歌舞伎座10月『三人吉三巴白浪』『大江山酒呑童子』『佐倉義民伝』

  • 10月の歌舞伎座は、十八世中村勘三郎七回忌追善公演である。一階ロビーに勘三郎さんの遺影が飾られている。『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』は、お嬢吉三の七之助さんとお坊吉三の巳之助さん、味が薄かった。台詞やしどころは教えを受けていればその通りに、あるいは相当丁寧に練習されているとは思うが引きつけられなかった。和尚吉三の獅童さんは勘三郎さんの台詞を練習されたように響き、上手く自分の中に取り込まれたように思えた。和尚吉三がでてきて三角形になったように思う。おとせの鶴松さんは生活からくる哀れさが欲しい。可愛らし過ぎた。

 

  • 大江山酒呑童子(おおえやましゅてんどうじ)』は面白かった。勘九郎さんの酒呑童子がいい。こんな童子のお人形があるなと思わせられる。国立劇場で『舞踏・邦楽でよみがえる 東京の明治』の中に『茨木』があった。録画で歌右衛門さんのと茨木童子、松緑さんの渡辺綱を先に観た。歌右衛門さんが最初の伯母真柴のところで、こちらが茨木童子に変わるのだと知っているのに、そのことを忘れさせるくらい綱を想う真柴であった。国立劇場での花柳寿楽さんの茨木童子と花柳基さんの綱も踊りの心の骨格がしっかりされていて良かった。ただ観る条件として、前の方が背の高い方で視野がさえぎられ残念であったが、こればかりは仕方のないことである。

 

  • 国立劇場で、鬼人などに変わるものは、観る方も先ず最初の役の踊りに没頭し、演者も没頭させてくれなくてはいけないのだと確認できた。勘九郎さんの酒呑童子はまさしくその条件にかなっていた。その稚気さ、気持ちをそらさない動きなど大変気にいった。ただ勘九郎さんは膝大丈夫なのであろうかと気になる。かなり以前ドキュメンタリーで膝を悪くされていたのを見て以来、好い踊りを見せられると気にかかるのである。使い続ける箇所なので大切にされてほしい。舞台にでると無理を承知で動かれてしまうことになるのであろうから。

 

  • 扇雀さんの頼光は、八月の『花魁草』のお蝶とはガラっと変わる声質である。頼光が出れば四天王で、平井保昌の錦之助さんを先頭に颯爽とした四天王であった。童子に捕らえられていた女たちの踊りが花を添える。初めて観るような新鮮な『大江山酒呑童子』であった。

 

  • 佐倉義民伝』は、何回観ても泣かされる。命をかけての直訴。命と引き換えても訴えなければならない窮状なのである。二階ロビーには、御本尊宗吾様像が祀られていた。直訴を決めて最後の家族との別れに向かう白鷗さんの宗五郎。お咎めを覚悟で渡しの舟を出す歌六さんの甚兵衛。家に帰ってみると、子供の着物も困っている同郷の人に持たせ、夫の離縁に抗議する女房おさんの七之助さん。七之助さんが芯のしっかりしたところを見せて白鷗さんの慈愛に満ちた宗五郎と上手くマッチして大きな仕事を支える様子がよい。

 

  • ぱっと舞台が紅葉に赤い渡り廊下となる東叡山の場面。苦しむ農民の生活と余りにも違うこの明るさと赤は、血潮さえ思い起こさせる。そこに現れる将軍家綱の勘九郎さんが凛々しく大きい。宗五郎の直訴文を読む松平伊豆守の高麗蔵さん。上書きは投げつけ、直訴文は袂にしまう。安堵する宗五郎。観ている方も涙する。将軍を囲む武家たちの長袴の裃姿の若手さんも美しくきまっていた。

 

  • 友人が『宗吾霊堂』に行った事がないというので夏、甚兵衛渡しまで行くことにした。半日コースと『宗吾霊堂』まえでお蕎麦を食べてからお参り。境内には『御一代記館』があり佐倉惣五郎の一代記が見れる。人形をつかった場面、場面に音声解説がついている。歌舞伎の場面と相似している。『宗吾霊宝殿』には惣五郎ゆかりのものと、様々な方の色紙などがある。確か、幸四郎時代の現白鷗さんと勘三郎さんの色紙もあったように思う。漫画家やイラストレーターの方の色紙の「義」の文字に対するアイデアがやはりユニークである。

 

  • 『宗吾霊堂』から甚兵衛渡しまで「義民ロード」というのがあり、その地図をダウンロードして検討を付けて行ったのだがどうも違うらしく戻って地元の方にきく。その地図では地元の人も説明できないと丁寧に教えてくれた。途中に『麻賀多神社』があり、そこまでももう一度地元の方に尋ねた。『麻賀多神社』は、なかなか趣のある木々に囲まれた古い神社で気に入ってしまった。ただ常時人がいるわけではなく、御朱印は日にちがきめられていた。空が真っ黒な雨雲発生で、途中で降られては大変とひきかえした。もし行くことがあったらバスで甚兵衛渡しまで行きもどるコースとしたい。道に迷った時、一日一便のバス停があった。一日一便は初めて見た。どんなひとがどんな使い方をするのかと友人と首をかしげてしまった。

 

  • 一階、二階のロビーのことを書いたのですから、三階も書かなくては。三階には、亡くなられた名優たちのお写真がありますが、初世齊入さんのお写真が以前よりかなり近くに感じられます。誰かが思い出せばその人は生きている人の中で生きかえります。でも憎らしかったあいつなんていうのは。う~ん、それもありでしょうかね。人間だもの。(相田みつをさん風締めになってしまった)

 

松竹座 十月歌舞伎(二代目齊入、三代目右團次襲名公演)

  • 大阪松竹座の十月歌舞伎は、市川右之助改め二代目市川齊入、市川右近改め三代目市川右團次・襲名披露と二代目市川右近初お目見えの舞台である。昨年(2017年)の1月に新橋演舞場で三代目右團次さんと二代目右近さんの襲名舞台があり、7月に歌舞伎座で二代目右之助さんが二代目齊入さんとなられた。そして今回、お二人の生まれ故郷大阪での襲名披露公演である。

 

  • またまた映画のことになるが、映画『殺陣師段平』の中で段平が自分は右團次のところにいたんだと自慢する。歌舞伎にいたんだではなく、右團次のところにいたと作者が書いたのであるから、右團次という役者さんは言ってわかるような方だったのだとは思ったがそのまま深く考えなかった。そして、右近さんが右團次を襲名されても、三代目猿之助(二代目猿翁)さんのところに部屋子として入られたかたが右團次さんを継がれるのは、お目出度いことであるでとまっていた。

 

  • 今回、松竹座のロビーに、初代右團次(初代齊入)さん、二代目右團次さん、二代目齊入さん、三代目右團次さんの4人のかたの紹介が掲げられていた。それを読んで、初代、二代目とケレン歌舞伎を得意とされていたことがわかった。そしてその芸を受け継いでいたのが三代目猿之助さんで、さらに猿之助さんのもとで修業されその芸を受け継いでいるのが現右團次さんである。

 

  • 右之助さんは、曾祖父の名・齊入の二代目代を受け継がれ、芸がつながっている市川右近さんによって右團次の名前が復活したのであるから、こういう繋がりかたもあるのかと素敵な風を感じる。二代目齊入さんは、三代目寿海さんの部屋子となられ、右之助を襲名し、寿海さん死後は十二代目團十郎さんに入門され現在に至っている。

 

  • 1962年の映画『殺陣師段平』を少し前にみていた。澤田正二郎は市川雷蔵さんで、雷蔵さんが寿海さんのところを離れ映画に移られたのが1954年で、1955年に右之助さんは寿海さんの部屋子となられている。映画での段平は鴈治郎さんである。右團次のところにいたという段平が橋の欄干でトンボをきるが、これは右團次さんのところにいたケレンの芸の一端として見せていたのであったかと気が付く。当時、鴈治郎さんや雷蔵さんの中では、右團次さんの名前は生きていたであろう。

 

  • 今回の襲名口上に藤十郎さんや鴈治郎さんが並ばれ、大阪生まれの齊入さんと右團次さんが大阪で襲名公演をされるというのが、なにか巡り巡って頑張ってこられたお二人にとってとても喜ばしく感じられるのである。そしてそれを支える海老蔵さんと猿之助さん。二代目齊入さん、三代目右團次さんも芸にさらに力が加わることであろう。とてもいい襲名公演である。

 

  • お芝居については、サクッとすかし編みで。『華果西遊記(かかさいゆうき)』は、孫悟空の活躍で蜘蛛の精の姉妹から三蔵法師を助け出すという痛快劇。耳から如意棒を出したり、分身を登場させたりと大活躍である。ひょうきんさは、猪八戒と沙悟浄が担当で、孫悟空は耳から如意棒を出したり、分身を登場させたりと大活躍である。孫悟空(右團次)と分身(右近)は、きんと雲に乗って(宙乗り)三蔵法師を助けに行き無事助けだす。歌舞伎の西遊記ならこれ!として気楽に楽しめる芝居となって定着。

 

  • 市川右近さんも無事挨拶ができ、大きな拍手のなか『口上』も目出度く終了。『神明恵和合取組(かみのめぎみわごうのとりくみ) め組の喧嘩』は、町方の鳶と力士の喧嘩という江戸の華同士の喧嘩を粋にいなせに見せてくれる。江戸の風景が舞台いっぱいのさく裂。鳶は町人で力士は武士のお抱えのためそれを鼻にかけている。鳶たちにはそれが気に食わない。こちらは庶民のために命を張っているのだの意識がある。品川島崎楼で一度は尾花屋女房おくら(齊入)の仲裁もあったが、芝居小屋でも小競り合いがあり、鳶の頭・め組辰五郎(海老蔵)はついに堪忍袋の緒が切れ、四ツ車大八(右團次)らとの喧嘩場面の大詰めとなる。

 

  • これでもかという喧嘩場面で、大勢の鳶が屋根の上に壁伝いに上から差し伸べる手を頼りに登っていくが、一人くらい失敗するのではと思ったが全員無事屋根に上った。つまらぬ期待をしてしまった。力士も力士らしく、鳶も格好良くと転んだりすべったりで、ひとりひとりの役者さんを確認するのは難しいが、ときにはぱっとわかることがある。おっ、頑張っていますね。これを仲裁するのが、喜三郎(鴈治郎)で、町方を取り締まる町奉行と相撲を取り締まる寺社奉行からたまわった法被を見せるのである。江戸の取り締まりの仕組みの一端がみえる。間に、鳶頭の女房・お仲(雀右衛門)と息子とのやりとりがあり、ことここにいたったら覚悟はできているの夫婦のみせどころと親子の情が展開される。

 

  • 玉屋清吉』は、新作歌舞伎舞踏で、海老蔵さんの新作のときはどうも捉えられないことがあり今回も。このように思っているのだろうなとは感じるのですが。江戸の花火師を主人公にしている。愛嬌のある花火師・玉屋清吉が登場。鳶頭・辰五郎の時、鋭利な中にもふっとやわらかさも欲しいとおもったのでこれはとおもったのである。下駄タップになって、そのあと舞台は映像の花火と三味線の音の掛け合い。この掛け合いは、面白かった。少し長い。出ました。花火の精ということなのでしょう。荒事の姿。うーん。個人的要望としましては気風の好い粋さの踊りで埋め尽くして欲しかった。

 

