東北の旅・青森~盛岡 (三内丸山遺跡)(7)

この旅の途中で、秋田県立美術館の情報の他に、他の仲間の高野山の旅行中のメールも入った。山歩きをする人なので、南海高野線の九度山(くどやま)駅から高野山の大門そして奥ノ院までの道を勧めたのである。大門までが19キロで、自分は歩きたくても無理である。メールには<6時間かかって登り、充実した気持ちで、これから夜行バスを待って帰ります。>とある。

達成感がこちらにも伝わる。 帰ってから、高野山の旅とこちらの東北の旅との情報交換で、資料などもあちらに行きこちらに行きで混乱している。嬉しいことに、高野山町石道<慈尊院から大門を経て奥ノ院>も、途中電車を使えそうで、私向きのコースを教えてもらえた。

東北の旅を早くまとめなければならない。

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、県立美術館から歩いて10分以内である。ここは、一時間おきくらいにボランティアガイドがあるので、それを利用させてもらう。集合時間までの空いた時間に展示室のほうを見学する。板状の土偶は初めてである。装飾用のヒスイや玉なども大きいものがある。外での見学は暑い日で、日蔭がなく頭の中は集中力が散漫であった。

この三内丸山遺跡は、江戸時代から知られているらしい。1992年から本格的な発掘調査が始まり、縄文時代の前期から中期の大規模な集落跡がみつかったのである。縄文文化は、約一万年間にわたって継続している。100年が100回である。であるからして、そこの土地の地層を深く深く掘って行くと、そこに埋められたものが解かり、その実際の断面図をみることができるようになっている。その他、床を掘り込んだ竪穴式住居、集会所、共同作業所、冬の間共同で住んで居たであろう、大型竪穴住居、地面に穴を掘り柱を立てた高床式住居などが、その遺跡あとに建てられていて、中に入り広さなどを体験できる。

写真でよく見る6本の柱の建造物は、あそこに直径、深さともに2メートルの穴が6つあり、穴の中に直径1メートルのクリの柱が残っていたのである。大きなクリの木の下で、ではなく、大きなクリの柱の下である。祭神用の建物だったのではないかといわれている。発掘していくと、住居があり、お墓があり、ごみ捨て場がありと一つのムラの形が解ったのである。ここで、先人達は、縄の模様の土器なども使いながら、長い間暮らしていたわけである。空を見上げると、夜は星が綺麗なような気がする。北海道、北東北を中心にした、縄文遺跡群を世界遺産へつなげようと、地元の方達は頑張っておられる。

 

 

 

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18の遺跡があって、三内丸山遺跡はその一つということになる。もし世界遺産になったら、18の遺跡を制覇しなければ、全部を把握したことにはならないということである。世界遺産受講講座などが必要となるかもしれない。

今も黙々と遺跡の発掘は行われている。発掘現場を見て、三内丸山遺跡を後にする。そして夕方には、盛岡である。次は、最後の一ノ関から平泉の旅である。

 

2014年7月13日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

東北の旅・五所川原~青森~盛岡 (青森県立美術館)(6)

五所川原から青森で一つ残念だったことがある。岩木山の頂上にいつも雲がかかっていたことである。岩木山の全貌を楽しみにしていたのだが、ついに見ることができなかったのが、心残りである。

新青森駅の観光案内で、<青森県立美術館><三内丸山遺跡>の行き方と時間配分を検討してもらいう。以前、<棟方志功記念館>へ行ったとき、バスの本数が少なかったことが頭にあったので、青森の場合、多くの観光は無理ときめていた。<青森県立美術館>と<三内丸山遺跡>は隣接している。係りのかたが、青森駅に行き新青森駅にもどることなど、幾つか調べてくれた。新青森駅から歩いて30分位なのであるが、今回は歩きはパスし、結果的にタクシーで新青森駅にもどることとなった。

<青森県立美術館>は思い描いていた通り、広い自然空間の中に、白い幾何学的な建物が居座っている。入ってすぐに高倉健さんの映画上映会のお知らせのチラシを見つける。モノクロの渋いチラシである。展示物を観終ったあとで、ここで、横尾忠則さんのポスターがあって、高倉健さんの任侠映画が見られたらシュールでこの白い建物との対抗が面白かったのにと思ったりした。上映のなかに任侠映画は、入っていなかった。

最初の展示室が<マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の背景画>で、バレエ舞台の大きな背景画の綿布が三点展示されている。シャガールがアメリカに亡命していた時に手がけたものである。伝説的なロシアのバレエ団バレエ・リュスには、ピカソやマティスなども係っていたが、シャガールも、その流れをくむバレエの舞台美術や衣装に携わっていたのだ。今、国立新美術館で『魅惑のコスチューム:バレエ・リュス展』(6/18~9/1)を開催している。

<第一幕 月光のアレコとゼンフィラ>→青 <第二幕 カーニヴァル>→赤と黒 <第四幕 サンクトぺテルブルクの幻想>→左手の黄色のロシアの町  →の後は自分のメモで、色使いが印象に残ったのであろう。

