映画監督 ☆川島雄三☆ 『還って来た男』『東京マダムと大阪夫人』(1)

神保町シアターで<恋する女優 芦川いづみ>(8月29日~9月18日)で芦川いづみさんのデビュー映画で川島雄三監督作品『東京マダムと大阪夫人』を観ることが出来、<百花繚乱 昭和の映画女優たち>(9月19~10月23日)で川島雄三監督デビュー作品『還って来た男』を観ることができた。

『還って来た男』は、織田作之助さんの『清楚』『木の都』を脚色したもので、脚本も原作者の織田さんが担当している。神保町シアターで『川島雄三 乱調の美学』(磯田勉編)を手に入れる。三橋達也さん、桂小金治さん、高村倉太郎さん、今村昌平監督、西川克己監督のインタビューと、エッセイが載せられていて、それぞれの見方で面白い。

当時の大船撮影所は有力監督が次々応召され、小津安二郎監督も国策映画撮影のためシンガポールにいったままで、その手薄を補うため新人監督の登庸を決め、川島雄三さんも助監督から監督となる。西河克己監督は、学生時代に付き合いがあり、川島監督の1年後に松竹に入社する。この時の登庸試験について 「川島のようなのら犬監督には実力を認めて貰える機会はなかったかもしれない。」 としている。当時の川島監督は、西川監督からみると、もの知りなのら犬と写っていたようだが、川島監督は誰からの推挙もなく、純粋に試験の成績がトップで監督になったと記している。

『還って来た男』は、1944年の戦時下に作られたとは思えない長閑さがある。軍医が、戦地のマニラで虚弱な子供たちを診ていて、子供は健康に育たなければならないとの信念をもって日本に還ってくる。父親は財産を全て息子に渡す時期と考えていて、息子は自分の信念のためにその財産を使うこととする。ところが、この軍医は志は立派だが、そそっかしくあわてん坊なところがある。さらにところがで、このあわてん坊な純真なところが四人の女性に好感を持たれてしまうのである。

父親に財産と同時に嫁も貰えと言われ見合いをすすめられる。軍医は自分は見合いは一回しかせず、見合いをしたら必ずその人を妻にする主義でまだ見合いはしないというが、父親に丸め込まれ見合いをすることになる。その前に出会った女性二人は完全に軍医に好感を持っている。その後、亡くなった同級生の妹を心配して尋ね、りっぱに教師として自立しており安心する。その妹も軍医に好感をもつが、すでに外地に教師として赴任することを決めている。その同僚の教師が見合いの相手で、見合いの相手が、他の三人より魅力に欠ける人だったら観ているほうも複雑だなあと少しどうなるか心配であったが、見合いの相手がこれまた人間的にしっかりした人でハッピーエンドである。見合いする前に二人は出会ってしまったのである。好感を持った二人の女性とは縁がなかったということである。あわてん坊の軍医さん、モテすぎである。

その一人の女性が、『木の都』に出てきた、レコード店の娘さんである。娘さんの亡くなったお母さんが、軍医に慰問袋を送った人で軍医はそのお礼にレコード店を訪れたのである。弟が新聞配達をしていて、名古屋の工場に働きに行き寮生活となるが、家が恋しくて帰って来てしまうため、その父と娘は名古屋に引っ越すのである。

映画の出だしが、この新聞配達の少年が途中の坂の階段で転びケガをして、その手当をしてくれるのが、二人の女性教師同級生の妹と見合い相手である。見合い相手が田中絹代さんで軍医が佐野周二さんである。

軍医の父親が笠智衆さんで、小津安二郎監督の映画『父ありき』の時とは違う親子関係で、その辺も見どころで、小津監督の場合だと誰もいない坂道の階段を、小津監督の完璧な絵としてじーっと観させられそうであるが、川島監督はそこに遊ぶ子供たちを入れ動きを入れる。小津監督の坂道も家も眺めているだけで入ろうとは思わないが、川島監督の場合は、その坂道を歩きたくなるのである。そう思わせる映像なのである。

桂小金治さんが「やっぱり先生の映画はリズムだな。」「型破りたって軌道から外れてるわけじゃないんだよな。線路の上で花電車があったり食堂車があったりね、このよさなのよ。」と上手いことを言われている。小津監督の場合は鎌倉から東京の丸の内に通う規則正しい通勤電車である。

川島監督は中学の二年の時従兄に「オズヤス知ってるか、映画監督では何と云っても小津安だ」と言っていたのを今村昌平監督は従兄から聞いている。誰もが通過して自分の電車を走らせる。

この映画は時代からするとかなりずれている。このずれが今観ると凄いと思うし、ぐるうと回って行き着く終着点とその中心にいるレコード店の家族など、構図的な工夫があり、登場人物はそれぞれの自分の意志を持っている。押し付けられていた時代にこういう映画があったのだ。

映画『わが町』と同じようにマラソンがあり、織田作さんの好きな大阪の天王寺界隈があり、名古屋の軍需工場は織物工場の独特の三角屋根で、名古屋を印象づける。

フィルムも制限され、映画は67分である。天王寺の丘の下の寺に軍隊が駐屯していてたとえ長屋の路地といえども上から撮るというのは禁止だったようである。

「織田作之助とは、これを機会につきあいはじめ、僕は得をしました。反面、この破滅型作家とのつきあいで、こちらも多少、影響を受けてしまったのですがね。」(川島雄三)

『木の都』 織田作之助著

 

映画『赤い夕陽の渡り鳥』『黒い椿』

浄土平ビジターセンターで紹介されていたのが、小林旭さん主演の日活<渡り鳥シリーズ>の『赤い夕陽の渡り鳥』である。

浄土平を中間点とする磐梯吾妻スカイラインは、1959年(昭和34年)に開通し、映画『赤い夕陽の渡り鳥』は1960年7月封切である。磐梯吾妻スカイラインは、11月中旬には雪のため翌年の4月中旬まで封鎖となるので、この映画が磐梯吾妻スカイラインの宣伝に大きな役割を果たしたことになる。

クランクインが1960年5月31日、クランクアップが6月25日であるから一か月弱で撮った映画ということになる。映画の内容は、新しいバス道路が計画され、そこに温泉の元湯があり、その所有権を悪徳業者が狙っているのである。バス道路は地域の人のためであるが、悪徳業者に温泉の権利を渡すわけには行かないと所有者と悪徳業者の対立となる。当然所有者は善で、そちらには美しい若き女性が頑張っていて、その女性を助ける流れ者のナイトが現れるのである。このお二人が<渡り鳥シリーズ>のコンビ、小林旭さんと浅丘ルリ子さんである。

最初と最後に、吾妻小富士と磐梯吾妻スカイラインの映像がドーンと映る。監督は斎藤武一さんで、助監督に神代辰巳さんの名がある。このシリーズは映画『南国土佐を後にして』の好評からシリーズ化され、小林明さんの歌も登場する。主題歌「赤い夕陽の渡り鳥」、「アキラの会津磐梯山」。井上ひろしさんが「煙草が二箱消えちゃった」を歌う。「アキラの会津磐梯山」の歌が楽しい。小原庄助どんはでっかいことが好きで、朝寝朝酒酒樽あけて、あけた酒樽櫓に積んで、会津磐梯山と背比べをするのである。

ロケはどこで行われたかはっきりしないが、湖から磐梯山を望んだ映像もある。磐梯吾妻には、吾妻小富士の浄土平を中心とする、磐梯吾妻スカイライン、磐梯山を望む磐梯ゴールドライン、檜原湖や秋元湖をに向かう磐梯吾妻レークラインとかつて有料だった道路が三つある。2013年から無料となった。三つのラインがあるのを今回知った。恐らくはまだ出来てはいなかった磐梯吾妻レークラインのあたりの風景や道も多く使われたのではなかろうか。撮影は川島雄三監督と組んでいた高村倉太郎さんである。

