えんぴつで書く『奥の細道』から(5)

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芭蕉は松島から平泉へ向かいますが途中で道に迷って石巻という港に着いたとしています。<つひに道踏みたがへて石の巻といふ港に出づ> 江戸時代の石巻港は東北でも有数の港で迷うということはないはずで、これは創作的表現で道に迷って着いたところがにぎやかな港であったとの驚きを加味したのだろうとのことです。

そして平泉。

⑤夏草や 兵(つわもの)どもが夢の跡 / 五月雨(さみだれ)の 降り残してや光堂

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』では義経終焉(しゅうえん)の地とされる高館にある義経堂(ぎけいどう)を訪ね、その後で中尊寺にむかいます。芭蕉と同じ道です。

義経堂は高館の山頂にあり途中古戦場跡と北上川がみえます。

義経は、藤原秀衡によって鞍馬寺からこの平泉に招かれます。それは秀衡がこの地で戦い抜いたとき助けてくれたのが陸奥守であった源義家だったのです。その子孫が義経です。兄頼朝が旗揚げしたとき秀衡は臣下の佐藤継信、忠信兄弟を義経に随行させました。そして平家を倒してのち、兄に追われる身となった義経をうけいれました。

義経が到着して8か月後秀衡は亡くなります。次の泰衡の代となり頼朝の圧力に負けて義経を邪魔ものとして奇襲するのです。そしてこの地で義経31歳で終えるわけです。しかし頼朝は奥州が欲しかったので奥州藤原は滅びてしまいます。

< 「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るままで涙を落としはべりぬ。 夏草や兵どもが夢の跡  >

義経堂は芭蕉が来訪した6年前に建立され義経像もその時にまつられたものだそうです。何もかもなくなっている地にこの堂と像を拝観した芭蕉は涙ししばし立ち去れなかったのでしょう。

奥州藤原三代の仏教を中心とする文化圏は世界遺産として登録されましたので跡地に復元がなされたりして芭蕉の見た風景と今とは随分と違っているとおもいます。私も二回目訪れの時は歴史的奥州の姿をバスガイドさんやボランティアのガイドさんによって多くを知らされました。

芭蕉の訪れた頃は中尊寺一帯も1126年の火災で様変わりし変わらないで残っていたのが金色堂でした。金色堂は芭蕉さんの時には荒廃をおそれて木造の堂で覆われ、その中に美しい姿をたもってくれていました。< 千載の記念とはなれり。 五月雨を降り残してや光堂  > 雨が避けてくれて残ったような光輝く堂だったのです。

今はコンクリートの覆堂で旧覆堂ものこされています。須弥壇には初代藤原清衡、2代基衡、3代秀衡の遺体が納められています。4代泰衡は御首級(みしるし)が納められているようです。

この金色堂も1962年(昭和37年)から7年間解体修理されます。その様子を映像で観ることが出来ます。努力を惜しまない根気と素晴らしい技術の結集です。

この映像で高館から中尊寺まで雨の中歩かれた黛まどかさんと榎木孝明さんの道筋がわかりました。高館には行っていないので歩きたかったです。

よみがえる金色堂(フルHD)|配信映画|科学映像館 (kagakueizo.org)

平泉の文化はかつて京の都から匠たちが集結して作り上げられました。そこから残った金色堂は再び未来をめざして再現されたのです。この時の中尊寺貫主は今東光さんでした。

西行はこの地で桜を見て吉野の桜に並び称されると歌っています。 <きゝもせず 速稲山(たばしねやま)のさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは>

芭蕉も当然ここで桜を見ることを望んでいたでしょうが桜に関しては何も書いていません。それはもっと先で思いがけない場所での桜との出会いがあるのでそれを強調するために見ていても記さなかったのかもしれません。

秀衡は子供たちに義経を大将にして奥州を守り通すようにと遺言を残します。その遺言を守ったのが三男の忠衡でした。彼は遺言通り義経を守りますが、23歳で力尽き亡くなっています。その忠衡が寄進した鉄の宝燈「文治灯籠」が塩釜神社の社殿の前にあります。当時のものではありません。芭蕉は忠衡の戦死を知っていたので、「文治灯籠」の前で言葉を尽くして彼を讃えています。

芭蕉の中では義経の周囲の人々のことも構図としてとらえられていたのでしょう。

追記:       

        一面満開の桜もいいですが

      こんな桜も愛おしい

えんぴつで書く『奥の細道』から『義経千本桜』

文楽『義経千本桜』の「川連法眼館の段」を観ると、通称「吉野山」(道行初音旅)が観たくなります。録画がありました。2009年大阪の国立文楽劇場開場25周年記念公演が『義経千本桜』の通しだったのです。その放送が2010年お正月三日間にわたってあったわけで録画していました。「道行初音旅」は人形だからと思っていたところがありましたが美しくて面白くて驚きました。豊竹咲大夫さんの解説もわかりやすくやっと霞が晴れたような心持です。前のほうがオーソドックスなので四段目はケレンで楽しませてくれるようになっていると。

奥の細道』の次の場所は平泉です。義経最期の地でもあるわけで、『義経千本桜』を通過しなければ平泉には飛べません。 

初段「堀川御所の段」で咲大夫さんのおかげで『千本桜義経』の構成がわかりました。義経は兄頼朝から裏切りの嫌疑をかけられその使者が川越太郎です。嫌疑の一つが、平知盛、維盛、教経の首が偽物である。二つ目が、後白河法皇から頂戴した初音の鼓で、鼓は打つものなので頼朝を打つという印。三つ目が、正妻の卿の君が平時忠の養女であること。卿の君の実の父親が川越太郎でした。彼女は自ら命を絶ち太郎は娘の首を取ります。一つは疑いが消えますが、出足から悲しい始まりです。

その後主人公が違ったりもしますが、知盛(二段目)、維盛(三段目)、教経(四段目、五段目)が関係しているのです。(この上演は四段目、狐が飛んで終わりでした。)平家は敗者です。義経も敗者。敗者の美学と咲大夫さんは言われます。

四段目に初音の鼓の秘密が明かされ、それが狐の親に対する思慕で、義経はこの狐に自分の名前と鼓を与えます。義経が自分は何もいらないのだ、兄と和解できればとおもっているかのようです。

人形の狐が出るのですが、人形同士だから効果抜群です。二段目「伏見稲荷の段」から狐忠信の登場がわかりやすくなっており、狐の登場ということからこの場所が選ばれたのでしょう。きちんと意味づけもぬかりありません。

別枠にしたほうがよいかもと思わせられるほど全体の納得度が高い鑑賞となりました。二段目で知盛が幽霊として登場。三段目「すし屋」では維盛登場ですが、主人公はすし屋のどうしょうもない息子いがみの権太です。その権太の驚くべき行動も梶原平三が全て把握していました。梶原平三は頼朝が維盛の父の重盛が池の禅尼の口添えで助けられたことから維盛の命を助け出家させます。しっかり過去を顧みる梶原なのです。頼朝へ義経の事を悪く伝えたのが梶原ということで悪者の梶原ですが、ちょっと印象が違ってきます。だからでしょうか、義経は三段目には登場しません。

