旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(1)

仲間たちが旧東海道歩きを始める前から、観光や、歴史の残っている町、大磯、小田原、三島などは行っていたのであるが、今回、加茂から岩船寺を経て浄瑠璃寺に行けることを知り、その途中の<亀山宿><関宿>を訪ねてから奈良に入る事とした。

名古屋からは、東海道新幹線か東海道本線で琵琶湖周辺を回っての旅が主で、関西本線は眼中になかったのである。これも、忍者の妖術のお蔭であろうか。仲間たちは、人数の揃わない時は単独でそれぞれが旧東海道を歩いているようである。私も単独で宿場巡りはすると伝えてあるので、情報を宜しくと言われている。

<亀山宿>で観光案内所に飛び込み、観光時間をはかる。次の電車の時間と町の様子から一時間半を取る。案内の方も<関宿>に比べると残っている町並みは少ないとのことである。

亀山宿と関宿のイラスト案内図と、亀山駅ぶらりマップをもらう。イラスト案内図に、<志賀直哉と亀山>とある。志賀さんの母が亀山の生まれで、志賀さんは若くして亡くなった母の面影を探し求め、この亀山に来ている。その時のことを、『暗夜行路』に描いているという。その場ではどうすることも出来ないので、先ず、亀山城跡を目指す。亀山城は、蝶の舞う姿にたとえられ<粉蝶城>とも呼ばれたそうであるが、今は多門櫓、堀、土居の一部が残るだけである。今の多門櫓は平成23・24年に修理されたわけで、志賀さんが訪ねたころはかなり朽ちていたのであろう。

彼は、亀山に降り、次の列車までの一時間半ばかりを俥で一通り町を見て廻った。亀山は彼の亡き母の郷里だった。それは高台の至って見すぼらしい町で、町見物は直ぐ済み、それから神社の建っている城跡の方へ行って見た。広重の五十三次にある大きい斜面の亀山を想っている謙作は、その景色でも見て行きたいと考えたが、よく場所が分らなかった。

 

その後、俥を鳥居の前に待たしてあるが、これは、多門櫓の下にあった亀山神社のことであろうか。謙作は、高台に上がり、掃除をしている婦人に母の実家の名前を言い尋ねるが、母のことは分らなかった。小説の中の主人公にとって、この部分はかなり重要であるが、そのことに触れると長くなるので止める。

主人公は、伊勢参りのあと亀山に寄っている。そして伊勢では古市に行き、「芝居で馴染みの油屋という宿屋に泊り」「伊勢音頭を見に行き」「古市の伊勢音頭も面白く思った」とある。芝居とは『伊勢音頭恋寝刃』である。今は古市には油屋もなく、大林寺に遊女お紺と孫福斎の比翼塚のお墓があるだけであるが、志賀さんの頃にはまだ油屋は残っていたわけである。

亀山の町は、志賀さんが訪ねた頃よりも整備され、古い物を残そうと頑張っておられる。亀山城は関氏の城下として発展し、東海道の江戸から数えて46番目の宿場町である。お城があるだけに明治に入って、廃城令により取り壊されているので、志賀さんが訪れたころは、見すぼらしく見えたのであろう。そして、母の昔の消息も分らなかっただけに、町の印象が主人公にとっては、良いものとして残らなかったのである。

宿の一部分の旧東海道も歩け、突然、46番目まで飛んでしまったが、江戸の旅人だけではなく、志賀直哉さんも訪れていたというので、記憶に残る宿場町になった。これを書くにあたり『暗夜行路』をパラパラめくってその部分を探し出したが、暗い。若さで読んでいたのであろうか。理解していたとは思えない。もう一回読み返したくもある。暗夜の路をもう一度。

亀山市歴史博物館が、駅から40分と遠いため、残念ながら詳しい歴史的なことは分らなかった。関宿に比べると、宿の道が、かなりジグザグである。地形的なものであろうか。関宿が1.8キロで亀山宿は2.5キロと長いが、本陣、脇本陣が各一軒で、紀行文にも「さびしき城下」と書かれているようである。今は広い道路が出来ているが、広重の絵のような地形だったのかもしれない。

『岡田美術館』にて芦雪出現

箱根の『岡田美術館』で、喜多川歌麿さんの<深川の雪>が再び公開とある。正直のところ、ここの美術館は入館料が高すぎる。交通費を入れると躊躇する。そのため前の公開のときは止めたのであるが、今回は、一度観ておけばいいのだからと訪れた。高いと思う気持ちは変わらないが、長沢芦雪さんに会えたのである。

歌麿さんと同時代の絵師としては次のような方がいる。江戸の歌川豊春、司馬江漢、谷文晁(たにぶんちょう)。京都の円山応挙とその弟子の長沢芦雪、呉春、伊藤若冲、。大阪の森狙仙。

歌麿さんの『深川の雪』は、『 品川の月』『吉原の花』(米国の美術館所蔵)との三部作の一枚である。深川、品川、吉原の地域がら、着物の色、柄などが、深川が一番地味である。自然は<雪>であるから、お盆にのせたり、手を伸ばしたり、炬燵に潜り込んだりと、様々な様相を体している。中の品物は綿入れの着物であろうか、大きな風呂敷包みを背負う使用人の姿もある。<雪>に反応する料理茶屋の女性たち一人一人が歌麿さんによって配置されている。女性達の下唇が青である。笹色紅(ささいろべに)といって、紅を厚く重ねて玉虫色に光らせる化粧法を表しているとのこと。『品川の月』と『吉原の桜』のレプリカもあるので、比較できたのはよかった。