次が、奈良美智さん。韓国で展示された「ニュー・ソウルハウス」という、作られた小さな開放された部屋の中の展示を見て移動するのが楽しかった。壁に囲まれた外には巨大な白い犬の作品がある。頭は青い空の光を受けている。「あおもり犬」。実物では感じなかったが、絵葉書の「あおもり犬」は随分悲しい表情である。光と影のコントラスであろうか。写真の枠に入った悲しさかもしれないと勝手に解釈する。

 

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奈良さんの作品はよくわからないのである。ただ今日、或る人にカチンときて、そうだ、この気分で、奈良さんのにらむ少女とにらみ合いたいと思った。そんな鑑賞の仕方もありかな。

次は、棟方志功展示室。志功さんも、故郷の青森ねぶたが大好きな方である。自らも、作品も、制作過程も、あの躍動感はお祭りのようであり、祈りがある。棟方志功記念館でのほうが、見る側の状況との連鎖反応からか、物凄い生命力が押し寄せてきた。今回は冷静に線や色などを楽しんだ。

最後は 「寺山修司×宇野亜喜良 ひとりぽっちのあなたに」の部屋。その時は<ひとりぽっちのあなた>の気分ではなかったので、このポスターは観た事がある、こんなポスターもあったのかと、宇野さんの細い線、ファンタジーでありながらそれを裏切る無機質な感じを楽しんだ。ポスター「毛皮のマリー フランクフルト公演版」の、映画『大いなる幻影』の捕虜収容所所長役のエリッヒ・フォン・ストロハイムが描かれているのが好きである。このポスターを初めて見た時、<あの収容所の所長だ。>とそのことだけ判ったので好きなのである。前衛とされるものの中に自分の知っているものがあると安心するものである。ただそれだけのことであるが。「毛皮のマリー」の脚本を読んだとき、毛皮のマリーの入浴しているそばに、<その傍らに、なつかしいエリッヒ・フォン・ストロハイム氏を思い出させるような下男がタオルを持って、ほぼ直立不動の姿勢で立っている。>とあったので、そのポスターの無機質性に立体感が加わったのである。ポスターハリス・カンパニー所蔵の物も沢山展示されていた。苦労して収集された物が生かされ、その仕事の意味が伝わる。パソコンを閉じて旅に出よう

インパクトの強い方々の作品が、なぜか、青森という土地の空気に飲み込まれて、大人しすぎた。晴れ渡った暑い日であった。それでいながら、冬になると別世界の自然に立ち向かうことが想像出来てしまう。冬の季節のなかで、この美術館を訪れたい。想像とは違う何かが見えるのかもしれない。

 

2014年7月11日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

東北の旅・青森五所川原の町(5)

五所川原に泊ったのは、次の日の青森までの到達時間が適当であったことと、ホテルに温泉があったからである。温泉でなくとも、大浴場があると、やはり疲れがとれる。今回の旅は、骨折を予期していたようなゆっくりタイプである。いつもは、ホテルで、次の日の予定を決めるのに時間を取られるのであるが、今回はその必要もない。そんな気力もないほど疲れてしまい早々と寝入ってしまった。身体は不思議なものでどこかが悪いと、かばうのであろう。旅のあと、それが腰にきてしまった。

さて、太宰治に関してもう少し付け加える。金木と五所川原を、太宰さんは小説『津軽』で次のように表現している。<大袈裟なたとえでわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京を例にとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といったようなところであろうか。ここには、私の叔母がいる。幼少の頃、私は生みの母よりも、この叔母を慕っていたので、実にしばしばこの五所川原の叔母の家へ遊びに来た。>

太宰は、母が病弱だったため生まれるとすぐ、乳母に育てられる。三歳のころ、子守りのたけが太宰に付き添う。叔母とたけについては、小説『思い出』でも語られている。五所川原へは、たけも一緒にいっている。そして、小学校に入るとたけは突然いなくなる。お嫁にいったのだが、太宰が後を追うのではないかとの懸念からか黙っていってしまう。お盆には訪ねてくるが、よそよそしかったと書いている。そして小説『津軽』は、最初から『津軽』を書くために郷里を旅し、たけを探す旅となっている。

太宰の実家の<斜陽館>は、五所川原から津軽鉄道に乗り換え、6つ目の駅である。以前金木は訪ねているので今回は予定に入れていない。それなのに太宰さんと会えるとは、旅の面白さである。こちらのNPOの団体が太宰の訪れた叔母さんの蔵を、現在復元再興を前提に解体し保存していて、記念館にしたいとしている。<立佞武多>を復活させた町なので、成し遂げるような気がする。

青森と弘前のねぶたは知っていたが、五所川原は知らなかった。正式には、青森は<ねぶた>で、弘前は<ねぷた>らしい。五所川原は<立佞武多(たちいねぷた)>である。<立佞武多の館>に行くと、高さ23mのねぷたを見ることが出来る。4階の高さで、ねぷたの顔が目の前にある。こんにちわである。このねぷたは、明治時代に隆盛を極め、電気の普及により、電線が邪魔をし、低いねぷたになったのであるが、1996年に市民有志が22mの大ねぷたを復活させる。そのねぷたは燃やしてしまうが、その炎は市民の心に灯され、1998年に<五所川原立佞武多>として、90年ぶりに復活させる。実物を見て、写真を見ていくと、1996年の市民の気持ちが伝わってくる。