  •  雙生隅田川(ふたごすみだがわ)』は、新橋演舞場 壽新春大歌舞伎 ~ 三代目市川右團次、二代目市川右近襲名披露~ 昼の部 を参照されたい。書かれている中で今回役がかわられているのは、勘解由兵衛景逸(九團次)、局・長尾(齊入)、大江匡房(鴈治郎)である。齊入さんは女形のほうが向いておられるように思う。市川右近さんが成長されて、梅若丸が猿島惣太に折檻される場面で逃げまわる動きがスムーズになられ、最後の松若丸が掛け軸を持つ場面もしっかりしていて、これなら次の当主になれると思わせる。

 

  • 大きく変わるのは、「鯉つかみ」の前に、齊入さんがお家芸であることが紹介され「鯉つかみ」もその芸の歴史が明らかとなる。小布施主税役の米吉さんも小粒できりりとの感じで脇に並び控え頼もしかった。右團次さん本水の立ち廻りの「鯉つかみ」をしっかりつとめられる。伴藤内は新橋でも滝にうたれたであろうか。記憶が定かでない。今回は『黒塚』がないので隅田川での斑如御前の猿之助さんの踊る場面が見どころとなる。

 

  • 絵から鯉が飛び出し、人買いが出てきて、お金が出てきて、隅田川物がありなどで芝居にどんどん取り入れていくのが近松門左衛門さんさんらしいかななどともおもえた。流れもスムーズで、時間をかけてここまできたのであろう。全体に世代交代も感じられじわじわと役者さんが足跡を残しつつ移行していくのが感じられる。あまり早くに空白ができることなくじわじわ進むことを願う。

 

  • 新橋演舞場では夜の部で『源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき) 義賢最期』が上演された。「布引の滝」の名の滝が新神戸駅から五分のところにあるということで行った。ところがよく調べていなくて少し雨も降っていたので案内もよく見ず「雌滝」のみで引き返してしまった。その上に「鼓滝」「夫婦滝」「雄滝」とありこの四つの滝で「布引の滝」というのだそうである。見晴展望台までいくのがよさそうである。「雌滝」と反対方向に北野異人館に行ける案内石碑が1100メートルと記されそちらも興味ひかれた。駅から近いのでまたの機会である。

 

景勝・布引の滝碑藤原定家歌碑 (布引の滝のしらいとなつくれば 絶えずぞ人の山ぢたづぬる)

 

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藤原基家歌碑 (あしのやの砂子の山のみなかを のぼりて見れば布びきのたき)

 

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藤原良清歌碑 (音のみ聞きしはことの数ならで 名よりも高き布引の滝)

 

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雌滝取水堰堤(めだきしゅすいえんてい)

 

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雌滝

 

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北野異人館方面案内碑

 

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椿大神社・大正村・熊谷守一つけち記念館への旅

  • 『熊谷守一つけち美術館』が第一の目的であった。そこに一日コースとして『大正村』を加え、半日コース『椿大神社』を加える。天候が不安定で、日程を変更に変更を重ね、さらに一日目が『熊谷守一つけち記念館』であったが、雨の三日目に変更。晴れの一日目を『椿大神社』とする。災害が猛威をふるい、突然、人の命が奪われたり(合掌)、長い間かかって築きあげてきたものが一瞬にして崩壊してしまう方々が多く、悲しく辛いことが押し寄せる昨今である。外国人の方の旅行者も少なかった。

 

  • 椿大神社』は、伊勢国一の宮で、主神は猿田彦大神である。幾つかの行き方があるがJR関西本線の加佐登駅から一時間に一本のバスを利用した。加佐登駅は、旧東海道の桑名宿から関宿まで歩いた時、近鉄・内部駅からJR・加佐登駅までは近くに電車の駅のないところで、加佐登駅まではと時間配分に気を使った場所である。予定通り加佐登駅を通過し次の井田川駅まで進むことができホッとした記憶がある。加佐登駅は無人駅で周辺の案内板に『佐々木信綱資料館』『石薬師寺』などが書かれてある。

 

  • これは44番目の宿・石薬師宿で歌人・佐々木信綱さんの生家もあり、石薬師寺も趣のあるお寺であった。小沢本陣跡には明治に建て替えられた旧家があり資料がたくさんあった。宿帖には、忠臣蔵の赤穂の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)や、伊勢山田の奉行だった大岡越前守の名前もあった。次の井田川駅との間に庄野宿があり、昔の面影が少しのこっている。桑名宿→四日市宿→石薬師宿→(加佐登駅)→庄野宿→亀山宿と続いている途中の駅が加佐登駅である。ここから『椿大神社』まではバスで40分である。

 

  • 境内には、猿田彦大神の妻神・天之細女命(アメノウズメ)を祀った『細女本宮椿岸神社』もある。天照大神が岩戸に隠れた時踊ったあの神様で芸能の神様とされている。朱色の鮮やかな社である。そして、古くなった扇を納め、新たな気分で芸道に励むことを願う『扇塚』もあった。さらに、倭建命(ヤマトタケルノミコト)とその御子の建貝児王(タケカイコノミコ)を祭神とする『縣主神社(あがたぬしじんじゃ)』もあった。四日市宿と石薬師宿の間の石薬師宿側に杖衝坂(つえつきざか)がある。ヤマトタケルノミコトが剣を杖がわりにして越えたといわれる坂であるが、そんなに急だったかどうか思い出せない。

 

  • 芭蕉が江戸から伊賀に帰る途中この坂が急で落馬したともいわれ、その時の句碑がある。「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」(めずらしく季語がない句である) さらに『血塚社(ちづかしゃ)』の小さな祠がある。ヤマトタケルノミコトが、坂でけがをして足から流れた血を封じたところだという。とにかく箱根を下って、三島にはいる「下長坂」、別名「こわめし坂」が一番と思っているので記憶として残らなかったのであろう。『椿大神宮』に「かなえ滝」というごく小さいが流れの勢いのよい滝があってその横に絵馬を掛ける場所がありる。絵馬が椿の絵でなかなかいい感じであった。どうか自然界をお静め下さい。

 

  • 大正村』は、JR中央本線恵那駅から明知鉄道に乗り換えた明智駅のすぐ近くから展開する。ところが、5年ほど前に一度計画して失敗したことがある。PCの乗り換え案内で検索して、名鉄広見線の明智線の明智駅へ行ってしまったのである。明智駅が二つあろうとは。もどるには時間がかかり過ぎるので『大正村』は一旦中止である。今回行く気になったのは、明智光秀さんの生まれたところでもあるということからである。

 

  • 明知鉄道からの風景がいい。実りの稲穂が一面うす黄色なのである。朝ドラはみていないが途中の駅・岩村駅はロケ地のようで、城下町として残っておりで散策によさそうである。花白温泉駅もあり駅前に温泉がある。明智は現地についてからの勝負であるが、大正ロマンコースと歴史探訪コースの両方を周る予定である。

 

  • 観光案内で説明してもらう。ところが明知城址に登って下りる道を、教えてくれたのと反対側に下り、時計回りにもどってくる予定が、実際には反対方向に歩いていて何かおかしいと思い、土地の人に尋ねて反対側におりたことに気がつく。とにかく出発点にもどることにする。明知城址からの下りの表示通りに下ったのが間違いのもとである。下りた場所に何か表示しておいてほしかった。ということで、明智光秀公の母堂・お牧の方墓所だけパスとなった。

 

  • 『大正村』は、土木工事現場で働きつつ木曽路の写真を撮り、木曽路を広く知らせた澤田正春さんというかたが発案して観光地となったと説明があった。大正路地絵画館八王子神社(光秀公が柿本人麻呂を祀り手植えの楓あり)→明智光秀公御霊廟龍護寺(遠山家累代の墓、桔梗が咲いていた)→代官屋敷跡大正ロマン館旧三宅家明智城(白鷹城)址天神神社(光秀公幼少の頃の学問所)→ここからおかしなことになったらしい→予定では・お牧の方墓所→千畳敷公園光秀公産湯の井戸大正時代館うかれ横丁日本大正村資料館であるが、明智城址下から半周して明智駅前にもどり千畳公園にむかう。明智城址への途中、大正村役場などなど見学できる場所などは、さっーとのぞかせてもらう。

 

  • 面白い新しい発見は、宝田明さんと司葉子さんの映画『青い山脈』が、中津川、恵那市で撮影されていたことである。『日本大正村資料館』には、恵那市にあった元・大栄座の歌舞伎のポスターがあった。市村羽左衛門、松本高麗蔵、市松延見子の名があり、演目『絵本太功記」『佐倉義民伝』『隅田川(法界坊)』『一谷嫩軍記』『雪月花』『野崎村』である。岐阜地歌舞伎の盛んなところでもあり、芝居小屋『五毛座』(恵那市)『相生座』(瑞浪市)『常盤座』(中津川市)『蛭子座』(中津川市)『かしも明治座』(中津川市)がある。

 

  • 仁丹の広告があり、印度のバロタ国王もお買い上げで「諸君今日はアツイと思す時 必ず仁丹を口中あれ!」とある。蓄音機のところには、「見世物で始まった蓄音機」と説明が。明治に浅草の花屋敷の五階建ての奥山閣(おうざんかく)で「ひとりでものをいうきかい」として聞かせ、二か月後には團十郎さんや菊五郎さんなどの歌舞伎俳優の台詞を吹き込んだものを聞かせたとある。

 

  • 大正の館では、家屋と庭の間におりる階段がありそこに水が流れていた。水が流れているところに家を建てたのであろうか。上からみると普通の家と庭である。帳場には立派な電話室があった。当家には電話があるよと文明の利器を誇示し、特別扱いのようである。新聞の大正十大ニュース。桜島大噴火・第一次大戦・ロシア革命・シベリア出兵・米騒動・原首相暗殺・有島武郎の心中・関東大震災・大杉栄の暗殺・ラジオ第一声。有島武郎の心中が入っているのが驚く。

 

  • 明知鉄道の恵那駅から明智駅まどの往復運賃は1380円でフリー切符も同額である。帰りは、花白温泉駅でおり、目の前の温泉へ。疲れていたのでラッキーである。さらに貸し切り状態。群馬のわたらせ渓谷鉄道水沼駅にはホームから入れる温泉施設があるが、それに次ぐ駅からの近さかもしれない。前日80パーセントの雨予報だったが少しの雨で涼しくて助かった。もし、風の強い雨なら、金山の名古屋ボストン美術館と平針東海健康センターで大衆演劇を観つつゆっくりするつもりであった。

 

  • 熊谷守一つけち記念館』へは、JR中央線中津川駅から一時間に一本のバスがあり下付知バス停まで40分ほどかかる。付知川のそばにあり、記念館の休憩コーナーからは下に付知川、前方の斜面に民家、その先に山々が連なっている。その奥が木曽なのであろう。付知川の両側は春の桜、秋には山々の紅葉、冬には雪山だそうである。この日付知川は濁って水嵩が高かったが雨のためで、いつもは非常に透明度が高く、夏は子どもの川遊びの場となり、蛍も楽しめ別名・青川である。近くには商店もあり付知ギンザと称し(案内地図があった)、ランチも楽しめそう。

 

  • 海に白い波がさらっとひと筆描かれているのに波が動いてみえる。開拓地で働く人の腰の曲がり方に、その大変さがみえ、緑の葉っぱの下に隠れるカタツムリ、雨がぽつりと降り始めたようである。どうしてこの色とこの色でバランスがとれて心地よいのかとその配分加減に感心する。簡単に出せそうで出ない色なのかなもしれないが、その苦闘の感覚がなくて楽しい。生きていることを楽しんでいる。

 