小林旭さんと宍戸錠さんがトランプでの対決で、手品のような手の動きだけを交互に映すテンポ。小林明さんの格闘シーンのスピード感や、バックの斜めに入る空と山肌の稜線など筋よりそちらの方に目がいく。宍戸錠さんのスーツの着こなしが格好よく、主人公を助けたり邪魔したりと気ままに動く。浅丘ルリ子さんはあくまで愛らしく清楚である。

最初からツッコミ部分もあって、男の子が道から転げ落ちたらしく崖下で泣き声がする。その子を助けるため主人公・滝伸次は格好良く駆け降りるのであるが、ダメダメそんなに勢いよく下りては一緒に石も転がってしまい、少年にあたるかも。助けられて主人公と馬で自宅に届けられるが、あそこまで少年はどうやって行ったの。遠すぎる。

どの映画の時かわからないが、小林旭さんはスタントマンのかたが怪我をして見舞いに行ったら痛い痛いの声が聞こえそれからは、スタントマンをほとんど使わなかったそうである。

吾妻連峰、安達太良山、磐梯山と山あり、湖あり、沼あり、温泉ありの観光地へ主人公がギターを友に馬にまたがって流れ着くという破天荒な映画が、雄大な自然を上手く使い可能にした映画である。赤い夕陽の美しい自然の映像もある。磐梯の紅葉はこれから美しい時期をむかえる。この風景の中で旭さんの高い声が響くと赤さが増しそうである。

『黒い椿』は東映の時代劇映画。大川橋蔵さんの若さまが保養で伊豆大島に来たところ殺人事件が起こりその事件を解決するのである。<若さま侍捕り物帖シリーズ>の第九作である。監督は沢島忠さんである。殺人の疑わしき容疑者が多く、最後の最期に謎が解けるという内容で、見ているほうもそこまで引っ張られる。それと、疑わしくなるような、出演者の突然の怖い顔のアップがあって、結構混乱させられる。

若さまの大川橋蔵さんと島の娘・お君ちゃんの丘さとみさんが、出会うのが三原山の火口である。こちらも、大島ロケたっぷりの映画であるが、若さまの大立ち廻りはなく、思索する若さまである。お君ちゃんのお母さんが、江戸から来た侍と恋仲となり侍は江戸に帰ってしまい、お母さんはお君ちゃんを産むが侍はもどって来ず、三原山の火口に飛び込んでしまう。そんなお君ちゃんを若さまは何かと励ますが、大島を仕切る強欲な網元ととの関係など、お君ちゃんとお君ちゃんのお爺ちゃんは苦しい立場に追い込まれる。殺されたのが網元であるから、益々、お爺ちゃんとお君ちゃんは窮地に。若さまは救うことができるのか。

お君ちゃんの恋人役が坂東吉弥さんで、お君ちゃんがお母さんのことから島民から奇異の眼で見られていて、その状況を打破して結婚するだけの覇気がない。若い頃の吉弥さんを見ることが出来た。

若さまは<椿亭>に泊まっていて、そこの女主人お園・青山京子さん(小林明さんの奥様ですね。偶然です。)がお客あしらいがなかなか上手である。番頭・田中春夫さんは、真面目でそこへ、怪しげな兄が密航してくる。油商人の新三・山形勲さんも怪しい。そして、鎮西八郎為朝の子孫という名主の千秋実さんが御用の役目も仰せつかっていているが混乱させるだけである。そんなこんなで混線しているが、若さまはきちんと犯人をみつける。

溶岩流が冷えて固まったごつごつした柱、岩の切り立つ海岸や美しい波打ち際、さらに、地層がずれてむき出しになった美しい断層の断面の壁は大島ならではの風景で映画の中でも映し出されている。椿の咲き誇る道はセットであろう。

いつもの明るい役とは違い嘆き通しの丘さとみさん。橋蔵さんの笑顔と青木京子さんの艶やかさがないと暗いだけの映画になってしまう。若さまと御神火様は、お君ちゃんとお爺ちゃんを守ってくれる。大島の自然たっぷりの映画である。

『黒い椿』は1961年(昭和36年)公開で、『赤い夕陽の渡り鳥』の一年あとである。まだまだ映画が娯楽の中心の時代であろう。

伊豆大島 (三原山)  伊豆大島 (椿)

旧東海道の言葉遊びとアニメ

井上ひさしさんが文を書き、さしえ絵は山藤章二さんの『新東海道五十三次』という本がある。言葉の好きな井上さんならではの言葉のことがたくさん出てくる。こちらとしては、井上さんと山藤さんの弥次喜多道中と思って購入したが、開いてみたら東京圏内での東海道体験では、つんのめるばかりで先に読み進めない。では府中まで進んだのだからと思って開くと少し楽しめた。

たとえば、江戸の寺子屋では、『都路』というのが教材として用いられていたそうである。どんなのかというと次のような文である。

都路は五十(いそじ)余りに三(み)つの宿、時を得て咲くや江戸の花、波静かなる品川や、やがて越えくる川崎の、軒波(のこは)並ぶる神奈川は、はや程ヶ谷のほどもなく、暮れて戸塚に宿るらむ、紫匂ふ藤沢の、野面に続く平塚も、ものの哀れは大磯か、蛙(かわづ)鳴くなる小田原は、箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や、宿は沼津の真菰草(まこもぐさ)さらでも原の露払ふ、富士の根近き吉原と、ともに語らん蒲原や、休らふ由井の宿なるを、思ひ興津の焼塩の、後(のち)は江尻のあさぼらけ、けふは駿河の府中行く

 

この調子で京まで続くのである。そして、この変形のひとつが明治期の「鉄道唱歌」ということである。この『都路』を覚えて次の東海道歩きのときには、紹介したいものであるが、暗記は苦手。コピーを渡すことになりそうである。

「道中新内節」というのもあって、

日本橋から二人連れ、七つ発(だ)ちにてやつやまをはなし品川いそいそと、磯辺伝いの鈴ケ森、古川薬師横に見て、わたしを越して川崎へ、ひとり行くとは胴欲な、晩に必ず神奈川(かんなかわ)

 

と続くのである。

枕詞東海道などというのもある。それが、戦争中カナダ人修道士が日本の収容所にいれられ、監督官が軍部から軍人勅諭を暗記させろと命令されたがあんなもの覚えても仕方がないから、むかし寺子屋で枕ことばを暗記するのに使ったものを教え、それを習ったカナダ人の修道士から井上さんが教わったのである。

おおふねの 沼津。あおやぎの 原。よしきがわ 吉原。あおやぎの 蒲原。さつひとの 由井。みさごいる 興(沖)津 ・・・

そこから、井上さんは枕詞に凝る。

岸恵子さん「いわそそぐ岸の恵子さま」。若尾文子さん「わかくさ若尾のむさしあぶみの文子さま」。五木寛之兄「みずとりのかもめのジョナサンしずたまき数にぞ売れしかきかぞう五木さん」。佐藤愛子さん「しろたえの月の光も照り負くる男まさりの愛子姉さま」などなど。

井上さんと山藤さんに比べようもないのが、こちらの東海道のお遊びはアニメの突っ込みであった。アニメ『バケモノの子』が面白そうというと、細田守監督のアニメ幾つかDVDになっているというので、ネタとして『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』を観る。アニメは実写の映画より突っ込みどころが沢山あり、道中には楽しいなぐさみとなる。時として突っ込みに夢中になり道を間違え暑い中をもどる羽目となってしまったりもした。

『時をかける少女』は、大林宣彦監督のとどう関係するのか尋ねたら、大林監督の続きがアニメ映画で、博物館で修復の仕事をしていた女性が原田知世さんで、アニメの方の時をかける少女はその姪にあたるのである。なるほど。

