歌舞伎座6月 『新薄雪物語』

新薄雪物語』は昼夜にまたがっており、昼が<花見><詮議>、夜が<広間><合腹><正宗内>であった。

奉納の刀に、鑢(やすり)で傷目がついていたことから、天下調伏の疑いをかけられた幸崎(さいざき)家と園部家の悲劇の話しである。

鑢で傷目をつけるのが、団九郎で、それを操っているのが、秋月大膳である。証拠隠滅で、普通下手人は殺されるのであるが、大膳は団九郎を殺そうとするが見逃すのである。この部分が以前から納得いかなかったが、今回分かった。

団九郎は吉右衛門さんである。大膳が仁左衛門さん。あらすじを読んでいなかった。<正宗内>という場面がある。今回は、刀に関係する刀鍛冶の話しがついているのである。団九郎が殺されなかったのは、<正宗内>で団九郎の話しとなるからである。今まで、<正宗内>はあまり上演されないので、団九郎は中心人物ではなかった。

夜の部の入場口で、よろしければ参考にと、昼の部の簡単なあらすじと、人物相関図の紙を渡された。<合腹>までは以前観ているので、<正宗内>の人間関係が一目瞭然で助かった。

園部家の子息・左衛門(錦之助)は、刀を打った名匠・来国行(らいくにゆき・家橘)、奴・妻平(菊五郎)と共に清水寺に刀を奉納に来る。先に花見に来ていた幸崎家の息女・薄雪姫(梅枝)は、腰元・籬(まがき・時蔵)と妻平に左衛門との仲をとりもってもらう。その時の艶書には、「刀」の字の下に「刀の絵」その下に「心」で、「忍」となり、忍んで逢いにくるようにと薄雪姫の想いが書かれていた。美しい梅枝さんと、しっかり柔らかさの身についた錦之助さんを取り持つ、余裕の菊五郎さんと時蔵さんで安心して観ていられる。

薄雪姫に心ある秋月大膳は、団九郎に奉納の刀に鑢目を入れさせ、それを来国行に見とがめたれ、小柄を投げ殺してしまう。ここで、団九郎も殺すつもりであったが、見逃すのである。この時の仁左衛門さんと吉右衛門さんの悪の呼吸の決めがいい。久しぶりの空気の振動である。大膳の園部家と幸崎家を失脚させる策略であった。

<花見>の場の最後は、妻平が、大膳側の水奴との大立ち廻りである。水奴ということから、水桶を持ったり。傘をもったりで、二回ほど妻平を囲んで三角形の幾何学模様を作り、見た目にも楽しい立ち廻りであった。

<詮議>は、幸崎家邸にて、葛城民部(菊五郎)と大膳の弟・大学(彦三郎)を上段に、下段には、園部兵衛(仁左衛門)、左衛門(錦之助)、幸﨑伊賀守(幸四郎)、薄雪姫(児太郎)が控えているが、国行も殺され、左衛門と薄雪姫には身の潔白を証明できない。兵衛と伊賀守の辛抱どころであり、二人は花道に渡り話し合い、それぞれが相手の子供を預かり詮議して事の次第を白状させることを申し出る。民部も承諾し、左衛門と薄雪姫との手を自分の開いた扇の下で重ねあわさせ、いずれはと希望を持たせる。重苦しい中にわずかな情をかもしだす。錦之助さんと児太郎さんのそれぞれ顔を合わせつつの交叉する別れに悲哀があった。幸四郎さんと仁左衛門さんの親としての腹の据えどころもいい。

<広間・合腹>である。薄雪姫は今回、梅枝さん、児太郎さん、米吉さんの三人がそれぞれ勤めた。ここは米吉さんで、三人三様の薄雪姫であった。何れは通しで演じることを胸に闘志を燃やしてほしい。兵衛は薄雪姫を逃がすことに決める。この場ですすすっと別室から出てきた腰元の足さばきがよい。腰元・呉羽の高麗蔵さんであった。ちょうど、先代の又五郎さんと佐貫百合人さん共著『ことばの民俗学 4 「芝居」』を読んでいたら、歌舞伎についての実践的なことや色々多義にわたることが書かれてあって、そのことが頭にあってか、足さばきが目に入ってしまったのである。

足さばきだけではなく、役の性根もしっかりしていた。この場の主人・園部夫婦(梅の方・魁春)の窮地、薄雪姫を守れという任務。ことは重大である。その責務を受ける腰元としての動きがいい。この人なら、おぼつかない薄雪姫を守って行けるであろう。やはり託す人によって、その場の雰囲気も変わってくる。左衛門に会えないのを悲しがる薄雪姫と自分の娘として送り出す園部夫婦。

幸崎家から左衛門の首を落としたとして、その刀が使者(又五郎)によって届けられる。その刀で薄雪姫の命をとの口上である。その刀を見て、兵衛は伊賀守の真意を悟る。お互いに通じ合った二人は、蔭腹を切り子供たちの命を嘆願する行動に出るのである。伊賀守、梅の方、兵衛、三人の泣き笑いとなる。ここが見せ場、聞かせどころである。幸四郎さん、魁春さん、仁左衛門さん、それぞれの役者さんがどう表現するのか。こちらも息をつめてその笑い方を待ち、圧倒された。伊賀守の妻・松が枝(芝雀)も訪ねてきて、男親二人を見送るのである。

<正宗内>。殺された国行の父と師弟関係なのが団九郎の父五郎兵衛正宗(歌六)で、団九郎は父の師匠の息子国行の打った刀にやすり目を入れたのである。国行の息子・国俊(橋之助)が放蕩から父に勘当され身を隠して正宗の弟子となり、娘のおれん(芝雀)と恋仲である。

仕事場で三人が刀を打つ音がいい。正宗は、息子団九郎の悪事を見抜き、刀鍛冶の秘伝である焼き刃の湯加減を息子には教えず、風呂の湯で国俊にそっと伝授する。それを察し、湯に手を入れた団九郎の手を切り落としてしまう。父・正宗に諭され改心した団九郎は、追われてきた薄雪姫を助すけるべく、片腕で捕り手と大立ち回りとなる。

<正宗内>は初見なので期待していたが、吉右衛門さんの息子と歌六さんの父との名コンビのセリフが深くならず、団九郎の改心がすんなり心に落ちてこなかった。立ち廻りも工夫しすぎの感があり、ツケの効いた基本的な立ち廻りにして欲しかった。期待しすぎで少し気がぬけた。

しかし、これだけの役者さんを揃えての、<正宗内>までの『新薄雪物語』は暫くはないであろう。

新宿区落合三記念館散策

新宿中村屋のビル三階に<中村屋サロン美術館>がある。この案内チラシもどこかで手にしたのであるが何処であったのやら。そして、この<中村屋サロン美術館>で、<佐伯祐三アトリエ記念館>のチラシを手にした。そのチラシの裏に、落合記念館散策マップが載っており、<中村彝(つね)アトリエ記念館><佐伯祐三アトリエ記念館><林扶美子記念館>の三館をまわるマップである。

