浅草散策と映画(1)

  • 戯作者・四世鶴屋南北から、浅草を舞台とした映画に飛ぶ。南北さんにちなんで脚本家と脚本家修業中の出てくる映画とする。『笑いの大学』『ばしゃ馬さんとビッグマウス』。『笑いの大学』は知名度あり。『ばしゃ馬さんとビッグマウス』私的にはノーマークであり映画名すら初めて知るが、面白かった。探索経路を時々変えないと掘り出し物と巡り合えない。

 

  • 笑いの大学』は、テレビの舞台中継で西村雅彦さんと、近藤芳正さんのコンビで観ていて、三谷幸喜さんの作品の面白さを知る。映画では二人だけの閉ざされた中での会話の面白さをだすのは無理であろうと思っていたので観る気分にならなかったが、浅草の芝居小屋の脚本家ということでみた。映画『笑いの大学』は、 役所広司さんと稲垣吾郎さんで、笑ってその笑いが哀しさにつながる流れは見事に成立した。世の中が戦争に向かう時代、芝居台本は検閲官の検閲が必要であった。上演中止の赤印を押すために、じりじりと脚本家を追い詰めていく検閲官と脚本家のやりとりである。

 

  • 検閲官の向坂睦夫(役所広司)は、時局に合わない台本には書き直しが出来なければどんどん上演禁止にしていく。浅草にある劇団『笑いの大学』の座付作家の椿一(稲垣吾郎)の書いた『ジュリオとロミエット』もなぜ外国物なのだとツッコミが入る。椿は、『ロミオとジュリエット』のパロディで笑わせるためで作者は英国だが舞台は同盟国のイタリアだと説明するが、向坂はこの時代に笑う事自体がけしからんとくる。お宮と寛一に直せと言い渡す。これが一日目で二日目、三日目と書き直しを言い渡される。ところが、笑ったことがない向坂のどこが面白いのかの疑問で、どんどん書き直していくうちに面白いものになっていく。

 

  • 苦しみつつも椿は書き直し、動きを向坂に頼む。向坂は身体を動かすことに寄って次第に本つくりにのめりこんで行きついに七日目に完成する。相対立するからこそ妥協のない作品になったともいえる。椿は引きつつ向坂を引き入れていたのである。しかし、椿には赤紙がきていた。向坂は、椿が去る廊下に出て「生きて帰ってこい!」と叫ぶ。向坂は椿との警視庁の一室の中でつくりあげた本を通して、味合う事のなかった交流を体験してしまったのである。『笑いの大学』は劇団名であるが、椿が向坂から笑いについて大学で学ぶように教えて貰ったことをもかけているのである。向坂が訪れる劇団『笑いの大学』の劇場は浅草にある。全てセットである。映画の中の舞台ともいえる。廊下に座る老警官・高橋昌也さんのさりげなさもいい。〔2004年/監督・星護/原作・脚本・三谷幸喜〕

 

  • じゃじゃ馬さんとビッグマウス』は、シナリオライターを目指す女性と、その年上の女性に恋をした男性が出来上がることのなかったシナリオを書きあげるまでとその後である。真面目な馬淵みち代(麻生久美子)は、一生懸命時間を惜しんでシナリオを書いて応募するが落選ばかりである。また、シナリオ教室に通い始める。そこで、自信だけはビックな天童義美(安田章大)と出会う。天童は馬淵に一目惚れである。このふたりのやりとりがテンポよく天童の大阪弁が上手く自信過剰に愛嬌を加える。バカバカしい、時には笑わせる映画かなと思ったらこれが軽いが息と間と人物の性格がよくできている。

 

  • 馬淵みち代はばしゃ馬さんで落ち込むときも真面目で軽口をたたいていながら気分が変わったのが分かる。するとビッグマウスはそれを察知して気分を回復させようとする繊細さも持ち合わせていて、このあたりがビッグマウスのわけのわからない魅力でもある。いうことはいうが実行がなく、有名になった時のためにとサインの練習をしてそんな暇あったらシナリオ書けと友人にいわれる天童。こういうありふれたネタを可笑しくさせてるのがこの映画のあなどれないところである。ばしゃ馬さんはシナリオのために介護体験に行き真面目に対応するが、自分の甘さが露呈し、また落ち込む。

 

  • 浅草の商店街がいい。飲み会の待ち合わせが大衆演劇の劇場・木馬館の横である。その横に、浪花節の常席・木馬亭なのであるが映らなかった。残念。木馬館と木馬亭は今回の浅草散策で入館したので、映画で出てきて嬉しくなった。それでなおさらこの映画が気に入った。エンドロールには、奥山おまいりまち商店街、六区ブロードウェイ商店街、浅草西参道商店街の名前があり、飲食店も浅草ではないが、下町的雰囲気で明るい店の閉まった浅草の商店街に包まれているようで楽しい映像となっている。ばしゃ馬さんは、浅草の芸能の街から去ることになるが。ばしゃ馬さんとビッグマウスのラストが浅草でないのが気になる。しかし、呼び出したのがビッグマウスであるから、あれはビッグマウスのばしゃ馬さんへのシナリオの場所設定なのかなとも考えられる。見せないが繊細で優しいのである。〔2013年/監督・吉田恵輔/脚本・吉田恵輔、仁志原了〕

 

四世鶴屋南北の旅(お葬式とお墓)

  • 四世鶴屋南北のお墓が、本所押上春慶寺にあるというので、訪ねる。地下鉄押上駅出口A2から出ると通りの向かいにあるはずであるがお寺さんらしい建物は無い。ビルの上に≪春慶寺≫とある。江戸のイメージが壊れた。帰るときには春慶寺のたどった経過をお聴きし納得させてもらった。せっかくなので先に北十間川から大きなスカイツリーを見上げ少し散策してお寺に向かう。
  • 春慶寺の前に立つがちょっと入りずらい。左横に『鬼平犯科帳』の「岸井左馬之助寄宿之寺」の石碑があり、鬼平の剣友である左馬之助を演じられた江守徹さんの名前も記されている。その横に、春慶寺の石碑がありさらに大きめの空間に鶴屋南北の提灯と鶴屋南北の石碑があり、その上のガラスケースの中にも石碑がある。下には、歌舞伎役者さんの名前がずらり。説明には、四世鶴屋南北の墓石は震災と戦災によって損傷し、劇作家・宇野信夫の染筆をもって新しい墓石が作られたとある。ガラスケースの中が、本当の墓石で、下は新しい墓石ということで、染筆(せんぴつ)とは、書画を書くこととあるので、新しいお墓の「鶴屋南北」は宇野信夫さん筆ということになる。
  • 思い切って中に入るが応答なし。まもなくご住職の奥さまが出先から帰られ、日蓮上人像を拝観させてもらい、鶴屋南北のお墓の話しになりいろいろ説明して下さった。さらに、そのお墓とお葬式についてのコピーがあるからとのご親切にそれを頂いてしまった。これは大変嬉しい鶴屋南北に関する参考資料となった。「死もまた茶番」(郡司正勝著『鶴屋南北』)と「鶴屋南北の墓」「南北の墓補遺」「鶴屋南北の墓 その後」(宇野信夫著『こころに残る言葉』)である。
  • 「死もまた茶番」によると、鶴屋南北が自分の死後の葬式の台本を書いていたのである。外題は『寂光門松後万歳(しでのかどまつごまんざい)』で、お弔いに万歳である。自分のお葬式をも自分流に演出してしまわれたとは、最後まで四世鶴屋南北である。奥さまは、『乗合船恵方万歳』と比較すると重なり合って替えたと想われる部分があると教えてくださる。勘三郎(十八代目)さんが春慶寺へ来た際、コピーをみせたところ舞台でやりたいと言われたそうである。郡司正勝著『鶴屋南北』は、鶴屋南北さんのことも分かりそうなのでさっそく読んだが薄ぼんやりと影が見えてきているがまだまだ霧のなかである。
  • 「鶴屋南北の墓」「南北の墓補遺」「鶴屋南北の墓 その後」では、宇野信夫さんが、春慶寺とお墓を見つけ、欠けて倒れていた墓石を石屋に頼み起こしてもらう。これでは誰のお墓かわからないのではという石屋の意見から、「なつかしや本所押上春慶寺鶴屋南北おくつきところ」と、別の石に彫ってもらいそばに立てたとあり、今もある。その時の住職さんは遊び人だったようで、宇野さんは次のように記している。「つきあってみると、なかなか味のあるいい人だ。南北が現代に生きていたら、必ずモデルにしたことであろう。」その後、若い僧が訪ねてこられ、地所が狭くなり南北のお墓を移動しなければならないことを報告されている。肩入れして下さる方がいて小さいながらもお寺の再建の目途が立ったようである。奥さまの話しだと檀家が三家だけの時があったとのこと。その後檀家も増え、元生命保険会社の建物を購入された。保険会社の売却条件が、建物を壊さずにこのまま使うならということだったそうである。なるほどと納得する。
  • 宇野さんは若い僧に会ってめぐらした思いは「江戸の昔、退廃と爛熟の作者鶴屋南北の骨を埋めた寺の住職に、将来おそらくはなられるひと、それは清純と透明の作家宮沢賢治に影響されて出家を志したひとである。私はいいようのない思いにとりつかれた。」とある。この若い僧が現住職さんである。住職さんは、次に訪れた柳島の妙見さまの法性寺からこられたかたであった。帰ってから頂いたコピーを読み知ったのである。
  • 春慶寺は「押上げの普賢さま」として信仰されてもいて、鶴屋南北のお墓の並び普賢堂がああり普賢菩薩さまを身近にお参りできるようになっている。前には「見返りの白象さま」が。このお寺の普賢さまが乗られている聖象は、見返りの姿で説明には、普賢菩薩様は六本の牙をもった白象に乗り、六本の牙は六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)の人の身心で、白い色は清浄を表すと。「六根清浄」と唱えるのはこのことですか。見返りということは反省でしょうか。さらに、開運普賢大菩薩さまのようです。
  • 宇野信夫さんは、学生時代に読んだ永井荷風さんの深川を歩いた文章の中に(『冬の蠅』)心行寺に鶴屋南北の墓に詣でたとあるが、その後、安政三年に出版された達磨屋無仏老人の著した『戯作者小伝』から本所押上春慶寺に四世鶴屋南北のお墓があることを知る。心行寺は、四世の孫である五世鶴屋南北のお墓である。四世南北が亡くなったのが、深川黒船町黒船稲荷神社内である。役者さんと閻魔堂橋、三角屋敷跡なども散策された荷風さんが位置的に心行寺に参られたのもうなずける。春慶寺にてお墓が起き上がるまでのいきさつが、これまた大南北さんらしい筋書のように思えた。

