日光街道千住宿から回向院へ(2)

どうして甲府に飛ぶかと言いますと、千葉佐那さんのお墓が甲府にあるのです。千葉佐那さんは、北辰一刀流の開祖・千葉周作の弟・千葉定吉の娘として生まれ、剣術の腕は確かなようです。この佐那さんのことを知ったのは、太宰治さん関係の甲府市小冊子からでした。

甲府市朝日町は太宰治さんが新婚時代に住んだところです。結婚前には佐那さんのお墓のある清運寺のすぐそばの下宿・寿館に住んでいました。散歩好きの太宰がおそらく佐那さんのお墓のあることは知らずに散歩で寄ったであろうということでした。ここに佐那さんは眠っているのです。

山梨県立文学館に再訪したときさらに教えてくれたのが、坂本龍馬と佐那さんの生き方の小冊子でした。これらは甲府市の「つなぐNPO まちミューガイドブック」です。

薄くて中には表紙のような絵が描かれてあってきちんと調べていますが親しみやすい内容です。太宰さんのことから千葉佐那さんを知りました。

文学館が企画しているものもあり手元に10冊ほどありますが調べたら興味惹かれるものがまだまだ沢山あるようです。さらに改定されてもいるようです。

龍馬が剣術修行に江戸に出てきて定吉の千葉道場に通うのです。龍馬18歳、佐那さん16歳の時です。龍馬も姉・乙女に手紙で佐那さんのことを書いていますから、ほのかな恋心はおたがいにあったようです。ただ佐那さんのほうは、後に小説や新聞記事で龍馬の許嫁としてしられるようになりました。佐那さんもそう思っていたようです。

龍馬との関係があろうとなかろうと佐那さんの生き方は素晴らしいと思います。有名な千葉一門に生まれながら明治維新はそのブランドは何の価値もなくなったわけです。

その後佐那さんは学習院女子部の舎監を務めたこともあります。千葉家には千葉周作が水戸藩に仕えていた時、水戸斉昭からおそわったという灸の施術があり、千葉家が開いた千葉灸治院での仕事で佐那さんは生計を立てていたのです。

明治維新によって価値観が変わり生活が全く一変した女性は沢山いました。佐那さんはそうしたなかで自立の道を切り開いたのです。龍馬との関係で名前が知られようと知られまいと立派に時代を生きぬいた一女性としても魅力的な人だったとおもいます。

なぜ甲府にお墓があるかです。千葉灸治院には板垣退助も治療をうけにきました。甲州の自由民権運動家・小田切謙明は脳卒中の後遺症に悩み、千住まできたのです。その後佐那は甲府まで治療に行き、謙明の妻・豊治とも交流がありました。

ある日、豊治さんは谷中にある佐那さんの墓地を訪れましたが、お参りにきている人もないようで無縁仏になってはと、分骨してもらい小田切家の墓所に埋葬したそうです。ご主人の墓の一角に、佐那さんのお墓を建てました。その時、「千葉さな子墓」とし、裏に「坂本龍馬室」とあり、「室」は妻を意味します。豊治さんは佐那さんの想いを大切にして上げたのかもしれません。谷中墓地のお墓はその後わからなくなったようです。

今では剣道大会に「千葉さな子杯」が甲府で開かれているということで、佐那さんの魅力アップです。

というわけで甲府へ飛びましたが、千住での佐那さんが仕事をして暮らしていた町の様子が少し見えたようでつながって安心しました。

もう一つ明治に入って仕事を変えた人々がいました。市川市行徳へ飛びます。かつて仏師だった人々が、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、仏師の仕事がなくなり、御神輿(おみこし)を制作するようになりました。すでに廃業されていますが行徳にある旧浅子神輿店の店舗兼主屋は、行徳ふれあい伝承館として中を見学することができます。ボランティアのかたが解説してくれまして心おどりました。

このことは「塩の道」で書こうと思っていたのですがなかなかやりはじめませんのでここで少し記しておきます。これから行きます千住宿の千住大橋を渡った南千住にあります素盞雄神社 (すさのおじんじゃ)が浅子神輿店が最初に納めた御神輿なんだそうです。

それを聞いて素盞雄神社に親近感を覚えたのですが、河原稲荷神社にあります千貫神輿にも惹きつけられます。どこでどなたが作られた御神輿なのでしょうか。作る人や神輿店によって特色があるようですが、依頼主の好みということもあるようです。

もともとは御神輿つくりを専門にしている家はなく、それぞれの専門の職人さんが御神輿を頼まれると同時に神輿のために自分たちの専門部分の仕事をして、それを組み立てていったのだそうです。そのため、専門の神輿屋となっても職人さんたちは同時進行で仕事をしていたそうです。きちんと組み合わせられるという自信ある技術を身につけていたわけです。神輿店ができたのは明治に入ってからです。

行徳では、中台製作所さんが神輿店を続けているようで、神輿ミュージアムとして日曜日見学できるということでしたがこの時期ですのでどうでしょうか。日曜日ではなかったのでお邪魔しませんでした。

行徳ふれあい伝承館で行徳のことなども結構時間をかけてお話してもらいました。塩の町からどう変わってきたのかなども。また違う日に来ると違う人から違う話が聞けますよと言われていました。今年の7月頃には地元の人たちによる行徳の本ができるということでした。どんな本か楽しみです。

では千住宿に戻ってまた歩き始めます。

追記: 浅子神輿店では富岡八幡宮にも納めていて、この神輿は神輿庫に収まっていて見れるようです。鳳凰の翼が左右に大きくひろげられているのが浅子神輿店の特色なのだそうです。ミニチュアと違って迫力ある翼です。

日本一の黄金大神輿 (tomiokahachimangu.or.jp)

日光街道千住宿から回向院へ(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

日光街道千住宿から回向院へ(1)

