明治座 11月 『高時』

11月の明治座は、10月の新橋演舞場に続く、<市川猿之助奮闘連続公演>である。

『高時』は、河竹黙阿弥さんの<活歴>と云われるもので、これが厄介なのである。<活歴>というのは、明治時代に入り西洋の文化も入ってきて、当然歌舞伎界にも波紋が起こり、九代目團十郎が河竹黙阿弥等と新しい歌舞伎として始めた史実にもとずいた歌舞伎作品をいうことらしい。ただこれが、当時の團十郎さんや黙阿弥さんの意図する作品として継承されたかどうかは疑問の残すところで、解釈的にはその流れを研究されている専門家のかたの研究を探索するしかない。ただ黙阿弥さんが幕末から明治にかけて、時代の流れに生身を通して書かれた<活歴>ものの作品の中で、置き去りにされたものも沢山あるようだ。

芝居のほうの『高時』は、明治17年「北條九代名家功(ほうじょうくだいめいかのいさおし)」(黙阿弥69歳)として九代目團十郎によって上演され好評を博し、その後『高時』の場面のみが上演されているのである。

北條高時は、「太平記」では北條時政から九代目で、次のように書かれている。

「高時の行状ははなはだ軽薄で他人を嘲りを意に止めず、政治の仕方も道にはずれて民の苦難をかえりみず、日夜もっぱら遊興にふけって、地下の祖先の偉業を傷つけ、朝に晩に珍奇な品々をもてあそんで、荒廃の期を目前にむかえようととしていた。」

遊興の中に、闘犬と田楽舞を好むことも含まれるらしく、その事と天狗にたぶらかされたとの逸話を盛り込んだ場面の芝居となっている。駕籠に乗った闘犬に母が噛まれ、その息子が犬を殺してしまう。高時はその男を殺すよう命じるが、家来がいさめる。聞かぬ高時に入道は、きょうは祖先の命日であるからと言われ、いやいや承諾する。そのやりとりで高時の横暴さがあぶりだされる。酔った高時の前に烏天狗が現れ、高時を田楽舞いに参加させ、高時も興にのり踊り始める。しかし、次第に踊りの中でいいだけ烏天狗に翻弄され踊り倒れ、高時の行く末を暗示することとなる。

主人公の高時が、横向きで登場するが、これは、歌舞伎では異例のことだそうである。この芝居が上演された時、批判が続出したようで。『頼朝の死』で頼家が横向きで登場するが、明治では、まだ考えられない形だったのである。ただ頼家と高時では、人物設定が違うので、その効果も違う。

横暴な高時としては、市川右近さんの高時は少し弱すぎる。ただ、烏天狗と市川右近さんの高時の踊りの場面は楽しく、次第に翻弄される身体の動きも軽快で、空中を飛ぶ仕掛けも、高時が違う世界にいる面白さがあり、澤瀉屋の世界である。解かりやすい澤瀉屋の『高時』である。

戯作作家は、上演回数の多い作品で作家としてのイメージを定着されてしまう。それは、上演されなければ作品の意味がないからである。しかし、それだけで決められてしまう評価に対して、納得のいかない部分もあるのが戯作者としての宿命なのかもしれないなどと、いつにない感覚を黙阿弥さんに持ってしまった。

しかし、この感覚に引っ張られていくと、底なし沼にはまりそうな深さも感じるので、とぼとぼ引き返すこととする。

 

新橋演舞場 11月 『京舞』

『京舞』も芸道ものであるが、こちらは、実在する京舞の井上流三世家元井上八千代さんと四世家元井上八千代さんのお話である。四世家元は、井上流に内弟子として入られ、三世家元の厳しい指導を受け、四世家元を継がれる。

現在活躍されている五世家元は、四世家元のお孫さんにあたられ、その芸の継承模様は、テレビのドキュメンタリーでも紹介されていた。

北條秀司さんの脚本は、芸の厳しさの中に人間としての日常の可笑しさも含めつつ、話を膨らませ、ぐいぐい引っ張ていき、観客を楽しませてくれる。祇園の<都おどり>の初めての振り付けをしたのが三世で、舞台には<都おどり>の様子も加え、<手打ち式>も行われる。<手打ち式>とは、かつては、京の顔見世の芝居の役者さんの乗り込みを迎えるものであったらしいが、現在では、慶事の席で披露される伝統芸能となっている。これを観れるのが、舞台『京舞』の楽しみでもある。

芝居では三世家元(片山春子)が内弟子愛子を次の家元として決めていて、孫の片山博通と結婚させる。そして百歳のお祝いの席で「猩々(しょうじょう)」を舞いおさめるのである。

そこまでの人間片山春子と師匠としての片山春子を水谷八重子さんは、風格を持って時には奔放な性格を爆発させながら芸に身を奉げる一途さを演じられる。愛子の波野久里子さんは、内弟子として若々しく甲斐甲斐しく働き、練習に励む。そんな愛子をそれとなく支える片山博通の勘九郎さんのさりげなさに好感がもてる。春子亡きあと、愛子は家元として井上流をりっぱに引っ張って行き、芸術院賞を受賞し、芸術院会員となり、その祝いの席で、「長刀八島」を踊るのである。その夜、愛子は博通に先代が観にきてくれたと告げ、芸に打ち込めたお礼を博通に伝える。