4月4バージョンの旅・D

  • D・大井川鉄道バージョン/ 結果的に一番ゆったりした旅となった。大井川鉄道の時刻表を調べて、奥大井湖上駅に行きたいとおもったが、本数の少なさと乗車時間の関係から金谷駅から千頭駅へ。乗り換えて井川駅へ。折り返して金谷駅への電車での往復だけとなってしまうので、今回は千頭駅までとした。千頭で何かに出会えるかどうかで旅の時間も変わって来る。
  • 大井川といえば大井川の渡しで、映画は阪妻さんの『狐の呉れた赤ん坊』(丸根賛太郎監督)である。チャプリンの『キッド』を意識して作られたといわれる。子役は津川雅彦さんで、デビュー作である。阪妻さんの『無法松の一生』(稲垣浩監督)には、子役に長門裕之さんが出ていた。『キッド』観ていないので気にしておこう。大井川鉄道のほうは、大井川本線・金谷駅から千頭駅まで19駅あり、SLや昭和に活躍した各地の電車が走っている。帰りの電車がかなり古い電車で、座席のクッションが使いましたよという感じであった。千頭駅から井川駅までは南アルプスあぷとラインの井川線で14駅。千頭駅が重なっているので全部で32駅である。
  • 温泉あり散策道あり吊り橋ありで、見どころは沢山ありそうなのであるが、電車の本数が少ないので一日では無理でお得な切符も二日間有効である。SLは金谷駅の一つ先の新金谷駅からで停まる駅が少なく、SLが急行となるのが面白い。ガッタンゴットンの普通電車とする。車窓の大井川は右と左に姿が移動するが、空いていたので右と左に座席を自由移動。桜の名所の駅も見事に桜は散っている。大井川は、広い河川敷に対し流れは細い。茶畑の風景は観ていて飽きない。大井川で一番長い吊り橋・塩郷の吊り橋もお見事。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2632-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2634-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2635-1024x576.jpg

 

 

  • 千頭駅について、観光案内へ。金谷でのパンフに千頭駅周辺散策コース90分とある。案内できくと、短いコースにすると一時間弱だという。ということは、SLで帰れる。<音の散歩道ー清流ウォーク>。大井川の流れの音と湧き水の流れる音の道であった。途中、南アルプスあぷとラインの線路と並んで歩き、その一つ目の川根両国駅の前を通り、両国吊橋を渡って戻って来る道なのである。乗れなかったあぷとラインの一駅を歩けるのもご機嫌である。145メートルと短いが吊り橋で、橋からあぷとラインの線路が見え、大井川を右手にトンネルに入るという景色である。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2637-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2636-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2638-1-576x1024.jpg

 

 

  • 川根茶の湯のみのモニュメントから国道を渡り続く道へはいる。急須の形の展望台から大井川を堪能。左手に智者の丘、右手に智者の石があり、右手に下る。<智者の石>は智者山神社を源として流れる沢で長い間智者の聖水を浴びた石とある。そこからのやんば土手通りの桜と花桃のコラボが可愛らしく素敵でした。桜は散り際を頑張って残ってくれていて、この旅での一番の花となりました。突然、元気な外国の観光客が。負けます。よく探されておいでです。日本の花を楽しんで行ってくださいな。さて、捜しておいた日帰りの湯のある食事処「旬」がありました。帰る時間を変更。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2640-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2641-1024x890.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2642-1-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2643-576x1024.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2644-576x1024.jpg

 

 

  • ここで、散策、吊り橋、温泉の三セット完了。ゆったり、のんびり、まったりの旅となりました。今は娘さんが継がれていて、手伝いにこられていたお母さんと少しお話をしました。メニューの写真のおでんが気になって注文。色が濃いのに味は薄味。毎朝、煮汁の汁加減を調節して味を保たせているとのこと。納得。これで大井川鉄道の旅も終わりとなるが、やはり、奥の井川線の旅が心に残る。寸又峡の夢の吊橋などは、渡るのに二時間待ちもあるとか。それは避けたい。今回の散策で、泉頭四郎兵衛(せんずしろうべえ)の碑までの道を短縮したが、この方は菅原道真公が配流になったとき、同じようにこの地に遁れこの地を開拓した人のようだ。落人が隠れ住むような静かなところである。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2639-1024x958.jpg

 

 

4月4バージョンの旅・C

  • C・谷崎潤一郎バージョン/ 谷崎潤一郎が住んでいた『倚松庵(いしょうあん)』と『芦屋市谷崎潤一郎記念館』を訪れたいと思っていた。できれば二箇所を一緒に。『倚松庵』の開館が土・日なので制限されてしまっていた。『細雪』の舞台となった家が残っていて公開されているのを知ったが、ここ!という意識は薄かった。島耕二監督の映画『細雪』(1959年)を観て、次女・幸子の家が倚松庵の写真に似ているのである。他の映画(1950年・阿部豊監督/1983年・市川崑監督)では気にかけなかったことである。これは行かなければ。
  • 島耕二監督『細雪』は、自分の中の『細雪』とは違和感があった。阿部豊監督の映画での次女・幸子役の轟夕起子さんをみているので、今度の長女・鶴子役の轟さんはどんなであろうと愉しみにしていた。かなり生活に疲れた主婦として描かれていた。DVDのケースの写真も叶順子さん、山本富士子さん、京マチ子さんの三人だけの写真である。島耕二監督の『細雪』の時、監督と轟夕起子さんは実生活ではご夫婦であり、轟さんだからこその鶴子役なのであろうかと深読みしてしまった。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: KIMG08782-1024x722.jpg

 

  • 倚松庵』は、一番近いのが六甲ライナー魚崎駅から徒歩5分。倚松庵で購入した『ほろ酔い文学談義 谷崎潤一郎 ~その棲み家と女~』(たつみ都志著)によりますと、六甲ライナーによって倚松庵は移築することになりそれまでから開館まで、様々な苦難がありました。本は読みやすい形式になっていて、谷崎作品も読んでみたくなることでしょう。こちらは映画からの引き寄せでの興味が強いのでその辺は詳しく書きません。途中に小さな公園があってそこの前に石柱が裏表に<是より南魚崎村><是より北住吉村>とあり、この辺りは、住吉と魚崎の両村の間で境界線の争いがあったようだ。そして元の倚松庵もこのあたりらしい。横には住吉川が流れている。谷崎さんも、大家さんと賃借のことですったもんだあったようでそういう因縁の土地なのでしょうか。そのことは、倚松庵の中に資料も展示されている。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2592-612x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2582-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2593-576x1024.jpg

 

  • 見学して意外だったのは、思っていたよりも部屋の内部が狭いということである。小説のほうは、実物よりも広く表記されている。ただ作品で姉妹の動線を読み込まれているかたは、納得しうなずかれることと思う。これほど実際の倚松庵と『細雪』が結びついてるとは思わなかった。松子夫人を含めた四姉妹の話しであるが、倚松庵がなければ『細雪』は生まれなかった。谷崎作品は発想の斬新さや人間の奥深くにある感情をあぶりだしているが、倚松庵と『細雪』の関係から考えると、実務的に詳細に計算し、計画して設計図をしっかりと設定して書かれていたことがうかがえる。妙子が地唄舞『雪』を舞う場所が、食堂と応接間を開放して、食堂側を舞台、応接間を観客席としていた。日本間と思っていたので、これも新事実である。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2589-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2585-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2583-1024x640.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2587.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2588-576x1024.jpg

 

  • 島耕二監督の『細雪』を観直した。これは、谷崎作品と距離を置いたほうが違う視点が見えてくる。映画は1959年の作品で、戦争後の考えかたが反映されていると思えた。四姉妹それぞれの経済問題が浮き彫りになっている。三女・雪子(山本富士子)は、東京の長女・鶴子(轟夕起子)と芦屋の次女・幸子(京マチ子)の家を行ったり来たりしている居候的存在である。幸子はそんな雪子の結婚相手を見つけて幸せにしてあげようと一生懸命である。鶴子は自分の家族との生活のことで、四女・妙子(叶順子)は愛ある人との結婚と経済的自立を目指す自分のことでいっぱいである。
  • ところが、この雪子が大人しくはなく行動的である。姉妹の経済的状況も把握していて、姉妹の間に入って行動するのである。自分の境遇も分かっていながら他の姉妹のことにも手を貸すのである。東京で、雪子は鶴子の家に来づらい妙子と外苑で会う。映画でのその建物の場所がどこであるのか気にかかるのであるが不明である。外苑にあった建物という設定であり、神宮外苑競技場のように思えるが、撮影の時は新競技場である。映画では古い感じで、二人はそこから姉の家に向かうが、古いものから出るというイメージでもあるのだ。
  • 鶴子は本家である大阪上本町の家を手放す立場となり、東京暮らしとなる。鶴子が東京から出て来て、売った自分たちの家がビルとなる建設現場で幸子と二人立つ。幸子はせつなくなるが、鶴子は経済的荒波を乗り越えてきているので未練を残さない。やはり轟さんが適任な役だと思えた。一番、家族や経済的に心配のない幸子が姉妹から、幸せだといわれる。それを意識していない京マチ子さん。どんどん荒波に向かう妙子の叶順子さんに対する上の三姉妹との絆は変わらない。雪子の山本富士子さんは、結婚はまだ決まっていないが、悲壮感はない。庭に降る雪が窓から見えるが、細雪ではなくしっかり積もりそうな雪である。倚松庵を思い出しつつ映画をたのしんだ。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2591-1024x576.jpg

