映画『シャーリー&ヒンダ ウォ―ル街を出禁になった2人』 『人生タクシー』からの継続(2)

映画『人生タクシー』からは、イラン映画を観て、イラン関係の本を読み、国立博物館へ行き、さらにトルコ映画を観ることになった。流れは次のようになる。

イラン映画『正倉院の世界 皇室がまもり伝えた美』(シルクロード)→迎賓館赤坂離宮東京ジャーミィ(モスク)→トルコ映画

映画『人生タクシー』のジャファル・パナヒ監督の他の作品では『オフサイド・ガールズ』と『チャドルと生きる』を観る。『オフサイド・ガールズ』は、女性はスポーツ観戦が法律で禁止されているのであるが、サッカー大好きな少女たちが、男装して何んとか観戦しようとするが見つかってしまい兵士の監視下におかれる。イラン映画はイラン国の事情がわからないからドキドキしながら見てしまう。少女たちは黙ってはいないし、それに真面目に答える兵士との会話にユーモアさえ感じる。

すったもんだがあり、観る方は、もっと厳しいことになるのではと心配になるが、一件落着してほっとさせられたりもする。ラストは、予想外のことが生じる。初めは少女たちに同情して観ていたのにもかかわらず、兵士に、あなたたちの今までの苦労は何なのよ、それでいいの、と声をかけたくなる場面で終わるのである。田舎出身の兵士が、都会の少女に翻弄されているようでもあり、兵士も普通の若者であったという可笑しさにさそわれる。少女たちのサッカーに対する熱さは今後も続くであろう。サッカー大好き少年の映画としては『トラベラー』(アッパス・キアロスタ監督)というのもある。

チャドルと生きる』は、なかなか事情が呑み込めないような展開である。黒いチャドルをまとう女性の行動が謎めいている。チャドルは原音に近いのはチャードルなのだそうで、半円形に仕立てられた一枚のヴェールである。イラン国内の女性は、人前では髪の毛と身体を覆う衣服の着用が義務づけられている。スカーフに丈の長いコートという着方をしている女性も多い。これらすべての総称が「へジャーブ」と呼ばれている。黒のチャドルの雰囲気はどこか謎めいていていて女性の行動も一層謎めく。

チャドルという歴史の古い衣服が、古い因習の重さをも表しているようで、それにに押しつぶされそうな女性が、一人でその殻を破るために右往左往しながらも前に進んで行く。女性の旅の規制など、女性たちが行動していく過程で予想のつかない現実があり、女性たちは何んとかそこを突破しようとしていて強い。

子供たちも自分の力で問題を解決しようと進む。そのひとつが『友だちのうちはどこ?』である。アッバス・キアロスタミ監督・脚本・によるジグザグ道三部作の一作目で、ジグザグ道は、映像の中に出てくる。このジグザグ道を主人公の少年は一生懸命走るのである。なぜ走るのか。教室で隣に座った同級生のノートを間違って持って帰って来てしまったのである。その子は、宿題をノートではなく他の紙に書いて先生に注意され、三回目は退学だと言われている生徒である。このノートがないと三回目になってしまうのである。

ノートを届けるため少年は走る、走る。そして友だちの家を探すのである。イラン映画はフェイントをかけられるところがあり、えっ、どうしてという箇所がある。それが次の展開ではホッとさせられるという状況になったりもするのであるが、この映画も、ハラハラ、ドキドキさせられながら、主人公の考えた行動に納得させられるのである。

柳と風』(脚本・アッバス・キアロスタミ/モハマッド=アリ・タレビ監督)、『運動靴と赤い金魚』(マジット・マジディ監督)も同じように子どもの一生懸命さに観る側の背筋が伸びる。もっと厳しい環境の中で生きている子供たちの映画もある。

映画からはどんな環境にあっても子供たちに勉学に励んでもらいたいという大人(映画人)の願いを感じる。字の読み書きができない大人も多かったのである。踊るようなペルシャ文字は魅力的である。

若者の映画では、音楽の世界に生きるドキュメンタリー風の映画『ペルシャ猫を誰も知らない』(バフマン・ゴバディ監督)がある。イランではコンサートなども許可制で、音楽も規制され、若者たちは逮捕されつつも自分たちの音楽を目指す。この映画ではイランで生み出される様々な音楽が味わえる。イラン人は詩を大切にし身近なものとしているらしく詩の世界に入りきれない映画もあるし、ミステリー映画もある。映画の事ばかりになり先に進まないので、観た映画名のみ記しておく。

そして人生は続く』(ジグザク道三部作・二作目)・『オリーブの林を抜けて』(ジグザク道三部作・三作目)・『クローズアップ』・『ホームワーク』・『桜桃の味』・『バダック:砂漠の少年』・『風がふくまま』・『ダンス・オブ・ダスト』・『トゥルー・ストリート』・『スプリングー春へー』・『カンダハール』(イラン・フランス合作)・『私が女になった日』・『少年と砂漠のカフェ』・『1票のラブレター』・『少女の髪どめ』・『風の絨毯』(日本・イラン合作)・『ストレイドッグス~家なき子たち~』(イラン・フランス合作)『ハーフェズ・ペルシャの詩』(日本・イラン合作)・『彼女が消えた浜辺』・『別離』・『ある過去の行方』・『セールスマン』(イラン・フランス合作)  

その他、イランの映画監督が外国で撮った映画で観た映画。『セックスと哲学』・『トスカーナの贋作』・『ライク・サムワン・イン・ラブ』(日本)・『独裁者と小さな孫』・『誰もがそれを知っている』・『明日へのチケット

この続きは来年となってしまう。紅白はたけしさんの『浅草キッド』だけ聴きたかった。シンプルでよかった。ひばりさんは古い映像で工夫してほしかった。人工的で悲しくなった。あとは音を消して映像をチラチラ眺めていた。歌を聴くよりもそちらのほうが面白かった。

 

映画『シャーリー&ヒンダ ウォ―ル街を出禁になった2人』 『人生タクシー』からの継続(1)

時間的に書き込みできず休んだところ、楽で他に時間を使うことができ、しばらく書き込みを止めた。気がついたら12月になってしまった。2019年も終わるのである。

映画『シャーリー&ヒンダ ウォ―ル街を出禁になった2人』 『人生タクシー』からの空白の時間のようであるが、実際にはこの映画につながっていたのであるから不思議である。

映画『シャーリー&ヒンダ ウォ―ル街を出禁になった2人』から2008年のリーマンショックに興味がつながる。リーマンショックとは一体どういうことだったのであろうか。2008年、アメリカで大手投資銀行リーマン・ブラザーズが倒産し、世界最大の保険会社ATGが経営破たんのため国有化などがおこる。この影響が世界金融危機へとつながっていくのである。

リーマンショック関連映画(DVD)を観る。『インサイドジョブ 世界不況の知られざる真実』(ドキュメンタリー) 『マージン・コール』(日本未公開) 『ウォ―ルストリート・ダウン』 『マネー・ショート 華麗なる逆転』 『リーマン・ブラザーズ 最後の4日間』(実録テレビドラマ)『キャピタリズム ~マネーは踊る~』(ドキュメンタリー)

頭脳明晰な人たちがお金もうけの手段として考えたことであり、いまだによく理解できないが、わからないようにお金もうけを仕組んだのである。それにハマってしまった多くの人々がマイホームから追いだされ、あるいは失業し、あるいは責任を取らずに逃げ、大儲けをした一握りの人もいたということであろう。

マイホームを購入するときローンを組む。その時支払い能力の審査がある。その審査が無いに等しいサブプライムローンというのがある。お金を貸して家を持たせる。その家を担保にまたローンを組ませたりもする。マイホームを持つひとが増え住宅バブルである。ただこのサブプライムローンには落とし穴がある。途中から支払い額が増えるのである。変動制であるがそのことをわかりやすく説明したとは思えない。持てないと思っていたマイホームが手に入るのである。そしてわけもわからずにローンが払えなくなって強制執行で追い出されてしまう。

