坂のある町・函館とシネマ

坂のある町・函館の出てくる映画

  • 点と線』(1958年) 小林恒夫監督・南弘、山形勲、高峰三枝子
  • ギターを持った渡り鳥』(1959年) 齊藤武一監督・小林明、浅丘ルリ子
  • 渡り鳥北へ帰る』(1962年) 齋藤武一監督・小林明、浅丘ルリ子
  • 夕陽の丘』(1964年) 松尾昭典監督・石原裕次郎、浅丘ルリ子
  • 赤いハンカチ』(1964年) 舛田利雄監督・石原裕次郎、浅丘ルリ子
  • 飢餓海峡』(1965年) 内田吐夢監督・三国連太郎、左幸子
  • 男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(1975年) 山田洋次監督・渥美清、浅丘ルリ子
  • 男はつらいよ 翔んでる寅次郎』(1979年) 山田洋次監督・渥美清、桃井かおり
  • 男はつらいよ 寅次郎かもめ歌』(1980年) 山田洋次監督・渥美清、伊藤蘭
  • 俺とあいつの物語』(1981年) 朝間義隆監督・武田鉄矢、伊藤蘭
  • 居酒屋兆治』(1983年) 降旗康男監督・高倉健、大原麗子
  • 新・喜びも悲しむも幾年月』(1986年) 木下恵介監督・加藤剛、大原麗子
  • テイク・イット・イージー』(1986年) 大森一樹監督・吉川晃司、名取裕子
  • キッチン』(1989年) 森田芳光監督・川原亜矢子、松田ケイジ
  • いつかギラギラする日』(1992年) 深作欣二監督・萩原健一
  • オートバイ少女』(1994年) あがた森魚監督・石堂夏央
  • 霧の子午線』(1996年) 出目昌伸監督・岩下志麻、吉永小百合
  • 風の歌が聞きたい』(1998年) 大林宣彦監督・天宮良、中江友里
  • キリコの風景』(1998年) 森田芳光監督・杉本啓太、小林聡美
  • パコダテ人』(2002年) 前田哲監督・宮崎あおい、大泉洋
  • 星に願いを』(2003年) 冨樫森監督・吉沢悠、竹内結子
  • 海猫』(2004年) 森田芳光監督・伊東美咲、佐藤浩市、中村トオル
  • Little DJ~小さな恋の物語』(2007年) 永田琴監督・神木隆之介、福田麻由子
  • 犬と私の10の約束』(2008年) 本木克英監督・田中麗奈、豊川悦司、高島礼子
  • 引き出しの中のラブレター』(2009年) 三城真一監督・ 常盤貴子、林遣都、八千草薫、仲代達也
  • つむじ風食堂の夜』(2009年) 吉田篤弘監督・八嶋智人、月船さらさ
  • わたし出すわ』(2009年) 森田芳光監督・小雪
  • 海炭市叙景』(2010年) 熊切和嘉監督・谷村美月、竹原ピストル、加瀬亮、南果歩、小林薫
  • ACACIA』(2012年) 辻仁成監督・アントニオ猪木、北村一輝、石田えり
  • そこのみにて光輝く』(2013年) 呉美保監督・綾野剛、池脇千鶴

函館がちらっとでも出てくる映画で観たのは30本であった。函館空港から函館市内方向に車で移動する風景、函館港に入る船、函館山など、それとなく通過する映画もある。

函館には、三月に航空会社の所有マイルが消滅してしまうものがあり、あわててどこかに行こうと思い立った。調べると函館がマイル数に合ったのである。函館にはツアーで一度訪れているが、函館の坂を歩きたいと思っていたので好都合であった。2泊3日、正確には半日、1日、一日の3分の2の昼間と2夜の夜の持ち時間である。

2夜が有効に使用でき、函館山の夜景、夜の八幡坂、夜の赤レンガ倉庫街、夜の七財橋、夜の『つむじ風食堂の夜』的雰囲気の街なみ、夜の路面電車などを歩き眼にすることができた。

江差まで行きたかったが、江差線が函館から木古内までしかない。なぜか途中で消えてしまうのである。北海道新幹線の開通日に江差線は消えてしまうのである。消えるまえに函館にいきたかった。悔しい。映画では、『男はつらいよ 寅次郎かもめ歌』で江差追分も聞けたのでそれで我慢する。

映画『キッチン』の原作を読み、吉本ばななさんの発想の転換に驚き自分は到底考え付かない人間構成で気に入ってしまった。人が癒される空間というのは人それぞれである。森田芳光監督の映画『キッチン』は不入りだったようであるが、私は函館の風景を架空の場所として使い映画は映画で違う楽しみ方ができ、森田監督の世界と思えた。

函館市生まれの作家・佐藤泰志さんの『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』、映画監督もされた辻仁成さんの『ACACIA アカシア』。お二人には「函館市文学館」でも知ることができる。もちろん石川啄木さんも。

江差には行けなかったが、大沼国定公園で大沼湖を自転車で一周する時間をとることができた。映画のロケ一ションとしても抜群の風景で、自分の眼からの自主映画である。大沼国定公園には、駒ヶ岳がよくにあう。

上記30本の映画のほかにまだあるようで、函館市いがいの周辺の市を加えるとさらに20本位ありそうである。今までにも観れない映画が2本あったので観れるのは10数本であろうか。観てからまた付け加えることとする。

函館ということで観たが、こういう映画もあったのかと全部楽しませてもらった。初めての監督からさらに作品を観たり、この監督のをもう少しと観た映画もあり駒ヶ岳のようにすそ野は広がっている。

 

でこぼこ東北の旅(4)『伊勢物語』

鹽竈神社(しおがまじんじゃ)。自筆では書けないような難しい漢字である。志波彦神社(しはひこじんじゃ)もならんでいる。裏のほうから入ったが、帰りは表参道の階段をおりる。段数が多いだけに下からながめる参道はすっとのびて美しい。

 

 

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鹽竈神社で、昔の塩を作っていたころの参考になるものはありませんかとたずね、御釜神社(おかまじんじゃ)を教えてもらう。

 

 

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御釜神社は鹽竈神社の末寺で、塩の作り方を教えた塩土老翁神(しおつちおじのかみ)が用いたといわれる四つの釜が残っているとのこと。この御釜神社では、「藻塩焼神事」が今もおこなわれている。このとき使う釜は鹽竈神社から運ばれる。

<藻刈神事>7月4日 ホンダワラといわれる海藻をかりとる。<水替神事>7月5日 神釜の海水をとりかえる。<藻塩焼神事>7月6日 製塩用釜の上に竹の棚をおき、その上にホンダワラをのせ、そこに海水を注ぎ、煮詰める。できあがった塩は見学者にもくばられるそうである。