 

  • 芦屋市谷崎潤一郎記念館』は、阪神芦屋駅から徒歩15分なのであるが今回はバス乗車。周囲に市立美術博物館、市立図書館などがあり、文化圏としているようだ。記念館前に15トンの巨石があった。神戸市東灘区岡本の旧谷崎邸にあったもので、昭和13年六甲の山津波で旧邸内に流入したものだそうだ。記念館竣工の際移したのである。小説『細雪』にもこの河川の氾濫は描かれている。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2597-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2596-1024x576.jpg

 

  • 春の特別展は「潤一郎時代絵巻 ー戦国の焔(ほむら)王朝の夢ー」。北野恒富(きたのつねとみ)の『乱菊物語』の挿画があるが、これは、千葉市立美術館の『北野恒富展』でもみている。この記念館から借りられて展示していたのであるが、今回も『乱菊物語』を読んでいないのでイメージがふくらまない。北野恒富作「茶々殿」は松子夫人がモデルである。『盲目物語』は、玉三郎さんのお市の方と勘三郎さんの按摩・弥市がすぐ浮かぶ。按摩ゆえにお市の方の体に触れることができる。目はみえなくともその感触がお市の方の美しさを感知しているという世界である。勘三郎さんの台詞の声の調子は今でも残っている。というわけで、谷崎作品の世界も文字での印象からそれてしまった。
  • 阪神芦屋駅から徒歩10分のところに、『富田砕花旧宅』がある。この家は、倚松庵の前に谷崎と松子夫人が住んでいた家である。谷崎潤一郎記念館にあったチラシで知った。富田砕花は、新詩社『明星』に砕花の名前で短歌を発表とあり、東京の千駄ヶ谷で新詩社跡地と出会っていたので、芦屋でつながるとは。しかし、訪れてはいないので、また次にとなる。たつみ都志さんが調べられて書かれた『倚松庵よ永遠に』によると、谷崎は関東大震災で関西に移ってから足かけ21年の間に13回転居している。そのうち現存しているのが富田砕花旧宅倚松庵だけなのである。『倚松庵』富田砕花旧宅』『芦屋市谷崎潤一郎記念館』の三セットで訪れるのがよいのであろう。
  • 帰りはJR芦屋駅までのバスとした。芦屋川と並行する芦屋公園の間を走りテニスコートがあり、映画『細雪』を思い出す。バスはJR芦屋駅を過ぎ、ぐるっと回って阪急の芦屋川駅前を通る。映画で最初に雪子が階段を下りてくる駅である。映画のほうがすっきりしていて広かった。すぐに芦屋川を渡る。桜まつりで花見客は多いが今年は桜は終わってしまっている。島耕二監督の『細雪』には桜のお花見場面はないのである。『ほろ酔い文学談義 谷崎潤一郎』には、この本の登場人物が芦屋市谷崎潤一郎記念館から芦屋川まで歩いて花見をしつつ阪神芦屋駅へ。阪神電車に乗り香櫨園でおり、夙川の桜をみながら阪急夙川駅までと小説『細雪』に出てくる桜をめでて歩いている。桜がなくても歩いてみたい道である。本にしおりが入っていて、ひまわりの絵の裏に「僕は向日葵が好きだなぁ」谷崎潤一郎 とある。倚松庵こだわりのしおりである。

4月4バージョンの旅・B

  • B・歌舞伎関連バージョン/ 嵯峨野線の終わりが園部駅で、終わりと言っても山陰本線に続いているのですが、その園部に日本最古の天満宮『生身天満宮』があります。菅原道真公をご存命中から御祭伸としてお祀りしたので「生身(なまみ)」と称したのです。
  • 月刊社報の説明によりますと、かつて園部の地に、菅原道真公の邸殿があり、当時、園部の代官だった武部源蔵は京都からこられる菅原公と交流がありました。太宰府左遷のおり、菅原公は八男慶能君を隠し育てるように源蔵にたくします。源蔵はこれを引き受け、菅原公の姿を御木像として刻み、ひそかに祠を建てお祀りしました。生祠(いきほこら)で、これが『生身天満宮』の始まりで、武部源蔵は、当宮の始祖なのです。
  • 歌舞伎『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』では、武部源蔵は寺子屋の先生で、菅原道真公も学問の神様です。そういうことが関係するのかどうかわかりませんが、園部駅から学校が多いです。『生身天満宮』まで歩いて15分くらいですが、静かな田舎の登り坂、下り坂の道で土地としては狭いのですが、新しい学校が建っていて珍しい風景でした。小高い上にお城の櫓がみえ、行きませんでしたが園部城のようで、高校の敷地にあるのだそうです。
  • 生身天満宮』鳥井前に一つだけ大きな常夜灯があり、もしかすると道をつくるか何かのために一つだけ残ったのかもしれません。表参道の左手には厳島神社国定国光稲荷神社がありました。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2610-1009x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2611-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2612-1024x712.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2614-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2613-576x1024.jpg

 

 

  • 生身天満宮』に進みますと上の本殿を拝する所に屋根があり腰かけもあり、御神楽の舞台でしょうか、そことつながっていて珍しい形でした。当然使いの牛があり頭をなでなで。社務所にここを訪れたかたの情報が掲示されており、猿之助さんも亀治郎時代にテレビ番組で来られていました。松也さんもお詣りに来られています。武部源蔵を祀る『武部源蔵社』とお墓もあり、やはり歌舞伎、文楽などにとっては縁の濃い天満宮と言えます。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2616-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2619-1024x682.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2618-1024x669.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2617-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2624-1024x576.jpg

 

  • 武部源蔵を祀る『武部源蔵社』とお墓もあり、やはり歌舞伎、文楽などにとっては縁の濃い天満宮と言えます。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2625-1024x661.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2626-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2627-1024x747.jpg

 

  • 駅にもどると裏山に樹木の字が。「子のべ」? 「そのべ」でした。頭に浮かびました。「子らよ学べそのべの地」。駅で観光パンフをゲット。園部から美山への周遊バスがあるのを知りました。美山へは観光バスで行きましたが違う方法もあったのです。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2628-1024x572.jpg

 

  • 嵯峨野線で京都へもどる途中、せっかくなので保津峡で降車。水尾川にかかる赤い保津峡橋を渡り上から保津峡駅と保津川をながめる。徒歩でトロッコ保津峡駅まで15分、ゆずの里水尾まで一時間、鳥居本まで一時間の案内表示あり。歩けそうななコースである。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2606-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2605-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2607-1024x885.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2608-1024x576.jpg

 

  • 亀岡駅から保津峡駅まで「明智越ハイキングコース」がある。明智越えは光秀が京都の愛宕山に参籠した時通った道で、これは3時間30分(10キロ)できつそうである。亀岡には、元愛宕と呼ばれる愛宕神社があり、京都の愛宕神社はここから勧請(かんじょう)されたとしている。光秀が京都の愛宕山で詠んだ句「ときは今あめが下たる五月かな」。歌舞伎の『時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ)』では実悪の美しい武智光秀である。紫紺の衣裳がこれまた色香があり恰好いいのです。黒もあり、色によって印象が違うのも面白いです。
  • 大阪の歌舞伎関連場所は、行けそう出て行けなかった、「合邦辻閻魔堂」である。天王寺上町台地の一心寺と天王寺動物園そばの天王寺公園北口信号の歩道橋下にあった。そんな大きな道路に面しているとは思わず、松屋町筋のどこか路地のなかと思ってしまい、地元の人に尋ねたら、「こちらにいらっしゃい。あの歩道橋の下にありますよ。」と教えられる。地下鉄恵美須町駅からきて申し訳ないことに見事通りすぎていた。「浪花名所 合邦辻閻魔堂」の石碑は見落としても「玉手の碑」に目もくれなかったとは嘆かわしい。時間的に戸は閉まっており、またのお出でをということでしょう。歌舞伎『欇州合邦辻(せっしゅうがっぽうつじ)』の玉手は時間の要する役で、そろそろ次世代もじっくり取り組んでいただきたい役である。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2598-1-638x1024.jpg

 

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2599-1024x576.jpg

 

  • 新世界に寄ると、「グリル梵」の広告板がすぐ目に入った。チョッパーがささやいた。お肉食べて。席が空いていた、ラッキー。新世界が本店というのがいい。カレーにする。よかった!お腹がすいていたのでカツともども完食できた。仁左衛門さんのサイン色紙があり、十三代目に見えてしまいご主人にお聞きすると十五代目さんでした。お付き合いが長く、楽屋で書いていただいたそうです。目の焦点の悪さは、他のサイン色紙がどなたのものか全く判別できませんでした。どうやら、谷崎潤一郎さんの『盲目物語』あたりの引きが強いのかもしれません。