中村屋サロンというのは、明治から大正にかけて、中村屋が若き芸術家のサロンのような役割を果たしていたのである。中村屋の相馬愛蔵の郷里である穂高の後輩・荻原守衛(碌山)が、中村屋の近くにアトリエを作り、そこに彼を慕う若き芸術家が集まってきた。このサロンの中心は萩原守衛さんであるが、それは置いておく。その中に、画家の中村彝さんがいた。

佐伯祐三さんの足跡を訪ねてパリまでいった、佐伯祐三大好きの友人が、山梨県立美術館の『佐伯祐三展』に行けなかったので、この散策に誘うと是非という。

佐伯祐三さんは大阪生まれで、大阪の中之島に佐伯祐三の専属部分を持つ美術館を建設したいとして、その準備機関が資金調達の意味もあって『佐伯祐三展』を開催しているようである。大阪でも開催され、その時は友人も大阪まで出向いたらしい。大阪の中之島では、大阪市立東洋陶磁美術館は好きである。良いところなので、新しい美術館が出来、佐伯祐三の常設もできるなら喜ばしいことである。

山手線の目白駅から先ず中村彝さんのアトリエに行く。中村彝さんは、中村屋の長女俊子さんを好きになるが、反対され、失意のもと下落合にアトリエを建て、肺結核のため若くして亡くなってしまう。俊子さんは、中村屋がお世話していたインド独立革命家と結婚するが、彼女も20代で亡くなっている。このあたりの事情は中村屋サロン美術館で知っていたので、ここが、彝さんの孤独に苛まれたアトリエなのだと光の入り方などを確かめる。アトリエの庭に椿が咲いていて、係りの人に尋ねると、彝さんは椿が好きで大島にも行っているとのこと。調べたら彼の記念碑が大島にあった。大島ではそんな情報は何も掴まなかったので驚きである。

ここでだったと思うが、佐伯祐三さんが中村彝さんにも影響を受けていたとあり、繋がって友人には喜んでもらえた。

次に佐伯祐三さんのアトリエに向かう。友人は佐伯さんの絵は頭に入っているので、この周辺の風景画と現在の写真が載っている資料に感動していた。ボランティアの方の手によるものであろう。映像やパネルなどから、友人の解説を聞き、一通りの絵は見ていたので良く理解できた。佐伯さんも結核のためフランスで亡くなるが、神経も侵されてしまう。

友人が思うに、佐伯さんは結核を遺伝性の病気と思い、自分の命の短いことを感じていて生き急いだのではないかという。娘さんも幼くして結核で亡くなっている。感染してしまったのであろう。奥さんの米子さんは二人の遺骨を抱え、佐伯さんの絵とともに帰国するのである。その後画家として生きられる。友人と米子さんの絵を観て、なかなかよね!と感嘆する。友人は持っていない図録を購入。こちらもかなり、佐伯祐三さんに精通してきた。志し半ば亡くなられていて、これが佐伯祐三だというところに到達する前に思える。到達点などはないのであろうが。

昼食を済ませ林夫美子記念館へ。私は何回か来ている林夫美子記念館であるが、説明されるボランティアのかたが変わると、また新しい発見があって楽しい。入口に昭和初めの新宿駅前の地図があり、友人のお父さんは田舎から出てきたとき、新宿の駅前に住んだということで、父に帰りに地図を買って行こうかなと言っていたが、帰りに何も言わないので買わないのだなと声もかけなかった。帰り路途中で、急に、地図を買って来るから待たないで先に行ってていいわよという。

彼女は、どこかうわの空だったのかも知れない。きっと佐伯祐三さんの世界の中だったのであろうなと感じたので、待たないで帰ることを告げる。何かにこだわっている時は、一人もいいものなのである。

後日、他の行きたくて行けなかった友人に地図を渡したら、かなり早い段階で行ってきたという知らせを貰った。この散策は手頃でよい企画であった。

驚いたことに、劇団民芸が10月頃、中村彝さんを中心にした『大正の肖像画』(作・吉永仁郎)を上演するらしい。新作のようである。忘れないでいれば良いが。

もう一つ、気がついたことがある。萩原守衛さんが、<文覚>像を作っているのである。文覚とは、袈裟御前を夫と間違えて殺めてしまう遠藤盛遠である。<碌山美術館>では気が付かなかったが、<文覚>の作品を通しての萩原守衛さんの心のうちも透かし見ることができる。映画「地獄門」や「平家物語」に接していなければずーっと気がつかなかったであろう。

『大佛次郎記念館』は鞍馬天狗

谷崎潤一郎展』の帰りに、大佛次郎記念館に寄る。時間が無かったが、『鞍馬天狗』関係の展示があるようなので、軽く見学する。『鞍馬天狗』のコレクターの故・磯貝宏國さんが、コレクションを寄贈され、その第一回目の展覧会というこである。嵐寛寿郎さん主演の映画ポスターや、映画館の週報、メンコなど、いかに大衆に愛されていたかがわかる。

落語家の林家木久扇さんの「私と鞍馬天狗」の寄稿文も展示されていた。「杉作!日本の夜明けは近い!」は、木久扇さんの造語とのこと。杉作とくれば、美空ひばりさんの杉作と歌を外すわけにはいかない。

木久扇さんの『木久扇のチャンバラスターうんちく塾』にはお世話になっているがその本でもトップバッターは嵐寛寿郎さんである。何作目の作品かは忘れたが、軸足一本でくるくるまわりながら斬っていくのに驚いたことがある。殺陣も様々に工夫されたようだ。大佛次郎さんは嵐寛寿郎さんの映画に不満があり、自分で制作されたが、やはりアラカンさんでなくてはと、鞍馬天狗ファンは納得しなかったようである。

『徳川太平記 吉宗と天一坊』(柴田錬三郎著)の解説を書かれた清原康正さんが、その解説の中で、2003年に県立神奈川文学館で「不滅の剣豪3人展 鞍馬天狗、眠狂四郎、宮本武蔵」が開催されたことを紹介されている。それぞれの原作者は大佛次郎さん、柴田錬三郎さん、吉川英治さんである。清原さんは、「眠狂四郎」について一文を寄稿され柴田錬三郎さんの死生観にも触れている。この三剣豪の中できちんと映画を観ていないのが『眠狂四郎』である。観ていないのにイメージが固定化されていて観たいとおもわないのでる。『徳川太平記 吉宗と天一坊』を読んで柴田錬三郎さんの面白さに触れれたので、時間を作って観たいとは思っている。

『徳川太平記 吉宗と天一坊』の中に、盗賊<雲切仁左衛門>が出てきて、こちらの方は、五社英雄監督の『雲霧仁左衛門』(池波正太郎原作)をレンタルしてすぐに観た。時代劇映画に関してはまたの機会とする。