そして武士ではなく市井の人を主人公にもってくる。本筋から離れて幅を広げて観客に身近にさせていきます。四段目のケレンなどどと合わせて、書き手の作劇術と咲大夫さんはいわれていました。書き手は三人です。そしてこの三人は『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』も書かれているのです。恐るべき三人です。竹本出雲、三好松洛、並木千柳。

2009年の文楽『義経千本桜』の公演の出演者については<文化デジタルライブラリー>で検索してください。

こうなれば教経の登場の場が観たいなと思っていましら、DVD「歌舞伎名作撰」の『義経千本桜』(川連法眼館の場・奥庭の場・蔵王堂花矢倉の場)が封も開けないでおりました。「四の切」は何回も舞台で観ていたので映像で観る気が起きなかったのでしょう。三代目猿之助さんの舞台映像久しぶりでしたが見慣れている感じですーっと入れました。静御前は玉三郎さんでした。(1992年歌舞伎座)

教経が登場するのは「奥庭の場」からです。「川連法眼館の場」で源九郎狐は横川覚範が僧兵と攻めてくると知らせ手助けし、貰った鼓を手に大喜びで宙を飛んでいきます。

覚範(段四郎)は実は教経で忠信の兄・継信の敵でした。源九郎狐の仲間が教経をはばみます。こちらは着ぐるみの可愛らしい狐が多数登場です。忠信は教経を打とうとします。それを止めるが義経(門之助)です。二段目の大物浦で知盛から預かった安徳帝を教経にたくすのです。

教経は、建礼門院の大原で安徳帝を出家させ自分も出家するといいます。静御前は大和の源九郎狐の里へ行くといい忠信はお供しますと。義経はみちのくへ旅立つとし、弁慶(彌十郎)がそれに従うと。吉野山からそれぞれが旅立つのです。

平泉へ義経さんについて行かなければなりませんが、義経さんが亡くなったあとですのでもう少し残ります。

シネマ歌舞伎『東海道中膝栗毛 歌舞伎座捕物帖』をアマゾンプライムビデオで観ました。歌舞伎座での「四の切」の舞台稽古で殺人事件が起こるのです。「四の切」の舞台裏がみれます。床下から弥次さんが飛び出したり、僧兵に代役の喜多さんが隣の人を見て真似をすればいいと言われて、隣の狐忠信の真似をするのがやはり笑えます。

さて、平泉にそろりそろりと向かいましょうか。

追記: 文楽『義経千本桜』の放送で「すし屋の段」の弥助寿しのモデルとなった釣瓶鮨屋(つるべずしや)の紹介がありました。そのお鮨屋さんが谷崎潤一郎さんの『吉野葛(よしのくず)』に出てくるというので読みました。主人公の作家は作品の取材で、友人は亡き母の実家を訪ねるという内容です。浄瑠璃『妹背山女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の風景、初音の鼓、狐など谷崎さんの知識と独特の情感が満載で、さらに紀行文としても読めて、初めての道を分け入る気分をかきたてる作品でした。

友人の母の実家は紙漉きを仕事としていますが、『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』のテキストで、白石の和紙工房を紹介しています。かつては300軒ほどあったのが今は1軒だけで、奈良の二月堂お水取りの練行衆が着る紙子の和紙として納めているのです。大和と陸奥の様々な交流です。

追記2: 文楽『妹背山女庭訓』の「妹山背山の段」の録画を観ました。『吉野葛』の見えない架空の風景を感じながら聞いて観てでした。大夫、三味線が妹山、背山に分かれての二か所での出演。観終わってDVDケースにシールを張り幼稚園児のように満足。一つ一つ終わらせます。

追記3: テレビ『にっぽんの芸能』で「中村吉右衛門 こん身のひとり舞台“須磨浦”」を放送していましたがこの時期の新歌舞伎として様々な古典芸能を融合させ凝縮した作品でした。そぎ落としたり加えたりとこういう方法も伝わり方に力があることを確認しました。竹本の義経と対峙するのも息があっており、やはり納得できない逆縁のつらさが身に沁みます。橋懸りで見せる親としての姿。この後、武将<熊谷直実>を保つ孤独感に思い至りました。新たな挑戦でした。

追記4: 『  妹背山婦人庭訓 魂結び 』(大島真寿美著)をよい時期に読みました。面白くて作品の渦に巻き込まれました。

追記5: 『  妹背山婦人庭訓 波模様 』(大島真寿美著)は近松半二の亡き後の娘の時代の話です。浄瑠璃の渦から身を引く人も。ただし墨をたっぷり吸った筆は書き続けそうです。

 

えんぴつで書く『奥の細道』から(4)

白河の関から進みますが、次の目的地塩釜松島は『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の録画がありませんので、私の旅と本からたどって行くことにします。

檜皮(ひわだ)で芭蕉は安積山へ向かい「かつみ」の花を探しますがみつかりませんでした。今は安積山公園となっていますが私は残念ながらここへは行っていません。同じ郡山として開成公園そばにある「開成館」と「こおりやま文学の森資料館」の地図をのせておきます。歴史と文学に興味ある方は参考にされてください。

二本松では、芭蕉は歌舞伎に興味のある方ならご存じの「黒塚」を訪れます。

黒塚 | 二本松市観光連盟 (nihonmatsu-kanko.jp) 

二本松は『智恵子抄』の高村智恵子の生まれたところでもありますので興味があればこちらもどうぞ。

高村智恵子 | 二本松市観光連盟 (nihonmatsu-kanko.jp)

芭蕉は、<「かつみかつみと」と尋ね歩きて、日は山の端にかかりぬ。二本松より右に切れて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。>そして向かったのがしのぶの里の『文知摺石(もぢづりいし)』で歌枕にもなっています。ここは私的な旅でご案内。

長野~松本~穂高~福島~山形(3)

芭蕉は『文知摺石』をみてから『医王寺』にむかいます。飯坂温泉の近くだそうです。ここからは知らないことでしたので魅かれました。藤原秀衡に仕えた佐藤基治一族の墓が『医王寺』にあるのです。芭蕉は義経びいきです。その義経のために戦って死んだ基治とその息子二人の墓に手を合わせます。息子二人とは継信と忠信です。忠信といえば歌舞伎好きには狐忠信が浮かびます。『吉野山』、『四ノ切』(『義経千本桜』四段目)。

さらにこの二人の嫁が息子の死を悲しむ姑を慰めるために、亡き夫の甲冑をつけて「ただいま今凱旋」と声をかけ凱旋姿として見せたのです。この話に芭蕉は涙します。

松尾芭蕉ゆかりの地|真言宗豊山派瑠璃光山 医王寺 (iou-ji.or.jp)

この嫁の甲冑姿をのこしているのが白石の田村神社の境内にある甲冑堂です。田村神社といえば坂上田村麻呂が祭神です。となれば『阿弖流為(アテルイ)』です。いえいえお嫁さんの話でした。継信の妻の名前が楓、忠信の妻の名前が初音です。初音とは驚きです。狐忠信が慕う鼓の名が初音の鼓。芭蕉さんいろいろなところへ連れて行ってくれます。

しろいし観光ナビ (shiroishi-navi.jp)

芭蕉は、仙台では伊達家や政宗ゆかりの神社仏閣を訪ねています。私は青葉城跡だけですので進んで塩竈松島にむかいます。

でこぼこ東北の旅(4)『伊勢物語』

芭蕉が松島の月が心にかかり『奥の細道』の旅を思い立ったのですが、松島では宿の二階から見事な月と松島をめでたのです。松島の風景を賞賛していますが句ができなくて眠れない夜となりました。

