歌舞伎座 10月『音羽嶽だんまり』『一條大蔵譚』

『音羽嶽(おとわがだけ)だんまり』。平将門に関連するだんまりである。音羽嶽の八幡神社に刀と旗が供えられる。その刀が平将門の遺品の名刀・雄龍丸(おりゅうまる)であり旗には、繋馬(つなぎうま)の印がある。その二品を、狂言師に化けた盗賊・音羽夜叉五郎(松也)が盗んでしまう。そこから、この二品を巡り、平将門の遺児・将軍太郎良門(権十郎)、妹・七綾姫(梅枝)、源頼信(萬太郎)保昌娘小式部(児太郎)、夜叉五郎、弟分・鬼童丸(尾上右近)、6人の奪い合いとなり、その見せ場が暗闇でのだんまりとなっている。

CD『歌舞伎下座音楽集成』によると、「音楽を主奏とした暗中の奪い合い、探り合いの立ち廻りの、パントマイムの一種。舞踏とは全く異なった動作美に加えて、衣装の引抜、ブッ返りの技巧を用い、同時に見得、型の静止美がある。」とある。

だんまりの見せ場の見せ所は薄かった。若手の役者さんで動きが良かったのは萬太郎さんである。体全体がバランスよく気持ちよく動いてくれた。松也さんは、上半身でのくねりが気になる。歌舞伎役者さんの場合、動きのバランス、動きの大きさを見せるめに、背が高くても低くても苦労する。先輩達から習い盗むしかない。

『一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)』。 阿呆の一條大蔵卿は、平清盛に破れ亡くなった源義朝の妻・常盤御前を妻としている。平清盛が常盤御前を寵愛したが、息子の重盛に意見され、歌舞音曲に現を抜かす大蔵卿の元へ押しつけたわけである。

源氏方のものは、清盛に寵愛され、さらに輿入れした常盤御前の行動が信じがたい。もし本心なら、打擲せずにはおけないと、吉岡鬼次郎夫婦が策をねる。そして、吉岡鬼次郎の妻・お京が狂言師として大蔵卿の屋敷に入るのである。この鬼次郎夫婦の菊之助さんと孝太郎さんが、源氏としての常盤御前に迫る気持ちがぴりっとしていて良い。

お京は白川御所の外<桧垣の茶屋>で大蔵卿の出るのを待つのである。なんとも上手い趣向である。誰が見てもよい場所で大蔵卿は狂言師を雇い入れるのである。舞台設定であるのに、大蔵卿の用意周到さのようにも思わせられる。そして大蔵卿の阿呆ぶりが衆人にも一目瞭然である。仁左衛門さんの大蔵卿は、公家の柔らかさと阿呆の気を抜いたところが一体となって、公家の阿呆とはこういうものであろうと思わせられる。屋敷へ帰る花道で鬼次郎の姿に気がつくが、表情も目線の強さも表さない。どんな視線になるかオペラグラスで見つめていたが変わらなかったので、そうくるのかと思った。

大蔵卿を取り巻く雰囲気がわかり、鬼次郎はお京の手引きで常盤御前の部屋に忍び寄る。今回この二人には緊迫感がある。常盤御前の時蔵さんも本心を隠し自分を打擲する二人の忠誠心にやっと威厳をもって本心を言って聞かせる。

そして、大蔵卿は平家の世を忌み嫌いつつ作り阿呆として、世渡りしていたのである。鬼次郎夫婦の出現によって初めて本心を現したということは、この夫婦に源氏に対する信頼をおいたということである。またこの夫婦も、大蔵卿の本心から源氏を思っていてくれる人がいるという大きな力を貰うわけである。

大蔵卿は本心を見せた後、また阿呆に返るのであるが、今回は本来の一條大蔵卿の公家の品格と位を見せての幕となった。武士の気概とは一味違う、公家としての仁左衛門さんの妙味を含んだ一條大蔵卿であった。

歌舞伎座 10月『矢の根』『人情噺文七元結』

『矢の根』二世松緑さんの二十七回忌追善狂言で、現松緑さんの曽我の五郎である。この五郎の動きは松緑さんの身体の中に、完璧に入っている感じでスムーズに動かれる。この動きを安心して見せられていると、少し五郎のヤンチャなアクセントが欲しくなる。稚気さが欲しい。台詞で工夫されているのかもしれないが、それが一本調子に聴こえる時がある。そこが松緑さんの稚気としての狙いなのかもしれないが。

十郎の藤十郎さんは、夢の中に出てきているのだと思わせる雰囲気である。手の動かし方の柔らかさ。短い出なのに十郎が夢の中にでてきていると考えなくても納得できるのである。それを観て、十郎が夢に現れた前後での五郎の気持ちのクッションが欲しいと思えた。

古い雑誌を読んでいたら(断捨離するべきが読んでしまった)、小沢昭一さんが「虎が雨」という文があり、 小学唱歌に「曽我兄弟」があったいう。♪ 富士の裾野の夜は更けて 宴のどよみ静まりぬ 尾形尾形の灯は消えて あやめも分かぬ五月やみ ♪ 十八年のうらみを果たしてから兄弟は討たれ、十郎の死を知って遊女虎御前の流した涙を<虎が雨>といって俳句の季語になっていると。