さらに解らないのであるがこのローンが他のローンなどと組み合わせられ債務担保証券として売られるのである。さらにこの証券の価値がなくなった時のための保険がありそれも販売される。マイホームを購入できるだけの収入がない人も審査上OKでのマイホームブームであるが、内実を知らない投資家は証券を買う。値はドンドン上がっていく。これが破たんした時のための保険というのがあることによって逆転勝ち組になるのが、映画『マネー・ショート 華麗なる逆転』である。

特定の人が、このバブルに疑念を抱く。これは破たんすると予測して保険をかけるのである。家の所有者と関係のない多数の人がその家に保険をかけることができるのと同じで、その家が火事になると掛けた人は保険金を貰えるのである。火事になることを期待して掛けるのである。そしてついに破たんし、リーマン・ブラザーズは潰れ、保険会社ATGには税金がつぎ込まれる。

映画『マネー・ショート 華麗なる逆転』でもうけた人々は、それがどれだけの貧困を生み出してのお金であるか知っているので複雑である。ただこここまでの間、人々を手玉に取って手数料で大儲けしていた人達に対しての義憤もある。自分の先見の明に単純に喜ぶ人もあれば、やるせなさを感じている人もいる。

インサイドジョブ 世界不況の知られざる真実』(ドキュメンタリー)は、責任問題などにも言及している。そしてこれらの映画を観たあとで、BS世界のドキュメンタリーで『リーマン告発者の10年』の放送があった。リーマン・ブラザーズの不正を知り内部告発した人々の10年を追ったもので、彼らのその後は厳しい人生である。彼らは裁かれる者がきちんと裁かれることを願っている。正当な願いである。

今年の夏は、NHK・BSのドキュメンタリーにお世話になった。昭和天皇の初公開の秘録を始め、興味深い戦争の知られざる様子を知ることができた。きちんと資料を残しておいてくれた人、それを見つけ出してくれた人、そして番組として制作してくれた人々の仕事ぶりには知る喜びを与えてもらった。

さて、リーマン・ショックのもやもやした気持ちを少しすっきりさせてくれるのが、B級作品とみなされるかもしれないが『ウォ―ルストリート・ダウン』である。銃でバキュン、バキュンと復讐する。映画の中なのでお許しをというところである。ラストがしゃれている。銃は必要ないとマイケル・ムーア監督に怒られそうであるが。 

マージン・コール』は、リーマン・ブラザーズの社員の話しで、色々あってもやはり会社人間から抜けだせないということである。デミ・ムーアを久しぶりで観た。役としてはそれほどのインパクトはなかった。

キャピタリズム ~マネーは踊る~』(ドキュメンタリー)。マイケル・ムーア監督作品。切り込み方の発想がいい。行動してその中から派生していく方向性を大切にしているからである。家からの追い立ての強制執行にも立ち会っている。『ハドソン川の奇跡』の映画にもなったサレンバーガー機長が、パイロットの金銭的窮状を発言していたのには驚いた。マイケル・ムーア監督の作品のDVDはテレビ放送作品を含めてほとんで観た。これまた、アメリカの知らなかった世界をみさせてもらった。突撃取材の発想が凄い。

マイケル・ムーア監督作品『華氏911』『華氏119』は、フランソワ・トリュフォー監督の映画『華氏451』からと思われるが、観ていなかったので早速観る。SFで、本を読むことを禁止され、没収され焼かれてしまう。その取り締まる側の係官が本に魅せられてしまう。それが見つかるが、取り締まりの魔の手から逃れる。一冊本を丸暗記して本を守る人々の集まりに出会い参加するのである。この原作本は『華氏451度』でこの本が登場する映画がある。

映画『マイ・ブックショップ』である。小さな町で夫を亡くした女性が本屋を開く。その本屋の初めての客に本を選んで届けるように言われ、女性はその中の一冊に『華氏451度』を選ぶ。初めての客はその本を気に入り、作家・レイ・ブラッドベリの他の作品もと注文するのである。しかし、町の有力者が本屋開店を快く想わず何かと邪魔をする。小さな世界が世間によくある構図でもあり、本屋は閉じられる。しかし、本の縁はつながっていくという、なかなか秀逸な作品であった。

映画『i 新聞記者ドキュメントー』は、クリスマスプレゼントに値するドキュメンタリー映画であった。東京新聞社会部記者・望月衣塑子さんを追い駈ける。しっかりこれが映画として残されたことにひとすじの光を感じる。ここで一応、映画『シャーリー&ヒンダ ウォ―ル街を出禁になった2人』のひとつの着地点とする。日本映画で着地できたのが嬉しい。

映画『シャーリー&ヒンダ ウォ―ル街を出禁になった2人』 『人生タクシー』

シャーリー&ヒンダ ウォ―ル街を出禁になった2人』はドキュメンタリー映画である。流れがスムーズで映画をドキュメンタリー風に撮ったと思わせるくらいユーモアに溢れている。しかし言う事はしっかり主張するのである。

アメリカのシアトルに住むシャーリー(92歳)とヒンダ(86歳)は長い友人関係のようである。シャーリーは、家を失う人が多い現時点(2013年であろうか)から、経済の成長は間違っているのではないか、経済の成長が人間の本当の幸福なのだろうかと疑問をもつ。ヒンダはそれに対しシャーリーがわからないと答えると、あなたはそればっかりとつっかかる。このあたりも二人の付き合いの長さと深さがわかる。

ではということで二人は行動する。ワシントン大学へ聴講に行くのである。二人はこの大学の卒業生らしい。シャーリーは1939年に入学して、1971年に学位をとり、その間に5人の子供を産んだと言う。知りたい学びたいという好奇心は筋金入りなのである。

聴講に行くにも91歳と86歳である。スクーターに乗っていく。本人たちはそう呼んでいる。ゆっくり走る介護用のスクーターである。日本では見た事がないので検索したら、電動シニアカートとなっている。日本には向かないのであろうか。団地などでエレベーターがあり車の走行が少ないなら団地内のスーパーに買い物に行けたり、病院があれば通院できたりするのではなかろうか。そこまで考えて街作りしていないのが現状でしょうね。

教室にもその愛車で入室するのである。そして先生に質問して質問は受け入れられず、めげずに再質問して退室を命じられ、二人は愛車で退室するのである。それを見ている学生を見ていると、あなたたち、質問するくらいの勉強をしてちょうだいねと願う。

二人はめげないのである。インターネットでロバート・ケネディの演説を見つける。こちらもお二人のおかげで発見であった。ロバート・ケネディさんは、経済成長の中身は何なのかということを言っているんです。こんな演説をしていたのかと初めて知りました。話し方が具体的で惹きつける力がある。人気の意味がわかった。

ある教授宅を訪れ、世界の資源は限りがあり永久に成長はできないという話しを聞く。二人はもっと経済の中心の人の意見が聞きたいと、ニューヨークのウォール街に行くことにする。会えるあてはないのであるが、彼女たちは、先ず行動するのである。ニューヨークの宿舎でヒンダは風邪をひくが、ここがアメリカ的というか、お互いにもたれ合わないのである。シャーリーは一人スクーターで出かけ路上で色々な人から話聞く。若い人の生活設計が親世代としっかり違う生き方を選んでいるのも面白い。

そしてエコロジー経済学者を招き話をきく。二人の知りたいは突き進む。映画の内容が固そうであるが、二人は老人である。そのリアルさが可笑しいのである。ヒンダはベットに上がれなかったり。このあたりは二人を見ていたホバル・ブストネス監督がそれいいですね、もう一回取り直したいのでよろしくと言ったように感じてしまう。作られた映画を観ているような感じもある。二人は行動するだけに身体の工夫も考えるのである。