④松島や 鶴に身を借れほととぎす(曾良)

松島は鶴が似合っているからホトトギスよ鶴の姿を借りるほうが良いだろうということです。声のよいホトトギスも松島の美しい姿にかなわなくて声も出なかったとするなら、句作できなかったホトトギスは芭蕉のことにも思えます。曾良の句が面白いと思った芭蕉がそこにいるような気がします。

今回は観光案内と自分の旅の紹介が多く登場することになりました。次の旅もつながっていました。

司馬遼太郎 『白河・会津のみち』

能 『融(とおる)』

さらに文楽の『義経千本桜』の四段目「川連法眼館(かわつらほうげんやかた)の段」はどうなるのであろうかと思いましたらユーチューブにありました。嬉しいですね。思ったらすぐ観ることができたのですから。歌舞伎とは違うこれまた斬新な演出でした。

芭蕉さん、にぎにぎしい旅で申し訳ございません。

えんぴつで書く『奥の細道』から(3)

奥の細道』に関係なく個人的に行った旅から、鹿沼今市日光を通り白河の関へと向かいます。白河の関の手前で『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』から紹介したいところを案内します。

鹿沼は、『奥の細道』には出てきません。『曾良旅日記』にでてくるようです。『奥の細道』と『曾良旅日記』をくらべつつ進むのがいいといわれるかたもいますが、手に負えませんので一つで進みます。

鹿沼       木のまち鹿沼(1)   木のまち鹿沼(2)

今市の杉並木   鬼怒川温泉と日光杉並木

芭蕉のこの旅は歌枕の地を訪ねる、その場に実際に立つというのが目的でもありました。歌枕とは、古くから人々が訪れ和歌を詠み、その土地が和歌に詠いこまれるようになって有名になり名所、旧跡となったところです。芭蕉がこの旅で初めて訪ねた歌枕の地は今市宿に向かう途中にある室の八島です。ここで初めて曾良が登場します。

私たちは同行したのが曾良だっとということを知っていますから最初から曾良が頭にありました。ところが芭蕉は『奥の細道』での曾良の登場も文学的計算に入れていたようにおもわれます。室の八島にある大神神社の由来を曾良に語らせてのさりげない登場です。

日光に関しては記録していませんので、行かれた方も多いのでご自分の旅の中で想像してください。東照宮への参道が今市付近から日光の神橋までの30キロメートルにおよぶ杉並木なのです。日光の東照宮は今のように自由に拝観できませんでした。芭蕉も紹介状を持参していました。

裏見の滝を見、含満ゲ淵(かんまんがふち)から日光を後にします。当時、華厳の滝を眺められるような場所はなく、裏見の滝が歌枕となっていました。

日光で驚いたのは日光駅から小杉放菴記念日光美術館まで歩いた時、途中から霧がたちこめてあっという間に前後が見えなくなったことです。日光の自然は軽く考えてはいけないなと思わせられました。

黒羽では弟子や俳諧仲間も多く長く逗留しています。名所、旧跡も訪れていますが特に雲厳寺には思い入れがあったようです。深川で親交のあった臨川寺・仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)が修行し山ごもりしたお寺だったのです。

やっと『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の映像を参考にさせてもらいます。黛まどかさんは『奥の細道』は、何度も訪れているそうで、芭蕉さんの追っかけかもと言われています。榎木孝明さんは初めてで楽しみにされています。

お二人の一回目の行程です。(NHKの放送画面からです。)

遊行柳→ 境の明神→ 白河の関

一面田んぼの中に立つのが遊行柳歌枕です。黛さんも芭蕉は歌枕を訪れるのが重要な旅の目的の一つであったと。ここで芭蕉が敬愛する西行が詠んだのが「道のべに 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」です。現在から芭蕉の『奥の細道』までが330年まえで、そこから西行の時代が500年まえ、私たちは800年前まで時間を経過させているんだと黛さんと榎木さんは感慨深げでした。『奥の細道』はかなたの時間空間への架け橋となってくれてもいるわけです。

関東と奥州の境です。このように国境の境をはさみ神社が並んでいてこの二社を境の明神と呼びます。

いよいよ白河の関です。芭蕉がたどり着いたときこの関は忘れ去られていてはっきりしなかったようです。白河神社があり芭蕉が訪れた100年後、白河藩の藩主は松平定信で今の場所を白河の関跡と定めました。その松平定信のお墓が『奥の細道』に出立した場所の近くにあるというのも奇遇です。

遠い過去に、郡山の知人にこの関に連れてきてもらいました。こんな立派な石柱もなく木々におおわれた凄くわびしい寒々とした場所でした。今想うと古関跡にふさわしかったのかもしれません。

③卯の花を かざしに関の晴れ着かな(曾良)

古人はここを通るとき、冠をかぶり直し、衣服を改めなおしたんだそうです。曾良はそんな改まった衣服もないのでせめて卯の花を飾りにして晴れ着としましょうとしています。奥州の地に対する古人の尊厳さが感じられます。

歌枕の場所に立って古人を偲ぶだけではなく、芭蕉は古人の歌に挑戦もしたのではないかと想像していたのですが、和歌や俳句の理解力が乏しく勝手に思っていただけです。

中西進さんの『詩心ー永遠なるものへ』の中で、遊行柳にむかいての芭蕉の句「田一枚植ゑて立ち去るやなぎかな」が「西行を相手とした勝負に、芭蕉は見ごとな一石を打ったのである」とされています。

こちらはそういうことなのかとその分析を新鮮なおもいで心に留める程度の力しかありませんが、和歌や短歌や俳句に親しんでいる方は『詩心ー永遠なるものへ』を直接読まれるともっと深く感じとられることでしょう。

能にも『遊行柳』がありました。広がりますがここで立ち去ることにします。

    

えんぴつで書く『奥の細道』から(2)

奥の細道』への旅に出てみます。赤丸は芭蕉さんと関係なく私が行ったところです。

芭蕉は江戸深川から舟で千住にむかいます。

芭蕉稲荷芭蕉庵跡とするなら、芭蕉はそこから弟子の杉山杉風(すぎたさんぷう)の別荘 採荼庵(さいとあん・さいだあん等の読み方あり)に移動しそこから舟で千住へむかったのです。杉風は幕府御用魚問屋で、深川で芭蕉が庵をむすぶ手助けもしていて、こうした金銭的余裕のあった弟子たちがかなりいたと思われます。江戸にいれば芭蕉は弟子たちに囲まれ安定した俳諧師として暮らせました。それなのになぜ漂泊の旅にでたのでしょうか。

上記地図の赤丸の清澄庭園は紀伊国屋文左衛門の屋敷跡です。同じころ一方では贅沢三昧の生活もあったわけです。今の清澄庭園は三菱財閥の岩崎弥太郎が造園した庭園がもとになっています。その下に松平定信のお墓のある 霊巌寺 。松平定信も白河の関で登場しますのでご記憶を。