私も一句。「柴又を 番傘で去る 虎が雨」・・・アッ、これは「虎」ではなく「寅」か、没です。

そう言えば、五郎の台詞や大根をムチにして兄救出に馬を駈けさせる五郎には、寅さんに通ずる可笑しさもある。

『人情噺文七元結』こちらも二世松緑さんの追善狂言である。左官長兵衛は菊五郎さんで、相手とのせりふの妙味で聴かせる芝居であった。女房お兼(時蔵)とのからみ、角海老女将お駒(玉三郎)からの諭しに対する会心、娘お久(尾上右近)との親子の情愛、自殺しかける和泉屋手代文七(梅枝)とのやりとり、和泉屋清兵衛(左團次)とのお礼のやりとりなど、それぞれに相対するところから浮かび上がる江戸っ子職人左官長兵衛の可笑しくも憎めない人間像を浮き彫りにしっていった。

角海老で足をしびれさせるところも大袈裟にはせず、和泉屋清兵衛との文七にやった50両のお金のやりとりも何回も固辞せずさらりっと納得して受け取り、笑いを強調するのではなく、貧しい中での江戸の庶民の人情をさらりっと表現した。

長兵衛の貧しさに気を効かす角海老手代藤助(團蔵)、店子の世話を焼く大家(松太郎)、ここぞという時に締める鳶頭伊兵衛(松緑)など役者さんもそろった。

文七の梅枝さんは、かなり主張の強い手代でおかしかった。主人に信用され仕事も完璧と思っていた若者の挫折から死しかないと思うとすれば、こうなるかもと思わせた。

お久の右近さんの長屋にもどった時の着物の柄が良かった。これはいつも決まっているのであろうか。今回どういうわけか柄に目がいった。角海老の女将がお久にあう着物を選んで着せてくれたと思わせるものであった。

ちょっとしたところにも、貧しいその日暮らしの江戸の庶民の交流が芝居の中にはあった。

 

 

歌舞伎座 十月歌舞伎 『阿古屋』

体調不良で街歩きには最適な季節なのに、用事が済めば、じーっと閉じこもっていた。『歌舞伎 下座音楽集成』という150種類に近い下座音楽が収録されているCDがありそれを聴いたりした。下座音楽というのは、舞台下手の黒御簾(くろみす)の中で場面に合った音楽を演奏していてくれて、そこから流れてくる音楽のことである。

例えば、<巽合方(たつみあいかた)>といえば、『髪結新三』の閻魔堂橋の場で演奏され、観客の耳に入ってくるということになる。こういうふうに、歌舞伎の場合この場面にはこの下座音楽が流れるとか決まっているのである。そのことが頭に入っている観客は相当の歌舞伎通である。

こちらは、役者さんが出てくればそちらの感覚が優先するから、どんな下座音楽であるかなど飛んでいる。そこで、流し聴きしようと考えたのである。ところが、次から次流れていくだけである。歌舞伎の役者さんたちは、この音楽はこの場面とそれに合わせて体も自然に動くのであろう。

聴いたことのある音楽もあるが、次々と流れるのを聴いていると退屈過ぎて飽きてしまう。そしてひらめいた。そうだ、ポータブルDVDプレーヤーで音だけ聴けばいいのである。これを購入すれば、映像を見る時間が増えすぎると控えていたのである。今、座ってDVDを観る元気はない。『阿古屋』のあの素晴らしかった三曲をDVDで聴けるだけでいい。

これが思いのほか成功であった。聴くことに集中できるのである。無理して小さな映像を見る必要もない。聴きつつ、生の舞台を思い出していた。やはり、生の舞台の空気や音は違うなと思いつつ。

『阿古屋』。浄瑠璃『壇浦兜軍記』全五段の三段目の<琴責め>の場だけが残ったのである。浄瑠璃の場合は、琴、三味線、胡弓を別々の奏者が弾くが、歌舞伎では、遊君阿古屋役者が三曲を唄いながら演奏するわけである。今の歌舞伎界では、玉三郎さんしかいない。

平家が壇の浦で破れ、源氏の世界となっており、逃げている平家の景清の行方をかつて馴染みのあった遊君(遊女)阿古屋に景清の行方を詮議する場面である。詮議をするのは、秩父庄司重忠(菊之助)と岩永左衛門(亀三郎)であるが、岩永左衛門は阿古屋を拷問にかけると主張するが、重忠は琴、三味線、胡弓の三曲を弾かせて景清の行方を阿古屋が知っているかどうかを調べるという。拷問強硬派の左衛門は人形振りである。ここが、この芝居の摩訶不思議なところであるが、三曲を弾かせて阿古屋の心の中を覗くというのであるから、これもまた奇想天外である。そのお陰で、観客は阿古屋役者さんの芸のしどころを堪能できるわけで至福の時間である。

阿古屋の玉三郎さんは出から大きく、さらに、火責め、水責めなどには耐えられるが、重忠の情けには心も砕けるから、殺してくださいと身を投げ出すところは覚悟のほどが知れる。その阿古屋に三曲弾かせ、阿古屋は景清の行方を知らない。なぜなら、どの楽器を弾いても、その音締めに狂いがなく、知っていれば心乱れて音も狂うであろうとの重忠の判断である。

阿古屋は、重忠の本心を知らないから、弾きつつ景清との逢瀬が思い出され、ふーっと遠くを見る視線になったり、心が余所にむく素振りなどが微かに匂う時もあるが、しっかりと三曲の腕をみせるのである。玉三郎さんの三曲のコンサートとも言える場面である。聴き惚れていた。途中で入る拍手も邪魔なくらいである。