社務所に申し出ると、100円で説明付き神釜をみせてもらえる。柵があるが野天である。四つの釜の水は干上がることもなければ、あふれることもなく、さらに地震の前には水がもっと澄んだ色になるそうである。塩釜の名の由来でもあり不可思議な世界にタイムスリップした感がある。

御釜神社に行く途中で、歩道に設置された碑を写真にとる外人さんにあう。日本語でかかれているのに読めるのであろうかと碑をみると、『伊勢物語』の一部である。不思議に思ってたずねると、オランダの方で、『伊勢物語』を研究されているとのことでさすが日本語もしっかりされている。このかたと会わなければ『伊勢物語』に遭遇せず素通りするところであった。

伊勢物語』の八十一段に、源融(みなもとのとおる)の屋敷の宴で身分の低い老人が  「塩竃にいつか来にけん朝なぎに釣りする舟はここによらなむ」 (いつのまに塩竃の浦にきたのであろうか、朝なぎの海に釣りする舟はみなここに寄ってきて趣を添えてほしいものだ。) と詠んだ。この老人は陸奥の国にいったことがあり、この邸の趣が素晴らしい塩釜とよく似ていることをたたえている。

源融さんは、『伊勢物語』の一段で<しのぶもじずり>の彼の詠んだ歌が登場する。ある男が奈良の春日の里で美しい姉妹に会い心みだれて歌を詠む。その男はしのぶずりの狩衣のすそを切ってそこに歌を書いた。 「かすが野の若紫のすり衣しのぶのみだれ限り知らず」 (春日野の若紫で染めたこのすり衣の模様の乱れには、限りがないのです。) 筆者はこの歌は源融の 「みちのくの忍ぶもぢずりだれゆえにみだれそめにし我ならなくに」 がもとにあると説明している。昨年の福島の旅とつながってしまった。 長野~松本~穂高~福島~山形(3) 

忘れないためにもうひとつ『伊勢物語』について加える。旧東海道歩の39番目の宿・知立(ちりゅう)からすこしはずれたところに、無量寿寺というかきつばたのお寺がある。朝雨なので歩きをやめ、そのお寺のかきつばたをめでることにしようと思っていたが、駅までの間に雨が止みやはり歩くことを優先した。少し残念でもあった。この時期に再び訪れられるかどうか。

三河八橋は、古くからのかきつばたの名勝地で、『伊勢物語』の九段にもでてきて、ある男(在原業平)が、<かきつばた>の五文字を入れて歌を詠んでいる。「ら衣もつつなれにしましあればるばる来ぬるびをしぞ思ふ」 (長年慣れ親しんできた妻が都にいるので、はるばるやって来たこの旅が身にしみて感じられることだ。)

根津美術館の国宝・尾形光琳<燕子花図(かきつばたず)>の原点である。

ある男は、都を出て東国に旅をするのであるが、どこへ行きつくかというとこの九段で、武蔵の国と下総の国の境の大きな川である隅田川にたどりつくのである。そして詠んだのが次の句である。 「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」(都鳥よ、お前がその名にそむかないならば、さあ尋ねよう、都にいる私の想う人は無事でいるだろうか、どうだろうかと、、、)

今回の『伊勢物語』へのつながりは驚くべき展開になった。オランダのかたのお蔭である。(歌の訳・中村真一郎)

松島は、瑞巌寺の本堂が平成21年から修復に入り、今年の4月から再拝観できるようになったということもあってか観光客が多かった。瑞巌寺は、真っ黒の甲冑に兜の三日月のお洒落さに見合う伊逹政宗さんらしい艶やかさである。宝物館の説明映像で、瑞巌寺の耐震のために、壁の中にプラステックのようなものが入れられていたのが印象的であった。比較的小さな会社が開発したようである。

円通院の厨子にはバラやトランプの模様がある。支倉常長さんが持ち帰った西洋文化を図案化したもので、西洋バラの絵としては日本最古のものというのが新情報であった。

 

 

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松島湾の風景は、人のいない雄島で静かに堪能させてもらった。暑くなるのを覚悟していたが幸いすごしやすく助かった。平安時代の人々の陸奥の国へのあこがれを実地体験できる旅ともなり、そうした展開は思いがけないところで出会うものである。

 

 

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でこぼこ東北の旅(3) 歌舞伎シネマ『阿弖流為』

五所川原の<立佞武多(たちねぷた)>は是非友人に見せたいと思っていたが、ことのほか友人もその豪快な全容に満足してくれた。あらためてその色づけの美しさと巨大でありながら細やかな色使いになぜかしみじみとした想いにとらわれてしまう。

陰陽師・安倍晴明の立佞武多もあり、歌舞伎の『陰陽師』をおもいだす。四月の歌舞伎の『幻想神空海』は、『陰陽師』の二番煎じの感がまぬがれず期待に応えてくれなかったことも浮かび上がる。私立探偵空海で、空海(染五郎)と橘逸勢(松也)の関係が、安倍清明(染五郎)と源博雅(勘九郎)とだぶり、『幻想神空海』のほうが衣装が地味で分が悪い。最後に舞台全面に曼荼羅(まんだら)がでてやっと<空海><密教>の色合いがでた。

<ねぷた>の由来はいくつかあり、坂上田村麻呂が大きな灯籠で敵をおびきだしたという一説もある。ただ田村麻呂は青森までは遠征しなかったようである。

今回は歴史館「布嘉屋(ぬのかや)」にもたちよる。無人の時にあたってしまい拍子抜けしてしまったが、<布嘉>とは豪商の佐々木家に婿養子となった嘉太郎さんが、分家して大地主となり本家の「布屋」の屋号をもらい布屋嘉太郎が「布嘉」とよばれるようになり、斜陽館を建てた棟梁・堀江佐吉さんが請け負った布嘉御殿の模型が展示されていた。斜陽館よりも外見的にも手の込んだ建物であった。

大地主。太宰治さんの心の鬱屈の原因でもあった。太宰さんの父はお金を貸しそれが返せないと担保の土地を手に入れて広大な土地の所有者となっていったのである。

五能線のリゾートしらかみ号は気にしていなかったが、乗る列車によって列車内のイベントがあったりなかったりで、さらに<千畳敷>で降りて見学する時間のとるものとそのまま通過する列車があったのである。幸い見学する時間のある列車で友人のためにホッとする。風が強く、満ち潮で岩にぶつかる波しぶきが激しく、海の違う顔がみえた。この波が押し寄せてきたらと想像すると恐ろしくなるわねと友人とうなずき合う。