日光街道千住宿 日光街道千住宿 からの続きです。歌舞伎座観劇の後、日比谷線でむかいました。今回は、日本橋に向かうという反対方向に進んでいます。

先ず、まん延防止が解除されましたので、観光案内所が開いていてパンフレットと「千住宿 歴史ウォ―ク」のガイドブックをゲット。ガイドブックの内容を少し紹介しますと「名倉医院」は江戸時代の明和期から「骨接ぎ名倉」として開院。大正時代には一日630人の患者が来院した記録があり、患者のための治療兼宿屋が五軒あった時もあります。宿屋の主人が医師や接骨師なわけです。戦後、法が変わりこのような形は廃止されました。

千住街の駅はお休み処とありますが、中は狭く、外の几帳で休むのが好いかとおもいます。

千住宿本陣跡碑。商店街にあるためか小さいいのでよく見て探さないと見逃します。一回目は見逃がしました。

黄色の矢印から本町商店街になります。前回より人出が多く自転車の人が多いです。

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では進みます。

金蔵寺。解説版によりますと、本尊は閻魔大王様です。ここには天保の大飢饉の餓死者の供養塔と、千住宿で亡くなった遊女の戒名を刻んだ供養塔があります。千住宿に本陣、脇本陣の他に55軒の旅籠があり、そのうち食売旅籠(遊女屋)が36軒ありました。

赤門寺勝専寺にも閻魔大王様が鎮座してまして、こちらは1月と7月に閻魔開きがありお姿が拝見できるようです。

橘井堂森医院跡(森鷗外旧居跡)。手の込んだモニュメントがあります。周囲には鷗外の小説に出てくる植物が植えられています。ここでの鷗外の様子は短編小説『カズイスチカ』(臨床記録の意)に書かれています。「鷗外」という号は、現隅田川の白髭橋付近にあった「鷗の渡しに外」という意味で、林太郎が住んでいた千住を意味していますとありまして初耳です。

千住中居町公園には大正時代に建てられた鷗外の大正記念碑があります。鷗外がこの碑のために依頼されて書かれた文が刻まれているようです。

問屋場(といやば)・貫目改所(かんめあらためしょ)

チェンソーで彫られた芭蕉像がありました。材質は鹿沼の杉で、足立区と鹿沼市は友好都市だそうです。木のまち鹿沼も芭蕉さんの紹介には熱心です。

鹿沼市の屋台のまち中央公園にある掬翠園(きくすいえん)の芭蕉像。

一里塚跡高札場跡

屋号が記されています。この辺りは青物市場(やっちゃ場)の問屋の並んでいた場所です。

昭和5年千住市場問屋配置図。黄色丸が屋号の問屋の位置と合致。

途中で「是より西へ大師道」の道しるべがありました。西新井大師への道です。

道しるべの上に河原稲荷神社の案内が書かれています。千貫神輿、神道厨子、区内最大の狛犬は浅草神社と同じ作者とあります。河原稲荷神社やっちゃ場の鎮守とされています。

河原稲荷神社の近くに千葉灸治院跡があるようです。後になって知りました。坂本龍馬の婚約者とも言われている千葉佐那さんが施術をして生計を立てていたのです。佐那さんについては甲府まで飛びますので、一時ここで休憩です。

日光街道千住宿から回向院へ(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

日光街道千住宿

北千住駅は多数の路線の電車が止まる駅です。それでいながらこの駅で乗り換えはしても降りるということのなかった駅でした。東京メトロの千代田線日比谷線、JR東日本の常磐線東武伊勢崎線

商店街が元気なのには驚きました。千住宿日光街道から奥州街道へもつながる最初の宿場でもありさらにここから水戸街道佐倉街道(成田)、下妻街道にもわかれるのです。旧日光街道の通りとぶつかる駅前商店街もあって昨今の商店街の状況から考えると元気な商店街と思えました。

通りの多くの狭い路地には家がひしめき合って下町の生活も残っています。全て開発されて無味乾燥でないのがいいです。

宿場町通りにある千住街の駅は観光案内所を兼ねたお休み処ですが、まん延防止中とあって閉まっていました。ここで案内地図を手に入れるつもりでしたが残念。100年前に建てられた魚屋さんを利用しているそうです。

旧日光街道の宿場通り商店街

公園に陶板の案内がありました。

右が隅田川で左が荒川ですがこの荒川は昭和初期にできたもので江戸時代にはありません。真ん中の黒い線が旧日光街道です。赤丸は北千住駅で青丸が京成線の千住大橋駅です。隅田川に架かっているのが隅田川に一番最初に架けられた橋の千住大橋です。ここから芭蕉さんは「奥の細道」の旅に出発しました。そして徳川慶喜さんはこの宿から水戸にもどられたのです。今回は荒川のほうに向かいました。

再生紙を取り扱う地漉紙(じずきかみ)問屋である横山家住宅があります。江戸時代後期の建物で、戸口が街道から一段下がっていて、下で上からの客を迎えるということです。

屋号が松屋で、外蔵が2棟、内蔵、紙蔵、米蔵と5つの蔵がありました。今は外蔵1棟が残っています。外観のみの見学です。

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横山家の前にあるのが千住絵馬屋・吉田屋です。

吉田家は江戸中期から代々絵馬を描き、地口行灯(じくちあんどん)や凧なども描いてきた際物問屋(きわものとんや)です。千住絵馬の特徴は、縁取りした経木(きょうぎ)に胡粉(ごふん)を塗り、極彩色の泥絵の具で家伝の図柄を描く小絵馬で、その種類は三十数種類あります。こちらも外観のみ。

日光街道と水戸街道・佐倉街道の追分

日光街道と下妻海道の追分

江戸時代から接骨院をしている名倉医院。平屋木造建築で現在も診療をしています。

名倉医院から旧日光街道から一本線路側の道を引き返しました。

氷川神社めやみ地蔵尊長圓寺長円寺など寺社が並んでいます。

駅前までもどりそれからは適当に散策。駅前商店街には大橋眼科の素敵な洋館が。

赤門寺(あかもんでら)で親しまれる三宮神山大鷲院勝専寺(さんぐうじんざんだいしゅういんしょうせんじ)。京都の知恩院を本山とする浄土宗寺院。日光道中が整備されるとここに徳川家の御殿が造営され、秀忠、家光、家綱らの利用がありました。

鐘楼、法然上人御詠歌碑(月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ)