  • 以前、『熊谷守一つけち記念館』はもう少し先にあり、今はそこは画家の娘さんの『熊谷榧(かや)つけちギャラリー』となっている。同じバスで先の新田バス停でおりる。3キロくらいだそうであるから季節のよいころなら歩くのもいいかもしれない。熊谷さんが東京で暮らしていた場所は『熊谷守一美術館』となっている。絵を観たいとおもえば東京でも会えるが、「つけち(付知)」の風景が美しい。

 

  • 切り出した木材を付知川上流から下流に流す仕事にふた冬、熊谷守一さんも従事している。30歳のころである。一本の丸太の上に乗って、まわりのたくさんの材木を上手く運ぶのである。付知ではこの仕事をするひとをヒヨウ(日雇)とよんでいた。下付知には、かつての北恵那鉄道の下付知駅があった。木曽川に大井ダムが出来、川で木材を運べなくなったための見返りの鉄道である。中津川駅の近くの中津町から下付知まで走っていたのである。今は廃線である。

 

  • 大井ダム・大井発電所を造ったのが、福沢諭吉さんの養子で電力王と言われた福沢桃介さん。南木曽に桃介橋というのがありました。そして、大井ダムによってできたのが今の恵那峡ということです。人工が加わっていたのである。自然というのはつながっているわけです。電車で旅をしていると、このつながりがわからず、えっ!と山を飛び越えてのつながりに驚くこととなる。川もつながっているのである。熊谷守一さんは東京の家にこもっていたが、その中にはきちんと自然の大きさが内蔵されていたのである。やはり訪ねてきてよかった。

 

  • 役者さんなど亡くなられる方々が多くて、お一人お一人触れているわけにもいかず失礼することにしていた。樹木希林さんは、今回の旅で電車で隣り合わせた方との話しにでたので触れさせてもらう。その方は名古屋から加佐戸に向かう車中ご一緒し、奈良から名古屋までお母さんの介護に通うご婦人でした。旅のことを聞かれ、その日程を話したところ、映画『モリのいる場所』をご覧になっていた。観たきっかけが、テレビの映画の宣伝映像の樹木希林さんの着ている物に目が留まってのことであった。樹木希林さんが、着物のリフォームも、着物としてはどうもと思うもののほうが着やすくてよくなるといわれていたのだそうである。生き方や生活感にも役者さんとしての力量と拮抗させて魅了させたかたであった。(合掌)

 

松竹座七月歌舞伎と尾張荒子観音(2)

  • 円空さんのが彫った仏様は仏師が作造したような仏様ではない。丸木のままとか、木を二つに割ったり、四つに割ったりして粗削りで、お顔は繊細な線の眉と目、三角の鼻、微笑みの口である。『名古屋市立博物館』にあるというのでそちらに先に訪れた。常設していると思ったら早とちりで、所有しているが、いつも展示していいるわけではなかった。期間限定で特別展として公開するらしい。残念。興味深かったのは「嵐しぼり」である。有松しぼりは有名であるが初めて聞く。

 

  • 「嵐しぼり」の再現ビデオ映像があった。丸い筒状のものに白い布斜めに重ならないように巻いていく。その上から糸を等間隔で巻いていく。そして巻きはじめのほうに布をよせる。それを藍につけるのである。糸を切ってさらすと、細い縞となって藍色がでてくる。糸を較差するとひし形の模様がでてくるのである。昔は、丸太に巻きつけて創作していたらしい。豪快であるが素朴で単純な模様で涼やかであった。発想が面白い。

 

  • 広重の「東海道五十三次」の版画もあった。吉田宿(現豊橋市)の「豊川橋」で、吉田城の外壁を職人が塗っていて、一人の職人は仕事をさぼり足場から橋を渡る旅人でも眺めているのか、絵のなかであるからなんとものんきである。赤坂宿(現豊川市)は「旅舎招婦ノ図」で旅篭の内部の客のようすと客のため化粧する女たちが描かれている。庭にはソテツがあって、浄泉寺にこの絵のソテツを移したものとして残されていた。岡崎宿(現岡崎市)は「矢矧之橋(矢作橋)」で東海道最長の橋である。鳴海宿は「名物有松絞」とあり有松絞を売る店が描かれていた。きっと旅から帰った人はこの浮世絵で色々説明したのであろう。

 

  • からくり人形もあり、山車の上のからくり人形などその技術が残っているようである。お茶を運ぶからくり人形など、その仕組みの映像もあった。大須には織田信長の父が開いた萬松寺がありからくり人形もあるが、あまりの新しい建物のお寺さんで、新興宗教かな、なんて通り過ぎてしまった。大須観音しか考えていなかったのである。博物館も楽しめたので円空仏像とはお会いできなかったがよしとする。レプリカがあり触って木の感触を確かめる。

 

  • 荒子観音寺』の開基は古く奈良時代である。北陸の霊峰白山を開いた泰澄和尚の開基といわれている。節分の日恵方のお寺にお参りすると御利益があると言われて江戸時代に尾張四観音信仰が盛んになる。四観音は竜泉寺、笠寺、甚目寺、荒子観音寺である。このことは今回知ったことです。

 

  • この荒子観音寺に円空仏が千二百五十余体まつられていている。北海道から滋賀、奈良まで遊行されて全部で十二万体の神仏像をまつられたようである。そのなかでも荒子観音寺のご住職・十世円盛と親しくたびたび訪れて彫っている。仏像をほることが行のようである。今はないが境内に蓮池があって、その池に丸太を浮かべながら二王門の中の三メートルを超える仁王像を彫ったようである。残念ながらこの仁王像はよく見えなくて外にはられている写真で見ることとなる。

 

  • 他の仏像は一箇所にまとめられていて、説明してくれるかたがいてお話を聞くことができる。一番小さいのは阿弥陀さま2.8cmと観音さま3.4cmである。仁王像を彫った時に鉈から飛び散った木片が池に浮かぶ。それに目鼻をつけたのが千余体の像である。木の総てに仏さまがおられるということであろうか。さらなる削りくずもお経の書かれた紙に大切に保存されていたという。その紙は年月がたっているので写真ではぼろぼろになっていた。よくお顔が見えない仏さまは小さなライトが置いてあって照らして拝見することができる。

 

  • ふしがあればそれを生かし、曲っていれば曲ったままで、傾いていればかたむいたままで彫っている。仏さまといわれなければ、古代人が微笑んでいるようでもある。柿本人麻呂さんの像もあった。このかたの歌が好きだったのでしょうか。聞いてくればよかった。場所が狭く結構人がいて、皆さんかなり熟知しているようであった。1972年(昭和47年)に多宝塔の中から発見されたのだそうで、46年前である。300年ここにいるんだけどなと微笑んでいたわけである。ただその前から230体余は保存されていて、円空さんゆかりのお寺として知られていた。

 

  • 円空さんは1632年に美濃国に生まれ、幼い頃に出家し、1654年(23歳)に遊行僧となり、1695年(65歳)に岐阜県関市弥勒寺近くの長良川畔にて入定(永遠の瞑想に入る)した。神仏像を造り衆生救済を祈願したのは、想像であるが、円空さん10歳のとき、寛永の大飢饉がおこっている。その惨状を目にしていたことによるのかもしれない。

 

  • 帰りに、仏像を彫っているのを見て行きませんかと声をかけられた。円空仏彫刻・木端の会のかたである。円空仏を彫る会で無料体験できるのである。円空仏は削ってでた木端(こっぱ)までも仏さまにしているので「木端仏」とも言われる。体験では小さな木端観音に顔を入れるのである。参考にする顔を見本に選び鉛筆で眉、目、鼻、口を書き、平刀で線を入れる感じである。その他の細かい事は教えてくれる。これは持ち帰ることができる。その時はこの位かなと思うが、帰ってよくみると、やはり煩悩あり。微笑みというのは難しいものである。

 

  • 木端仏などは全て同じにみえるが、木端の会の方が彫られたものを頂いた仏さまは、円空作の千面菩薩の「迦楼羅(かるら)」模刻で説明文によると「インドでの名前は ガルダ 神の鳥の王として仏教を守護。羽の色が金色。インド神話の霊鳥で毒蛇を食し、毒、煩悩から守ってくれる聖なる鳥。」とある。ひとつひとつに意味があるらしい。暑かったので涼の恩恵もうけ暑さの煩悩から守られた。

 

  • 荒子観音寺の本尊・聖観音菩薩は秘仏で、本堂のお前立ては優美であった。この近くには前田利家が生まれたといわれる荒子城址もあり、予定では散策するつもりであったが外へ出ると即、中止モードである。もちろん利家はこの荒子観音の修造にも力を貸して大切にしている。荒子観音は、名古屋駅から地下鉄東山線の高畑から歩いて徒歩7、8分である。地下鉄の途中駅に中村公園駅があり、豊臣秀吉の生まれたところである。秀吉と利家の誕生地が結構近かったのである。利家は加賀へ移るが、白山信仰にもあつかったようで、荒子観音の開祖泰澄和尚のお導きでしょうか。そんなつながりも想像できる。さてこの旅も終わり、江戸にもどります。近松門左衛門さんは国立劇場へ。秀吉さんと利家さんは歌舞伎座へ移します。

 

松竹座七月歌舞伎と尾張荒子観音(1)

  • 松竹座7月歌舞伎のチラシをみてからこれは観たいと思った。先ずは、幸四郎さんと猿之助さんの『女殺油地獄』。猿之助さんは8月歌舞伎座も新作なので、ここで古典を観ておかなくてはと思うし、大阪で、仁左衛門さん監修での幸四郎さん共々での挑戦である。この心意気が気に入る。幸四郎さんの『勧進帳』の弁慶どう変化しているであろうか。『御浜御殿綱豊卿』の仁左衛門さんにぶつかる中車さん、つぶされないで面白い心理台詞劇となるであろうか。『車引』はなんと上方役者である鴈治郎さんの荒事である。『廓三番叟』は三番叟を郭での趣向で太夫の孝太郎さんいかに大きくみせられるか。『河内山』は手慣れた白鸚さんの河内山の「ばかめ!」で溜飲を下げたいところである。

 

  • 歌舞伎だけのために大阪までは考えてしまう。15分片づけで、友人からかつてもらった『荒子観音寺』の資料が出て来た。「荒子観音寺の円空仏特別公開と非公開の尾張の秘仏ご開扉」の催しがあってその資料のコピーを参考にと渡してくれたものである。これはすぐ出せるところに移動しておいた。『荒子観音寺』の円空作の仏様は月に一回第二土曜日に一般公開されるのである。そのためなかなか実行できなかった。円空さんのお導きと、都合よく解釈してこれに合わせることにした。ほかの歩く計画を入れていたら、この暑さである。おそらく計画変更をしていたであろう。

 

  • 廓三番叟(くるわさんばそう)』。『三番叟』は御目出度い時に演じられ、今回は二代目白鸚さんと十代目幸四郎さんの襲名披露興行でもあるのでこの演目が寿ぎとして入ったのであろう。『三番叟』の変形として『操り三番叟』『舌出し三番叟』などがあるが、郭の座敷での『廓三番叟』である。翁が花魁、千歳が新造、三番が太鼓持ちという設定である。ちょこっと余興でやってみますの趣向であるが、花魁の孝太郎さんが、花魁の格があがっていて、格の高い花魁が引っ張る三番叟となっていた。花魁の格の差はどこがどう違うかという表現はできないが、その所作と雰囲気から、格があがったと感じるのである。そして格のある花魁の空気があるからこそ郭という場所での三番叟という面白さに乗せてもらえたのである。新造の壱太郎さんと太鼓持ちの歌昇さんもすんなりと雰囲気にはまってくれていた。衣裳の豪華さも眼をたのしませてくれる。

 