二階のこの展示室に到達する前に、一階展示の陶磁器などを見なくてはならないので、休憩と食事がしたくなる。入場券さえあれば、一日出入りできる。食事は一旦外にでて、美術館関係の食事どころ利用となり、そこを利用したが、メニューがすくないので、お隣の「ユネッサン」のレストランを利用するのも手である。雨模様だったので、庭園はやめたが、入園料がいる。足湯もあるが、有料である。美術館の中で、ほっとできる場所がない。

小田原で、限定公開の桜の見どころに寄ろうと思っていたが、雨でもあるし、この美術館一つと決める。貴重品のみ、携帯などは持ち込み禁止である。入場するとき、空港のような検知器を通らなければならない。出足の気分としては降下する。展示室には係り員がいないので、全てカメラで監視しているのであろう。食事場所が外なので、再入場となり、再び検知器を通る。こういう雰囲気の美術館が増えることを懸念するが、神社仏閣に油をかけるような犯罪が起こると、自由に見学できたものも規制されることにもなりかねない。自分も自由に見学できている立場を考えてほしいものである。

三階の展示室で、歌麿さんと同時代の絵師に会える。その中の芦雪さん、やはり楽しい。応挙さんの小犬の絵は可愛い。東京国立博物館での杉戸に描かれた「朝顔狗子」が最初の出会いであろうか。岡田美術館にもグッズとなっている「子犬に綿図」がある。その師匠の絵を手本にしたと思われる芦雪さんの「群犬図屏風」がある。この作品の芦雪さんの印が<魚>でないので、師匠を模して描かれた頃のものと判断されている。

応挙さんの犬と同じように愛らしいのであるが、構図が芦雪さんらしい。左に母犬がいてそのそばに子犬が戯れ、真ん中ほどに二匹の犬が優しい眼差しを、さらに右手の一匹の犬に向けている。二匹の犬が声をかける。「どうしたの。こっちへおいでよ。遊ぼうよ。」右手の犬は、他の子犬に比べると黒の斑の部分が大きい。足はしっかり止めていて、「でもさ、僕は自分の道を探しに行くよ。」と言っているようである。そんな会話を観る者が創作できる絵なのである。芦雪さんの絵はそれが魅力である。

もう一つは「牡丹花肖柏図屏風」で、辺りは淡く夕焼けに染まり、牛に乘った人物がゆったりと夕焼けを眺めている。牛はこちらにお尻を向けていて、この人物は牛を後ろ向きに乘っているのである。牛の頭には牡丹の花が載せられ、牛の顔は見えない。この人物は室町時代の連歌師の肖柏で出かける時はいつも牛に乘ってでかけ、号を<ぼたん花>ともいったそうである。のんびりユーモアあふれる夕景である。「良い夕焼けですね。一句出来そうですか。」「いやいや、こういう風景には言葉は無力です。」

呉春さんは、司馬遼太郎さんの短編集『最後の伊賀者』の中に『蘆雪を殺す』と一緒に『天明の絵師』として入っていた。小説では、呉春さんは与謝蕪村さんに弟子入りし、蕪村さん亡きあと、応挙さんのもとにいき「四条派」として繁栄する。蕪村さんの娘のお絹さんは「あの人は、器用だから。」と感想を述べている。呉春さんの作品はそつのない絵ともいえる。蕪村さんは生きているうちは認められなかった方である。小説のなかでは、当時の「千金の画家」として、応挙さん、若冲さんなどをあげている。さらに最終では、次のように記されている。

とまれ、蕪村は現世で貧窮し、呉春は現世で名利を博した。しかし、百数十年後のこんにち、蕪村の評価はほとんど神格化されているほど高く、「勅命」で思想を一変した呉春のそれは、応挙とともにみじめなほどひくい。

 

呉春さんは、京都の金福寺で師の蕪村さんと隣り合って眠っているという。金福寺は、『花の生涯』の村山たかさんのお墓があるのに驚いたのと、お庭の紫と白の桔梗の清楚さしか記憶に無い。蕪村さんは、芭蕉さんを敬愛されていた。近江の義仲寺にある<無名庵>の天井絵は若冲さんである。

サントリー美術館で、『若冲と蕪村』を開催している。同じ年齢とか。面白い企画である。

岡田美術館には四時間ほど居たであろうか。ここの美術館は時間がかかると思ったほうがよい。人もほどほどでゆっくり鑑賞できた。個人的には、色々なつながりの作品が見れて満足ではあった。

もし、いつか再度訪れるとすれば、講演会のある時などを考慮して訪れるかもしれない。お天気がよければ、<曽我兄弟の墓>のバス停から<六地蔵>バス停までぷらぷら歩きたかったのであるが、次の機会である。

串本・無量寺~紀勢本線~阪和線~関西本線~伊賀上野(2)

 

 

 

 

伊賀上野(忍者と芭蕉の地)(5-1)

道成寺・紀三井寺~阪和線~関西本線~伊賀上野 で、加茂からの岩船寺~浄瑠璃寺への道程を見つけて、まずいと書いたが、その二日後には歩いていた。そうなるであろうと、まずいと思ったのであるが、旅は良好であった。その旅は置いておいて伊賀である。