旧日光街道を南に千住大橋のほうに進むと、森鴎外旧居跡があります。鴎外の父が橘井堂(きっせいどう)医院を開業した場所で、鴎外がドイツに留学するまでの三年間を過ごした家です。江戸時代の旅の痕跡もあります。千住宿問屋場貫目改所跡高札場跡一里塚跡。勝専寺までは行きましたがここからは歩いていないのです。

千住大橋を渡りさらに南に進み、コツ通りに入り進むと小塚原回向院(こつかっぱらえこういん)があり常磐線を渡った先には小塚刑場跡があります。常磐線南千住駅からが近いです。

医学書『ターヘル・アナトミア』を手に杉田玄白さんと前野良沢さんが腑分け(解剖)の見学に来た場所です。

三谷幸喜さん脚本のテレビドラマ『風雲児たち〜蘭学革命(れぼりゅうし)篇〜』(原作・みなもと太郎)は面白かったです。『ひらけ蘭学のとびら 「解体新書」をつくった杉田玄白と蘭方医たち』(鳴海風・著)を読んでいたので、杉田玄白さんが全然語学がダメで、前野良沢さんが訳語にきびしく、こんな翻訳では出版などできないと言ったのを知っていましたので誇張ではなくこんな風の中で頑張っていたのだろうなあと共感できました。

凄いですよね。訳にこだわったことで、神経などの言葉が今も使われているのですから。

旧日光街道の千住宿は半分しか歩いていませんが、千住大橋は両国から隅田川テラスを歩き千住大橋までたどりつき帰りましたので、そこにある千住宿半分を短時間で散策できたのは予定外の収穫でした。

まだまだ歩くところが膨大にあって、前野良沢さんの真面目さと、杉田玄白さんの今の医学のためにの信念を少しお借りして、楽観的なおおまかさで少しづつ進むことにします。

追記: 落語の『三十石』でお客が船に乗り込むとき、若い娘の売り子が「おちりにあんぽんたんににしのとういんがみいらんかね~」と声をはりあげます。人の顔見てあんぽんたんとは失礼なというと、もう一人の仲間がおちりはチリ紙におをつけて、あんぽんたんはあげたお菓子に砂糖をまぶしたもので、西の洞院紙は再生した紙だと説明します。西の洞院紙は関東でいうなら浅草紙のことと付け加えることもあります。千住の横山家は浅草紙の問屋だったのでしょう。再生紙は浅草で作られていたのが足立や千住に移ったと言われています。 

追記2: 上記写真の目やみ地蔵堂の両脇に奉納されている絵馬は絵馬屋吉田家の絵馬だそうです。残念なことにそこまで見ませんでした。

2022年4月5日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)


四国こんぴら歌舞伎(1)

金丸座での歌舞伎復活は、テレビ番組で復元した金丸座へ吉右衛門さん、藤十郎さん、勘三郎(当時勘九郎)さんがトーク番組で訪ねてここで歌舞伎がしたいねという話が出てそれで実現したのです。そのテレビ番組を後で見て知りました。(昭和60年・NHK特集『再現!こんぴら大芝居』)

1985年(昭和60年)に第1回の上演が三日間ありその時は吉右衛門さんと藤十郎さんが出演され、次の年の第二回目は吉右衛門さん、藤十郎さん、勘九郎さんの三人が出演されています。

第20回目(2004年)に、金丸座で歌舞伎を観ることができました。お練りも見れました。切符のとり方など面倒なので、切符付き、琴平宿泊のフリーツアーセットで申し込んだと思います。友人と二人でお練りの道筋などを検討し、お練り見物に参加、宿泊所から金丸座の位置確認と所要時間などを確認したりと果敢に琴平の町を移動しました。次の日は芝居見物と金毘羅さん参りだったとおもいますが。

第20回記念公演で、さらに「二代目中村魁春襲名披露」というお目出たい舞台でした。さらなる金丸座修復で江戸時代の「かけすじ」という舞台での平行移動の宙乗りの仕掛けがみつかり「羽衣」ではその仕掛けを使ったのですが、残念ながら第一部の観劇でしたので見れませんでした。

演目の『再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)~桜にまよえる破戒清玄~』は、一回目での演目でもあり、「清玄清姫もの」の『遇曽我中村(さいかいそがのなかむら)』を吉右衛門さんが改編し20回目でさらに手を加えられたものです。吉右衛門さんの祖先は芝居茶屋を営みながら松貫四の名前で芝居を書かれていた人で、二代目もこの名前で作品を新しくしています。

清玄(せいげん)と桜姫の恋人の千葉之助清玄(きよはる)の同じ文字でありながら読み方の違うことから清水寺法師・清玄(吉右衛門)の悲劇がおこるのです。桜姫(魁春)と千葉之助清玄(梅玉)の逢引の手紙から同じ名前の清玄が罪をかぶります。当然破戒僧となるのです。そして、桜姫に恋焦がれてしまうということになり、これは叶うこともなく清玄は殺されてしまいます。清玄の霊は鎮まることがなく亡霊となってあらわれるのです。

小さな芝居小屋のほの暗さの華やかな舞台から、亡霊の場というおどろおどろしさを現出させようとの取り組みがわかりました。

平場での芝居見物は動きが制限され慣れない姿勢で窮屈だったような記憶もあります。今調べますと随分観やすい雰囲気になっているようで、今年も開催できないのは残念です。

それからです。切符さえとればなんとかなるのだということで、愛媛県の内子座などでの文楽などを鑑賞したのは。

いずれは出かけることも少なくなり、家での鑑賞になるのかなと思っていましたら、新型コロナのために早めに予行練習させられることになりました。これも気力のあるうちでないとできないということを痛感しています。

というわけで、初代、二代目吉右衛門のDVD鑑賞となりました。

二代目が主で二代目の得意とした21演目のダイジェスト版です。2時間強ですが、好い場面ばかりで、やはりお見事と休むことなく鑑賞してしまいました。戦さの悲劇性、虚しさなどが歌舞伎でありながら伝わってくるのです。現代にリンクする芸の深さです。