唄いつつ弾きつつ想いつつの芸の見せ所。重忠から景清との成り染を尋ねられて答える台詞。その台詞がまた上手くできていてる。平家全盛の頃、景清が尾張から清水に毎日参拝にきて五条坂を通りそこで逢うのである。

互いに顔を見しり合い、いつ近付きになるともなく、羽織の袖のほころびちょっと、時雨(しぐれ)のからかさお易い御用。雪の朝(あした)の煙草の火、寒いにせめてお茶一服、それが高じて酒(ささ)一つ、こつちに思へばあちらからも功徳(くどく)は深い観音経。普門品(ふもんぼん)25日の夜さ必ずと戯(たわむ)れの、詞を結ぶ名古屋帯。終わりなければ始めもない。味な恋路と楽しみしに、寿永の秋の風立ちて、須磨や明石の浦船に、漕ぎ放れ往く縁の切れ目、思い出すも痞(つかえ)の毒。

 

語り終わり恥じらいを見せる阿古屋。身体を張って殺せと言った阿古屋とは思えぬ阿古屋の一面である。

これだけの阿古屋の玉三郎さんに対し、菊之助さんと亀三郎さん、玉三郎さんに位負けしているかなという感もあるが、重忠の品格のそなわり、美声を押し込めての人形振りの可笑しさの左衛門と、お二人とも初役としての形は見せられた。

聴いてたDVDは、歌舞伎座2002年(平成14年)で、阿古屋(玉三郎)重忠(梅玉)左衛門(勘三郎)である。

 

歌舞伎座 十月歌舞伎『髪結新三』

今月は<二世尾上松緑二十七回忌追善狂言>とされる演目が三つある。『矢の根』『文七元結』『髪結新三』。

京都千本閻魔堂のからみで『髪結新三』からとする。松緑さんの新三には、すさみがある。<深川閻魔堂橋の場>では、今までだれも見せたことのない、すさみからくる一か八かに生きるはぐれものの狂気をみた。腕の入墨の二本の線がくっきりと目につく。かつては、羽振りをきかせた弥太五郎源七(團蔵)を鼻からバカにしてかかり、弥太五郎源七もこわっぱの新三めという憎さが現れていた。

<深川閻魔堂橋の場>は、お付き合いといった感じがあるが、今回は、月代を伸び放題にした新三のすさみが一層協調され着物の着方もよく、対する團蔵さんも殺気がある。新三という人物がいかに世の中からはぐれて自分の価値観だけで生きてきた男であるかがわかる。ここで殺されても仕方のない男と思わせられた。

こう思わせる新三の描きかたが、悪を格好良く見せる歌舞伎の様式美からすると異論のでるところかもしれない。

一つ問題は、これだけのすさみを出すなら、店を持たずに出張して髪を結いを生業とする、腰の低さと客に取り入る明るさが欲しい。新三というのはその辺りが上手い人間と思っている。ところが相手が利用価値のない人間となるところっと変わるのである。松緑さんは、その辺りの高低さが低い。予想がついていても、親切そうな新三がと、忠七との花道から驚かせてくれなくてはならない。その点、時蔵さんの忠七は、私が悪かったと新三の本心がわからず、新三の機嫌を損ねないように取り入り次第に騙されたのかという状態を上手く演じられていた。

<深川閻魔堂橋の場>の新三の台詞が気に入ったので記す。

ちょうで所も寺町に娑婆と冥土の別れ道 その身の罪も深川の名さえも閻魔堂と鬼といわれた源七がここぞ命の捨てるのも 我鬼より弱い手業(しょうべえ)の地獄のかすりを取った報いだ おれも遊び人 釜とはいいながら 黒闇地獄(ごくあんじごく)のくらやみでも亡者(もうじゃ)の中の二番役 業(ごう)の秤(はかり)にかけられたらば貫目の違う入墨新三 こんな出合もその内にてっきりあろうと浄玻璃の鏡にかけて懐に隠しておいたこの匕首(あいくち) 刃物があれば鬼に金棒 どれ血塗れ仕事にかかろうか

今までにない新三の命の張り方を松緑さんは見せた。この命のやり取りは途中で幕となる。話としては、新三は弥太五郎源七に切り殺され、大岡裁きとなるのである。

粋がっているが、新三ははぐれ者である。そのすさみ部分の出し方はここでもかという感じがあり、そこを上手く粋さと組み合わされば、他では見られない松緑さんの新三になるであろう。この歩合をどう持っていくかが秤のかけどころである。

難しいだけにやりがいのある黒闇役者道である。

(体調がすさんでいて、気は焦るが良い思案が浮かばない。これにてチョン!)

新橋演舞場 『ワンピース』

『ワンピース』をはっきり耳にしたのは、国立劇場での歌舞伎のとき、観客のご婦人が「若い人が『ワンピース』がお面白いというが、どこが面白いのでしょうかね。」との会話を耳にしたときである。若い人にそんなに人気があるのかと印象に残った。

猿之助さんが『ワンピース』をすると聞いた後と思うが、伊賀に行って忍者屋敷に行った時購入した『忍者の教科書』の後ろに「『NARUTO』と『ONE PIESU』」(吉丸雄哉)の一文が載っていた。この2つの漫画は世界で多くの人々に読まれているらしい。

『NARUTO』は、うずまきナルトという少年忍者の戦いと成長を描いた忍者漫画で、ハリー・ポッターシリーズに似ていて、『ONE PIESU』は、海賊の少年モンキー・D・ルフィが“ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)”を求めて大海原を巡る冒険漫画で『トム・ソーヤの冒険』に似ていると説明されている。そうか、冒険物語なのかとその程度までしか押さえず、<スーパー歌舞伎Ⅱ ワンピース>を愉しむこととなる。とにかく生の芝居で勝負である。