この芝居では、八重子さんと久里子さんは孫ほどの歳の開きのある関係であり、久里子さんと勘九郎さんは夫婦の関係である。それが、不自然でないのは、それぞれの役者さんの力量である。前回の公演のときよりも、八重子さんの老け役は手の内で、久里子さんは娘時代から芸が認められる年代までを自然な流れで演じていかれる。孫であり夫である勘九郎さんの優しさの変わることのない年齢の流れも違和感なく観て居られる。

舞台上の井上流を支えれ周囲の人々も、新派という劇団の息の合いかたが、上手く作用して小気味が良い。春子の性格をよく知っている料亭の主人の近藤正臣さんと八重子さんも息がぴったりで、後継ぎを話す相手として納得できる。

これだけ大勢の役者さんが出てきて、ダレさせることなく見せれるのは、やはり、長い間、お互いの芝居をみて進んできた新派の良さであると思う。

片山春子の役は八重子さんは、十七世勘三郎さんを踏襲していくと言われた。当然、久里子さんは愛子を演じた初代八重子さんを踏襲されるのであろう。

追善挨拶は『京舞』の劇中で行われる。一回目に観たときはゲストは上島竜兵さんで、勘三郎さんと呑んだとき、夜中も過ぎ、明日仕事が早いのでこの辺で帰らせていただきますと言ったら、僕も早いんだよ、あなたと同じ舞台に立ってるんだからと言われて困ってしまったと言われた。

他でも、勘三郎さんは、明け方まで飲んでいるにも関わらず、その日の舞台には何かしら新しい工夫があって、寝ないで考えてきたなと思ったことが何回もあると言われていたのをどこかで見たか聞いたかしている。『京舞』のように長寿であっていただきたかった。

近藤正臣さんは、十七世勘三郎さんと一緒だった舞台での、十七世の演技を身振りで説明され、二回別々の演技の話しであった。まだ幾つか別の話しをされているのかもしれない。

柄本明さんは、新派に参加させてもらって、どうしたらよいのか解らないといわれていた。謙遜ではないように思えた。勘九郎さんの鶴次郎の前で、毎日自分の位置の定まらなさに苦慮されているかもしれない。いいとか悪いとかいうことではない。安易に収まろうとする自分に待ったをかけているようにおもえたのである。さてどうであろうか。もしそうであるならこういう時、勘三郎さんはどんな言葉をかけられるのであろうか。

作・北條秀司/演出・大場正昭、成瀬芳一 /舞踏振付・井上八千代/

友人は「観に来て良かった。良い物を観るために今度は一人でも出かけて来るよ。」と言っていたが、どうであろうか。

 

 

 

新橋演舞場 11月 『鶴八鶴次郎』

11月新派特別公演である。10月の歌舞伎座に続き <十七世中村勘三郎 二十七回忌、十八世中村勘三郎 三回忌 追善>公演である。十八世勘三郎さんが、十七世勘三郎さんの追善興行は<新派>でもと言われていて、勘九郎さんと七之助さんにも<新派>を体験させたいとの想いがあってのことという。残念ながら、鶴次郎を演じられた勘三郎さん不在の公演となってしまった。

『鶴八鶴次郎』の鶴次郎は、十七世勘三郎さんも演じられている。川口松太郎さん原作で、芸道物ということができるが、<新内>という芸に着眼し、そこに人情と義理を加えているところが、川口さんの作品らしい。<新内>は流して歩くところから出発している芸である。料亭の二階のお客さんに声をかけ聞かせたり、流して歩いてお客の声のかかるのを待ったりする。<新内>の哀調おびた三味線の弾き方と高音の声質の語りは、男女が心中したくなる気分にさせ、実際心中する者もでて、公的規制を受けたりもしている。

その<新内>が時を経て、名人会に加わるのである。名人会に加わるだけの芸の力のある芸人二人のどこかで亀裂してしまう男女の想いの芝居である。

芸の事となると喧嘩ばかりの鶴八と鶴次郎だが、鶴八は鶴次郎の師匠の娘である。そんなこともあり、好きだと言えない鶴次郎は、鶴八の結婚話に意を決して女房になってくれと告白する。二人は、先代鶴八の願いであった鶴賀の名前の席亭を開く直前、鶴次郎は男のプライドを傷つけられとして鶴八と別れてしまう。場末に燻る鶴次郎を番頭の佐平の助力で、老舗料亭の女将におさまっている鶴八と再会させ、再び名人会に二人を出させる。二人の芸がふたたび花開こうというとき、鶴次郎は、鶴八の三味線の芸に難癖をつけ、再度の別れとなる。