追記: 浪曲「石松金比羅代参」。次郎長が願かけて叶った仇討ちの刀を納めるために代参の石松の金比羅滞在模様は一節で終わり、大阪へと移動します。大阪見物を三日して八軒屋(家)から伏見までの30石船の船旅です。おなじみの「石松三十石船道中」となります。上り船で関東へ帰る旅人が乗り合わせての東海道の噂話という設定なわけです。

追記2: 落語で「三十石(さんじっこく)」(「三十石夢の通い路」)というのがあります。上方落語で六代目円生さんのテープを持っていてかつて聴いたのですがインパクトが弱かったのです。今はユーチューブで何人かの上方落語家さんの音声や映像で見れるので便利でありがたいです。落語は京から大阪への下り船で夜船です。

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追記3: 円生さんはまくらで『三十石』は橘家円喬が上方へ一年半くらい行っていた時に持ち帰り、それが円生さんの父五代目に、そして自分につながったと話されます。一度聴いただけではとらえ残しがありますね。

下げは、船で五十両盗んだ男を捕まえてみるとコンニャク屋の権兵衛で、「権兵衛コンニャク船頭の利」となり、「権兵衛コンニャクしんどが利」からきていて、京阪の古いことわざで「骨折り損のくたびれもうけ」の意だそうでそこまではやらずろくろ首でおわっています。米朝さんも権兵衛の下げはつかっていません。

円生さんは船の中の客に謎ときをさせ、沢山の船客を登場させます。客も江戸弁で上方との違いを表し、自分の語り口を生かしています。歌がありそれぞれの落語家さんの味わいのでる噺です。

追記4: 落語『三十石』にも出てくる京・伏見の船宿・寺田屋は坂本竜馬が襲われて難を逃れたのでも有名ですが復元されていて見学もできます。三十石船と十石船にも乗ることができ、十石船に乗りました。落語で出てくる物売りの舟(くらわんか舟)もありましたが、落語のようなにぎやかさではなく穏やかに商売をしていました。

追記5: 「第20回記念のこんぴら歌舞伎」がテレビで放映され録画していました。生で観ていたので録画は見ないでしまい込んでありました。今回見直し大きな誤りをしていました。 「かけすじ」という舞台での平行移動の宙乗りの仕掛け  とおもっていましたら、花道の上を飛ぶ宙乗りでした。映像を見てびっくりした次第です。

 

幕末の庶民の人気者・森の石松

思うのですが幕末の庶民の人気者と言えば、森の石松ではないでしょうか。講談や浪曲で圧倒的人気を得ました。

喧嘩早く、情にもろく、ちょっとぬけているところもあり、都鳥にだまし討ちにあって無念の最後というのも愛すべきキャラクターとしては条件がそろっています。

勘三郎さんの勘九郎時代のテレビドラマ『森の石松 すし食いねェ! ご存じ暴れん坊一代』を観ました。よく動き体全体で感情を表す森の石松です。

観ていたらシーボルトが出てきたのです。シーボルトが江戸へ行く途中で、それを見たとたんに石松は走り出します。江尻宿でしょう。仲間の松五郎の出べそを治療してもらおうとするのですが望みはかないませんでした。

そして次郎長親分の名代で四国の金毘羅へお礼参りに行くのです。そして金丸座で芝居見物です。上演演目は『先代萩』です。前の客’(鶴瓶)がうどんを音を立てて食べていて、石松は「うるさい。」と文句を言います。舞台は八汐が千松に短刀を突き刺しています。石松は芝居だということも忘れて「何やってんだよ。」と騒ぎ立てうどんの客と大喧嘩となります。

舞台の八汐、「何をざわざわさわぐことないわいな。」。勘三郎さんの八汐がいいんですよ。この台詞を聞けただけでもサプライズです。さらに舞台の役のうえでの台詞と、観客席の騒がしさ両方にかけた台詞になっているというのが落としどころ。

石松と八汐。同じ人とは思えません。

政岡( 小山三)が「ちょっと幕だよ、幕、幕・・・」。閉まった幕の前で千松(勘太郎)が「うるさいよ、おまえ。人がせっかく芝居しているのに。」と怒鳴ります。笑えます。と映像は切り替わり、三十石船を映しだし船上へと移ります。知れたことで「江戸っ子だってね。」「神田の生まれよ!」(志ん朝)となります。お二人さんの掛け合いがこれまた極上の美味しさ。

この後、都田吉兵衛によってだまし討ちにあうのですが、江尻宿を通り越した追分の近くに「都田吉兵衛の供養塔」があります。

清水の次郎長一家は石松の仇をここで討ちますが、吉兵衛の菩提を弔う人がほとんどいなかったので里人が哀れに思って供養塔をたてたとあります。

ドラマで浪曲もながれますが、初代広沢虎造とクレジットにありました。私の持っているCDは二代目広沢虎造なのですが。よくわかりません。

追記: 二代目広沢虎造さんの『石松と七五郎』『焔魔堂の欺し討ち』を再聴。名調子の響きにあらためて感服しました。そして、ドラマ『赤めだか』を鑑賞。本が出ていて評判なのは知っていましたが、なぜか読まずにいました。好評なのを納得しました。談春さんはもとより、立川一門(前座)の様子が破天荒で、談志さんの落語と弟子に対する心がこれまた響き、笑いと涙でした。

追記2: 『赤めだか』(立川談春・著)一気に読みました。涙が出るほど笑いました。ラストは緊迫しました。人の想いの踏み込めない深さと繊細さ。落語の噺の世界のような本でした。

追記3: 2006年(平成18年)5月30日、新橋演舞場で談志さんと志の輔さんが、2008年(平成20年)6月28日、歌舞伎座で談志さんと談春さんが落語会を開いています。時期的には談志師匠が闘病中で身体的につらいころと思われますが嬉しそうに見えました。大きくならない赤めだかが大きくなったのですから嬉しくないはずがありません。そして談春さんが、「志の輔兄さんもやらなかった歌舞伎座です。」と言われたので皆さんどっと笑いました。立川一門のライバル意識を皆さん楽しんでいました。