チラシから、どうやら仲間がいるらしく、それぞれのキャラを駆使して冒険が進むのであろうと想像する。麦わら帽子も気になっていた。映像を使い影絵のように麦わら帽子もひらひらと飛んでいる。<母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね>ではなかった。男の子は誰かにその麦わら帽子をかぶせてもらう。これは最後のほうでわかる。気にかけて置いて良かった。

ルフィの八人(七人と一匹かな)の仲間が、白浪五人男よろしく自分の特技を披露しつつ見得をきるが、覚えてられないので、紫おネエ、ピンクおネエ、グリーンヘアー、骸骨、ピノキオ、イケメン鬼太郎、白リボン、おちびちゃん(のちにトナカイちゃん)と命名する。この連中が冒険をしていくのであろうから、そのうちキャラもはっきりしていくであろう。

大きな権力組織があって、人間以下と判断した者は奴隷にして、その印を背中に烙印する。人魚が売買されるのを助けるために現れた仲間とルフィは熊チョップで飛ばされてしまう。『阿弖流為』の熊子ちゃんは今大阪です。(頑張ってね)鳥のフンのようにルフィが落ちてたどり着いたのは、女だけの住む島であった。女王は、訳ありの三姉妹の一人を姫としている。この姫がルフィに恋をする。ここでルフィの性格や弱点や闘争心や自由を求める心や様々なことが明らかになってゆく。そして、兄が捉えられ公開処刑になることを聞き、兄を助けるため兄の捕らえられている監獄へと侵入する。「監獄ロック」は無かった。ピッタリの舞台雰囲気だったのにそれどころではなかった。

兄・エースは生まれがわけありで(ルフィもわけありである)そのことを利用され、父として慕う白ひげ海賊の白ひげは、子供として育てた子分に刺されてしまう。白ひげの親分、知盛みたいに血だらけでエースのために戦う。

この監獄には隠れ場所がありそこは、おかまの世界であった。そこにも自由を愛する人々がルフィを助け仲間となってくれ一緒に戦ってくれる。例の勝手に命名した仲間8人は無事ではあるが遠くにいて会えない状態である。(よかった。これで連中がでてきたらややこし過ぎて頭の中パニックである。)ルフィは偏見というものがなく、だれでも仲間にしてしまう何かがある。

監獄所長や副署長、さらに海軍などと、エースやおかまの皇子様(勝手に命名)やおかまのルフィのダチやルフィらとの闘いがくり広げられる。ここでの、本水使いは、むち打ちにならないでと心配になるくらいの水の量である。旗を使っての動きや、黒衣ならぬ赤衣さんたちの動きもよい。やはりエースは、かつて泣き虫だったルフィを守ったように、今また自分の命をかけてルフィを守ってくれた。白ひげがエースを守ってくれたように。

海軍は、海賊白ひげの援軍として来た他の海賊船の勢いから休戦とする。

ルフィにとっての兄・エースと父・白ひげの死は、ルフィから全ての力を奪う。皆に励まされ、麦わら帽子をくれた人から、もっと成長したら麦わら帽子を返しにくると約束しただろうといわれる。僕は仲間がいなくてはダメな人間だが、8人の仲間とは2年後に大きく成長してから合うと大海原へと向かう。ワンピースを捜し当てる冒険の旅への海賊の船長としての力をつけるために。

最大の見せ場はルフィのサーフィンボードに乘って空中波乗りである。一番気に入ったのがクジラくん。クジラくんの存在は大きい。ただゆらゆら浮いているだけなのに、クジラくんがいるのといないのとでは空間が違ってしまう。クジラくん大当たり。

家族愛、仲間の絆、偏見のない心、自由を求める心、冒険心など、船長のルフィは傷つきながらも灯りをともしていくのであろう。

歌舞伎関係の人でも解かるのに時間がかかった。役が多いようなので、話しについていけるかどうか心配したが何んとかついていけ、後半からは楽しむ余裕も出来た。ただし役名は覚えていられないので、勝手に命名して進んだ。(竹三郎さんがお元気で出演され良かった。声ですぐわかった。)一旦8人の仲間から離れ、兄・エースを助ける話しに進んだので、ルフィのことも浮き彫りとなり、夢は大きいが仲間がいないとダメなさびしがりやのルフィを印象づけられる。

観る方も、観る冒険に旅立ち波は高かったが何んとか捉えられたようである。主題歌を歌って空中波乗りを応援できたらもっと楽しさが増すかも。

2年後に船長ルフィと仲間が船出できることを祈る。

原作・尾田栄一郎/脚本・演出・横内謙介/演出・市川猿之助/スーパーバイザー・市川猿翁

出演・市川猿之助、市川右近、市川笑三郎、市川笑也、市川猿弥、市川男女蔵、市川春猿、市川寿猿、市川竹三郎、市川門之助、市川弘太郎、坂東巳之助、中村隼人、福士誠治、嘉島典俊、浅野和之、市川欣弥、市川段之、市川蔦之助、市川門松、坂東竹之助、市川笑野、市川猿三郎、市川猿紫、市川猿四郎、市川喜猿、市川喜昇、穴井豪、石橋直也、市瀬秀和、井之上チャル、三笠優 (書ききれない人数)

