映画『告訴せず』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』

映画配信はすぐ観れて便利であるが、DVDは特典映像が含まれていたりするので意外な情報を貰えることがあり、今のところDVD派である。

映画『告訴せず』は特典映像に堀川弘通監督のインタビューがあり、気さくに話される内容が大変参考になった。しゃべってもいいのかなという感じで『告訴せず』の映画の欠点を話される。それが、こちらが観たときのなぜかストンと落ちてこない原因がそこなのかと納得させてくれた。

映画『告訴せず』(1974年・堀川弘通監督)は、松本清張さんの社会派推理小説が原作である。江戸川乱歩さんが推理小説を世に広め、子供にも愛される広範囲な読者層を獲得された。そこへ松本清張さんは社会派の大人対象の推理小説の道を加えられた。江戸川乱歩さんは傾向の違う松本清張さんに次の推理小説の担い手として高く評価した。

木谷(青島幸男)は大衆食堂の厨房で働いている。木谷の妻(悠木千帆・樹木希林)は兄・大井(渡辺文雄)が保守系の立候補者として選挙中でそちらにつきっきりである。木谷の妻は兄が勝つためには選挙資金を大臣にお願いすべきだと提案し大臣の承諾を得る。その資金を受け取りに行く役が目立たない木谷にまわってくる。

3000万円のお金を受け取りに行く木谷。受け取ったお金が大井のもとに届かないが大井は当選する。木谷は温泉宿にいた。お金は相手が告訴できない選挙違反の金である。木谷は宿の仲居のお篠(江波杏子)と一緒になり小豆相場にお金をかける。木谷は逃げきれるのか。

政治資金、狂乱マネー、暴力の世界が一人の男を通して描かれている。未だに同じような選挙とお金の関係である。

堀川弘通監督によると、松本清張さんから、自分の作品の上を言った映画は『張込み』(1958年・野村芳太郎監督)と『黒い画集 あるサラリーマンの証言』(1960年・堀川弘通監督)で、また撮ってくれと言われた。プロデューサーの市川喜一さんが『告訴せず』を青島幸男さんでやろうということで、先ず青島幸男ありきではじまった。三枚目の主人公ということでコメディさも入れている。周囲の俳優陣は自分で決めていった。欠点は、火事の場面からダレてしまい、木谷が金にまみれてだまされていた本当の主犯の出し方が弱かったという点である。なるほど、まさしくそうなのである。

松本清張さんがほめた映画『黒い画集 あるサラリーマンの証言』は、かなり前に観てこれは面白いと『黒い画集シリーズ』を観たがそれぞれの作品の展開に満足した。『黒い画集 あるサラリーマンの証言』を再度観たが、細部まで目にはいったが、ミステリーは筋を知ってしまうと新鮮味を保つのは難しく、そうであったとの確認となってしまい最初の満足度は下がってしまったがテンポといいどうなるのかという先への引っ張り具合は計算されている。

平凡でそこそこの会社の課長・石野(小林桂樹)は部下の梅谷(原知佐子)と愛人関係にあり、家庭も上手くいっており満足の日常であった。ある夜、梅谷のアパートからの帰り道、隣人の保険外交員をしている杉山(織田政雄)に会い挨拶をする。普段も出会えば挨拶する程度の関係であった。石野は彼女のことがバレないかとちょっと不安になる。

その不安は杉山が向島の若妻殺しの容疑者として捕まり、杉山は犯行時間には新大久保で石野と会っていて向島にはいなかったと主張する。検事が会社に尋ねて来る。石野の「あるサラリーマンの証言」が重要になって来るのである。

堀川弘通監督は、セットが嫌いで、現場で苦労して作るのが好きであるといわれている。夜の情景もつぶしではなく、その時間に撮るようにしている。『黒い画集 あるサラリーマンの証言』は映画ができあがってどうしてもラストが気に入らず撮り直し、それも気に入らず再度撮り直した。ラストを三回撮ったことになる。あの頃映画会社もお金があり、スタッフも燃えていたからできたといわれる。そのラストの2つのシーンに似た場面が、特典映像の予告編にもでてくる。やはり撮り直したラストがベストだと納得である。

黒い画集 ある遭難』(1961年・杉江敏男監督)

黒い画集 第二部寒流』(1961年・鈴木英夫監督)

映画『国士無双』『台風騒動記』

伊丹万作監督の映画『国士無双』は有名でそのリメイクかと軽く考えて観ていなかった。面白かった。周囲のことは意に介しない中井貴一さんがいい。剣の腕があるのかないのかの動きもいい。すっきりとした着流し姿ででてくるのもいい。どこかの御曹司若様がわけあっての一人旅か。記憶喪失か。仙人が育てた子か。などとチラチラ浮かぶがそれはナンセンスであった。映画のほうがナンセンスなのであるから。

映画『国士無双』(1986年・保坂延彦監督)。伊丹万作脚本より、原案・伊勢野重任、脚本・菊島隆三。

「武士道華やか過ぎし頃」。ところどころで字幕がはいりそれもよい。浪人二人(岡本信人、火野正平)が無一文で何とかならないかと思案して伊勢伊勢守の行列から思いつく。伊勢伊勢守になり澄まして豪勢に呑み明かそうと。ニセの伊勢伊勢守を物色中、一人の男が着流しであらわれる。男(中井貴一)は名前もなく何もわからず伊勢伊勢守の名前が気に入る。男にとってニセモノもホンモノもない。気に入った名前が自分の名前なのである。

世の中のことは何もわからぬが、道場破りの男(中村嘉葎雄)からお金をせしめる方法も学ぶ。武家の娘・お八重(原田美枝子)を助け、身投げしようとする娘・お初(原日出子)を助け、無勢に多勢の出入りのお六(江波杏子)を助ける。

お八重はホン者の伊勢伊勢守(フランキー堺)の娘でホン者はニセ者を叱責するが受け付けない。では勝負となる。なんとも武士道などお構いなしのニセ者の立ち振る舞いである。ここらあたりの動きが上手く動かしていて可笑しい。ホン者は修業にで、かつての師(笠智衆)のもとで修業に励みもどってくる。

再びホン者とニセ者の対決。ニセ者は勝ったらお八重を妻にしたいと条件を出し、娘も想う人と添い遂げられるというハッピーエンドである。その中に流れる、ホン者とニセ者との区別はなんなのか。けっこう色々あてはまる命題である。ホンモノの政治家ってなに。ホンモノの実力ってなに。際限がないかも。