『鞍馬天狗』も一冊くらいは、原作を読んでおいたほうが良いのかもしれない。

話しは飛ぶが、嵐寛寿郎さんと美空ひばりさんの関係書物で竹中労さんがお二人のことを聞き書きも含めそれぞれの本にされている。これはなかなか面白い。嵐寛寿郎さん(「鞍馬天狗のおじさん 聞書アラカン一代」)のほうが飾りなく豪胆に話され人柄がよく出ていて好著である。

その竹中労さんのお父さんが画家であることを知った。山梨県の甲府は太宰治さんが新婚時代を過ごした町でもある。その間、甲府にある湯村温泉郷の旅館明治で、太宰さんは滞在し作品を書いている。そのため、太宰さんの資料も展示されているということなので、山梨県立美術館へ『佐伯祐三展』を観に行ったおり、寄って、見させて頂いたのである。その帰り道に『竹中英太郎記念館』の看板があり、その日は休館日であった。聞いたことがない方なので気になって調べたら、竹中労さんの父で画家だったことが分った。意外な組み合わせである。機会があれば訪ねたいと思っている。

思っていることが沢山あって、思い風船がどんどん膨れて行く。割れないうちに飛ばして誰かに拾ってもらうのがよいのかもしれない。

横浜から甲府まで飛んだが、次は東京新宿区にでもしようか。

日本近代文学館 夏の文学教室

2015年の「日本近代文学館 夏の文学教室」が、7月20日から7月25日まで有楽町のよみうりホールで開かれる。今回のテーマは<「歴史」を描く、「歴史」を語る>である。

その1日目が、谷崎潤一郎没後50年として

谷崎潤一郎の戯曲」(水原紫苑)、「谷崎潤一郎と探偵小説」(藤田宜永)、「おとぼけの狡智」(島田雅彦)である。

その中でも、「谷崎潤一郎と探偵小説」に惹かれる。『谷崎潤一郎犯罪小説集』の文庫を本屋で見つけ購入し未読であった。<探偵小説>と<犯罪小説>の区分けの基準が分らないが、どこかで繋がるような気がする。

『谷崎潤一郎犯罪小説集』に入っている作品は『柳湯(やなぎゆ)の事件』『途上』『私』『白昼鬼語(はくちゅうきご)』の4作品である。谷崎さんの場合、文字でありながら皮膚感覚にべったり張り付くよう巧妙な文章表現である。ただ会話部分での粘着力ではないのが助かる。会話的手法でベッタリ密着感を感じさせるものは嫌いである。

上方歌舞伎なども、結構この密着感があるが、あれはやはり、上方弁だから通用するのであろう。セリフの繰り返し、甘え、ぼやき、つぶやきなど、形がないだけに好き嫌いがはっきりするかもしれない。私の場合は好き嫌いよりも、捉えがたい軟体性にある。凄く面白いときと、よく分らないというときがあり、上方歌舞伎は難しいと思ってしまっている。

谷崎作品にもどすと、自分が触れているような感覚を呼び起こされ、それが不快でも、推理小説的読み方をしているので、やはり結末が知りたいと思って読み進むと、その不快感が解消されるような結果となり、いかに作家によって、あるいは語り手によって似非体験をさせられていたかがわかるのである。

文豪の探偵小説』には、次の文豪たちの探偵小説が載っている。

『途上』(谷崎潤一郎)、『オカアサン』(佐藤春夫)、『外科室』(泉鏡花)、『復讐』(三島由紀夫)『報恩記』(芥川龍之介)、『死体紹介人』(川端康成)、『犯人』(太宰治)、『范の犯罪』(志賀直哉)、『高瀬舟』(森鴎外)

これを探偵小説の分類に入れてしまうのかと思う作品もあるが、これだけの文豪たちの短編を一気に楽しめるという点でも面白い編纂である。

谷崎さんの『途上』は<犯罪小説>と<探偵小説>の両方に属しているが、確かにどちらともいえる作品である。江戸川乱歩さんは谷崎さんの作品は読んでいたようで、この『途上』は特に高く評価していたようである。

湯川という人物が私立探偵に声をかけられる。私立探偵はあなたの調査を依頼されたが、直接本人に聞くのが一番と思いましてと質問をしていくのである。会話が中心であるが、この二人は金杉橋から新橋方面に向かい日本橋の手前の中央郵便局前から兜橋、鎧橋を渡り水天宮へと至り、この私立探偵が最初に見せた名刺の「私立探偵安藤一郎 事務所 日本橋区蠣殻(かきがら)町三丁目四番地」の私立探偵事務所まで歩くのである。

二人の会話を目で追いつつ、こちらも歩いて移動している気分なってしまう。場所を明記されるとそこを歩きたくなるこちらの嗜好からであろうか、淡々と続く会話と共に一緒に歩いている。次第に湯川が歩きつつ周りの景色など眼中に無くなり、私立探偵の歩くのに合わせてついて行くかたちとなり、私立探偵事務所に引き込まれて行く動線を読者に実感させてしまうのである。

谷崎さんは、「日本橋区蠣殻町二丁目十四」の生まれである。現在は中央区人形町で、生家跡はビルとなり碑があるようだが、まだ行っていないのである。明治座に行った時に行こうと思いつつその時になると忘れてしまう。まさしく、<途上>状態である。

今年の文学教室は初日から魅力的な設定にしてくれた。あれも聴きたし、これも聴きたしである。

『谷崎潤一郎展』

谷崎潤一郎没後50年。『谷崎潤一郎展 絢爛たる物語世界』県立神奈川近代文学館 4月4日~5月24日。約2ケ月間あったのに最終日に行くことができた。谷崎さんの文学作品の流れと、作家としての実生活が資料をもとに、多数展示されているが、大変分りやすかった。分りやすいからと言って谷崎さんの文学作品というものが、分ったわけではない。

谷崎さんは、自分の鋭い感性は人と違い、それを表現する天才的能力も兼ね備えていて、自分はその仕事を成し遂げられるとの想いがあった。

 

己は禅僧のやうな枯淡な禁欲生活を送るにはあまり意地が弱すぎる。あんまり感性が鋭(するど)過ぎる。(中略)

 

己はいまだに自分を凡人だと思ふ事は出来ぬ。己はどうしても天才を持って居るやうな気がする。己が自分の本当の使命を自覚して、人間界の美を讃へ、宴楽を歌へば、己の天才は真実の光を発揮するのだ。

 

谷崎さんは自分の美意識に対しては周りの人をも取り込んでいく。それは、松子夫人との事でもわかるが、自分の美意識から外れるとして出産をも許さない。ただ、相手に自分の気持ちを納得させるためには、大変な努力をされた方でもあると今回思った。反対にその努力が平行して作品に反映しているとも言える。

佐藤春夫さんとは、谷崎さんと谷崎前夫人千代さんの不仲から、佐藤さんが千代さんを譲り受けたいとして、一旦は谷崎さんも承諾するが、その後断る。そして、千代さんは違う男性とのこともあったがそれが壊れる。谷崎さんは、佐藤さんに千代さんの身の振り方を相談し、千代さんは谷崎さんと離婚して佐藤さんと再婚するのである。

この事は世間的にも文学界にもセンセーションを起こすが、物書きという生業から、この辺りのことは文学作品にも吐露される、佐藤春夫さんの詩『秋刀魚の歌』は千代さんを想っての詩である。

今回面白いチラシを手にする。

 

夢と冒険、そして恋・・・ 時は大正。“片思いの神様 ” 佐藤春夫は「さんま」だけでは語れない!