4月4バージョンの旅・A

  • ワンピース』にちなんで4バージョンの旅にしてみます。A・戦国時代バージョンB・歌舞伎関連バージョンC・谷崎潤一郎バージョンD・大井川鉄道バージョン
  • A・戦国バージョン/ 作家の内田康夫さんが亡くなられてしまわれた。(合掌)。多くの作品で楽しませていただき、旅の参考にもさせていただいた。そして今回も。さらにこれからも。戦国時代の旅は安土城址でお終いかなと思っていた。ふと、内田康夫さんの戦国時代をモチーフにしたミステリーはあるのかなと捜してみましたら、歴史小説がありました。『地の日 天の海』。徳川家の懐刀でもあった天海が隋風と名乗っていたころ、信玄、秀吉、光秀、信長、家康らの武将に会っていて、その語り部として武将達の行く末を見つめるという形をとっている。
  • 時間経過に順序だてて物語は進み、この時はこの武将はどういう立場でということがきっちりと書かれていて、横並びで、武将達の戦さぶりや考え方がわかるようになっている。さらに、隋風は、仏教だけではなく天文学や八卦のようなものも学び、人の性格や容貌から相手の心の内も観察し、隋風がどう思ったかも書かれていて、「本能寺の変」へとぐいぐいひぱっていく。そこまでに至る人の交わりの複雑さも一列に並べて一歩一歩進んで行きつつ人物像も浮き彫りになるという手法のため、大変面白く、今まで読んだり観たりしたものを、見事に整理してくれることとなった。
  • 天海大僧正の若い頃は実際にはよく分かっていないのである。そこは推理作家の手腕で若き日の隋風を作り上げている。読み進むと映像やお芝居などでの脚色の度合いも感知でき、この人物が歴史上ではこういう立場かというのも浮かんで嬉々としてページをめくっていった。というわけで、旅として残っていた安土城址に加えて、明智光秀の丹波の亀山城址も行かねばとなり、それではと、保津川下りも当然いれることにした。
  • 安土城址へは前の旅からの予定どおり、駅からレンタルサイクルとする。カトリック小神学校・セミナリヨ址に寄る。お城の外堀のそばにあった。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2509-726x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2505-1024x606.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2506-1024x576.jpg

 

  • そこから百々橋へ。『地の日 天の海』では「隋風たちは百々(どど)橋を渡り、勾配のきつい登城路に入る。途中、摠見寺(そうけんじ)の境内を通り抜けて、城にたどり着いた。」とある。今は百々橋からすぐの登城路からは登れない。見るからにきつい石段である。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2508-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2510-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2512-1024x576.jpg

 

  • 大手門口から入り秀吉の屋敷跡などを観つつ登って行くが、結構きつい。家康邸跡に摠見寺仮本堂がある。所々に石仏も石段として敷かれている。石材を集める時間が足りなかったのか墓石や石仏、仏足石まで集められたようである。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2515-1024x340.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2516-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2517-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2518-1024x615.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2519.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2521-1024x699.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2522-1024x576.jpg

 

  • 天守閣址から干拓されてしまったので遠くに琵琶湖がみえる。この下は琵琶湖の水面が空の色を映していたのである。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2524-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2525-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2526-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2528-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2530-1024x576.jpg

 

  • 摠見寺跡からは左手に内湖が見える。ここは残ったようである。信長廟のそばの奉納絵馬の中に、宝塚の月組ファンの方が信長の公演の成功を祈願しているのがあった。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2538-1024x543.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2540-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2536-819x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2535-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2533-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2534-1024x725.jpg

 

  • 摠見寺三重塔を観ながら下り、二王門を通り、大手道にもどる。『地の日 天の海』には、正月には信長のもとに年賀に訪れる人の多さに、摠見寺の石段が崩れて死者も出たとある。家族で来ていた男の子の一番好きなのは姫路城とか。秀吉が中国地方を制圧するときの拠点の城である。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2539-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2542-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2537-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2545-576x1024.jpg

 

  • 地の日 天の海』で隋風が華麗な安土城を見た時を次のように記している。「安土城の天守閣は五層七重で、屋根は黒の瓦葺き。軒先の瓦は金箔(きんぱく)を押し。屋根の隅木には風鐸(ふうたく)が吊るされている。最上層の壁も金閣のような金箔押しで、下の層は朱塗りの八角堂という、奇抜な構造である。」さすが簡潔かつ完璧な表現です。

 

追記: テレビの『英雄たちの選択』が好きで録画し楽しみにみています。「シリーズ・リアル忍者 戦国忍者」で摠見寺の二王門が「甲賀武士 山中俊好建立」と出てきました。伊賀の忍者は信長にやられ甲賀の忍者は信長についたわけです。二王門撮らなかったのが残念。でも目にしているのでつながって嬉しいです。

 

    天守閣 →安土城 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

  • 丹波亀山城は、明智光秀が備中の秀吉の援軍として出陣した城で、途中、京都の本能寺へと方向を変え『本能寺の変』となる。丹波の反信長勢力の制圧には5年を要している。そのため本腰を入れてこの地に城を築き、保津川から守るように城下に町もつくり、光秀の知と計画性もうかがえる。ところがそれを知ったのは、亀岡市文化資料館での資料からで、そのため、城跡へは行ったが町は歩いていないのである。丹波亀山城跡は宗教法人「大本」の本部となっているようで、観れる部分を歩いてきた。
  • 亀山という地名は、明智光秀のときかららしく、家康の時、藤堂高虎が築城し、明治に入って、西郷隆盛の西南の役で城が砦とされるため他の多くの城と共に亀山城も壊されてしまう。さらに三重県にも亀山があるため亀岡と改名する。亀岡の人々は、亀岡のもとをつくったのは、明智光秀としている。観光としては、保津川下りの出発地でもある。個人の予約はないようで、京都からJR嵯峨野線で亀岡に行き朝一番の舟に乗ることにする。番号2番で人が少なく心配したが、団体さんがきて予定時間より15分早く出発してくれた。
  • 川幅が狭く、岩が手の届く近さだったり、岩の棹の当る定位置に穴があいており、ひゅーと下ったり、船頭さん三人が前後中と交替され掛け合いも楽しく、その腕前にプロの意気込みを感じ大満足。この保津峡を開削したのが、秀吉時代、御朱印船の貿易商・角倉了以(すみのくらりょうい)。保津川の筏流しによる京都への資材の運搬は桓武天皇時代からで舟運は角倉了以からである。鉄道と道路輸送により、保津川下りは観光として残り鉄道の一部もトロッコ列車として残りました。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2464-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2465-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2468-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2470-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2472-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2475-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2474-1024x576.jpg

 

  • その後トロッコ列車も時間を作り乗車しましたが座席は木で停まるたびに声があがるようなガッタンの大きなゆれで楽しいです。舟から列車もみえました。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2602-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2473-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2476-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2477-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2478-1024x576.jpg

 

  • 保津川下りは、嵐山の渡月橋付近に到着です。昭和23年ころまで、お客さんを下した舟は曳綱(ひきづな)を使って、人が舟を引っ張って川を上っていたのです。これも勘と力の必要な重労働だったのです。崖岩に綱のあとが残っていたりします。先に保津川下りをすませ、JR嵯峨嵐山駅から再び亀岡へ。そして丹波亀山城跡へいったのです。そのほうが予定がたてやすいので。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2479-1024x616.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2463-edited-1.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2495-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2500-1024x659.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2499-886x1024.jpg

 

  • 先に保津川下りをすませ、JR嵯峨嵐山駅から再び亀岡へ。そして丹波亀山城跡へいったのです。そのほうが予定がたてやすいので。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2494.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2481-1024x679.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2482-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2484-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2486-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2487-1024x724.jpg

 

  • 次に『亀岡市文化資料館』。ここで思いがけない情報に出会いました。映画『母と暮らせば』で、吉永小百合さんは助産婦さんの仕事をされていますが、その吉永さんが使っていた産婆カバンがここで展示していたものだったのです。企画展「かめおか子育て物語」を京都助産婦会のホームページで紹介したところ、映画関係者のかたがそれをみて、借りにこられ映画出演となったのです。小道具会社のカバンは日常的に使うには大きすぎ、これだと思われたのでしょう。映画の中で棚の上には手術道具の入ったカバンがあるとのこと。吉永さんの持っているカバンが、亀岡市文化資料館のものですので映画をみるときはご注目あれ。ここに一番力が入ってしまった。
  • 亀岡は足利高氏(尊氏)が篠村(しのむら)八幡宮に詣り、北条氏打倒に出陣した場所でもあり、絵師の円山応挙の生まれた土地でもあり、京都に近いということで、様々な歴史をみてきた町でもあるようです。

明治神宮の森から映画『三月のライオン』場面の散策

  • 三月のライオン』(2017年)が<四月のライオン>にならないように散策記録である。『三月のライオン』とは、「三月はライオンのようにやってきて、子羊のように去る」という英国のことわざからのようで、映画でも字幕として出ていた。主人公の少年が、家族を交通事故でなくし一人となり、将棋によって紆余曲折をへて成長していくという内容で、ライオンに立ち向かうだけの立ち位置ができたということであろうか。
  • 明治神宮は、明治天皇が崩御されお墓は京都伏見にあるが、昭憲皇太后が崩御され、お二方の鎮座される地として明治神宮が創建(1920年)された。その時この地は荒地で、ここを永遠の森とするため設計した人々がおられる。その計画通り今、壮大な森・明治神宮内苑となっている。150年の計画が100年でその姿が出来たといわれる。(DVD『明治神宮 不思議の森』)その後、明治外苑(1926年)が完成する。
  • 明治神宮は表参道から本殿まで歩いたことはあるが、ゆっくり散策して森の気をもらうことにした。それならと外苑からぐるっと回って、内苑に向かうことにしたが、JR千駄ヶ谷駅の前を通る。では、そこから『三月のライオン』に出てくる将棋堂将棋会館へ寄り、明治神宮のあとは、月島へさらに八丁堀から押上へと思ったが、八丁堀で終わりとした。
  • こういう散策の時は、お得な切符がお助けである。営団地下鉄の<24時間乗車券>(600円)である。数年前は<一日乗車券>であった。24時間にしたのが凄いです。乗るときに時間が切符に印字される。そこから24時間有効で、たとえば午前10時なら次の日の午前10時まで有効で、午前10時までに乗車すれば降車時間は午前10時過ぎても良いのである。利用者にとってはうれしい。
  • 地下鉄青山一丁目駅から銀杏並木へ。桜の時期である。人はまばらである。銀杏並木の説明板もある。新宿御苑の在来木から採集し、種子を明治神宮内苑の苗圃に蒔き育て植樹したとある。親子でゆっくりと自転車を楽しんだり、野球に夢中な人々の声がする。聖徳記念会館へ。今回は外のみであるが上まであがって遠くからながめた柱の空間をたしかめる。会館の裏にまわると<明治天皇葬場殿址>に大木があり、そこの近くから外苑外へ出る。新競技場の建て替え工事をしている。スケート場はここにあったのかと通ったことがない道できょろきょろする。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2423-1-1024x529.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2426-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2427-1024x576.jpg