そもそも<忍者>に引きずられたのは、 熊野古道の話題増殖 『RDG レッドデータガール』からである。次に来たのが、作者は植物について書きたかったと思われる忍者の小説があるという誘いで、借りてしまった『忍びの森』(武内涼著)。自分では選ばない本である。妖術はきらいなのであるが、妖怪、妖術が出てくる。確かに、植物が出てくる。忍者の存在する時代は、全て自然を利用しての生活である。手裏剣も、原料は自分たちで見つけ出し、忍者の集合体によってその使い勝手で制作して工夫したであろう。薬も保存食料も、その保存方法も考えだしていったのである。そういう点を踏まえると、植物にこだわるというのは納得できるが、こちらがその知識がないから読むのに苦労した。

先ずは、そもそも忍者とか、その歴史が解っていない。伊賀は、信長の伊賀攻めによって大打撃を被ったという事も知らなかった。小説の展開も、仲間なのか敵なのか、どんな妖術を使うのか、どいう戦いとなるのか、誰がやられてしまうのか、頭の中はフル回転である。仏教や仏像の解釈も出てくる。人としての情も出てくる。そいう意味では、頭の中の使わない部分を動かされた感じで面白くはあった。

そんなこんなから、今回の旅の最終は伊賀上野の上野市を訪れることとなったわけである。観光を調べたら、何んと<伊賀越資料館>というのが出て来た。昨年12月に観た国立劇場『伊賀越道中双六』のラストの現場である。「伊賀上野の仇討ち」であるから当然であるが、鍵屋ノ辻にある茶屋萬屋で待ち受け仇を討ったのである。<鍵屋の辻>にこの<伊賀越資料館>がある。茶屋萬屋の代わりに今は<数馬の茶屋>となっている。全然頭になかった。上野市駅から歩いて20分である。

さてどう回るか。開館時間を考慮して、上野城は中に入らず外からその姿を楽しみ、日本一とも言われる石垣の高さを上から下へと見下ろし、横からも眺める。確かに凄い。お城も美しい。

 

上野城

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そこから、芭蕉を讃える<俳聖殿>へ進み、外から眺める。檜皮葺の茸のような屋根は笠を表し、建物自体を芭蕉の姿に見立てて作られている。

その後、一番開館時間の早い<芭蕉翁記念館>へと移動。旅行地のどこへいっても芭蕉の歌碑があり、食傷気味であったが、「企画展 俳諧と絵画ー見て愉しむ俳句の世界ー」を見、係りのかたとお話ししたら、違う面の芭蕉が見えてくる。芭蕉は弟子の許六に絵を習ったとある。弟子に絵を習ったというところが気に入る。俳聖と言われているのに、身体を風が通っていく感じいい。死んだら自分の亡骸は義仲寺にと遺言を残し義仲の隣に眠っている。義仲寺に行ったときから疑問であった。木曽義仲のことが好きだったのであろうか。係りのかたは、木曽義仲なのか、義仲寺の周囲の自然だったのか、両方だったのか、解かりませんと。そう、芭蕉さんには二面性というか、こうであるという規制できないところがある。今回はそこが気に入った。

<忍者博物館>。忍者がどうやって城内に忍び込むかとか、道具などをどう使うかなどがわかる。基本的に情報を収集するのが仕事である。忍者は普段は、農民として働いていて仕事の依頼があれば忍者として働くのである。『忍者の教科書』というのがあったので購入してきた。伊賀・甲賀に伝わる忍術書『萬川集海(まんせんしゅうかい)』なるものを、解かりやすく伝えてくれている。一回読んだだけでは、無理だが、疑問に思ったとき読み返せば手助けしてくれそうである。司馬遼太郎さんの短編小説『芦雪を殺す』は、短編集『最後の伊賀忍者』の中に入っていて、司馬さんの忍者物に触れるきっかけともなった。

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上忍と下忍があるのは知っていたが、司馬さんは、上忍は下忍を仕事先に派遣する派遣業とし、下忍が、過酷な修業によって身につけた技であるにも関わらず、報われない仕事と客観視されている。現代に通ずる組織論と、忍者の技の見せ所の二律背反が面白い。

こういう剣術であったというのとは違い、その技は、風の如く伝えられている。表には出ない忍者らしいところであり、想像過多で創作できるのも忍者物ならではである。こうなると、山田風太郎さんも読まねばならないか。友人に、「風太郎さんまだ読んで無いの?」と軽く聞かれた。読んでません。忍者なんてと思っていたのであるから。忍者を<草の者>という言い方があるが、この呼び方のほうが、儚さを感じさせる。しかし、過酷な仕事である。

 

2015年4月6日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

森鴎外と『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』

森鴎外の小説『青年』は、田舎から出て来た文学青年が主人公である。

小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行きの電車に乗った。

 

この<東京方眼図>は、鴎外が考案したものである。 『永井荷風展』 (1) 『青年』には、夏目漱石や森鴎外自身をモデルとした作家も出てくる。文学青年たちは、拊石(漱石)と鴎村(鴎外)を比較して、拊石が教員をやめただけでも、鴎村のように役人をしているのに比べると、よほど芸術家らしいかもしれないなどと論じている。

純一は拊石の物などは、多少興味を持ってよんだことがあるが、鴎村の物では、アンデルセンの翻訳だけ見て、こんなつまらない作を、よくも暇つぶしに訳したものだと思ったきり、この人に対してなんの興味も持っていない・・・

 