時期によっては、制作作業を見学できるらしい。巨大スクリーンと係りの人の解説付きで映像が見れるので立佞武多がより身近なものとなる。三体のうち毎年一体は新しくされ、今年は<国姓爺合戦>の和藤内の虎退治のようである。歴史的な題材で、義経、陰陽師など歌舞伎にも通じるものが多い。ねぷたの背面絵も興味深い。葛の葉があったりする。お祭りの時は、この館のガラス面が開き、立佞武多が出陣する様は圧巻間違いなしである。形は逆三角形で、一番下の台座に<雲漢>の文字がある。これは<天の川>の意味で、青森ねぶた、弘前ねぷたにもあるらしい。「ねぷた祭り」は、七夕の日の「眠り流し」(燈籠流し)が起源という説があるのだそうだ。今夜の天の川は、遥かかなたのようである。

 

ねぷた

 

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友人に<立佞武多>の絵葉書を送る。<感動したのに納得>とひと言付け加える。友人も去年同じところを骨折したらしい。そちらの同じ道は通りたくないのであるが、仲間意識が強すぎる。

五所川原には、青森県一の富豪がいて、その人の住まいは<布嘉>と呼ばれ、<斜陽館>と同じ弘前の棟梁が建てている。そのレンガの塀が少し残っていた。その屋敷のミニチュアが、<布嘉屋>という資料館にあるそうだが開館時間が過ぎていた。兎にも角にも、五所川原宿泊も上手く行ったことになる。

内田康夫さんの『津軽殺人事件』には、<斜陽館>や<五所川原>の事も出てくる。<斜陽館>は、旅館だった時代で、印象があまりよくなかったらしい。浅見光彦さんには、『旅と歴史』だけの仕事で、もう一度訪ねてもらいたい。今回の旅に『砂迷宮』(内田康夫)を持参したが、開かずに持ち帰った。この本に手がいったのは、泉鏡花の『草迷宮』と、寺山修司さんが泉鏡花のこの作品をもとに映画化しているということを知ったからである。今、読み始めている。

五所川原の<立佞武多>を太宰治さんに見せたかった。もし見ていたら、彼の中で何かが変わっていたような気がする。

 

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東北の旅・鶴岡~秋田~五能線~五所川原(4)

羽黒山の五重塔ライトアップツアーも、夏至のころは日が長く、その時間調整が難しいらしい。鶴岡から秋田への列車からの風景、羽越本線の遊佐あたりから、鳥海山が裾野から、山頂まで全ての姿を見せてくれる。美しい。見惚れる。この風景を見られただけでもこの旅は握りこぶしである。そしてしばらく進むと海が見えてくる。秋田までの車窓風景、藤田嗣治さんの壁画『秋田の行事』、これだけで充分フルコースである。

五能線は、秋田から青森までの奥羽本線の東能代から川部までの日本海側を周る鉄道である。奥羽本線と五能線に囲まれた内側は世界自然遺産の白神山地や岩木山などの山、山、山、である。東能代のホームに<五能線起点駅>の小さな看板がある。

 

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五能線は、景勝の良い所で徐行運転をしてくれたり、停車時間を設けて写真を撮る時間を与えてくれる。能代駅ではさっそく、バスケットボールの強い能代工業高校に合わせてか、ホームでバスケットシュートが出来る。残念ながらシュートミスである。

波穏やかな優しい日本海である。十二湖駅などは、降りて行きたい駅名である。

 

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千畳敷駅では15分停まってくれ、発車三分前に警笛を鳴らしてくれる。これは、列車によるらしい。日本海に夕日が沈む鑑賞タイムに走る時間帯の列車もある。調べる方はしっかり調べて乗るのであろう。今回は、予定していた列車が満席で急遽の変更旅となってしまった。千畳敷の前には、大町桂月さんの千畳敷の景観を書いた文学碑と太宰治さんの小説『津軽』の文が彫られている<千畳敷海岸隆起生誕200年記念>の碑がある。

 

大町桂月文学碑

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<千畳敷海岸隆起生誕200年記念>の碑

 

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『津軽』は<木遣から、五能線に依って約三十分くらいで鳴沢、鰺ケ沢とすぎ、その邊で津軽平野も、おしまいになって(略)一時間ほど経つと、右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この邊の岩石は、すべて角稜質擬灰岩とかいうものだそうで(略)この邊の海岸には奇岩削立し、怒涛にその脚を絶えず洗はれている、と、まあ、、、、。>と、まあ長いので中を省略させてもらった。太宰さんは、五所川原方面から、こちらとは反対に向かってきているわけである。その奇岩の場所で降りれたのも縁であろうか。この先で予想もしなかった、太宰さんとのサプライズの出会いがあった。

鰺ケ沢から五所川原の間で、津軽三味線の生演奏があるという。これは楽しみである。ところが、電車の線路の上を走る振動の音が三味線の音の邪魔をする。車中という空間での楽しみ方もあるが、どうも納得がいかない。他の車両では、放送で聴くかたちとなる。そのほうが音に迫力がある。三味線の音を聞いていると、車窓からの風景が冬景色となる。そんな楽しみ方が終わると五所川原である。