この後半からの、鶴八の七之助さんと鶴次郎の勘九郎さんがいい。七之助さんは、女形の声質を変えられる特性を生かし、低音にして、老舗の料亭の女将としての立場をきっちりつくる。鶴次郎の勘九郎さんは、持ち前の心理描写の上手さを新派的沈黙で押さえ、佐平に、どうして二人の中を壊したのかを静かに語る。当時の<新内>芸人の艶と泥水に通したような味はお二人には無い。そこが難点であるが、心理描写になると勘九郎さんは、聴かせる。鶴八は、老舗料亭の女将の座を捨ててでも<新内>の芸に鶴次郎と共に再び生きるという。その言葉を聞いたとき、鶴次郎には鶴八の今の倖せを壊すことは出来なかった。自分の想いを壊すのである。

勘九郎さんは、もちろん、中村屋の芸は伝えていくであろうが、それとは違う自分の語りを作っていかれるであろう。十八世勘三郎さんが、お二人に<新派>を体験させたいと思われた事は、意を得ていたのである。追善でありながら、十八世勘三郎さんのお二人への<芸>への示唆のように思えた。

川口松太郎さんは、花柳章太郎さんが亡くなられたとき、お棺の中へ『鶴八鶴次郎』の脚本を入れ、花柳のものとして永遠に他には上演させまいとしたが、それを止めたのが初代水谷八重子さんだという。(「空よりの声ー私の川口松太郎」若城希伊子著) 止められた八重子さんがおられてよかった。

旅のために、予定していた日にちに観られないかもしれないと、違う日にも切符を購入し、行けない日を友人に行ってもらおうとしたら、一人では嫌だと言われ、2回目は友人と観ることになった。

二回目のとき、出演者の挨拶のゲストが渡辺えりさんで、十八世勘三郎さんのこの芝居を観たあとで、どうして女の生き方を男が決めるの。女に決めさせなさいよ。と勘三郎さんに言われたのだそうである。大爆笑であった。勘三郎さんに佐平役の柄本明さんを紹介したのも渡辺えりさんで、渡辺さんが話す間ずーっと、柄本さん下を向いて新派の雰囲気だったのも可笑しかった。

作・川口松太郎/演出・成瀬芳一/新内・新内仲三郎社中

 

 

歌舞伎座 11月 『御存鈴ケ森』『熊谷陣屋』『井伊大老』

『御存鈴ケ森(ごぞんじすずかもり)』は、侠客の幡随院長兵衛と白井権八の出会いである。<御存(ごぞんじ)>と付くのが、皆知っていたという事である。鳥取藩で父が侮辱されたとして、相手を殺し江戸に逃げてくる。前髪の美しいお尋ね者と、江戸で男の中の男として人気の幡随院長兵衛とを、会わせて並べようとの趣向である。それも、権八が後に処刑される鈴ケ森で会わせるのである。権八の菊之助さんは若く美しく、たむろして賞金目当てのならず者たちを相手に優雅に切り倒していく。

その様子を駕籠の中で見ていた幡随院長兵衛の松緑さんが声をかけるのである。「お若けえの お待ちなせえやし。」声も良いし、駕籠からの出方もよいが、どうしても貫禄を要求してしまう。血気はやる若者を、まあ、まあ、まあ、となだめつつそこに留まらせる大きさである。特に短い場面では、そこが難しい。どうしても、同世代に見てしまう。ところが、同世代でも、年齢がいくと、芸で若さと貫禄を作りあげてしまうのである。今月の松緑さんは、何か粛々と役の心根を探られているように映る。

『熊谷陣屋』で今までと違う印象を持った。熊谷の幸四郎さんが出家して、花道にきて、「ああ十六年はひと昔。夢だ。夢だ。」と嘆くとき、何気なく舞台を観た。煌びやかな衣装を着て並ぶそれぞれの立場の人が熊谷を見つめている。その時、十六年を小次郎と重ねて子を想う親心だけではなく、そうか、今いる熊谷の位置からすると、舞台側は夢なのだ。その世界から自分は今こそ抜け出したのだ。という想いが伝わって来た。そして、戦闘の音に身構え、そんな自分に苦笑する熊谷。

熊谷が本当に抜け出すには時間を要したであろうが、舞台と花道は違う世界になったという二つの世界がはっきりと分かれて見えた。そうしなければ、生きていけない熊谷の苦しさ、そうした状況の人々の代弁者としていの幸四郎さんの熊谷がそこにいた。今まで演じていた舞台の人々が美しくも哀しい亡霊のように思えた。不思議な感覚であった。相模(魁春)、藤の方(高麗蔵)、弥陀六(左團次)、義経(菊五郎)

『井伊大老』は、井伊直弼(吉右衛門)の心情を側室のお静(芝雀)に語ることによって、直弼の人間性を浮き彫りにする作品で、北條秀司作である。北條さんの作品は、歴史的人物の公の姿とは違う心情を表現して見せるのが上手い。そして、吉右衛門さんと芝雀さんも、今となっては望んでも戻らぬ慎ましかった埋木舎での生活を懐かしみ、息の合った情愛を伝える。正室の昌子の方(菊之助)には言えないことでもお静には本心の苦しみを吐露できる直弼。直弼を討とうとして失敗した水無部六臣(錦之助)に、攘夷派は帝を自分たちの思想に利用しているだけなのだと諭す直弼。これから将来ある若者たちの助命を長野主膳(又五郎)にうったえる直弼。直弼の死を予感する仙英禅師(歌六)。その渦中にあって、国賊となることの無念さをお静に語る。お静は「それでよいでは。」と答える。直弼は、その言葉に捨石となる決心をし、桜田門外で討たれ最後に「大義をあやまるな。」との言葉を絞り出す。吉右衛門さんは公私の直弼を表裏をきちんと出された。