  • 車引』は『菅原伝授手習鑑』に出てくる三つ子の兄弟、桜丸、梅王丸、松王丸がそれぞれ別の主人に仕えていて対面のような舞台である。梅王丸は 菅丞相(菅原道真)の舎人、桜丸は天皇の弟・斎世(ときよ)親王の舎人である。桜丸は斎世親王と菅丞相の娘・苅屋姫との逢引の手助けをしたことが原因で藤原時平(しへい)によって 菅丞相は流罪となってしまう。梅王丸と桜丸の時平に対する恨みは大きく、二人は時平を襲うため待ち受けている。

 

  • 梅王丸の鴈治郎さんは気持ちをそのまま表現する荒事系である。桜丸は自分の失態の心傷みをも垣間見せる和事系の柔らかさもだす。曽我の五郎と十郎兄弟と似たところがある。鴈治郎さんの梅王丸が威勢が良いのである。一本気で稚気もあり形もきまり面白い。桜丸の扇雀さんは、うしろめたさもあり、憂いもでる。そんなこと考えて何になるとばかりに梅王丸は突き進んでいき暴れる。そこへ現れるのが時平の舎人の松王丸の又五郎さんである。舎人は牛車の世話をしたり警備にあたる仕事で、兄弟といえどもご主人・時平に楯突くなど認めるわけにいかない。なんだおまえたちはの押し出しの又五郎さんである。

 

  • ここは三人の仕える主人の違いから別れ別れになってしまう悲劇が起る前哨戦でもある。この三つ子は菅丞相に名前をつけてもらい、幼い頃は菅丞相対する想いは同じだったのである。大人になっていくということはなかなか厳しい現実と向き合わなければならないものである。そんなことは深く考えず、それぞれキャラが違うなと思ってその身体表現を楽しむだけでもよい。そのけん引となったのが、鴈治郎さんである。この場面だけだとそんなことわしゃ知らんわとばかりの乗りのよさである。敵役の時平の彌十郎さんが二人に壊された牛車から登場。少しびびる桜丸と梅王丸。どうだの松王丸。それでも最後は、顔を正面にぐっと向けて負けん気の梅王丸の鴈治郎さんである。お持ち帰りして飾っておくと元気が出るであろうななどとおもってしまった。
  • 杉王丸(種之助)、金棒引藤内(寿治郎)

 

  • 河内山』は河竹黙阿弥さんで江戸末期に六人のワルがいて河内山はその一人である。松江邸広間より玄関先までの舞台でどんなワルなのかを堪能できる。松江邸では、自分になびかない腰元・浪路(壱太郎)に怒り心頭の松江出雲守(歌六)は刀まで抜く。浪路をかばう宮崎数馬(高麗蔵)。その二人に不義があろうとの北村大膳(錦吾)。さらにそこへ、数馬を助け主人に意見する高木小左衛門(彌十郎)。松江邸では松江侯の人柄の悪さからなにやらゴタゴタがあるようである。そこへ、上野寛永寺からの使僧との知らせ。松江侯は会わぬといい、家来たちは、使僧を迎えるためただちにもめごとなど無いようにふるまう。

 

  • 使僧・道海の 白鸚さん、緋の衣で悠々の花道の出である。病気と言っていた松江侯も姿を見せ使僧の用件をきく。松江公が御執心の腰元・浪路を商家の実家にもどすようにとのこと。使僧はさらりと嫌味を加味しつつゆったりと松江侯を納得させてしまう。屋敷内の実情をさらされてはならぬと、家来たちは落ち度のないように献上物を。いやいやと言いつつ山吹の黄金色の物をしっかり受け取る。どうもこの使僧うさん臭いぞとゆっくりと観客に気がつかせる。

 

  • 玄関先では家来たちが平身低頭で送り出そうとするが、ここでハプニング。北村大膳が、上野寛永寺からの使僧とはウソでユスリをはたらく河内山宗俊と見破る。ここから河内山の啖呵。 白鸚さん、見破られたのを楽しんでいるような軽さで爽快である。こっちの正体がばれたとてそれがどうした。ご直参のお数寄屋坊主の宗俊が命と引き換えに、そちらさんの不祥事をあからさまにしようか。おう!それでいいのか。高木小左衛門、このままお引き取り下さいと伝え、松江侯も姿を現す。それをしり目に花道での痛快な「ばかめ!」。 白鸚さんは芝居の解釈を加味したリアルさを出されることが多いが、今回は自在に聞かせて見せる河内山であった。そのあたりは、さじ加減の妙味。

 

  • 河内山はワルであるが、一人大名屋敷に乗り込み言いくるめる明晰さ。昨今、私利私欲で「ばかめ!」と言いたくなる世情が多いなか、ワルがワルに対峙するところが反ってすっきりと格好良く決めてくれる。松江家の近習たちの立ち居振る舞いもそろっていて、大名家と河内山の対決の格を支えてくれていた。

 

  • 勧進帳』は、幸四郎さんの弁慶の声が割れなかった。回数を重ねてきて声の出し方の配分が上手くなってきているのでしょうか。演じているうちに感情がたかぶってきたりして調子が崩れることもあるかもしれないが、経験がものをいうのだなというのが実感である。今回は富樫が仁左衛門さんで、大きさからいうと互角というわけにはいかないが、それに冷静に対応しつつ、押し返そうという意気込みがあふれていた。富樫に呼び止められ、強力が義経ではないかと疑われる。義経が孝太郎さんである。やむなく弁慶は義経を打擲して富樫が疑い晴れたといって、いい形で仁左衛門さんが引っ込む。

 

  • 義経を上座にして皆ほっとする。主人を打擲して恐れ多いことだとおもっている弁慶に義経はよくやったといたわり、それに感動して泣く弁慶にさらに手を差し伸べ、兄頼朝のためにと戦ったのにと悲嘆する。その後である。~鎧にそひじ袖枕、かたしくひまも波の上、ある時は船にうかび~ と弁慶が戦の様子を表すのであるが、ここで、何んとこちらが突然涙がすーっと一筋流れたのには驚いた。扇を波に例えたりして舞う姿に、その戦の風景が浮かび、この主従は共に戦ってきたのだとの想いが涙となったようである。ここでの弁慶の動きは、洗練されたというより勢いある粗削りであった。

 

  • 先輩たちの弁慶は大きいので、義経を大きく包んで守るという感覚であったが、超人的な弁慶ではなく、義経と辛苦を共にしたという思いを幸四郎さんの弁慶と孝太郎さんの義経に観たのである。そこからは、その感覚で観ていると、安宅の関で富樫という人に会ったことによるドラマ性にあらためて感慨深さが増した。その後は富樫が一行を見守っているようにもうつる。そしてそこからは、今の幸四郎さんの等身大の弁慶を長唄に乗りつつ愉しんだ。松竹座の空間独特の長唄との一体感の『勧進帳』であった。
  • 常陸坊海尊(錦吾)、亀井六郎(高麗蔵)、片岡八郎(歌昇)、駿河次郎(種之助)

 

  • 御浜御殿綱豊卿』は真山青果さんの『元禄忠臣蔵』のなかの演目である。御浜御殿は今の浜離宮庭園にあった甲府下屋敷で、綱豊卿は6代将軍家宣になった人である。吉良討ち入り前に、綱豊卿と赤穂浪士の富森助右衛門が遭遇し丁々発止のやりとりとなるのである。内蔵助の出した浅野家再興の結果が出ず、内蔵助は動けない状態で祇園などで遊んでいる。その風聞を綱豊卿も耳にしている。さらに、綱豊卿の正室は再興の願いを頼んでいる。

 

  • お浜あそびという華やかな中で、それぞれの想いが交差し入り乱れ一つの方向性へと綱豊卿は導いていくのである。その遊び心を見せつつの綱豊卿が仁左衛門さんである。酔いつつ正室は苦手だと口走ったり、愛妾のお喜世(壱太郎)にはそのままでいろよなどとたわむれる。それでいながら新井勘解由(歌六)を呼んで政道についても教えを乞い、さらに仇討をさせたいとの心中を話す。自分の中でのバランス感覚を常に磨いている人である。

 

  • 富森助右衛門はお喜世の兄なのである。その縁を頼って、吉良上野介が来るというのでお浜あそびを覗かせてもらい吉良の顔もとらえたいと思っている。それを上手く通してくれたのが江島(扇雀)である。綱豊卿は助右衛門と会うという。慌てる助右衛門の中車さんである。ただ吉良の顔を確かめたいだけなのである。綱豊卿はこちらの部屋にとすすめるが、助右衛門はこの敷居はまたげないという。綱豊卿はでは、またがせてみせようとゆとりたっぷりである。ここからの二人の駆け引きが見どころで今回も面白かった。

 

  • お互いの心理作戦であるが、助右衛門は顔の表情で本心をさとられるのが怖いのである。そんなことは百も承知の綱豊卿である。さて今度はどう出ようかの仁左衛門さんと、どう出てくるのであろうかとの中車さんの自分を落ち着かせようとする動きも相当計算されたとおもう。ついに思い余って綱豊卿を怒らせてしまうが、それも手の内のように高らかに笑って出ていく綱豊卿。浅野家再興を願い出ると。

 

  • もう道はない。仇討の大義名分がなくなってしまう。事の次第にお喜世は吉良を討たせると言ってしまう。能支度をした吉良に切りつける助右衛門。しかしそれは綱豊卿であった。全て助右衛門の心の動きは把握していたのである。能装束でさとす綱豊卿は大事も全てお浜あそびの中で納めてしまう恰好よさである。到底助右衛門のかなう相手ではなかった。しかし、中車さんは、かなり仁左衛門さんに迫りました。これだけ観せてくれれば、歌舞伎あそびも満足である。
  • 上臈浦尾(吉弥)、小谷甚内(松之助)

 

  • 口上』。藤十郎さんによる紹介から始まり、笑いあり、歴史ありの口上である。幸四郎さんは十代目である。他の役者さんたちとのその時代、その時代の長い関係があったわけである。そして、大阪でということもあり上方役者さんとのつながりもある。初代歌六さんは大阪出身であり、初代猿之助さんと七代目幸四郎さんは、九代目團十郎さんの弟子として切磋琢磨されている。そんなことがふわっふわっと加わる。

 

  • 仁左衛門さんが、高麗屋三代同時襲名が37年振りで大変お目出度いことであり、次の三代同時襲名にも是非出たいとのユーモアまじえて祝福の言葉。新染五郎さんは学業のため出られていないが、来月は歌舞伎座に出演である。歌舞伎座では、今月夜の部には若い若い役者さん達が出演していて、来月も夏休みということもあり沢山の出演である。このような暑い暑い夏となれば、これからは若いかたに頑張ってもらう必要がありそうである。何はともあれ気が置けない襲名口上であった。

 

  • 女殺油地獄』は、ずばり、与兵衛のような男は身内にいて欲しくない、である。幸四郎さんの与兵衛は何かに憑りつかれているような自己の欲望に翻弄されている人物であった。よくわからない殺人の多い昨今、近松門左衛門さんは時代とは関係なく人間の魔性をもとらえていたのであろうかと考えてしまった。時代的には主従関係や親子やご近所の濃い情が存在していた時代である。そこからはぐれてしまっている若者である。その標的となってしまうのが、与兵衛の親から相談もされていたご近所の同業の油屋の女房・お吉である。

 