その下に深川江戸資料館。ここは江戸庶民の生活を実体験できるような展示があり楽しいところです。

芭蕉が深川の庵に落ち着くまでどんな経過をたどったのでしょうか。田中善信さんの文「芭蕉の係累を探る」よりますと、芭蕉は伊賀国上野赤坂の生まれです。29歳のとき江戸にでてきます。日本橋大舟町の名主・小沢太郎兵衛のもとで働きます。公務の記録係りですが、名主の仕事の代行もしていたであろうといわれます。芭蕉は太郎兵衛の借家から通っていました。

江戸の人々の飲料水は「神田上水道」から供給されていました。この露天部分にはゴミなどがたまり、それを一年に一回掃除したり修復する請負の仕事がありました。この請負人の名前に桃青(芭蕉の別号)の名があるんだそうです。この仕事は名主クラスの人が請け負っていたので、芭蕉はかなりそうした実務能力を兼ね備えた人だったようです。

俳諧師としてではなく生きて行けた人だったのかもしれません。

しかし芭蕉は俳諧師の道を選びます。深川に移り住んでこの請負の仕事をやめます。人をまとめたり、上の人と上手くやっていける人だったわけです。気の回る人だったようにおもえます。当時の旅は、それぞれ別の国ともいえる藩に入っていくのですからそれなりの政治的な気の使い方が必要だったとおもいます。そういう配慮もできた人だったのでしょう。

ただこの配慮は自分が俳諧に集中できるために他の邪魔が介入しないためともとれます。この旅ひとつとっても俳諧に向き合う気持ちは頑固で一途なところがみられます。

不易流行(ふえきりゅうこう)」

趣味悠々のテキストから解釈が納得できたのでそれを引用させてもらいます。「いつの時代にも変わらないものと時代とともに変化するものがあるが、それは別々のものではなく、表裏一体のものであるということ。」

この旅に随行したのが弟子の曾良でした。ほかに第一候補者があったようですが、その弟子は目立ちたがり屋で高弟たちが反対し曾良にかわったようです。曾良が記録した旅日記『曾良旅日記』が1943年(昭和18年)に発見され、芭蕉の『奥の細道』がかなり文学的フィクションが加わっているということがわかったのです。これはある意味芭蕉の新しい試みでもあったということがわかったということでもあり、曾良が随行でよかったということでもあります。

さて深川から隅田川を千住まで舟で向かったのは1689年(元禄2年)芭蕉、46歳の春です。今は隅田川水辺テラスの整備が進んで、隅田川のそって歩いて千住大橋まで行けます。反対に舟では行けないのです。

德川家康が江戸入府後、隅田川に初めてかけられたのが千住大橋です。ここから日光街道です。

千住大橋は歌舞伎では『将軍江戸を去る』が思い浮かびます。芭蕉の門人の其角は『松浦の太鼓』で赤穂浪士・大高源悟と両国橋で討ち入り前夜に会っています。芭蕉さんの知らない後の世のことです。

①草の戸も 住み替はる代ぞ雛(ひな)の家

芭蕉のわび住まいの家に次に住む人はお雛様を飾るであろうというのが可愛らしいです。

②行く春や 鳥啼き魚の目は涙

魚の目にまで涙を思い浮かべるとは、この別れがもしかして最後かもという覚悟と心細さが伝わりますが現代ではアニメ風にも想像できます。

現実的には厳しい旅の道であったことがわかります。

追記:  採荼庵跡   右脇の青い矢印の所に芭蕉俳句散歩道があります。

えんぴつで書く『奥の細道』から(1)

整理しているといろいろ出てきました。「えんぴつで書く 『奥の細道』」。100均の商品ですがなかなかのもので、現代語訳からひとくちコラムでは語彙の説明や名所の説明、歴史上の人物などの説明もしてくれています。これで税込み105円とはおそれいります。この商品はもう発売されていないようです。

さらにさらに、NHKでやっていた『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の録画もでてきたのです。ただ2回目だけは録画を忘れたようで残念です。というわけで『奥の細道』の世界にもぐりこんでおります。もちろん鉛筆でなぞりました。

下記の行程を150日間での旅でした。

鉛筆書きする箇所はよく知られている俳句の出てくる段を選んでいます。(地図上の青丸)

①発端・深川  ②旅立ち・千住  ③福島県・白河の関  ④宮城県・松島  

⑤岩手県・平泉  ⑥山形県・立石寺  ⑦山形・最上川  ⑧秋田県・象潟

⑨新潟県・越後路  ⑩新潟県・市振  ⑪岐阜県・大垣

①草の戸も 住み替はる代ぞ雛(ひな)の家

②行く春や 鳥啼き魚の目は涙

③卯の花を かざしに関の晴れ着かな(曾良)

④松島や 鶴に身を借れほととぎす(曾良)

⑤夏草や 兵(つわもの)どもが夢の跡 / 五月雨(さみだれ)の 降り残してや光堂

⑥閑(しず)かさや 岩にしみ入る蝉の声

⑦五月雨を 集めて早し最上川

⑧象潟や 雨に西施(せし)がねぶの花 / 汐越や 鶴脛(つるはぎ)ぬれて海凉し

⑨文月や 六日も常の夜には似ず / 荒海や 佐渡に横たふ天の河

⑩一つ家に 遊女も寝たり萩と月

⑪蛤の ふたみに別れ行く秋ぞ

趣味悠々のほうの放送内容は鉛筆で書く場所といくつか違っています。(地図上黄色丸)案内の旅人は、俳人の黛まどかさんと俳優の榎木孝明さんで、榎木さんは水彩画の画家でもありますから、旅の場所でのスケッチも披露してくれました。黛さんはメモをとられて放送時には一句紹介してくれます。

①福島県・白河の関  ②宮城県・塩竈松島  ③岩手県・平泉  ④山形県・尾花沢

⑤山形県・立石寺  ⑥山形県・最上川出羽三山  ⑦山形県・鶴岡/秋田県・象潟

⑧新潟県・出雲崎親不知市振  ⑨福井県・敦賀

芭蕉は酒田から市振の関までの九日間は暑さと湿気で体調を崩し旅の記述をしなかったとしています。市振について、今日、親不知子不知(おやしらずこしらず)の難所を越えたと記しています。

二つの『奥の細道』に触れて、やはり全部の旅の過程を知りたくなります。まずは現代語訳からはいります。参考本が種々ありますが、作家・森村誠一さん監修の『芭蕉道への旅』が読みやすそうなので森村さんの現代語訳でよみました。旅をしているとどこへ行っても芭蕉の句碑で食傷気味になりますが、文と併せて読むと旅の醍醐味があります。

歴史上の事柄、かつての人々が歌枕としてあこがれた場所、西行、能因法師など実際に先人たちが歩いた場所での芭蕉の想いなどをもう少し知りたいなと『奥の細道』に分け入っています。

『更級日記』から「さらしなの里」へ(5)

京の都の自宅についた筆者はまだ落ち着かないのに母に早く物語をさがして下さいとたのみます。三条の宮に仕えていた親戚の人が宮からいただいたものを届けてくれたりします。

そしてついに田舎から来ていたおばを訪ねた時、『源氏物語』の50余巻とその他の物語もいただけたのです。うれしくてうれしくて『源氏物語』をながめる心地は「后の位を得たといっても、その喜びはこれほどではないでしょう。」と記しています。こもりっきりで読みふけります。物語の文章なども空で思い出せるほどです。