追記4: テレビとかの映像画像は著作権に触れることもあるようなので削除しました。風景はよいらしいのですが、よくわからずにやっていました。申し訳ありません。他もありましたら少しずつ変更していきます。迷惑をかけた方がおられましたら深くお詫びいたします。

幕末の先人たち(2)

佐久間象山さんを認識したのは信州松代の観光パンフレットからです。どうも幕末に活躍した人らしい。「高義亭」は松代藩家老の下屋敷にあった建物で、二階には高杉晋作など幕末の志士と語り合った部屋があります。それ以上はこちらの興味も深まらず「象山記念館」はパスでした。

その後、勝海舟の妹を妻としていて優秀な人なのですが変わっているらしいということで、象山を知るまでに今日まで時間が経ってしまいました。思い立ったら即実行するという人です。それだけに自分の知識力には自信があり、人を見下すところもあったようです。ただ失敗もします。少しの失敗ではないのですがめげません。

象山は松代藩の下士の生まれです。儒学の朱子学を学びます。朱子学は下から上への無条件な服従が絶対的な善とする教えで、支配者にとっては都合の良い教えで、家康以来幕府公認の学問でした。

象山は優秀で藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)にも期待され、江戸にも遊学しました。真田家は長男・真田信之が徳川家側につき、上田城から初代松代藩主になって真田家は続いていました。

象山は松代藩にもどってから、食糧不足に飢えている人々のために何もしようとしない役人にかわって藩の御用商人を説得して商人が藩にお米を収めて藩が分配するという方法をとらせるのです。

同じころ「大塩平八郎の乱」がおこります。象山は、自分の心ばかりを正しいと信ずる陽明学派の跳ね上がりだと批判します。大塩平八郎。この人もその行動を知っておきたかった一人です。いい機会です。

儒学には朱子学と陽明学とがありました。陽明学は、下の者が上の者に不満を持った場合それが理にかなっていれば不満や反抗心を持たせた方が理に反しているのだから理にあった正しい姿に戻らなくてはいけない、という考えなのです。上の者に絶対服従ではないのです。意見を言っていいのです。

大塩平八郎は、大阪奉行所の与力をしていました。大阪は天領で幕府の直轄地ですから大阪奉行所は幕府の機関です。徳川家に直接仕えているわけですから幕臣の下っ端ということになります。下っ端といえども藩に仕えているのではありません。あくまで徳川家に仕えているのです。

大塩家が代々徳川家に仕えていることを平八郎は誇りにしていました。そして徳川幕府とは人民を守り善政をおこなうところであると信じていたようです。大塩平八郎は38歳で隠居し養子・格之助が与力となります。隠居の5年前から陽明学の私塾「洗心洞」を開いています。

飢きん打開に対しては格之助を通じて意見書を出していましたが、大阪奉行は困っている人々を救うどころか幕府の命令で大坂の米を江戸に送っていました。新将軍の儀式の費用のためです。跡部奉行は、老中・水野忠邦の実弟でした。ついに大塩平八郎は塾生たちと決起することにします。困っている人々に大商人の蔵から米などを放出させるのです。さらに大阪奉行所を襲い奉行を討つことによって徳川幕府に反省してもらいたいとの望みからでした。平八郎は、徳川幕府が気が付いてくれると信じていたのです。

面白いことに大丸には手を出すなと伝えたようです。平八郎にとって大丸は良識ある商人と認めていたのでしょう。

平八郎は決起と同時に一度はひっこめていた事実を報告書にして幕府に送ります。それは幕閣たちが発起人となって不当にお金を集める闇無尽(やみむじん)の実態でした。そのことを書状にして幕府に送ったのです。どうして大阪で決起したのかを江戸の幕閣たちが「そうであったか、江戸城はなんという腐敗状態なのか」と気が付いてくれるのを願ったのです。

決起はその日のうちに鎮められますが、平八郎と格之助は身を隠します。幕府から何か言ってくることを期待したのです。幕府はそんなことで浄化されるような状態ではありませんでした。平八郎親子は見つかりその場で命をたちます。

平八郎の書状は握りつぶされたのですが、ひょんなことから伊豆の代官所に届けられ、時の代官・江川英龍(ひでたつ)によって書き写されていました。そのことによって後の人が検証できることとなったのです。

握りつぶされたものがどれだけ沢山あることでしようか。どういうことであったのかはそれを検証し後の世の人々の考え方の参考になる重要なものなのですが。

陽明学は考えることだけではなく実行することも必要なこととしています。しかし、老中・松平定信の「寛政の改革」の「寛政異学の禁」で朱子学以外は公には禁止されてしまい陽明学はすたれていくのです。

松代藩主・真田幸貫は松平定信の長男で真田家の養子になった人です。

象山は江戸神田お玉が池に儒学塾を開きます。彼は朱子学です。ただ象山は自分の考えたことは実行に移す人でした。学校を建てて朱子学を中心とした教育に力を入れるべきだ意見書をだしてもいます。象山の場合まだ藩のためであり相手は自分をわかってくれる藩主です。ここらへんが大塩平八郎と違うところでもあります。ただその後、象山は幕府に許可をもらうこともあり、幕府の頭の固さにがっかりします。

幸貫は老中となり幕府の海防係となります。象山は海防係顧問を命じられ、ここから彼の西洋式の砲術の勉強が始まります。蘭学が必要になってきたわけです。象山は渡辺崋山と交際があり、崋山から蘭学を習わなかったことを残念におもいつつ、オランダ語の猛勉強開始です。

高価な蘭書の「百科事書」(現在の400万円)の購入を幸貫は許してくれます。優秀であると同時に弁もたったのでしょう。当然藩の財政から考えて舌打ちしていた人も沢山いたでしょう。

そして実行する人象山です。ガラス器、電気医療器などを作ります。さらに豚の肉を食べることをすすめます。日本人は仏教の教えで動物の肉を食べないのですが象山は自分から食し、それにジャガイモが合うことを知り、藩の農民に養豚とジャガイモの栽培を指導します。あの高野長英がすすめていたことです。色々なことを知り実行にうつします。