のほほんとしていながら頑固な中井貴一さんと多才なフランキー堺さんの押さえ処のきいた絡み加減がなんともいい味である。

音楽(喜多嶋修)がこれまた合っていて、文楽や歌舞伎調の舞踊など多彩な色を散りばめてくれている。特典映像には伊丹万作監督の『国士無双』(1932年)の映像もところどころみせてくれる。片岡千恵蔵プロダクションの作品で、お八重が山田五十鈴さんで14歳ということである。当然ニセ者は片岡千恵蔵さん。

中井貴一さんは、お父上の佐田啓二さんがコメディが少なかったのに比べてコメディ方面での活躍も多く楽しませてくれている。

映画『台風騒動記』(1956年、山本薩夫監督)は佐田啓二さんの数少ないコメディ参加作品である。(原作・杉浦明平著『台風十三号始末記』)

昭和31年、台風13号の被害を受けた富久江町はてんやわんやである。台風による被害の補助金を貰うべく町の有力者たちは画策する。小学校を鉄筋コンクリートの校舎にしようと一千万円の補助金をもらうため小学校を壊して台風の被害にしてしまう。

そこへ友人の小学校教員・黒井(菅原謙二)を訪ねてきた吉成(佐田啓二)が、大蔵省の役員に間違えられ丁寧な接待を受けてしまうことになる。話しとしては当然ホンモノの役人が現れるわけである。そんな町の騒動を描いている。「中央公論」と「世界」を読んでいる人は赤で要注意人物ということにもなっている。何が赤だか黒だかわからぬが、赤っ恥ということもある。

出演陣が芸達者な俳優さんたちである。(桂木洋子、野添ひとみ、多々良純、三島雅夫、中村是好、加藤嘉、飯田蝶子、佐野周二、藤間紫、宮城千賀子、左卜全、渡辺篤、三井弘二、坂本武etc)

追記: 映画『国士無双』の脚本をされた菊島隆三さんが原作のテレビドラマ『死の断崖』を鑑賞。松田優作さんを映像で観るのも久しぶりである。独特の間とどちらにもとれる雰囲気がサスペンスをじわじわと盛り上げていきラスト本心があかされる。ライターを立てて煙草を吸う姿が決まっている。工藤栄一監督。

ひとこと・映画『ラスト・クリスマス』と歌舞伎『傾城反魂香』

今年のクリスマスソングは映画『ラスト・クリスマス』(2019年・ポール・フェイグ監督)でエミリア・クラークが歌う、ワム!の「ラスト・クリスマス」である。自分の居場所を探しあぐねてあたふたとしていた女性が一人の男性の登場で彼を探すうちに自分の居場所をみつけるというヒューマンラブコメディーである。

意味深なワム!の「ラスト・クリスマス」の歌をこんな感じで歌わないでというかたもおられるであうが、映画の主人公が明るく歌える自分をつかんでの歌である。そこがいい。

映画の原案・脚本がエマ・トンプソンである。

歌舞伎座の『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』。主人公又平も居場所がなかったひとりである。戯作者になるまで近松門左衛門さんも居場所が無かったのかもしれない。心中物の登場人物もそうである。今回の作品は奇跡によって又平は自分の居場所を確保する。勘九郎さんの又平が若さにその喜びがあふれていた。女房おとくの猿之助さんが 白鸚さんの又平の時よりも一層しっかり者の恋女房にうつる。女形としての手が美しい。

勘九郎さんの又平をみていると、八十助時代の三津五郎さんの小柄な身体で喜ぶ又平を思い出した。この方が出れば勘三郎さんも浮かんで、又平の嬉しさと重なって複雑な涙となった。鶴松さんと團子さんが頑張っている。つながっていくのでしょう。

自分の居場所を見失うことはどんなときもきついものである。

映画『ナスターシャ』・フランス映画『白痴』・黒澤映画『白痴』(気まぐれ編)

映画からいろいろな方向に派生していくものである。(3)で記した有島武郎さんの旧宅が保存されているので写真を紹介しておきます。

旧有島武郎邸 (sapporo-jouhoukan.jp)

映画の中での有島武郎さんで記憶に残るのは、『華の乱』(1988年・深作欣二監督)です。主人公が吉永小百合さんの与謝野晶子を通して大正時代を描いたもので、松田優作さんが有島武郎でした。

坂口安吾さんの小説にも『白痴』(1946年)があります。こちらは短編なので読んでみました。

毎日警戒警報がなり時には空襲警報もなった。伊沢は大学を卒業し新聞記者になり、そのあと文化映画の演出家となりまだ見習いであった。彼が一室借りている建物の路地の奥に資産家の家があり、夫婦と夫の母親が住んでいた。その女房はもの静かで日常的な家事などは何もできず、しゃべるのがやっとであった。その女房が姑のヒステリーから逃れてか伊沢の部屋にきた。

伊沢は女房と肉体関係になり、近所からその女性を隠して暮らすようになる。女性は肉体関係にしか興味がない。空襲がひどくなり4月15日、どうにも家にいては危ない夜間大空襲となり近隣の皆が逃げた一番最後に伊沢は女性と外に飛び出し逃げまどう。逃げまどう途中、伊沢は女性に二人一緒だから自分について来いと声をかける。その時女性はうなずいて初めて自分の意思をあらわした。

雑木林の中に二人だけとなる。女性は眠っている。女性はただの肉塊にすぎなかった。ここから記憶の世界に入りそこから男は女の尻の肉をむしりとって食べるのである。男は女に未練はなかったが捨てるだけの張り合いもなかった。伊沢はとにかく彼女を連れて停車場を目指して歩き出すことにしようと考えて小説はおわる。

伊沢はうなずいてくれた女性とのあの一瞬にあこがれたのかもしれないがそれはもうおこらないのである。尻の肉を食べたところで反応はないのである。リアルな空襲の中を逃げる場面から伊沢の頭の中の世界が突然出現するのでとまどってしまう。

坂口安吾さんがでてくると、歌舞伎の『野田版 桜の森の満開の下』が思い出される。

その時の感想がこちらです。→ 2017年8月23日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

そこで、坂口安吾さんの『桜の森の満開の下』で、男は女を絞め殺したところまでを記しています。小説はそこが最後では無くて、彼は女の顔の上の花びらをとろうとするが女の顔は消えてしまい花びらだけしかありません。その花びらを掻き分けようとしたら彼の手はなく彼の身体も消えていたのです。これがわからなくて殺したところで終わらせたのである。(姑息でした。)