この青年たちは、拊石のイプセンの講演を聞きに来ているのである。拊石はイプセンについて話し、最後は、イプセンは「求める人であり、現代人であり、新しい人である」と締めくくる。純一は、この<新しい人>について考え仲間と論じ合う。当時の青年たちが、イプセンに強く惹きつけられていたということだけにして、これ以上深入りするのは止める。その後、純一は有楽座に『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を、観に行くのである。

十一月二十七日に有楽座でイプセンのジョン・ガブリエル・ボルクマンが興行せられた。これは時代思潮の上からみれば、重大なる出来事であると、純一は信じているので、自由劇場の発表があるのを待ちかねていたように、さっそく会員になって置いた。

 

ここからは、純一が観劇した様子の描写となるが、この芝居の対する感想なり批評はない。観劇にきた女性達の様子と、青年の眼に映る舞台の様子が書かれているだけである。ただ、イプセンとシェイクスピアやゲーテと比較している部分がある。

しかしシェエクスピイアやギョオテは、たといどんなにうまく演ぜられたところで、結構には相違ないが、今の青年に痛切な感じを与えることはむずかしかろう。

 

このあたりに、『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の翻訳者としての森鴎外さんの気負いが感じられる。

芝居としては、『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』より、『ソルネス』のほうが面白かった。

 

熊野古道の話題増殖

<熊野古道>の話題が増殖している。歌舞伎座12月 『雷神不動北山櫻』(2) で、く熊野古道>に触れたが、他の仲間からある本を紹介される。『RDG レッドデータガール』(荻原規子著)である。RDB<レッドデータブック>というのがあるらしく、何かというと、絶滅のおそれのある野生生物の情報をとりまとめた本ということである。<レッドデータガール>は、それにかけて、特殊な能力のある少女を周囲が守っていくというファンタジー小説らしい。

その主人公の少女・泉水子(いずみこ)の育てられた場所が、玉倉神社で、熊野から吉野への大嶺奥駈道(おおみねおくがけみち)と呼ばれる修験者の道に沿っているのである。おそらくこの玉倉神社は、玉置山にある玉置神社がモデルと想像するのであるが。この小説は全6巻あるらしいが、主人公はこの後、東京の高校に進学するということで、熊野の様子の出てくる1巻のみを借りることにしたのである。途中であるが、泉水子を助けるであろう中学三年生男子の深行(みゆき)が登場し、中一の時、羽黒山で蜂入りをはたしたとある。羽黒修験の行を済ましたらしい。今年の夏 慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡 を訪れていて、羽黒山で蜂子皇子の尊像を拝観しているので、次第にはまってきている。

本の内容を聞いていると、陰陽師も出てきて、戸隠も関係し、歌舞伎関係の人も登場するらしい。一応は、1巻だけとしているが、読後状況によっては次も借りることになるかもしれない。彼女も春には熊野に行く計画なので、ではということで、『熊野古道殺人事件』(内田康夫著)を貸すことにする。

私はファンタジーやSF物は読んでいないので、何からそちらに入ったのかを聞いたところ、子供用に書かれていた『古事記』で、あれはまさしくファンタジーであるという。となれば、スーパー歌舞伎の『ヤマトタケル』のDVDを貸してみようと思う。

『陰陽師』は、歌舞伎でも上演されている。歌舞伎座 『九月花形歌舞伎』 (2) 彼女が夢枕獏さんの『陰陽師』を読んで気にいっていたところは、安倍清明(あべのせいめい)と源博雅(みなもとのひろまさ)との絶妙な関係だという。それは、解かる。安倍清明の染五郎さんと源博雅の勘九郎さんの受け答え、やり取り、台詞のキャッチボールが何とも言えない二人の繋がりを描いてくれたのである。原作が読みたくなる。安倍清明が博雅を「おまえはいい男だ」というのであるが、この<男>が<漢>と記されていて<おとこ>と読むのだそうである。漫画などではよくでてくるらしいが、私はまだ目にしていない。

それから『ターザン』の話しが出て、原作者のエドガー・ライス・バローズに飛ぶ。自分とは違う世界観に浸っていて、話しも微に入り感心してしまう。面白さの壺は、それぞれの感じ方の壺である。入り込んでいるが、かなりのこだわりもあり客観的でもあるので、突っ込んでも面白い回答が帰って来る。さらに、固定化されている部分があるので、私はそうは思わないと言っても一向に構わないのが楽である。ただ原作にあたっていない分こちらは不利である。

熊野は道が沢山あり、電車とバスを使っての旅は頭を使う。行った友人の話を聞き地図をみて、歩く距離と時間を検討し、そこへバスの時間を組み込んでとやっていると、松本清張の推理小説的頭の体操となる。準備体操段階で疲れてしまう。

つづき→     美・畏怖・祈りの熊野古道 (那智山) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

大阪と江戸

司馬遼太郎さんの文『政権を滅ぼす宿命の都』は、色々な面で疑問だったことにこたえてくれた。『政権を滅ぼす宿命の都』とは<大阪>を指している。摂津ノ国を大阪に入れるとして、京から摂津沿岸への福原遷都を試みたのは平清盛である。中国との貿易を考えてであったが、清盛の死によって都が京都に戻されてしまう。

その後、大阪湾を根拠地としたのは、蓮如である。蓮如は親鸞の血筋であり、「つまり本願寺は親鸞によって興ったのではなく親鸞の教団否定の遺訓を無視してこの宗祖の名をかつぎまわった蓮如によって興ったのである。」蓮如は妻帯僧で六、七十人の子がありそのうち二十七人は成人したと言われているらしいが、これくらいの体力がなければ、全国組織を完成させられないとしている。この蓮如が根拠地とした石山本願寺の石山城は、大阪城の基である。

