡

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秋葉山常夜灯

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岩淵一里塚

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歌舞伎座 八月 『京人形』『芋掘長者』『祇園恋づくし』

『京人形』はかつて観たとき、面白い作品とは思えなかったが、今回は面白かった。その第一の要因は、七之助さんの人形である。左甚五郎(勘九郎)が廓で見た太夫が忘れられず自分で太夫の人形を彫ってしまうのである。そして出来上がった人形を前に、本物の太夫と逢っている気分を味わうのであるが、この時は女房(新悟)も気をきかしてお酒を用意して人形と夫だけにしてやるのである。

人形の箱を開けると太夫の人形が現れる。この場面の人形(七之助)がいい。箱から出しこれからお座敷遊びと甚五郎はわくわくである。ところが、さらに嬉しいことにこの人形が動くのである。甚五郎が彫った人形なので、動きが男の動きである。そこで、廓で拾った太夫の鏡を人形の懐に入れると太夫の動きになり、甚五郎は太夫との逢瀬を愉しむのである。この、人形の動きの変化が、人形の基本を保ちつつ甚五郎と共に観客をも楽しませてくれる。

もう一つの話しが隠れていて、甚五郎は元ご主人の妹(鶴松)を匿っていて立ち回りとなる。この立ち回り、甚五郎は右手を切られ左手での大工道具を使っての動きとなる。左甚五郎にかけた立ち回りで、勘九郎さん爽やかにきめた。

『芋掘長者』。十世三津五郎さんが、45年ぶりに復活させた演目で、これから再演されて深めてゆく作品であった。この作品、再び一に戻っての形となった。踊りの腕の見せ合いという作品で、そこの部分が難しい作品である。芋掘りを踊りを加えることにより笑いとなるのであるが、踊りの上手さの落差も出さなくてはならない作品で難易度の高い作品と思う。芋掘り(橋之助)がお姫様(七之助)を好きになり、姫の婿選びの舞いの会に、踊りの上手い友人(巳之助)にお面を付けさせ代わりに舞わせ上手くいくが、もう一舞い所望されて芋掘り踊りを踊り、その面白さに姫に気に入られるのである。橋之助さんと巳之助さんのコンビ、味は薄いが爽やかであった。

『祇園恋づくし』は、上方と江戸の文化や人柄の違いのぶつかりあいが如実に現れる作品で、言葉、仕草、間などの相違が面白、可笑しく演じられた。

江戸っ子の代表が勘九郎さんで、上方が扇雀さん。扇雀さんは、茶道具屋の主人と女房の二役でこれが上方の男と女をもきちんと見せてくれて二役の効果が上手くいった。勘九郎さんも上方で一人で江戸っ子奮闘記で頑張り、その頑張りもウケる。その間に入って、お嬢さんと駆け落ちしようとする手代の巳之助さんが、あんたは何なのと思わせる弱者の自己主張が笑わせる。歴代三津五郎路線にはない空気である。

この作品は、勘三郎さんと藤十郎さんに当てて作られた作品らしいが、新たな違う面白さを出したのではなかろうか。

場所が京の三条で、時間が祇園祭りの時期で山鉾当日の床でのやり取りもある。祇園祭りはよくしらないが、色々な行事が一か月あるのだそうで、こちらは、中村錦之助さん(萬屋錦之助)の制作した映画『祇園祭』を是非観たいと思っている。年に一回京都の京都文化博物館のフイルムシアターでだけで上映されるのであるが、なかなか日にちが合わない。ここのシアターは、かなり以前から京都に行って予定の無い夜利用させてもらっている。

京茶道具屋の次郎八(扇雀)は江戸でお世話になった息子の留五郎(勘九郎)が伊勢参りに来たおり京に寄るよう誘い、留五郎は次郎八宅に世話になる。祇園祭とあって次郎八は忙し忙しいと言って出歩いている。お祭りだけではなく、芸妓染香(七之助)に逢うのがお目当てなのであるが、染香は渋ちんの次郎八を上手くあしらい他に旦那がいるのである。お茶屋の女将(高麗蔵)の雰囲気もいい。

次郎八の女房おつぎ(扇雀)の妹おその(鶴松)は手代の文七と恋仲であるが許されずひょんなことから、留五郎は若い二人の肩を持ち、おつぎに染香のことを、教えてしまう。それを知った次郎八と留五郎は犬猿のなかとなり上方と江戸の自慢とけなし合いとなり、祇園囃子と江戸の祭り囃子の競争になったりもする。

ちとら江戸っ子が、祭りを一か月も悠長にやってられるか。何んといっても祇園囃子どす。コンチキチン・・・。てやんで。テンテンテレツク・・・。

間のいい丁稚や、江戸っ子が嫌いな女中なども配置され緩急自在な上方と江戸のリズム感や言い回しの違いが楽しめる。夏の夜、お江戸の芝居小屋に京の鴨川の風が渡る。

仁左衛門さんが重要無形文化財保持者(人間国宝)となられ、より一層、上方の芸が若い役者さんに伝わり、江戸と上方の歌舞伎のそれぞれの面白さが浸透することであろう。

八月納涼歌舞伎に出演できることは、若手の役者さんにとっても、良い汗をかく価値ある機会である。

 