『サマーウォーズ』の旧家の素敵なお婆ちゃんの声は富司純子さん。『おおかみこどもの雨と雪』の頑固なお爺ちゃんは菅原文太さんの声である。『葛の葉』などは、狐が子供を産むのであるが、『おおかみこどもの雨と雪』は、人間が狐の子供を産み、その子は人間の世界で暮らしてもいいし、狼の世界で暮らしてもよく、子供が成長の段階で選ぶのである。子供が夢中になると、耳が出て狼のように走ったり発想が面白いと思ったが、かなり突っ込まれる。

ネタも必需品だが、テーピングも必需品である。箱根から三島への「下長坂」は「こわめし坂」とも呼ばれる急な長い坂である。あまりにも長く急な坂で、背負っていたお米が、汗と熱でこわ飯になったといわれる坂である。ここで足を痛めてしまった。なんとかテーピングで、次の日も歩くことが出来たのでホッとした。どういうわけかその日はテーピング持参していたのである。カンが働いたのか。ところがハサミがなくて、友人が爪切りを持っていてそれで引きちぎった。旅はなにがあるかわからない。くわばらくわばら旅まくら。

8.30国会包囲10万人集会と映画

8月30日、『国会包囲10万人集会』の安保法案反対の集会に参加する。その前に、7月28日の日比谷野外音楽堂での集会とデモに参加していて8月30日の行動を知る。7・28の集会では、脚本家の小山内美江子さんが元気な姿を見せられ、座ったままで良いというのでと、その場で発言された。かつて、小山内さんの著作を読ませてもらったので、この場に居なくてはとの力強いお元気な声が聴けて嬉しかった。集会が1時間位でそのあと国会までのデモであった。

8・30は、2時間の集会である。日比谷野外音楽堂は座っていれたが今回は立ち尽くしを覚悟しなくてはならない。

国会議事堂前は混むであろうと永田町駅で降車。永田町の駅構内には食事処があり、食べる予定ではなかったが空腹よりも良いと食事をする。お手洗いには15分くらい並ぶ。降車予定駅のもう少し手前の駅で済ませなかったのを反省。それから目的の改札口に向かうと、動きが取れないので他の改札へと案内があり、そちらへ回る。改札と階段はスムーズであった。外は人でいっぱいである。

さてさてどうしようか。国会正面までは迂回しなくてはならないらしいし、子供連れの方々もいるし、さらに込み合う必要もない。国会の裏とする。まずは歩道を渡り歩く。スピーカーからは、無理に進まずにそこに留まって下さいという。しかし、この位置はスピーカーの音が大きすぎ、長くは居られない。スピーカーの音が適度で、人の群がらないところを探すことにする。歩道の半分は参加の人々が三列ぐらいに並ばれている。後ろのほうの方は座られている。そのうち、集会が始まり政治家のアピールが始まる。

歩きつつ、スピーカーの設置位置により、全然聞こえない位置もあるのを知る。やっと右手に人々が程よく両脇に並んでいる歩道を見つける。スピーカーの音も程よい。ではゆっくりと拝聴しよう。位置を決める間に政治家の話しは終わっていた。時々、皆さんしっかり聞かれていて、時々笑いがあったり、拍手があり、シュプレヒコールが入り、それぞれの思いで時間が経過する。雨が降り出してもかなりのかたが傘以外の雨具持参である。こちらも、ポンチョを着る。

若い人たちのシュプレヒコールがラップ調で、<何々だー!>ではなく<何々だろう>と巻き舌になる。年配者も次第に調子に慣れてくる。

SEALDs(シールズ)のデモときは、時には過剰警備が疑われ弁護士が不当な扱いがないか監視して見回っているそうである。メッセージも映画関係となると耳がそばたつ。神山征二郎監督は師匠の新藤兼人監督の『一枚のハガキ』の意思を伝える。神山監督の『郡上一揆』秩父事件の『草の乱』『宮沢賢治』が頭に浮かぶ。坂本龍一さんがあきらめていたが若者に期待すると。坂本さんが出てくると、『戦場のメリークリスマス』を思い浮かべるが、よく解からなかった。デヴィッド・ボウイにハグされ戸惑う坂本さんの顔。たけしさんの「メリークリスマス」という時の笑顔。大島渚監督の映画のイチ押しは『少年』である。前日、京橋のフィルムセンターで数十年ぶりで観た。最初に観た時の想いは裏切られなかった。少年の心の内。雪一面の中の少年と三歳の弟。映像的にも美しかった。

横を歩く方々がそれぞれのメッセージを前にかざして通る。連帯の意思表示であろう。誰かとはぐれた人が携帯で連絡しながら歩いている。そんな動きもスピーカーから流れるメッセージやアピールの邪魔にはならない。発言者が係りの人に話が長いといわれているらしく、あと少しですからと焦られたりして聞いているほうにも笑いが起こる。シュプレヒコールのあと拍手で終わりそれぞれの思いを胸に帰路につく。2時間近く立ちっぱなしというのは後で応えた。主権は国民にある。

集会の日の夜、返す期日が迫っている映画『日本列島』(熊井啓監督)を観た。これは、芦川いづみさんが観たかったのである。芦川さんは、日活だけでなく、松竹系も似合いそうな女優さんであった。シリアス系もコミカル系もこなされていた。『日本列島』に、1960年安保闘争の国会前の抗議行動の映像が出た。

映画『日本列島』は、昭和34年に米軍基地で通訳として勤務していた秋山(宇野重吉)が、上司の中尉から、米軍の軍曹が殺された真相を調べるよう要請される。そこには占領下時代の闇の部分が介在していて、その闇の組織に父親を拉致された娘・和子(芦川いずみ)と秋山は出逢う。軍曹の死の真相の探索を頼んだ中尉自身から中止の命令があり、如何にやっかいな組織であるかがわかるが、秋山は真相究明を続ける。和子の父が沖縄で生きているらしいとの情報から秋山は沖縄に向かう。和子のもとに届けられたのは、秋山と父が殺されたという情報であった。

この知らせを聞いたときの芦川さんの演技が見事である。ラスト、国会をバックに和子が、胸を張って穏やかな表情で歩く姿には違和感があるが、負けるなという意味であろうか。下山事件、松川事件などの当時の迷宮入りの事件も映し出され、時代性が膨らみ、真相が隠されているので映画としては捕らえづらいが、そういう事もあったというドキュメンタリー的要素が強い映画である。劇団民芸の役者さん達が、リアリティーを加える。その中で芦川さんは大奮闘である。(原作・吉原公一郎/監督・脚本・熊井啓/撮影・姫田真佐久/出演・宇野重吉、芦川いづみ、二谷英明、鈴木瑞穂、武藤章生、大滝秀治、佐野浅夫、内藤武敏、北林谷栄)

日活がこういう社会派と言われる映画を創っていたのである。

映画人のほうが、今の政治家以上に勉強されている人が多いであろうと思える。政治家のお金目当ての私利私欲の姿がテレビの映像に現れそのリアルさに呆れかえる。演技賞は政治家に贈ったほうが良いかもしれないが、恥も外聞もなく国民に税金という観覧料を払わされているのに腹が立つ。

 

映画『父ありき』

映画『TOMORROW/明日』(黒木和雄監督)に小津安二郎監督の映画『父ありき』が挿入されている。結婚する花嫁は、病院に勤めている。結婚式といえども、戦時下である。皆が座ってまだかまだかと待っているのになかなか帰って来ない。結婚式に同席する同僚とともに走って帰ってくる。待っているほうは、とにかく空襲警報の鳴らないうちに終わらせたいのである。何とか写真も撮り終わる。