パンフレットを読んでから観るか。観てから読むか。後者を選んで良かったと思う。女だけの島の女王としたのは間違いで、島を取り仕切っているおばばさん(ニョン婆)であった。衣装が女王とは言えないので迷ったが、島の実質的采配者と理解したので女王としてしまった。というわけで細かい点での間違いはあるが、勝手にクリアしたこととする。こちらの紹介には登場していない沢山の面白いキャラがあるが、それはパンフを見つつ、ウシシシシ~と楽しんでいる。

ペリー荻野さんは、海賊をキーワードにその関連の本や映像などをあげられ、やはりこれは読まなくてはならない運命かとか、この映画再度観る必要ありなどと、チェックしつつグリコ現象である。

 

歌舞伎座 九月秀山祭 『競伊勢物語』

『競伊勢物語(だてくらべいせものがたり)』は、歌舞伎座では半世紀ぶりの上演ということである。

またまた、主のために身代わりとなって死ぬ話しである。江戸時代の芝居が全部復活しているわけではないのでこの身代わりの忠儀の死の話しが多いのかどうかは定かではないが、多い。どうしてなのであろうか。忠儀となれば、武士。武士と庶民の世界観は別である。庶民は、武士の世界を忠義で見ることに寄って、現実の武士との違いを置いといて涙したのであろうか。泰平の世の<忠臣蔵>が武士道とするなら民衆が絶賛したのも、武士はときには武士道の忠儀を見せて欲しいとの要望の事件ともいえる。

『競伊勢物語』はややこしい。伊勢物語とあるから、在原業平と関係するとおもわれる。時代は王朝時代である。惟喬(これたか)親王と惟仁(これひと)親王が跡目相続で争っている。主人公といえるであろう紀有常(きのありつね)は、先帝の子・井筒姫を自分の娘として育てている。井筒姫は在原業平と恋仲であるが惟喬親王は井筒姫を差し出せという。有常は井筒姫と業平のために一計を考える。

有恒には実の娘がいて、この娘・信夫(しのぶ)は、奈良春日野に住む小由(こよし)に預けている。なぜ預けているのかはわからない。この信夫と信夫の夫・豆四郎が、選りにも選って、井筒姫と業平に似ているのである。有常は、実の娘夫婦の身代わりを考えたのである。

豆四郎は惟仁親王の旧臣の子である。惟喬親王側に奪われた神鏡の八咫鏡(やたのかがみ)が立ち入ってはいけない玉水渕(たまみずぶち)にあると聞き、信夫は夫のために禁を犯して悪党の銅鑼の鐃八(にょうはち)と争って手に入れるのである。今は反物を売って歩いているが、生まれがわかるような行動である。

有常は、小由の住居へ訪ね昔を懐かしむ。どうやら有常は昔、庶民の暮らしまで身分が下がったようである。小由は、有常にはったい茶を振る舞い、有常は頭に手ぬぐいを置き、昔の太郎助の姿ではったい茶をご馳走になる。このあたりは、娘を返して欲しい本当の理由を言わず小由と昔語らいをする柔らかな有常であり、太郎助と接して心から懐かしむ小由である。

信夫は禁を犯したのである。母・小由に難が及ぶのを考え、親子の縁を切るためにあえて難癖をつけるのであるが小由は取り合わない。夫の豆四郎との夫婦喧嘩かなにかで機嫌が悪いのであろうと信夫をなだめる。信夫には信夫の母に対する想いがあったのである。

それを納めるのが有常の信夫を預かるという言葉である。信夫は京に上るのである。有常は信夫の髪を梳いて整えてやる。死を前にして、父が娘の髪を梳くというのはこの芝居のほかにあるであろうか。嬉しそうに似合うかという娘。心の内を隠し似合っているという父。なんとも悲しい情愛のこもる場面である。こちらからは見えないが、親子二人の映る鏡の絵が想像出来る。

自分が身代わりとなる覚悟の出来た信夫は、小由の頼みで琴を奏でる。身分違いという事で小由と信夫の間には屏風があり、母は砧を打ち、小由は琴を奏でる。音楽的にも上手くできた場面である。琴の音が止り不思議に思う母。信夫は父に切られ、豆四郎は切腹し身代わりとなる。赤と白の布に包まれた二つの首を、有常は抱えている。そして、井筒姫と業平がその死をそっと悼むのである。

であろうと思う。

時間が立つと覚束なくなる。奈良街道での、娘たちが背負って京に売りにいっていたのが、かつて陸奥の国の信夫郡(現在の福島県福島市)で作られていた信夫摺りの反物らしい。有常が小由に娘を預けたのも、陸奥でのことらしく、娘・信夫の名もそのへんと重なっているようである。

隠されたいわれが幾つかあるらしいが、芝居自体からそれを読み解くのは難しい。

印象が強いのは、有常と小由の再会の場と、有常と信夫の髪梳きの場である。有常が決めた忠臣は、小由や信夫を目の前にしても変わらない。そういう生き方しか選べない人としての悲哀がある。

有常の吉右衛門さんは、小由と信夫に再会し心和ませているようでいて、自分の役目を疑わぬ生き方を選んだ男の頑なさも見えた。今回はその生き方に狭さを感じてしまった。それに対する信夫の菊之助さんは、自分の思うところを突き進む激しさとあきらめの対比が顕著であった。小由の東蔵さんはあくまでも庶民の生き方を貫く、信夫の心を知らず母として娘をなだめたり、有常の心を知らず心から懐かしがったり、その裏切りに成すすべのない位置を保った。豆四郎の染五郎さんは事の成り行きにじっと耳を傾け、自分の立場に身を添える役どころを静かに貫いた。悪役の又五郎さん多種多様な役をこなされ、今回も手堅い。大谷桂三さんの息子さん・井上公春さんが初お目見得である。これを機に歌舞伎がもっと好きになってくれるとよいが。