 

こちらは、没後50年記念出版 『佐藤春夫読本(仮)』の宣伝チラシである。初の本格的文学案内とある。<「さんま」だけでは語れない!>というのがいい。

熊野の新宮、『佐藤春夫記念館』でお手上げだったが、この本が手助けしてくれそうである。大林宣彦映画監督の講演録も載っているようである。刊行されたら購入することとする。全体の流れのどういう部分であるかが解かると、一部分だけ取り上げられて強調される狭さの解釈もちがってくる。 美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮)

主軸を谷崎さんにもどすが、谷崎さんは、自分の目指す物語世界を、世間の思惑など眼中になく突き進む。大阪国立文楽劇場のそばに『蓼食う虫』の一文を記した文学碑がある。『蓼食う虫』には、文楽を観ての谷崎さんの感想が書かれている。そこには、『心中天の網島』の人形・小春に対し、「永遠の女性」を想い描いている。さらに主人公の美意識を書いている。

 

自分がその前に跪(ひざまつ)いて礼拝するやうな心持になるか、高く空の上へ引き上げられるやうな興奮を覚えるものでなければ飽き足らなかった。これは芸術ばかりでなく、異性に対してもさうであって、その点に於いて彼は一種の女性崇拝者であると云える。

 

まだこの時点では、この想いを実感したことがなく

 

ただぼんやりした夢を抱いてゐるだけだけれども、それだけひとしほ眼に見えぬものに憧れの心を寄せていた。

 

すでに、千代夫人はこの対象外であった。そして、人妻であった松子さんと出逢っている。谷崎さんの場合、女性観の基準がはっきりしている。

今回もう一つゲットしたのが、谷崎さんの作品の大阪弁のことである。入場したところで映像が飛び込んできた。田辺聖子さんである。座って見る。田辺さんが『卍』と『細雪』の朗読をしたときの映像の一部で、<『卍』は同性愛の話しであるが、谷崎さんが初めて大阪弁を使った小説で、大阪弁を使うことによって流れるように繋がっていき、『細雪』も同じで、このことが源氏の世界に繋がる要因である>とされる。

『卍』は、岸田今日子さんと若尾文子さんの同性愛の演技に興味がありDVDをレンタルして見ていた。このお二人の声のやりとりを耳にしたかったというのが一番強い。その時大阪弁の役割には気がつかなかった。想像していたよりも嫌味なくサラサラ見て居られ、田辺さんの話しを聞いて、なる程そういうことかと気がつかされた。

映画で驚いたのは、園子(岸田)と光子(若尾)が奈良に出かけるのであるが、柳生街道の道が映ったことである。増村保造監督の意図的なロケ場所と思えた。原作では、若草山になっている。園子が女子技芸学校で観音様を描くが、光子の説明のつかない奔放ぶりを観音様と重ね、柳生街道の磨崖仏の前に二人を立たせたのも意図してのことであろう。成り行きから、園子と光子と園子の夫は睡眠薬を飲み、園子一人が生き返るのである。誰かが亡くなり誰かが生き残るとすれば、誰がという事によって作者の意図も、考察の対象となる。光子は園子の夫を連れ去り、夫を園子から離して、観音様の絵を残した。光子の行動が描いた物語は出発点にもどり、丸い円を描き完成させたともいえる。このあたりは自由解釈である。

この作品の前に、谷崎さんは松子さんと出逢っていて、この大阪弁も松子さんと出逢うことによって作品に取り入れるきっかけをつかんだのかもしれない。大阪弁がなければ、谷崎さんの耽美主義も完成度を低下させていたということである。大阪弁によって新たな開拓をしたのである。『細雪』は大阪弁でも船場言葉ということで、一般の大阪弁とはちがうらしい。大阪弁も何となくの段階であるから、大阪弁と船場言葉とどう違うのかも判らない。谷崎さんが耳に受けたイントネーションで朗読を聞いてみたいものである。

小津安二郎監督の『彼岸花』も、山本冨士子さんが大阪弁で、小津監督の映画のなかで、いつもとは違う明るさとテンポを作り出しているのが印象的で大阪弁の不思議な効果を感じた。

谷崎さんは映画にも関係していて、横浜にあった映画会社・大正活動写真株式会社の脚本顧問として参加し映画4本に関係したがフイルムは現存していない。この時女優として千代夫人の妹さんも参加していて、義妹は『痴人の愛』のインスピレーションを与えた女性でもある。岡田茉莉子さんの父上の岡田時彦さんも、高橋英一という名前で出ていた。谷崎さんはこの時期北原白秋に勧められ3年ほど小田原に住んで居る。

お墓は、京都の哲学の道に並ぶお寺の一つ法然院にある。慌ただしく満杯の計画の旅の時期(今よりも)に訪ねた。境内の奥のほうにあったと記憶する。桜の下に自然石のお墓が二つあった。<寂>と<空>の一字で潤一郎書とかれていて、谷崎さんと松子夫人と思ったらそうではなく、<寂>は谷崎御夫婦で<空>は松子夫人の妹重子さん御夫婦の墓である。訪れたというより、「なるほど。」と通過に近い。あの時は、南禅寺の境内にある琵琶湖疎水の水路閣から、疎水沿いに歩いて、地下鉄蹴上駅までをも予定に入れていたのである。

ついでに、京都市動物園の琵琶湖疎水側の仁王門通りに山県有朋さんの別荘<無鄰菴>があり、庭が小川治兵衛さん作である。東山を借景にしている。山県さんは小田原に<古稀庵>、東京には<椿山荘>がある。政治的手腕は置いておき、庭に対する造詣は深かったようである。<古稀庵>へはまだ行っていない。

自分の理想とする女性を探しもとめ、その感性と天才は<絢爛たる物語世界>を創造し闘い続けた。

 

谷崎潤一郎生誕の地碑  東京の人形町で誕生しています。鳥料理店玉ひでのすぐそばで建物の間の一隅にあります。碑は谷崎松子夫人筆。

 