今回、『白痴』の尻をむしりとって食べるところで『桜の森の満開の下』の男はすでに鬼に食べられていたのだと確信しました。鬼ですからね、死んだかどうかわからないすばやさで食べることだってやるでしょう。坂口安吾さんの手法が少しわかったような。(このあいまいさ。)

歌舞伎の『野田版 桜の森の満開の下』がまた観たくなります。それぞれの役者さんの演技が走馬灯のように思い出されます。新作歌舞伎の面白さは古典では観れない役者さんが観れるという事であり、古典ではきっちり型にはまった役者さんが観れるという楽しさである。

驚いたことに坂口安吾さんの『白痴』が1999年(手塚眞監督)で映画になっていました。20周年記念ということで現在上映されていました。気まぐれではすまなくなりそうですので今回は挑戦をさけます。

黒澤映画『白痴』は、265分の長さがあったのだそうです。もしフイルムが残っていたら挑戦したかった。

追記: 『札幌芸術の森』に保存されているモダンな洋館の旧有島邸が黒澤映画『白痴』の大野家の外観です。室内での撮影があったのかどうかは今のところ確認できていません。

映画『ナスターシャ』・フランス映画『白痴』・黒澤映画『白痴』(3)

黒澤映画『白痴』に関しては前に書き込みしているが、三作品と比較するうえで便宜上こちらにも移すことにする。そして再度観たので少し書き足す。

その前に、字幕で解説が映し出されるのでその最初を部分を紹介しておきます。

「原作者ドストエフスキーは、この作品の執筆にあたって、真に善良な人間が描きたかったのだと云っている。そして、その主人公に白痴の青年を選んだ。皮肉な話だがこの世の中で真に善良であることは “白痴(ばか)” に等しい。この物語は、一つの単純で清浄な魂が、世の不信、懐疑の中で無慙に亡びて行く痛ましい記録である。」

人物設定は、ムイシュキン公爵は亀田、ラゴージンは赤間、ナスターシャは那須妙子、アグラーヤは大野綾子、ガーニャは香山、エパンチン将軍家は大野家で、大野家には娘がふたりで綾子は次女である。

【 映画『白痴』(1951年、黒澤明監督)は、ドストエフスキーの小説 『白痴』をもとにして場所を日本の札幌にし時代を戦争の終わった後にしている。主人公は亀田(森雅之)と赤間(三船敏郎)が北海道に渡る青函連絡船のなかで出会う。亀田がうなされて奇声を発したのである。

亀田は沖縄戦で戦犯となり銃殺寸前に人違いとして助かりそのショックから神経がおかしくなりアメリカ軍の病院に入院し退院して札幌の知り合いの家に行くところであった。赤間はこの亀田が気に入り自分のことも話す。好きな女がいて父のお金を盗み彼女にダイヤの指輪をプレゼントして勘当になっていた。その父が亡くなり遺産が入ったので札幌に帰るところであった。

二人は札幌で写真館に飾られている赤間の彼女の写真をながめている。圧倒させるような美しさの那須妙子(原節子)である。亀田は、この人はとても不幸せなひとであるとつぶやく。さらに妙子の目にこの目をほかのどこかで見た目であるとおもう。

亀田は父の友人である大野家をおとずれる。大野家は那須妙子と関係があった。妙子は妾の身であったが、大野家の秘書の香山(千秋実)に持参金付きで結婚させるという話ができあがっていた。香山は大野の次女・綾子(久我美子)が好きであったがお金も必要であった。亀田の出現でこの仕組まれた動きが大きく変わっていくのである。

誰も見ぬけなかった妙子の心の中を亀田の純粋さが感じとっていた。妙子にとって同じ感性それは光であった。亀田は妙子の目と同じ目をおもいだす。処刑されるとき自分は助かるが処刑される前の若いまだ少年のような青年の目であった。自分はどうしてこんな苦しいめにあわなければならないのかと目は語っていたのである。その目と妙子の目が重なった。

この映画は非常に長くて2時間45分である。第一部が「愛と苦悩」、第二部が「恋と憎悪」である。妙子は亀田を選ばずに赤間を選ぶ。亀田は二人を追いかける。赤間は妙子の心が自分に無い事を知って亀田を殺そうと考えたこともあった。綾子が現れて亀田は綾子に恋をする。妙子への愛とは違うものであった。妙子はそれを感じていて綾子を天使として亀田を傷つけずに一緒になってくれる人として希望をもった。

しかし、綾子は妙子が亀田の理想の女性で自分と亀田の間に入って邪魔をする者と思われ、妙子と対決するのである。亀田の妙子に対する愛は、処刑の時何もできなかったあの青年と同じ妙子を傷つけないで救えないか、いや妙子の魂をじぶんが守り救わなければという愛であった。綾子への愛とは別物であった。

心のねじれは悲劇へと向かわせる。残った綾子は「私が白痴だったわ」とつぶやく。亀田の白痴は純粋さで、綾子の白痴はおろかという意味である。

出演者の個性がきわだっている。原節子さんの存在が強烈でそれでいながら心はガラスのように壊れやすく、いやすでに壊れていて、森雅之さんはそのかけらを集めて修復しようとしているようにもみえる。

この札幌のロケでは有島武郎さんの旧宅が使われていた。ロケをした家は1913年(大正2年)に建てられた家でこの家で森雅之さんは幼い頃を過ごしたことになる。『札幌芸術の森』に保存されている。森雅之さんが生まれたのが1911年で有島武郎さんの文学年表からすると、『北海道開拓の村』にある旧有島邸が森さんが生まれた家ということになりそうである。

映画のクレジットには美術工芸品提供がはっとり和光とあるのも興味深い。 】

映画『ナスターシャ』のところで、ムイシュキンがてんかんの発作を起こすところがリアルであると記したが、ラゴージンは、ムイシュキンが舌をかまないようにナイフを口に挟むので印象にのこったのである。黒澤映画『白痴』でも赤間にナイフを振りかざし亀田は発作を起こすが雪の中に倒れ、赤間はそのまま逃げてしまっていた。

妙子の写真はやはり強烈である。妙子と亀田が直接顔を合わすのが、フランス映画『白痴』と同じ香山の玄関であった。映画『ナスターシャ』での馬車から降りての登場が異彩を放っているかも。赤間は香山宅に早々と再登場するのである。

その夜の妙子の誕生祝いの席でお金によって値段を付けられる妙子の苦悩と自暴自棄の様子に心配になった亀田は妙子を引き取るとつげる。皆は無一文の亀田を笑う。亀田は子供のような純真さだけで言葉を発している。その真剣さに大野(志村喬)は懺悔する。亀田には父の残した牧場があり、それを黙っていたと。