17、8歳で仏の道を学び仏へのおつとめをする娘さんたちもいるのに、筆者はそんな気はありません。年に一度でもよいから光源氏のような方に、通っていただき、浮舟の女君のように隠れて暮らし季節の変化に応じて文をいただけたらとひたすらおもっているのです。

そんなおり父が常陸介に任官となり、永久の別れかもとたいそう悲しくてつらい思いをします。父を想うさみしさの中お寺参りをするようになりますが、母が古風な人で怖がり、石山奈良の初瀬など遠くは連れて行ってはくれません。そうこうしているうちに待ちに待った父が無事帰京してくれました。どんなにうれしかったか。

父はそれを機会に退官して隠居し、母は尼となって別の部屋で暮らす生活となりました。筆者は人にすすめられ宮仕えをします。なんとか宮仕えに慣れようとしますが、親がどういうことからか退官させてしまいます。

そして今までの自分をかえりみて反省します。「光源氏ほどの人はこの世においでになったであろうか。薫大将が浮舟を宇治に隠し置かれたことなども、実際にはないのがこの世なのである。なんと気ちがいじみていたことか。」

そして宮からのお召しもあり再び時々客人のように別扱いで出仕するようになります。

そして結婚し、それからは幼い子の成長を願って石山へもでかけます。途中の逢坂の関では、かつての帰京の旅の時も同じ冬であったと思い出したりしています。

大嘗会の御禊(だいじょうえのごけい)があるというので見物のため人々が集まるなか、初瀬に筆者は向かいます。兄弟たちは一代に一度しかないことなのにその日に出かけるとはとあきれます。しかし夫(橘俊通)は「それぞれの考え方で、思うようにしたらいい」と言ってくれるのです。筆者も大変喜んでいますが、きちんと妻の意思を尊重してくれる人だったのにはちょっと意外で驚きです。

宇治では筆者は『源氏物語』のことを思い出し、風情のあるところで浮舟の女君はこういうところにいらしたのかと物語の世界を今は客観的に思い起こしています。それから東大寺石上神社のお詣りし、初瀬寺に籠ります。

その後も鞍馬石山初瀬太秦(うずまさ)に籠ったりしますが、年数もたち病がちになります。そんなとき願っていた夫の任官がきまります。予想していたのとは違い、父が何回も任ぜられた東国よりは近いところですが。(信濃守となるが場所は記していなくて暗示している)任国に長男を連れて一緒に出発しました。夫は8月27日に立ち、翌年の4月に無事帰京し、9月25日からわずらいだして、10月5日にははかなくも亡くなってしまうのです。

「夫を亡くした悲しい気もちというものは、この世にくらべるものがあろうとは思えません。」

そんな辛い日々の中で一つ頼みに思われることがありました。阿弥陀仏が夢にお立ちになられ「それでは、こんどは帰って、あとでお迎えにこよう」といわれたのです。この夢ばかりを後世の頼みとします。

たいそう暗い夜6番目にあたる甥が訪ねて来たのが珍しく思われて次の歌を口ずさみます。

月も出でで闇に暮れたる姨捨に なにとて今宵たづね来つらむ (月も出ない闇の姨捨山にどうしてお前は今宵たづねてくれたのであろう)

この歌の姨捨から更級日記としたのではないかという説が有力のようです。信濃守であった夫ももういないということから「も出でで闇に暮れたる姨捨」のさらしなの里である場所と筆者の状況をも重ねているようにおもえます。姨捨さらしな筆者。この関係がくるくる循環してみえてきます。

筆者は物語に没頭し、信心にも熱心になりますが、なんであんなに物語にとらわれてもっと仏の道を学ばなかったのであろうかと後悔します。それが筆者の生き方だったのです。夫はそうした彼女を認めていたのでしょう。なげきつつも、「そうなんです、だから私は夫の死がこんなにも辛いんです」と言っているようにもとれるのです。

宮仕いの時のことで印象的な場面は、親しい友人達と話している時、知らない人がそっと話しかけてきます。月のない暗い夜で風情があるといいます。そして春秋の月の様子を語り合うのである。筆者が心にとめた一場面だったのでしょう。そして筆者はこうした話ををかわせる世界が心地よく感じていたことがわかります。今まで読んだ物語の蓄積した世界と現実が上手く重なった空間でもあります。

更級日記』は物語の読者の一つの形を現わしているともいえるでしょう。ひとりの読者という類型を日記という形式で論じてさえいるようにおもえる。読者という立場を無意識に表現してくれています。そこもこの作品の面白いところです。

更級日記』は藤原定家が書き写したため現在まで残されました。その本は今、天皇家の宝物として宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵されています。

追記: 筆者は親戚の反対を押し切っても長谷寺にお詣りに出立します。石上神宮(いそのかみじんぐう)にも寄りますが、荒れ果てていたと記しています。その夜山辺(やまのべ)というところのお寺に宿泊。筆者は山の辺の道を使っていたのですね。山の辺の道を歩いた時を思い出し、筆者との距離がさらに近くなりました。

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追記2: さらしなの里からは健脚の松尾芭蕉さんに『更科紀行』で深川の芭蕉庵にもどってもらいます。

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8月11日に美濃の鵜沼を出立し木曽路を通り、さらしなの月をみるために8月15日には姨捨で宿泊。月を満喫して善光寺に詣り、江戸の深川芭蕉庵に着いたのが8月20日でした。

追記3 芭蕉庵ゆかりの地

芭蕉記念館芭蕉稲荷・芭蕉稲荷の上の青丸は芭蕉庵史跡展望庭園採荼庵跡(さいとあんあと)。翌年の元禄2年3月27日採荼庵から『奥の細道』への旅立ちとなるのです。

『類』(朝井まかて著)迷走編(5)

終わるつもりがどんどん深入りして道に迷い始めている。楽しいので横路があれば曲り、行き止まりになってもどったりとなかなかの味わいある迷走路である。

荷風追想』。荷風さんを追想する59人のかたの文章が集められている。

その中に於菟さんの『永井荷風さんと父』、小堀杏奴さんの『戦時中の荷風先生』、茉莉さんの『「フジキチン」ー 荷風の霧』がのっている。類さんの文章はのっていないが、茉莉さんの文章に登場している。それも不律(ふりつ)という名前にしていて、不律さんは亡くなった茉莉さんの弟であり、杏奴さん、類さんのお兄さんである。『荷風追想』に鷗外さんの5人の子供たちが登場したことになる。

於菟さんは、『荷風全集』の附録に書かれたもので、荷風さんの『日和下駄』の「崖」の章の一節に書かれている観潮楼の内部の様子が「情緒を最もよく表している」とし、「時を同じゅうし齢を異にし、しかも心と心とのぴったり合った二文人の出会いを描いた『日和下駄』」をしみじみ読み直してもらいたいとしている。

小堀杏奴さんはご夫婦で荷風さんを訪ねられ、交流があり、戦時中ゆえ品物を届けられたりした様子などが書かれている。これほど親しくされていたというのは初めて知り驚きであった。戦後も市川の菅野の住まいまで訪ねられたようである。

茉莉さんのは、小説となっている。主人公の私は弟の不律と浅草で映画を見たあとにレストラン「フジキチン」に入る。この店は新聞記者が永井荷風を見つけたという場所であった。店の内部の様子から荷風は「欧羅巴(ヨーロッパ)を思い出すんで、くるんだね。」と不律はいう。姉と弟は自分たちの世界に入り込み荷風の話をする。ここでの弟は不律の名をかぶせられた類さんである。