五所川原駅を出てそく観光案内へ。友人がツアーで行った、五所川原でのねぶたの記念館で見たねぶたが圧倒されたと聞いていたので、まずその記念館の場所を聞くためである。<立佞武多(たちいいねぷた)の館>である。駅から歩いても10分以内でホテルからも近い。観光案内のパンフの中に、<太宰治 ブラリ思い出散歩帖 五所川原>の冊子がある。太宰さん関連の散歩コースである。これはいただきである。

ホテルに荷物を置き、歩くコースを検討。<太宰と昭和の「思い出」をみつけてみたい散歩。グルッとひとまわり1時間ちょっとです。>とある。<立佞武多の館>もそのコースの途中である。

太宰は叔母キヱさんを慕っていた。その叔母が太宰の実家のある金木から五所川原へ移るおり、太宰も叔母と五所川原についてきて、小学校入学までを過ごす。その後もしばしば訪ね、戦時中、金木に疎開したときも、叔母のところに寄っている。叔母宅も空襲で焼かれ、<土蔵>が残りそこで友人達と酒宴を開き文学や様々な話をしたようである。

 

叔母の家の蔵の跡地

 

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岩木川に架かる<乾橋>の手前で岩木山を眺めつつ河原を歩き<招魂堂>へ。

 

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7つか8つのころ落ちたという顎のあたりまで水の深いどぶとされる<みずとみどりの小公園>。

 

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芝居小屋<旭座>。この芝居小屋には、廻り舞台もあったという。それぞれ、小説『津軽』、小説『思い出』、随筆『五所川原』に出てくる。また、鎌倉での事件の後始末や結婚の時の衣裳を揃えた津島家のお抱えの呉服屋さんもこの五所川原であった。金木では見せなかった、太宰治の思い出の町といえる。

 

東北の旅・青森五所川原の町(5) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

東北の旅・慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡(3)

<慈恩寺>は慈恩寺縁起によると、僧行基の奏上により、聖武天皇が勅命し開基される。鳥羽院の時には奥州藤原基衡が再興修造。後白河院の時には、平清盛の父・忠盛が奉行であった。鎌倉になると、頼朝の家臣・大江広元がこの寒河江(さがえ)荘の地頭となり、慈恩寺を庇護していく。そのあと山形城主最上氏が庇護。江戸時代には、寺領は関東以北最高となるが、明治新政府により、寺社領没収となる。色々な宗派の影響を受けつつ昭和47年、「慈恩宗」となる。慈恩宗のただ一つのお寺ということになる。バスガイドさんが、このあたりの事も詳しく説明してくれていたが、記憶出来ないので、本山慈恩寺発行書物に頼る。

 

慈恩寺本堂

 

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「慈恩寺の文化財」

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この本は慈恩寺の文化財、仏像の写真が網羅されているので、拝観時間の少なかったぶんも補える。京都で作られた仏像がこの山形の地にあるのが、不思議であった。京の仏師が移り住んだのかと考えたが、京がすぐれた仏師を手放すわけがない。造った仏像を移動させたのである。京都から琵琶湖をへて、福井の敦賀から船で酒田に渡り、最上川を上って辿りついたようである。

慈恩寺は、JR佐沢線の羽前高松駅から徒歩20分なので、来ようと思えば来れるところである。お目にかかれない仏様もあるが、どんな場所に秘そんでおられるかがわかったのでその場所で再び想い描きたいものである。本堂から10分位の山の頂には山王台公園があり、山形盆地を眺めることができるらしい。

バスガイドさんは、月山羽黒山湯殿山の出羽三山の車中から見えるただ一個所の位置も教えてくれる。出羽三山は山岳修験の霊場で、開山は崇峻天皇の皇子・蜂子皇子である。羽黒山の山頂に建つ三神合祭殿は、月山、羽黒山、湯殿山の三神を祀っている。月山、湯殿山が雪のため、登れないので、羽黒山に三神を祀ったと伝えられている。この祭殿の藁葺屋根は、厚さ21センチもあり、吹き替えるのに1年かかるという。その祭殿の姿を映す池が鏡池。映すだけではなく、古来から、銅鏡を奉納し、埋蔵されている。

 

羽黒山三神合祭殿

 

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出羽三山を開いた蜂子皇子(はちこおうじ)は、曽我氏との争いに敗れ、船で日本海を北上し八人の乙女に招かれ鶴岡市由良に着く。そして、三本足の八咫烏(やたがらす)に導かれ羽黒山にいたる。自然崇拝者で、修験道の山として全国に知られる。今でも、宿坊は山伏の方が多い。バスガイドさんの説明のお蔭で、駅で手に入れた、旅ガイドもスラスラ頭に入る。この蜂子皇子を祀る蜂子神社の秘宝『蜂子皇子の尊像』が公開されていた。お祓いを受けてから拝観する。よく知られているお顔は(私は初めてである)、人間のあらゆる苦しみ、悩みを一人で受けられ怖いお顔であるが、秘蔵のお顔も苦難を通過して羽黒山に到達したお顔であった。八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークでもある。

 

蜂子神社

 