妙子が赤間の持ってきた100万円を暖炉の火に投げ込み香山に欲しければ拾いなさいという場面はフランス映画同様圧巻である。小津監督映画の原節子さんのイメージであるからなおさらである。赤間と去っていき、ここからしばらく妙子は出現しない。

亀田と赤間、亀田と綾子の関係が描かれていく。赤間とは十字架の交換でなく、お守りの交換をしている。亀田のお守りは、銃殺から逃れられてあの青年が銃殺された時発作を起こしその時手に握られていた小石である。赤間は母が持たせてくれたお守りである。

そして妙子が現れるのが、スケートのカーニバルの夜であり、亀田と綾子の結婚を信じて別れを言う時であり、さらに綾子がどうしても妙子に会わなくてはと亀田と赤間の家をたずねたときである。

この妙子と綾子の対面が結果的に亀田にどちらかを選ばせる対決の場となってしまう。原さんと久我さんの演技の対決の火花もすばらしいものです。二つの三角関係がからみあっていてそのため、最初から綾子の存在も意識して構成されている。

亀田、妙子、赤間の関係は死を持ってしか解決の道はなかったようで、妙子を殺した赤間は雲に乗ってくる妙子の幻覚を見て、「さあ、あの雲に乗ろう。」と言って目を見開き身体を硬直させる。その赤間に寄りそう亀田。亀田は言葉で表現するのが上手くできないが、寄り添う心がある。ローソクの灯も消え、極寒の時間だけが過ぎてゆく。

綾子は「私が白痴だったわ。」とつぶやく。

最後の亀田と赤間からしても、もう一つの三角関係を主軸にした映画『ナスターシャ』が生まれるのも自然の成り行きであろう。

三作品みるたびに重なり合ったり、独自の発想であったり、あのセリフがこう使われるのかなど新しい発見があり充分満喫させてもらった。と同時に上手く結び付けられない点もありますが、時間がたって観直せばそうであったかと気がつくかもしれませんのでそれを期待して、エンド。

映画『ナスターシャ』・フランス映画『白痴』・黒澤映画『白痴』(2)

フランス映画の『白痴』(1946年・ジョルジュ・ランパン監督)に入るが、ジェラール・フィリップの人気が出る兆候はこの映画でも予想できる。無邪気な表情と哀愁に満ちた目が物語る表情のコントラストがいい。人物設定が原作に近いのではと思ったが読んでいないので正確なことはわからない。

ムイシュキン公爵とロゴ―ジン(映画の字幕による)の車中での出会いがないのである。そして、ナスターシャの愛人である資産家のトーツキイが、後にムンシュキンと相思相愛となるアグラーヤと婚約しているのである。これには驚きで、やはり原作を読まなくてはとおもってしまう。はめられてしまいそうである。そのことは別にして、先ず映画の方を進める。

頭の方の病気がありスイスで療養していたムイシュキンは、親戚にあたるエパンチン将軍夫人を頼り、将軍邸をたずねる。将軍、トーツキイ、将軍の秘書のガー二ャはトーツキイが将軍の三番目の末娘・アグラーヤと結婚するため愛人のナスターシャを持参金付きでガーニャと結婚させる相談をしており、それぞれが自分の得るお金のために動いていた。そして今夜ナスターシャの返事をもらうことになっていた。その部屋にナスターシャの写真があった。

そこで、ムイシュキンはナスターシャを知るのである。アグラーヤは汚らわし人と言い、ムイシュキンは哀れな人だと言う。「一目で君は幸せな人だとわかる彼女は違う。私と似ている。」

そのナスターシャとムイシュキンの初めての出会いは、ガーニャの家でムーシュキンがドアを開け彼女をむかえるかたちとなりみどころである。ムイシュキンはガーニャの家に下宿することになったためである。ナスターシャは結婚するガーニャの家族に会いに来たのである。ガーニャの妹に侮辱を受けナスターシャは公爵も今夜私の家に来てと告げて去る。

ナスターシャの家に関係者があつまる。そこに持参金より多額のお金を持参して現れたのがロゴ―ジンである。ナスターシャは皆の前でトーツキイが自分の後見人であったが16歳の自分を犯し、それが8年も続いたと具体的に自分の体験や意見を主張する女性である。ムイシュキンは叔母の遺産が入り、僕と結婚しようというが、ナスターシャはロゴ―ジンと去っていく。

ここで将軍は「登場人物は狂女と乱暴者と白痴」と自分たちと彼らをわける。自分たちは拝金主義であると自ら分類したのである。ロゴ―ジンも拝金主義であったがナスターシャが現れてお金の力でどうすることもできない事を知り苦しむのである。

ナスターシャとロゴ―ジンたちの祝宴の席に酔っぱらいが酒のため本を売りにくる。買ったその本は清書でナイフが挟まれていた。一つの暗示となっている。

トーツキイとアグラーヤの婚約式でムイシュキンは、「打算のために神を利用するな」といって自分の考えを主張する。ムイシュキンは神を崇める者のひとりとして自分の意見をいうのである。この映画のムイシュキンはちょっと聖職者のような雰囲気もある。アグラーヤも両親の意に従っていただけだったので、このことからムイシュキンに愛をかんじるようになり、ムイシュキンと相思相愛の関係となる。

ナスターシャは心のよりどころがなくムイシュキンを呼び助言を求める。ここでもムイシュキンは聖職者のような答えをだしナスターシャを支えようとする。そこへロゴ―ジンが現れ嫉妬するが、ムイシュキンは、十字架を買った話をする。ロゴ―ジンは兄弟の契りにと十字架を交換する。この十字架は、ロゴ―ジンがムイシュキンを殺そうとしたときムイシュキンが胸の十字架をみせ、思いとどまらせる。解りやすい宗教色の濃い展開となっている。

ナスターシャはムイシュキンとアグラーヤを結ぶ手助けをしようとし、トーツキイと将軍一家がいる場所で、トーツキイの手形をロゴ―ジンが買ったと伝える。トーツキイの資産があやしくなったと知り、将軍夫人は娘の結婚に反対する。

アグラーヤは、ムイシュキンのナスターシャに対する愛を断ち切るためナスターシャに会いにいきあなたの力は借りないと断言し、ムイシュキンにどうなのとせまる。ムイシュキンは愛の種類が違うが答えられない。アグラーヤを純真で賢い人と思っていたナスターシャは怒りから、ムイシュキンがかつて結婚すると言ったことを実行すると告げ、アグラーヤは去ってしまう。