この石山本願寺と対決したのが、信長である。十数年の武力闘争の結果、本願寺は紀州へ退く。信長は石山城を手に入れる。「蓮如が発見し信長が再発見した大阪は、なるほど甫庵(ほあん・医者として関白秀次につかえた伝記作者)がいうように宝石のような土地であるかもしれないが、ここに腰をすえようとした権力は不思議に薄命である。」大阪を手に入れた二年後に信長は本能寺で亡くなる。

その後が秀吉である。秀吉は長浜城や姫路城に帰らず大阪城を築城するのである。そうであったのか。どうして大阪城のなかに石山本願寺があったのかと疑問であった。石山本願寺の後が大阪城なのである。しかしこの大阪城も秀吉の代で終わってしまう。そのことから<政権を滅ぼす宿命いの都>とは大阪のことを指したのである。

江戸は、家康が秀吉から与えられたもとは北条氏の領土、二百五十万石である。当時の家康の領土は三河、遠江(とおとうみ)、駿河を合わせても百万石である。しかし、政治の中心から離れている未開の土地である。秀吉は家康に城は、江戸に築くようにと薦める。司馬さんによると、秀吉は関東で東京湾北岸に江戸という漁村を発見していて、こここそが、関八州の鎮府にふさわしいと考え、家康も江戸に入部し納得したが、水の獲得に苦労させられたとある。 「大阪をお輿し、さらに江戸を発見してこのふたつの都市を日本の東西文化の二大頂点にした最初の着想者は秀吉であった。経済にせよ、こういう点にせよ、近世日本の骨格をつくったのは秀吉であり、家康とその後の徳川政権はそのみがき手であったにすぎない。」「徳川政権は政治を江戸へもって行ったが、経済だけは大阪にのこした。」大阪と江戸の役目が別になったのである。

司馬さんは連れの方と大阪城から高津ノ宮を通り聖徳太子のたてた四天王寺まで歩いて、夕陽ケ丘に立って茅渟(ちぬ)ノ海に落ちる夕陽をながめている。しかし「芭蕉もここであそび、名句をつくった。が、いまは茶屋もない。媒霧で、夕陽もない。」と書かれている。 織田作さんに誘われて歩いたところが、大阪と江戸の話につながるとは、楽しい。

そして、『芸十夜』(坂東三津五郎・武智鉄二)の<十夜>にも四天王寺のことが出てくる。『摂州合邦辻』の俊徳丸の日想観にふれていて、<四天王寺は日想観のためにできたんですからね>と強調されているが、詳しく説明がないので、床本を読まなくてはならないが、どうも国立劇場の上演の時、俊徳丸の日想観の部分を削ったということではないかと思う。日想観とは、陽の沈む方向にある浄土を想う心といったことであろうか。これは、何かの折りに調べてみたい。日想観の有無は俊徳丸を理解するうえで重要なことのようである。

<合邦庵室の段>の最後、床本によると「仏法最初の天王寺、西門通り一筋に、玉手の水や合邦が辻と、古跡を留めけり」とある。

検索してみると「摂州合邦辻閻魔堂西方寺」とある。ここもピンを指しておこう。

 

『文楽の人より 吉田文五郎』(織田作之助)

織田作さんの芸道ものである。実在された文楽の吉田文五郎さんが自分で語るかたちで書かれている。文楽の人形遣いの師匠の厳しい指導と、76歳になって振り返っての感謝の気持ちとを語りつくしている。

大阪では良家の坊ン坊ンでない限り、子供のころから奉公に出るのが当たり前で文五郎さんも11か12の時奉公に出る。しかし辛さもあって奉公先を23軒も変えている。父親も商売がうまくいかず、文楽座の表方の手代のような仕事についていたので、最終的には、文楽座の吉田玉助さんに弟子入りする。三年下働きをして、次が黒衣(くろこ)を着て足遣いである。

「足遣いは主遣いの腰に身体をすり寄せて、右腕をその腰に当てるようにして置いて、主遣いの腰のひねり方ひとつで、ああ、右足を出すのんやな、左足を出すんのやな、座るのんやな、うしろ向くんのやなと、その時その時に悟るんです。」

玉助さんの父親・玉造さんが戻り駕籠の浪花次郎作を遣ったとき足遣いをして、四日間舞台下駄で蹴られ、血が流れ肉がはみ出し、文五郎さんは決心する。

「・・・ポンポン蹴られてたまるかい、こんど蹴りやがったら、もう師匠とも親玉とも思わんぞ、こっちも蹴り返して、逃げてこましたろ」こない決心して、次の日は、親の仇討に出る気持ちで、うんと力こめて、血相かえるくらいにして遣いました。すると玉造はんは、「よっしゃ。でけた」と、こない小声で言うて眼で笑うてくれはりました。びっくりしました。その時の気持ちは、なんともかともいえん嬉しゅうおました。・・・きっと極まる場所が、毎日一分一厘も狂いまへん。・・・それをわてがええ加減なところで足を極めようとしたんでっさかい、怒りはったんです。」

そして師匠の修行時代の話も語ってもらい文五郎さんは、60年間一筋に人形遣いの道を歩くのである。

「贅沢な暮らしみたいなもんしよ思ても一日も出来まへなんだ。考えてみたら暗い道だした。けど、その暗い道を阿呆の一つ覚えに提灯とぼして、とぼとぼ六十年歩いて来ましたんだす。」