旧東海道・箱根 箱根湯本~元箱根港

実際にはバスで元箱根港に行きそこから箱根湯本まで下ったのであるが書き込みは上り道順とする。

箱根登山鉄道の箱根湯本駅から本来は早川にかかる三枚橋を渡るところであるが実際には箱根湯本駅を目指してのラストスパートで渡らずに駅に向かってしまった。

後日小田原からの三枚橋を渡る道は歩いた。旧箱根街道を歩いて箱根が身近になり何回か箱根を楽しませてもらう事になった。箱根バス路線での美術館巡りなどの行き方がわかったためである。

上っていれば見どころありの早雲寺なども見学したであろうがそんな余裕はなく前を通過しただけである。

残っている写真からは割石坂となったいる。

曽我兄弟が仇討ちに向かう途中で刀の切れ味をためして路傍の巨石を切り割ったという由来の坂のようである。もし刀が折れたら仇討ちはなかったのであろうか。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0238-1024x761.jpg

須雲川自然探勝歩道の道標

なかなかいい感じの探勝歩道のようである。旧東海道を抜けこちらを楽しむ人も多いようである。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0237-1024x682.jpg

旧東海道の大沢坂近くの石畳

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0236-1024x683.jpg

大沢坂は須雲川からわかれた大沢川を渡ったところの坂

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0235-769x1024.jpg

畑宿本陣 旧茗荷屋庭園

旅人たちを感嘆させた庭園のようである。「お吉物語」で有名な幕末の初代駐日アメリカ総領事ハリスも下田から箱根の関所での検査に立腹し役人たちは大変だったようだ。ただ畑宿本陣の日本庭園には大満足している。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0234-1024x617.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0233-1024x632.jpg

畑宿は寄せ木細工の里でもある。

そして村はずれの23番目の一里塚が復元されていて立派である。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0232-648x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0230-731x1024.jpg

山の斜面にあるこの一里塚は周囲を整地したあと、直径9メートルの円形に石積を築き小石を積み上げ表層に土を盛って標識樹を植えている。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0229-1024x656.jpg

そばに芹沢光治郎の歌碑がある。

<箱根路や往時をもとめ登りしに未来のひらけてたのしかりけり>

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0231-776x1024.jpg

石畳の道の説明

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0227-1024x658.jpg

石畳の道の前は雨や雪のあとはひざまでうずめて歩かねばならなかった。毎年竹を敷いていたが調達するのにお金と労力がかかり大変であった。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0228-678x1024.jpg

西海子坂(さいかちざか)、橿木坂(かしのきざか)、猿滑坂(さるすべりざか)、追込坂など急坂が続くが残っていないため箱根新道いろは坂を渡ったりしながら急な階段を上ることになる。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0226-1024x651.jpg

<さかをこゆればくるしくて どんぐりほどの涙こぼる>

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0225-564x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0224-1024x656.jpg

<殊に危険、猿候といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす>

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0223-673x1024.jpg

甘酒茶屋  茅葺で風情がある。江戸時代には甘酒小屋として箱根に9軒ありこのあたりはには4軒あったらしい。特に険しい坂道を上ってきた旅人には至福の一服だったであろう。食していないので想像であるのが寂しい。(時間配分の予想で断念)

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0222-667x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0221-1024x687.jpg

隣にある「箱根旧街道資料館」をざっと見学。赤穂浪士が馬喰に因縁をつけられるが討ち入り前なので詫び証文を書いたというエピソードなどが紹介されていた。とにかく名の知れた人から知られていない人まで色んな出来事に出くわしたことでしょう。

六代目菊五郎も箱根に来た時忠臣蔵にゆかりがあるとして甘酒茶屋に寄っていとのこと。

白水坂

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0220-1024x745.jpg

石畳の構造案内板  

これがなかなか面白い。谷川に並木を植え石畳と並木の間に排水路を作ってある。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0219-1024x577.jpg

以前は竹を敷いていたとあったが箱根に群生するハコネダケという細い竹を使ったらしい。延宝8年(1680年)石畳となる。江戸時代の末期に14代将軍家茂がきょうに上洛する際全面的に改修。やはり将軍様の通る場合はお金をかけますね。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0218-1024x612.jpg

鎌倉時代は箱根を通らず尾根伝いの湯坂路を使ってこのあたりから箱根峠を目指したが須雲川にそった谷間の道が整備され江戸時代の人は旧東海道を使うようになった。鎌倉時代と江戸時代では道が違っていたのである。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0217-1024x530.jpg

お玉観音堂

伊豆から江戸に奉公に出ていた娘が勤めがつらく逃げ出し故郷に帰ろうとした関所破りとなり処刑された。その娘お玉や箱根で亡くなった無縁仏をくようしている観音堂。

このそばの坂をお玉坂といい近くにお玉の首を洗ったお玉が池もあるようだ。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0216-678x1024.jpg

箱根旧街道からお玉が池を巡って国史跡元箱根石仏群まで歩けるようである。

上二子山と下二子山があるがこの二子山から産出される安山岩は硬く加工しにくいが鎌倉時代後期に鎌倉の極楽寺を開いた僧・忍性(にんしょう)が率いる石工集団によって加工されようになり石仏群も造営されたようである。

そして江戸時代には箱根の石畳も硬くて摩滅しにくい二子山の石が使われたのである。

権現坂

昔の旅人がやっと箱根路を登り着いたと実感した場所。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0215-1024x645.jpg

排水路が残っている。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0213-684x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0211-664x1024.jpg

天下の剣記念碑

滝廉太郎の「箱根八里」の <箱根の山は天下の剣>からその険しさを表しているようだ。現代に入ってはこの歌をうたいつつ上った若い人もいたのであろう。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0209-627x1024.jpg

箱根旧街道から芦ノ湖畔へ

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0208-1024x675.jpg

実際には元箱根港バス停から歩き始め芦ノ湖を撮るという余裕もなかった。歩き始めて最初の被写体が興福院であった。フジが咲いていた。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0207-1024x669.jpg

とにかく芦ノ湖から箱根湯本まで無事歩くことができた。芦ノ湖そばの成川美術館も好きな場所である。途中ゆっくろしたいところもあったが旧東海道を走るバスを利用すれば畑宿や甘酒茶屋などは行きやすい。

色々経路を探して違う旅も楽しそうである。

【 寄り道 】   

後日箱根石仏群へ行く

映画『父ありき』と箱根石仏群

【 続・寄り道 】

初代駐日アメリカ総領事ハリスがでてきたので伊豆下田へ。

芝居などでのお吉さんは許婚がいながら周囲のすすめでハリスのそばに仕える。仕事を辞してから今度は周囲はお吉さんを唐人お吉として忌み嫌らわれる。それを苦にしてお酒を飲みすぎ自殺してしまう。日本のためになどと説得されたのであろう。かなりの報酬をもらい人々は妬みがふくらんでいったようである。

下田の宝福寺にお吉のお墓と「唐人お吉記念館」がある。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0101-1024x768.jpg

お吉の写真

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0092-1-665x1024.jpg

お吉の生涯

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0093-1024x536.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0094-1024x645.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0095-1024x670.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0096-1024x895.jpg