シャーリーは、財界の大物が集まるウォールストリートディナーに出席することを決める。インターネットで出席の券を購入する。もちろん二人分。ヒンダもいざとなればシャーリーを一人で行かせるわけにはいかない。

映画の題名についていたように「ウォ―ル街を出禁になった2人」である。その時、「心臓発作でくたばれ、このクソババアが。」と言われるのである。言った本人に名前を聴くが名乗らなかった。そんなことにたじろぐ二人ではない。

シアトルへ帰ったヒンダに試練が待ち受けていた。水泳をして努力していたのであるが、膝がついにギブアップで手術をすることになる。プールもヒンダは一人で自動移動機で水に入るのである。日本にこういうところあるのかなとまた考えてしまった。

シャーリーに送られて手術室に入るヒンダ。

雨の外の景色をボンヤリ眺めているシャーリー。電話が鳴る。ヒンダであった。

二人は今度は仲間とともに再びワシントン大学に。「このまま経済の成長を続けていいの。」と。

ある経済学者からは、気がつくのがおそすぎるが、気がつかないよりは良いと言われる。ウォール街のディナーでは、考えるより今を楽しもうよ、そんなに心配し過ぎないでね、などとも言われる。肉体的には年相応に衰えている現実を知っている。しかし、知りたいこと疑問に思う事にはじっとしていられない二人である。そのあたりがよく伝わってくる。可笑しくもあり、哀しくもあり、そしてめげない二人の姿に生きてきた実態と現時点での心の躍動がある。(2013年製作、日本公開2015年)

映画『人生タクシー』。タクシーの運転手さんが乗せた乗客とほのぼのとした関係を持つ映画かなと思って観始めた。国が違うとタクシーの乗り方も違うものである。乗合いタクシーのように、空いていれば次々とお客を乗せていく。行先の方向が違うと断ったりするのである。

知らない女性と男性の二人の乗客が死刑について意見の違いを論じ始める。凄いな。この国ではこんな議論が日常なのであろうかと思う。女性は教師で、男性は降りる時自分の仕事は路上強盗だという。ブラックユーモアなのであろうか。

そして、違う乗客の口から、タクシーの運転手さんが映画監督であることがわかる。映画監督が副業としてタクシーの運転手をしているのか、それとも、映画をとるためにタクシーの運転手になっているのか。ドキュメンタリーなのであろうか。

乗客が乗るにしたがって、この国の状況が少しづつわかってくる。映画監督は、姪を学校まで迎えにいくことになっていた。この姪が、おしゃまさんで口が達者である。学校では映画をつくる授業があるらしく、映画製作の規定をノートをみながら読み始める。この国の規定らしい。

女性のおかれた立場とか、他の国のDVDの購入も規制されているらしく、タクシーの運転手の監督は有名らしいということがわかってくる。そして、この国では路上強盗の被害に遭うことも多々ありそうである。

真っ赤なばらを抱えた女性が乗って、この国の状況がさらにわかってきて、映画監督の立つ位置も何となくわかってくる。この女性が置いて行った真っ赤な美しい一輪のバラが突然消えてしまう。撮影が突然終わって真っ黒な画面となる。そういうことであったか。

国はイラン。映画を作ったのは、20年間の映画監督禁止令を出されたジャファル・パナム監督である。

タクシー運転手さんがしごくおだやかなので、そんな苦境の中にいる人とは思えなかった。ただ、現実に何かの規制を受けているのだなという事はわかった。その中でこの映画を作ったのである。最後にきちんと国の現状が伝わってくる。

パッケージから多くの賞を受けたのはわかったが、賞を受けようと受けまいと、素晴らしい作品であることに変わりない。こんな方法があったのかと驚かされた。人にはまだまだ力がある。(2015年製作、日本公開2017年)

浅草映画・『若者たち』

「君の行く道は~はてしなく遠い~」歌は知っていても、テレビドラマは見ていないし、映画も観ていなっかた。映画『若者たち』(1968年)のDVDに特典映像がついていて、この映画に関する情報を得ることができた。DVD化されたのが2006年である。森川時久監督、脚本家の山内久さん、俳優の山本圭さんの三人が対談されている。

映画『若者たち』は自主上映だったのである。映画は出来上がったが、配給してくれるところがなく、松竹の城戸四郎さんが買っても良いと言われたのだが、製作費よりも安く、損をするのはいやなので自主上映に踏み切った。城戸四郎さんとなると、どうも映画『キネマの天地』の起田所長の白鷗さんを思い出してしまう。「購入してもいいが製作費より安いよ。」といいそうである。

名古屋が初上映で、大成功であった。全国をまわり最後が有楽町のよみうりホールで収益を上げ次の映画の資金となった。その頃、もう一本自主上映していた映画があって『ドレイ工場』(監督・山本薩夫・武田敦監督)とのことである。

森川時久監督はテレビの演出家で、映画監督初デビューでもあった。カメラの宮島義勇さんに映画の撮り方の一から教わり、この映画はテレビ出身監督の映画という事もあってか、当時きちんとした批評がなかったようである。映画人のテレビかという意識があったようだ。映画がDVDによってテレビのフレームに帰ってきたというおもいがあると森川時久監督は言われているが、DVD大好きである。DVDによってどれだけの映画を観ることができているか。

『若者たち』もDVD化されていなければ観れなかったのであるから。何となく風のたよりに聞いていた、羽仁進監督の『不良少年』も観ることができた。そういう意味では、浅草映画に感謝である。(もちろん、中村実男著『昭和浅草映画地図』にもである。)

山本圭さんは、宮島義勇さんに映画はカメラのフレームの中で演技してくれと言われたそうであるが、これが難しかったそうである。ヒッチコック映画のDVDも解説付きがあって、その中である役者さんが、端にいて驚く場面で驚いて後ろに下がってしまい監督に消えるなと怒られるのだそうであるがどうしてもできなくて、もういいといって許してもらったというインタビューを思い出した。

とにかく資金難で、ロケ現場では、昼時になると弁当が出せないためチーフ助監督が姿を消すのだそうである。ある時は、仕方なく焼き芋屋さんを田中邦衛さん等と買い切って配ったりしたそうで、そうした苦労話は数々あるようである。それと、1960年代は生放送に近いテレビの原点でリハーサルを何回もして寝不足のまま撮影現場に移動したそうで、とにかくリハーサルが長かったようである。

森川時久監督は戦争孤児のことをやりたくて一度失敗してずーっとやり残していたがやっと、両親のいない5人が生きていくということで実現させた。時代は高度成長期で、そこで置いて行かれる人々の議論劇としている。

長男・太郎(田中邦衛)は、三男・三郎(山本圭)と四男・末吉(松山省二)を大学に行かせることにし、さらにりっぱな家を建てるのが目標である。三男は大学に進んだが世の中の現実から目を離して学業だけに専念することはできない。四男は、兄たちに負担をかけつつ追い詰められるような気持ちで大学を目指すのがいやになってくる。長女・オリエ(佐藤オリエ)は一人で兄弟たちのために家事をがんばり、兄弟たちの喧嘩の後始末などごめんだと友人のところに逃げてしまう。次男・二郎(橋本功)は、トラックの運転手で、事故ってしまうが、これまた一本気で身近な人の苦労がほっとけない。

長男の家父長的な決め方に三男は理論でぶつかっていく。長男はその家父長さを職場でも発揮する。事故のため怪我をした下請けの労働者に対する扱いが許せなくて本社に掛け合いクビになってしまう。三男は、長男に対し兄貴だって世の中の矛盾と対峙しているのにそれを感情論だけでぶつかっているとまたまた激論の喧嘩となる。それぞれが矛盾を感じつつそれぞれのやり方で世の中で闘っていくエネルギーとぶつかれる仲間のあった時代のドラマでもある。