花嫁の同僚の一人が、もう一人の同僚に映画を観に行こうと誘うが、誘われたほうはそれどころではない。妊娠しており、相手と連絡がとれず困惑しており帰ってしまう。彼女は一人で映画を観るのである。

その映画が『父ありき』である。息子が父のお葬式を済ませた後、東京から妻と二人で秋田に帰る車中である。息子はしみじみと良い父であったと語る。妻は涙する。息子は、妻の父と弟を秋田に呼んで一緒に暮らそうと提案する。妻は喜んで笑顔を見せる。若い夫婦の会話とその妻の笑顔のほんの少しの部分である。息子は、幼くして母を亡くし父に育てられるが、父と一緒に暮らす年月も短かった。一緒に暮らしたいとの願いも虚しく父は亡くなってしまい、妻も母がいないので、義理の父と弟と賑やかに暮らしたいと思うのである。その思いを乗せた列車の去りゆく場面で映画は終わる。

父ありき』公開が1942年で、当然検閲を受けている。いま残っているものは、当時の映画をかなりカットされていて、音声も悪い。そのため、辻褄の合わないところもある。黒木監督は、敬愛する小津監督の作品を挿入したかったのであろうか。さらに、作品の内容に挿入したい意味があったのか、その辺が知りたくて観なおしたが、わからなかった。『父ありき』は戦争中とは思えないおだやかさで、父が息子の将来のために学業に専念できる環境を作ってやり、そのために父子離れ離れに暮らし、父が息子を思う心情と、息子が父を慕う心情を細やかに表している。

この細やかな父子の交流は、戦争高揚にとっては、不要のものかも知れないが、一応は検閲を通ったわけである。もしかすると、この息子の不安な気持ちが、精神状態の不安定だった中学生時代の黒木監督の想いと重なっているのかもしれない。

父親役は笠智衆さんで、中学の教師をしているが、修学旅行で生徒を事故死させてしまう。それが、箱根の芦ノ湖である。生徒が禁止しているボートに乗り転覆事故で亡くなってしまうのである。教師は自分がもっと強く注意していたらと後悔し教師をやめてしまう。そこから父子別々の生活となる。

修学旅行の場面で、箱根の曽我兄弟のお墓が映ったのである。箱根登山バスのⒽ路線の国道1号線に<曽我兄弟の墓停留所>があり、バスの中からもそのお墓が見えて、いつか降りたいと思っていたのであるが、先週、そこの一区間を降りて歩いたのである。映画のなかの中学生は、どこから歩き始めたのか~箱根の山は天下の嶮~と歌いつつそこを歩いているのである。三つ五輪塔があり、二つは十郎と五郎で、少し離れた三つ目は虎御前のものと言われている。

旧東海道歩きの<箱根湯本>から<畑宿>まで歩きバスで元箱根の芦ノ湖前にきて湖を見つつ食事して、前から気になっていた<曽我兄弟の墓>に行くことにしたのである。映画では芦ノ湖の先に富士山がくっきり見えるが残念ながら霞んでいる。<六道地蔵停留所>で降りると<石仏群と歴史館>がありそばに精進池が出現した。この池はバスからは見えなかったので驚きであった。そこで、地蔵信仰の石仏群があることを知る。

 

<石仏群と歴史観>でのパネル

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<六道地蔵>から<曽我兄弟の墓>のバス停一区間の左右に石仏があり、国道の下に地下道があり、歩けるようになっていたのである。<八百比丘尼の墓>。八百歳の長寿を得た伝説上の女性のお墓である。友人が言うに人魚を食べて長寿を得てあちこちにでてくるとのこと。「『陰陽師』に出てきた小泉今日子。」「天皇に頼まれて亡き親王が出現したら鎮める役目か。そういえば食べてた。この伝説からきているのか。」

3体の地蔵菩薩の磨崖仏の<応長地蔵>。地下道をくぐって<六道地蔵>。大きい。磨崖仏であるが、きちんとお堂で覆われている。岩とお堂とが上手く合わさっている。磨崖仏の地蔵菩薩坐像としては、国内最大級。ちょっとの寄り道が凄い手応えに。地下道を戻って進むと<多田満仲の墓>のこれまた大きな塔。平安時代に活躍した源氏の祖先とか。さらに進むと<二十五菩薩>で岩盤に幾つもの菩薩が彫られている。地下道があり、反対側にも<二十五菩薩>。

 

<六道地蔵>

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<多田満仲の墓>

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<二十五菩薩>

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最後が、<曽我兄弟と虎御前の墓>である。国道を進んだら、お墓の前に降りられない。細い道があったらしいのでもどってお墓へ。

 

<曽我兄弟と虎御前の墓>

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涼しげな着物姿のご婦人と息子さんらしいかたがおられた。後で友人が「浅見光彦とそのお母さん!」とそく思ったそうである。そこまで思わなかったが、暑い中で、すがすがしい感じであった。友人は、頭の中で、吹き出しも作っていたらしい。「箱根六道殺人事件」ができるかもしれない。死体は二十五菩薩の上で、どうやってあそこに運んだのか。

作家の内田康夫さんは病気のため、新聞に連載中の『孤道』が終了してしまった。熊野に行った仲間と回し読みしていたので残念である。療養され、お元気にならて執筆活動が再開されることを願うばかりである。

箱根の石仏群は二子山の石で、非常に硬く、西国からの石工の技術によって加工できるようになり、箱根の石畳もこの二子山の石が使われたらしい。現在では、<旧街道石畳バス停>付近(白水坂付近)の石畳が江戸時代の二子山の石らしいが、違いなど判らずに歩いてしまった。

しかし、バス停一区間であるが、箱根の地蔵信仰の人々の想いが伝わる場所である。暑かったが箱根の自然の良さが加えられたひと時であった。

そして思う。『父ありき』では、父は息子を男手で一人前にし、満足して息をひきとるのである。『TOMORROW/明日』は、あってはならない死である。父は教師として事故死というあってはならない死の責任をとり教師という仕事をやめるが、教師の道を選んだ息子には、しっかりと責任ある仕事であることを伝えるのである。

戦時中この父の様に順序立てて説得のできる大人は多くはなかったであろう。そうした中で誠実に語る父は、子供にとって信頼できる人であった。息子が子供の頃と大人になってから、同じ川で父子並んで釣りをするが、その釣竿の動かしかたがかつても今も同じペースで、父子の信頼関係は変っていないのである。

監督・小津安二郎/脚本・池田忠雄、柳井隆雄、小津安二郎/撮影・厚田雄春/音楽・彩木暁一/出演・笠智衆、佐野周二、津田晴彦、佐分利信、坂本武、水戸光子、

小津監督の絵、富士山も曽我兄弟のお墓もお城の石垣も有無を言わせない撮り方です。構図がきっちり決まっている。見ながら背筋を正してしまった。

 

映画『TOMORROW/明日』『美しい夏キリシマ』

岩波ホールの企画『戦争レクイエム』<戦後70年特別企画 黒木和雄監督4作品+α>のおかげで、観ていなかった『TOMOURROW/明日』と『美しい夏キリシマ』を観ることが出来た。

『紙屋悦子の青春』を観たあとに、『私の戦争』(黒木和雄著)を読んだが上手く頭に入りきらない部分があったが、『TOMOURROW/明日』、『美しいキリシマ』、『父と暮らせば』を観てから読み返すと岩波ジュニア新書版ということもあって、映像と監督の思いが重なって嬉しいほど想像力が加速する。