茉莉さんの弟であり類さんの兄である不律さんは1907年8月に生まれ次の年の2月には亡くなっているのである。半年という短い命であった。不律さんと茉莉さんは百日咳にかかり、この可愛い弟が亡くなった時彼女の容態も風前の灯状態であった。もしかすると茉莉さんも駄目かもしれないと一緒に弔うことになるかもという状況であったが奇跡的に茉莉さんは回復するのである。

不律という名前を登場させたのは、あの弟が生きていればこのように語り合ったかもしれないし、もっと違う話をしていただろうかとの想いがあったのかもしれない。他の兄弟とは違う特別の想いが時々生じていたような気がする。

類さん(不律)の状況を姉はみつめる。「不律は頭蓋を締めつけている、コンプレックスという鉱鉄(かね)の輪を、決して脱いではならない冠のように、頭に嵌(は)めていた。途って遣ろうと思う人があっても、除って遣ることが出来ない、それは神が嵌めた輪のように、みえた。自分自身だけの狭い、固い考えの中に縮んまっている為に不律は、人間に馴れない鳥のような眼をした、純朴な男のように、見えるのである。」的確に表現されている。

杏奴さんは、『晩年の父』を荷風さんに贈ったとき「鷗外を語るもののうち、大一等の書と存ぜられ候」との言葉をもらっている。そして対面するのである。

茉莉さんは終戦後、市川真間の荷風さんを訪ねている。自分の原稿を読んでもらうためである。原稿を差し出すや荷風さんの「笑顔は忽ち消えた。」市川真間時代の荷風さんは「他人への心持ちも、変っていたようだ。」茉莉さんは鴎外の子という特権を利用したわけではない。純粋に文学者荷風の眼で文章をみてもらいたかったのである。

真間時代の荷風は杏奴さんが接したころの荷風とは違う人であった。しかし茉莉さんは「荷風の文学が、鷗外なぞは遠く及ばぬ情緒の文学であることは、それらの欠点を帳消しにして、尚余るものであることも、私は知っている。」と荷風文学の魅力に対し変わることはなかった。これは茉莉さんの『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』に書かれているがこの著書が鷗外周辺を離れての上級の迷走路の糧でもある。

類さんの『鴎外の子供たち』(ちくま文庫)も手にすることができた。『森家の人びと 鷗外の末子の眼から』に載っていない文章があり、写真もあり、観潮楼の図面があってこれによって飛躍的に森家の人々の行動の立体化の助けとなってくれた。

写真の中に志げ夫人の写真があり、ちょっと衣装に不思議な気がした。この疑問は杏奴さんが編さんしている森鴎外『妻への手紙』でわかったのである。鷗外さんは妻に写真を送るようにと手紙に何回か書いている。志げ夫人は、花嫁衣裳を着て写したのを送ったことがありその写真であった。結婚の時写真を撮っておかなかったのでこの時撮ったのである。花嫁さんらしくないとして杏奴さんには結婚記念写真は当日撮っておきなさいと告げている。

妻への手紙』は鴎外さんが細やかに志げ夫人を気づかっている様子がうかがえる。志げ夫人の正直なところそこがいいのだと書いている。そのことで暴発しないことを気づかっている。詩や文学に興味が行くようにそれとなく誘いかけてもいるが、志げ夫人はそれには答えていないようである。すでに自分の実家の貸し家に暮らしていて、鷗外さんは茉莉さんの冬の洋服が千駄木から届くだろうとか、お金のことなど心配しないように気を使っている。鷗外さんの母が財布を握っているので、志げさんの苦労も想像出来る。

鷗外さんんを中心に回るいくつかの惑星はそれぞれの回転で様々な表情をみせてくれる。そこにはまり込むとこちらは迷走するしかないが、驚きと発見に楽しさも与えてもらうことになる。気が向けばそこから抜け出しまた入り込むのである。

』を読んで類さんの妻である美穂さんの生きる力に敬服し、あの茉莉さんを疎開先で面倒をみたということに驚愕したが、茉莉さんが『贅沢貧乏』のなかで志穂さんの様子を書かれていた。「弟の家内になった娘は八人家族の家で、母親の代理をやっていた娘である。家族八人だが、三日にあげず客があるから、食事は大抵十五六人前である。母親の方は専ら社交の方面を受持っていた。娘の方も社交に敏腕で、彼女は客があると、台所と客間とを往復し、台所では料理の腕を振るい、客間に入ると、社交の言葉と笑いの花を、ふりこぼした。」「弟の家内という人は自由学園の羽仁もと子式で薫育された、才媛(さいえん)である。」

疎開先ではこうなる。「百姓が舌を巻く位の畑仕事の腕を見せ、薄く柔らかな眉のある眉宇(びう)の間に、負けず嫌いの気性を青み走らせながら、遣(や)ったことのない和服の裁縫を、数学の計算のように割出して遣りおおせた。月が空の中でかちかちに凍っている夜、一人で何百個かの馬鈴薯(ばれいしょ)を土に埋めた。通りがかった知合いの工員が涙を催して手をかしたという、逸話の持主である。」やはりなあと思わせる。

茉莉さんは回転の加速をあげて、どこに飛んで行くかわからないかたである。『ベスト・オブ・ドッキリチャンネル』などは、ベットの上でずーっとテレビを見ていただけあってその感想というべきものはかなり鋭い針のような感触すらある。

ただ多種多様の範囲で見ているのには脱帽である。テレビでみた内容が説明され、あれっ、これは家城巳代治監督の青春映画ではないか。こちらも正確な題名を探す。『恋は緑の風の中』である。原田美枝子さんのデビュー作で原田さんがダントツに光っていたが、その少年少女たちの事ではなく、周囲のおっ嚊あ(おっかあ)たちのことなのである。母親たちのことである。大変立腹していてその一つの例にされたのである。

個人的にはどうして家城監督はこういう青春映画を撮られたのかわからなかったが、茉莉さんが見るとそこを突くのかとこちらの見どころの甘さを感じないでもないがそう立腹するほどの描き方でもないような気がする。

春琴抄』の山口百恵さんの春琴はほめている。笑わないからである。百恵さんが白い歯をだして笑うのは彼女を嫌う最大の原因としている。茉莉さんの基準は難しいのである。ほめていても、谷崎の小説の中の春琴ではなく、山口百恵の春琴である。それはわかる。

そんなわけで、突然の茉莉流の標識出現に右往左往されつつ笑い、いぶかしがり、喝采しつつ嬉々として迷走させてもらうのである。

そうそうヒッチコック映画に対しても興味深かったのですが、書いていたら際限がなくなりますので、一人密かに楽しみつつ2020年とお別れすることといたします。新しき善き年がむかってきてくれていることを祈って。

『類』(朝井まかて著)(4)

朝井まかてさんの『』のなかでは登場しないが、森類さんや森茉莉さんの作品には永井荷風さんの名前が登場する。そのことで頭を巡らした。

半日』(明治42年、1909年、鷗外47歳、杏奴誕生、茉莉6歳))、『妄想』(明治44年、1911年、鷗外49歳、類誕生)。その間の明治43年に志げ夫人の『あだ花』が出版され、鷗外さんは慶應大学文学部文学科の顧問となり永井荷風さんを教授に推挙したのである。