次の日、仙台から塩竈神社にいくため仙石線にのる。途中<多賀城駅>があり、多賀城があるのかとそれとなく記憶にのこった。

多賀城跡|観る|多賀城市観光協会 (tagakan.jp)

帰ってから歌舞伎シネマ『阿弖流為(アテルイ)』を観ていたらでてきた。<多賀城>。もう一つ先にでてきたのが<いさわ城>。調べたら<胆沢城>である。歌舞伎で観たときは気がつかなかった。

胆沢城跡/奥州市公式ホームページ (city.oshu.iwate.jp)

多賀城は平安時代、蝦夷(えみし)の指導者・アテルイを降伏させた田村麻呂が築いた城柵である。

多賀城にあった陸奥の軍政の拠点の鎮守府をのちに胆沢城に移している。そのことからも田村麻呂は岩手までで、青森には行っていないであろう。ただ<アテルイ>には<ねぶた><ねぷた>の灯りがよく似あっている。

胆沢城は東北本線の水沢駅からバスのようである。水沢駅から盛岡駅まで早朝一本だけ列車の<快速アテルイ号>が走っている。

 

歌舞伎シネマ『歌舞伎NEKT 阿弖流為<アテルイ>

染五郎さんが少年時代に、アテルイの処刑に田村麻呂が涙したという学習漫画から二人の関係を不思議に想われたどり着いたのが、『歌舞伎NEXT 阿弖流為<アテルイ>』である。かなりの時空を経て舞台化したわけである。そして映像化となった。

こと細かに鑑賞させてもらった。カメラを何台使ったのであろうか。ここという場面の台詞では役者さんたちの顔がアップとなり表情がよくわかる。そちらに気をとられて、舞台を観た時のアテルイと田村麻呂の敵でありながらもお互いに惚れこむ二人の関係が、役者さんが近すぎて伝わり方の波長が少しずれてしまった。観賞の難しいところである。ただ圧倒的な迫力で格好よすぎである。太刀や剣の使い方にスピード感があり、止まっていう台詞がキザでも許せてしまう。

最初から観た時の感覚がもどり、そうでしたそうでした。今更ながら、勘九郎さんの田村麻呂はだまされやすいおひとじゃ。裏をよみなさいよ。七之助さんの立烏帽子、動きにつれて衣装のすそがひるがえり、アテルイ、田村麻呂の関係に視覚的にも風をおこしている。市村橘太郎さん、澤村宗之助さん、大谷廣太郎さん、中村鶴松さんらもしっかりチェックできました。

この場面はこうした表情でと撮る映画とは違う映像なのに、しっかり眼が演技しつづけている。それでいながら身体はばしっときまる。これを昼夜二回演られたのかとおもうと、考えただけ見ているほうがが酸素吸入器が必要となりそうである。

舞台映像として、複眼で楽しめた。

作・中島かずき/演出・いのうえひでのり(劇団☆新感線)

新橋演舞場 『阿弖流為(あてるい)』

 

続き →  2016年7月8日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

でこぼこ東北の旅(2) 映画『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』

旅の持ち時間の関係から、別行動となった友人達は、弘南鉄道で黒石へ行く。津軽フリーパスという弘前周辺の二日間乗り放題の切符があり、これは行動範囲から検討するとお得な切符である。帰ってからの友人の報告によると、黒石はガイドの説明もあり酒蔵見学もでき半日コースとして楽しめたようである。

こちらは、五能線に乗り秋田を通り塩釜・松島へ行く予定なので、時間まで五所川原散策とする。五能線も五所川原も二度目であるが、初めての友人にあわせる。五所川原には太宰さんを可愛がってくれたおばさんのきゑさんが住んでいた家があり、この家は大火で焼け、蔵が残りそこで暮らしていたことがあり、太宰さんもその蔵を訪れている。その蔵が解体再生されて、「思い出の蔵」として小さな資料館になっていた。 青森五所川原の町 

 

 

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資料館に角樽(つのたる)が展示されており、きゑさんの娘さんの結婚の時のもので、金木の津島家から分家とある。意味がわからず係りのかたにたずねる。太宰さんの叔母のきゑさんは金木の津島家に娘さんたちと一緒に暮らしていたが、娘のリエさんに養子をむかえ五所川原に分家したのである。養子さんが歯医者で歯科医院を開業し、現在も人気の歯科医院とのことである。叔母のきゑさんが津島の名を残したわけである。

そんな話しから、太宰さんの場合も津島の名前は女性によって残されているという印象が強い。そして小説家太宰治さんは、娘さんの小説家津島祐子さんによって乗り越えられたと以前から個人的に思っていた。津島祐子さんとは小説家と言われる前に小さな文芸誌で作品に偶然出会った。この人は面白いと思った後で太宰さんの娘さんと知る。その後小説家として名前がでるようになる。

作家津島祐子さんは残念なことに今年二月に亡くなられてしまわれた。内面的に太宰さんに負けないだけの闘いをされて小説と向き合われていたようにおもえる。ここでも津島家は女性によって突き進んでいく。

友人も私も太宰さんの生き方には、三人の女性、小山初代さん、田部シメ子さん、山崎富栄さんとの関係から懐疑的な気持ちがある。小説家太宰治の名のもとに三人の女性が不当な扱いを受けているようにおもわれるのである。そのことを友人とふたり、かなり太宰さんを糾弾する。係りのかたも聞こえていたであろうから困ったことであろう。糾弾したとしても、太宰さんの血を授かった太田治子さんも、ご自分の道をしっかり歩まれているので、太宰さんの亡くなったときとは事情が違ってきている。

最後は係りの方も加わり、映画『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』のサチさんは素晴らしい女性で、あのような女性はいないという結論になった。太宰さんの作品をうまく組み合わせ理想の女性像をつくっている。なるほどこういう女性像をつくりあげれるのかと、その脚色と監督と俳優の組み合わせと映画の力に感嘆したのである。

映画『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』(2009年)

常識では推し量ることのできない作家・大谷(浅野忠信)の妻・佐知(松たか子)が、世の中から糾弾されないようにとった行動。居酒屋からお金を盗んだ夫を警察に突き出されるときに妻はどう行動したか。他の女性と心中未遂事件を起こし、殺人未遂容疑の疑いで警察に拘束されてしまう。そのときとった妻の行動は。夫が釈放されて帰ってきたときの妻の行動は、夫の食べている桜桃を一緒に食べる。そして発した言葉とは。

この映画を観たとき原作は忘れていたので、佐知さんの行動がミステリーのように想像外で新鮮で賛辞を送った。

<桜桃>は、『桜桃』にでてくるが、「子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶであろう。」と思いつつひとりで食べ「子供よりも親が大事。」とつぶやく。