『TOMOURROW/明日』(1988年)は長崎に原爆か投下された1945年8月9日午前11時12分の24時間前の結婚式に出席した人々の日常が描かれ、その24時間と同時にそこまでつながっていた人々の命が一瞬にして、この世から消えてしまったということである。それぞれの生きてきた道が、光と共に消失してしまう。結婚し、これから、お互いの気持ちが解かり合えると予感させる新婚夫婦。8月9日にやっとこの世に誕生した小さな生命。まだ誕生していないが、そのことを相手に伝えられない女性。毎日、路面電車の運転手の夫にお弁当を届ける妻。赤紙の来た恋人同士。捕虜収容所に勤務する青年。結婚式の写真を撮った花婿のもと父親。その写真に写された人々が写真と共に消えてしまう。長崎弁が、日本という国にそれぞれ存在している生活のなかの言語を主張する。

この写真に写っていた人々を代表者として、生きていた証として黒木監督は映画を撮られたのであろう。物言わぬ人々への鎮魂の一つの形であり、それを観たことによって、鎮魂の一つとして隅のほうに位置できればよいのであるが。

「1945年7月16日、人類史上最初のプラト二ウム爆弾の実験がアメリカのニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で行われたました。7月23日には、広島、小倉(現北九州市)、新潟の順で攻撃目標が選定され、準備が整い次第、気象条件さえ許せば、8月1日以降いつでも攻撃できるということになったのです。」

4番目として京都が候補にあがるが古都ということで、軍需産業の街長崎となる。その日、第1目標が小倉、第2目標が長崎。小倉上空は断続的に雲でおおわれ、2日前の八幡製鉄所を爆撃した硝煙がながれ目視爆撃ができなかった。目標を長崎にかえる。雲の切れ間に三菱長崎兵器製作所をとらえ投下。長崎には、連合軍捕虜が500人収容されていた。アメリカはそれも承知していた。(『私の戦争』より)

 

原作・井上光晴(「明日ー1945年8月8日・長崎」)/監督・黒木和雄/脚本・黒木和雄、井上正子、竹内銃一郎/撮影・鈴木達雄/音楽・村松禎三/出演・桃井かおり、南果歩、仙道敦子、大熊敏志、黒田アーサー、佐野史郎、岡野進一郎、長門裕之、殿山泰司、草野大悟、絵沢馬萌子、水島かおり、森永ひとみ、伊佐山ひろ子、なべおさみ、入江若葉、横山道代、馬淵晴子、原田芳雄、二木てるみ、田中邦衛、賀原夏子、荒木道子

 

『美しい夏キリシマ』(2002年)。題名のようにキリシマの自然は美しい。しかし、霧島連山が邪魔をして沖縄を隠しているとして、孤児になった沖縄の少女は引き取られた遠い親戚の屋根に登って、霧島連山の見えない先を見ようとしている。

この作品は黒木和雄監督の自伝のような映画でもある。黒木監督は満州国からの引き上げ者で、満州国という日本の後押しで作られた国を子供の目から実際に見ている。日本へ帰ってから、登校拒否児の形となり映画ばかり観て、家族と別れ、宮崎県えびの市の祖父母のもとで生活する。国民勤労動員令により、都城市の航空機の工場に動員され寮生活を送る。1945年5月8日米軍機の爆撃で級友が11人なくなってしまう。その時、友人を救うことをしないで逃げてしまった。

「頭が、ざっくりと真ん中割れて、脳漿があふれてくる瞬間を見たような気がします。両手を私のほうにさしのべて、「たすけてくれ・・・・」というようなしぐさをします。眼は空をみつめて放心して・・・・。ただただ恐怖のあまり、私は立ち上がるやいなや、後ずさりすると、そのまま夢中で走り出しました。」

この後この中学生は、学校にいくことができず、いまでいえば、PTSD(心的外傷ストレス)で医師の診断は肺浸潤ということで、家でぶらぶらすることとなる。祖父が、地主で女中さんがいるような、中学生にとっては違和感のある家であった。

この、ぶらぶらした中学生が見た終戦までの自分の周辺の人々の「美しい夏キリシマ」の生活である。どう生きればよいかわからない中学生の主人公を、柄本佑さんが、演技しているのかしていないのか、主人公そのままの中学生として、映像の中に存在している。助けなかった級友の妹が、屋根の上の少女で、彼女にどうしたら兄を見捨てた自分を許してくれるか尋ねると、妹は「敵をとって」という。主人公は、敗戦となり、ジープとともにゆっくり美しい村の道を歩く米兵に竹槍で一人突き進むのであるが、相手にされず道路から下に転がされてしまい笑われてしまう。主人公は叫ぶ「殺せ」と。米兵は、ライフルを上に向けて撃つ。その時、主人公に見えていた蝶が撃ち殺されてしまう。

霧島連山を望む田の稲は青々と優しく風になびいている。

この村にも敗戦までの夏、生きるために人々には様々なことがある。自分自身さえ支えられない主人公は、キリストの絵を自分の部屋に張り、回答を求めているようでもあるが、人の質問にも、そうとは思わないという能動的な回答しかできない。現実の捉え方ができないので、憲兵にも、解からなとしか答えられず鉄拳をうける。主人公だけでなく大人もどう捉えたらよいのかわからない状態だったのである。

 

監督・黒木和雄/松田正隆、黒木和雄/撮影・田村正毅/音楽・松村禎三/出演・江本佑、原田芳雄、左時枝、牧瀬里穂、宮下順子、平岩紙、石田えり、小田エリカ、倉貫匡広、中島ひろ子、寺島進、入江若葉、香川照之

 

黒木監督はドキュメンタリーやPR映画を撮っていて、劇映画の撮影所には入ったことがない 。

「ああ、劇映画というのは誰でも撮れるのだ。文法というのはあまり必要ないのだ。多くの映画を観て、自分が撮りたいものを撮ろうとすれば劇映画はなんとか、できあがるものだ。何も撮影所にはいって巨匠について学ばなくても、劇映画のイロハ、ABCを現場で覚えなくても映画館こそが学校ではなかったのか」

そう思わせたのが、ジャン・リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』とアラン・レネ監督の『二十四時間の情事』である。映画監督となった黒木監督は自分の仕事で亡くなった級友たちの代弁をされ、生き残った者と戦争の犠牲となって亡くなられた人々との交信を映画という媒介を通して教えてくれている。

さらに黒木監督には、撮りたいものがあった。

「じつは私は25年以前から、28歳10カ月戦病死した天才映画山中貞雄を主人公にし、山中の戦友で脚本家の三村伸太郎との友情と確執を描いた企画をあたため続けています。」

残念ながら撮る時間が黒木監督には残されていなかった。

『僕のいる街』は、1989年に撮られた短編である。銀座の空襲で一人だけ亡くなった泰明小学校の少年が、幽霊として現れ、戦争をはさんでの前、中、後、現代の銀座の路地などを歩き走り周るのである。映像と写真の中を。銀座という街が通過した時間がわかる。

長野の棚田、姨捨(おばすて)に行ってきた。青々とした田が観たかったのである。太陽の日を受けて緑が美しかった。美しさと暑さが比例していた。この青さを眼にしたかったのだから仕方がないが、暑さのため棚田は一時間弱しか歩けなかった。映画のキリシマの稲と信州の稲の色が重なる。

 

 

映画 『父と暮せば』

原爆を主題とした映画の中で、多くの会話で構成されている映画が『父と暮せば』(2004年)である。井上ひさしさんの原作で舞台化され舞台のほうは観ている。これを映画にしたのが、黒木和雄監督である。

黒木監督は、『私の戦争』(岩波ジュニア新書)の本も出され、自分の戦争の体験と映画への想いを語られている。今、岩波ホールで黒木監督の戦争を題材とした映画が四作品と劇場初公開の短編が上映されている。そのチラシにも載せられているのが次の文である。