その中で大ががりなのが、自分が完成させたオランダ語辞書を出版して売ることを思いつきます。みんな書き写したりして勉強しているのですから、印刷して売れば藩の収入となります。印刷といっても木版刷りです。その企画は幸貫に認められます。資金は自分の知行100石を担保にしたのです。ところが幕府の許可がおりませんでした。

大規模な出版は、その後福沢諭吉が慶應義塾の資金源のために自分の本を出版しています。たしかに上手くいっていれば相当の収入になったことでしょう。

さらに松前藩に依頼されて千葉の姉ヶ崎で青銅の大砲を作り試砲しますが大砲は壊れ失敗します。そんなこともありながら象山は洋式の兵術家として有名になり深川の藩邸で砲術を教えます。その中に幕臣・勝麟太郎(勝海舟)もいたのです。

下図のが深川の松代藩邸で象山の塾があったところです。が平賀源内がエレキテルの実験を行った所で、「初春は平賀源内から」と思い立ったときは佐久間象山にたどりつくとは思ってもいませんでした。

さて、さらに木挽町に洋学の塾をを開くのです。儒教の朱子学塾から洋学の塾になりました。ここに入塾するのが吉田松陰です。さらに「米百俵」の長岡藩の小林寅三郎、坂本龍馬らも加わります。象山は開国論者となっていきます。

下図の11が築地本願寺。14の木挽町5・6丁目に山村座、河原崎、森田座の三座が許可を受けて興行していましたが、江島事件で山村座は廃座。天保の改革により芝居小屋は浅草に移転。その後、木挽町5丁目に象山が開塾するのです。

象山は吉田松陰が外国に行くことに賛成します。ただし密航だったわけで失敗し松陰と象山は投獄されます。その後象山は松代でのちっ居生活となります。この時松代で地震があり、家老・望月主水が下屋敷を貸してくれたのです。そこへ松陰の松下村塾の弟子の高杉晋作が訪れたのです。松陰は「安政の大獄」ですでに処刑されていました。

井伊直弼暗殺のあと吉田松陰をはじめ、高野長英や渡辺崋山らの名誉が回復されますが、象山はちっ居をとかれません。彼を認めてくれた藩主の幸貫はすでに亡くなっていました。松代藩は象山を厄介者と考えていたのです。

象山が9年にわたるの幽閉が許されると他藩から来てほしいと誘いがありますが象山は断ります。松代藩の象山きらいは強く、なにかと足を引っ張られます。そんな時幕府からお声がかかります。朝廷の攘夷派懐柔作戦と開国の必要性を説明してもらうために適任とされたのです。

象山は京で公家や一橋慶喜とも会い過激な攘夷思想を正し公武合体と開国論を述べます。京都は外国を忌み嫌う攘夷派がうろうろしています。象山は京の三条木屋町で一人愛馬にまたがっていたところを襲われ暗殺されてしまいます。また血が流されました。

さらに松代藩は象山の知行・屋敷を没収、佐久間家は断絶します。その後名誉は回復されます。それにしても象山さん松代藩の重臣たちに嫌われたものです。朱子学の通り、藩や幕府の命令には反抗の行動はしませんでした。ただ自分の学んだことに対しては絶対なる自信がありました。それを分からない人に対しては苦々しい態度でのぞんだようで、そのことが災いしたようです。

松代に行くとそこから激しくて行動的な佐久間象山が誕生したとは思えない静かさでした。といっても10年前の旅ですが。長野電鉄屋代線も残っていて松代から須坂に向かったと思います。須坂で散策時間が足りず、再訪しますが。

真田邸(新御殿)。江戸後期松代9代藩主・真田幸教が母のために建てた隠居所。↓

すみだリバーウォークから横十間川岩井橋へ(3)

小名木川クローバー橋を後ろにしての水門橋。その下には横十間川親水公園の水上アスレチックがありました。

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次の三島橋の下を進みます。

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いよいよ岩井橋となります。が、工事中でした。

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南側はまだのようです。

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さてどうしてここらあたりを隠亡堀というのでしょう。

江戸時代火葬は市街地が形成されるにつれ、各寺院の境内の一角に荼毘所(だびしょ)や火屋(ひや)があったようですが江戸の街が大きくなるにつれ火葬場も郊外に移転し火葬専門の施設が生まれました。五つあったので、江戸五三昧(ざんまい)といわれました。(『江戸・東京の「謎」を歩く』より)その場所は諸説あるようです。

下記の葬儀社による江戸時代の火葬場の歴史では、岩井橋近くの砂村新田阿弥陀堂荼毘所が江戸五三昧に入っていたとしています。別名で隠坊堀炮烙(ほうろく)新田ともよばれていたとありその後のことも紹介されています。

設立前の歴史 (tokyohakuzen.co.jp)

江戸・東京の「謎」を歩く』(竹内正浩著)の<第六話 火葬場三百年史>では江戸五三昧は小塚原、千駄木、桐ケ谷、渋谷、炮烙新田とあり、岩井橋の近くに火葬場があったことは確かなようです。南北さんが<隠亡堀>での戸板返しを考えたのは、江戸の人々の共通の認識場所をえらんで仕掛けたのではないでしょうか。さらにきちんと荼毘にふさなかったお岩さんの怨念がここまで流れ着いたとしたのかもしれません。

南北さんは、芝居ファンへのサービスが旺盛で色々な意味を重ねてきます。でも今はそんな場所ということなど想像できない場所に変わっています。南北さんの選んだ場所に立てて、南北さんの頭の中がさらに少し見えたような気分にさせてくれました。

本では、上記葬儀社のことも書かれていて、偶然検索して見つけたところと重なって驚きました。こちらは現実的な火葬の問題から火葬場移転、運営の話にまで触れています。

『江戸・東京の「謎」を歩く』ではスカイツリーの面白いことも紹介しています。それは幕末に活躍した歌川国芳さんが東京スカイツリーを予言した錦絵を描いていたというものです。『東都三ツ股の図』。三ツ股とは隅田川と小名木川との合流地点のことだそうです。