この芝居、通しで残っているのであろうか。通しで観たい作品である。

<紀有常生誕1200年>とある。このかた、『伊勢物語』の十六段目にでてくる。三代の天皇に仕えながらのちに普通の人に落ちぶれ、それでいながら昔と同じ心持ちで暮らし生活のことは考えない。そのため40年連れ添った妻は嫌気をさし尼になってしまう。別れに対し何もしてやれないのを嘆く有常に代わって友人が気の毒に思い、有常の代わりに夜具を贈ってやる。その志に感謝し二首詠むが、後の句が「秋や来る露やまがふとおもふまで あるは涙の降るにぞありける」である。(秋がきたのか、それで露がこんなに置き乱れているのか、とそう思うまで私の袖が濡れているのは、涙が降っているのでした・・・)(中村真一郎訳)

 

歌舞伎座 九月秀山祭『双蝶々曲輪日記』『紅葉狩』

『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』の序幕で、観れる機会の少ない演目である。『引窓』はよく上演されるが、そこに登場する南方十次兵衛と妻・お早は遊郭で知り合った仲で、その時の話しである。南方十次兵衛は後に亡父の名前を継いだもので、今は南与兵衛(梅玉)といい笛売りをしている。お早は遊女・都(魁春)として勤めている。

都には与兵衛が、朋輩の遊女・吾妻(芝雀)には若旦那・与五郎(錦之助)という恋人がいる。廓の世界である。都には与五郎の手代・権九郎(松之助)が吾妻には侍の平岡郷左衛門(松江)が、横恋慕している。与五郎は吾妻が身請けされてはとあせって預り金に手をつけてしまう。ところが権九郎と太鼓持ちの佐渡七(宗之助)の計略にはまり盗人にされてしまうが、与兵衛が全てを聞いていて与五郎を助ける。

そのことから与兵衛は襲われ佐渡七を切り殺してしまい、与兵衛も佐渡七に小指を噛み切られてしまう。犯人は指のない者とされ、発覚してしまうのを救うのが都である。権九郎に指を切ってくれればなびくと誘いをかけるのである。上手く逃れた与兵衛は、郷左衛門と三原有右衛門(錦吾)に再び襲われるが新清水の舞台から笛を下げた傘を開き飛び降りふわふわと空中散歩し悠々と去るのである。

『引窓』では、与五郎の贔屓の力士・濡髪が、郷左衛門と有右衛門を殺し逃げ、実母の家で与兵衛と都に会うこととなる。

序幕は、『引窓』からすると、かなり奇想天外な話しになっている。廓の中での恋人たちの自分たちのことしか考えない身勝手さともとれる行動を、さらにふわふわと飛んでしまうのである。或る面、次第に重い話しとなって行く流れに先だっての明るさともいえる。まずは深く考えず役者の動きを楽しんで下さいとでもいうようなところである。

梅玉さん、魁春さん、芝雀さんとベテラン揃いで、錦之助さんも与五郎のような若旦那役は板に着いてきているから芝居の流れを愉しめる。松江さんは今回は悪役で台詞だけでなく声の出し方も工夫されている。宗之助さんは殺されるわけであるから、もう少し素直でなくひねていても良いのでなかろうか。隼人さんが立派な役人で、そのすっきりさが、誤認逮捕なので松之助さんともどもお気の毒と可笑しかった。

序幕だけでありながら楽しめたのは役者さんの力であろう。

『紅葉狩』は若手の力の見せ所であるが、不可ではないが、もう少しという感じである。期待していた響きが弱かった。

平維茂は戸隠に紅葉を堪能するため訪れる。すでに女性達の先客があり、誘われるが一度は断りさらに誘われ共に紅葉狩りとなる。

惟茂は更科姫の踊りを観つつうとうとする。更科姫は踊りつつ険しい視線となるが惟茂が目覚めると何事も無い様に二枚扇を使って踊り続ける。惟茂も従者も次第に深い眠りに入る。寝入ったことを知るや更科姫は男の声と足遣いで立ち去る。染五郎さんの踊りは優雅で美しく二枚扇も上手くこなしているが、何か物足りない。それが何なのかはわからない。

寝てしまった惟茂の松緑さんのもとに山神が夢の中に現れる。山神は足拍子などで更科姫は鬼女であるから起きるようにと知らせるが惟茂は目を覚まさず、山神はあきれて帰ってしまう。山神の金太郎さんは、現在の自分の力を形よく素直に出し切った感じである。可愛らしさから次の段階に入っている。

惟茂はやっと目覚め、鬼女と気がつき姫の後を追う。姫は鬼女となって姿を現し、惟茂はこれを退治する。

惟茂の松緑さんの、鬼と気がついた時の一呼吸を見逃してしまった。更科姫の美しさに酔うというより、紅葉の中での妖気さに酔い山神が夢の中で起こしても起きないくらいなのである。それを知った時の勇者の想いとは。