これは大事なことですが、私たちの現在の日常の中に「戦時下」のあの日々の姿が形を変えて、再び透けて見えてくるような危機感を私はいだきます。これが「昭和ひとけた世代」特有のとりこし苦労であることを願います。(「私の戦争」より)

 

黒木監督が映画化されたのは、舞台『父と暮せば』を観られ、海外でも公演されているが映画のほうがもっと多くの人々にこの作品を観てもらえると考えたからで、井上ひさしさんも自由に撮って下さいといわれている。

広島原爆から3年たち、1948年夏の火曜日から金曜日までの四日間の父と娘の交流である。実はこの父は広島原爆投下の日に亡くなっているので、幽霊ということになるが、途中で観客はそれに気がつく。なぜ幽霊なのか。戦争や大きな災害などを体験された方は、その現実を共有した人とではなければ、そのことを語ることが出来ないほどそれぞれの心に大きなものを抱えておられる。原爆病との闘いをしつつである。

娘は恋をするが、同じ原爆の体験をして亡くなった方達に、生き残ったことへの罪悪感や後ろめたさがあり、倖せになることを拒否してしまう。その娘の気持ちの解かる亡くなった父は、恋の応援団として登場し、娘の気持ちを全て話させるのである。

終戦から70年、話すことを拒まれてきた方々も、忘れられる戦争について、これではいけないのではと、思い出したくない気持ちを抑えられ話し始めておられる。

原爆投下から3年目の設定で、話し相手を父の幽霊としているのが、井上ひさしさんの被爆者されてこれから生きて行かれる方々への想いがある。

娘の恋する心から父は胴体が出来、手足が出来、心臓が出来て姿を現すのである。日常生活を共にしつつ、娘と父は語り合う。この会話は、井上ひさしさんが2年かけて調べ、被爆された方々の手記を読まれ、それらをもとにして組み立てられた言葉の数々である。舞台はその息遣いが伝わるが、映画は、その言葉が頭の中で、文字となってひと言ひと言が浮かぶ。

原爆の熱は、すぐ頭の上で太陽が二つあった熱さであり、爆風は音より速い。原爆かわら。熱さのためにかわらが溶けて毛羽立ってそれが冷えてトゲのように表面に残っている。水薬ビンが溶けてぐにゃぐにゃになりそれが冷え固まった形となっている。爆風でことごとく窓ガラスなどが割れ飛び散り人の身体に刺さったガラスの破片。これは、原爆記念館から借りて来られたのかと思わせるが、小道具係りの方が苦心して作られたもので、映像でみることにより想像を実感に近づける。

娘の恋人は、こうした品物や原爆の資料を収集し保存することの必要性を感じている。当時進駐軍の目が光り、図書館に勤務する娘は原爆の資料を集めることが、困難なことを知っている。

娘の恋人は岩手出身で、娘は民話の語り聞かせのボランティアを女専の学生時代からやっており、宮沢賢治が好きで特に詩が好きで、父に「星座めぐりの歌」を歌って父に聞かせる。父はエプロン劇場と称して一寸法師が、赤鬼のお腹の中で、原爆かわらでおろし器のようにお腹を傷つけ、人の身体に食い込んだガラスの破片で攻撃する。そして、自分で作った星の歌などを歌い、娘に様々の考え方のあることをそれとなく教える。

娘は、父との最後の別れから自分が生きて来た3年間を語り、父から、亡くなった者はその問題は解決済みで納得していることを語る。父の死後3年間、自分の生きてきた事を認めてもらい 娘は踏みだせるのかもしれない。

「おとったん、ありがとありました。」

広島弁が、何とも切なく、優しく、特別の響きがある。

娘の宮沢りえさんが、思いを込めて丁寧に丁寧に演じ、父の原田芳雄さんは、娘の細い美しい線を、いびつでもいい、太さが違ってもいいと介入していくところに父親の想いを込めている。恋人の浅野忠信さんの物静かさも、父と娘からの言葉で形作る人物像を浮き彫りにさせる。

美術監督が、木村威夫さんで、『紙屋悦子の青春』も木村さんであるが、台詞を邪魔せず、登場人物の位置関係の流れを生かす配置で、心も写す。

撮影/鈴木達夫、音楽/松村禎三

岩波ホール 8月1日~8月21日 <戦争レクイエム 黒木和雄監督>

『TOMORROW/明日』『美しい夏キリシマ』『父と暮せば』『紙屋悦子の青春』 (18時30分上映は『ぼくのいる街』併映)

 

日本近代文学館 夏の文学教室 (3)

黒川創さん「漱石と『暗殺者たち』のあいだで」

日露戦争後1905年から10年位。夏目漱石の『坊ちゃん』が1906年。この頃東京は路面電車が走り、その後電燈がつく。日露戦争後、清国からの留学生が多い。科挙が廃止され日本での勉学を目指す。さらに辛亥革命の芽が出ていて逃亡してくる人々もいた。孫文や黄興など。黄興は映画でジャッキー・チェンが演じている。(映画『1911年』)日本では1911年「大逆事件」で、大逆事件の犠牲者として新宮の  大石誠之助などがいる。ただ一人死刑になった女性が管野スガである。伊藤博文の暗殺。伊藤博文は幕末と明治に入ってからの伊藤博文は違っている。

〔 『坊ちゃん』は、四国松山を勝手気ままに評するが、東京を認めているわけでもない。坊ちゃんの気に入る町が日本にあるかどうか。破天荒の坊ちゃんを主人公にした漱石さんのふつふつしている胸の内が分るような気がしてきた。「祝勝会で学校はお休みだ。」とあるが、これは日露戦争のことであろう。うらなりの送別会で、野だが「日清談判破裂して・・・と座敷中練りあるき出した。」とあり、「まるで気違いである。」としている。『坊ちゃん』の違う切り口がありそうである。

大石誠之助さんについては新宮の『佐藤春夫記念館』で知った。黄興の名前は初めて耳にした。孫文に関しての映画は『宗家の三姉妹』しか見ていないので『1911年』など観ておこう。大逆事件は政府の無謀な権力行使であった。〕

堀江敏幸さん「沈黙を迎えることについて」

仮面ライダーの変身ベルトは蓄電地で回って変身すると思っていたら、仮面ライダーの乗っているサイクロン号は原子力で動いていて、サイクロン号の走行する風力エネルギーで仮面ライダーは変身するのであると教えてくれる人がいて驚いた。自分の子供の頃から身近なところに原子力が組み込まれていたのである。1972年に帰国した横井正一さんへの戸惑い。

〔 仮面ライダーの件は、変身に科学的根拠など考えもしないし、特殊な能力ある者が変身すると思っていた。原子力って凄いんだよということしか考えていなかった頃の発想であろうか。<猿島>の展望広場に展望台があり、古いため中には入れないが、仮面ライダーの敵、ショッカーの初代基地として活躍している。建物の外観映像だけ使われ基地の中はセットでの映像であろう。横井さんは、どんな怒りや理不尽さを語られても良い立場の人であるが、大きな波風を立てることはなかった。〕

町田康さん「多甚古村とか」

井伏鱒二の『多甚古村』は日中戦争の頃の四国徳島を舞台にした、巡査が観察した人々の様子。巡査の観察と巡査の行動のづれが面白い。大阪弁なら忙しなくなるところが、徳島弁だと違って、その辺の井伏の方言の使い方によるリズム、さらに、あえて徳島弁でないイントネーションを使う井伏の手法。

〔 『多甚古村』はそんなに面白いのかと思わせてくれたので、これは読まねばと思った。本文から引用して読み上げてくれるのであるが、おそらく引用の文のあるページかメモされているのであろう。そのメモを見て、文庫本からのページを捜す。これがしばし時間がかかり、沈黙となり、次に探すときに「沈黙です。」と言われる。その町田さんの姿を眺めつつ、インデックスでも張って置けば良かったのではと思ったが、この時間の流れも井伏さんの『多甚古村』の時間と合うのかなと余計なことを考えた。そんなわけで、時間が立ってみると、井伏さんの思惑の原文の部分を忘れてしまった。読めば思い出すであろう。『多甚古村』の映画の代わりに『警察日記』の録画を観た。〕