今月は、家来が若手で、顔の作りもよく、動きも綺麗で舞台に張りがあり緊張感が増し、見ていて気持ちがしっかりした。

廣太郎さん、種之助さん、廣松さん、隼人さん、萬太郎さん、巳之助さん、宗之助さん

 

 

歌舞伎座 11月 『すし屋』

『義経千本桜』の中の『すし屋』の段である。平維盛が高野山にいると聞いて、その妻・若葉内侍(わかばのないし)と六代君親子は、吉野を通て高野山へ向かうところでの、吉野下市村での話である。

現在の 下市町のマスコットキャラクターが<いがみの権太>にちなんだ<ごんたくん>である。 熊野三山、吉野、高野山の三大霊場は世界遺産になっている。今週のどこかで、友人は熊野の小辺路を歩いているはずである。奈良の旅を計画していた時、奈良から熊野への、日本一長い路線バスを見つけ、これで、小辺路を歩く足掛かりができたと喜んでいた。今回はその旅はパスさせてもらう。帰ってきてからの報告が楽しみである。

吉野とか高野山とかが使われるのは、霊場の意味も含んでいるのであろうか。武蔵坊弁慶は熊野で生まれたという説もあるようだ。近頃舞台を見ていても、山道が浮かんでくる。江戸の人々は暗い舞台を自然の木々の中として、今よりもっとリアルな気分でお芝居に見入っていたかもしれない。そして、今のように無数にある道とは違って、ここと言えば、ほとんどの人の頭の中では、こことして同じ認識を持てたのである。舞台のすし屋の左手の風景の絵が、奈良の田舎の感じで、よく解っているな、と楽しかった。

その小さな吉野の村に大きな事件が勃発するわけである。平維盛親子の出現である。その凄い方のために、いがみの権太は命を張り、自分の妻子を身代わりに差し出すのである。そして、誤解されて父の弥左衛門に殺される。暗い。重い。と思っていたが、時蔵さんの維盛は安心して見ていれる動きで、維盛を慕うすし屋の娘・お里の梅枝さんが初々しくそれでいて娘のほのかな色気がありなかなかよい。そこへ、父には勘当されているが、母親の右之助が甘くなるのも仕方がない思える、どこか憎めない、いがみの権太の菊五郎さんが登場である。

悪人が改心して、忠臣に目覚めたというのではなく、そんなこと考えてもいなかった親泣かせの子が、ひょんなことからそういう事に巻き込まれてしまった。その感じが面白かった。弥左衛門もお里も納得づくでの自分の行動である。ところが、こうすれば、まあ親父も喜ぶだろうとの気持ちが、権太の妻子は、これで夫の舅への孝行となると後押ししてくれる。その気持ちを受けて仕組んだことが、梶原にはお見通しだったのである。幸四郎さんの梶原は、「親の命より褒美を」という権太を面白いやつとして笑い、だまされているのにゆとりがあり、褒美の陣羽織の内に隠された、維盛を出家させよの歌の暗示で、そうか解っていたのかと納得させられる。

「褒美」の言葉に怒り心頭の弥左衛門の左團次さんは、権太を刺す。そして、真実を知り嘆き悲しみ、そうかそうか、そうであったかと親の情があふれる。

どこかで、親のためにと思っていた権太の気持ちがすし屋のすし桶を隠し場所にしたことが、悲劇の序章である。その時の軽い世話の形の権太からは想像のできない結末となる。このあたりの庶民の雰囲気が、がらっとかわるところが、菊五郎さんの権太であった。

今度、柿の葉寿司を食べるときは、よく味わって食べることとする。

いがみの権太の着付けは黒の<弁慶格子>である。そして、弁慶の着付けは、弁慶格子でなく、<翁格子>である。弁慶が着ているのを<弁慶格子>と思っていました。どこかで間違って書いていたならご勘弁を願います。

歌舞伎座 11月 『勧進帳』『寿式三番叟』

歌舞伎座11月は 「吉例顔見世大歌舞伎」 初世松本白鸚三十三回忌追善 である。やはり、染五郎さんの初役・弁慶の『勧進帳』からであろうと思うのであるが、気の利いたことが書けそうにない。一口で云えば、負けず嫌いの弁慶であった。聞きなれた長唄を耳にしつつ、富樫の出。そして、花道での弁慶の第一声は。声も大丈夫である。姿も良い。

富樫に訊ねられ、東大寺勧進のためと言われたとき、こちらが、奈良の見て来た東大寺が崩れた。そうなのである。あの東大寺も焼失するような戦があり、その戦で活躍した義経が兄に追われているのである。

弁慶はその義経を富樫から守るのである。富樫が幸四郎さん、義経が吉右衛門さんである。お二人ともその役に妥協はされないから、染五郎さんは、弁慶を演じつつ、富樫の幸四郎さんと義経の吉右衛門さんとも相い対いすることとなる。観ていてもお二人は大きな役者さんである。染五郎さんは弁慶に成りきり、富樫にぶつかり、義経を守る。身体は形を作り、想いは負けるものかと気迫を感じる。