織田作さんは、文五郎さんに作品の中で淡々と驕ることのない語り口で語らせ、提灯の灯りをつける思いがあったからこそ灯りもついてくれ、足元を照らしてくれた事を伝えてくれる。

『芸十夜』(八代目三津五郎・武智鉄二対談)の芸七夜には、文五郎さんのことも話されるが、文五郎さんよりも栄三さんのほうがお二人は上手いと思われている。栄三さんは眉間に傷があったそうで、修業の傷であろう。「喜内住家」(太平記忠臣蔵講釈)で忠義のために夫・重太郎が子供を殺してしまうが、この重太郎のような役の時は泣かないでは人形を遣えないが、「それが顔出してると泣けませんので、泣かんと遣うてますから、あきまへん」とある。武智さんは、写真家・土門拳さんの写真に栄三さんの「重太郎」が子供を殺す瞬間に涙を流しているものがあるという。栄三さんのは見ていないが、文五郎さんの「寺子屋」の千代を遣われている写真などの千代はとても美しい形になっている。

信州の佐久穂町にある「奥村土牛記念美術館」に文楽人形があって、係りの方に尋ねると、文五郎さんが使われていたものですと教えてくれた。土牛さんは、「文楽人形(お染)」(昭和29年)を描かれていて美術書には「お染のカシラとしてごく古いものという。頭の格好、顔の彫の深さなど、今出来のものと別の感じがする。文五郎が使ったものと聞いた。」とある。おそらく記念美術館にあった文楽人形が描かれた人形と思う。土牛さんは大変気に入っていたようである。絵は、お染の横向きの上半身で、顔の白さと赤を基調にした鹿の子の着物と帯で、後ろから遣われるため身体はふくよかで厚みがあり、人に支えられないときの人形の意思が感じられる。人形で動けないのに、動かすならきちんと遣ってくださいなとでも言いそうである。やはり飾ってながめる人形や抱く人形より遣う人形のほうが手強そうである

 

 

歌舞伎座 八月納涼歌舞伎 『恐怖時代』 

谷崎潤一郎作『恐怖時代』は、伝説となっている武智歌舞伎の武智鉄二さんの演出で評判をとった演目である。今回、武智さんの名前が出て、『坂東三津五郎・武智鉄二対談 芸十夜』を読み返せたのが収穫である。収穫といっても解ったわけではない。わからないのに最後までワクワクして読み進めたのである。

一例をあげてみる。

武智 「喉の音というのは、おなかに力が入ってて、おなかと喉の間に三尺ほど空間がないといけないんで、そうしないと喉の音づかいはできないですね。つまり力を入れないで、力がこもっているという音ですね。」 これは浄瑠璃の<音づかい>の事の話であるが、こちらは、浄瑠璃の<音>も<節>も解らないが、とても大切な事なのだということはわかる。さらに、歯に当てる音、顎の音の説明がある。そんな音があるのかと驚いてしまう。そして、これが聞き分けられたら違う世界が開けるような気にさせられる。到達できない世界であるが、まだ先にそいう世界があると思うだけで楽しいのである。

八代目三津五郎さんであったからこそ、対談が可能となったのであろう。『恐怖時代』の話も出てきた。 八代目三津五郎さんが、お父さん(七代目三津五郎さん、守田家から養子に入られた)に誰を相手に芝居をしているのかと尋ねると、死んだ人と答えられる。「それはうちの親父(守田勘弥)と、堀越のおじさん(団十郎)と成駒屋のおじさん(芝翫)と、寺島のおじさん(五代目菊五郎)と、この人達が後ろで見てると思ってやってるんだ。そうするとお客なんざァどんなお客だって平気でやれるし、怠けるなんてことはできませんよ」と答えられる。

それを受けて武智さんが言われる。武智「武智歌舞伎のときがそうでしたね。みんな下手なのはわかっているから、とにかく一生懸命やろうということでね。僕が一番それを感じたのは、神戸で「恐怖時代」なんかやったときに、初日は百人くらいしか来てないんだ、広い劇場に。三津五郎「八千代座でしたね。」武智「二日目は半分ぐらい、三日目は満員で、四日目はもう立見ですよ。」

長くなったが、武智歌舞伎『恐怖時代』が評判を呼んだ様子を話されている。

何が恐怖なのか。場所は江戸深川の大名屋敷。大名・春藤采女正(うねめのしょう)の愛妾お銀の方は元芸者であり、家老・春藤靱負(ゆきえ)と女中・梅野と共謀し懐妊している正室の毒殺を企てる。お銀の方にはすでに照千代という一子がいるが、靱負との間にできた子である。照千代に家督を継がせるための計略である。ところがお銀の方には夫婦になる約束をしている相手がいる。小姓の磯貝伊織之助である。

お銀の方は芸者時代からの知り合いの医者・細井玄沢に毒薬を頼み、毒薬を受け取るとその毒薬で女中・梅野を使い玄沢を殺してしまう。正室に毒薬を飲ませる係りには茶坊主・珍斎を選ぶ。珍斎の娘・お由良は、お銀の方一派の企みを知り証拠を掴みたいとおもうが、父の前で殺されてしまう。珍斎は臆病もので、自分の命だけを守る男である。