ウエディングドレスのナスターシャ。それをながめるムイシュキン。ナスターシャが語るが、ムイシュキンは上の空である。「何を考えているの。」「アグラーヤのこと。」これはナスターシャにとっては残酷なことである。ナスターシャは姿を消す。

ムイシュキンはロゴ―ジンの家に行く。彼女はベットに横たわっていた。殺されていた。

ロゴ―ジンは静かにいう。「自由になるために彼女はここに来た。俺とお前のことを解放するために。」

野卑なロゴ―ジンとは思えない言葉である。善を主張していたムイシュキンでさえもが正直なだけに彼女を救うことができなかった。ロゴ―ジンは悪で彼女を自由にしたことになるのか。ムイシュキンの魂が抜けたような表情で映画はおわる。

映画『ナスターシャ』で他を排除してナスターシャ、ロゴ―ジン、ムイシュキンの三人をとりだし照明をあて映像化したくなることも何となくわかるのである。

将軍が切り離してくれたおかげで、拝金主義者にはそれ以上の物語性はないのである。お金に着いていくだけだから。そしてもしかして救い得た天使であったかもしれないアグラーヤは天使ではなかった。いや天使にできなかったのかもしれない。ナスターシャは天使がいなくなった話もしていて、それに対し何かの暗示かしらとムイシュキンにたずねている。暗示かもしれないとムイシュキンは答えている。

三人は迷える子羊だったのであろうか。しかし、言うべきことは言って何とか道を探そうとしていた。そのことはよくわかる。

さらにムイシュキンは、外国でロシアの時代の流れにも期待していた。「改革が進み、誰もが幸福な社会になるはずと。だがそれは口だけで誰も真剣に考えていない。偽善と卑小さと無関心だけ。誰も気づいていないのか。足元の薄い氷の下には深い穴が口を開けて破局が待っている。」三本の映画の中で、このムイシュキンの思考過程は、世の中の人よりもまともである。それがゆえに人々から白痴といわれるのであるが。

この時代のロシアというのはどんな時代だったのかという興味もわくのであるが今はここまでとする。

映画『ナスターシャ』・フランス映画『白痴』・黒澤映画『白痴』(1)

ジェラール・フィリップがムイシュキン公爵役の映画『白痴』(1946年)があるのを知る。映画『肉体の悪魔』の前である。これはワクワクであるが、玉三郎さんの映画『ナスターシャ』を解明しなければである。まいったな。まいったな。難しい。

映画『ナスターシャ』はドストエフスキーの『白痴』が原作で、監督はアンジェイ・ワイダ監督で脚本にも参加されている。ナスターシャの最初の登場は写真ではなくその人として登場する。ウエディングドレスでの圧倒させる玉三郎さんのナスターシャである。

ナスターシャを待つのが玉三郎さんのムイシュキン公爵。二人は結婚式に臨むのである。陰から見つめる永島敏行さんのラゴージン。突然ナスターシャはその場からラゴージンと共に逃げ去るのである。

ムイシュキンはラゴージンの家へ行き、机をコツコツコツコツと叩く。この場面がその後二回でてきて過去と現在の複雑な交差となる。舞台『ナスターシャ』の映画化ということで、ラゴージンの家の書斎でのムイシュキンとラゴージンそしてムイシュキンが白いショールと耳飾りでナスターシャに入れ替わる三人の登場人物で話しは進む。女形の玉三郎さんならではの設定でありみせどころである。

黒澤明監督の筋的な展開があるので何となくわかるが途中から混乱してくる。ということで、ジェラール・フィリップの『白痴』をみる。人物設定はこの映画が原作に近いようである。ナスターシャの登場が一番多い。この映画はここで置いておき『ナスターシャ』に再度挑戦である。

ムイシュキンとラゴージンのセリフが多く、さらにムイシュキンが能弁なのである。彼はてんかんという病いがあってロシアのペテルスブルグから離れて外国で治療にあたっていた。サンクトペテルブルクにもどる車中でラゴージンと会う。そのこともラゴージンとの部屋で二人のセリフが続く。このあたりの切り替えが初めて映画館でみたときついていくのが大変であった。今回はある程度ついていける。ムイシュキンがナスターシャの写真と対面。「いい人だといいな。」とほほづえをつきじっとながめる。

他の映画ではみられないのがラゴージンがムイシュキンを殺そうとしてナイフを振り上げた時、ムイシュキンは恐怖からてんかんの発作をおこしリアルな演技となっている。ムイシュキンは死について自分の今までの体験から自分と切り離せない問題としてあるようだ。フランスでみたギロチンの処刑のことを話す。処刑の宣告ほど残酷なことは無いとし神も言っていると。そうなのである。この宗教、神のことがでてくるとこちらは理解不能になる。ただ黒澤映画での主人公は、この処刑の間際に中止となりそれによって神経が壊れてしまったことが思い出される。

宗教に関しては、ムイシュキンとラゴージンは正反対に位置しているのかもしれない。ナスターシャに対しても相反している。ムイシュキンはナスターシャに対しては恋で愛しているのではなく憐憫から愛しているという。

ラゴージンにとって、ナスターシャが自分よりムイシュキンに好意をもっていることが我慢ならない。二人が通じ合う心が許せない。ナスターシャは自分の価値はお金に換算されるもので、肉体は暴力によって汚されているとおもっている。ムイシュキンがそうした自分ではなく汚れていない自分を見つめてくれたことに愛を感じている。

ラゴージンは、「あいつはお前にほれている。お前の顔に泥をぬることになり、お前の一生を台無しにしたくないから、絶望と一緒に俺と結婚するのだ。」と。

かなりつっこんだ議論をするムイシュキンとラゴージンの関係である。ムイシュキンは、ラゴージンが嫉妬から自分かナスターシャかどちらかを殺すと直感している。そのため女というものはとラゴージンに説明したりしてラゴージンにお前らしくないといわれる。観ている方も似合わないとおもうが彼は何とかラゴージンがナスターシャを殺さないようにと必死なのである。「じゃ僕帰るよ。」と何回となくしょげて帰るところが、ラゴージン同様止めたくなる。

ムイシュキンは、旅であった三人の話をする。二人の農夫の一人が相手の持っている銀の時計が欲しくて十字をきってから殺して時計を手に入れる。普通の農夫であるが欲しいと言う欲望に勝てなかったのである。もう一人は、スズの十字架を銀だと言ってムイシュキンに売りつけ飲み代にした。それを聴いてラゴージンはムイシュキンが買った十字架と自分の金の十字架と交換する。これで僕たちは兄弟だねとムイシュキンはいう。