そしてこれだけぶつかりあえる家族がいた時代ともいえる。近頃は、手出しの出来ない弱い子供を一方的に攻撃してしまう事件が多すぎる。あの時代から見ると行先がこんな時代になっているのかと落胆してしまうであろう。あの兄弟の喧嘩の方が意味があり対等のエネルギーがあった。言い合える場所と均衡があったのである。

長男は上司の妹と結婚するつもりであった。彼女はクビになった彼の就職の世話もしてくれた。しかし、彼女は長男との結婚を断るのである。その場面が隅田川の向島側で堤防がカミソリ堤防といわれるコンクリートの高い壁になっていて台に上がってやっと隅田川がみえるという情景である。吾妻橋、東武鉄道の鉄橋、浅草側には松屋や神谷バーなどが並んでみえる。

覆い隠すことのない人間性をだしている映画の内容もよいが、この隅田川の堤防を映して置いてくれたことも貴重な映像である。今の隅田川テラスからは想像できない情景である。伊勢湾台風の教訓から整備されたのであるが、このカミソリ堤防で水辺と人間が切り離される結果となり、再度整備される。ゆるやかな傾斜がある堤防と遊歩道を備えた親水テラスとなったのである。

この隅田川テラスを調べてみるとかなりの距離つながっていたのである。勝鬨橋から千住大橋までつながっている。というわけで歩いて見た。なかなか面白い散策であった。早めに実行しておいてよかった。この暑さでは水辺といえども体力的にゆとりがなかったであろう。

「空に また 陽が昇るとき 若者は また 歩きはじめる」テレビドラマと映画の主題歌は一緒である。(作詞・藤田敏雄、作曲・佐藤勝) 佐藤勝さんは映画音楽では外せないほど多くの映画音楽を担当をされている。

出演・栗原小巻、小川真由美、石立鉄男、井川比佐志、大滝秀治、江守徹

昨夜ここまで記入し、読み返して公開しようと思ったら、今朝の事件である。痛ましすぎる。暴力は最低である。悪である。それも、何で無抵抗の人を攻撃するのか。卑怯すぎる。時代を遡って今という時代を思い起こす時間が必要なのかもしれないが、時代の波は速度を増すばかりである。事件に会われた方々のこれからの時間・・・

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(4)

北総線矢切駅から「野菊の墓文学碑」までは10分くらいである。矢切駅をはさんでの反対側には「式場病院」があるはずである。 『炎の人 式場隆三郎 -医学と芸術のはざまで-』 さて『野菊の墓』散策の方向に進むが、途中に「矢切神社」があり向かい側に「矢喰村庚申塚」がある。

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矢喰村庚申塚由来>の碑がある。温暖で平坦な下総原野が川と海に落ち込むこの矢切台地にひとが住んだのは約五千年前で、平和な生活を営んでいたが、国府が国府台にに置かれ千三百年ほど前から武士たちの政争の場となり、北条氏と里見氏の合戦では、矢切が主戦場となった。この戦さで村人は塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ、親から子、子から孫に言い伝えられ江戸時代中期に二度と戦乱のないよう安らぎと健康を願い、庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻みお祈りをしてきた。先人たちの苦難と生きる力強さを知り四百年前の遺蹟と心を次の世代に伝えるため平和としあわせを祈り、この塚をつくったとある。(昭和61年10月吉日)

石像群の中央に位置する庚申塔は、青面金剛を主尊としており、中央上部には、阿弥陀三尊種子と日月、青面金剛像の足元には三猿が刻まれているとある。なるほど納得である。(造立年は1668年) そして、政夫と民子が並んで彫られている「やすらぎの像」もある。

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庚申塚を左手にして5分ほど進んで行くと左手に西蓮寺がある。向かいの右手に階段がありそこを登って行くと野菊苑と称する小さな公園がある。階段のそばに<永禄古戦場跡>と記された木柱がある。国府台合戦は二回あり、その二回目の始まった場所ということである。今回の散策で、矢切りは古戦場の歴史の場であったことが印象づけられた。上の苑からは矢切りの畑地が見下ろせる。橋があり歩道橋であり、それを渡ると西蓮寺の境内に出ることになりそこに「野菊の墓文学碑」がある。西蓮寺からはここには出られないようになっているので野菊苑からである。

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野菊の墓文学碑」は土屋文明さんの筆により『野菊の墓』の冒頭部分と、茄子を採りに行ったとき見た風景部分と、綿を採りに行った時に別々に行き政夫が民子を待つ場面が一つつなぎで書かれている。

「野菊について」という説明板もあり、「野菊」という名の花は無く、山野に咲く数種の菊の総称とある。関東近辺で一般に「野菊」と呼ばれる花は、カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクなどで白か淡青紫色で、民子が好きだった「野菊」とはどのような花だったのでしょうかと書かれていた。

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白という感じがします。詳しく図鑑的にこれをというのではなく、野に咲いていて目に留まったキクであれば皆好きだったのではないでしょうか。つんでいれば青系も入っていたかもしれません。映画では白を使うと思います。

ここから「野菊のこみち」を通って江戸川にぶつかる予定であったが、一本道がちがっていたようである。よくわからなかったので江戸川の土手を目指す。「かいかば通り」という解説碑があった。このあたりの細流はしじみ貝のとれる貝かい場であったことから「かいかば通り」といわれていたとあり五千年前の畑の作物、貝類などを採って平安に暮らしていた人々にまで想像が広がる。憎むべきは戦さである。坂川の矢切橋を渡る。「野菊のような人」の碑がある。政夫と民子が野菊を手にしている。そして江戸川の土手をのぼる。

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途中で道を教えてくれた人の言葉に従って、土手下のゴルフ場の間をつききって松戸側の「矢切の渡し」へ到着。舟がこちらに向かってきていて待つ時間も短く乗ることができた。こちらに渡った人がすぐ並んで戻られる人がほとんどである。舟は往復で川下と川上と方向を変え少し遠まわりをして渡ってくれるのである。エンジンつきなので滑らかに川面を進んでくれる。

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船頭さんの話しだと鮎が上がってくるのだそうで、網が仕掛けられていた。稚鮎を獲っていて出荷しているようだ。小さな亀が甲羅干しをしている。一作目の『男はつらいよ』で寅さんは、千葉(松戸)側から東京(葛飾)に渡っているという。「川甚」は、その頃はもっと川べりにあったそうで、映画を観なおしてみた。なるほどであった。さくらと博の結婚式で、印刷所の社長が手形のことで遅れて「川甚」の玄関に飛び込んでくる。その時、江戸川が見えていた。

舟は葛飾の矢切の渡しに到着。徒歩、電車、舟で江戸川を渡ることができた。『寅さん記念館』がリニューアルオープンしたようであるが、行く元気がなく、「川甚」「柴又帝釈天」のそばを通り、柴又の商店街に向かう。連休中だったので人々でにぎわっていた。

『男はつらいよ』にも、マドンナ役で出演されていた京マチ子さんが亡くなられた。角川シネマ有楽町での「京マチ子映画祭」の時、映画の終わりに「京マチ子。ありがとう!」と声をかけられた男性観客がおられた。 ドリス・デイさんも亡くなられた。 まだ観ていないお二人の映画などを、これからも楽しませていただきます。(合掌)

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(2)

北原白秋さんは、真間から小岩(当時・葛飾郡小岩村)に引っ越す。『白秋望景』(川本三郎著)を参考にさせてもらうと、真間は白秋から見ると仏に仕える人がお金の話しばかりで「俗」と感じてしまったらしい。そして「東京に近いせいか、映画の撮影隊がやってきて騒々しい。」白秋さんがもとめる田園ではなかった。

再び江戸川を渡って東京へもどることになる。家財道具の荷の上に鉄砲百合の鉢を乗せ、白秋は荷車の後ろを歩いた。「白秋は、ポケットに小鳥の巣を入れ、両手には、青銅に燭台とガラスの傘を持ち、市川の橋を渡ってゆく。」