 

  • JR千駄ヶ谷駅到着。国立能楽堂へ行く時はここから代々木方面に歩くのであるが、鳩森神社を目指す。映画『三月のライオン』を観るまで、ここに「将棋堂」があるのを知らなかった。山形県の駒師・香月氏が制作の大駒が日本将棋連盟から奉納され、将棋界の技術向上を目指す人々の守護神として日本将棋連盟と神社が協力して、六角の御堂におさめられた。ここ、ここと言ってお参りしていく人がみうけられる。ここには甲賀稲荷神社もあり、富士塚があり頂上に浅間神社が。塚とあるようにガリバーになった気分の小ぶりの富士登山であるが、江戸時代の富士信仰の基本の造りとなっている。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2431-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2436-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2433-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2434-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2432-1-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2437-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2438-1024x576.jpg

 

  • 鳩森神社の向かいが「将棋会館」で、『三月のライオン』の主人公・桐山零(神木隆之介)が出入りした場所である。親に送られて小学生も入っていく。そこから国立能楽堂の裏をまわろうと歩いていると「東京新詩社」の案内支柱がある。ここで5年(明治37年~42年)ほど与謝野寛は短歌会を催し、機関紙『明星』を刊行していたのである。思いがけない出会いである。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2429-441x1024.jpg

 

  • さていよいよ明治神宮の北参道入口から内苑に入り、北池を渡って宝物殿の前を通り本社殿に向かう。途中広い芝生で人々がおもいおもいに寛いでいる。明治神宮内苑の森は、永遠の森として壮大な計画のもとに造られた。設計を任された本田清六さんとそのお弟子さんは、常緑広葉樹の森を考えた。当時の総理大臣・大隈重信は伊勢や日光のような杉林を主張。しかし、本田清六さんは、東京には杉は似合わない。常緑広葉樹の森がふさわしいとゆずらなかった。先ず荒地であるから針葉樹を多く植え、すき間に広葉樹を植えた。そこから樹の競争がはじまり、広葉樹が勝ち、緑豊かな森となり、外から森の中を守り、動物、鳥、魚、昆虫、植物、土壌生物などが生息する太古の自然のような鎮守の森として存在しているのである。人工で造りあげたのである。いかに自然の生命の循環を熟知していたかである。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2440-576x1024.jpg

 

  • 歩きつつ、この木々の奥では人のおかされない自然が息をしていると思うと、神の森という感じがしてくる。手を加えないことと言い伝えられ、滅びていく木もあり、そこから光を得て育っていく木もあり、実生(みしょう)といわれる木の赤ちゃんは40万本ほどあるという。さて、湧き水の「清正井(きよまさのいど)」を探さねば。警備の方に聞くと、本殿から南参道に向かうと御苑があり、そこの中にあるという。御苑は有料でここは、かつては熊本藩主加藤家下屋敷の庭園で、その後、彦根藩井伊家にうつり、明治維新後は、皇室の御料地となる。ここには明治神宮の三つの池の南池があり、池をのぞくと鯉がゆったりと泳いでいる。なぜか、これが本物の鯉の顔に見えてくる。ひいきしすぎである。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2445-1024x576.jpg

 

  • 花菖蒲田を通って進むと「清正井」があり人が並んでいて警備の方が、ハイ次の方と整理されている。全て外国のかたである。よく調べて来られると感心する。名前どおり加藤清正が堀った井戸となっている。この湧き水、花菖蒲を潤し、南池から水門を通り、南参道の神橋の下を流れ、渋谷川の源流となっている。これからつつじやしょうぶなどの花々で楽しませてくれる場所でもある。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2443-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2444-1024x576.jpg

 

  • 御苑を出て、三つ目の東池を探すがわからないので、掃き屋さんに聞く。掃き屋さんというのは、明治神宮で親しみを込めて呼ばれている参道などを掃かれている方で、落ち葉を掃き集め、森にその落ち葉を返す人の事である。これも全て森の土の栄養として返すようにとの言い伝えのためである。東池は、一般の人は入れないとのことで、これで一通り内苑は満喫した。気楽にまた寄りたい東京の鎮守の森です。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2448-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2449-1024x576.jpg

 

  • さてここまで来たならと目黒のお寺高福院へ。JR目黒駅から東京都庭園美術館へ行く時、駅の近くにお寺さんがあるのだと思っていたお寺さんで、ここに長谷川伸さんのお墓があるのである。国立劇場で『沓掛時次郎』上演の際、梅玉さんと松緑さんがお参りされていて知ったのである。長谷川伸さんは、『瞼の母』『一本刀土俵入り』などの作品でも、ずいぶん様々な役者さんで楽しませてもらった原作者である。お寺には案内板などもないので、静かにしてもらいたいのであろう。そっと名前で探し、手だけ合わさせてもらった。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2450-1-747x1024.jpg

 

  • 目黒から地下鉄で月島へ。映画『三月のライオン』は、羽海野チカさんの漫画が原作でアニメ映画にもなっているようだがそちらは見ていない。映画で良いのは、高校生の零の一人暮らしのアパートが川のそばで、部屋のガラスを通す船の行き来の灯りが語るともなく色をそえてくれる。これは映画ならではの力と思う。意味があるような無いような。時には、おそらく乗っている人は楽しくやっているであろう屋形船の提灯の灯であったり。零がこの場所を選んだ気持ちがわかるような気がするのである。
  • 居場所の無くなった零に家族の温かい食事の場を与えてくれたのが、母を亡くした川本家の三姉妹。その姉妹の家に行く時に渡るのが赤い橋で、これが佃小橋

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2452-1024x576.jpg

 

  • そこから住吉神社へ。前に来た時気が付かなかったが、住吉神社宮神輿・八角神輿の天保九年製作と平成二十三年製作のがガラス越しに見えるようになっていた。美しい造りである。そこから花見を楽しむ人々の集う佃公園を通り中央大橋を渡る。渡ったところがかつて霊岸島と呼ばれたところで、伊豆などへ船が出ていた。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2455-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2456-576x1024.jpg

 

  • 霊岸島から高橋を渡るとすぐにJRと地下鉄の八丁堀駅へつながる入口となり、零がよく使う。月島から八丁堀までの散策も古さと新しさの混在する場所で、川風が気持ちよかった。小さな稲荷が中央大橋工事のため移設されながらも残されていて地域でご神体を大切にされている。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2457-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2458-576x1024.jpg

 

  • 零は家族を失い、自分一人で生きていくため将棋の道を選ぶ。嘘のない勝負の世界で、年齢も関係ない。好きでもない将棋で必死に生きるためにはこの道しかないと思っているが、いつしか将棋が好きになっていた。ひ弱な感じでいながら皆から見守られている零の神木隆之介さんの雰囲気と川の雰囲気がさりげなく合っている。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2459-1024x576.jpg

 

  • 棋士たちやその他の配役も凄い。(豊川悦司、佐々木蔵之介、加瀬亮、伊藤英明、染谷将太、高橋一生、伊勢谷友介、前田吟 etc)監督は『るろうに剣心』の大友啓史監督。

 

  • 追記  映画『聖の青春』(2016年・森義隆監督)は、実在された村山聖棋士の病気と闘って将棋に生きた若きいぶきの映画である。『三月のライオン』に出てくる零の幼馴染でライバルの二階堂晴信は、村山聖(さとし)さんをモデルとされたようである。『聖の青春』での、村山聖さん(松山ケンイチ)と羽生善治さん(東出昌大)の対決や周囲もみどころである。

 

  • 追記2  映画『泣き虫しょったんの奇跡』(2018年・豊田利晃監督)は、実在されている瀬川晶司棋士の自伝を映画化した作品である。奨励会(プロ棋士の登竜門)に入門したら26歳までに四段に昇格できなければ退会となりもうプロ棋士にはなれないという決まりがある。ところが瀬川さん(松田龍平)には奇跡が起こるのである。この映画にはちょっとした出演者の登場も見逃せない愉しみがある。

 

  • 追記3  明治神宮内苑造営については、朝井まかてさんの小説『落陽』が当時の東京の様子などと共にどう進められたのかがわかり色々想像できて参考になった。 

 

旧東海道・七里の渡し(宮から桑名)~関宿

  • 昨年の10月予定の東海道・熱田の宮の渡しから桑名への渡し場までの学習を兼ねた船旅が台風で中止となり、主催者の「堀川まちネット」さんが、漁船をチャーターして川底を探知機とロープで調べてくれ代替え日を3月にしてくださり無事参加し七里の渡しを船で渡ることができた。旧東海道歩きもこれで花を添えさせてもらい終了。愛知県と三重県の二県にまたがるので届け出も大変で制約もあり開催されてくれたことに感謝の念でいっぱいである。今回も前日であれば難しかったということで、海路は陸上とは違う判断の基準があるようだ。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0567-1024x576.jpg

  • 2時間の船旅であるが、当時とは海岸線が違うわけで、かつては七里であるが、今の航路は十二里である。七里でも江戸時代は4時間から6時間かかったのだそうで、当然天候に左右されるので宮宿は多くの宿があり賑わっていた。船でない場合は佐屋路を使い、さらに美濃路への分岐点でもあるから日本一の旅籠数だった。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: KIMG0703.jpg