ここで思ったのである。ラゴージンは、ナスターシャの愛を持っているムイシュキンではなく、ムイシュキンを所有しているナスターシャという位置にかえたのである。自分はムイシュキンを欲しいからナスターシャをころすのであると。まるでそれを理解したようにナスターシャは自分を殺すようにラゴージンを誘うのである。静かに確信をもって。あなたにしては上出来よとでもいうように、その誘いが何ともいいようがない魅惑である。そうしか今のところ解釈が働かない。

そしてラゴージンはムイシュキンに二人で息をしないナスターシャのそばで一夜を明かそうと支えあうのである。ナスターシャがいなければ二人は好い関係で存在できるのである。その時、ナスターシャは二人にとって純真な白痴として存在しているのである。

ということになりましたが、また観るとこの構成が瓦解するかもしれません。

最初の登場のナスターシャと途中で入れ替わる玉三郎さんの演技と台詞の妙味だけに気をひかれるだけで一見の価値ありです。武骨で粗野なラゴージン役の永島敏行さんも玉三郎さんの台詞に反応するのは大変だったことでしょう。ムイシュキンは突然質問したりしますし、コツコツコツコツなんて冴えた音を響かせたりします。さらにナスターシャに変わっていじめられたりもするのですから。

コツコツコツコツ、「僕よくわからないけで違うとおもう。」なんて言われそうなのでこれ以上考えず公開します。

映画『白痴』『虎の尾を踏む男達』

映画『白痴』(1951年、黒澤明監督)は、ドストエフスキーの小説 『白痴』をもとにして場所を日本の札幌にし時代を戦争の終わった後にしている。主人公は亀田(森雅之)と赤間(三船敏郎)が北海道に渡る青函連絡船のなかで出会う。亀田がうなされて奇声を発したのである。

亀田は沖縄戦で戦犯となり銃殺寸前に人違いとして助かりそのショックから神経がおかしくなりアメリカ軍の病院に入院し退院して札幌の知り合いの家に行くところであった。赤間はこの亀田が気に入り自分のことも話す。好きな女がいて父のお金を盗み彼女にダイヤの指輪をプレゼントして勘当になっていた。その父が亡くなり遺産が入ったので札幌に帰るところであった。

二人は札幌で写真館に飾られている赤間の彼女の写真をながめている。圧倒させるような美しさの那須妙子(原節子)である。亀田は、この人はとても不幸せなひとであるとつぶやく。さらに妙子の目にこの目をほかのどこかで見た目であるとおもう。

亀田は父の友人である大野家をおとずれる。大野家は那須妙子と関係があった。妙子は政治家の妾の身であったが、大野家の秘書の香山(千秋実)に持参金付きで結婚させるという話ができあがっていた。香山は大野の次女・綾子(久我美子)が好きであったがお金も必要であった。亀田の出現でこの仕組まれた動きが大きく変わっていくのである。

誰も見ぬけなかった妙子の心の中を亀田の純粋さが感じとっていた。妙子にとって同じ感性それは光であった。亀田は妙子の目と同じ目をおもいだす。処刑されるとき自分は助かるが処刑される前の若いまだ少年のような青年の目であった。自分はどうしてこんな苦しいめにあわなければならないのかと目は語っていたのである。その目と妙子の目が重なった。

この映画は非常に長くて2時間45分である。第一部が「愛と苦悩」、第二部が「恋と憎悪」である。妙子は亀田を選ばずに赤間を選ぶ。亀田は二人を追いかける。赤間は妙子の心が自分に無い事を知って亀田を殺そうと考えたこともあった。綾子が現れて亀田は綾子に恋をする。妙子への愛とは違うものであった。妙子はそれを感じていて綾子を天使として亀田を傷つけずに一緒になってくれる人として希望をもった。

しかし、綾子は妙子が亀田の理想の女性で自分と亀田の間に入って邪魔をする者と思われ、妙子と対決するのである。亀田の妙子に対する愛は、処刑の時何もできなかったあの青年と同じ妙子を傷つけないで救えないか、いや妙子の魂をじぶんが守り救わなければという愛であった。綾子への愛とは別物であった。

心のねじれは悲劇へと向かわせる。残った綾子は「私が白痴だったわ」とつぶやく。亀田の白痴は純粋さで、綾子の白痴はおろかという意味である。

出演者の個性がきわだっている。原節子さんの存在が強烈でそれでいながら心はガラスのように壊れやすく、いやすでに壊れていて、森雅之さんはそのかけらを集めて修復しようとしているようにもみえる。

この札幌のロケでは有島武郎さんの旧宅が使われていた。ロケをした家は1913年(大正2年)に建てられた家でこの家で森雅之さんは幼い頃を過ごしたことになる。『札幌芸術の森』に保存されている。森雅之さんが生まれたのが1911年で有島武郎さんの文学年表からすると、『北海道開拓の村』にある旧有島邸が森さんが生まれた家ということになりそうである。

映画のクレジットには美術工芸品提供がはっとり和光とあるのも興味深い。

ドストエフスキーの小説 『白痴』をもとにした玉三郎さん主演の映画がありました。『ナスターシャ』(1994年、アンジェイ・ワイダ監督)。これは映画館で観たのを思い出したがとらえられなかった。見直す予定なので、再度挑戦し納得したいものです。

映画『虎の尾を踏む男達』(1945年、黒澤明監督)は59分と短い。歌舞伎の『勧進帳』の映画化である。脚本は黒澤明監督。「虎の尾を踏む」は、長唄『勧進帳』の最後「虎の尾をふみ毒蛇の口をのがれたる心地して陸奥の国へぞ下りける」の詞からきているのである。安宅の関所をこえる時の義経一行の気持ちである。

弁慶(大河内傳次郎)、富樫(藤田進)、義経(岩井半四郎)、亀井(森雅之)、片岡(志村喬)、伊勢(河野秋武)、駿河(小杉義男)、常陸坊(横尾泥海男)、強力(榎本健一)梶原の家来(久松保夫)

強力の榎本健一さんの動き、表情、せりふがこの噺の軽さと世情を現わしている。音楽は服部正さんで、長唄の詞の一節を使って合唱にしたり、独唱や重唱などを挿入し映画の『勧進帳』を楽しめるようにしている。

安宅の関では梶原の家来を登場させ、勧進帳を読む弁慶と富樫の緊迫の場面を、弁慶と梶原の家来にかえ、勧進帳を読み終わる寸前でのぞきこもうとさせている。勧進帳を隠して巻き取る弁慶の優位性の雰囲気となる。