義経、四天王(錦吾、友右衛門、高麗蔵、宗之助)達を先に送り、ラスト花道で、幕の内の富樫に頭を下げ、それからゆっくりと天(客)に向かって頭を下げるが、染五郎さんはその動作があるかないかわからぬ速さで、前方を見つめ飛び六法で進んでいく。その日だけだったのであろうか。まだまだ気は抜かない、抜けませんと言われているようであった。まだ、染五郎さんの弁慶とはなっていないと思う。まだ朝日のまぶしさを感じただけの出発とおもう。

金太郎さん、間を外さずしっかり太刀持ちを務めていた。この舞台の空気、糧となり活かされる時がくるのであろう。

十一月歌舞伎座は、『寿式三番叟』から始まる。翁(我當)と千歳(亀寿、歌昇、米吉)が天下泰平、国土安泰、を祈ると、三番叟(染五郎、松緑)が五穀豊穣を祈って舞う。染五郎さんは、軽く操り三番叟の雰囲気も出され、楽しそうに解放されたように踊られる。松緑さんは静かに神に祈る者として踊る。この違いが面白かった。松緑さんは思いの外押さえられていて、あえて、競い合う二人三番叟にはしなかった。経験者として夜の部の染五郎さんの弁慶のことを思われているように感じたのは、うがった詮索であろうか。我當さんを筆頭に、厳かな舞台であった。

踊りらしきものはこれだけで、今月の歌舞伎座は重厚な出し物が並ぶ。その中で、意外にも、菊五郎さんのいがみの権太が、憎めない権太となっていた。

 

高倉健さんの遠い旅立ち

奈良の柳生街道 (2) の コメントで『宮本武蔵』については、また書く機会があるかもしれないとしたが、その一つが高倉健さんの佐々木小次郎である。初めて見たとき多少違和感があった。錦之助さんは、歌舞伎から入って時代劇に精通していた役者さんであり、宮本武蔵は、恋にも悩み、様々なことに悩みつつ剣の道を進む人である。それだけに作戦もたて、人の心理も読む人である。佐々木小次郎は違う。自分の剣の強さを信じ切っている。再度見ていてそこが小次郎らしいところなのだと思え、派手な衣装、長い刀それが似合う高倉健さんの小次郎が納得できた。

『宮本武蔵 二刀流開眼』が1963年、『一乗寺の決斗』が1964年、『巌流島の決斗』が1965年である。そして、内田吐夢監督の『森と湖のまつり(1968年)がレンタルショップで目に飛び込んできた。武田泰淳さんの原作である。この映画があるとは知らなかった。それも高倉健さんが主演である。さっそく借りたが、時間がなく半分を見て、奈良の<山の辺の道>への旅にでる。奈良から帰って来てから残りを見る。

雄大な北海道の自然のなかで、アイヌ民族の血の問題と差別問題が描かれている。高倉さんは、アイヌ民族の純血として、アイヌの人々のために基金を力ずくで集めようとする。ところが、彼には、和人の血も混じっている混血であった。三国連太郎さんとの決闘をする場面は迫力がある。さすが、内田吐夢監督である。アイヌの人々の宗教的儀式も取り入れながら、自在な自然描写。野生児的な主人公を若い高倉健さんは演じ切っている。新鮮な映画俳優、高倉健さんを感じた。

その野生児を内田監督は、今度は、武蔵の相手の小次郎にするのである。この野生児と佐々木小次郎の合体が、銀幕のスター・高倉健さんの誕生のように思えた。そんな時、健さんの突然の訃報である。驚きしかない。

『あなたへ』は、見ていない。なぜか、評判でありながら見ていないのである。だから、高倉健さんの<遺作>は私の中には未だ無い。しばらくは見ないであろう。

数か月前、高倉健さんの五代前の祖先である小田宅子(おだいえこ)さんの著書を古本屋で見つけた。『姥ざかり花の旅笠 ー 小田宅子の「東路日記(あずまじにっき)』である。田辺聖子さんが、読み解いてくれている。そもそもは、高倉健さんが、<うちの祖先の人が、こういう手記をものしているが、これをわかりやすく読めるようにならないものだろうか、面白そうなのだけれど>と言われたのが、色々な人の縁で田辺さんのもとに届いたらしい。時間が出来読める日を楽しみにしていた。

高倉健さんは、借りておられは肉体は返され、遠い遠い旅に発たれてしまわれた。まだまだ、新鮮な高倉健さんにお逢いできるような気がする。到底納得できないが、手を合わせさせていただく。

合掌。

奈良 山の辺の道 (2)

『旧柳生街道』もそうであるが、この『山の辺の道』も<東海遊歩道>の一つであるらしい。東海遊歩道というのがよくわからないが、そう指定されている道が東京から繋がっているらしい。『山の辺の道』の標識は判りやすい。どちらかなと思ったところに標識がある。今までで一番判りやすい親切な道標である。そのためか、平日でも人が歩いている。皆さんこの地域の農産物を買われ、ビニール袋を下げている。季節によっては、土日、祭日などは人が多いのかもしれない。