歌舞伎座 八月 『おちくぼ物語』『棒しばり』『ひらかな盛衰記ー逆櫓』

八月納涼歌舞伎である。三部構成で、『ひらかな盛衰記ー逆櫓』以外は、踊りと新作歌舞伎で気楽に観れる演目である。八月の若手での納涼歌舞伎に尽力された十世坂東三津五郎さんに捧げる演目も二つある。子息の巳之助さんが参加されているが、面白いことに、巳之助さんは歴代の三津五郎路線と違う味わいの役者さんで、これからどのように成長されていくのか楽しみなところである。

『おちくぼ物語』は、シンデレラストーリーで、落ち窪んだ場所に暮らしているので、おちくぼの君(七之助)と呼ばれている。侍女の阿漕(あこぎ・新悟)とその夫帯刀(たてわき・巳之助)が味方で、帯刀は貴公子の左近少将(隼人)とおちくぼの間を取り持つ。ところが、継母(高麗蔵)は自分の娘に左近少将をと考えている。それを知ったおちくぼは落胆するが、左近少将は計略を考え、鼻の大きな兵部少輔(宗之助)を娘のところへ行かせ、目出度くおちくぼと夫婦となる。

左近少将の隼人さんが、美しい貴公子を作りあげた。おちくぼの本来の性格をきちんと解かっているのだが、その包容力までは出せなかった。七之助さんのおちくぼは、押し込められた本心をちらりと見せ、お酒に酔って変貌するあたりも上手く演じ分けた。帯刀の巳之助さんもひたすら二人のために尽くす誠実さを見せた。父役の彌十郎さんさんが頼りなく、それでいて最後に鷹揚に二人を祝福して大きさを出す。継母の高麗蔵さんグループがもう少し丁寧にいじめの演じ方を工夫すると芝居に厚みが加わると思うのだが。夢ものがたりの美しさが見せどころともいえる。

『棒しばり』(十世三津五郎に捧ぐ)は楽しい踊りである。勘三郎さんと三津五郎さんの時は、結構力を入れて観ていたが、勘九郎さんと巳之助さんのは、楽しんで気楽に観られた。良いとか悪いとかいうことではなく、ここがどうでこうでとか考えずに観れたのである。棒に手をしばられても、後ろ手にしばられてもなんのその。お酒の好きな困った次郎冠者と太郎冠者である。

『ひらかな盛衰記ー逆櫓』。橋之助さんがしっか演じられるであろうと想像していたが、その通りになった。すっきりとして芯のある松右衛門、実は木曽義仲の家臣・樋口次郎兼光であった。樋口は漁師の権四郎(彌十郎)の娘・およし(児太郎)の婿として入り、逆櫓という櫓の使い方を習得する。梶原景時にその技量が買われ、義経の船頭を仰せつかる。その様子を義父と女房に話す時の松右衛門の自慢げなのも良い。

漁師・権四郎の家にはもう一つ事件が起こっている。およしの息子の槌松(つちまつ)が三井寺参詣のおり、大津の宿で取込みがあり、他の児と取り違えとなりその子を連れて帰り、その子の親が槌松を連れて来てくれるのを待っているのである。

実は連れてきた子供は、木曽義仲の遺児・駒若丸であった。訪ねて来た腰元のお筆(扇雀)は、そのことを告げ、槌松に早く逢いたいと思っている権四郎とおよしに残酷にも、槌松は駒若丸の身代わりとなって殺されたと伝える。権四郎は嘆き怒るのである。ここは、映画『そして父になる』を観ていたので、取り変えられたその後の深刻な問題も、二人が生きているということで生じるが、どちらかが亡くなっているとするなら、その嘆きはこの権四郎やおよしのような立場で、権四郎の彌十郎さんの怒りが響く。

義仲の家臣である松右衛門は、自分の素性を明かす。現代の感覚からすれば理不尽であるゆえ、ここでの樋口の大きさが物をいう。権四郎に駒若丸の前で頭が高いと言って頭を下げさせるのである。権四郎も婿の主君とあれば納得しないわけにはいかないのである。この場面の橋之助さんはしっかりと抑えた。

ことの次第がはっきりすると、駒若丸を助けるため権四郎は畠山重忠に樋口を訴人する。樋口と他の船頭たちとの立ち廻りも形よく決まる。権四郎は、駒若丸を槌松とし、樋口とは何の係りもない子供であることを強調する。権四郎が、駒若丸の命を守ろうとしているのを知った樋口は、おとなしく重忠(勘九郎)の縄にかかるのである。

『そして父になる』の映画の影響もあるが、それぞれの立場の役者さん達のしっかりした役の押さえどころによって、時代物に血が通って観れた。

時代物でも、武士と庶民の悲哀が重なる物もあるが、『逆櫓』もその一つである。その二重性をしっかり映し出してくれた。