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そして、期待の五重塔。これが、平将門創建なのである。こちらは、ボランティアのガイドさんが説明についてくれる。時間が制限されているので、話したいことがあるのに残念の感で説明してくれる。旅行者の中に、将門がここまで来たなんて考えられないというかたがいますが、歴史はロマンですからとガイドさん。解かります。それほど将門は庶民のヒーローだったのである。こちらとしたは嬉しい。歌舞伎の<将門>を、この場に置いて思い描いた。この五重塔のライトアップを見るツアーもあるらしい。 柿葺落四月大歌舞伎 (四)    平将門の人気

 

羽黒山五重塔・平将門建立・出羽守最上義光修造

 

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時間はなかったが、満足であった。随神門から五重塔の前を通って三神合祭殿に到る表参道杉並木は歩きたい道であった。身体的状態からも、これが、限度であったが。

最上川に沿っても文化がありそうである。最上川下りで船頭さんが歌われるのは、『最上川舟唄』であろう。

JR左沢線左沢駅で下車する大江町の左沢は、県内で初めてその景観が国の重要文化的として選定を受けた町らしい。<左沢>の読み方→<あてらざわ>。何かいわれがあるのであろう。

バスガイドさんの厳しい愛の時間制限で、バスは予定通り鶴岡駅に到着。お蔭さまで中身の濃い旅であった。鶴岡は藤沢周平さんの街でもあるが、今回は素通りで秋田に向かう。

 

東北の旅・鶴岡~秋田~五能線~五所川原(4) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

<対馬丸>学童疎開船

東北の旅の途中で沖縄の学童疎開船<対馬丸>のことを知る。両陛下が沖縄那覇市にある『対馬丸記念館』を訪問されるという報道ニュースをテレビで見て、初めて知ったのである。

1994年8月22日、アメリカの潜水艦の魚雷によって、沖縄から本土に疎開する学童が海に投げ出されたのである。学童を含め、1500人近くの方々が亡くなっている。

水木洋子展もラストへ で、<沖縄では、いわゆる適格者(18歳以上60歳までの男女)は軍の命令によって疎開できなかった>ということを知ったが、さらに、疎開児童まで途中で犠牲になってしまった事実があったのである。生き残った者にも、即、緘口令が言い渡される。生き残った方々の心の傷をさらに傷めつける事をしているのである。いつこの事実が公になったのであろうか。水木洋子さんが取材されたとき、この話は出たのであろうか。ひめゆり部隊のことは多くの人が知っているが、学童疎開船<対馬丸>のことは、どれだけの人が知っていたことであろう。沖縄には行っている。あの美しい海へ、次々と飛び込んだという話も聞いている。バスガイドさんから、様々な話も教えてもらった。聞き逃していたとすれば、うかつ者である。

寺山修司さんのお母さん・寺山はつさんの『母の螢 寺山修司のいる風景』を読んだ。夫を戦争で亡くし、文字通り母一人子一人の生活で戦争を乗り越えられている。その中で、青森での大空襲の中を、修ちゃんの手を引き逃げまわるのである。青森市も焼け野原となったのである。

寺山修司さんの青森高校三年の時の詩にこんなのがある。

すみれうた  - ひめゆりの塔へ

すみれの花が咲く頃には                                                                       また、かなしい海が                                                        耳をいじめるでしょう。                                                          だがー                                                                   バベルになってしまった塔には                                                   もう火の匂ひは ありますまい。                                                僕の中のさみしい空気層。                                                   いつも爆音があけてった穴を                                              繕っていたっけー。

少女よ。                                                                あなたの祈りは                                                                 母のことだったでしょうか。                                           いのちのことだったでしょうか。

僕はまた                                                                  あなたのひとみに 雲を映して                                                  ふるさとの葡萄を                                                                 食べたかった。

 

 

 

東北の旅・仙台~天童~慈恩寺(2)

このバスツアーは、見学時間が20分から30分と短時間である。その乗りで次の朝、秋田県立美術館に行こうと思ったのかもしれない。バスガイドさんが多少年配のかたで、私的には期待していたのであるが当たりであった。歴史的なことをよく調べられていて、長いバスの中と見学の短さを補ってくれた。

宮城県は仙台に降りその後は、バスで通過である。1611年、奥州は地震と津波に見舞われていた。仙台藩も相当の被害があったが、徳川家はそこを見逃さなかった。仙台藩の財力をさらに弱めるため、江戸城の石垣を献上させ、外堀のために、人夫も出させたのである。そこで窮した仙台藩主・伊達政宗は、1613年に支倉常長(はせくらつねなが)をスペインとローマ教皇のもとへ派遣する。メキシコとの直接貿易を試みたわけである。きちんと江戸幕府の許可を取ったらしい。

常長が帰ってきた時は、キリシタン禁制である。政宗は、キリシタンの常長はかくまったが、他の帰国者は長崎で処刑されたようである。常長も帰国して2年後に亡くなっている。お墓が3つあり、何処に潜んでいたか判らないようにしていたことがうかがえる。バスガイドさんからの聞きかじりで、正確さは保証の限りではない。こういう流れがあったと知れたのが嬉しい。

山形と云えばさくらんぼであるが、途中の天童市は日本の95%もの将棋の駒を作っている街である。高いものは数百万円し、一つ一つ手作りで、文字も手彫りの中に、手書きで書き上げる。天童藩は織田信長の子孫が藩主となり、財政のため、将棋の駒作りを奨励したといわれる。衣を正し、戦うということで、武士道に通ずるともかんがえられたようである。<王将>と見ると大阪の坂田三吉さんを、思い出してしまうが、駒は山形の天童である。