お吉が持っていた雛人形

この人形を譲り受けた友人から花柳章太郎に進呈され舞台で実際に使いその後宝福寺に寄贈。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0102-1024x689.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0103-1024x541.jpg

西条八十の「唐人お吉小唄」の色紙

駕籠で行くのはお吉じゃないか 下田港の春の雨

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0104-1024x863.jpg

謁見の間

宝福寺は山内容堂に勝海舟が謁見した場所でもあった。

勝海舟は脱藩した坂本龍馬を許してほしいと願い出、容堂は下戸の勝に酒をすすめそれを勝つは飲み容堂は願いを聞き入れる。

盃と許したという印のひょうたんの描かれた扇がある。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0099-1024x689.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0098-1024x765.jpg

お吉が経営した料理屋 「安直楼

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0106-1024x768.jpg

お気軽にお入りくださいとあったが入れなかった。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0107-1024x731.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0108-826x1024.jpg

お吉が淵そばのお堂

お吉は下田近郊の稲生沢川の門栗ケ淵に身を投じ亡くなってしまう(没48歳)。今はお吉が淵と呼ばれお堂が建っている。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0109-768x1024.jpg

旧東海道・『二宮』から『小田原』を通り『箱根湯本』へ (2)

目標の小田原宿は国道1号を歩き続け<江戸口見附跡・一里塚跡>を見つければ良いのである。道路の右側の舗道を歩く。<東海道小田原宿>の新しい解説つき石柱が迎えてくれる。解説に「おだわらまちしるべ〔山王口〕「江戸口見附」とも呼ばれ、小田原城から江戸に向かう出入り口で、また、ここは東海道小田原宿のいりぐちでもある。」と記され、この「またここは・・・」の書き方が、東海道に対する小田原の特色がある。後で歩きつつ感じるのであるが、小田原には<小田原城>がある。中心はやはりそこなのである。目線の先はそこに集中されている。城下町のなかの東海道である。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0029-1-768x1024.jpg

日本橋から約83キロの地点である。江戸の旅人は一日40キロ歩いているわけで、いかに健脚であったかが、今更ながら実感する。

こちらは東海道が主なのでその目線で進む。木柱で<小田原城址江戸口見附跡>とあり、その後ろの盛り土に一本の古い松が、幹を東に曲げ年代を感じさせる。案内板に<江戸口見附跡並びに一里塚>とある。「見附とは、城の枡刑門に設けられた見張番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原合戦の際には、町ぐるみ堀や土塁で囲まれていたが、江戸初期にこの構造を壊して東海道を通す際に、枡形が作られた。」とある。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0030-1-768x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0032-1-768x1024.jpg

城を守るための土塁も時代の流れによって東海道という一本の道の入口となったわけである。どこか、<小田原城>を前面に出したいという空気が感じられる。

ここから要注意の国道1号から旧東海道に入る道を見つけなければならない。本には「新宿の交差点を左に入る」と書かれているのに読み込まず、手前の道を入ったのであるが、そこに<新宿町>の石碑があり、東海道が北に移動したらしく旧宿町のあとにできたので新宿町としたとある。もともとの宿場町があったわけである。なるほど、このあたりは<新宿町>なのか。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0035-1-768x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0036-1-768x1024.jpg

新宿交差点にもどり、左にはいる。地図どおり直角に曲がっている。これが旧東海道である。<よろっちょう>と書かれた石柱がある。どういう意味なのかと、後ろを見ると<万町>とある。説明には、「よろっちょう」と呼ばれ、和歌山藩の飛脚継立所もあり、提灯作りの家もあったとある。小田原提灯である。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0037-1-768x1024.jpg

左手にはかまぼこ屋さんが並ぶ。車の数も少なく、国道1号とは違う空気がいい。入口に小田原提灯が二つ下げられ「小田原おでん」と書かれている。何であろうかと二人は惹きつけられる。お食事処である。時間的にも、行程の中継としてもベストタイミングである。「鰺寿しランチ」と「牛すじ丼ランチ」に迷うが、鰺に決めた。おでん5品が選べて、その品が別々の小田原のお店の品物で、さすが練り物の産地である。デザートのアイスクリームにかけられた手作り梅ソースが甘酸っぱくて美味。ランチビールも少し飲みたい気分を満足させてくれた。しかしやはり「牛すじ丼」が心残りである。

小田原は、小田原城をはじめ、文学者や政財界関係者の邸園などもあって、見どころが多くあり3回ほど来ているが、この辺りは駅から20分ほどかかり東海道を歩く予定をいれなければ通らない道である。近くに北村透谷の生誕の地もあるようだ。今回は東海道だけへの目線なので、次の東海道を歩き始めるための準備として、箱根登山鉄道の風祭(かざまつり)駅まで行けば楽であると話し合う。暑い時間帯をゆっくり食事ができ気力充分である。

そしてここからの歩きが、また突っ込みの必要な時間帯となった。表示が、東海道というより、城下町の<町>の捉え方のようである。国道1号と合流したのに史跡として最初に見つけたのが、<明治天皇本町行在所跡>明治天皇が東海御巡幸の際に宿泊(明治11年)された<片岡本陣>のあった場所とある。その前に<清水金左衛門本陣跡>がなければならないのである。またまた戻る。左奥に碑がある。近づいて見ると<明治天皇宮ノ前行在所跡>明治元年から5回宿泊されている<清水金左衛門本陣跡>とある。この辺りが宿の中心である。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0042-1-1024x768.jpg

小田原宿には4つの本陣があった。残りはどこか。「小田原宿なりわい交流館」で尋ねると、もっと先のビルに一つあり、あとは判らないとのこと。言われなければ判らないビルのところ<小田原宿脇本陣古清水旅館2F資料館>とプレートがあったが、2階に上がれるような雰囲気ではない。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0040-1-1024x768.jpg

地図上は「久保田本陣跡」「清水彦十郎本陣跡」とあるが、どうやらきちんとした史蹟はないようで、石碑の<本町>の説明にこのあたりに本陣などがあったというようなことが書かれ、一括りにされているようである。今まで東海道を歩いてきた者としては曖昧模糊としていて残念であった。

歌舞伎でもお馴染みの「ういろう」のお城のような建物のお店を右手に先へ進む。最後の要注意点である。東海道本線、箱根鉄道をくぐると、<板橋(上方)口>周辺の案内板がありここを上方見附跡とする。東海道新幹線をくぐり、ここから国道1号と分れ旧東海道を進み、途中で箱根鉄道国道1号をくぐって国道1号に合流。さらに先で国道1号と分れ箱根鉄道を左に進むと風祭駅が左にみえる。少し進むと<風祭の一里塚>の解説板がある。コブのように国道1号を出たり入ったりする箇所も終わりである。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0044-1-1024x768.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0045-2-1-1024x863.jpg