<タンポポ>は、『葉桜と魔笛』のなかの手紙の一節にある。「タンポポの花一輪の贈りものでも、決して恥じずに差し出すのが最も勇気ある男らしい態度であると信じます。」

ヴィヨンの妻は、夫と桜桃をたべ、タンポポ一輪受けとったのであろうか。こういうつまらないつながりなど考えさせない内容の映画であるのでご安心を。原作からこうもっていくのかと、うなってしまった。

監督・根岸吉太郎/原作・太宰治/脚本・田中陽造/出演・松たか子、浅野忠信、伊武雅刀、室井滋、広末涼子、妻夫木聡、堤真一

 

続き →  2016年7月5日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

でこぼこ東北の旅(1)

三月末に函館へ旅をした時の帰り、函館空港にいくバスの乗り場で「フェリー乗り場に行きますが」とバスの運転手さんに言われる。「空港にいきます。青森までのフェリー今もあるのですか。」「ありますよ。」

その言葉から、今度は友人達と函館へフェリーで集合と思い立ち、帰ってから連絡したところ即連絡した四人が参加である。

ところがきちんと調べていなかったので、検討したところフェリーは時間的に無理であった。急遽弘前集合となる。まだまだと思っているうちに旅の日となり、五人集まれるのは奇跡かもという予想をこえて無事実現したのである。

ただし、一緒の行動は、一泊二日、二泊三日、三泊四日とでこぼこになってしまったが、とにかく五人で乾杯できたことは旅の神様に感謝である。

弘前はお城などはいっても、お城の周辺を見ていない。寺町があったり、驚いたことには洋館も多い。距離的に見学しやすい<青森銀行><旧東奧義塾外人教師館><旧市立図書館><藤田記念庭園>を散策する。<旧東奥義塾外人教師館>の裏側には、弘前の洋館のミニチュアがならんでいてこれがまた建物の全体像がわかり親しみがわく。

最勝院

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五重塔

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旧弘前市立図書館

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洋館のミニチュア

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この一画には、<市立観光館>があり中には「ねぷたまつり」の山車が展示されていて係りの人が説明してくれる。<弘前市立郷土文学館>には「石坂洋次郎記念館」があり、作品が多数映画化されており映画ポスターもならんでいる。

小説の『若い人』は、函館の「遺愛女学校」をモデルとしていて、映画では函館ではなく長崎をロケ地としているようである。函館の「遺愛学院本部」はピンクの可愛らしい建物で外からのぞかせてもらったが、劇団民藝の『真夜中の太陽』はこの学園を舞台としている。

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石坂洋次郎さんの作品は読みやすいとされているが、『若い人』を読み始め途中でギブアップしてしまう。古い文庫本で字が小さく、描写がこまかく、男性教師・間崎からみた登場人物にたいしても一人一人を観察し感じた気持もかかれ、簡単におわるとおもっていたのがくつがえされてしまった。

『若い人』では、女学生が間崎も引率教員のひとりとなり東京に修学旅行にくるところがあり、宿に戻らない生徒がでて、原作と映画ではその生徒がちがっている。映画では、吉永小百合さん演じるところの江波恵子である。間崎が石原裕次郎さんで、宿から恵子を捜しに行く場面でニコライ堂が映る。御茶ノ水である。明治大学で『映画のなかの御茶ノ水』の著者・中村実男さんの無料の公開講座があり、その場面を写してくれた。そのあとDVDも見直したのであるが、江波恵子はむずかしい役である。そのことを吉永さんは『夢一夜』のなかでかかれている。ほかに吉永さんが御茶ノ水に映画の中で立たれているのは『伊豆の踊子』である。

劇団民芸には『満天の桜』の舞台があり、津軽藩二代藩主信枚に嫁いだ家康の養女・満天姫の話である。 三越劇場 『満天の桜』 こちらの探索は止ったままである。

弘前市内をみてまわるには半日では足りない。100円バスが15分おきにでているのでかなりかつてより便利になった。

次の日は金木である。私は再訪である。今回は津軽鉄道の金木駅から一つ先の芦野公園駅まで行き、そこから金木に歩いてもどる。芦野公園はひっそりとしていて桜の時期には美しいであろうと思われる桜並木がつづく。「津軽三味線発祥の地」の碑、二重マント姿の「太宰治像」がある。芦野湖(藤枝溜池)にかかる桜松橋のつり橋は通行どめであった。

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金木では定番の<津軽三味線会館>で生演奏を聴き、<斜陽館>見学である。今回はそこから駅に向かう途中にある<太宰治疎開の家>(旧津島家新座敷)での時間をとる。前回時間がなく説明を超スピードにしてもらったのである。

ここはもともとは、津島家の長男文治さんの新婚の離れ座敷としてつくられたもので、太宰さん夫婦が戦中焼け出され津島家に疎開したとき住んだのである。座敷といっても様式を含めて5部屋あり、津島家から見放された太宰さんが、疎開ということで津島家に守られた時期である。<津島家>に複雑な想いをもっていた太宰さんにとってそれはどんな想いを心にのこしたのか判断の難しいところであるが、妻にも胸をはれる優遇を受けたこととおもわれる。

この時期に太宰さんが心穏やかに多くの作品(23作品)を残したことなどを、館長さんが作品を紹介しつつわかりやすく説明してくれる。かつて太宰さんが、兄の文治さんのお嫁さんをのぞきにきた座敷でもあり、病床の母を見舞った離れ座敷でもある。今この座敷は津島家の<斜陽館>から分断され移動されて残されている。長男の文治さんの死後、津島家の斜陽がおとずれるのである。太宰さんは故郷で終戦をむかえ、ふたたび東京へもどることとなる。

弘前、五所川原、金木には豪商がいて、その住いは贅沢で大きい。太宰さんの父・源右衛門さんは津島家に養子に入っており、津島家をさらに大きくしたひとである。実家も裕福で、津島家の屋敷も自分の実家に模して造られたそうである。津島家は女系で持ちこたえる傾向がある。

続き →  2016年7月2日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

青梅から 映画『トキワ荘の青春』

奥多摩への途中駅、青梅駅は降りたことがなかった。映画『雪女』から、青梅は映画看板の街でもあるので訪れてみようとおもいたった。塩船観音寺は以前から行きたいとおもっていたので調べると、バスは本数が少ないようである。東青梅駅から15分のところに吹上しょうぶ公園があり、そこから20~30分で塩船観音寺まで行けそうなので、青梅から塩船観音寺までの行程とする。

青梅駅の駅舎は三階建ての四角いビルである。山手線の原宿駅が建て替えられるとの情報から、『関東の各駅途中下車ー小さな旅で訪ねたい、いい駅100』(原口隆行著)をさらさら読んだ中に青梅駅もあった。