山形には紅花もある。<紅花>となると、アニメの『おもひでぽろぽろ』が浮かぶ。秋田県に拠点をもつ<わらび座>の『ミュージカル おもひでぽろぽろ』(台本・作詞・齋藤雅文/演出・栗山民也/作曲・甲斐正人)を観たことがある。アニメをどう生の舞台にするのかと興味があった。途中で、これは、アニメを忘れて別ものとした観たほうが面白いと思った。アニメの、好きなのにわざと虚勢を張る少年の何とも言えない屈折はアニメ独特の淡い表現で、舞台では違う形で表現されていた。初めて観る劇団であったが、役者さん達の演技素地がしっかりしていて、演劇としての『おもひでぽろぽろ』は伝わってきた。

そんなことを思っている間に、バスガイドさんの説明は続く。慈恩寺の近くには、知名度の高い立石寺(りっしゃくじ)がある。そこから、芭蕉の話にもなる。このあたりは、『奥の細道』の現場でもあるわけで、ガイドさんによると、芭蕉の旅日程より、同行の曽良の日記のほうが正確なのだそうである。芭蕉は平泉から、立石寺を経て出羽三山に入っている。ここで、芭蕉の句をひとつ。

眉掃(まゆはき)を面影にして紅粉(べに)の花  <まゆはきをおもかげにしてべにのはな>

芭蕉さんは紅花の花の盛りのころに尾花沢に滞在していて、紅摘み、紅つき、紅干しを見ている。『奥の細道』に入ると道幅が細いどころか広くなるので、この歌だけとする。

ガイドさんではなく、私の調べたところによると、山寺・立石寺は、庶民の拠りどころとしたお寺であり、慈恩寺は、その時々の権力者に庇護されたお寺である。山寺は、石の世界でもあり、慈恩寺は平安、鎌倉の仏像の世界である。

その仏像を拝観する時間の短さに、流す涙の落ちる時間も無かった。感嘆符のみ!

 

東北の旅・慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

東北五県を巡る旅(1)

東北六県であるが、福島は通過で降車しなかったので、宮城山形秋田青森岩手と東北五県を巡る。

山形の慈恩寺に憧れを抱き、いつかは行くぞと思っていたら、今年は今世紀初の秘仏御開帳である。宮城県仙台からバスツアーが出ている。山形県<慈恩寺>から<羽黒山>へ行き秋田県の鶴岡に抜けるのである。そうなると、五能線で青森に出れる。青森の<県立美術館><三内丸山遺跡>に寄り、岩手県の一関から、<平泉世界遺産めぐり>のバスツアーがある。平泉が世界遺産となり初めて知ったのであるが、それまでは形として残っている中尊寺の金色堂と毛越寺(もうつうじ)だけが頭にあったが違うのである。奥州藤原氏三代の築き上げ理想とした、万人平等の平和な浄土の世界、それが100年続いたという事が評価の対象である。その拠りどころとなった建物で当時のまま残っているのが金色堂だけなのである。残されたわずかなものと、今も発掘が続けられている遺跡の地を訪ねて想像の翼を広げないと、捉えきれないのである。青森の<三内丸山遺跡>も今年の発掘調査が開始されたばかりであった。

これが、今回の旅の柱であったが、旅には、予定外のサプライズの出会いがつきもので、最初の宿泊地秋田で、出会いがあった。

友人が先に、東北から新潟への旅に出ていて、時々報告がメールで入る。彼女は、レンタカーを使い、石川雲蝶を追いかけている。石川雲蝶は<越後のミケランジェロ>といわれている彫り物師である。その一報に、「秋田県立美術館所蔵、藤田嗣治の『秋田の行事』が最高。他の油絵、素描も感激。」とある。こちらは仙台から秋田に抜けて、秋田に泊ったのであるが時間が無いと思いきや、朝起きて気が付く。美術館がホテルから5、6分。美術館は秋田駅から10分である。美術館の開館前に行くと、20分は時間をとれる。

『秋田の行事』見れた。一人一人の表情、筋肉の動き、人の動きによって踏まれた雪、今にも雪が降り出しそうな鈍よりとした空模様、右手の祭りの造り舞台では、秋田音頭が踊られていて、見物人は浴衣で、夏祭りであろうか。大平山三吉神社の大祭であろうか、鳥居を潜ろうとする神輿を担いだ男たち。その前面に漁師であろうか、厚い刺し子の長い防寒衣を着た大きな男。秋田竿燈(かんとう)もある。立てかけられた木材には秋田産の焼印。箱そり。秋田犬。継張りされた、夜店の囲い布の色が優しい。油絵、素描と凝縮された時間である。油絵の町芸人、力士などは、フェリー二監督の登場人物を思わせる。

『回想 寺山修司』の中で、『毛皮のマリー』パリ公演の最終日、ホモセクシュアル文化のメッカでもあり、その手の客を招待した時の様子を次のように表現している。「フェデリコ・フェリー二の映画からぬけだしてきたような着飾った連中が、まるで悪夢のようにどっと押し寄せたものだから、公演どころではなく奇妙なパーティー騒ぎになってしまったのである。」すぐ想像がつく光景描写である。やはり、旅の途中もどこかで寺山さんを引きずっているようだ。