途中駅から歩かれるかたもいて、巻向(まきむく)からと言われた方もいた。次は<長岳寺>なのであるが、時間の関係で中には入らなかった。少し心残りであったが先へ進む。大きな<崇神天皇陵>(天皇陵として最も古いもの)<景行天皇陵>(ヤマトタケルノミコトの父)を右手に眺めつつ歩く。歌舞伎襲名興行スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』で云えば、現猿之助さんがヤマトタケルで現中車さんが父の景行天皇ということになる。この辺りの歌碑の筆者が文学者や名前の知れた方々となる。中河與一さん、武者小路実篤さん、山本健吉さん、岡潔さんなど。

<桧原神社>到着。崇神天皇が天照大神を祀った社とされ、天照大神は、伊勢神宮に移されたのでここを、元伊勢とも呼ぶ。大神(おおみわ)神社の摂社で本殿はない。鳥居の間から、ラクダの背のコブような二上山に沈む夕日が見えるそうである。二上山は少し霞んでいるが鳥居の間にしっかり見えた。二上山の右側の雄岳には、悲劇の皇子である大津皇子のお墓があるという。

ここの茶店で昼食とする。にゅうめんセット、三輪そうめんである。美味しい。ご主人に、この辺りの桜の美しい場所を尋ねると、ここから5分ほどの池の辺りだという。山の辺の道から少しはづれるので、聴かなければ通り過ぎたであろう。

この井寺池にも歌碑がある。「大和は国のまほろば たたなづく青垣山ごもれる 大和し美し」 筆者は川端康成さん。歌に関して余計なひと言の二人。「あまり字は上手いとは言えないね。」そしてありました。「かぐ山は畝火(うねび)ををしと耳成(みみなし)と相あらそひき 神代よりかくなるらし いにしへもしかなれこそ うつせみつまをあらそふらしき」 筆者は東山魁夷さん。その位置から左から畝傍山、耳成山、香久山と大和三山が並び、そして二上山が並ぶ。明日香村ではこの反対に見ていたのである。お腹も満たされ自然もゆったりした気分で眺められる。そして茶店にもどる途中に、柿本人麻呂の歌碑が。「いにしへにありけん人もわが如(ごと)か 三輪の桧原にかざし折りけむ」 昔の人も、私が今するように、この三輪の桧原で髪飾りを折ったことだろうか。筆者は吉田富三さん。

所どころに<山邊道>の石標があるが、小林秀雄さんの字である。さて歩き始める。<玄賓庵(げんぴあん)>玄賓僧都の庵で、世阿弥さん作の『三輪』にも登場するそうである。この辺りから道も石畳となり雰囲気のよい小道が続く。何となく、デザートが欲しくなる気分。タイミングがよすぎる。居心地よさそうな外での椅子とテーブル。「わらび餅がいいね。」と入ってメニューを見たら、栗のアイス。柿大好きの友は栗も大好き。信州の小布施まで特別限定の栗のスィーッを食べに行っている。早朝から並ぶらしい。このお店の奥さんが丹波の出身で丹波の栗を送ってもらっているという。

これは大当たりであった。大きな栗の渋皮煮がアイスの横に。今年初めて渋皮煮に挑戦。レシピも見ずに実行。人には勧められない出来。実行力は自画自賛。しかしプロとの違いに深くカクン。来年はきちんと挑戦する予定。アイスの中にも栗が練り込まれている。陽が西に傾き始めている。満足と悠久の時間が過ぎてゆく。

美味しいもの後は、道を間違い大神(おおみわ)神社までの道を、大回りしてしまう。三輪山をご神体とする神社で、檜皮葺きの美しい拝殿である。お酒の神様も祭神としていて、全国からのお酒が奉納されている。酒屋で見られる杉玉(新酒が出来た印)は三輪山の杉で作られているそうだ。歌舞伎では、 『妹背山婦女庭訓』の<道行・三笠山御殿の場>が関係している。

さて、書き手は急ぐ。<平等寺>を通り、<金屋の石仏>二枚の泥版岩に釈迦如来像と弥勒如来像が浮き彫りにされているものが収蔵されている。<喜多美術館>を通り過ぎようとすると、友が、「佐伯祐三の絵がある。ごめん。彼の絵だけ見てもどってくる。」「この際だから急がなくていいわよ。」。彼女興奮して絵ハガキ片手にもどる。「一枚あって見たことのない絵だった。まだ所蔵があるらしい。」「絵に呼ばれたのね。展示の時連絡してくれるよう頼んだ。」「住所と名前書いて来た。」

<海柘榴市観音堂>。海柘榴市(つばいち)とは、この辺りは椿の林があったらしいい。山の辺は読み方の難しい漢字の出てくる道でもある。長谷寺へ向かう初瀬街道、飛鳥への磐余(いわよ)の道、大阪への竹ノ内街道、大阪からの舟もつく、交易市のあった場所である。観音堂は民家の間にひっそりと二つの観音様を祀っている。そして最後が初瀬川の流れをのぞむ<仏教伝来之地碑>である。