弁慶と富樫の山伏問答も簡潔にし富樫は関を通ることを許可する。そして「虎の尾を踏み~ 虎の尾を踏み~」と合唱がながれる。

そこへ梶原の家来が呼び留めて弁慶の義経を打つ。驚いて止めに入るのが強力である。何が起こったかわからないのである。その様子を見て富樫は家来が主君を打つはずがないと逃がす。

弁慶が義経にあやまるところで、強力がいう。そういうことだったのか。弁慶が気が狂ってしまったのかとおもったと。ここで初めて義経が顔をあらわす。十代目岩井半四郎さんは襲名したのが1951年なので本名の仁科周芳となっていてDVDなので(岩井半四郎)とクレジットされている。

そこへ富樫の家来がお酒を持参する。その盃に富樫氏の八曜紋が描かれているので、富樫は弁慶に対し、あなたの行動には感服したとの意があるのだろうと想像できる。

ここでの舞も強力がどじょうすくいをいれて陽気に踊る。そして弁慶がひとさし舞うと立ち上がって場面がかわる。見事な雲である。強力が酔って寝込んでいる。彼は目をさまし夢ではなかったのだと確信し、飛び六法で立ち去るのである。最初に観たときも面白いとおもったがやはり上手く作りあげられていると再度まいってしまった。

せっかくなので、歌舞伎の『勧進帳』(1997年・平成9年収録)のDVDも観る。映画で山伏に姿を変えているとの情報から弁慶が自分たちは艱難辛苦を通過してきたのだから作り山伏などではない。本当の山伏の姿だという。たしかにである。歌舞伎のほうは優美なつくり山伏なのが歌舞伎である。弁慶が團十郎さん、富樫が富十郎さん、義経が菊五郎さん、常陸坊が左團次さん、そして三之助時代の新之助さん、菊之助さん、辰之助さんである。

観慣れているのに、違う分野で観たあとのためか新鮮で、そうそうこうなるのであると一つ一つ確認する感じでしっかり堪能してしまった。長唄もたっぷりである。こういう交差も好いものである。

映画『武器なき斗い』『わが青春に悔なし』

映画『武器なき斗い』(1960年・山本薩夫監督)より14年前に映画『わが青春に悔なし』(1946年・黒澤明監督)を撮られているのだが、時代としては映画『武器なき斗い』は1920年代、『わが青春に悔なし』は1930年から1940年代までである。

武器なき斗い』は生物学者で政治家であった山本宣治さんが産児制限や農民運動などで貧しい人々に手をかし、政治家となるが右翼によって殺されてしまうのである。

メッセージの文が映し出される。「山本宣治は生物学者であった。いのちをかぎりなくあいしたが故に貧しい人々に深く同情し、抑圧する権力を憎んだ。山本宣治の意志は、平和と独立のために斗う日本人民の心の中に生きる。」

映画では、暗い雨の中、記念碑のような大きな石に向かって周囲を気にしつつ人々が何かをしている。これがよくわからなかったのだが、これは山本宣治さんのお墓の裏に「 山宣ひとり弧壘を守る  だが私は淋しくない  背後には大衆が支持いてゐるから 」と彫られているのだがそれを埋めてぬりつぶされるので農民たちがそれを削り取って字が見えるようにしているのであった。そういう弾圧もあったのである。

山本宣治(下元勉)は両親(東野英治郎、細川ちか子)が経営している京都宇治にある料亭「花やしき浮舟園」に妻子(渡辺美佐子)と住んでいる。

山本宣治は婦人たちを集めて避妊のことなどを教えて歩く。貧しい中で女性達の負担は大きく、女性達に自分で選ぶ権利をもってほしかったのである。婦人たちも知識がないため知りたいと思う。生物学者である山本宣治は静かに研究がしたかったが、小作人たちの生活をみていると地主の横暴に黙っていられず色々な法的知識も教えなくてはとおもう。農民たちが行動すればそれを手伝う。京都大学と同志社大学で教職についていたがそこから追われるかたちとなる。

次第に他の人から頼られ応援もあり労働農民党から国会議員選挙に出馬し当選する。治安維持法改正に反対する国会での質問をまえにして彼は東京に泊まっていた神田の旅館で右翼(南原宏治)に刺殺されてしまうのである。

地主制度は詳細には調べていないが小作人がいかに支配され耕作権が無視されていたかは想像できる。弁のたたない小作人に自分たちの意見を言えるように助け、何んとか理論的に守ろうとしたのが山本宣治であった。そして治安維持法が改正され貧しい人々やそれを応援しようとする人々を弾圧するとして国会で明らかにしようとしていたのである。

原作は西口克己さんの小説「山宣」で、西口さんは映画『祇園祭』の原作者でもあった。脚本は依田義賢さんと山形雄策さんで、依田義賢さんは映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(新藤兼人監督)を見直していたところなので発見が多い。

山本宣治さんの実家の「花やしき浮舟園」は今も旅館として残っている。これまた驚きであった。宇治には3回ほど行っているが平等院、宇治上神社、源氏物語などしか頭になかったので今回この映画を観てあの地でこういう闘争と関係があったのだと教えられた。

山本宣治役の下元勉さんはひょうひょうとして優しく大きな流れのなかで闘った闘志というイメージではなくかえって、進んでいくうちに次から次と道を見つけていきそれに従う芯を感じさせる。お母さんの細川ちか子さんが気丈で料亭を采配しつつ息子を応援する役どころが印象的である。

宇治川は色々な歴史を感じながら流れているのである。

この時代のあとにつづくのが映画『わが青春に悔なし』である。

字幕が映し出される。「満州事変をきっかけとして、軍閥、財閥、官僚は帝国主義的侵略の野望を強行するために国内の思想統一を目論見、彼等は侵略主義に反する一切の思想を”赤“なりとして弾圧した。「京大事件」もその一つであった。この映画は同事件に取材したものであるが、登場人物は凡て、作者の創造である。」

昭和8年(1933年)に京都大学の学生と八木原教授夫妻(大河内傅次郎、三好栄子)と娘・幸枝(原節子)が吉田山にピクニックにいくのどかな明るい場面から始まる。その学生の中に、野毛(藤田進)と糸川(河野秋武)がいる。二人は幸枝を意識している。