  • 熱田の観光マップの説明に「熱田湊は古くから物流の要所で、織田信長がこの湊の権益をめぐって今川義元と戦い」とある。力関係に、信長の場合、経済力の利権争いも計算にいれていたのである。船中での解説で、名古屋は観光が少なく、織田信長と熱田の宮大工・岡部又右衛門関連が注目されればと言われる。渡された資料では岡部又右衛門が熱田生まれで、生まれた年は不詳だが「本能寺の変」で亡くなっている。「本能寺の変」の時、信長のそばにいたのであろうか。驚きである。2022年には名古屋城の天守閣が木造で再現されるとのことである。
  • 七里の海路は、今は埋め立てられて物流の名古屋港をから伊勢湾にでて桑名へと進むが、浅瀬があるためかなり遠回りしなければならない。さらに桑名に近づき橋の下を通るが、橋の何番目の橋脚の間を通りその真ん中ではなく右側を通る。これも底の深さがどうなっているかを「堀川まちネット」のかたが調査しているからである。桑名側は木曽三川(木曽、長良、揖斐)が流れ混んでいる。台風や大雨があると当然海底は変わってくるわけである。江戸時代の渡しはそのあたりは経験の勘と漁師からの情報などでで渡っていたのであろう。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0576-1-1024x576.jpg

  • 大きなコンテナを運ぶ船やコンテナを船に積むクレーンなどが建っており、船に積まれる車が並んでいたりする。今は一つだけ残っている干潟が、満ち潮のため海面上には見えない。干潟が干満に関係して見えたり見えなかったりするのである。見たかった。なばなの里のあるナガシマスパーランドの観覧車や富士山が上下し回転する展望台が見えてくると桑名である。江戸時代から様変わりしている現代の七里の渡しを無事渡ることができ、ありがとうございましたである。ところが、その後、陸路の新幹線が止まっており大混乱であった。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0572-1024x677.jpg

  • プラットこだまを購入しておこうかなと思ったが船のことであるから終わった時点で考えることにした。名古屋から豊橋は快速が多いから、豊橋から新幹線のこだまの自由席とする。豊橋についたら切符売り場に人が並んでいる。新幹線乗り場に行き、カードで切符を購入しようと操作していると友人が新幹線がとまっているらしいと。そばにいた駅員に尋ねると再開の見込みは未定。危機一髪購入しなかった。即、在来線で浜松にむかう。途中で動き始めたらしいとの情報。浜松駅で確かめると1時間50分遅れである。とにかく到着した新幹線の自由席に乗車することにする。30分後にこだま到着。無事帰ることができた。行けるだけ行って、駄目ならそこで宿を探すつもりであった。
  • 次の日友人は仕事があるので先ずは一安心。切符があったなら払い戻しや変更で並ぶことになり、時間的ロスがあったであろうが、後ろ髪ひかれることなく前に進み何んとかつながってくれて、座ることもできた。もう一つ感じたのは、友人が足が少し痛いということで乗り換えなどはエスカレーターやエレベーターを利用。表示を探してある程度スムーズに、利用できた。今まで探して利用するということはなかったので良い経験であった。ただこういう運休、遅延となると状況がわからず慌てさせられる。体の不自由なかたにとっては大変なことである。
  • よく添乗員のかたが「家に着かれるまでが旅ですので、、、」と言われるが本当にそうである。前日は、JR身延線富士宮駅から徒歩10分の「富士山本宮浅間神社」とJR飯田線豊川駅から徒歩8分の「豊川稲荷」に寄る。両方とも駅から近く階段がなかったのが幸いであった。
  • 富士山本宮浅間神社」には、富士山からの雪解け水が湧きでている「湧玉池(わくたまいけ)」があり、さすがに透明度が高い綺麗な水である。富士山に登る人はこの池で身を清め、六根清浄を唱えながら登っていた。「豊川稲荷」は本尊が「吒枳尼真天」(だきにしんてん)である。狐塚には沢山の狐が並んでいる。千本幟が白地に赤文字で「吒枳尼真天」とあり、その左右に名前と願い事が書かれ並んでいて、その数が見事である。御朱印の受付時間がわからなかったので一応3時半に着くようにした。勘が働いたのか受付は4時までであった。
  • 二日目は、清洲城だけは行っておきたかったので清洲へ。JR東海道本線清洲駅から徒歩15分。信長が那古野城から清洲城へ入城、この城から桶狭間へ出陣して勝利して天下統一を目指したので信長の出世城と言われ信長亡きあとも賑わっていたが、徳川家康による「清洲越」がおこなわれる。清洲城は廃城となり名古屋城が築城されるのである。清洲城を壊し、その資材を名古屋城で使うという家康らしい合理性である。安土城は焼け、清洲城は壊され、信長の存在が次第に薄れていくようである。
  • 清洲城から桶狭間へ向かう前に信長は、熱田神宮で戦勝祈願をしている。「堀川まちネット」では、この地域で行われていた天王祭りの継承を目指して「堀川まつり」を開催し、まきわら船や山車の大山の復活をしている。天王祭は熱田神宮の宮大工である岡部又右衛門もかかわり、大山から安土城の中心部の構造を考えだしたのではないかとも言われている。信長は桶狭間で勝利して熱田神宮に築地塀を奉納し信長塀として一部残っている。熱田神宮に行った時時間がなく探さなかった。その再築地塀が清洲城にあった。
  • 赤い大手橋を渡ると天守閣だけの現在の清洲城である。天守閣前には石庭がありこれがなごませてくれる。展示も楽しめ、紙芝居の時間があり、火縄銃の扱いから撃つまでの映像や、短時間の他の映像も参考になった。信長の長槍は6メートルである。安土ではその槍を持ち上げることができ、その重さに、冗談ではないこんな重い物を担いで走らされるなんてと思った。農民は戦が始まると徴用される半農だった。信長は、うつけの頃遊び仲間が次男、三男で一家の中で軽くみられた若い人たちであり、その者を訓練し、寄せ集めではなく、専属の兵にしたとの表示がありなるほどである。
  • 鉄砲を一番に戦に用いたのが武田信玄であるが時間がかかり過ぎると止めてしまう。発想の転換から三列隊にしたのが織田信長。鉄砲の無い朝鮮に行き、援軍の明が鉄砲をもっていて散々な目に遭ったのが豊臣秀吉徳川家康はその鉄砲の製造を禁止し、道を整備し関所を設け、武士道が出来、鎖国である。信長は個人的予想であるが海外と貿易を展開し経済力を手中に収めたのではないだろうか。国盗りが終れば経済力である。ただその前にきりきりするような合理主義は、恨みに思う敵も多かった。
  • 信長秀吉家康のお三方の前で、友人と好き勝手な人物談義をさせてもらった。友人が「こやつたちは言いたい放題言いおって。」と怒ってるねと。徳川家が整備した東海道の旅を存分に楽しませてもらった。これからは時間も地域も人物も広がる旅としたいがこの三人は、まだまだ顔をだす確率が高いであろう。
  • 新幹線の遅延(二時間以上)の場合について。降車駅で切符が出て来て切符に遅払証と赤い印字があれば、特急券分が払い戻しされます。後日、近くのJRの駅へいきました。みどりの窓口がある駅だったためかそちらでと言われ、現金での払い戻しがありました。いろいろの場合がありますので一例です。申し出ないと教えてはくれません。払い戻しより予定通り行動できることを願いますが、気候の変動が激しかったりするので陸路も確実性がおびやかされています。ちなみに今回は停電でした。

追記: 桑名宿~四日市

吉之丸コミュニティパークにある「蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)」の案内板

水門統合管理所がかつて桑名城の蟠龍櫓のあったところでそれを復元した。蟠龍櫓は龍が天に飛び立つ前のうずくまった状態をいい、その姿の瓦がのっている櫓で当時の人々のシンボルでした。(残念ながら復元蟠龍櫓の写真なし)

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0577-576x1024.jpg

船津屋(大塚本陣跡)

「歌行燈句碑」 ( かはをそに 火をぬすまれて あけやすき )

桑名の七里公園の西にコンドル設計の六華苑がある。その建物を見なかったのが心残り

後に新聞で知りさらにテレビドラマ「黒井戸殺し」の撮影に使われていたのを知る

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_3996-1024x840.jpg

そこを南に進むと薩摩義士の墓所がある海蔵寺

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0569.jpg

芭蕉が滞在して句を残した本統寺 (冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす)

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0570.jpg

旧東海道にもどって春日神社

「歴史を語る公園」 桑名宿は熱田宮宿に次いで東海道中第二位の宿数を誇る伊勢路への玄関であった

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0579-1024x508.jpg

桑名城城壁址

十念寺 ・ 森陳明の墓

東京上野で新政府軍と戦い函館に渡る。その後桑名藩の戦争責任者として桑名藩邸で切腹(東京深川の桑名藩菩提寺霊源氏厳寺にもお墓がある)

矢田立場跡

立場というのは宿場と宿場のあいだにあって旅人が休憩する茶店などが集まっている所

町屋橋跡

伊勢両宮常夜灯

朝明川土手上の常夜灯

富田一里塚碑

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0588-597x1024.jpg

追記 2 : 船津屋(大塚本陣跡)と「歌行燈歌碑」について

歌行燈歌碑」は久保田万太郎さんの歌碑であるがなぜ<歌行燈>なのか。当然、泉鏡花さんの小説『歌行燈』と関係し、映画『歌行燈』とも関係してくるのです。

歌行燈歌碑」の説明が読みずらいので要約します。

<明治42年(1909)大泉原村の高等小学校で講演のため泉鏡花は桑名の舟津屋に宿泊。その時の印象を基にして小説『歌行燈』を書く。昭和14年東宝映画からの依頼をうけ『歌行燈』の戯曲を書くため久保田万太郎は船津屋に泊まり三か月ほどで戯曲を書き上げる。昭和15年、新生新派で上演される。昭和18年、成瀬巳喜男監督の映画化にあたり再び船津屋を訪れる。その時船津屋の主人に頼まれカワウソのいたずらの伝説を詠みあげた。

自筆のこの句碑は揖斐川上流の自然石を杉本健吉がデザインしたものである。>

泉鏡花の『歌行燈』は、『東海道中膝栗毛』の第5編上巻の冒頭から始まります。そしてこの作品の主人公ともいえる能役者の名前が喜多八です。

喜多八は旅公演の途中、伊勢で名人といわれている謡の師匠の芸を辱め自死に追いやってしまいます。そのため喜多八は父でもある師匠から勘当され門付けとなります。芸者となった死んだ男の娘お三重と出会い舞を教えます。お三重は湊屋(船津屋)で喜多八の父と叔父に舞を披露します。二人はその舞を教えたのが喜多八であるということに気づきます。湊屋の近くにいた喜多八は鼓の音に誘われ謡い親子の謡でお三重は舞うのでした。