感動を知らせてくれた友に感謝である。藤田嗣治さんの絵は、資産家・平野政吉さんが収集したもので、『秋田の行事』も平野家の米蔵の中で描いている。平野政吉コレクションとあるので、秋田県立美術館が所蔵しているのではないかもしれない。この壁画は、1937年(昭和12年)に新しい美術館に飾られる予定であったが、戦争のため美術館の建設が中止となり、一般公開されるのが、30年後の1967年(昭和42年)である。その間、平野家の米蔵で保管されていた。今は、秋田県立美術館に行けば藤田嗣治の『秋田の行事』を見る事ができるのである。時間の無い者には嬉しいことに、310円の観覧料であった。

もっと驚いたのは、青森の<三内丸山遺跡>は、展示室も含め無料である。あの広い縄文時代の<ムラ>の草刈りなど、ボランティアの方達がされているのだそうである。東北の地に根ざした力は凄いです。平泉にしろ、頼朝は恐れを感じていたことがわかる。東北独自の考え方を持つ現世の浄土感の土地だったのであるから。

 

東北の旅・仙台~天童~慈恩寺(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

パソコンを閉じて旅に出よう

寺山修司さんの、『書を捨てよ、町へ出よう』を捩らせてもらった。加藤健一事務所 『請願 ~核なき世界~』を観に、下北沢の本多劇場に行った帰り、劇場の下にある名前の判らぬ、楽しいお店に寄る。様々な雑貨や本、CDなどが置いてあるお店で、眺めているだけで楽しい場所である。迷路のような雑貨の間に本が、分野別にあり、その分野が無造作でありそうで、結構こだわりで置いてありそうで手が伸びる。そして、『 回想 寺山修司  百年たったら帰っておいで 』(九條今日子著)、『 寺山修司とポスター貼りと。  僕のありえない人生 』(笹目浩之著)をゲットする。

<天井桟敷>の設立の様子や、当時の若者を魅了した演劇という異界が裏から見れるという著書である。お二人とも、私的なことをも含め深く係られていたのであるが、お二人の生き方が、自分の仕事の役割という事を客観的に捉える眼を持たれていて、寺山さんをまやかしの情念の方向に持っていかないところが爽やかである。

今回の四日間の東北の旅は、バスツアーを二日入れており、<青森三沢市寺山修司記念館>には寄れないのである。もう少し寺山さんの作品を読んでからのほうが良いかもしれない。寺山修司没後30年「寺山修司◎映像詩展」のとき、九條今日子さんの話を聞いている。元女優であり、寺山さんの元夫人ということであったが、思いのほか虚勢の無い方であった。この好印象が、『回想 寺山修司』の本に手が伸びた要因の一つでもある。それは当たっていた。きちんと回顧録になっており、この手の一度読めば結構の妙な甘さがないのである。最後に九條さんに寺山さんのことを託された、<修ちゃんのお母さん>は修ちゃんのために最善のことをされたわけで、それに九條さんは嵌められたのか、知っていて嵌ったのかその辺は想像の域である。

この「寺山修司◎映像展」では、笹目浩之さんが経営するポスター・ハリスカンパニー主宰でポスターハリスギャラリー(渋谷・文化村通りドン・キホーテの裏)でポスター展をやっていたのであるが、、そのあたりを探したが場所が判らなかった。時間も無かったのであきらめた。残念な事をした。

今回の旅に「青森県立美術館」を入れていた。白い建物も見たかったのである。何を展示しているのかも調べていなかった。常設展として、<寺山修司×宇野亜喜良 ひとりぽっちのあなたに>があり、寺山修司さんに逢えたのである。しかし、動かない展示物としての寺山ワールドは東京の街中で逢う寺山ワールドと違い、至っておとなしくうつった。青森に飲み込まれてしまったようである。それを考えるとあの、『田園に死す』の映像のインパクトが必然だったのか。『回想 寺山修司』の映画『田園に死す』の箇所で、民族考証として加わった田中忠三郎さんの名前があったのも嬉しい。田中さんを知ったのは、映画 『夢』 である。

寺山さんの作品は映像で、美輪明宏さんの『毛皮のマリー』を見ている。蝶を追いかける少年が誰だったのか覚えていない。少年は蝶を追いかけるのが目的か、捕まえてピンで留めるのが目的か、自分がピンで留められるのが望みか、逃げて自由に飛び回るのが望みか結論がない。飛んでは傷つき毛皮に包まれ、飛んでは傷つき毛皮に包まれ、そんな事を夢観ているのかもしれない。

どこかで蝶に出会うと、君はどんな少年に追いかけられてるのかと問いただしたくなる。

確か、映画『ビートルがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!』で、リンゴ・スターが本ばかり読んでいて、マネジャーらしき人に「本を捨てて町に出よう」らしき事を言われるところがあったと思う。この映画も、ドキュメンタリータッチで、歌謡映画的予想をして観に行って戸惑った記憶がある。

戸惑いは、前進か裏切りか、安住でないことは確かである。

 