と言いつつ、また詞と踊りを一致させることの出来なかった、観る側の把握できない力不足なのである。

歌舞伎座 九月秀山祭 『伽羅先代萩』

<政治の日常化>を生活時間の中に組み込むことを心がけようと意識したら、これが怪物で時間がどんどんとられ、新聞を読むにしても時間が多くなる。というわけで、日常の習慣化につとめ時間配分の工夫に努めるしかない。もう一つ、生活の中での思考が観た芝居などの想いに影響されるようで、歌舞伎のような古典芸能も現代に生きる感情が左右され過ぎる傾向にあるように思い、冷静になってからとも考えた。しかし、古典であろうと現代に演じられ、現代の人が観るのであるからそれはそれと考えることにする。

『伽羅先代萩』。玉三郎さんの政岡の<人としての政岡>が胸に一撃を受ける。<飯(まま)炊き>の場は、じっくりと鑑賞させてもらったが、上手くできた場面である。主君・鶴千代を孤立無援で守る乳人・政岡、鶴千代を守るために我が子千松を身代わりとして教育する母親としての政岡。その二面性が、茶道具で飯を炊く美しい自然な所作と相まって展開される。お腹を空かす二人の子供は、低い屏風からそーっと覗きにくる。そこには主従の関係のない頑是ない子供である。

千松に対しては、母として叱り、次に来た鶴千代には千松がまた来たと思って叱ろうとして、鶴千代と知ってへりくだるあたりも二人の子供を挟んでの政岡の立場がわかる。この場での政岡のあらゆる行動によって、鶴千代と千松のそれぞれ立場を教え込む政岡の心のうちが伝わる。母として甘えたい千松。鶴千代にとっても母と同じであるが、その二人の甘えを拒否して、屏風をくるっと廻し自分を隠して涙を流す政岡の後ろ姿。こういう道具の使い方の先人の考えには唸ってしまう。ここでの三人の交流があってこその千松は母に教えられた行動へとつながるのである。ある意味で、政岡は意識的にか意識外なのかは判然としないが、千松をコントロールするのである。

千松は鶴千代の毒見役である。幼い当主を殺そうと企む執権仁木弾正(吉右衛門)一派から守るためである。そのため管領(将軍の補佐職)の妻・栄御前(吉弥)のお見舞いのお菓子を千松は走り出て口にするのである。毒のため苦しむ千松をみて弾正の妹・八汐(歌六)が手にかけ殺害してしまう。鶴千代をかばい懐刀の紐を解く政岡。鶴千代に害が及ばないと判断するや、静かにその紐を巻き整える。眼は逸らさず大きく見開き我が子の最期を見つめる。

栄御前が殺されたのは入れ替えた鶴千代と誤解し連判状を預けて去り、全てを身に受け、政岡は千松の遺骸の前で初めて母政岡となる。こともあろうに八汐のような者に殺された悲しみ。今回一番耳に残ったのは懐剣を持つ手を千松の首の上から反対側に渡し、懐剣を畳に立てた形で 「死ぬるを忠義と云う事はいつの世からの習わしぞ」 である。胸にぐっときた。母政岡の悲痛な叫びである。主人に仕えるキャリアの政岡が子供までも捧げる立場の嘆き。

ここまで至る憎っくき八汐も、沖の井(菊之助)と毒薬を調合した医師の妻・小槙(児太郎)の助力もあり政岡の怒りの一刺しとなる。ところが、連判状を鼠に持ち去られる。その鼠を捕らえようとするのが、荒獅子男之助(松緑)である。忠儀者で床下で鶴千代を守っていたのである。この設定も面白い。ところが、鼠は妖術を使う仁木弾正だったのである。花道に現れ太々しさを残し消える。

さらに面白いのは、妖術を使う仁木弾正も忠臣の渡辺外記左衛門(歌六)らの訴えにより幕府の問注所での裁きとなる。栄御前の夫・管領山名宗全(友右衛門)が弾正に有利な判決をだすが、管領細川勝元(染五郎)が現れ外記等の逆転勝訴とする。弾正は外記に襲いかかるが、忠臣たちに助けられ痛手を受けた外記は弾正に止めを刺す。

目出度く鶴千代の家督相続が許可される。

では、鶴千代の父上とは。それが最初にある<花水橋>に登場する、足利頼兼(梅玉)である。闇夜での出来事、だんまりの情景であるが、見えても見えなくても頼兼はゆったりと品格をみせ、闇から伽羅の匂いを醸し出さなくてはならない。こういう役は梅玉さん。いつも足の歩幅や動きの流れに目がいく。この感じを会得するには時間を要す。この殿様の放蕩からお家騒動となるわけである。

役者さんの置き所が的確で、それぞれの見せ場をたくさん作り芝居の空間を絞め、お家騒動ならではの苦慮が浮き彫りになった。

刺客に襲われる頼兼を助ける絹川の又五郎さんも力士の愛嬌と力がある。忠臣の沖の井の菊之助さんも八汐にしっかり対抗し政岡の忍に答える。児太郎さんも落ち着いて役どころの転換を見せる。男之助は出は少ないが弾正の正体を知らしめ、女たちの世界から男たちの世界へ転換する大事な場面であることを押し出してくれた松緑さん。八汐の歌六さんは憎々しく今までの八汐を演じた役者さんたちと肩を並べる。ガラッと変わった外記はお手の物。

大きな色悪の仁木弾正の吉右衛門さん。<対決>で自筆を書くだんで心の中で迷っている様子が吉右衛門さんならではの思索の人の一面が。その弾正の悪を暴く勝元の染五郎さん。高い音質が細くなるので心配したが、高低自在に変化をセリフに乗せ聞かせる工夫がみられ、急に高い声を張らせて語るあたりこれからのさらなる楽しみが増える。