小説の中にはカワウソのいたずらの事も出てきます。娘の名前が三重で桑名城は扇城とも呼ばれていましたので何か計算されての構想かと思ってしまいます。

成瀬巳喜男監督の『歌行燈』はお三重はお袖と名前をかえ山田五十鈴さんが演じ、喜多八は花柳章太郎さんです。脇を新派の役者さんがかためています。能舞台の場面、舞を教える松林の場面、湊屋での舞の場面などは圧巻で芸道物となっています。戦時下にこうした映画が作られたというのもすごいことです。

東海道がこのように膨らむのもカワウソのいたずらということでしょうか。このいたずらカワウソは宿の灯りを消したり、鉢叩きをしたり、豆腐買いのお手伝いもしたようです。

<能>を題材とした映画 『獅子の座』『歌行燈』 (2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

追記2-2  桑名は折り紙でも有名らしい。江戸時代に桑名のひとで義道というお坊さんが新しい折り方を探求し、一枚の紙で折り鶴をつなげていったのはこの義道さんらしい。(五木寛之「桑名に義道の折形あり」)

追記2ー3 : 食通の池波正太郎さんの『食卓の情景』のなかにも〔船津屋〕が出てきます。〔船津屋〕で食した料理や桑名の様子が書かれています。(「勢州・桑名」)

四日市に入ってからと思いますが所々に東海道の行燈が置かれていました。それぞれの地域の旧東海道への取り組みです。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0590-1024x713.jpg

追記3:四日市宿

三ツ谷一里塚跡   

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0592-1024x691.jpg

道標   正面「すぐ江戸道」 片面「すぐ京いせ道」

広重の四日市

作家・丹羽文雄生誕之地碑

つんつく踊りの紹介板   天白川の堤防を作る際に地を固めるために踊ったようである

追分道標   東海道最古の道しるべ。日永神社の中にある。正面「大神宮 いせおいわけ」 南側面「京」 左側面「山田」 裏側「明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 専心」

日永一里塚址

日永の追分   

右手が旧東海道。左手が伊勢参宮道。京に進む旅人はここから伊勢神宮を遥拝した。このあたりは四日市宿と石薬師宿の「間の宿」とされ、間の宿は本宿よりも宿泊料が割安であった。

杖衝坂(つえつきざか)にある芭蕉句碑   歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな

芭蕉の句ではめずらしく季語がない。

杖衝坂は、急な坂で日本武尊(やまとたけるのみこと)が剣を杖がわりにして越えたという故事がある。芭蕉は急な坂で落馬したと詠んでいる。

血塚社   日本武尊が杖衝坂でけがをして足から血を流しその血を封じた場所

采女一里塚跡

追記4  石薬師宿~庄野宿

小沢本陣跡

宿帳には赤穂の浅野内匠頭や伊勢山田の奉行でもあった大岡越前守の名前が残っています。

左左木信綱記念館

佐々木弘綱翁記念碑の前に曾祖父を歌った佐々木幸綱歌碑

しゃくなげを愛し短歌を すずか嶺を愛し薬師寺を 愛したる人

幸綱さんの祖父は信綱さんで父は治綱さん。歌人の系譜です。いたるところに信綱さんの歌がありましたが、信綱さんの歌は記念館で堪能。

石薬師寺

岩佐又兵衛歌碑

無病にと頼みすゑける石薬師 かたき祈願を忘れ給うな

境内には、松尾芭蕉、一休禅師、西行法師の歌碑もあります。

広重の石薬師に描かれた石薬師寺

石薬師一里塚跡

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_0626-1024x801.jpg

石薬師宿と庄野宿の分岐点

東海道は国道と関西本線で寸断されているため東海道へ出るための案内図

これは助かりました。

中富田一里塚塚跡

庄野はこの写真しかありません。石薬師が結構見どころがありそちらに予想以上の時間をとられました。

さらに庄野宿では油問屋だった旧小林家が庄野宿資料館になっていてそちらにも寄らせてもらっていました。広重の庄野宿の白雨の絵ハガキがありました。

白雨はにわか雨のことだそうです。広重の東海道の絵には三つの雨の様子があります。「大磯の虎ケ雨」「庄野の白雨」「土山の春之雨」

追記 5: 亀山宿~関宿

亀山宿関宿は関西本線の亀山駅と関駅から一度訪ねています。今回は庄野宿から亀山宿関宿の西の追分までの歩きとなります。

日本武尊の石像 (関西本線井田川駅前) 三重は日本武尊の関連場所がおおくあります。

和田一里塚 

露心庵跡 (日本武尊が主祭神の能褒野神社第二鳥居そば)

西町問屋場跡  亀山は東町と西町にわかれていて宿役人の東町の樋口家と西町の若林家が10日から20日交替で問屋場業務をしていた。

東海道亀山宿碑

亀山宿は先の旅で手にした案内図が参考になりました。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: KIMG0731-489x1024.jpg

亀山は城下町でもあり案内図にオランダ商館員で医師のケッペルが亀山宿の様子を書いています。

「亀山は大きな豊かな町で、二つの平らな丘の上にあり、真ん中に小さな谷が通っていた。門が一つと土塁と石垣があったが、曲がった肘のようになった道には、郭外の町々の家を除き、約2000戸の家があり、右側には堀や土塁や石垣をめぐらした城がある。」

野村一里塚跡   後ろは樹齢400年のムクの巨木

関宿

関の小萬のもたれ松の案内板

父のかたき討ちをした小萬は江戸時代は有名だったようで鈴鹿馬子唄になっており長唄にもなっています。

東の追分  伊勢別街道との分岐点。伊勢神宮の一の鳥居。

一里塚跡

関宿の街並み

町屋を開放した「関まちなみ資料館

旅籠「玉屋」歴史資料館

関の小萬碑  福蔵寺の境内にあり織田信孝の菩提寺。

京側から鈴鹿越えをしてたどり着いた関宿の西の追分の公園まで到着しつながりました。

つながりは ↓ 下記で

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(田村神社~坂下宿)

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(坂下宿~関宿)

一回目の亀山宿と関宿の様子は ↓ 下記で

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(1)

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(2)

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(3)

安土城

  • お芝居の中で旅巡りをすると、実際の旅について記しておきたくなる。琵琶湖に飛び出した安土城。残念ながら、安土城跡には行っていないのである。JR安土駅に降り立ち、観光案内へ。琵琶湖線を挟んで湖側に安土城跡があり内陸側に『安土城考古博物館』と安土城の天主を再現した『信長の館』がある。安土城跡と博物館側の二つをつなぐ農道があるという。

 

  • 映画『火天の城』を観ていたので、城の建物を優先。駅そばの『安土町城郭資料館』。安土城の天守閣の模型があって、左右に分離されるようになっていて内部の造りをみれるのです。映画『火天の城』は、熱田の宮大工・岡部又右衛門が建物の責任者で苦難のすえ築城するという内容です。信長に天守閣を吹き抜けと言われてそれに背いて設計します。吹き抜けにすると火事になったとき火の回りが早いので、天主に住むという信長を守れないと主張。信長は岡部又右衛門の設計を選びます。

 

  • 安土町城郭資料館』の模型は四層が吹き抜けになっていました。さらにその吹き抜けの中心には宝塔があったのです。実際に見てみないと解らない面白さ。安土城は築城して三年後には焼失してしまう。映画『火天の城』では信長自らが馬に乗り槍をなげ繩張りをしている場面があるが、実際の縄張は城の設計者をさす。赤穂城でもきちんと名前が記されてあった。お城は、土で成すと言われ、形あるお城の建物だけに注目するが縄張り全体がお城ということである。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2338-576x1024.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2341-1024x576.jpg

 

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2339-1024x576.jpg

 

 

  • 信長が築城に参考にした佐々木六角氏の観音寺城のジオラマもあり山城というのがどういうものであるかを知った。安土城は平山城で秀吉や家康の城造りに影響を与えたとある。城で人々をあっと言わせて権威を誇示したいという信長らしい発想である。平城、平山城、山城の違いがよくわかった。屏風絵には城下町へ通ずる橋は一つ百々橋。町には三階建ての日本はじめてのキリシタン神学校セミナリヨも描かれていた。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2352-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2353-1024x572.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2343-1024x576.jpg

 

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2344-1024x576.jpg

 

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2355-576x1024.jpg

 

 

  • 安土城考古博物館』までの周囲は畑地で、かつては湿地帯だったそうである。徒歩20分ほどであるが次の機会にはレンタルサイクルにする。左手には安土城跡の小山がみえる。博物館で、安土城の土による城の土台がジオラマでみれてよくわかった。土塁虎口曲輪などで成っており、驚いたのは連続竪掘である。城の山の斜面にたて方向に堀が何本も掘られていて、水の張られた内堀を越えても急斜面に竪堀である。どうやっても登れるとは思えない。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2366-696x1024.jpg

 

 

  • 曲輪(郭)は、山をけずり、堀や土塁で区画した場所で後にこれを「丸」と呼ばれようになり、曲輪は遊郭のことを示すことばともなります。初春の歌舞伎座で『双蝶々曲輪日記』の<角力場>を浅草公会堂で<引窓>が上演されましたが、「廓」と「曲輪」の違いは、偶数は二つに割れやすいから縁起が悪いので奇数にとの考えがあり『双蝶々郭日記』ではなく『双蝶々曲輪日記』のようにする場合があるようです。<引窓>は若手にしてはよく頑張り良い芝居になりました。

 