ただし、ここからJR桜井駅まで、1.5キロほどある。これが長かった。無事到達、あとは、奈良にもどっての乾杯のみ。飛び込みの友も、仕事と親の通院の介助もあり、違う日常に大満足。驚いたことに、そのお父上が池部良さんの同級生で「あいつは、本当にいいやつだった。」といわれているそうである。予定外の好きな画家の絵にも会え、良かった。

次の日、『正倉院展』も見れ、京都、東京、奈良国立博物館三館を訪れることが出来た、2014年の秋であった。

 

 

奈良 山の辺の道 (1)

奈良の『山の辺の道』も長い間のあこがれの道であった。柳生街道を歩いた時、次は山の辺にしようと旅の友と話ていたのだが、思いの外、とんとんと話が決まった。その話を聞いた仲間が一人、歩き通せないときは途中から電車かバスにするのでと参加を希望。旧東海道を一緒に歩いたこともあり、私より大丈夫である。三人での『山の辺の道』となる。JR桜井線と思ったら、JR万葉まほろば線となっている。通じる間は桜井線で押し通す。

桜井線の天理駅から桜井駅まで15.9kmである。アップダウンも無さそうだし、7時頃から歩き始めるというので、桜井駅を3時から3時半として、桜井駅から奈良駅に向かい奈良駅の一つ手前の京終(きょうばて)駅で降りて、ならまちへ向かう。私はならまちは散策済みなので、国立奈良博物館の『正倉院展』が6時までなのでそちらへ行き、二人でゆっくり散策して近鉄奈良駅前で落ち合うという計画であったが、桜井駅についたのが4時半近くであった。最初から最後まで歩くペースは変えずスローペースのほうで、昼食以外に甘味処に入ってしまったのも、時間のかかった原因でもあるが、栗のアイスは大当たりであった。という事で、一日たっぷりの『山の辺の道』であった。

天理駅から石上(いそのかみ)神宮をめざす。先ずはアーケード街の長さに驚く。それから、帰りに電車から天理駅前のイルミネーションが見えた。そうである。帰りの天理はもう陽が落ち真っ暗であった。<石上神宮>は日本最古の神社である。ただここで注目は、その中にある古い建物である。男性がその建物の床下を覗いて回っている。柱の下は、新しいコンクリートが敷かれている。何を見られていたのか。私たちもその後覗くが解らない。この古い建物は、先に出てくる、内山永久寺跡の、内山永久寺にあった、拝殿を移築したもので、国宝<出雲建雄神社拝殿>であった。国宝と知ると、ほうーと感心する三人である。

内山永久寺跡はその前にある本堂池と萱の御所跡の碑(後醍醐天皇が吉野遷幸のおり立ち寄ったとされる)が往時を偲べる自然である。まだ紅葉には早いが、池に色づき始めた木々を映す。ここは桜の名所でもあるらしく、芭蕉が、<うち山や とざましらずの花さかり>、よその人はしらないであろうが、ここは素晴らしい桜だ、とよんでいる。よそ者も知ってしまった。

このあたりから、見つかれば歌碑も目にしていく。先導の友が、パンフレットで意味を読み上げてくれる。残りの二人の解釈に疑問を投げてのことである。<月待ちて 嶺こへけりと聞くままに あわれよふかき 初雁の声>  「月の美しいよる、男女が一夜を共にし、明けがた初雁の声を聴いたのよ。」「そんなこと全然書いてない。月の出を待ってあの嶺をこえてきたんだな、この夜更けに初雁の声がしていると書いてある。」「万葉だとそんな味気ない歌じゃないんだけどなあ。」「山でさえ、恋の争いをするのにね。」それ以降、二人は歌の解釈は御法度である。

夜都伎(やとぎ)神社を過ぎると、<せんぎりや>と看板のある無人の無料休憩所&販売所。有料の飲料水、果物などもある。お茶の用意もあって、なんかお遍路さんになった気分。インスタントコーヒーを頂きつつ、新鮮な野菜や果物に嘆息。柿が大好きな友は、悔しがる。途中で食べれるからと小粒のみかんを買う。軽いからと、カラカラに干した切干大根、カリンのチップ、小豆、などをそれぞれ購入。裏では、年配の女性のかたが、柿を剥いて干し柿を作られている。友はさっそく、ここの干し柿は何月頃ですかと尋ねる。「12月です。」

紅葉はまだだが、柿の葉は赤く美しい。この辺りからが無人販売所があれば、全て覗いていく。もう一人はあまい<万願寺とうがらし>を探していて探しあてることが出来た。真っ赤な唐辛子は、飾って置きたいような赤である。リュックの空がなくて幸いかもしれない。大きければ買い出しスタイルの名演技賞となったであろう。稲刈りあとには、小さな稲ボッチが並び、木には蜜柑と柿。秋の里山満喫である。道は竹之内・萱生(かよう)環濠集落へと続く。環濠(かんごう)集落とは、南北朝の乱世のころ、自分たちの暮らしを守るため村の周囲に濠を張り巡らし自衛した集落である。