歌川国芳「東都三ツ股の図」

「右手に永代橋と漁船が舫(もや)う佃島を描写し、正面左手には小名木川に深川万年橋が架かる。たぶん箱崎(日本橋箱崎町)あたりから隅田川ごしに深川方面を望んだものであろう。」

左は火の見櫓(やぐら)で右は「実は井戸掘りの櫓と見られている。」としていますが、それにしては高すぎるとしながら、筆者は解けない謎としています。

永代橋の右端に突き出ているものはなんでしょうね。それにしても三ツ股の塔はスカイツリーによく似ています。不思議な塔です。

歌川国芳を最初の師とした川鍋暁斎の娘さんが主人公の『星落ちて、なお』(澤田瞳子著)を読み終わったばかりで、国芳さんの出現にまたまた「来ましたか」と思いうれしくなりました。

さて歩きのほうは、ラストはテレビで時々紹介される砂町銀座へ。道をよくしらべていなかったので人に聞きつつ行き、どの道を進んだのかわかりません。突然商店街の路地があらわれたという感じでした。地下鉄や電車の駅からこんなに離れた商店街は初めてです。

商店街の道幅が狭いので左右のお店の品物が歩きつつ見えて、何の気兼ねもいらない日常が感じられる砂町銀座です。想像していたよりも商店街は長かったです。帰りは地下鉄都営新宿線西大島駅へ。途中で小名木川にかかっている進開橋を渡りました。プチ旅も大いに満足し終わりとなります。

追記: 砂町銀座商店街

追記2: 砂町銀座の映像はないのかなと探したら『孤独のグルメ』がでてきました。きっちり観たことがなかったのですが物語性もあるのですね。主人公は仕事の途中で砂町銀座商店街であさりめしとおでんやお惣菜を購入し、事務所でこれからしなくてはならない仕事前に食すのです。お惣菜などとの出会いと食べたときの感想に引き込まれました。砂町銀座の様子もほんわりです。

 

すみだリバーウォークから横十間川岩井橋へ(2)

朱色が小名木川で「塩の道」の隅田川から旧中川までです。旧中川の空色の丸は「旧中川 川の駅」とあり、ここに江東区中川船番所史料館があり舟の関所の様子がわかります。小名木川と交差している黄色の横十間川。緑が北十間川で隅田川から旧中川までです。

ピンク丸が地下鉄の住吉駅で東京メトロ(営団地下鉄)と都営地下鉄がつながっています。住吉駅から猿江恩賜公園をはさむ新大橋通りを進んで本村橋を渡ります。

東岸はテラスが整備されていますが、西岸はこれからです。東日本大震災、オリンピックで中断となっていたのですが再開されたのだそうです。舟に乗ったときに聞きました。

後ろを振り返るとスカイツリーが何処へ行くのと言っています。

舟から多数の釣り人を見かけましたがきちんと約束事があるのです。黄色は釣り可能、赤は釣り禁止。今日は釣り人はいません。舟のときは休日だったからですね。

大島橋は太陽が反射して写真は写りが悪いので、次の四つの方向に渡れる小名木川クローバー橋。ここで横十間川小名木川が交差しています。

切絵図には三つの橋が架かっています。

朱丸は小名木川に架かる新高橋で矢印の方向に隅田川があります。黄色丸が猿江橋。緑丸が扇橋。空色丸は舟台所と読めますが、船番所です。「小名木川を航行する船を改めた番所。小名木川は、家康が行徳の塩を運ぶために造った川だが、時代が下ると生活物資などを運ぶために利用され、番所が設置されるようになった。」と説明にあります。

小名木川中川が合流するところにも船番所ありましたが、そちらの方が長く役目をしていたようです。

クローバー橋から東を見ての小名木川です。奥の三角三つの橋は小岩駅と越中島貨物駅を結ぶ貨物車専用線の橋梁です。

ではさらに進みます。

すみだリバーウォークから横十間川岩井橋へ(1)

浅草から隅田川吾妻橋を渡り、東京スカイツリーへ行ってすみだリバーウォークを知りました。一つ年内に済ませておきたいことがありました。

東海道四谷怪談』のお岩さんの戸板が流されて着いた「戸板返しの場」の場所が横十間川岩井橋あたりとのことで一度は訪ねようとおもっていました。十八代目勘三郎さんも訪ねていて芝居の場所とは思えない場所に変化していたと書かれています。

小名木川をお岩さんがそのまま流されていれば中川に流れてしまうので途中小名木川の横十間川と交差するところで横十間川に入っていったわけです。

南北さんが芝居の位置関係を調べ、当時の江戸の人々にも想像のゆく設定にしていくのを楽しんで書かれていたのでしょう。あの黒船稲荷神社の位置で考えておられたわけですが、この辺りまで歩かれたようにも思います。

NHK・Eテレ『にっぽんの芸能』で『菊宴月白波』にも「小名木川隠家の場」というのがでてきまして、さすが南北さん黒船のご隠居様ですねとおもいました。

さて浅草の隅田川沿いに東武スカイツリーラインの鉄橋をめざし、すみだリバーウォークへの階段を上ります。

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スカイツリー目指して進みます。

隅田川。左手には言問橋。右手は先日渡った吾妻橋です。吾妻橋の後方に見えるアーチが駒形橋です。

終わり際に、右手前方に水門が。源森川水門。水害が起こらないためにも水門は重要です。隅田川から北十間川に入る場所です。源森川水門ということは源森川があったということでしょうか。水門の前方に枕橋がみえました。

すみだリバーウォークが終了した前の道路が墨堤通り。「鬼平情景」の案内板。<枕橋 さなだや>。

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枕橋というのは江戸時代は源森川に渡る源森橋(源兵衛橋)でした。鬼平の中にはその北詰にある蕎麦屋「さなだや」が一緒に数多くでてきます。「蛇の眼」では、平蔵は「さなだや」であった男をつけると大盗・蛇の平十郎で源兵衛橋に潜り込み逃げられます。鬼平番外編『にっぽん怪盗伝』(「正月四日の客」)では「さなだや」の亭主と客のやりとりが好いとあります。