なぜ三階建ての四角いビルかというと、大正に建てられたその時はJRではなく青梅電気鉄道でその本社が駅のビルとなったからである。それにしても、今の原宿駅がなくなってしまうのは残念である。

青梅駅のホームから入る地下通路に映画看板が並ぶ。駅のそばの観光案内所でまず地図と<雪女の碑>までの経路と青梅の見どころを教えてもらう。

行って歩いてわかったことであるが、青梅駅から映画の看板をながめつつ、<雪女の碑>のある調布橋をわったて、釜の淵公園を散策して多摩川の自然をながめつつ歩いて青梅駅にもどるのがよさそうだということである。

今回は、吹上しょうぶ公園と岩船観音寺を入れていたので調布橋を渡ってUターンしてしまった。調布橋からの両岸を緑におおわれた多摩川はどんよりした梅雨空を払拭する美しさで、大きな街道を消し去って、雪をふらせれば雪女の伝説のうまれた土地と思えてくる。正式には「雪おんな縁の地」の碑である。

 

 

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裏に小泉八雲さんの写真と『怪談』の序文がある。

この「雪おんな」という奇妙な物語は、武蔵の国、西多摩郡、調布村のある百姓が、その土地に伝わる古い言い伝えとして私に語ってくれたものである。

 

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青梅は青梅街道の宿場町で、商店街が旧青梅街道にあり、その建物に映画の看板がすえられている。映画の看板はこの青梅以外ではこれだけの数をみることはできないであろう

昭和を楽しむ三館めぐりというのがあって「昭和レトロ商品博物館」「青梅赤塚不二夫記念館」「昭和幻灯館」がある。

昭和レトロ商品館」には、映画看板絵師・久保板観さんの紹介もある。二階に「雪おんなの部屋」がある。小泉八雲さんの『怪談』序文からの青梅市との関連を展示説明している。

 

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青梅赤塚不二夫記念館」で、昭和31年5月頃のトキワ荘二階の漫画家たちの上から見た部屋のふかん図と赤塚さんの部屋の様子から映画『トキワ荘の青春』をみたくなった。<トキワ荘>というのは、東京都豊島区にあった漫画家たちが住んだアパートである。映画『喜劇役者たち 九八(クーパー)とゲイブル』(瀬川昌治監督、井上ひさし原作、愛川欣也とタモリコンビ)のポスターがあり、こんな映画もあったのかとしばしながめる。

 

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昭和幻灯館」は、小さな灯りのジオラマである。そこで売っていたスターのプロマイドの中に十二代目團十郎さんのプロマイドがあった。新之助さんか海老蔵さん時代であろう。お若い。

青梅の街はそのほか、古い建物やお寺もあり、青梅鉄道公園なるものもあるので、人によって楽しみかたがまだまだありそうである。

青梅駅から東青梅駅に移動し、「吹上しょうぶ公園」で多種類のしょうぶの花をめで、塩船観音寺にむかう。

 

 

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裏からの道でなかなか風情ある道も通った。

 

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塩船観音寺はツツジで有名なお寺であるが、時節がらアジサイであった。仁王門も風格があり、十一面千手観本菩薩も拝観でき、本堂の右側がアジサイ園ということでアジサイを見つつお寺の裏側にまわり、登って上から本堂をながめると、一面まあるく刈り込まれたツツジの緑色の玉が見事であった。これは、ツツジの時期は混みそうである。

 

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帰りは、塩船観音寺前からバスで川辺駅にむかう。このバス、土日は一時間に一本か二本である。

映画『トキワ荘の青春

この映画以前見始めたが気分が乘らずやめてしまったことがある。今回は、じっくり味わえた。

漫画家の寺田ヒロオさんが主人公で、手塚治虫さんがトキワ荘を去ってから、この寺田さんが、つぎつぎ引っ越してくる若き漫画家のリーダーとして均衡をとっていくのである。寺田さんはマンガの絵をみるとこの人だったのかとわかる。赤塚不二夫さんも重要な位置をしめ、記念館でみた、机が買えないのでマンガ本を支えに板を置きその一方を窓の敷居にくぎで打ち付けて固定させ机にしていた。その板がなにかの拍子にとんでもないことになり、赤塚さんらしい場面もある。

売れなくて悲喜こもごもの葛藤の時代であろうが、市川準監督はあくまでも真摯に漫画に向かう青年たちを寺田さんの心棒に合わせ、静かにふっと暗転にしてすすませる。それがかえって効果的である。次第に世の中に認められ、認められる漫画を模索する方向へといき、そうした中で寺田さんは、自分の漫画を捨てることを拒みつつトキワ荘を去って行き、トキワ荘の青春時代の映画は閉じられる。

当時の写真や昭和歌謡曲を入れつつ、そのなかでひたすら時代の寵児となっていく以前の若き漫画家の姿を、商業主義の編集者のつきまとう動きで明暗を色づけしながら、本木雅弘さん演じる寺田さんを通して映像で語る市川準監督である。寺田さんが黙ってバットを振る空気の振動音が言葉よりも深い。現在の個性派俳優さんが多数でていて押さえた演技も見ものであり、子供達を喜ばせていた漫画がその読者層の年齢をあげていく過程をみているようでもあった。

青梅はやはり映画好きを刺激してくれる街であった。

監督・市川準/脚本・市川準、鈴木秀行、森川幸治

出演/寺田ヒロオ(本木雅弘)寺田の兄(時任三郎)赤塚不二夫(大森嘉之)安孫子素雄(鈴木卓爾)藤本弘(阿部サダヲ)藤本の母(桃井かおり)石森章太郎(さとうこうじ)石森の姉(阿部聡子)手塚治虫(北村想)森安直哉(古田新太)鈴木伸一(生瀬勝久)水野英子(松梨智子)つのだじろう(翁華栄)つげ義春(土屋良太)棚下照生(柳ユーレイ)、学童社関係(原一夫、向井潤一、広岡由里子)娼婦(内田春菊)、編集者(きたろう)

 

 

旧東海道・舞坂宿・新居宿・白須賀宿から二川宿(2)

旧東海道にもどり新居宿を通り国道1号にぶつかり西に曲がると、源頼朝が茶の湯につかったといわれる<風炉の井>。国道1号から旧東海道にはいると、室町将軍・足利義教(あしかがよしのり)が紅葉をめでたといわれる<紅葉寺跡>。