  • 油屋河内屋の与兵衛が幸四郎さんで、油屋豊嶋屋の女房・お吉が猿之助さんである。お吉は子どもを連れて野崎詣りの茶店で与兵衛と会う。与兵衛の様子とお吉の言葉からお吉は与兵衛の放蕩をかなり知っていて釘をさす。与兵衛には糠に釘で、さっそく喧嘩をして、馬上の侍の衣服を汚してしまう。その侍は叔父の主人で、帰りにお前の首をもらうと言われてしまう。おたおたの与兵衛。強がっていたとおもうと何か事が起きると後始末のできない若者である。そんな与兵衛を助けるお吉。夫の七左衛門にいい加減にしろと怒られる始末である。

 

  • 与兵衛の今の父親・徳兵衛は、実の父親が亡くなり仕えた主人のためにと母・おさわと結婚したのであるが、おさわの気持ちと主人に対する忠誠心から与兵衛の放蕩には我慢しており、妹おかちも兄を想って養子はとらぬという。皆がこうすれば与兵衛が改心してくれるのではないかと考えるがどうにもならなくなり勘当。親に暴力もふるいふてくされて飛び出す与兵衛。

 

  • この親の情が、豊嶋屋のお吉のところで展開される。聴けば涙をさそうもっともな話である。与兵衛はこっそりそれを聞いていて親が帰った後、姿をあらわす。与兵衛にはお吉しか頼るひとがいないのである。いないというよりも、出来のよい兄もいるが身内に顔出しできないような状態で、金策を他人にすがるのである。お吉は夫に黙ってそんなお金は貸せないとつっぱねる。お吉は常識人であるから親からの話しもあって気にかけてやっていたのである。与兵衛は、大きな問題にぶつかると後先の考えがなくなり、人をころしてもお金を手に入れようとの行動しかなくなる。お吉は恐怖の中、必死に逃れようとするが油にすべりつつ執拗な与兵衛の魔の手にかかってしまうのである。

 

  • 与兵衛の幸四郎さんは、その場その場でとらえどころのない表情と体の動きをあらわす。しおれてみたり、慌てふためいたり、強がったり、いきがったり、突然暴力におよんだり。和事としての動きの妙味はまだであるが役柄としては与兵衛の狂気性などがよくでていたが、もう少し親の情に対するやるせなさがほしかった。猿之助さんは、普通の実のある女房の悲劇性がでて、最後の殺しの場面は芝居としてのコンビの息のあった場面となった。

 

  • 実の親ではない徳兵衛の歌六さんとおさわの竹三郎さんとの与兵衛に対する複雑な心模様も映し出され、その中で、ひとりきりきりと自分の闇に入っていく与兵衛を浮き彫りにした。近松さんは、自分勝手な悪に対しては容赦なく突き放すところがあるなと今回感じてしまった。
  • 伯父・山本森右衛門(中車)、芸者小菊(高麗蔵)、小栗八弥(歌昇)、妹・おかち(壱太郎)、刷毛の弥五郎(廣太郎)、口入小兵衛(松之助)、白稲荷法師(橘三郎)、皆朱の善兵衛(宗之助)、豊嶋屋七兵衛(鴈治郎)、兄・太兵衛(又五郎)

 

  • 近松門左衛門さんは浄瑠璃や歌舞伎などの上演と同時に、その本は文学作品としても読まれているというところが面白い。『女殺油地獄』も、世話に和事が上手くでてくると雰囲気が違って来る。きっちり和事が身についてそこから自由自在に出し入れをできる技が必要である。所々でふわっとオブラートで包むような。ここが文学から芝居にかえる面白さでもあり腕の見せ所でもあるように思う。江戸と上方の芝居がこれからももっと交流して、どちらの技も残っていく事が歌舞伎の楽しさを厚くしてくれる。

 

  • 『松竹座』に初めて行った時は驚いて違和感があった。こんなごちゃごやした場所にあるの。今はむしろ何かありそうと周辺の探索ができるのがうれしい。道頓堀川の船も東京の川の風景とは全然違う。道頓堀川というのは、安井道頓が開削し始め道頓の名前をつけて残したというのも時代がつながっているその感触がいい。今回は、暑さのため、法善寺と水掛け不動の辺りの路地をふらふらした。それでいながら、近松作品が多く上演された竹本座跡は目にしていないのである。木津川から東西に流れる道頓堀川から東横堀川脇を歩いて中之島に行ってみたいものである。

 

浅草寺社巡りからニューハーフショー

  • スーパー歌舞伎II『ワンピース』を観て以来、本物のニューハーフショーを観なくては片手落ちと思っていた。かつて行った事があるが今のが見て見たいという友人たちと予定成立。当日の日中予定ありの友人とは、夜現地集合。もう一方は浅草観音堂の裏側から浅草に入りたかったので、御朱印を頂く半日コースを入れる。暑いのに風が強く、折り畳みの日傘は用をなさない。地下鉄日比谷線入谷駅から出発。近くに「入谷鬼子母神」があるが今回はパスした。「鷲(おおとり)神社」を目指す。途中で「西徳寺」がある。門前に十七代目中村勘三郎墓所の石柱がある。境内は静かなのでそのまま失礼する。

 

  • 鷲神社」の門には大きな熊手があってテレビでしか見ていなかった酉の市の神社に来たという感じである。拝殿のお賽銭箱の上には、なでおかめと言われる大きなおかめさんの顔がある。皆になでられてお顔が良いつやをされている。境内に其角さんの「春を待つことのはじめや酉の市」、子規さんの「雑閙や熊手押しあふ酉の市」の句碑や、一葉さんの文学碑などがある。酉の市は、日本武尊(やまとたける)が東国征伐の前に戦勝祈願をし、それが成就したので社前の松に武具の熊手をかけてお礼したのが11月の酉の日とのことである。お隣には長国寺あり。

 

  • 吉原弁財天」は、新吉原花園池(弁天池)跡の説明文がある。ここは湿地帯であったが、明暦の大火で日本橋にあった吉原遊郭が移された。この浅草千束の吉原を新吉原という。湿地帯なので埋め立てられ多くの池も埋められたが、ここにあった池は残り弁天祠が祀られ信仰された。池は花園池・弁天池の名でよばれたが、関東大震災で逃れた490人のかたが溺死されたという。池は少し残っていて、鯉が窮屈そうに泳いでいた。築山がありその上に溺死した人々の供養のため観音像が造立されていている。「吉原神社」は、明治になってから新吉原にあった五つの稲荷を合祀して作られたようだ。吉原にあった松葉屋さんで花魁ショーなるものを見ている。歌舞伎のほうが華やかだあと思った記憶がある。

 

  • 浅草富士浅間神社」を目指す。途中遊歩道になっていて屋台が並んでいる。植木市があり、夏詣の旗がひらめく。「浅間神社」には案内のちらしが、「浅草から全国へ!繋がる広がる夏詣」(第5回)とある。それでなのか狭い神社の境内には次から次へと参拝客がくる。近頃の自然界の動きには一年ではなく半年ごとの大祓いが必要ともとれる。御朱印をもらう待ち時間が次第に長くなる。江戸時代には、富士信仰による富士講があった。実際には富士山に行けない人のために富士山のミニチュアを造り、お参りしたことにしたのであるが、ここにも小さな小さな小さな富士山があり参詣できるようになっている。そのために創建されたらしい。「浅草寺」に向かいやっと甘味処で休憩である。豆かん美味しかった。夏には夏にふさわしい和のおやつである。かき氷もおいしそうであった。次のときは氷だ!

 

  • 川端康成さんの『浅草紅団』の中に関東大震災のことが書かれている。「浅草富士浅間神社」前にある富士尋常小学校は、後かたずけをして一階から三階までの教室に千人近いひとが避難した。浅草寺についても書かれている。「一山二十四の支院が焼けても、浅草寺の建物は、一万五千人をいれた。六十人余りの坊さん達は、白衣も、道服も、衣も、皆焼いた。輪袈裟が六、七本しかのこらなかった。よごれた洋服やゆかたで、避難者の世話をした。浅草寺病院、浅草寺婦人会館、浅草寺保育園、浅草子供図書館 ー 今の浅草寺の六つの「社会事業」のうち、この四つの建物が浅草寺の境内にあるが、それは地震の時の人助けの気持ちが、形を変えて続いたものだ。」浅草寺病院を左手にして裏から浅草寺に入る。

 

  • 浅草寺の御朱印は影向堂で頂ける。やはり並んでいる。一人路地などをふらふらする。浅草寺の境内も色々な碑があり、『鳩ぽっぽの歌碑』(東くめ作詞、滝廉太郎作曲)も木馬亭に向かう時、突然出て来て驚いた。人の流れに気を取られ気が付かないでいた。この歌の碑は、和歌山県の新宮駅のロータリーで見つけ、東くめさんが新宮出身だということを知った。そして歌詞は浅草寺境内で鳩と遊ぶ子供たちを見て書いたのだそうである。御朱印を書いてくれる人が何人かいるらしく、頂いた人同士でそちらの字のほうがいいわねなどと話している。これもまたご縁であろう。

 

  • 浅草神社」へ。夏詣のためこれまた人が多い。御朱印帖を預けている間に、その奥の「被官稲荷神社」へお参り。ここで「浅草神社」(恵比寿)「被官稲荷神社」の三つの御朱印が頂けるのである。腰かけて待っているとお隣のかたが、夏詣の御朱印は明日からなんだそうですねと言われる。どうも、7月1日~7日までが夏詣の特別御朱印があるらしい。さてここで浅草神社境内にある句碑を記しておく。「女房も同じ氏子や除夜の鐘」(初代中村吉右衛門)「翁の文字まだ身にそはず衣がへ」(初代市川猿翁)「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」(久保田万太郎)「生きるということむずかしき夜寒かな」(川口松太郎)

 

  • 浅草巡りで「鷲神社」(寿老人)2、「吉原神社」(弁財天)2、「浅草富士浅間神社」(植木市)2、「浅草寺」(大黒天)2、「浅草神社」 3 で 9種類の御朱印を頂いたことになる。こちらは御朱印は頂かないが、今回の散策で浅草のさらなる地図がインプットでき、暑いなか頑張った甲斐があった。さらに地下鉄銀座線で新橋に飛び、新橋駅そばの「烏森神社」へ。ここも夏詣で参拝から人が並んでいる。夏詣の特別御朱印があって書き置きのため予定時間内にすみ一安心。通常の御朱印は改めて頂きにくることに。水色の綺麗なお守りも入っていて、予定の寺社巡り完了。さてさて次なる予定へ。書き置きでも御朱印帖はきちんと持参したほうがよいです。今ネットショップで売り買いされたりしますので御朱印帖をだしてということのようです。他人の頂いた御朱印を売り買いするというのがわかりません。

 

  • 楽しみにしていた「ニューハーフショー」のお店へ。友人の一人は実家のお母さんのことで疲れていて途中で早退するかもといっていたが元気になり、いつもの好奇心度全開である。開店と同時にの一番乗り。ショーに出演するかたが接客もしてくれる。今日は満席だそうで、盛り上がっていいですねというと、その分お客様とのお話の時間が短くなりますとお客様目線である。何人かのかたが写真の名刺を配られて話しかけてくれる。質問大好きな仲間は、色々聞いてしまった。次のステップとしてここで修業している感じである。すでにコマーシャルで踊っているかたもいて、それはショーを見てわかったが皆さん踊りはプロである。

 

  • これほどしっかりした踊りを見せて貰えるとはおもっていなかった。男、女、ニューハーフの方との混成でそのキャラを生かした構成になっている。笑わせたり、エロかったり、物語風になったりと客席も使っての大奮闘である。舞台が狭いのでこの人の踊りもう少し観たいなとおもうがそうはいかない。よくぶつからずに踊りながら移動するものだと思う。お客を舞台にあげてのショータイムもあり、トークも機転が利いていて飽きさせない。接客で養われた腕であろうか。接客してくれたひとが違う輝きで踊っているのを観るのも楽しいものである。