采女正の家臣二人はお銀の方が春藤家を脅かすとして、采女正に進言するが聞き入れられず、伊織之助によって斬り捨てられる。この時、初めて伊織之助は、姿形とは違う剣の達人の顔を見せる。さらに、主人の采女正が、自分の嗜好にまかせた生き方で残虐性と血を見て喜ぶといった異常な性格である事も露見する。喜ぶ采女正は伊織之助と梅野の真剣勝負をお銀の方の前で命じる。伊織之助に好意を寄せていた梅野は、伊織之助に斬られてしまう。

そこへ正室の毒殺が告げられ、珍斎が引っ立てられる。ほくそ笑むお銀の方。戻った珍斎の腕のなかには照千代の首が抱かれていた。采女正はお銀の裏切りを知ったのである。お銀の方を切り捨てようとする采女正を、伊織之助は「ばかものめが!」と一言いい、采女正を一刀のもとに斬り捨てる。そして、伊織之助はお銀の方に共に差し違えて死のうと告げ、二人は差し違えるのである。

沢山の屍の中から起き上がる人間がいた。自分の命だけ助かることしか考えていなかった珍斎である。

どちらを見ても恐怖の世界である。その中で、美しい小姓の伊織之助は、剣の力によって恋を全うするのである。この恐れる事の無い一貫性が、観るものに摩訶不思議な美しさを見させてくれる。采女正を斬るところなどは、他の人々の怒りをも伊織之助が代弁しているような爽快さである。しかし伊織之助は自分とお銀の方との恋の成就のことしかないのである。悪の中で、別の種類の悪が輝くのである。

その世界にあっての珍斎。もう少し何かが欲しかった。こちらがそれが何であるか解らないもの。それを感じさせて欲しかった。

展開としてはスムーズで意外性もあり、登場人物の役割も解り、采女正が特異な人間としての設定も、異質な芝居として面白かった。

 

谷崎潤一郎作/武智鉄二演出・斎藤雅文演出/お銀の方(扇雀)、磯貝伊織之助(七之助)、茶坊主・珍斎(勘九郎)、細井玄沢(亀蔵)、梅野(萬次郎)、春藤靱負(彌十郎)、春藤采女正(橋之助)、珍斎の娘・お由良(芝のぶ)

 

 

織田作さんの『蛍』 (小説・演劇・映画)

織田作さんの『蛍』は、映画、舞台になっている。

小説では、主人公登勢は両親に死に別れ、彦根の伯父に引き取られ、十八のとき伏見の船宿の寺田屋に嫁ぐ。寺田屋は後妻の姑・お定が仕切っており、そのお定は頭痛を言い訳に祝言の席にも出てこない。  「そんな空気をひとごとのように眺めていると、ふとあえかな蛍火が部屋をよぎった。祝言の煌々(こうこう)たる灯りに恥じらう如くその青い火はすぐ消えてしまったが、登勢は気づいて、あ、蛍がと白い手を伸ばした。」 夫の伊助は、病的な潔癖症であり姑はすぐに病で寝たきりとなる。お定は寺田屋の家督を娘の椙(すぎ)に継がせたかったがそうならず、椙は好きな男を追い家を出てしまう。登勢はひたすら働く。あるとき赤子の鳴き声がし、登勢はその捨て子をお光と名づけ育てる。お光が四歳のとき千代が生まれ、姑は亡くなる。 「蚊帳へ戻ると、お光、千代の寝ている上を伊助の放った蛍が飛び、青い火が川風を染めていた。あ、蛍、蛍と登勢は十六の娘のように蚊帳中をはねまわって子供の眼を覚ました」 登勢は今度は女の子を産み、浄瑠璃を習い始めた伊助は、お光があってお染がなかったら野崎村にならないと、お染と名付ける。お染は四歳のとき疫病で亡くなり、お光は実は椙が実家に捨て子した子で、自分の子をむかえに来たと言って連れ去ってしまう。

間もなく登勢は京の町医者の娘お良を養女にする。世の中は騒がしくなり、寺田屋で薩摩の士が同士討ちとなり、逃げた登勢の耳に<おいごと殺せ>という言葉が残った。 「有馬という士の声らしく、乱暴者を壁に押さえつけながら、この男さえ殺せば騒ぎは鎮まると、おいごと刺せ、自分の背中から二人を突き刺せ、と叫んだこの世の最後の声だったのだ。」 やがて、薩摩屋敷から頼まれ坂本龍馬をあづかる。伊助は京の寺田屋の寮にしばらく移ることにした。奉行所の一行が坂本を襲って来た時、お良は裸のまま浴室から飛び出し坂本にその急を知らせた。このお良を坂本は娶って、二人は寺田屋から三十石船に乘り長崎に旅立った。翌日には、登勢の声がした。 「それはやがて淀川に巡航船が通うて三十石に代わるまでのはかない呼び声であったが、登勢の声は命ある限りの蛍火のような勢一杯の明るさにまるで燃えていた。」

淡島千景さんの最後の舞台となったのが、平成22年の<劇団若獅子>の『蛍火ーお登勢と龍馬ー』の舞台でお登勢を演じられた。織田作之助/原作(「蛍」より)で脚本は土橋成男さん、演出は<劇団若獅子>代表も笠原章さんである。題名からも分かる通り、お登勢と龍馬に焦点をあて、お登勢は龍馬の進むべき道に自分の心意気を託すような形となる。淡島さんは、すでに高齢であったが、培われてこられた身体の動きを凛として見せ、まさしく青い光をはなたれておられた。椙が恋人の五十吉を追いかける場面で蛍が飛び立つ。寺田屋騒動の場面を出し、お登勢が有馬を抱きかかえ最後を看取るかたちにしている。そして、龍馬がお良を連れてきて、寺田屋の養女にと頼む。お登勢の龍馬への想いも描かれ、最後の別れのあとの蛍だけが美しく輝くのである。