鷗外さんが亡くなったのが大正11年(1922年)、60歳であった。茉莉さんは杏奴さんが生まれるまでの7年が両親を独り占めし、15歳で結婚。パリにいる夫の元に兄の於菟さんと旅立ったので父の死には立ち会えなかった。杏奴さんが12歳、類さんが10歳であるからその年齢によって父に対する想いはそれぞれに違っていたこととおもわれる。

母の亡きあと茉莉さんと類さんは二人で一緒に暮らしている。志げ夫人の看病には二人に任せておくことが出来ないと出産前の小堀杏奴さんは頑張られた。茉莉さんと類さんはそれぞれの生活を犯すことなく行動するが、寄席や映画館などで顔を合わせ、お互いの感想などを打てば響く感じで交信しあった。茉莉さんは結婚したあとも出かけると銀座、上野、浅草と時間を忘れて行動している。そして浅草大好きであった。ただこれは戦前の浅草のようであるが。

森茉莉さんのエッセイ集『父の帽子』の中の『街の故郷』で故郷いえば生まれた千駄木附近になるがもう一つ第二の故郷があるとしている。「それは昭和10年頃の「浅草」と下谷神吉町にあったアパルトマンである。」部屋でごろごろして文章を書いていようが、一日本を読んでいようが、気が向けばなりふり構わずに散歩にでようが気楽で天国のようであったとしている。浅草人の気風がとても気にいっていた。しかし、戦争のため浅草と別れ類さん一家の疎開先へと移るのである。

戦後世田谷区のアパートに住んでいた頃そのアパルトマンの住人と肌が合わない様子が書かれているのが『気違いマリア』である。同じ格好をしていても全く異質の浅草族というのがあってそちらは、パリになじんだのと同じように越した日から浅草の人間になれたが、こちらときたらと気に食わないことだらけなのである。浅草はパリなのである。「要するに、浅草族は東京っ子であり、世田谷族は田舎者なのである。」

気違いマリア』の書きはじめが凄い。「マリアが父親の遺伝を受けたとしても、又母親の遺伝をうけたにしても、どこかに気違い的なところを持っていていい訳なのである。」で始まり父親と母親の変なところの紹介となり、だからそういうことなのであるとなる。

さらに永井荷風の気違いも遺伝し、宇野浩二の気違いが遺伝し、室生犀星の遺伝も引き受けているのである。永井荷風は彼が市川本八幡で死んだとき悪い脳細胞の悪い要素が風に乗って世田谷淡島まで飛んで来てマリアの頭にとりついたらしいのである。

茉莉さんは永井荷風さんの浅草とは違う独自の戦前の浅草に恋したのであるが、荷風さんの気違いが遺伝するのは当然としたのである。むしろ来い来いという感じである。

類さんの作品『細き川の流れ』のなかで、小説家を目指す主人公は奥さんから本気度が足りないと言われ言い争いとなる。そして荷風の名がでる。主人公は荷風は毎日出歩いてその先で小説の題材を産んで羨ましいと言ったらしく、奥さんはそのためにこづかいを渡したがそれによって書けた小説がないという。さらに「荷風だって出歩く電車賃は自分で稼いだ原稿料で好きな処へ行ったんだと思うの、出歩いた事が間接に創作に役立っていても元は頭から湧いたものよ。」と詰め寄るのである。

未発表の『或る男』の彼は、自虐的に自分の中の世間のあざけりを吐露しつつ浅草に行く。『彼奴とうとう浅草へ来やがった。恥知らず奴が赤い靴を履いて田原町を歩いている。馬鹿が、馬鹿者が、無能力者が、ウッフフ、女房と子供が四人もいるのに、耳の横に白髪が光っているのに』。しかし浅草は彼に作品となる題材をあたえてくれるところではなかった。

類さんは自分の身近な生活周辺で起こることを題材とする。生田の土地の所有権の問題発生。家主になるまでのアパート建設に問題発生。部屋を借りる人々の人間模様。診察をしてもらった医師の不当と思える起訴による裁判傍聴の記録。そして森家の兄弟の事などを題材とするのである。画家の熊谷守一さんにインタビューもしていました。

一度は絶縁しつつも最後まで交信し合った類さんは家族があるゆえに、茉莉さんのようには気違いの遺伝をもらうわけにはいかなかったのである。かつて楽をした分生活者として闘うことになるのである。

茉莉さんの鼻の化粧の事で絶縁したその鼻に対して茉莉さんは『気違いマリア』の最後に「その微かに紅く、高くなった面皰(にきび)の痕跡を、むしろよろこんでいた。決して若い時のように、薔薇色の粉白粉で隠そうという努力なぞはしないのである。」としめくくる。これは、室生犀星さんが自分の顔に強いコンプレックスを抱いていたが晩年は自分の雑誌に載った写真をほしがるようになり、父ものちに知的な自分の顔に自信をもったからである。気違いの遺伝もそう悪い方へとはいかないのである。

茉莉さんは『半日』というエッセイで、鷗外の『半日』に対し、ここに出てくる「玉」が成長し「博士」に対する哀しい訴えとして最後にきっちりしめている。「「公」と「私」との別は、どれ程悲しくてもつけなくてはなるまい。」そして『気違いマリア』の中では『妄想』に対しては、主人公が翁になった気分に浸っているとし、この翁に浸るために、子供たちには健康のために二週間日在に移住したらしいとしている。

半日』と『気違いマリア』では、同じ人が書いたのであろうかと思えるほどの飛び方である。そして日を経るごとに茉莉さんは少女のような妄想の世界に浸り込んでいく。

なぜ世田谷のこのアパートにいるのか。「(目下だけではなく、マリアはこの建物に永遠に住む覚悟でいる。今いる部屋でなくては小説が書けないと信じているからで、マリアは萩原葉子が自分のアパルトマンに来いと言った時もその理由で断った。富岡多恵子がそれを聴いて、葉子さんの誘いを断るとはさすがマリさんである、と言った)」なんともこのツーカーぶりが見事である。この交信の速さがなければ茉莉さんとは交信できないのである。

茉莉さんの最後の住家は経堂のアパートとなるが、そこで類さんは茉莉さんの交信が弱くなり、部屋ごと硝子の水槽の中に入れて水族館に預けたいとおもったのである。茉莉さんを下界から囲って夢の世界で浮遊させ自分はそれを眺めているだけでいいと感じたのである。

そうした類さんを投射して朝井まかてさんは、『半日』の父と母を日在の川に浮かべた船に乗せ、童謡の世界に浮かべている類さんを作りあげたわけである。と、こちらは受け取ったようなわけであります。

朝井まかてさんの『』から森類さんの作品を読み、さらに森茉莉さんの作品に再度触れて笑わせられ、類さんと茉莉さんのどこに行くのか解らない作品に心配になった小堀杏奴さんの不安も伝わってきて、広く楽しい時間を持つことが出来ました。好い時間でした。

『類』(朝井まかて著)(3)