 

  • 訓練されているので身体が綺麗である。ディズニーランドのショーなどのオーデイションの倍率も相当の高さだそうで、今は義務教育もダンス必修である。好きな子はいいけど苦手な子もいるだろうなあ。皆嫌いだった高校時代の体育の創作ダンスの時間を思い出す。ステップの一つも教えてくれたほうが楽しかっただろうに。ショーでも最後に参加型の振り付けを教えてくれるが、それぞれ表現が違っていて観ているほうが楽しかった。飲んで、食べて、笑って、感心して違うショーのお店にも行ってみたい。楽しみ方色々。締めを忘れてはいけません。スーパー歌舞伎II『ワンピース』の「ニューカマ―ランド」の可愛い娘ちゃんたちよりもずうーっと美人さんでした。

 

浅草散策と映画(5)

  • 『水戸黄門』が出てきたとなると、浅草木馬亭での初体験に触れなくてはならない。木馬亭は浪曲の定席があり澤孝子さんを生で一度お聴きしたいと思っていた。木馬亭も初めてである。浪曲の出演者は全て女性であった。間に講談が一席入り男性である。浪曲の大山詣りがあり、落語の笑いへの調子とはやはり少し違う。黄門記の「孝子の訴人」をされた方が、年でもう声も出なくてと言われたが泣かされてしまった。確かにお声は出ないがその熟練度はここに芸ありの国本晴美さん。もしかしてと思ったら、亡くなられた浪曲界で革命児的活躍をされた国本武春さんの御母上であった。澤孝子さんは、五月なので爽やかなものをと姿三四郎と乙美との出会いを声量たっぷりと聴かせてもらう。浪曲も講談も知っていそうで知らな話しが沢山ありそうである。

 

  • 木馬亭のお隣が木馬館で大衆演劇をやっている。夕方の部にちょうど良い。席を確保し、外で食事をしてからふたたび入館する。劇場は小さいが前の人との高さがあり見やすい。橘菊太郎劇団である。若い女性客が多いのに驚く。お隣の席の方は橘大五郎さんを小さいころから観ているのだそうで、近頃は大衆演劇も若い方が増えたと言われる。木馬亭で浪曲の平手造酒を聴いて、こちらでは立ち回りで手を震わせている酒乱の平手造酒が出て来て笑ってしまった。同じ人物を違う角度から観れ、それぞれの捉え方の多様性が楽しい。途中から入場されるお客に対する席の確保なども案内係りが手際がよく、気持ちよく観劇できた。舞台が狭いので芝居をする役者さんの苦労が垣間見える。毎日出し物が違い、終演後はお客様ひとりひとりと握手されてのサービス精神が凄い。

 

  • 木馬亭木馬館を隣としたが、建物は一つで、一階が木馬亭で二階が木馬館で、一階にそれぞれの入口がある。この建物の前で、佇む人物の映画があった。映画『浅草・筑波の喜久次郎 浅草六区を創った筑波人』(2016年)で、浅草六区にたずさわった山田喜久次郎がタイムスリップし、娘と人力車に乗って浅草を訪ね、木馬館の前で「もうここしか残っていない。」というのである。映画では、木馬亭はシャッターが降ろされている。北野武監督の『菊次郎の夏』の菊次郎は北野監督の父親の名前だそうであるが、浅草で「きくじろう」が重なってしまった。

 

  • 橘大五郎さんは、北野監督の『座頭市』に出演されている。筋を忘れているので見直した。詳しくは書かないが、親を殺され復讐のため女芸者に化けて姉と旅をする弟役。大五郎さんの子供時代が早乙女太一さん。太一さんの舞台は観ている。その他、大衆演劇での舞台を観ているのは、沢竜二さん、梅沢武生さん、梅沢富美男さん、松井誠さん、竜小太郎さん、大川良太郎さん、門戸竜二さん。さて、大衆演劇の旅役者が出てくるのが映画『こちら葛飾区亀有公園前派派出所 THE MOVIE ~勝どき橋を封鎖せよ!~』(2011年)である。では、こちらの映画から。

 

  • 「こち亀」は、両さんの顔と制服姿は知っているが全く真っ白と言っていい。小学校時代の両津勘吉君は、旅役者の子にどうも恋をしたらしい。勘吉君は、その子に勝どき橋が開くことを説明するが信じてもらえない。女の子は短い期間で転校してしまう。両(香取慎吾)さんは今も、勝どき橋を見つつ、両腕で開いたその様子を示す。両さんのノスタルジーが伝わってくる。もしかして、映画のどこかで勝どき橋がひらくのかもしれないとワクワクする。もちろんCGであろうが、見て観たい。その女の子が座長(深田恭子)となって再び両さんの前に現れる。

 

  • 女座長の桃子には娘・ユイがいて、夫は行方不明である。両さんは子供たちの考える悪戯を一緒になってやるような幼さがあり、子供たちと友達である。ユイは、母が旅役者であるため、同級生の仲間に入れなかったのであるが、両さんは、その悩みを解決してあげ、自らも芝居に参加する。桃子と浅草を歩き、凄く良い雰囲気でもしかしての空気となる。そんなおり、ユイが誘拐される。犯人は本当は警察庁長官の孫を誘拐しようとして間違ってユイを誘拐したのである。両さんは子供たちと仲が良いのが幸いして、子供たちから犯人のヒントをもらい犯人逮捕となる。「勝どき橋を封鎖せよ!」は、勝どき橋で身代金を用意して待つようにとの犯人の要求からである。

 

  • 犯人は、子供たちや、両さんを励ましてくれた交通整理のおじさんであった。それには、警察庁長官の孫娘を狙うだけの動機があり、その手助けをしていたのがユイの父親であった。それでも、桃子は夫を待っていたことがはっきりして、両さんの恋は儚くも終わってしまうのである。しかし、勝どき橋が開いたということだけは、ウソではなく本当に開くのである。CGであるが、やはり感動ものです。漫画の主人公であるから両さんは誇張されてはいるが、話しの筋はまともでした。

 

  • 桃子の舞台、「鼠小僧」は浅草の雷5656会館で撮影されたようです。大変だと思ったのは、両さんが、下駄のサンダルで走りまわることである。時としては、ビニール製のサンダルだったりしたが、どちらにしてもこれで走るのはきついであろう。両さんは浅草生まれの浅草育ちなので、浅草寺横の浅草神社に「友情はいつも宝物」と記された碑がある。両さんの少年時代の友情を描いた「浅草物語」にちなんだ碑です。映画の主題歌は『三百六十五歩のマーチ』(水前寺清子)のカヴァーで香取慎吾さんが唄っている。
  • 監督・川村泰祐/原作・秋本治/出演・香里奈、速水もこみち、谷原章介、沢村一樹、夏八木勲、平田満、柴田理絵、ラサール・石井伊武雅刀

 

  • 木馬館に行った時、東十条にある大衆演劇の篠原演芸場がもっと雰囲気があってよいとのお客さんの声を聞く。その前から行っておきたかった劇場である。橘大五郎さんが、6月は篠原演芸場での公演と知りさっそく行った。お客さんの乗りが半端ではない。ゲストの大川良太郎さんと大五郎さんの掛け合いのツッコミとボケが笑いに笑わせてくれる。小さな劇場ならではの共有感が爆発する。その後、友人たちと待ち合わせて浅草の駒形どぜうへ。一度食べたかったのである。どぜうなべ。美味しかった。駒形橋から吾妻橋まで川べりを歩く。さわやかな川風で、いい気分で屋形船の行き来する隅田川を眺める。また一つ浅草を満喫できた。松屋に時計がある。う~ん。先の映画ロケ地予想がくずれるかも。そうであれば、気ままに楽しんでやっていますのでごめんなすってである。

 

  • 映画『浅草・筑波の喜久次郎 浅草六区を創った筑波人』。この映画は浅草を知るうえで興味深い人に巡り合えた。山田喜久次郎というかたである。筑波の北条出身ということで浅草・筑波とあるようにその二つの地を結ぶことにも光をあてている。そのためもう少し浅草での喜久次郎さんを知りたいと思う者には物足りなかった。『鉄砲喜久一代記』(油棚憲一著)があるので、個人的にはそちらでさらに愉しませてもらうこととする。映画の方は、つくば市で劇団をやっている若者・幸田啓介(長谷川純)と脚本担当の中町夢子がタイムスリップし、明治の浅草に紛れ込み山田喜久次郎(松平健)に助けられる。その時、喜久次郎は懐に鉄砲を持っている。

 

  • 啓介と夢子は三年間喜久次郎のもとで、喜久次郎の生き方を目の当たりにする。そこには、浅草に初めての劇場・常盤座を創立した根岸浜吉(北島三郎)もいた。喜久次郎は新富座で興行の修業中の浜吉と出会う。浜吉は筑波の小田出身であった。喜久次郎は左團次のところに居候させてもらったりもしている。啓介は現代にもどってみると、三年と思っていたのが三日間の行方不明であった。啓介の劇団「ナイトアンドディ」は借金だらけで大家さん(星由里子)から家賃の催促を受けている。家賃の棒引きの条件として大家さんは自分と猫だけに芝居をみせるならという条件をつける。啓介は喜久次郎の物語を芝居にすることにした。

 

  • 啓介は病気の母(秋吉久美子)にも見せたいと、もとSKDのダンサーだった大家さんを上手く乗せて皆に見てもらえるようにする。芝居上演まで色々あるが、壁にぶつかると喜久次郎が現れ意見してくれ、若者の成長を描いた青春物ともいえる。こちらは、山田喜久次郎さんや根岸浜吉さんのことがもっと知りたい気持ちが強く、少し欲求不満でした。その分、喜久次郎さんの本は無いのかと捜すこととなり結果よければすべてよしである。映画では、喜久次郎さんは芝居の幡随院長兵衛をみて、こういう生き方をしようと思ったとしている。このかたヤクザの親分ではありません。親分と呼ばれるのは嫌ったそうです。喜久次郎さんと当時の東京市長・尾崎咢堂(田村亮)との対決もなかなかの見せ場です。挿入歌の『むらさき山哀歌』は松平健さんが唄われています。星由里子さん、映画ではこの映画が最後でしょうか。最後まで愛くるしいです。(合掌)
  • 監督・長沼誠/脚本・香取俊介/出演・水島レイコ、戸井智恵美、綾乃彩、門戸竜二、沢竜二

 

浅草散策と映画(4)

  • 映画『お嬢さん社長』は1954年(昭和29年)、映画『東京暗黒街 竹の家』は1955年(昭和30年)公開である。『東京暗黒街 竹の家』は、アメリカの20世紀フックスが、映画『情無用の街』(1948年)の場所を日本に置き換えてリメイクしたものである。撮影の前後はわからないが、公開は『お嬢さん社長』のほうが『東京暗黒街 竹の家』より先なのに、浅草国際劇場の正面の雰囲気が『東京暗黒街 竹の家』のほうがやぼったく、幟があったりしてごちゃごちゃしている。日本に対して感覚がずれている映画の一つで、着物や住宅の中も何処なのという感じである。室内などは、アメリカのセットで撮られたのであろうし、変なアクセントをしゃべる日本人が出てくる。ただ、ロケは、その時代の浅草、銀座、鎌倉、横浜港、山梨などの貴重な映像となっている。

 