遠州の三つの庄屋巡り

雑談から旅 で静岡の庄屋の事をかいたが、思いがけず、違う旅行会社で企画があり行くことができた。行きたいと思っていて1年で行けたのであるから早い巡り合わせである。

こちらは三つの庄屋を訪ねる日帰りバスツアーである。ご無沙汰している友人を一年振りで誘う。やっと声が掛かったかと思ったに違いない。前日から明日は雨で、それも激しい雨とテレビでは伝えている。これは天気は諦め、一日友人とのおしゃべりの日としようと、お互い考えることは同じであった。さらに、「彼女雨女だったかしら。」と考えたのも同じであった。ところが、実際には、見学中は強い雨にもあたらず、青空さえ見えたのである。暑すぎず却って好都合であった。

静岡県牧之原市の<大鐘家>  掛川市の<加茂荘>  磐田市の<花咲乃庄(大箸邸)> である。

<大鐘屋(おおがねや)>は、柴田勝家の家臣、越前(福井県)丸岡城家老・大鐘藤八郎貞綱がこちらに移住、大庄屋となり築いた建物である。直接関係ないが、福井の丸岡城は小ぶりだが存在感がある。城好きの三津五郎さんは、「質実剛健で、まるで古武士のような佇まい」と表現されていて、勘三郎さんとの初めての二人旅で訪れている。<大鐘屋>に話を戻すと、300年以上の歴史があり、長屋門と母屋は国の重要文化財に指定されている。長屋門の藁葺屋根の吹き替えに一千万かかるそうで、母屋はその6、7倍かかるとか。長屋門の藁屋根の組形も特徴があるらしい。関東では、庄屋ではなく名主と呼ばれる。<大鐘屋>は農業ではなく、前の駿河湾での漁業である。天井の高い母屋で、室内の天井は刀剣類を振り回せない様に低くなっている。裏にアジサイ遊歩道があるが、まだ時期的に3分くらいであるが、種類が多いので、こんなのもあるのだと色と種類を楽しむ。カシワの葉に似た葉っぱのカシワアジサイは白で、房になって垂れ下がり初めて見た。聞き間違いでなければ、日本古来のアジサイをシーボルトが西洋に持ち帰り品種改良したのが、あのおおきな西洋アジサイだそうである。上からは駿河湾が見えた。御当主が「漁業は日銭が入ります。農業は一年かけなければなりません。」の言葉を思い出す。蔵には書画のお宝があった。

<加茂荘>は、豪農で、江戸後期の建物である。昼食を先にしますと案内された。突然花々がわーっと目に飛び込んできたのには驚いた。花菖蒲で有名なのだが、菖蒲ではなくインパチェンスの花が上から垂れ下がっおり、アジサイなどの鉢植えがある。温室になっていて、鏡も上手く使い花に囲まれての昼食であった。食事は素朴な庄屋弁当である。そのあと、花菖蒲園と<加茂荘>の見学である。庄屋屋敷の前が菖蒲園で、満開であった。屋敷のほうは、庭を真ん中に建物があり、その曲がるところが、三、四段の階段になっていて廊下で繋ぐというよりも、大小の部屋で繋ぐかんじである。別棟に、石彫刻と志戸呂焼きの展示をしていて、志戸呂焼きを初めて知る。小堀遠州の「七つ窯」のひとつなのだそうである。

最後が<花咲乃庄(大箸邸)>である。大箸家は造り酒屋を営み、庄屋となった家柄である。建造物7件が国の有形文化財である。天保の石庭にあるドウダンツツジ2株は磐田市天然記念物である。天保の石庭の石は京都の鞍馬山から運んだもので、鞍馬山の石は敷石にしても、下駄ですり減ることはないのだそうだ。箱根の畑宿から箱根宿に行く道は、整備もしたのであろうが石は平になりすべりやすく、箱根宿から三島方面への道の石はデコボコしており、これは、歩く人の数によるのではないかと想像したのを思い出す。こじんまりとした庄屋屋敷であるが、庭の菖蒲を見ながら手打ちそばやうなぎを食せる。先祖は天竜治水工事にも尽力されたようである。二つの蔵には、勝海舟、水戸斉昭、西郷隆盛、小林一茶らの掛け軸や書があるが、説明文が判りづらく、収集したのか、なぜここにあるのかわからないのは残念である。

友人と、個人が頑張られて後世に残そうというのは大変なことであるとの同じ感慨であった。資料一つにしても保管と維持が大変である。展示品もここにこの品物があるのは、そういうことなのか、と引き付ける工夫も必要である。御当主のかたが説明して下さったが、次の代へつなぐのはなかなか難しいと言われていた。私たちのような旅行者もいるのであるからつながって欲しい。

バスの通る道の両側は茶畑である。新幹線や列車では見られない風景である。友人と、時代劇なら、絣を着た娘さんが並んで茶摘みをして、歌がつくよねと笑う。「八十八夜っていつなの。」「いつなんだろう。」

次の朝、テレビで偶然にも掛川辺りの里山の無農薬の茶畑を写していて、「八十八夜」は、立春から八十八夜数えるとか。なるほど、「夏も近ずく八十八夜、 野に も山にも 若葉が茂る」。