八木原教授は京大事件によって京大を追われてしまい、それに対して大学の弱腰に我慢できず野毛は行動を起こし検挙されてしまう。幸枝は糸川と結婚すれば平凡に安泰であろうが野毛と結婚すれば激動の人生を送らなければならないであろうと想像していて、野毛に魅かれつつも踏み込めなかった。野毛は刑務所から出て来て糸川と八木原宅を訪れる。野毛は変わっていた。

幸枝は親から自立し東京で暮らす決心をする。希望のない生活のための仕事であった。そして野毛と再会する。幸枝は悔いのない人生をおくりたいと野毛と結婚する。野毛は自分が陰でしている仕事を幸枝には教えなかった。ただ10年後には皆がわかってくれることをしているのだと語る。

野毛は再び検挙される。戦争妨害大陰謀事件の首謀者とされた。幸枝も警察に引っ張られるが彼女は何も知らなかったので留置所から出られるが、野毛は留置所で亡くなってしまう。

彼女は妻として野毛の実家におもむく。実家はスパイの家として村八分であった。彼女は農婦となり姑(杉村春子)と水田を耕す。それをみて息子を不名誉と想い物言わず動かなかった舅も水田に出て立てかけられたスパイとかかれたムシロを引き抜き立ち上がるのである。幸枝はそこに根を張り農村の婦人たちのためにも新しい風を送ることを決意する。

戦後、八木原教授も京大に戻り、講演する。野毛隆吉は今はいないがそこの椅子に掛けていた。諸君のなかから同じ志の人がつづくように自分はがんばるのだと。

大河内傅次郎さんの独特の言い回しは押さえられている。大河内さんの黒澤映画で思い出すのは『虎の尾を踏む男達』の弁慶である。藤田進さんは『姿三四郎』で黒澤監督ともども広く知られるようになった作品である。

原節子さんと言えば小津安二郎監督と原節子であるが、この『わが青春に悔なし』の前半の原節子さんは何とも言えない怪しい美しさがある。自分の心の迷いを現わしているのだが日本人というより外国人の表情を観ているようである。後半は農婦となりリアリズムに描かれていくがその差の幅が興味深い。小津監督の原さんとは違う魅力である。黒澤監督の『白痴』を見直したくなった。『わが青春に悔なし』の脚本が久保栄二郎さんで『白痴』の脚本が久保栄二郎さんと黒澤明監督の共同作業である。

原節子さんは、孤高の人というイメージが強いが、多くの監督の映画に出られていて俳優は監督の素材であるということに徹しられていたように思える。素材であるから生身は自分として生きる自由をもらいますといった分け目がはっきりしていた方のようにおもえるのである。

さらっと音楽映画

ピアノに引きよせられたので手もとの音楽映画をさらっと観なおす。映画『オーケストラの少女』(1937年)。ジュディ・ガーランド主演映画『オズの魔法使』(1939年)でのもう一人のドロシー役候補が『オーケストラの少女』の主人公役のディアナ・ダービンであった。

ディアナ・ダービンも愛らしい。娘のパッツィーは失業中のトロンボーン奏者の父を励ましつつけなげに頑張っている。父がお財布の入ったバッグを拾いそこからたまっていた家賃を払う。皆は楽団にやとってもらえたと勘違いし、父もそうだとウソをついてしまう。パッツィーは父のウソがわかりお金を返しに行く。落とし主の婦人は、音楽家の失業者が多いなら楽団を作ればいい、作ったら援助すると約束してくれる。パッツィーは父に話しみんなであつまり楽団を作るが夫人は気まぐれでヨーロッパに旅立っていた。そこからパッツィーの行動力に拍車がかかる。

実際の名指揮者レオポルド・ストコフスキーが出演し、演奏もたっぷり聴かせてくれる。望んでいた父たちの失業者のにわか楽団の指揮をストコフスキーが引き受けてくれる。パッツィーが歌う『椿姫』の「乾杯の歌」は見事である。誤解が誤解をうんで最終的には大成功というテンポのよさとパッツィーの活躍、そしてオーケストラの演奏を楽しめると言う音楽映画である。

昨年映画『ジュディ 虹の彼方に』が公開された。ジュディ・ガーランドの人生の終盤を描いたものである。内容は生活苦の中で子供を想う母親の姿などで同情的であったがもう少しジュディには堂々としていてほしかった。最後は感動的であったが。ジュディは『オズの魔法使』を撮影中から太らないようにとクスリなどで規制された生活であった。その体験がトラウマのようにジュディの心理的重圧となっている。ジュディに残されていたのは歌うことであった。ハリウッドの中でよく頑張り、ハリウッドを離れてからも彼女なりの歌う旅をよくつづけたと思う。

映画『月光の曲』(1937年)。ピアノコンサートが大盛況で終わる。その時小さな女の子が膝に乗せていた球形のキャンデー入れを転がしてしまい階段を下りてピアニストのそばまでくる。女の子の両親もそばに来て拍手しアンコールには「月光の曲を」と希望する。その両親とピアニストはかつて貴重な時間を共にしていたのである。その時のことをピアニストは周囲の人に語って聴かせるのである。

ピアニストは演奏旅行での飛行機が不時着し、ピアニストの友人ともう一人の男性乗客三人が近くの森に住む伯爵夫人の屋敷に滞在することになる。その屋敷には伯爵夫人と孫娘・イングリットと森を管理するエリックが住んでいた。偶然にも娘の両親はピアニストの月光の曲をきいて結ばれていた。しかし若くして二人は亡くなっていた。そして、イングリットとエリックもちょっとしたアクシデントが発生するが、月光の曲で結ばれるのである。

ピアニストは世界的ピアニストのイグナツ・ヤン・パデレフスキーが本人役で出演している。そのため演奏場面も本人であるがフイルムの保存が悪かったらしく映像も乱れ、最初の演奏場面は手と音楽が合っていない。今回は、観るよりも音楽のほうに気をつけていたので映像の悪さはそれほど気にせずに鑑賞できた。

映画『楽聖ベートーヴェン』(1937年)も同じ年の映画である。『月光の曲』ほど映像は乱れてない。ベートーヴェンの音楽への情熱を与えるジュリエットは他の人と結婚してしまう。しかしジュリエットはベートーヴェンへの想いを断ち切ることができなかった。ジュリエットのことを知りつつもベートーヴェンに友人として無償の愛をささげるジュリエッタの妹のテレーザ。ベートーヴェンは耳が次第に聞こえなくなり貧しさと絶望のはざまで作曲をつづけついに倒れ亡くなってしまう。

その場その場にに応じてベートーヴェンの音楽を耳にすることが出来る。

今年、2020年がベートーヴェン生誕250年の記念すべき年とのことです。