こちらは、京成線国府台駅から出発して、市川橋を歩き江戸川を渡り小岩へ向かう。現在の江戸川区北小岩八丁目ということで、引っ越した先が、ここという確かな位置がわからないので、白秋さんの歌碑があるという「八幡神社」をめざすことにした。

「国府台」というのは、古代にはここに下総国府がおかれ一帯の政治、文化の中心だった。国府台の呼び名もそうした歴史からきている。

江戸川べりは、夏目漱石さんも散策している。「夏目漱石の『彼岸過迄』では、主人公の田川敬太郎が友人の須永市蔵と春の日曜日、このあたりに郊外散歩に出かけている。」二人は、両国から汽車で鴻の台の下まで行って降り、そこから江戸川の土手を歩いて晴れ晴れとした気分で柴又の帝釈天まで進み、「川甚」でウナギを食べているのである。

かつては「鴻の台」とも呼ばれていたらしくそのいわれは調べていない。「川甚」は、映画『男はつらいよ』でさくらと博が結婚式を挙げた料亭である。谷崎潤一郎さん、吉井勇さん、長田秀雄さんの三人が「紫烟草舎」を訪ね、白秋さんを誘って「川甚」へ行っている。文学者の間では柴又まで散策すれば「川甚」として知られていたようである。

「借り家は、江戸川べりの草を刈り集めて軍馬の飼い葉などを作る乾草商の離れであった。」 二間だが、真間にはなかった台所があって、二度目の妻・章子さんは喜んだようである。それはもっともなことである。

白秋さんは、土手に上がれば江戸川がゆうゆうと流れ、その川を船がすべり、青田には百姓が働き、広い野っ原には人家の煙が立ち上っていて、この地が大変気に入るのである。

「で、(大正)六年の一月から六月までは、『雀の卵』の中の歌の推敲や新作と、一緒に葛飾の歌を作ることに夢中にされた。冬枯のさびしさに雀の羽音ばかり聴いて、食ふものも着るものも殆ど無い貧しい中に、私は座り通しであった。私の机の周囲は歌の反古で山をなした。何度も何度も浄書し清書し換えた。(『雀の卵』大序)」(『白秋望景』より。)

「里見公園」の「紫烟草舎」の前に、三番目の妻・菊子さんとの長男・隆太郎さんの解説板がある。

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「< 華やかに さびしき秋や 千町田の ほなみがすゑを群 雀たつ  白秋 > 広大無辺な田園には、黄金色の稲の穂がたわわに実りさわさわと風にそよいで一斉に波うっている。その稲波にそってはるか彼方に何千羽とも数知れない雀の群れがパーッと飛び立つこの豪華絢爛たる秋景のうちには底無き閑寂さがある。(中略)大正5年晩秋、「紫烟草舎」畔「夕照」のもとに現成した妙景である。(中略)父、白秋はこの観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し赤貧に耐え、以後数年間の精進ののち、詩文「雀の生活」その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正十年八月刊行の歌集「雀の卵」で実現した。」ここに書かれている歌の文字は白秋さんの自筆ということである。

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江戸川とその周辺の風景を眺めつつ市川橋を渡る。本来なら江戸川の土手を歩くのがよいのであるが、直線距離を目指し、途中で江戸川にぶつかり土手に上がってみる。川原が広くかなり下に川は流れていた。「里見公園」下の江戸川はすぐそばで怖いくらいの勢いであった。かつては川面がもっと近かったであろう。対岸に柳原水門が見える。この後ろあたりにかつての水門でレンガ造りの柳原水閘(すいこう)が残っているらしい。

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江戸川の土手から住宅街に入り「八幡神社」を目指すが、住宅街で学校が二つありその周囲をぐるっと回り、さらに途中でたずねた人が反対方向を教えてくれて、いつものことながら時間を要してしまった。白秋さんが北小岩八丁目に住んでいたということで「八幡神社」に歌碑を建てたられたようであるが、行った感触として今の人達には忘れ去られているようであった。< いつしかに 夏のあわれと なりにけり 乾草小屋の 桃色の月  > 

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住んでいた「紫烟草舎」は江戸川を渡ってしまっているし無理もない事である。白秋さんは大正6年の6月には京橋区築地本願寺近くに引っ越し、気に入っていた小岩も一年であった。8月には本郷動坂に移っている。そして、大正7年の2月に小田原へ行くのである。

赤貧と思索の真間と小岩から小田原につながったので一安心である。あとは歌で真間と小岩時代を鑑賞するのみである。さてこのまま北に向かえば葛飾柴又にいけるのであるが、「八幡神社」から近い北総線新柴又駅で電車で江戸川を渡り矢切駅へ行く。次は『野菊の墓』コースである。 

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(1)

市川市真間にある『手児奈霊堂』は、万葉集にも歌われていて、手児奈という美しい娘が複数の男性から言い寄られ、身を恥て真間の入り江に入水したという伝説があり、その手児奈を祀っているのである。

都人はこの伝説を聞き及んで、歌に詠んだわけである。高橋虫麻呂さんは「勝鹿(かつしか)の真間の井見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」(葛飾の真間の井を見ると立ちならして水を汲んだと言う手児奈が偲ばれる)。この手児奈の井戸は『手児奈霊堂』の向かいにある『亀井院』にあり、ここは北原白秋さんが一時住んでいたことがある。

手児奈霊堂』の先には『真間山弘法寺(ままさんぐぼうじ)』があり、ここにいたる大門通りは<万葉の道>として万葉の歌のパネルがあるらしい。20首ほどあるらしいが、かつての資料では、32首あって、真間ゆかりの歌は8首あった。この道は歩いていないのである。

もう一つ<文学の道>があり、桜の季節でもあったので、京成市川真間駅からこの道のほうを歩いた。市川に縁があったり、この地を作品に描いた文学者は大勢いて、その一部のゆかりのかたが木製の案内板で紹介されていた。

江戸時代の真間の文学は、万葉集のゆかりの土地としてだけではなく、紅葉の名所でもあったらしい。小林一茶さんもたびたび弘法寺を訪れ、上田秋成さんの『浅茅が宿」は手児奈伝説を踏まえているとし、滝沢馬琴さんは『南総里見八犬伝』は国府台の里見合戦に基づく伝奇小説で、弘法寺の伏姫桜はこの作品のヒロインに因んで名づけられたとある。

『浅茅が宿』と『真間山弘法寺』に関しては、 浅草散策と映画(2) で思いがけず出会っている。

伏姫桜>と名づけられた枝垂れ桜は実際に満開であった。『南総里見八犬伝』に関しては、ある研究家のかたの話しから、里見家の系図と広い分野の歴史を踏まえた下地があることと、江戸幕府を批判してもいるということを、学ばせてもらった。それから時間がたってしまい、歴史がまずややこしくて未整理の状態である。単なる伝奇小説ではくくれないという入口に立っている状態である。

もちろん、北原白秋さん、幸田露伴さん、幸田文さん、永井荷風さん、水木洋子さん、宗左近さん、井上ひさしさんらも紹介されている。途中に小さいが明治からの浮島弁財天があり技芸の神様として多くの信仰を集めていたそうで、この弁財天があるかどうかでこの<文学の道>も造られた道から伎芸天に呼ばれて出来た道の趣きとなった。

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真間川にぶつかり、「手児奈橋」を渡って『手児奈霊堂』へ。大門通りからは、「入江橋」を渡ることになり、その先に「継橋」があるようだ。「継橋」というのは入江の海岸の砂州と砂州を繋ぐ板橋で、真間には沢山あったようである。『手児奈霊堂』にもその入江の名残りといわれる池がある。『手児奈霊堂』の桜も場所柄をわきまえた咲き方で愛らしかった。

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亀井院』の説明板には、北原白秋さんがここで生活したのは大正5年5月中旬からひと月半とあり短かったのである。彼の生涯で最も生活の困窮した時代として、白秋さんの歌「米櫃(こめびつ)に米の幽(かす)かに音するは 白玉のごと果敢(はかな)かりけり」を紹介している。