ここからは捜す史跡もなく、道祖神に迎えられ道なりに進めばよい。箱根鉄道の「入生田(いりうだ)駅」に到達。もう一駅行けそうと「箱根湯本駅」まで行けたのである。

その夜地震である。教訓。達成感から乾杯をせずに帰ったのが良かった。これだけ歩いて足どめとなったら大変であった。いつ何が起こるか分からないので疲労困憊の手前にしておくこと。ただし、歩いて帰宅できる場所なら乾杯の考慮の余地あり。

旧東海道・『二宮』から『小田原』を通り『箱根湯本』へ(1)

『二宮』から『小田原』まで行ければと思っていたら、『箱根湯本』まで行けた。保土ヶ谷の<権太坂>のリベンジが暑かったので、『二宮』からは、8時には出発できるようにと実行したのが、上手くいった要因の一つである。もう一つは案内本をよく読みこんでいたこと。ただし友人がであるが、私はその場で読んで再確認。これも良かったのかも。思い込みがあるから、違う眼が入ることが、原点に戻れたともいえる。それにしても相も変わらず史跡を捜して行きつ戻りつである。仕方がないので、友人と二人で、本の編者の目から見た、突っ込みの入れ合いをして、楽しんで乗り切った。

「そう簡単に制覇できると思うのが甘い!」「そこは上手く行っても、油断させておいて戻らせた!」「これはこちらの責任ではない。当地の東海道への捉え方なのである。」

そして、昼食に美味しいお店に遭遇し満足感が気力と結びついた。さらに、大磯、二宮間の一里塚のリベンジを後回しとしたことも。捨てる計画あれば拾う計画ありである。

JR二宮駅から進んで国道1号から別れ旧東海道に入る道をまず見つけること。旧東海道は短い距離である。その分かれ道に<旧東海道の名残り>と標識があった。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0010-2-641x1024.jpg

上手く旧東海道に入れた。右手<藤巻寺>と左手<道祖神>があるはずである。あれ!国道一号が見える。戻るしかない。立派な石の門柱には、<等覺院>とあり、上に小さく<藤巻寺>とある。境内には藤棚があり「将軍家光上洛のおりご覧になり、仁和寺宮が下向の際にもご覧になり、<藤巻寺>の別号を与えられた」と伝わり白い藤であるらしい。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0012-2-642x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0011-2-1024x995.jpg

さて注意していたつもりだが、門柱をしっかり視ていなかった。行きつ戻りつ<道祖神>が無い。諦めて、国道1号線の合流点へ。あった。<天神社>の石碑もあり、もしかする<道祖神>をその後移したのかもしれないと「そういうことにしよう。」と許す。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0013-2-1024x720.jpg

次が、<押切坂一里塚跡>であるが、これまた、国道1号を外れ短距離旧東海道である。これも上手く旧東海道に入れ、<史跡東海道一里塚の跡>も見つかる。案内板には、このあたりは旅人目当ての茶店やお店があり「梅沢の立場」と呼ばれて賑わっていた場所である。国道1号と合流し押切橋を渡る。しばらくはJR国府津駅までは国道1号を歩けばよい。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0014-2-678x1024.jpg

JR甲府津駅を過ぎたところで行き過ぎてもどり、<真楽寺>と<勧堂>を捜す。<真楽寺>は解かった。<真楽寺>は親鸞さんゆかりの寺であるが、往古は聖徳太子さんの所縁よって建てられたとある。<勧堂(すすめどう)>は親鸞さんの草庵であるとのことだが、土地の人に尋ねてもはっきりせず、「時々人が立ち止まって見ている石碑があるのでそれかも知れない。」と教えてくださる。とにかくお礼を言って戻る。あった!石碑である。<御勧>とあり、その奥に何かある。親鸞さんが滞在されたという庵の跡である。中に何か残っているのかどうか、石作りで囲われていて様子は判らない。その裏に廻って観ると、相模湾が一望で風光明媚この上ない。親鸞さんなかなか風景に関しては贅沢である。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0018-2-593x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0017-1024x768.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0019-768x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0020-768x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0021-768x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0022-2-1024x696.jpg

地図上は些少の差で道を挟み並んでいる場合、こちらも、その些少さのさじ加減が難しい。それで、道の右、左と移動して捜すのであるが、見やすい所に表示があるかどうかはわからない。表示板なのか、石柱なのか、指標なのか。あれかなと検討をつけたり、突然あらわれたりする。

それにしても、お天気の良さが時々富士山の雪の残った頭を見せてくれるのが嬉しい。暑さのなかの一服の清涼感である。

国道左手に<小八幡一里塚>がある。その説明には、一里塚は家康が秀忠に命じて設けたとあり、男塚と女塚が左右にあるとしている。男塚と女塚の名称は初めて出て来た。さらにすすむと、今度は、日蓮さんの旧跡<法船寺>である。このお寺には小さな五重塔があった。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0023-2-1024x698.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0024-768x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0025-768x1024.jpg

次が昔は渡し舟であった<酒匂川(さかわがわ)>を渡るのである。今は<酒匂橋>であるが、渡しの位置まで行き、戻って、橋を渡り、渡しの着いた場所まで戻って、着いた場所からの道を進むのである。今回は、東側の渡し場も現在の橋のたもとで、西岸は橋から100メートルほど北側ということなので、楽である。しかし、酒匂橋からの景色がいい。富士山も少し見え、建物等をポンポン飛ばして消してしまう。これが雨や風のときは、川止めで旅人にとっては難儀なことであったのだ。この西岸の渡し場の位置が判らない。なんの表示もない。それらしい2本の道を通て一応通過とする。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0026-2-1024x689.jpg

国道1号にでて、再度、超短い旧東海道である。小さなコブのように周って国道1号に出るのである。この道であろうと入ったら<新田義貞公首塚>の道標があり、ここが旧東海道と安心して進んだが首塚が無く国道1号に出てしまう。ももう一回道標までもどる。道標が ↱ 縦横であった。歩きながら見ているので長い横だけが目についた。「安心は禁物。要注意!」と言ってるよ。

ありました。小さな公園の中に。<新田義貞公首塚>の石碑である解説板もなく、この時代のことはよく解らないので、どうしてここにあるのかは不明である。首塚とみると、すぐ平将門さんなどの、首が飛んでくるのを連想してしまう。無事見つかり、国道1号と合流して小田原宿に向かう。因みに小田原宿は日本橋を発った旅人が二泊目の宿の場所である。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0027-768x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0028-768x1024.jpg

 

 

旧東海道つづき → 「二宮~小田原~箱根湯本(2)」  2015年6月1日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

素浄瑠璃の会 『浄瑠璃解体新書』

竹本千歳太夫さんと野澤錦糸さんの<素浄瑠璃の会>。大変刺激になり復習もしました。11演目の聞かせどころ、クドキの違いなど実戦をともなっての解体なので新たな好奇心がムクムクと目を覚ます。