山﨑佳代子さん「旅する言葉、異郷から母語で」

セルビア(旧ユーゴスラビア)の首都ベオグラード在住。旧ユーゴスラビアに留学したが、留学するとは思わなかった時に印象に残っていた映画が1970年に観た『抵抗の詩』である。原題が『血まつりの童話』。ナチスによってセルビアで一日で何千人もの人が殺された事実をもとにした映画である。ドイツ人が一人死ねばその何倍もの人を殺すとして数が増えていった。大人だけではなく子供にまでおよぶ。日本語とセルビア語で詩を書いている。そして、難民の人々の聴き書きをしている。

〔 ユーゴスラビアという国が幾つかの国に分れてセルビアという国が出来たようであるが、セルビアという国がもっと昔から過酷な歴史を担ってきたらしいということである。山崎さんが説明してくれた、映画『抵抗の詩』に描かれたナチスによる子供達の時代は第二次大戦ではあるが、その他の時代や現代のセルビア周辺のことはどう理解すればよいのか正直私には判らない状態である。ただ、山崎さんは多民族の人々の中で、ご自分は日本語とセルビア語を交差させ、日常と詩を通して語り続けておられるということである。争いの中に置かれた人々の普遍的な共通となる問題ということであろう。〕

日本近代文学館 夏の文学教室 (2)

木内昇さん「日常から見た歴史的事象」

いろんな切り口から時代をみるべきだ。佐賀藩は新政府に加わらなかった。新政府の長州は国のお金は自分のお金と思っている。武家と町民の文化は違っていたが、明治になって一緒になり、勝海舟は、国が庶民文化を一緒くたにするのをいやがった。江戸時代の識字率の高さ。外国では絵なぞは貴族しか持っていなかったが、日本では庶民が浮世絵を楽しんでいた。『三四郎』で、広田先生は日本は「滅びるね」と言った。高杉晋作の日記。中原中也に一番絡まれたのが太宰治。

〔 切り口が早くて繋がっているのであるが、感覚的にしか捉えていない。『三四郎』に関しては、その部分を読み返した。三四郎は、広田先生を「日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。」と思う。そして三四郎が日本もだんだん発展するでしょうというと、広田先生は「滅びるね」というのである。漱石の頭の中がそこにある。今までどういう事かわからなかったが、今という時代にやっと実感となる。事実のほどは知らぬが、<中原中也に絡まれる太宰治>が可笑しい。

横須賀の三笠桟橋から船で15分のところに<猿島>というのがあり、友人に誘われ暑い日に行った。そこで、今の政治家を2、3日食料無しで置き去りにしてはどうかという話がでた。ほんのわずかな時間、取り残され、閉ざされ、食糧もなく、さらに殺されるかもしれない状況の想像の中に自分をおく。倖せのことにそれはまだ、想像の世界でしかない。海辺では、家族や若い人がバーべキューを楽しんでいる。ペリーがこの島にペリーアイランドと命名したらしいが、「ダメ!もっと昔から<猿島>と名前があったのだから。」。記念艦「三笠」も見学。「勝ちすぎたんだよね。たまたま。」と友人がいう。日露戦争がたまたま勝ったのかどうか、私はきちんとその関係のものを読んでいないのである。勝ち過ぎたという気はする。しかし、戦争が始まって間違った始まりでも自分の国が勝つ事を願うであろう。勝って早く終わることを。そこが怖いのである。 〕

池内紀さん「森鴎外の「椋鳥通信」」

「スバル」に鴎外は「椋鳥通信」という海外の情報を伝えていた。無名の人が伝えているという形をとっていたが、皆、鴎外であるということを知っていた。横文字が多く読者は少なかったはずである。斎藤茂吉は読んでいた。キュリー夫人の不倫やトルストイの家出のことなども、伝えている。オーストリアの皇太子夫妻暗殺も伝え、その後戦乱となり情報も途絶えてしまう。この『椋鳥通信』の原語部分を訳し、ところどころに<コラム>をのせ、解かりやすいようにして構成し、上・中とまで出ました。

〔 鴎外さんという人は、公人として超多忙でありながら、本を訳したり、小説を書いたり、海外の情報まで選択して紹介までしていたとは、驚きである。それも、ゴシップ的ことまでもである。鴎外さんは、『舞姫』のごとく、若かりしころ大恋愛をして自分の立身出世も捨てようとした人であるから、ゴシップ的なことも、人間の一面として重要な部分としたのかもしれない。『舞姫』のエリスのモデルの方は、NHKの特集であったか、一応そうであろうとの確率の高さで探しあて、彼女は母方の遺産が入り生活を助けてくれ、新しい家族に恵まれ穏やかな最後を送ったと放送されたことがある。

<トルストイの家出>は、映画『終着駅 トルストイ最後の旅』が関係ありそうで、DVDが出番を待ってそばにある。文京区森鴎外記念館で『谷根千“寄り道”文学散歩』を展示していた時、鴎外の作品関係の文学散歩の地図があり、これも、涼しくなった時のために出番を待っている。

鴎外記念館に3本映像があり、その中で安野光雅さんが、無人島に一冊本を持っていくとしたら鴎外の『即興詩人』であり、山田風太郎さんも『即興詩人』と言っていたと語っている。これには驚いた。読んでいないから何とも言えないが、山田風太郎さんと鴎外さんとは意外な組み合わせである。〕

山田太一さん「きれぎれの追憶」

戦時下の様子を知る人が少なくなって、映像で描かれるものにも首をひねるものがある。たとえば、豆かすをご飯に混ぜて食べていて、「豆を選んで食べている」というセリフがある。大豆油を搾り出したあとの豆かすである。選んで食べるようなものではない。大岡昇平の『野火』の場面で、福田恒存と大岡昇平が論争をしている。、福田恒存は、大岡の表現に異議を唱えている。

〔 豆かすの話しも、福田さん大岡さん論争も、作家が書いていることが、そうは思わないであろうと、事実ではないとする考え方のそれぞれの立場を説明しているわけであるが、これは、浅田次郎さんのウソと関係する。そもそも小説は歴史的事実のみではなく、人間も書く。体験していない者としては、出来る限り事実と生活をも忠実に書きつつその中でどう人は考え感じたかを書かなくてはならないわけで、体験していなくても書かなくてはならない。ウソのないように。

体験した人が書いたものにも、違うという意見もあるわけで、戦争作品がどれだけ大変な作業であるかが分る。福田さんと大岡さんは仲が良かったそうであるから、あえて福田さんが自分の思ったことを伝えたのであろう。山田さんは、そいう福田さんの詠み方を、それは違うであろうとしていたが、『野火』を読んでる途中なので何とも言えない状況である。

戦争物を書くと言うのは本当に大変だと思ったのは、映画『一枚のハガキ』で、兵隊さんたちは、検閲の中にいる。家族への返信や近況報告を正直に書けないのである。もしかすると、残された手紙には本心は書かれていないかもしれない。そこにすでにウソがあるかもしれないのである。語れない死者の言葉を書くと言うことは重い仕事である。しかし、書かなければ論争の対象にもならず、無かったものとなる。考える必要もなくなる。

福田恒存さんと大岡昇平さんの論争文がないかと探していたら、高見順さんと大岡さんの対談があり個人的に興味を持った部分で締める。大岡さんの『野火』が最初に発表されたのは、宇野千代さんが『スタイル』という雑誌でもうけたお金で出した、季刊雑誌「文体」ということである。宇野さんのお気に入りの連中の雑誌ということで『野火』は注目されず、「展望」にのったら評判をとったので、大岡さんは「癪にさわったね。」と言われている。面白い。〕