  • 映画『『東京暗黒街 竹の家』(監督・サミュエル・フラー)は、米軍警察の捜査官がアメリカ人の犯罪組織に潜入するというもので、『情無用の街』は、実際にあった第一次大戦後のギャングとFBIの対決を脚色したドキュメンタリータッチのギャング映画ということで後日見るが、こちらのほうが面白そうである。先ず、映像の中心に富士山がありその手前を蒸気機関車が走る。この軍用列車から、ピストルなどが強奪されるのである。犯罪組織の一人が重態の状態で拘束され死亡する。この男の妻が組織には内緒のマリコ(山口俶子)で、捜査官(ロバート・スタック)は死んだ男と友人であった男エディになりすまし、マリコに近づき、さらに犯罪組織の仲間となる。ボス(ロバート・ライアン)は、エディを信用する。

 

  • エディがマリコを探しに行くのが浅草国際劇場である。踊子たちが屋上で練習をしている。時計がみえるので、この屋上は銀座あたりのビルかもしれない。マリコは踊子のようであるが、身の危険を感じて自宅に逃げかえる。舟で生活している人もいる。川本三郎さんの『銀幕の東京』(浅草)によると、佃島で、当時、水に浮かぶようようにして木造の小さな家が並んでいて、題名の「竹の家」はそこから付けられているとある。ロケの映像はそのままであろうが、室内ははてなである。それは置いておき、組織からは、マリコはエディの恋人とみられ、二人は、ボスの家に住まうことになる。しかし、エディが裏切者であり捜査官であることが判明。

 

  • 危うく殺されるところを助かった捜査官とボスの銃撃戦がはじまる。ここが、見どころの一番である。ボスは浅草松屋の屋上の遊園地に逃げ込み、ボスはスカイクルーザーに乗るのである。スカイクルーザーとは土星の形をした大観覧車で、輪の部分にベンチがぐるっとあってそこに人が座り、輪の部分は一回りするようになっていてぐるっと360度、下の風景を観覧できるのである。二人の攻防を見つつ、スカイクルーザーから観える景色も追うのである。隅田川が見える。どうも浅草寺らしい建物と赤い仲見世らしきものがみえるが、本堂は空襲で焼けて1958年に再建している。形は出来上がっていたのであろう。五重塔は1973年再建であるから何もない。スカイクルーザーがなければ、この映画の面白味はないといえる。

 

  • 最初の富士山と蒸気機関車の映像は、現在の富士急行線の富士吉田駅と河口湖駅の間にわざわざ蒸気機関車を走らせたそうで、この線は乗っていないので是非乗る機会をつくりたい。楽しみがふえた。早川雪洲さんも警部役で出演している。

 

  • 映画『お嬢さん社長』は、美空ひばりさんが、16歳で社長になり、唄う場面も豊富にあるという川島雄三監督の映画である。川島監督は 「お正月映画で、美空ひばりさんでやった、唯一のものです。ひばりちゃんが、少女であるか、女としてお色気を出していいか、高村潔所長と話しあい、「少女の段階でやってくれ」 といわれたのを、覚えています。」といわれている。喜劇としているが、母恋い物の雰囲気を残している。ひばりさんの歌う場面は時代の流れを上手く捉えて挿入している。女としてのお色気をだすとすれば川島監督がどうみせたのかも見たかったです。

 

  • 製菓会社社長の孫のマドカ(美空ひばり)は、死んだ母が歌劇団のスターでもあり歌手になりたいとおもっている。浅草の歌劇団のファンでもあり、スターの江川滝子と行動を共にし、舞台ぎりぎりに劇場に送り届ける。その場所が浅草国際劇場である。劇場の舞台監督・秋山(佐田啓二)からマドカは叱責をうける。秋山に謝るためお菓子をもって、浅草稲荷横丁をたずねる。その住民の中に、太鼓持ちをしている母の父、マドカのもう一人の祖父も住んでいた。どうもマドカの亡き父母には、哀しい事情があったようである。社長の祖父が病気のため、マドカは急きょ社長になる。会社には、会社を乗っ取ろうとする動きがあり、それを食い止めてくれたのが、太鼓持ちの祖父であり稲荷横丁の住民であった。

 

  • 社長のマドカは、社内を明るくするため屋上でコーラスの指導をする。森永の広告塔が見え、マドカも秋山の友人でデザイナーの並木(大坂志郎)の案で広告塔をつくる計画を立て、宣伝のために自らテレビに出て歌うのである。この歌う場面になるとひばりさん、お嬢さん社長から美空ひばりの貫禄になるのが面白い。音楽は万城目正さんである。テレビのCM放送が1953年ということで、川島監督しっかり時代に合わせて会社経営も考えている。しかし、乗っ取り一団の策略でまどかは社長を降り、会社も危ない状態となる。それに加担していた、浅草の親分が、テレビのマドカの母を想う歌が好きで、悪事をやめてくれ、会社の危機はすくわれ、マドカも歌手として浅草国際劇場で歌うことになる。

 

  • 川島雄三監督、しっかり浅草の当時の面影も残しておいてくれる。マドカが、水上バスで浅草に着く。今の吾妻橋のところである。この水上バスは浅草から両国、浜離宮方面に向かうのである。その案内アナウンスをしているのが、稲荷横丁の娘さんである。親分を探して太鼓持ち・三八(桂小金治)と歩くマドカが立ち止まった夕暮れの隅田川の対岸には、松屋の屋上のスカイクルーザーがみえる。この映画の数年後、浅草国際劇場でひばりさんは、ファンから塩酸をかけられるという事件にあっている。色々なことを見て来た国際劇場も今はホテルとなっている。
  • 出演者/市川小太夫、坂本武、桜むつ子、小園蓉子、有島一郎、多々良純、月丘夢路

 

  • このホテルの近くにSKDの団員さんが、よく行かれたという喫茶店『シルクロード』がある。外見も古くなってしまったが、当時はおしゃれであったであろうと思えるし、若い劇団員やスターが、狭いドアをくぐってくつろぎにきたのが想像できる。時代を感じる色紙や写真があり、プログラムもあったので見せてもらったが、小月冴子さんくらいしか名前がわからない。お一人、甲斐京子さんは、新派や商業演劇でも活躍されているのでわかった。喫茶店は、地元の方たちの、もう一つのお茶の間という感じでくつろがれている。浅草寺中心の喧騒から離れたこういうお店と出会えるのも浅草ならではである。着物の姿の若い女性やカップルも多く、京都などに比べると気楽に楽しんでいて敷居が低い。

 

  • 松屋の屋上のスカイクルーザーの前にあったのが、ロープウェイの航空艇で、そのころの浅草を舞台にした映画は以前書いている。 映画『乙女ごころ三人姉妹』

 

  • 作曲家の木下忠司さんが、4月に亡くなられていました。木下恵介監督の弟さんでもあり、映画大好きの人間にとっては、これも、これも、これもと思わせられるほど多くの映画音楽を手掛けておられ楽しませてもらいました。時代劇テレビドラマ『水戸黄門』の主題歌もそうです。100歳の時、浜松市の木下恵介記念館でのお元気な写真があり、102歳での大往生ということです。(合掌)

 

浅草散策と映画(3)

  • 浅草に戻るには何処からもどろうか。市川真間まで行ったので、永井荷風さんが晩年14年間暮らした市川市本八幡からにする。市川市文学ミュージアムで『永井荷風展 ー荷風の見つめた女性たちー』(2017年11月3日~2018年2月18日)があった。作品のモデルになった方や荷風さんが交流した女性達を、「明治、大正、昭和という激動の時代のなか、女性たちがたおやかに、したたかにに生きていった姿を、作品をとおして見つめ直します。」という視点である。荷風さんは市川から、浅草のロック座やフランス座に通われ楽屋へもフリーパスで入られていた。文化勲章を受章され、踊り子さんたちが祝賀会を開いてくれ、真ん中で嬉しそうに微笑んでいる写真もあった。ところが、文化勲章をもらってから偉い人であるとわかると、これを利用する踊り子さんもあってトラブルにもなったようで、それからは、浅草へ行っても小屋へは行かず公園のベンチに座っている姿が見られたということで、なんとも心寂しい風景である。

 

  • 無くなってしまった浅草・国際劇場での松竹歌劇団SKDの舞台がでてくるのが、映画『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』である。SKDの舞台が国際劇場の本物であるだけにこれは貴重な映像である。寅さんのマドンナ、SKDの花形スター・紅奈々子役がの木の実ナナさんで、踊りも抜群なのでSKDの設定も無理がなく、レビュー場面や団員さんにも溶け合っていて役とのつなぎ目に違和感を感じなくて済むのが助かる。映画も松竹であるから、舞台撮影も贅沢に映すことができたのであろう。小月冴子さんは、さすが風格がある。浅草国際通りと名前があり、国際劇場に出ることは、スターを意味していたのである。山田洋次監督が映画にしたのが1978年で国際劇場が閉館になったのがその4年後の1982年である。奈々子はさくらの同級生で、二人ともSKDに入るのが夢であった。その夢を叶えた奈々子は結婚して踊りを捨てるかどうかで悩んでいた。さくらの倍賞千恵子さんが実際にSKD出身というのもよく知られているところであるがSKDも1996年に解散している。

 

  • 永井荷風さんが通った、京成八幡駅そばの飲食店「大黒家」も閉店らしく、浅草の「アリゾナキッチン」、「ボンソアール」も閉店である。これからも浅草は経営者の老齢化などもあり、どんどん変わっていくのであろう。六区街の大衆演劇の劇場・浅草大勝館も無くなってドン・キホーテのビルになっている。そもそも浅草に映画館がないのである。『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』での冒頭の夢の場面では、寅さんが宇宙人であったということで、トレードマークの衣裳もカバンもキラキラしている。SKDのレビューのキラキラさに合わせているのであろう。さくらの夫・博(前田吟)の勤める町工場の経営が思わしくなく慰安旅行ができなくなり、国際劇場のレビュー観劇になってしまうのも下町らしく、九州からでてきた青年(武田鉄矢)が一度国際劇場でレビューを観たかったというのも、浅草国際劇場へのあこがれを伝えてくれる。

 

  • SKDの団員が踊る場面が映画『男はつらいよ』にもう一本ある。『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』(1982年)の冒頭夢の場面である。国際劇場閉館の年である。場所はブルックリンで、札付きのチンピラのジュリー(沢田研二)が唄う周囲で踊るのがSKDである。対する正義の味方はブルックリンの寅である。ジュリーは逃げ、柴又の家族と仲間に迎えられてレビューのように階段を上がる寅さんであった。この夢の場面に悪役として定番で出演していたのが、時代劇のベテラン悪役・田中義夫さんである。『男はつらいよ 幸福の青い鳥』では旅回りの人の良い座長さん。その田中義夫さんが、<ひゃら~り、ひゃらりこ、ひゃり~こ、ひゃられろ>の『新諸国物語 笛吹童子』ラジオ放送劇の主題歌とともに現れる映画がある。映画『夢見るように眠りたい』。映画製作のお金がなく、モノクロでサイレントという手法でかえって面白い映画となっている。

 

  • 夢みるように眠りたい』は、1955年代(昭和30年代)の浅草が舞台で、私立探偵・魚塚甚のところへ、月島桜という老婦人から誘拐された娘・桔梗を探して欲しいとの依頼がある。そのことを頼みにきたのが桜の執事(吉田義夫)で、魚塚の助手・小林少年がラジオで「新諸国物語 笛吹童子」の主題歌を聴いているときなのである。吉田さんは、映画「新諸国物語 笛吹童子」で悪役で出演していて、映画好き好きを思わせる演出である。桔梗の名もある。サイレントで台詞は字幕だが音楽と効果音は流れるのである。犯人からの謎のメッセージがあり、ゆで卵を食べつつ謎の場所を探し当ててゆく。江戸川乱歩風。

 