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ここから『真間山弘法寺』の二王門めざして階段を登る。『弘法寺』は、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した「求法寺」がはじまりで、平安時代、弘法大師空海が七堂を構え『真間山弘法寺』としたとある。あの水戸光国さんもこられたそうな。

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境内では伏姫桜を描いているグループのかたたちがいた。皆さんかなりの腕前である。伏姫桜は、枝垂れる姿にどことなく儚さがただよう。境内の見晴らしの良い所から下の市街地をながめる。かつては入江だったわけである。

さて本堂の裏をまわって『里見公園』を目指すのであるが、裏のほうに元気な大きな桜が満開で裏技に出会ったようであった。

里見公園』まで足を伸ばしたのは、白秋さんが小岩で住んでいた「紫烟草舎」が、桜祭りで公開しているという情報からである。この家は江戸川の改修工事のためとりこわされ、解体されたままになっていたのを、建物の所有者の提供により、この地に復元するにいたったと説明板にはある。

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六畳と八畳の二間であるが、かぎ型に縁側があって、障子が開けはなされ明るくて周囲の外の様子がよくみえる。「紫烟草舎」については、小岩の八幡神社でつけ加えることにする。

里見公園』は、里見家と後北条氏との二回の合戦の場であるが、歴史的なことは省かせてもらう。ようするにわからないので。史跡としては「夜泣き石」があった。北条軍に負け戦死した里見弘次の末娘が父を弔うため安房からこの地にきて、戦場の悲惨さに石にもたれ泣き続け息絶えてしまった。それから毎夜この石から泣き声が聞こえるというのである。

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お墓のような碑が三つあった。<里見広次公廟><里見諸将霊墓><里見諸士群亡塚>で、里見軍は5千名が戦死したと伝わっている。この合戦の265年後に碑は建てられ、それから今は190年ほど経っている。

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江戸名所図会にも描かれた<羅漢の井>が今も水がどこからか流れてきていた。この井戸のそばの道を曲がると江戸川である。里見公園は高台にあって東京スカイツリーと東京タワーが見えるのである。案内板の写真によると、富士山も頭を出していた。

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ここから、小説『野菊の墓』の舞台にも行けるのであるが、『里見公園』で一旦散策は終了である。次回は、白秋さんが江戸川を渡って引っ越した「紫烟草舎」があったであろう近くの小岩の八幡神社へ行き散策を開始することにした。

浅草映画『抱かれた花嫁』『喜劇 駅前女将』『キネマの天地』(2)

映画『キネマの天地』は、松竹が蒲田撮影所から大船撮影所に移る前の1934年(昭和9年)頃の松竹蒲田撮影所の様子、新しい映画スターが誕生していく過程、世の中の様子などをみることができる。時代的には贈賄事件や東北の大凶作、大火、自然災害などがあり、庶民は暗い時代に押し込められていく時代でもある。そんな時代、まだ幼く若い労働者は手にお金を握りしめ活動写真小屋へいく。握りしめていたお金は湿っていた。

浅草の長屋に住み、浅草六区の活動写真館・帝国館で休憩時間にパンや飲み物などを客席で売る娘・田中小春(有森也実)が、小倉金之助監督(すまけい)の目に留まり撮影所に来るように声を掛けられる。撮影所に行ったところ、病室で危篤の父と娘が再会する場面で、監督がどうして看護婦がいないのだというので、急遽、小春は看護婦にさせられる。立ち位置も分からず、女優(美保純)のじゃまとなり、どうして泣かないのだといわれ大泣きして怒られ、女優はこりごりだと小春は思う。

そんな小春の住む長屋に、助監督の島田(中井貴一)が謝りにきて小春は再び映画女優を目指し、大部屋からのスタートであった。スタジオ外の守衛さん(桜井センリ)から用務員のおじさん(笠智衆)に始まって映画つくりに係わっている熱い映画人が映される。

役の上で実際の監督や映画俳優のモデルとする人物も現れ、わかる人もいる。小津安二郎監督がモデルの緒方監督(岸部一徳)はすぐわかる。あと逃避行した岡田嘉子さん(松坂慶子)と杉本良吉さん(津嘉山正種)も判りやすい。実名ではなくあくまでモデルとして名前は変えてある。田中小春は田中絹代さんがモデルというが、こちらはそうなのかと思う程度で田中絹代さんを意識しなかった。とにかく大勢の俳優さんが出演している。

小春の父・喜八(渥美清)は旅回りの役者だった人で、演技に関してはちょっとうるさいのである。小春がうなぎ屋の女中の役で台詞を一言いうことになる。喜八は、まずどんなうなぎ屋かで女中の演じ方もちがうと解説する。うなぎ屋の格によって女中もそれなりの立ち居振る舞いが違ってきて、庶民的なところであればこうなると例の寅さんの語りが始まるのである。

それを小春と一緒に喜八の話しを聴く隣の奥さん。隣の一家(倍賞千恵子、前田吟、吉岡秀隆)は寅さんのさくらの家族である。『男はつらいよ』のメンバー(下条正巳、三崎千恵子、佐藤蛾次郎、関敬六)があちらこちらに登場する。津嘉山正種さんは、『男はつらいよ』のオープニングシーンの常連らしい。どんな俳優さんが受け持っているのかな、見た事があるようなと思っていたので今度注目して観ることにする。脚本は井上ひさしさん、山田太一さん、朝間義隆さん、山田洋次さんである。

面白いのは幸四郎さん時代の白鷗さんの起田所長である。城戸四郎さんがモデルであるが、実際の城戸四郎さんと似ているのかどうかはわからないが所長として監督たちを指導するところが面白い。一筋縄ではいかない映画監督たちである。時代的に傾向映画をつくる監督もいるし、政府からの引き締めもきつくなってきている。映画会社としては客に入ってもらわなくてはやっていけないしで、監督たちを刺激させないように上手く話をもっていくのである。その懐柔作戦のテンポがなんともいいのである。

次の映画『浮草』の主役予定の女優が逃避行をしてしまいその代役が決まらない。小倉監督は小春を押す。緒方監督もいけるかもしれないと口添えする。起田所長は小雪を主役に抜擢するかどうか迷う。所長は用務員に小春はどうかねと尋ねる。用務員は好い女優になると思いますと答えるのである。こういうところも、何がきっかけでスターになっていくかわからない映画界がみえてくる。シンデレラムービーの一つでもある。脇からの攻めも計算されている。

助監督の島田も映画について色々悩むが、労働運動をしている大学時代の先輩(平田満)からの言葉と留置所での経験から、映画に賭けてみようと思うのである。撮影所では仲間たちや小春が喜んで迎えてくれる。そして、『浮草』の脚本のクレジットに島田の名が映される。そして、田中小春の名も。

喜八の家に活動好きの屑屋(笹野高史)が入り込んで、蒲田の女優を次々と上げていく。喜八は娘の名前が聞きたくてお酒をすすめるといった場面もある。そんな小春の出世を願う喜八は、幸せなことに小春の主演映画を観ながら亡くなるのである。その時小春は「蒲田まつり」で、高らかに「蒲田行進曲」を歌っていた。

出番が少なくても多くの俳優さんが力量の見せ所となっている。浅草六区の映画館前を通る藤山寛美さんなども、映像に現れるとどうされるのかと観る者を惹きつける。取り上げればきりがないので省くが、個性的な役柄をしっかり役に合わせて印象づけている俳優さんが多い映画であり、映画が好きな映画人集合の映画である。

撮影現場を見せる映画では『ザ・マジックアワー』(三谷幸喜監督)も奇想天外な発想で笑わせてくれる。撮影していないのに撮影していると信じ込ませて俳優に演技させるのである。俳優は信じているので自分なりの工夫で成りきって怖い場所で演じきるのである。