さらに西に進むと元町(元宿)である。ここに白須賀宿があったのであるが、1707年(309年まえ)の地震による大津波により潮見坂の上に白須賀宿は移されるのである。

潮見坂>は西国から江戸への道程で、初めて太平洋と富士山がみえる景勝地とされている。大海原はみえたが富士山はみえなかった。

潮見坂の上に無料休憩所をかねた展示館「おんやど白須賀」がある。ここで昼食である。

食事処がないので、朝、駅弁を買ってリュックにいれてきた。普通の幕の内の駅弁である。深く考えもせず、リュックにたてに入れたのに弁当の中身がずれていなかった。途中、駅弁のことなど気にもかけずゆさゆさと歩いてきたのに、横にして持ち歩いたようにそのままの状態であった。日本の駅弁を見直してしまった。

おんやど白須賀」の展示室にある和紙でつくられた、潮見坂をいきかう旅人を配置したジオラマに感心した。旅人は小さいのであるがさらに細かいところまでよく表現されていて、男性の旅人のかぶっている手ぬぐいのかぶりかたが全部違えてあったりする。あれあれなどと次々と発見があった。

歌舞伎の写真もあった。説明によると地元のかたがたでの公演のようであるが、「忠臣蔵外伝 東海道白須賀宿の場」とある。

元禄8年に浅野内匠頭と吉良上野介が白須賀宿の本陣に宿泊したという史実より白須賀を舞台にした脚本を「湖西歌舞伎保存会」と市川升十郎氏により書かれたとある。「赤穂の塩」「吉良の塩」「潮見坂」と塩づくめでまとめられ、白須賀に関する人物や名物もでてくるとのこと。

内容は「時は元禄13年、白須賀本陣に浅野内匠頭が宿泊、吉良上野介は参勤交代の途上急に腰痛になり白須賀に泊まることに、そこで塩づくりの秘伝を聞く良い機会と浅野を訪ねたが話は・・・・」で、その後、潮見坂を早飛脚が通り江戸城での刃傷が知れ渡るということらしい。

原因として塩が関係していたということを聞いたことがあるが、それと白須賀を組み合わせたようで、地元ならではの脚本化である。

ゆっくり食事、休憩をさせてもらい歩きはじめると潮見坂公園跡がある。徳川家康がここに茶室を作り、武田勝頼を破って尾張に帰る織田信長をもてなしたということである。明治天皇も行幸のさいここで休憩されている。海のみえる位置にテーブルとベンチがあり、休憩地としては最適である。そばに中学校があり、何かのときは避難所となるのであろう。

本陣や脇本陣はのこってはいないが、道の両側に火防樹のマキがのこっている。津波をさけるため坂の上に移ったが、冬の西風で火事の回数が多く、火事の広がるのをくいとめるために土塁の上に植えられる。昔はどこの宿場でも植えられていたようで、静岡でのこっているのはここだけである。静岡県には53宿のうち22宿あり、そのなかでのこっているのであるから希少価値である。

いろいろな災害を経験し、それを防ぐ方法を江戸時代のひとびとも一生懸命考えたのである。

わたしたちも無事坂をこえることができほっとしたのであるが、境川の境橋をこえ三河国の豊橋にはいり二川宿で押せ押せの行程となった。

交通の便のない白須賀宿が頭にあり、二川宿は小さい宿場なので簡単に考えていたが、江戸時代は小さくても現代のみどころとなると違ってくるのである。

二川宿 < 本陣・旅館・商家の3か所を見学できる日本唯一の宿場町 > とある。

商家「駒屋」に寄り、カフェもあるので一服とおもったら、次の本陣のほうが大きくて見る時間がかかると教えられる。5時までなので見学をして一服はやめる。米ジュースとやらが呑みたかった。商家は主屋があり奥に奥座敷がありさらに奥に土蔵があり奥へ奥へと進み最後に蔵があるという細長いつくりである。

二川宿資料館には、本陣と旅籠屋「清明屋」が移築され、さらに資料館もありたっぷりと江戸を味わうことができる。二川宿も1707年と1854年の大地震には大きな被害があり、その間4回の大火にみまわれている。1863年には14代将軍家茂が上洛のため、1865年には長州征伐のためこの二川宿で休憩している。江戸幕府の終焉のあしおとも聞いていたわけである。

関所、旅籠、商家、東海道のもろもろのことに興味があるなら、JR東海道線の新居町駅と二川駅で下車して見学すると歩かないで江戸時代の旅をおもいえがけるであろう。ワークシートがそれぞれあって、関所、高札に書かれていること、江戸時代の旅の心得、宿場の人口、本陣の数、旅籠の数などきちんと整理されている。

軽くみていた二川宿で、小気味よく押さえこまれてしまった。

 

旧東海道・舞坂宿・新居宿・白須賀宿(1)

江戸より30番目の舞坂宿から新居宿そして白須賀宿と続く。白須賀宿は、江戸時代前からの地震のあとを残している。熊本地震の前に歩いたのでその時は、遠い昔の地震のこととの印象があったが、熊本地震後は、日本の地下活動と地上の時間間隔が重なりあう時期ということを強く実感することとなった。

JR東海道線の舞坂駅から南に松並木があり旧東海道にでる。見付け、常夜灯、一里塚跡をすぎると「旧脇本陣の茗荷屋」が復元されて見学できる。

実際には、旧東海道歩き3日目の雨の日にJR高塚駅から舞坂宿を通り浜名湖の国道1号を歩きJR新居駅までとしたのである。国道1号を歩くため、地図をみる回数が少なくてすむからである。雨の日地図を見つつ歩くのは大変である。

旧脇本陣茗荷屋」に着いたときは、ポンチョに雨のしずくがたまっていた。脇本陣としては旧東海道でただひとつ残されていたもので、書院棟を解体、修理して復元したものである。舞坂の本陣二つは跡だけの標識である。係りの女性のかたが、浜名湖の今切(いまぎれ)のことを説明してくれた。

浜名湖は湖の南側が陸つながりだったのである。1499年(517年まえ)の大地震でその陸の部分が切れ、淡水湖だった浜名湖に海水が流れこむ。そして、江戸時代に整備され新居宿までは船で渡ることとなる。船がないので私たちは国道1号線をあるくわけである。浜名湖は風が強いが今日はおだやかだといわれる。なんとか傘をさせる状態なので助かる。

湖岸には当時の船着き場「北雁木跡(きたがんぎ)」の石碑がある。雁木というのは階段状になっている船着き場のことで、舞坂宿には3つの渡船場があり、「北雁木」は大名や幕府役人用、真ん中は「本雁木」とよばれ旅人用、南は荷物の積み下ろしに使ったとある。