友人に電話で「千歳太夫さんと錦糸さんの・・・」と言っただけで「行きたい!」との即答である。

『野崎村の段』での、お店のお嬢様のお染と、村娘のお光の違い。<勘平腹切りの段>のメリヤス。<帯屋の段>のサワリ。<鮨屋の段>のゆるり。「三つ違ひの兄さんと・・・」「せまじきものは宮仕へ」「十六年も一昔。」の有名な部分。<尼ケ崎の段><堀川猿回しの段><政岡忠儀の段>の境遇の違う女性の語りの違い。千歳太夫さんは苦手の子供が語る<順礼歌の段>など、いつもは三味線の者はしゃべらないのですがと錦糸さんが、解説してくれ、千歳太夫さんからも話しを引き出してくださる。千歳太夫さんは、本を何冊も出し、即その場面の気持ちに早変わりである。

皆さん感心したり、納得したり、笑ったり、反応が良い。最後は、『艶姿女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)』<酒屋の段>の「今頃は半七様、どこにどうしてござらうぞ。」を覚えて行って下さいと、皆で声を出す。難しい。希望者が5人ほど次々前に出て肩衣を着けてもらって語られた。伸ばすところは、千歳太夫さんが助けられ、錦糸さんの三味線にのり、個性を発揮された。錦糸さんお薦めのお風呂で、帰ってから語られたかたもいるやもしれない。

録画として『絵本太功記』、『仮名手本忠臣蔵』があり、早速、解説された部分を観る。『絵本太功記』<尼ケ崎の段>は、豊竹咲太夫さんに、豊澤富助さん。『仮名手本忠臣蔵』<勘平腹切の段>は竹本住太夫さんに鶴澤燕三さんであった。そして『艶姿女舞衣』<酒屋の段>の素浄瑠璃があった。住太夫さんと錦糸さんである。三味線の弾かない時間が思っていたよりも長くあり、次に音を出す時は太夫さんの調子と場面とを考えて神経をつかうであろうと思える。あまり大きく押すと太夫さんの声を駄目にしてしまうとのこと。太夫さんがのっているからと合わせて勢い込むと度を越してしまい、引き過ぎると勢いがなさすぎたりするのであろう。

「素浄瑠璃」も良いものである。自分で場面や話しを想像する。ただどうしてここはこんなに伸ばすのであろうかと思う。その辺が、こちらの現代の呼吸と違うところで、そこがいいのだというところまでには至っていない。至ることはないであろうが、人形がそれに合わせて動くと、一体化して必要な長さとなるのである。

また、千歳太夫と錦糸さんコンビの企画を江東区森下文化センターで考えてくれそうな予感がする。地下鉄からたどり着くまで三人のかたに道を聞いてしまったので、その経験を是非次回生かしたい。

 

 

映画『ゆずり葉の頃』の涙

ことさらに感動させたり、泣かせるような場面は出て来ないのに、なぜか涙がツーツーと頬を静かに流れる。軽井沢は美しくお洒落である。しかし、ものすごくそれが強調されているわけではない。主人公の一人の女性の眼に映る風景と、接する人々の静かな自然体の佇まいである。

主人公は見たいと思っていた一枚の絵。その絵を戦争で疎開していた軽井沢で会えるかもしれないと、ある画家の展覧会へ出向く。彼女はこの先の自分の生き方を決めようとしている。気負いでも諦念でもない。この今の時間をゆっくりと味わいつつ穏やかな微かな笑みを伴って。周りの人もその笑顔に誘われるように、彼女のペースに合わせて、彼女の楽しめる方向に成り行きを運んでくれ、彼女が満足してくれることに喜びを感じている。そして、疎開中に出会った一人の少年と出会った場所。

主人公役の八千草薫さんはもちろん美しいが、そこには、もっと美しい時間をかけた細いシワもあり、そこがまた人として素敵さがある。

美しく、美しく描こうとはされていない。幼い頃のままで残ってくれていたお寺に、昔の良い思い出だけを確かめにきて、それがやはり自分の芯として支えるに値するものであった事を確信するのである。

戦争中の苦しかったことも、一人で子供を育てたことも、淡々とした言葉で世間話のように語られ、他のひとの台詞で大変な時代であったことが短く伝えられる。そのわずかな個所に、微笑みを讃えてあたりまえのように優しく静かに毅然としている主人公を見ていると、やはり涙となるのである。映しだされなくても当時を感じることは出来る。そのほうが、いかに、今の佇まいが美しいかを思いやることができる。

綺麗な澄んだ池に広がる波紋。その波紋をつくるのが、かつて子供達が口に含んで頬を膨らませた飴玉である。このあたりが、心憎い設定であるが、波紋の移動と撮り方が何んとも言えない自然の摂理である。山下洋輔さんのピアノも、映像を見ている者の空間に心地よく入り、いつの間にか自分の中で音はなくなり、ふっと気がつくと、またもどる。こちらの感情に合わせて耳が動いてくれる。

見方によっては、どこにでもある風景である。しかし、この当たり前の風景がいかに大切であるかがしみじみと切なくもなる。特別ではあるが、当り前でもあるということの深さが身にこたえる。

主人公が特別のことを、当り前のように振る舞い、押しつけないところに、自分の時間で何かを止めようとしているようにも感じられる。この主人公たちから上の年代の方達はきちんと踏みとどまって、今の時代を創造し取り戻したことが伝わる。その少しの喜びを自分で楽しみながら体験し受け取り、自分の身の振り方も自分で決めようとしている。その踏み止まったことを当り前として微笑んでいることに涙したのかもしれない。

映画が終わって入り口を出ると、中監督が、立っておられ観終った観客に挨拶されていた。「良かったです。涙が止まらなくて。」とお伝えしたら、ちかくの男性のかたも同じだったらしく「泣くような場面はないんですがね。」といわれる。「そうなんです。むしろおしゃれな映画ですよね。」白いハンケチで目頭を押さえつつ「岡本喜八監督より上かもしれない。」とも言われていた。中みね子監督の出て来られる観客に挨拶されているその姿は、『江分利満氏の優雅な生活』での、江分利氏の奥さんが、酒飲みのお客を嫌な顔をせず相手をする新珠三千代さんの役と重なっていたが、それ以上の方であった。

ある画家は仲代達矢さんで、その再会もいい。思いがけないことにも主人公は、心をあらわにしないが、自分を支えてくれた芯が自分の想いと同じだったこと、見たかった絵も見ることができ、一人息子に静かに自分の考えを伝える。

主人公は一枚の絵を訪ねるが、映画のなかでは二枚の絵が、主軸となる。その絵も思っていたよりも静かな深さがあり映画を観る者の期待を裏切らなかった。

中みね子監督は、岡本喜八監督とは違う感性の映画を創られた。ゆずり葉は次の葉が出てくると緑のままで落ち、次にゆずるようである。この世代の人々には感嘆である。今はその想いの涙であったような気がする。

映画『ゆずり葉の頃』