この映画、俳優さんや役者さんが、ちらっと現れて消える場面がある。猿之助さんが亀治郎時代にこの映画にちらっとでている。撮影所の食堂で落ち目の俳優の佐藤浩市さんとマネジャーの小日向文世さんが「亀じゃないか、おーい亀」と呼ぶのであるが、亀さん、会いたくない人に会ったとばかりに映像の左側に少し映り、さーっと消えるのである。DVDだったので何度も戻して観ては笑ってしまった。嫌そうな表情をしていて、歩き方もおもしろかった。それも一瞬というのがいい。

今のはもしかして、というの愉しみもあり油断できないのである。

フランソワ・トリュフォー監督の『アメリカの夜』も撮影現場の人間関係なども描いていて、これまた愉快な映画である。最初から撮影現場とは知らずに見入っていて突然、撮影中なのかと知らされたり、美しい映画の場面が、突然セットが現れてあっけにとられたりするのである。

横道にそれたついでに、山田洋次監督作品に歌舞伎役者さんが登場する映画や舞台を紹介しておきます。全て観ることができた。

『男はつらいよ・私の寅さん』(五代目河原崎國太郎)。『男はつらいよ・寅次郎あじさいの恋』(十四代目片岡仁左衛門)。『キネマの天地』(二代目松本白鴎)。『ダウンタウン・ヒーローズ』(七代目中村芝翫、八代目中村芝翫)。『学校Ⅱ』(中村富十郎)。『十五才 学校Ⅳ』(中村梅雀)。『たそがれ清兵衛』(中村梅雀、嵐圭史、中村錦之助)、『武士の一分』(坂東三津五郎)。『母べえ』(坂東三津五郎、中村梅之助)。シネマ歌舞伎『人情噺文七元結』。シネマ歌舞伎『連獅子』。舞台『さらば八月の大地』(中村勘九郎)。『小さいおうち』(片岡孝太郎、市川福太郎)。『家族はつらいよ』(中村鷹之資)。

浅草映画『抱かれた花嫁』『喜劇 駅前女将』『キネマの天地』(1)

浅草関連映画も、浅草に興味を持つ前に観た映画を再び見返しているが、気がつかなかったことが結構発見されるものである。喜劇はさらにその傾向が強いかもしれない。笑いのそのタイミングやちょっとした仕草や無理して笑わせようとしていない自然な不自然さにほーう、へえー、やりますね、などと感嘆したりしている。

映画『抱かれた花嫁』(1957年)は、<山田洋次監督が選んだ日本映画名作100本>の喜劇篇50本に入っていた一本である。監督は番匠義彰さんで、番匠義彰監督の映画はこの映画が初めてと思う。

ここからは『昭和浅草映画図』(中村実男著)から情報をいただくが、映画『抱かれた花嫁』(1957年)がヒットして「花嫁シリーズ」となる。そして松竹最初のシネマスコープ作品である。浅草物として番匠監督は7本撮られている。『抱かれた花嫁』『空かける花嫁』『三羽烏三代記』『ふりむいた花嫁』『クレジーの花嫁と七人の仲間』『泣いて笑った花嫁』『明日の夢があふれてる』。残念ながら残り6本は今のところ観れる見通しなしである。

映画『抱かれた花嫁』の中に浅草国際劇場での松竹歌劇団(SKD)の映像が映し出されるが、これが今までみたSKDの映像のなかで一番インパクトが強いのである。シネマスコープのせいもあるのか、奥行きと巾があって団員のラインダンスには圧倒されてしまう。「さくら」のピンクの傘をもってのフィナーレも団員が小さく見えてこの劇場の大きさが伝わってくる。

知人はお母さんと叔母さんに連れられてSKDをよく観に来たのだそうである。その時愉しみだったのがキューピーちゃんの着ぐるみだったそうで、調べて見たら写真がありました。最初の登場が1951年で評判がよく以後定番になったようである。

抱かれた花嫁』は、浅草の寿司屋の看板娘・和子(有馬稲子)を中心にその家族や恋人などが織りなす家族劇ともいえる。母親・ふさ(望月優子)は未亡人で子供たちのために店を守ってきた。長男・保(大木実)はストリップ劇場の脚本家で、次男・次夫(田浦正巳)は外交官志望でまだ学生である。となれば、看板娘の和子に養子をとるしかないのである。しかし和子には上野動物園で獣医をしている福田(高橋貞二)という恋人がいる。二人の間に、養子候補(永井達郎)と福田の気を引こうとする女性・千賀子(高千穂ひづる)という人物が入って来る。

次夫には恋人がいて、国際劇場に出ている踊子・光江(朝丘雪路)である。それが母のふさにばれてしまう。ふさは「あんな裸踊りの子なんて。」と嘆くが、実は、ふさは若い頃、踊子だったようである。オペレッタの人気者であった恋人と泣く泣く別れた事情があったようで、保のつとめるストリップ劇場へ、かつての恋人である往年のオペレッタスター・古島(日守新一)が出演するというのでふさは聴きに行く。古島は『恋はやさし』を歌う。

浅草の場面がたっぷり観れて、さらに日光の風景も加わり、テンポよく話は進んで行く。最後は、家出して水郷の友人のところにいる和子を福田が迎えにいくのであるが、水郷を舟で進む福田の姿が途中で消えてしまう。和子が上からのぞくと、舟に穴が開いていたのか舟から水を捨てる福田の姿があった。題名は『抱かれた花嫁』と色っぽいが、抱かれることなく笑いで明るく終わってしまうのである。

寿司屋の職人として桂小金治さんが活躍し、歌手の小坂一也さんがレストランの歌手として、あの独特の声を披露してくれる。

松竹初のシネマスコープ作品として、野村芳太郎監督の予定だったが、野村監督は松本清張さん原作の『張込み』に賭けていてこれを断り、番匠義彰監督となったそうである。(『昭和浅草映画図』)二つのタイプの違う映画が誕生したわけでそれぞれに楽しみ方が違い、映画ファンとしては幸いなりと言ったところである。

浅草物映画『ひまわり娘』(1953年)は、有馬稲子さんと三船敏郎さんがコンビであるが、三船敏郎さんが、松屋屋上のスカイクルーザーに田舎から出てきた母親と乗る場面があって、たっぷりスカイクルーザーを見せてくれる。

映画『喜劇 駅前女将』(1964年)は、浅草が舞台ではなく、両国と柳橋が舞台である。両国の酒屋・「吉良屋」の主人が森繁久彌さん、奥さんが森光子さん。柳橋の寿司屋・「孫寿司」の主人は森光子さんのお兄さんである伴淳三郎さんで奥さんは京塚昌子さん。伴淳三郎さんの弟で腕の悪い寿司職人がフランキー堺さんで恋人が芸者の池内淳子さん。両国のクリーニング屋には三木のり平さんで奥さんが乙羽信子さん。

この組み合わせにさらに加わるのが、森繁久彌さんのもと恋人で、夫に死別し両国に帰ってきた淡島千景さん。淡島千景さんは池内淳子さんのお姉さんでかつては芸者であった。森繁さんがお気に入りのバーのマダムが淡路恵子さん。伴淳三郎さんも淡路恵子さんが気に入ってしまう。

その他、淡島千景さんと池内淳子さんの姉貴分の芸者に沢村貞子さん。淡島千景さんはお店を開く予定で、当然、森繁さんが手を貸す。そして、淡路恵子さんのバーと淡島千景さんの開店したお店が隣同士で、二階からお隣の私的な場所が丸見えである。

さらに、中華料理屋の主人に山茶花究さん。池内淳子さんのクラスメートに大空真弓さん。森繁さんの叔父さんが銚子に住む加東大介さん。その息子に峰健二(峰岸徹)さん。そこのお手伝いさんが中尾ミエさんで、これまた歌を披露してくれる。