赤い弁天橋をわたると道は国道1号線に合流し車道とは分れた歩道があるので雨の中でも歩きやすい。湖の南をみると今切口がみえる。浜名バイパスの浜名大橋がかかり切れたところの橋脚がしっかりと太くなっている。JR弁天島駅のまえを通過しそこからJR新居町駅までで終了し食事とする。

新居町駅から新居宿、そして白須賀宿は路線バスがなくなっているので二川宿まで一日で行けるように、晴れる2日目をあてた。

新居宿は船着き場に新居関所がある。今切関所とも呼ばれていたようである。徳川家康が天下統一をしたのが1600年である。新居に関所がつくられたのも1600年(416年まえ)で、その後地震や津波で移転をくりかえし、現在の位置に落ち着いたのは1708年(308年まえ)で、1854年(160年まえ)に大地震があり1855年から5年かけて建て替えられた関所が現在ものこっている建物である。解体修理され全国でただひとつのこっている関所である。渡船場跡も再建され、新居関所資料館もある。

さらに、近くには紀州藩の御用宿で一般客も利用した「紀伊國屋」も資料館として公開しており、見どころが多い。この建物は明治に火事で焼失し江戸後期の旅籠の様式をのこして建て替えられ昭和30年代に廃業する。「旅籠紀伊國屋」をでるとき係りのかたが、この建物の裏を少しいくともうひとつ古い建物があるので無料ですから時間があったらみていってくださいといわれる。

元芸者置屋「小松楼」(小松楼まちづくり交流館)。ここがまたおもしろかった。新居関所は、明治でお役目ごめんであり、そのあと小学校や役場として使われる。この南側にあたる地域は明治末から昭和初期まで歓楽街としてにぎわっていた。芸者置屋兼小料理屋をしをしていた「小松楼」が残って空き家だったのを、有志がはたらきかけ国の有形文化財に指定され公開にいたったのである。

ふすまの下張りにお客の勘定書きなどが貼られていて、この地域の人たちがそれをみて、遊び人だと聞いていたがやはりそうだったのかと、縁続きのひとの名を証拠としてみつけたりするそうである。ここのご主人の商売人としての顔は、芸者さんがお客の座敷にはいる北側の廊下にあった。そこは表とは違う少しささくれだったすき間のある廊下であった。客にみえるところとみえないところの差がはっきりしていた。こんなに差があるのをみるのは初めてである。

長唄の師匠をしていたご主人もいて、その娘さんが、長唄の本を切りとり、住まいの部屋のふすまにおもしろく張りつけてあった。老松の唄などもある。当時の芸者さんたちの写真もあった。戦後は数年下宿屋としてもつかわれたらしい。

江戸から明治、大正、昭和と時代の変化に対応してきた新居宿の歴史が想像できる。

旧東海道の話しから、「小松楼まちづくり交流館」の係りのかたが、本を引き出しからだして見せてくれる。静岡県の東海道のマップ「さすが静岡東海道」で、パソコンで検索していて見つけたマップである。静岡県の観光課でだしていてそれを頼まれてつくられたかたであった。本になっているとは知らず、マップをダウンロードして使わせてもらっていた。それも三島から白須賀まであるのを知らず、小夜の中山峠から使わせてもっらていたが残念ながら白須賀でお終いである。本は品切れだそうである。

時々歩かれて、直したい箇所があるといわれる。わたしたちも、箱根から三島への工事中でとぎれていた旧東海道が気になっていたが、あれは三島大橋の工事で三島大橋ができてなくなってしまったとのこと。近頃旅の広告で目にする観光名所である。そうかあの巨大なコンクリートの柱は三島大橋につづくためだったのである。もうあそこは国道を歩くしかないのである。

旧東海道を歩く人の数はしれているし、経済効果はうすいですからね。

「小松楼」を残すためにも尽力され、新居宿が充実しているのは、こうした人々の隠れた力があってこそである。今書きつつ、税金のがれをするお金持ちや、公費と私費の区別のない人たちのあさましさをフッーとふきとばす。

すすめてくれた「旅籠紀伊國屋」の係りのひとにもお礼を言って白須賀宿にむかう。

旧東海道五十三次・どまん中<袋井宿>から<浜松宿>

東海道五十三次の真ん中の宿場が27番目の<袋井宿>である。やっとどまん中の宿場へたどり着き、<浜松宿>を通過することができた。

<袋井宿>は、袋井市が東海道宿駅制度開設400年(2001年)に東海道周辺を整備し、今年は、<袋井宿>開設400年ということである。

<袋井宿>近くに来た途端に松並木が目に優しい。土塁も残っていて旧東海道を満喫できる。案内板には、北斎や広重の浮世絵が配置され、唐獅子牡丹を描いた丸凧をあげている様子などが楽しい。風景の遠近、人々の感情。いつもながらの風景画であり、風俗画であり、広告画であり、多様な顔をみせてくれる。

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本陣や脇本陣などの建物は残っていないが、新屋秋葉燈籠が石燈籠でなく瓦ぶきの手の込んだ彫刻をした屋形燈籠である。街道には道標として常夜灯があるが、その石灯には「秋葉」と名前の書かれたものもあり、火事から守るという意味もあるようで、袋井には火伏せの神様をまつる「可睡斎」がある。一里塚も原寸大で復元し立派な榎がのびやかに空に向かっている。

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2001年にきちんと史実を調べて、堂々と<どまん中>と声をあげた感がなんともしっかりとしていて気持ちがいい。色々な現時点での宿場をみてきたが、袋井の現宿場は観光だけではない気持ちがこもっていると友人と賛同しあう。

宿場には「東海道どまん中茶屋」があり、年中無休で湯茶の接待をしてくれる。風の強い日で、炭火の炉の温かさが心地よい。こうした基礎をきずかれた人々が高齢化していくのが気がかりである。とにかく、どこもかしこも袋井は胸をはってどまん中を主張している。

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次が<見付宿>。ここは、歌舞伎と関係するものが多かった。「見付天神」(矢奈比売神社・やなひめ)は、東海随一の学問の神様である。となれば当然菅原道真公である。そして、鳥居のそばにはりりしき犬の悉平太郎(しっぺいたろう)の像があり見付天神の後方には、「霊犬神社」があり霊犬悉平太郎が祀られている。

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私はしっぺい太郎の話しは知らなかったのであるが、友人がしっかり日本昔話をかたってくれた。妖怪が「信濃のしっぺい太郎はいないな」というところがおもしろかった。信濃と遠州をつないでしまうのである。