墨堤通りを渡ると前に隅田公園。右手の東武スカイツリーラインの高架線下にミズマチのショップが始まっています。

テラスの横に北十間川があり、これがのびて旧中川にぶつかります。枕橋からみたスカイツリーと北十間川。枕橋については次の源森橋のところで説明します。

源森橋とその由来の碑。

さてここで旧源森橋(枕橋)と現源森橋について説明します。黄色丸が源森川水門。朱丸が枕橋(元源森橋)。青丸が隅田公園(元水戸下屋敷)。現在地が源森橋。ピンク丸が小梅橋。

切絵図で考えますと、源森橋(朱丸)は水戸家下屋敷に引き込まれていた水路に架かる新小梅橋(朱丸)とが夫婦が枕を並べているようすに見えることから枕橋と呼ぶようになり、明治になり正式に枕橋となりました。水戸家下屋敷の水路は埋め立てられ橋もなくなりました。そこで東にある橋を源森橋としたのだそうです。水色丸の橋と思います。

ここを流れる川が源森川だったと思うのです。青丸は業平橋で下が大横川。

茶丸は埋め立て地で源森川をさえぎり、大横川に流れをかえたという話があります。今は北十間川がさえぎるものもなくのびています。今の小梅橋はあたらしくこの近くに小梅村があったので命名したのではと想像しています。全て勝手な思い込みですのであしからず。

ただ時代劇小説で源森橋が出てきたとき現在の源森橋とは思わないようにご用心。

ミズマチの高架線下には途中に宿泊施設もありカフェは一般客も使えるようです。

小梅橋。

ここまでくるとミズマチも終わりです。味気ない道を通りスカイツリーへと進みソラマチ広場へ。ここから営団地下鉄半蔵門線の押上駅から住吉駅へいきます。スカイツリーから岩井橋までは距離的に歩きが無理なので、横十間川沿いから岩井橋までは途中を地下鉄にしました。

黄色丸がスカイツリーで朱色が岩井橋です。北十間川の途中から直角に横十間川がのびています。

隅田川の吾妻橋から東京スカイツリーへ

すでに終わってしまったのですが、「すみだリバーサイドホールギャラリー」で『2021年度第41回 伝統文化ポーラ賞受賞者記念展』があるということで浅草から吾妻橋を渡って訪ねました。

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吾妻橋を渡ったところに「鬼平情景」の案内板が吾妻橋と鬼平のつながりの解説をしていました。

吾妻橋(大川橋)は江戸時代、隅田川に両国橋、新大橋、永代橋に次いで四番目に架けられた橋です。長谷川平蔵が29歳のときで、町人が幕府に願い出て架かったのです。正式名は大川橋で、吾妻神社の参道でもあるのでまたまた願いが出され吾妻橋となったのは明治になってからです。鬼平犯科帳でもたびたび登場し、その中でも人気なのは「大川の隠居」とかかれています。

伝統文化ポーラ賞を受賞された個人と地域です。

優秀賞 武腰 潤 色絵磁器の伝承・制作 (石川県) 杵屋 勝彦 長唄の伝承・振興 (東京)

奨励賞 四代 田辺 竹雲斎 竹工芸の伝承・制作 (大阪) 新内 多賀太夫 新内節の伝承・振興 (東京)

地域賞 浦川 太八 アイヌ木工芸の伝承・制作 (北海道) 秋保の田植踊保存会 田植踊の保存・伝承 (宮城) 瀬戸本業窯 瀬戸焼の制作・伝承 (愛知) 犬飼農村舞台保存会 襖からくりと地芝居の保存・伝承 (徳島)

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詳しくは下記で。

本年度の受賞者 | 伝統文化ポーラ賞 | 顕彰と助成 | 公益財団法人ポーラ伝統文化振興財団 (polaculture.or.jp)

フライヤーの表の写真となっている「秋保の田植踊」は下記で動画もどうぞ。

秋保教育文化振興会 (akiuzaidan.com)

​「襖からくり」は、過去にサントリー地域文化賞も受賞しています。こちらも言葉よりも映像がわかりやすいと思います。

サントリー地域文化賞 徳島県 徳島市『犬飼農村舞台保存会』 2分 サントリーチャンネル サントリーCM・動画ポータルサイト (suntory.co.jp)

日本の伝統文化はまだまだ知られていないものがたくさんありますし、進化もしています。

さてそこから戻るのも面白みがないとスカイツリーめざして歩くことにしました。スカイツリーはあまり興味がなかったのです。下はお店がたくさんあって疲れるだけの印象でした。

「塩の道」でスカイツリーそばから出ている舟に乗ったりしているうちに、江戸時代に開削された堀川が残っていて、スカイツリーができてその周辺が整備され、人々が釣りをしたりウォーキングをしたりしている様子から、ムサシ君(スカイツリー)が好きになりました。勝手に<ムサシ君>と呼びたくなっただけで深い意味はありません。自分の中ではムサシ君と呼んでいます。

浅草通りにでないで脇の細い道をいきましたが、面白いものも見つけられませんでしたので浅草通りへ出ましたら「なりひらばし」にぶつかりました。

東武橋の上からすみだ水族館スカイツリーを撮り、下は北十間川です。

下の図の赤丸がおしなり橋でしてそこの下が舟の発着所になっています。ここから二つのコースの舟に乗りまして一応「小名木川」は隅田川と中川の間を舟で移動することができました。その話は「塩の道」のときにします。

案内看板に東京ミズマチとありましたので、隅田川に戻る感じで向きを変えました。東武スカイツリーラインの高架線の下にショップができていました。秋葉原の高架線下と同じような雰囲気でしたのでなるほどとまたスカイツリーを目指してもどりましたが、このまま進めばすみだリバーウォークにつながり隅田川を渡って浅草にもどれたのです。残念でした。次の機会にします。

追記: 伝統文化ポーラ賞受賞者記念展で展示されていた一部の作品を紹介します。ピントが合ってなくてすみません。

武腰潤さんの 色絵磁器

四代 田辺竹雲斎さんの 竹工芸  

瀬戸本業窯 瀬戸焼