半日』(森鴎外著)は森鷗外さん夫人・志げさんが姑を疎ましくおもっている様子が書かれている。鷗外夫人悪妻のレッテルを張られたような作品である。

鷗外さんは遺言で観潮楼は於菟さんと類さんに半分づつの所有権とし夫人には日在の別荘を残した。日在の別荘での様子は、日在の場面から始まる小堀杏奴さんの『晩年の父』からも想像出来る。志げ夫人は田舎での生活は嫌いであり砂浜を歩くということも好きではない。鷗外さんはお金が必要になれば売ればよいのだからと考えたのであろうか。この多少ミステリーな部分を『』で夏井まかてさんは類さんの想いに解決をさせるという形にしたのである。

この日在の別荘地を志げ夫人は類さんに残すのである。類さんはこの地を売ってしまうのであるが妻の志穂さんと相談して買いもどす。志穂さんの死後類さんは再婚しこの地で二人で暮らすことになる。小さなころ怒られてばかりであった母は、類さんのために川崎の生田に土地を買っておいてくれ、日在の地も残してくれたのである。類さんの生活力を心配していたのであろう。

鷗外さんの亡きあと森家は先妻との長男・於菟さんが本家ということになる。さらに決定的だったのが、類さんが書いた『森家の兄弟』が『世界』に載り続きが載る予定であったときに岩波書店から断られてしまう。原稿を読んだ杏奴さんが茉莉さんの鼻の化粧の様子の記述に茉莉さん共々抗議したのである。類さんはその部分は削除するからと提案するが拒否されてしまう。このことから杏奴さんと茉莉さんとは絶縁となってしまう。

茉莉さんとはその後和解するが、杏奴さんとは終生歩み寄ることはなかった。

そのようなこともあり杏奴さんは於菟さんの本家としての後押しをし、類さんがなるべく表にでないように望む。於菟さん夫婦が亡きあと、その子の真章(まくす)さんにも「あなたが森家の本家」と伝えている。それは、鷗外記念会常任理事に真章がなったと知った時類さんは真章さんと話す。真章さんは、杏奴さんから言われたことを伝える。あなたが森家の本家なのだから先祖の菩提を弔うことはもちろん記念会のことも森家の代表者として面倒みるようにと頼まれました。ただ祖父の想いでは杏奴さんと類さんにお願いします。類さんは納得するがただほかから知る前に一言先に伝えてほしかったと胸に納める。

類さんを無視してことが運んでしまっていることが何回かあるのだ。それは鷗外さん亡き後、志げ夫人を排除していく力と関係し、その関係が、杏奴さんと類さんの不和でさらに強まってしまったようにみえる。

類さんと杏奴さんの蜜月時代もあった。類さんと茉莉さんの蜜月時代もあった。それが壊れてしまう。それは、亡き鷗外の愛の独占であったと類さんは思う。

パッパが一番愛していたのはあたしで、パッパを一番愛していたのはあたしなのと杏奴さんも茉莉さんも確信している。茉莉さんは「茉莉文学という花に、しとどの露を宿らせた。」杏奴さんは、「小堀姓になっても鷗外のご息女の生霊が森家の息災を願って正面からも側面からも舵取りを見守っている。」杏奴さんは森家のことに対し余計なことは書いて欲しくないと思っていたのであろう。

その杏奴さんも母に対してはかなり厳しい表現をし「父と母とが仲の好いように感じられた記憶は私には殆ど見付からない。」とまで書いている。類さんも、最後の小説『贋の子』で母らしい馨の人物像を珍しい性格として描いている。

一番印象的な志げさんは、『半日』である。主人公を挟んでの母と妻の嫉妬に対し、主人公は一応母に肩をもち妻をなだめる。自分(鷗外)が書くことによって外からの内に向かって入られるよりも内から外に発したほうがいいと考えたのかもしれない。

妻を世間が悪く言っても鴎外さんには愛する家族が手の届くところにあり守ってやることもできるのである。そして老いた母も自分の優位を感じつつ残された人生を送らせたいのである。さらにこの頃鷗外さんは志げさんに小説を書かせている。残念ながら志げさんの作品は読んでいないのであるが、志げさんが書く行為によって何か感じてくれることを期待したのかもしれない。そして『妄想』が書かれる。

妄想』は、主人公が別荘で老いを感じ、そこからドイツに留学したころのことを回想して死についてなど様々に考えがめぐる。志げ夫人は、夫との年の差から現実的な不安を感じていたと思う。その思考する方向性の違いもそれぞれにもっともなことに思える。

類さんは小説『贋の子』の発表前に津和野の父の生家に再訪したことを随筆『武士の影』で書いている。その質素な家から森家の人々の生活を想像し、先妻も母もお嬢様育ちで誰も悪い人間ではないのに相克が起ったのは当然であると考える。ただ最終的に自分が森家の墓に入ることを拒否されそのことを『贋の子』という小説にしこれが最後の小説作品となっている。

類さんが森家本家から受けた森類外しで納得できない心の内を伝える。類さんは森家のその後をここまで書いたのだからここでお終いにしようと考えたのかもしれない。もし佐藤春夫さんが生きていて相談したなら小説はもっとお書きなさいと言われたように思う。

朝井まかてさんは、『硝子の水槽の中の茉莉』で「ベスト・エッセイ集」に選ばれ日在で類さんの妻、子供、孫がお祝いをしてくれるところで終らしている。『硝子の水槽の中の茉莉』の最後に、茉莉さんの葬儀には類さんが喪主であったが、三鷹の禅林寺での一周忌には本家の営む法事となって参列している。「当然なのにこれで本当の茉莉姉さんの一周忌になったと思った。」茉莉さんが森家のお墓に入れたということに類さんはきまりがついたと考えられたのかもしれない。パッパに愛された茉莉姉さんがパッパのそばにもどった。

類さんは日在からの海をみつめつつ、パッパと母の関係を思い起こす。父の『妄想』の作品が日在の風景から始まっていることから自分の記憶をたぐる。「母は一緒に砂浜に出たりしない。自然が嫌いであったのだ。海の見える書斎で父とお茶をのんだり、本を操る音に耳を澄ませながら団扇でも扇いでいたのだろう。」その時鷗外さんには老いが近寄っていたのである。

鷗外さんは、日在で誰にも邪魔されない家族の時間を大切にしたのであろう。子供たちには自然を、妻には森家周辺の騒音を避けさせて。類さんは、回答をえる。「父はこの景色を他の者に継がせなかった。ここだけは母に残したのである。今になって、その真意に触れている。」その真意に触れるきっかけに、月夜に父は別荘の爺やに夷隅川に小舟を浮かべさせたことがあり、「月明りの下で、類は父と母の横顔を見上げ」月の砂漠の王子様とお姫様にたとえているが、これは朝井まかてさんのプレゼントで、個人的には感傷的と感じた。

この真意によって、類さんは、自分の存在の確かさを手にしたのである。

外されて外されて行き着いた自分だけの父と母であり、その子供であった。

』の作品がなければ類さんのことや作品を読むことはなかってであろう。森茉莉さんが亡くなられた時、親戚は何をしていたのかという批判があったように記憶している。その時、茉莉さんの作品や編集者と喫茶店で会っている記事などから茉莉さん独特の世界観と生活感から違う暮らしを無理強いはできなかったであろうと想像していた。かすかな記憶から、その批判を受けたのが類さんだったのではという想像も浮かぶ。

類さんの書かれた物から感じるのは、正直な人であった。ある意味母・志げさんの性格を受け、書くことに対しては静かに写生を試みる父・鷗外との子供であった。