  • 仁丹塔、花やしき、地球独楽、縁日、M・パテー商会。M・パテー商会で、これは映画に関係あるかもとピンときた。やはり次は電気館の映画館である。そこで上映されていた映画に、渡されていた写真の桔梗が映っていたのである。映画は途中で終わりそこへ警官がきて上映中止になってしまう。その映画でも桔梗はさらわれ、それを助ける黒頭巾の剣士が魚塚であった。未完に終わった映画「永遠の謎」は女優主演映画で、警視庁の検閲により女優主演はまかりならぬと撮影中止になったのである。魚塚は桔梗を探すことが映画「永遠の謎」の結末を探すことなのだと理解する。その結末を聴いて老婦人・桜は安心して ≪夢みるように眠る≫ のである。桜が安心できる結果までの複線も上手く展開していく。(1986年/脚本・監督・林海象/美術・木村威夫/佳村萌(桔梗)、佐野史郎(魚塚甚)、深水藤子(桜)、松田春翠、大泉滉、あがた森魚)

 

  • 仁丹塔もない。映画の花やしきの人工衛星の乗り物も変ったらしい。花やしき一度は行かなくては。独楽に丸く金属の輪がついてるのを地球独楽というのだ。林海象監督のデビュー映画。協力者に大林宣彦監督の名前もある。佐野史郎さんの初映画出演、初主演映画で状況劇場を退団しどうしようかという時。知る人ぞ知るアングラ劇団の役者さんがでているらしい。活弁士の沢登翠さんもちらっとでてくる。深水藤子さんは、好きな映画『丹下左膳餘話 百萬両の壺』(山中貞雄監督)で、左膳が用心棒で居候する矢場のお久として出演されていて、山中貞雄監督のフィアンセであったともいわれている。『夢みるように眠りたい』は40年振りの映画出演ということで、これを実現した無名の林海象監督の力は大きい。脚本を読みこれならと思われたのであろう。フランス座出身の渥美清さんも出てきたことでもありますし、次は北野武監督の浅草の出てくる映画となりますか。

 

  • 映画『菊次郎の夏』は、子供と大人のロードムービーで、子供の名前が菊次郎と思っていた。子供が羽根のついた空色のリュックを揺らし駈けてくる。おっ!菊ちゃん張り切ってますねと見ていたらどうも映画の始まりではないようで、プロローグのようで、次に可笑しなタイトルが映る。そして二人の少年が学校帰りで、浅草の街を走るのである。千束通り、ひさご通り、六区、伝法院通り、浅草寺の正面を横切って二王門から出てくる。走っていたり、そうであろうと思う一部分の映像であったり、通り的にはつながっていない部分もあり、映像的な編集もされているであろう。浅草は、横路に入ったりし自由に歩きまわるほうが楽しい。

 

  • 今の二王門は塗り替えたのか造りかえたのか新しい赤い色である。この門を出て真っ直ぐ歩いていくと、隅田川にぶつかる。夜は、昼の喧騒とは違い人がほんのまばら。隅田川にぶつかると、派手ではない細いブルーの灯りの東武線の鉄橋がみえる。その上を電車が通る風景は、東京なのに郷愁をさそう。撮り鉄さんか、写真を撮るひとがいる。そこから、吾妻橋に向かうと喧騒がもどる。隅田川のたもとで主人公の少年は、かつて近所だった、お婆ちゃんのお友達のお姉さんに会い、「正男くん!」と呼ばれる。えっ!この少年の名前は菊次郎ではなく正男くんなのだ。お姉さんの横には男がいて夫らしい。

 

  • 菊次郎はこの夫婦のおじちゃんのほうの名前であった。正男くんはおじちゃんとの旅からこの場所にもどって、「おじちゃん!おじちゃんの名前なんての。」と聞くとおじちゃんは「菊次郎だよ。馬鹿野郎!」といいます。普通、こういう映画のタイトルは子どもの名前でしょう。普通ではないおじちゃんなので、最後までゆずらない。いいだろう。ちゃんと最初にいい場面で出してやっているんだから名乗りは俺にきまってるだろう。ばーか。と言われた気分である。まあそれくらい普通ではないことを考えつくおじちゃんですから、正男くんにとっては大変な旅でした。でも正男くんによって、菊次郎も一つの夏を越えることができたのでもありますが。

 

  • 負けず嫌いのおじちゃんでもあります。泳ぎ、シャグリング、タップと出来ないことは嫌だとばかりに練習します。頭を下げることなど絶対にいやなのである。正男くんには、一度「ごめんな。」といいます。お金がないので何でも人からくすね取ることになります。夜店の射的では、射的では落ちない大きな飾り物のぬいぐるみを落として買い取らせたりと笑えます。ホテルでのおじちゃん流の遊び方。正男くんのちょっとほあんとして眠そうな眼差しなのが何とも印象的で、このくらいでないとおじちゃんにいちいち反応していたらおじちゃんとの旅は続けられません。正男くん、涙を流したあとは、おじちゃん流の遊び方で笑顔になり、羽根のついたリュックを揺らし、天使の鈴の音を鳴らしながら、走るのです。菊次郎に、母に逢おうと思わせたのも、母をたずねる正男くんとの旅だったからです。正男くんもいつか、ふたたび、お母さんと会おうと思う日がくるでしょう。その時、菊次郎おじちゃんとの旅の話をするであろうか・・・。

 

  • (1999年・脚本・監督・北野武/音楽・久石譲/ビート・たけし(菊次郎)、岸本加世子(菊次郎の女房)、関口雄介(正男)、吉行和子(正男のおばあちゃん)、大家由祐子、細川ふみえ、 麿赤兒、 グレート義太夫、井手らっきょ、今村ねずみ、ビート・きよし、THA CONVOY) 北野武監督の絵がファンタジーで色が綺麗で映像の色も明るい。久石譲さんの音楽も正男くんの動きや心情にぴったりと寄り添う。天使の鈴のデザインが篠原勝之さん。タイトルデザインが赤松陽構造さんでこういう専門があるのを知る。映画『哀しい気分でジョーク』(1985年・瀬川昌治監督)は、たけしさんが、落ち目のタレント役で、息子が母に会いたいというのでオーストラリアまで別れた奥さんに会いに行く。息子に脳腫瘍がみつかり、それでなくても上手く気持ちを伝えることのできない父親ができるだけ息子と過ごす時間をつくり、旅にでるのである。ラスト、人気タレントとして歌う場面が観れるという美味しい場面のある映画でもある。

 

  • 昨年の2017年の九月に初めてOSKレビューを観劇した。OSKはSKDの姉妹劇団として大阪で誕生した歌劇団である。出会ったばかりなのにトップスターの高世麻央さんが、今年の7月新橋演舞場の『夏のおどり』(7月5日~9日)がラストステージだそうで、早いお別れである。暑い夏のひとときキラキラの楽しい時間をいただくことにする。観劇のあとは、浅草もいいかな。

 

浅草散策と映画(2)

  • 浅草伝法院の庭園公開がありやっと訪れられた。浅草公会堂での歌舞伎観劇の時、二階ロビーからみえる伝法院の門と木々を眺めつつ今度の公開日にはといつも思っていたのだが、公開日をキャッチするのが遅く気が付いたときには終わっていた。今回は3月16日~5月7日であったが、行けたのが5月に入ってからである。この庭園は小堀遠州の作庭である。大絵馬寺宝展もみることができる。この大絵馬の数が多い。浅草寺は250点ほどの大絵馬を所蔵していて今回は60点ほどである。大絵馬寺宝展を出ると、赤い垂木の列と五重塔とスカイツリーが見え、現代の錦絵である。池の水の出入り口を掃除しているかたに尋ねると池の水は地下水を循環させているとのこと。

 

  • 大絵馬の中で一つだけふれるとすれば、歌川国芳の『浅茅ヶ原の鬼婆』。浅草の花川戸あたりを昔、浅茅ヶ原と呼ばれていたとあり、伝説がある。浅茅ヶ原に老婆と若い娘の一軒の宿があり、他に宿は無く旅人はここへ泊るのであるが、老婆は鬼婆で泊った旅人を殺してしまうのである。ある日美しい稚児が泊り鬼婆はいつものように殺してしまうが、それは自分の娘であった。娘は稚児の身代わりとなり、旅人の稚児は観音菩薩であった。鬼婆は自分の行いを悔い、娘の亡骸を抱え龍となって池に消えた。上田秋成の『雨月物語』の「浅茅が宿」は、武蔵の国ではなかったし話も違うなと調べたら、『雨月物語』のほうは、下総の国葛飾郡真間の郷であった。あっ!南北さんの引き戻しだ。引き戻しは真間から柳島の妙見さま・法性寺へである。

 

  • 雨月物語』の「浅茅が宿」は、勝四郎という男が葛飾郡真間の郷に美しい妻を残し、足利絹を売るために京に出る。戦さなどもあり勝四郎は7年たってやっと真間に帰って来た。妻は待っていてくれた。しかし夜が明けてみると家は朽ち果て妻の姿はなかった。昔から住んでいた老人に尋ねると妻はすでに亡くなったいた。その老人はもっと大昔、この真間の里に手児奈という美しい娘が、多くの求婚を受けたが一人の身で多くの人の心は報いることはできないと浦曲(うらわ)の波に身を投げた話をしてくれる。妻のことと重ねて詠んだのが 「いにしへの真間の手児奈をかくばかり 恋てしあらん真間のてこなを」 である。弘法寺(ぐほうじ)に手児奈堂があり、境内の枝垂れ桜が伏姫桜の名がありたずねたことがあるが、「浅茅が宿」とつながるとは。これも何かのご利益か。

 

  • 四世鶴屋南北の墓所のある春慶寺から、中村仲蔵が新しい斧定九郎の工夫のために日参した柳島の妙見さま・法性寺へむかった。北十間川に沿って歩き十間橋へ。この橋から逆さスカイツリーがみえるらしいが確かめなかった。北十間川と横十間川のぶつかるところに法性寺がある。葛飾北斎も信仰していたので、その案内板が大きく掲げられている。ここも浮世絵にも紹介されていて広く信仰されていたことがわかる。妙見堂(開運北辰妙見大菩薩)を参拝してから、北斎の浮世絵などがあるギャラリーへ寺務所からあがらせていただき見させてもらう。そこに、このお寺を建立したのが、真間山弘法寺の日遄(にっせん)上人とありました。光る松があるということできてみたところ北極星から光が放ちご本尊が現れた(記憶怪しいです)というようなことでした。浅草から引き戻されるとは思わなかった。法性寺には、近松門左衛門の供養碑があり、これも破損していたのが見つけられ再建されている。初代歌川豊国筆塚(断片)もあり、碑文は豊国の基本資料となっているとある。歌川国芳は豊国の一門である。

 

  • 法性寺から横十間川に沿って亀戸天神に向かったが、途中で龍眼寺があり別名・萩寺とある。眼病に効くようで、七福神の一つでもあり、亀戸の七福神は一時間半ほどで回れそうで、友人に教えてあげよう。進んでいると横路地から鳥居が見え香取神社でありせっかくなので遠回りをしてしまったが寄り、途中に二代目豊国のお墓のある光明寺があった。そこから亀戸天神へ。藤まつりなのに藤は終わっており、一箇所の藤棚だけ咲き残っていてくれたのが幸いである。猿まわしの大道芸があり、愛嬌のあるお猿さんで、階段になった台の上をボールに乗って一段一段登ってさらに降りていた。凄い。猿真似なんて簡単にできるものではないということを知った。これで、もう引き戻されることはないでしょうが、北・横十間川の散策も静かで、船もよさそうである。さて浅草へ戻らねば。