そして、境内には「十二代目市川團十郎丈 お手植えの梅」の紅梅があって小さいが見事に咲き誇っていた。どうしてここで植えられたのかはわからない。

見性寺には白波五人男の頭目、日本左衛門のお墓もあった。見付に入るところに遠州鈴ヶ森があり、無縁墓碑があった。見性寺の説明板によると左衛門は京都町奉行所に出頭し、江戸の牢獄に移され、さらに遠州見付宿にうつされ町中引きまわしのうえ見付宿三本松の刑場にて処刑されるとある。

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あらゆることに優れていたようだが、少年時代より身持ち不埒で勘当され無宿人となったようである。

身体は見性寺に首は金谷宿宅円庵に葬ると伝えるとある。尾張国上宿に生まれ父の仕事の関係で金谷宿に移っている。享年29歳。

宿場から離れるが天竜川のそばが、『熊野』の熊野御前の郷里だそうである。渡船場跡の近くの「行興寺(ぎょうこうじ)」には、お墓もあるらしいが、渡船場跡までは行ったが時間配分もあるので、すぐ引き返し新天竜川大橋を渡った。

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関東は大井川、遠州は天竜川。西に入ったという感じがする。

2泊3日。向かい風ではあったが晴れてくれたので予定より一歩進むことが出来た。行き帰りとも富士山はくっきり姿を見せてくれた。

天竜川を渡って浜松宿までの旧東海道は往時の面影はない。標柱の写真だけは載せておく。

隅田川から鎌倉そして築地川(2)

鎌倉国宝館には、鎌倉時代を代表する仏像が、数は少ないが至近距離で対峙させてもらえる。十二神将立像などは、初めまして!じっーと見つめますが恋心が生じるかどうかは疑問で、作者の運慶さんに傾くかもしれませんとお声かけできる距離である。

薬師三尊の周りを守る十二神将の間には、木像の五輪塔があって実朝の墓らしく秦野の畑の中にあったそうだ。

鎌倉国宝館の前には実朝歌碑があった。「山はさけうみはあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめやも」 実朝の死で頼朝の血は途絶えてしまう。

 

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鶴岡八幡宮の参道の両側に源平池がある。頼朝夫人政子が平家滅亡を願い作らせたといわれる。東の池が源氏池で三島を配し、西の池平氏池には四島を配した。三は<産>、四は<死>である。

<肉筆浮世絵>のほうは、「当流遊色絵巻」(奥村政信)で、禿がのぞきからくりをのぞいている姿がありおかしかった。それは、小津安二郎監督の映画『長屋紳士録』を思い出したからである。

絵師・懐月堂安度の解説に江島生島事件に連座とあり、どういう関係であったのかと気になる。作品は「美人立姿図」である。

やはり圧巻なのは葛飾北斎さんである。「桜に鷲図」の鷲の威風堂々たる姿には圧倒された。その足の爪がしっかり桜の枝を掴んでいる。どこかの国で試験的に、飛んでいる違法のドローンを鷲がそれこそわしづかみにし、部屋の角にたたきつける方法をやっていた。鷲の爪はドローンのプロペラなど全然平気だそうだが、北斎さんの絵の鷲が誇張でないのがわかった。それだけ威力ある爪なのである。

「雪中張飛図」、三国志の張飛が雪の中で右手には槍を、左手には編み笠を高くかかげ顔は空を見上げ、足はひいた左足に45度の角度で右足。三度笠のきまった形である。ところが、お腹は前にせりだし、衣服は異国風のあざやかな模様である。形の決まった大きな役者張飛である。

黒い三味線箱に酔って物思いのていでよりかかる「酔余美人」。大黒さんが大きな大根になにか書きつけている「大黒に大根図」。

あの汚なくて暗い長屋で描いたとは思えない。やはり天才ゆえか。しかし、お得意さんに頼まれて、その立派な部屋で画いてこともあったであろうなどと想像する。

歌川広重の「高輪の雪」「両国の月」「御殿山の花図」の3幅もよかった。

満足して、『川喜多映画記念館』へ。ここでは「映画が恋した世界の文学」がテーマで、関連の映画ポスターがびっしり展示されていた。予告編映像もあり、「汚れなき悪戯」のマルセリーナ坊やが相変わらず天使の笑顔。映画関連の本を虫食い状態であれこれ読む。

時計の針のまわりが早いので重い腰をあげ、『鏑木清方記念美術館』。「清方芸術の起源」

 

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明治時代の庶民の暮らしを描いたっ作品《朝夕安居》が中心である。巻き絵になっていて、芸人さんの玄関さきから裏の長屋の人々の生活へと移って行くが、玄関の軒灯の紋で芸人の家とわかるらしい。

井戸の水を木おけで運ぶ女性の姿は、その重さがわかる描き方である。戸板を二枚横に十字に立てて行水をつかう女性。永井荷風さんの『すみだ川』にも出てくる。「それらの家の竹垣の間からは夕月に行水をつかっている女の姿の見えることもあった。」「大概はぞっとしない女房ばかりなので、落胆したようにそのまま歩調を早める。」お気の毒に、清方さんの絵の女性は美しい。

 

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ランプのそうじをする女性。百日紅の木の下で煙管をくわえる風鈴屋。麦湯の屋台を取り囲む縁台に夕涼みの人々。なんとも古きよき時代の風情である。

清方さんは、16歳のころ挿絵画家として出発する。そして、会場芸術、床の間芸術に対し、卓上芸術を唱える。卓上にて愉しむ芸術である。《朝夕安居》もその一つである。

清方さんは幼少から挿絵画家時代築地川流域ですごしている。そのころの人々の様子を描いたのが「築地川」の画集である。その一部も展示され、展示ケースの下の引き出しを開けるとさらに作品を鑑賞できる。

外国人居留地であった明石町であそぶ外国人のこどもたち。築地川にかかる橋で夕涼みする浴衣の女性。佃島からいわしを担いで船に乗るいわしうり。船で生活する少女が河岸から船に渡した板の上を渡る。築地橋そばの新富座。

鎌倉で築地川に会うとは思っていなかった。ほとんど埋められてしまった川である。

記念館のかたに作品「築地川」の資料がないかたずねたところ、収蔵品図録があった。「卓上芸術編(一)明治・大正期」「卓上芸術品(二)昭和期」

二冊で超お買い得であった。文がまた興味深い。葛飾北斎さんの「隅田川両岸一覧」にふれ、自分もこの両岸を写して見たいとも書かれている。描かれたのかどうかは調べていない。

清方さんの絵が、幸田文さんの『ふるさと隅田川』や永井荷風さんの『すみだ川』に書かれている市井の人々の姿とも重なり楽しかった。

書いていたらきりがないので終わりにするが、面白い事に、小津安二郎監督の映画『長屋紳士録』は築地川そばの長屋が舞台である。そこにもつながるとは、鎌倉がとりもつ縁であろうか。