  • 映画『火天の城』でも石垣の先鋭集団・穴太衆(あのうしゅう)がでてきました。信長の美意識はやはり新しい。石垣、礎石建物、瓦、さらに高層天守を供えた近世城郭の新しい形を作ったのである。大手門を入ると大手門道がずうっと続いているのである。実際にはその跡を見ていないのであるがそこを歩くことを想像するとわくわくする。登る途中の右手に前田利家邸、左手に羽柴秀吉邸があった。秀吉邸の復元模型があり、坂になっているので上下二段の造りとなっている。下に櫓門、上に高麗門があり立派である。

 

  • 信長の館』に移動。この施設のある場所は文芸の郷といわれ、『旧安土巡査駐在所』、『旧宮地家住宅』、『旧柳原学校校舎』も移設されておりレストランもある。観光案内の方が、見学の時間設定は観る方によって異なると思いますと言われたが正解である。1992年「スペイン・セビリア万国博覧会」で安土城天主の最上部5階と6階部分を原寸大で展示された。万国博終了後、旧安土町が譲り受け、さらに発掘されたものから再現を加えて『信長の館』で展示されている

 

  • 五階は仏教世界の宇宙空間を表現しての八角形で天井には天女が舞っている。柱、床は朱塗りで中は金箔と釈迦説法絵図。六階は中も外も金箔で中の襖絵の回りの柱、天井には黒を使っている。下の四層の吹き抜けの柱も黒で印象的であったが、一気に宝塔の上に天界の間を造り、城郭に仏教界を閉じ込め、さらにその上に信長自身の権威を示したような感がある。狩野永徳に描かせた金箔の襖絵、金を入れた瓦、金箔のシャチホコ、柱に飾られた彫金、木工の彫り物などあらゆる工芸の名人を集めたと思われる。階段があり近くから内部をのぞくことができる。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2373-576x1024.jpg

 

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2372-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2356-992x1024.jpg

 

 

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2374-1024x663.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2388-576x1024.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2382-1024x616.jpg

 

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2383-1024x576.jpg

 

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2357-1024x908.jpg

 

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2384-576x1024.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2358-1024x489.jpg

 

 

  • 信長は天主から琵琶湖を見下ろし、京をはじめに全国制覇を目指して四方を眺めたのであろう。今は埋め立てられ、安土城跡からは琵琶湖は見えないとのこと。安土城跡を歩くときは、賑わっていた城下町、家臣たちが登城した道、その前にある信長と一体の豪華絢爛な安土城を想像しながら登り、見えない琵琶湖の光輝く水面を想像する力が必要のようである。その想像力が浮かぶ余力のない状況だったので安土城跡は次の機会とした。しかし、もう一つの展示物がその後の想像を加えてくれた。

 

  • 天正十年 安土御献立 復元レプリカ』。天正10年(1582年)5月15日、16日、信長が、家康の武田氏征伐の武勲を祝するために饗宴にだされた食事である。家康が到着してすぐの膳がおちつき膳でレプリカでも食べてみたいと思う一品、一品である。2日間で4食、総計120品である。饗宴役が明智光秀。将軍の御成りのような支度でいきすぎているとして信長は光秀を饗宴役からおろしてしまう。それが19日。22日には、光秀は、備中(岡山)の毛利と戦う秀吉の支援を命じられる。6月2日が本能寺の変である。そのためこの家康饗宴が光秀を本能寺へ向かわせた原因のひとつとされている。食は安土城にあり。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2376-1024x645.jpg

 

 

 

  • 安土城は光秀の手に渡るが、秀吉が光秀を滅ぼす。安土城の天主と本丸は焼失。その後、清須城での織田家の後継者選びの清須会議があります。信長の二男・信雄(のぶかつ)、三男・信孝そして本能寺の変で亡くなった長男・信忠の子で信長の孫・三法師。結果的に三法師ときまる。その後安土城には、秀吉の庇護のもとで信雄と三法師が入城。天正13年小牧長久手の戦いで信雄は秀吉に屈して織田家は終わり、安土城も廃城となる。

 

  • 清須会議は、映画『清須会議』が駆け引きや人物像など面白可笑しく描かれている。信雄は巳之助さんで、周囲に持ち上げられる信雄の戸惑いをそれとなくお得意のおとぼけぶりで発揮。やはり清須城へも行かなくては。光秀となれば、歌舞伎の『時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ) 馬盥(ばたらい)』が浮かぶ。敵役の心の内を腹におさめての外への色気と覇気を役者さんがきめてくれた時は、芝居の光秀が本物と思って魅了される。

 

  • 歌舞伎の信長では、大佛次郎作の『若き日の信長』がある。十一代目團十郎さんにあてて書かれた作品で、十二代目團十郎さん、海老蔵さんへとつながり演じている。新しい芝居なだけに時代の時間差が縮まり、信長のうつけ者の雰囲気と戦乱の孤独感の感情の起伏の出し方、伝え方が難しい作品である。映画『若き日の信長』は市川雷蔵さんで、時間が長く映像ゆえ、戦乱の背景などがわかり理解しやすかった。白鸚さんが染五郎時代で信長のお守役のじいの三男で出演。芝居は映画と違って限られた時間のなかでリアルタイムに観客に一瞬一瞬を見せる勝負物であると感じさせられた。ここまでくると、観ていない映画にも気がむく。

 

播州赤穂

  • 大阪松竹座『坂東玉三郎 初春特別舞踊公演』を観に行ったので播州赤穂まで足を伸ばす。赤穂城もであるが、塩関係も見ておきたかったのである。ところが、千種川のこちら側が忠臣蔵関係で川を渡ったあちら側が塩関係の海浜公園で、海浜公園側は火曜日は休館日ということである。塩の国が見たかったのであるが残念。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2272-1-736x1024.jpg

 

 

 

  • 赤穂大石神社は、大石邸宅跡に創建されている。松の廊下刃傷の知らせの早籠が叩いたであろう大石宅長屋門が残っていた。大石神社関係のかたは新年でもあり忙しそうであった。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2279-1-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2298-1-1024x576.jpg

 

 

 

 

  • 赤穂大石神社は義士資料館がなかなか興味深い。大石内蔵助亡き後大石の妻・りくは、長女と次男を亡くし、三男の大三郎が広島浅野家本家に召し抱えられ次女ルリと広島に移り、香林院として68歳でなくなっている。映画『最後の忠臣蔵』にも出て来た寺坂吉右衛門の孫は祖父の偉業で出世している。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2281-1-1024x576.jpg

 

 

  • 城で飼っていた犬まで一筆書いて渡している。犬公方綱吉ゆえか。浅野内匠頭長矩の彩色した木像は国立劇場にある六代目菊五郎の鏡獅子を彫った平櫛田中作で勅使御饗応役としての緊迫感あり。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2291-1-1024x576.jpg

 

 

  • 大石宅庭園には、備中松山城受取り際に祈ったという茨城の笠間稲荷から勧請された稲荷社があり「受取り稲荷」とも呼ばれている。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2297-1-1024x576.jpg

 

 

  • 備中松山城受取りについては、舟木一夫特別公演の『忠臣蔵』で初めて知る。赤穂城受け渡しの際はこの経験が潔さにつながったのでは。長矩はその経験がありながら何とも言い難し。神社の外には、義士たちの邸宅跡が印され、磯貝十郎左衛門宅址には、遺品のなかに紫のふくさに包まれた琴の爪が一つあったとあり、歌舞伎『大石最後の一日』を思い出す。美男子で能、琴、鼓などの遊芸に優れていたとある。これは映画にもなっていて昨年見逃してしまう。
  • 今の赤穂城を築いたのは、浅野長矩の祖父長直で、兵学者・儒学者の山鹿素行を召し抱え築城にも参加させている。その後山鹿素行は朱子学を批判したとして赤穂配流となり、大石宅の庭で茶やお酒を楽しんでいる。そのころ大石良雄10歳。山鹿流の陣太鼓。歌舞伎の『松浦の太鼓』を思い出す。芝居や映画の虚構性と歴史が重なって何とも楽しい。長直は塩づくりに力を入れ、東浜塩田を天守のない天守台からながめていたらしい。平城で、庭園など戦の無い時代の城である。戦は無いが改易との戦いがあった。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2331-1-1024x679.jpg

 

 

 

 

  • 赤穂は井戸を掘っても海水がまじるため上水道を完備した。それが、浅野家の前の池田家の時である。『赤穂市立歴史博物館』でそれを展示や映像で説明していた。千種川から町家にも各戸に給水していて、播州赤穂駅からお城に向かう道にも「赤穂藩上水道」とあり、水が勢いよく流れだしていて町民の喜びが想像できる。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2333-1-1024x576.jpg

 

 

 

  • 入浜塩田の模型もあり、浅野家の後は永井家その次の森家は西浜塩田を干拓し、12代藩主を続けた。この森家の祖先には、織田信長に仕えた、森蘭丸坊丸力丸三兄弟がいた。その後森家に後継ぎがなく廃絶となるが、幕府は復活させ森長直を赤穂藩主とし、そこから12代続くのである。この森三兄弟の出現で安土に寄ることを決める。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2285-1-857x1024.jpg

 

 

  • 三之丸に大石良雄宅ら重臣の屋敷があり大石神社から『赤穂市立民俗資料館』へ行く途中に塩屋門跡がある。藩主長矩の刃傷、切腹の第一、第二の早籠の知らせが入ったのがこの門で、城受取りの軍勢が入ったのもこの塩屋門とある。水色の洋館が『赤穂市立民俗資料館』で明治38年に塩専売法が施工され大蔵省塩務局の庁舎である。現存する日本最古の塩庁舎。赤穂で使われていた農具や日用品などが展示されているが、展示品の時代の流れがわかりやすく広い空間、狭い空間を上手に利用している。赤穂緞通(だんつう)を知る。堺、鍋島と並ぶ三大緞通。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2326-1-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2311-1-576x1024.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2312-1-1024x576.jpg

 

 

 

  • 赤穂の伝統工芸にも出会えた。駅の裏山には赤の文字が。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_2329-1-811x1024.jpg