萱生集落で、柿だけ売っている家があった。その家のかたが、みかんと柿を作っていたが、今は柿だけで、この柿は特別甘いと言われ試食させてくれた。本当に甘かった。ついに柿好きの友は陥落である。そのご主人が、この山の辺の道について教えて下さった。講演会があってそこで聞いてきたのだそうである。どしてこの辺りに古墳が多いのか。古墳を造るために道が必要である。石材などもそうであるが、大きな古墳には、多くの人々が係っていたわけで、その人たちの食糧を運ぶためにも道は必要だったわけである。その道が『山の辺の道』なのだそうである。そしてこの道が出来たことによって、この辺りに沢山の古墳が作られることになったというわけである。この萱生集落のそばにも西山塚古墳がある。この先には大小様々の古墳があるから、眺めて行きなさいと教えてくださる。古いお家なので、何年位立つのですかとお尋ねすると、自分が生まれた時に建てたから80年ということである。80歳になられても、好奇心をもたれ、美味しい柿を丹精込められて作られているのである。この柿が萱生の刀根早生(とねわせ)である。

「つまらぬことを話しました。」「いえいえ大変参考になりました。有難うございます。ご馳走さまでした。」

労役という税金もあったわけであるからと、<労役>を調べたら、奈良の高取町には土佐の名前が残っていて、四国の土佐から労役で渡って来た人々の町とある。そうか、労役は、都近くの人々だけではなく、遠方の人々も都に 来ていたのである。教科書で習ったときの実感がいかに薄いかがわかる。そして、この辺りから、柿本人麻呂の歌が多くなる。

無名塾 『バリモア』

『バリモア』のポスターが、中折れ帽を被った仲代達矢さんの横顔である。素敵な横顔であるが、これは、偉大なる横顔といわれた、ジョン・バリモアを演じている仲代さんである。

ジョン・バリモアについては、『グランド・ホテル』の<男爵>を演じた役者さんで、それでしか彼は見ていない。品のある甘さで、ちょっと甘すぎるなというのが、印象であるが、一世を風靡したであろうことは想像できる。『グランド・ホテル』自体面白い映画である。ただ<男爵>があっけなく死を迎えてしまう。何があろうと、グランド・ホテルは何もなかったように次のお客様を迎えるのである。

『バリモア』は、アルコールに犯されているバリモアが、かつて成功をおさめた『リチャード三世』を演じようとして、台詞をプロンプターの力をかりつつ思い出そうとする。映画だけではなく、古典の舞台役者としても成功しているのである。ところが、出てくるのは、かつての自分と今の自分の違いである。大スターが今はその片鱗もないという、バリモアの実人生をバリモアによって、語られるという形をとっている。悲劇の大スターの話しという事になる。

ところが、悲劇ではあるが、仲代さん演じるバリモアには、メディアがよく取り上げる悲劇性はない。バリモアが自分の言葉で語りたかった彼の人生そのものがある。バリモアは、仲代さんに自分を演じてもらい、アルコールを楽しみつつ拍手喝采であろう。「そこは少し違うが、まあいい演じ方だよ。そうか、そういう風に陽気にやればよかったのかも。モンスターの観客にはそう言ってやれば良かったんだ。よく言ってくれた。酒がよりうまく感じるよ。」仲代さんのバリモアを見つつ、もう一人のバリモアの声が聞こえる。

バリモアの兄と姉のこともでてきて、『グランド・ホテル』に兄が出ているという。どの人か判らなかったので調べたら、病気で余命が少ないサラリーマン、最後の思い出に分不相応のグランド・ホテルに泊まる男である。映画は昨日見直しているので、バリモアが、兄である役者ライオネル・バリモアについての想いが納得できる。芝居好きの観客にとって見逃せない芝居である。

仲代さんは台詞を覚えられるのに相当苦労されたようであるが、芝居での仲代さんのバリモアにはそんな苦労が伝わらない。むしろゆとりがあり、楽しんでおられるようである。役者さんにとって、それはどう思われることか解らないが、モンスター観客にとっては、大変嬉しいことである。

姿を見せないプロンプターとの声だけのやりとりも、実際の舞台稽古のように息がぴったりで、シェークスピアの作品の台詞が、バリモアの人生の一断片として重なり、シェークスピアはやはり、普遍的な台詞をちりばめてたのだなあと思ったりする。もったいぶっているようで、意外とどこにでもある日常を差し示しているのかもしれない。

リチャード三世の衣装で出きたバリモアの表情が、観客がその姿を見たときのどう見たらよいのかわからない目をしているのを映しているようで可笑しかった。

虚像と実像の間のその空間を演じることは、役者にしかわからないことで、それが面白くて続けるのか、苦しくて続けるのか、その回答がないからこそ続けるのか、鶏と卵のような関係とも思われるが、モンスター観客もなぜ芝居をみるのか、出たとこ勝負である。

バリモアさんは、アジアのある国で、自分を演じてくれたある役者の名前は、酔っ払いつつも、プロンプターなしで覚えたことであろう。

作・ウィリアム・ルース/翻訳・演出・丹野郁弓/キャスト・仲代達矢(ジョン・バリモア)、松崎謙二(プロンプター)

劇場/シアタートラム