淡島さんは映画『蛍火』にも出られている。監督・五所平之助さん/脚本・八住利雄さんである。映画は観ていないのであるが、花嫁衣裳の淡島さんが手を広げると蛍がその手の内にある場面はみている。インタビューで、織田作さんの作品の事を聞かれ「作品が短いので、色々な思いを込めれるのではないでしょうか。演じていて面白いです。」と答えられていて、その通りであると思った。

この作品<前進座>でも公演していて、脚本は八木隆一郎さんである。「蛍」の題名で、脚本を読むことが出来た。お杉がお光を連れ戻しに来た夜蛍が飛んできて、伊助が祝言の夜の蛍を捉まえようとしてお登勢が手を伸ばした思い出をお登勢に話しかける。お良は養女になっていて、寺田屋騒動も伊助とお登勢の話の中で出てくるだけである。竜馬が登場し、ここが竜馬が死んだという寺田屋なのですなあと語る。竜馬を挟んでお登勢とお良の微妙な心の揺れがあり、竜馬とお良が去った後、伊助とお登勢の前に蛍が飛んでくるのである。

それぞれの捉え方で、舞台になり映画にもなっているのである。

 

『木の都』 織田作之助著

「大阪は木のない都だといわれているが、しかし私の幼児の記憶は不思議に木と結びついている。」

「試みに、千日前(せんにちまえ)界隈の見晴らしの利く建物の上から、はるか東の方を、北より順に高津(こうづ)の高台、生玉(いくたま)の高台、夕陽丘(ゆうひがおか)の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさをしんと底にたたえた鬱蒼たる緑の色が、煙と埃に濁った大気のなかになお失われずにそこにあることがうなずかれよう。」

「上町に育った私たちは船場(せんば)、島ノ内(しまのうち)、千日前界隈へ行くことを「下へ行く」といったけれども、しかし俗にいう下町に対する意味での上町ではなかった。」

「町の品格は古い伝統の高さに静まりかえっているのを貴(とうと)しとするのが当然で、事実またその趣きもうかがわれるけれども、しかし例えば高津表門筋や生玉の馬場先(ばばさき)や中寺町のガタロ横丁などという町は、元禄の昔より大阪町人の自由な下町の匂いがむんむん漂うていた。上町の私たちは下町の子として育ってきたのである。」

「「下へ行く」というのは、坂を西に降りて行くということなのである。数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂(あいぜんざか)、口縄坂・・・・と、坂の名を誌すだけでも私の想いはなつかいさにしびれるが、とりわけなつかしいのは口縄坂である。」

その後、この主人公は、口縄坂を上ったところの路地で、古本屋が名曲レコードを売買する店になっており、偶然にもその主人は、主人公が京都での学生時代の洋食屋の主人であった。主人公は何度かこの店を訪ねることによって家族構成と家の内実もわかる。姉と中学受験に失敗し新聞配達をしている男の子がいて、この男の子が、戦時下ゆえ名古屋の工場に徴用されそこの寄宿舎に入る。しかし、家が恋しく無断で帰ってきて、叱られまた帰っていった話を主人公は耳にする。その後主人公も足が遠のいていたが、訪ねてみると、「時局を鑑み廃業仕候」と貼り紙がある。隣の表札屋の主人に尋ねると、一家を上げては名古屋へ移ったという。男の子(新坊)の帰りたがる気持ちを考え、一緒に住めば新坊も我慢できるだろうと父親も姉も決心したのである。その話を聞いた帰り道、主人公は次のように締めくくる。

「口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思った。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直ってきたように思われた。風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。」

新坊の父親は「わが町」の<ターやん>とは違い、新坊のそばに移って行く。しかし主人公は、この戦争が、親子のそんなつながりをも、吹き飛ばしてしまう強い力であることを予想しているのである。戦争が無かったとしても、織田作さんは、この親子ような情愛とは無縁である自分を感じていた人に思える。

映画 『わが町』 で、<この小説は立身伝の国策ものとしてとらえられている。>と書いたが、原作は、一人の夢に憑りつかれた男の話で、それを、国の映画関係の人がこれは、国策映画となると踏んだのであろう。

織田作さんは<デカダンス>や<無頼派>と括られるが、簡単に括って欲しくないと思う。織田作さん自身に自嘲的な言動はあるが、作品の中には、騙されないでと声をかけたくなるほど、一生懸命働く人々が多く出てくる。織田作さんはそれらの人々を、一人こつこつ戦中も書いていたのである。そして登場人物に、あまり愚痴や心情はクダクダ言わせないのである。働く市井の人々を書く。それが、彼の小説家としてのステータスであった。その客観性が彼を孤独な人にした。

年譜によると、「清楚」と「木の都」の主題を合わせて、映画『還って来た男』が撮られ、その脚色を織田作さんが担当している。「木の都」も取り上げられたのを今知った。映画を見ていないのであるが、「木の都」は一つにしておいて欲しいかった。映画にしなくてよいから。しかし、川島雄三監督のデビュー作だから許すことにするが。織田作さんは、もう少し生き、映画に係っていたら、彼の孤独は違うものになっていたかもしれない。

織田作さんの坂として、小説と関係なく、かなり以前から歩きたかったのである。そしてこれらの坂を登ったり下りたりして、やっと自分の中の大阪を味わったのである。