 

日本近代文学館 夏の文学教室 (1)

7月20日~25日までの6日間、文学に関係する19人(聞き手、対談者を含む)の方々の話しを聴いた。<話しを聴いた>としたが、きちんとそれぞれテーマがあって、そこに集約されていく講義・講演といえるがこれは内容をきちんと伝えないと誤解を要することにもなるので、受けた方は<話しを聴く>というかたちにして、そこからテーマと関係あり、無しの刺激や切り口の面白さから受けた受け手の自分勝手の次の行動や、個人的好みによって進んだ動きについて書く。

<行動>すると書くと格好よいが、DVDを見たり、多少本を読んだということに過ぎない。それと、<話し>のなかで、余談的ことに強く反応するテーマを逸脱する興味本位の楽しみ方もしているので聴いた話しから逸脱している可能性ありでもある。

52回の夏の文学教室自体に大きなテーマが設定されている。『「歴史」を描く、「歴史」を語る』である。<「文学」において、小説や日記など、さまざまなかたちで、「歴史」はつむがれてきました。文学者が見つめ、書いてきた「歴史」を、現在活躍中の作家の方々に大いに語っていただきます。>

水原紫苑さん「谷崎潤一郎の戯曲」

谷崎の戯曲『誕生』『象』『信西』『恐怖時代』『十五夜物語』『お国と五と平』『無明と愛染』『顔世』を紹介。読む戯曲としての面白さがあると。

〔 歌舞伎座での『恐怖時代』は、芝居の出来不出来は別として、こういう世界もあったのかと良い意味で驚いた。小説の『盲目物語』を芝居にしていて、玉三郎さんと勘三郎さんの舞台を思い出すが、もう一工夫して面白いものにして再演してほしい。 〕

藤田宜永さん「谷崎の探偵小説」

「柳湯の事件」「途上」「私」「白昼鬼語」から谷崎の語学力からしても、海外の探偵小説は相当読んでいてその手法を取り込んでいる。登場人物は暇とお金があり、散歩好きで、都会に位置している。

〔 この四作品はよんでいたので、皮膚感覚がもどってきた。同時に大正時代の都会の一角に立ち、周りの景色を眺めているようであった。ちょっとおどろおどろしく、江戸川乱歩の世界も思い起こす。山田風太郎さんの『戦中派復興日記』を読み終わったところで、生身の江戸川乱歩さんも登場する。乱歩さんは、勝手にその作品の世界と共に生身も大正から昭和の初めの作家としていたので、ここでまた、後ろにタイムスリップさせて時間のズレを修正する。 〕

島田雅彦さん「おとぼけの狡智」

谷崎は戦中も『細雪』という作品で戦争には何の関係もないことを事細かに細々と書いていた作家である。自分だけの世界に入っていた。作品として『春琴抄』に触れる。谷崎は語学もでき頭の良いひとなので、自分の性癖にあった文学としての昇華形式を海外の作品にすでに見つけていた。

〔 この機会だからと山口百恵さんと三浦友和さんコンビ映画『春琴抄』の録画を観ていた。よく判らぬ世界であるが、琴と三味線を弾く場面の曲に興味が湧き、佐助が眼を縫い針で突く場面の映像はドキドキした。22日にテレビNHKBSプレミアムで『妖しい文学館 こんなにエグくて大丈夫?“春琴抄”大文豪・谷崎潤一郎』が放送された。島田雅彦さんも参加されていた。国立劇場で12月19日に邦楽公演として『谷崎潤一郎ー文豪の聴いた音曲ー』がある。〕

中島京子さん「『小さいおうち』の資料たち」

『小さいおうち』は、昭和5年~昭和20年まで日中戦争から第二次世界大戦までの15年戦争時代をかいている。その時代の空気、様子を知るために読んだ小説などを紹介。『細雪』(谷崎純一郎)、『十二月八日』(太宰治)、『女中のはなし』(永井荷風)、『女中の手紙』(林芙美子)、『たまの話』(吉屋信子)、『黒薔薇(くろしょうび)』(吉屋信子)、『幻の朱い実』(石井桃子)、『欲しがりません勝つまでは』(田辺聖子)、『古川ロッパ昭和日記』ら、もっと沢山あるがそれをどういうときに参考にしていったか。

〔 こちらも録画『小さいおうち』を観ていたので、資料がどう使われたが想像できた。日清、日露戦争に勝ち、小さいおうちのオモチャ会社に勤めるご主人が、これで中国がオモチャの購買地域となりこれからじゃんじゃんオモチャが売れると張り切っている。簡単に中国との戦争に勝ち、オモチャが売れると思っている。疑うことのない庶民感覚である。ところが、戦争は長引き、ブリキから木のオモチャへと変わってくる。庶民感覚と少しづれた奥様を思うお手伝いのタキさんの不安と心配は一つの行動に出る。いつからが戦争かがわからない怖さ。 〕

和田竜さん「僕が読んできた歴史小説」

鵜飼哲夫さんが聞き役でトークの形である。名前の<竜(りょう)>は、母が坂本竜馬が好きでつけた。大河ドラマの北大路欣也さんの坂本竜馬のときである。好きな歴史小説は司馬遼太郎と海音寺潮五郎。『のぼうの城』は、『武将列伝』にも出てこないような人を書きたかった。今の漫画の人気は、何の努力もせずに備わっている何んとか一族の主人公とか、超能力を持って居る主人公ものが受ける。

〔 『村上海賊の娘』と『のぼうの城』が同じ作家であったとは。『のぼうの城』は観たいとは思わなかった。レンタルで『陰陽師』のそばにあっても無視であった。おふざけ過ぎよと思っていたのである。観たら八王子城と同じ時に秀吉に託され石田三成と聞いたこともない成田長親との対決である。おふざけと見えたのは、実際は戦を避けることを考えた人であった。建物一つにしても責任をだれもとらない国が、勇ましいことをいっても、だれが責任を持ってくれるのか。忍城は埼玉県行田市である。行かなくては。 〕

浅田次郎さん「戦争と文学」

戦争が終わってから6年たって生まれたのですから戦争のことは知らない。物心ついたときには、戦争の跡というのはほとんどなかった。傷痍軍人がところどころで見かけたが怖かった印象がある。戦前は日本は海洋王国ですから、戦中民間の船が多く沈んだ。そのことを書いたのが『終わらざる夏』。戦争を知らないからウソのないように調べて書く。疲れます。戦争文学は売れなくても書かなくてはならない。『戦争と文学』20巻の編纂をしたが、これらの作品が会話文が少なく地の文が圧倒的に多いのに驚いた。会話文が多いとストーリーがわからない。

〔 残すこと、伝えること、発掘すること等の重要性を思う。受ける方は読むことが重要であるが、今回は映像で短時間決戦である。浅田次郎さん原作の『日輪の遺産』、同じ佐々部清監督ということで横山秀夫さん原作の『出口のない海』を観る。『日輪の遺産』は思いがけない内容であった。こういう事があったとしたら若い人はどう行動するであろうか。純粋であればあるほど内なる純粋さに添い、死を選んでしまうのか。それにしても、大人たちはなぜもっと早く戦争を終わらせなかったのか。どれだけの若い命の青春が幕を下ろされてしまったことか。戦争映画として『死闘の伝説』『一枚のハガキ』も観る。歌舞伎役者さんたちが映像の中で予想を超えて伝えてくれた。浅田さんの、若い優秀な近代歴史の研究者が出てきているの言葉が希望を灯す。どう答えがでようと、きちんと検証されることが大事である。〕