凄い配役で、それぞれの喜劇性が生かされている。観ていればこれだけ複雑な人間関係が無理なく受け入れられ、さらに、場面場面で関係ないような笑いを入れてくれている。フランキー堺さんの下駄タップ。フランキーさんが食べているラーメンのチャーシューを洗濯物の配達にきた三木のり平さんが間合いよく食べてしまったりなど、その動きがつなぎ目を見せず上手いのである。

佐伯幸三監督が、このシリーズでの初登場で、その後続けて監督を務めていて納得してしまう。軽快で俳優さん達の演技力をも堪能できる優れた喜劇映画である。浅草関連は映像は少なく、駒形橋や松屋の映像である。

両国なので、相撲取りの佐田乃山さん、栃光さん、栃ノ海さん、出羽錦さんも登場し、森繁さんは、鮨をご馳走することになるが弟子たちも付いてきていてその食べる量を想像しただけで歌うどころではなく退散である。もちろん森繁さんの得意芸のみせ場もありサービス満点の映画でもある。

<駅前女将>ということで、女性俳優も実力を発揮し、男性俳優と互角に演技をしていてそれがかえってバランスの良い喜劇となって成功している。

脚本は長瀬喜伴さんで駅前シリーズの常連であったということを知る。

映画『キネマの天地』(1986年)は、松竹大船撮影所50周年記念作品である。浅草の帝国館の売り子が映画スターになるという内容で、浅草六区や松竹蒲田撮影所のセットや映画撮影風景も見どころである。(山田洋次監督)


京マチ子映画祭・『赤線地帯』『流転の王妃』

赤線地帯』(1956年)は溝口健二監督で、『流転の王妃』(1960年)は田中絹代さんが監督として撮られた作品である。溝口健二さんと田中絹代さんと並べるとお二人の関係がいろいろ取沙汰されるであろうが、その辺は触れる気はない。溝口健二さんに関しては、新藤兼人監督のドキュメンタリー映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』があり、田中絹代さんに関しては、新藤兼人監督が書いた『小説 田中絹代』をもとに市川崑監督が映画『映画女優』を撮っておられる。

映画『赤線地帯』は、溝口健二監督の遺作でもあり、浅草の吉原を舞台としていて浅草映画物の一つでもある。京マチ子さんは、神戸から吉原の<夢の里>へやってくる。派手な衣装で誰をも恐れないガッツなマイペースさである。女優陣が京マチ子さん、若尾文子さん、木暮実千代さん、三益愛子さん、沢村貞子さんなどとそろっていて、それぞれの女性像を際立たせている。それぞれに事情があり、それを乗り越えられた女性もいれば、乗り越えられない女性もいる。

時代は、売春防止法が成立するかどうかの時期である。成立したのが1956年であるから、リアルタイムで描かれて公開されたわけである。<夢の里>の女将。しっかりとお金を貯め込んでいる女性。失業中で病気の夫と子供を養う女性。息子の成長だけを楽しみにしていたのに親子の縁をきられ発狂してしまう女性。結婚するため<夢の里>を出るが、妻というより単なる労働力として働かされ、もどってくる女性。

そんな女性達の中で、経済的に恵まれた実家がありながらそこを飛び出したのが京マチ子さんのミッキーである。ミッキーの発する言葉に情がないように思えるが、現実をみている。そして男に貢がせるのではなく、好きなことをやりたいときは自分の借金にするのである。<夢の里>では新米なのに一番借金が多いという状態である。ミッキーがいることによってどこか悲惨な気分が発散されるという役割をしている。ミッキーの嫌味のないところが京マチ子さんの演技力である。

この時代の映画で『渡り鳥いつ帰る』(1955年・久松靜児監督)『愛のお荷物』(1955年・川島雄三監督)『洲崎パラダイス赤信号』(1956年・川島雄三監督)などが浮かぶ。『愛のお荷物』では国会議員が、赤線地帯に視察に行く場面が思い出される。映画『赤線地帯』では、幽霊がでてくるような特徴ある音楽が挿入されていて、その旋律が何とも言えない効果をだす。(原作・芝木好子「洲崎の女」の一部より/音楽・黛敏郎)

映画『流転の王妃』(原作・愛新覚羅浩『流転の王妃』/脚本・和田夏十)は、満州国皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ・中国清朝のラストエンペラー)の弟・溥傑(ふけつ)と結婚した女性の激しく動く歴史の中で生きた姿を描いた作品である。その女性は嵯峨浩さんである。侯爵嵯峨家の長女で、軍の意向で溥傑さんとの結婚が決まる。だれもが軍の意向には逆らえず、権力を握る者がなんでも利用する様子がうかがえる。

しかし、溥傑さんと浩さんはお互いに魅かれ合い、その後の翻弄される時間を共有しつつ離れ離れになっても最後までその信頼関係を維持するのである。悲しいことにお二人の長女・慧生さんは心中されてしまう。若い身に想像できないほどの重圧があったのであろう。

映画では名前を変えてある。浩(ひろ)さんは、竜子(京マチ子)。溥傑さんは溥哲(船越英二)となっている。京マチ子さんは、楊貴妃も演じられたこともあり、とにかく様々な役をこなされている。そして多くの監督の作品に出られていて固定化できないところが京マチ子さんの魅力でもある。この映画でも悲惨な状況をも乗り越えていく一人の女性として熱演されている。

歴史的流れが整理できていないのであらすじについては省略するが、お二人は1937年(昭和12年)に結婚されている。新婚時代には、千葉の稲毛で半年間すごされている。その家が今も残っている。映画の中でも稲毛時代を幸せの時間として思い出す場面がある。

稲毛の浅間神社のあたりは今は埋め立てられて海岸線が移動しているが、明治時代から、別荘地として、海水浴場としての行楽の地であった。「稲毛海気療養所」ができその後、旅館「海気館」となり多くの小説家がおとずれている。海岸時代の黒松が多く残っていて驚いた。

お二人の住まいは「千葉市ゆかりの家・いなげ」として公開されている。軍部の干渉を受けないわずかな幸せな住まいであったのであろう。日本家屋で、想像していたよりも狭く、それだけにささやかな親密な空間だったのかもしれない。映画のなかでの中国の家は荒野のなかであった。稲毛のこの近くには、浅草の神谷バーの神谷伝兵衛さんの別荘も残っていて「千葉市民ギャラリー・いなげ」として利用され公開されている。こちらは洋館で立派である。

浩さんは、結婚後最後まで中国人として生きられ少しでも日中の友好をと願われたようである。田中絹代さんが、渡米後帰国した際、投げキスをしてひんしゅくをかっている。田中絹代さんが女優として、その時代その時代を見て来て今度は監督として一人の女性の生き方を描かれた作品なのであろう。

京マチ子さんは実に変化に飛んだ役柄を演じられた女優さんである。映画『いとはん物語』では、器量は悪いが心根の優しさが垣間見えるいとはんを演じられた。

映画『悲しみは女だけに』(1958年)は新藤兼人監督・脚本の作品であるが、新藤兼人監督の子供の頃の自伝映画でもある『落葉樹』で借金のために結婚してアメリカへ移民した姉が帰ってきたような設定になっている。お姉さんは帰ってくることはなかったのであるが。お姉さんが帰って来てみると家屋敷はなく、その弟の家族の心はばらばらであった。生活苦に追われている長女(京マチ子)は、叔母(田中絹代)が必死で異国で働いたお金を差し出されそれを受け取るのである。叔母の生き方をも受け取ったような場面であった。

映画祭にはなかった映画『濡れ髪牡丹』での下駄での立ち回りも見事であるし、『穴』などの自分と似た替え玉にさらに入れ替わりなりきるのもお手の物である。喜劇、悲劇、時代劇、歴史劇、文芸物、恋愛、家族、ミステリー、怪奇、群像劇、とジャンルを問わず楽しませてもらっている。