今回の芝居でも、空白のある年代があることを思わせられるが、そのことを乗り越えて心している役者の意気が頼もしい。

歌舞伎座 八月 『京人形』『芋掘長者』『祇園恋づくし』

『京人形』はかつて観たとき、面白い作品とは思えなかったが、今回は面白かった。その第一の要因は、七之助さんの人形である。左甚五郎(勘九郎)が廓で見た太夫が忘れられず自分で太夫の人形を彫ってしまうのである。そして出来上がった人形を前に、本物の太夫と逢っている気分を味わうのであるが、この時は女房(新悟)も気をきかしてお酒を用意して人形と夫だけにしてやるのである。

人形の箱を開けると太夫の人形が現れる。この場面の人形(七之助)がいい。箱から出しこれからお座敷遊びと甚五郎はわくわくである。ところが、さらに嬉しいことにこの人形が動くのである。甚五郎が彫った人形なので、動きが男の動きである。そこで、廓で拾った太夫の鏡を人形の懐に入れると太夫の動きになり、甚五郎は太夫との逢瀬を愉しむのである。この、人形の動きの変化が、人形の基本を保ちつつ甚五郎と共に観客をも楽しませてくれる。

もう一つの話しが隠れていて、甚五郎は元ご主人の妹(鶴松)を匿っていて立ち回りとなる。この立ち回り、甚五郎は右手を切られ左手での大工道具を使っての動きとなる。左甚五郎にかけた立ち回りで、勘九郎さん爽やかにきめた。

『芋掘長者』。十世三津五郎さんが、45年ぶりに復活させた演目で、これから再演されて深めてゆく作品であった。この作品、再び一に戻っての形となった。踊りの腕の見せ合いという作品で、そこの部分が難しい作品である。芋掘りを踊りを加えることにより笑いとなるのであるが、踊りの上手さの落差も出さなくてはならない作品で難易度の高い作品と思う。芋掘り(橋之助)がお姫様(七之助)を好きになり、姫の婿選びの舞いの会に、踊りの上手い友人(巳之助)にお面を付けさせ代わりに舞わせ上手くいくが、もう一舞い所望されて芋掘り踊りを踊り、その面白さに姫に気に入られるのである。橋之助さんと巳之助さんのコンビ、味は薄いが爽やかであった。

『祇園恋づくし』は、上方と江戸の文化や人柄の違いのぶつかりあいが如実に現れる作品で、言葉、仕草、間などの相違が面白、可笑しく演じられた。

江戸っ子の代表が勘九郎さんで、上方が扇雀さん。扇雀さんは、茶道具屋の主人と女房の二役でこれが上方の男と女をもきちんと見せてくれて二役の効果が上手くいった。勘九郎さんも上方で一人で江戸っ子奮闘記で頑張り、その頑張りもウケる。その間に入って、お嬢さんと駆け落ちしようとする手代の巳之助さんが、あんたは何なのと思わせる弱者の自己主張が笑わせる。歴代三津五郎路線にはない空気である。

この作品は、勘三郎さんと藤十郎さんに当てて作られた作品らしいが、新たな違う面白さを出したのではなかろうか。

場所が京の三条で、時間が祇園祭りの時期で山鉾当日の床でのやり取りもある。祇園祭りはよくしらないが、色々な行事が一か月あるのだそうで、こちらは、中村錦之助さん(萬屋錦之助)の制作した映画『祇園祭』を是非観たいと思っている。年に一回京都の京都文化博物館のフイルムシアターでだけで上映されるのであるが、なかなか日にちが合わない。ここのシアターは、かなり以前から京都に行って予定の無い夜利用させてもらっている。

京茶道具屋の次郎八(扇雀)は江戸でお世話になった息子の留五郎(勘九郎)が伊勢参りに来たおり京に寄るよう誘い、留五郎は次郎八宅に世話になる。祇園祭とあって次郎八は忙し忙しいと言って出歩いている。お祭りだけではなく、芸妓染香(七之助)に逢うのがお目当てなのであるが、染香は渋ちんの次郎八を上手くあしらい他に旦那がいるのである。お茶屋の女将(高麗蔵)の雰囲気もいい。

次郎八の女房おつぎ(扇雀)の妹おその(鶴松)は手代の文七と恋仲であるが許されずひょんなことから、留五郎は若い二人の肩を持ち、おつぎに染香のことを、教えてしまう。それを知った次郎八と留五郎は犬猿のなかとなり上方と江戸の自慢とけなし合いとなり、祇園囃子と江戸の祭り囃子の競争になったりもする。

ちとら江戸っ子が、祭りを一か月も悠長にやってられるか。何んといっても祇園囃子どす。コンチキチン・・・。てやんで。テンテンテレツク・・・。

間のいい丁稚や、江戸っ子が嫌いな女中なども配置され緩急自在な上方と江戸のリズム感や言い回しの違いが楽しめる。夏の夜、お江戸の芝居小屋に京の鴨川の風が渡る。

仁左衛門さんが重要無形文化財保持者(人間国宝)となられ、より一層、上方の芸が若い役者さんに伝わり、江戸と上方の歌舞伎のそれぞれの面白さが浸透することであろう。

八月納涼歌舞伎に出演できることは、若手の役者さんにとっても、良い汗をかく価値ある機会である。

 

歌舞伎座 八月 『おちくぼ物語』『棒しばり』『ひらかな盛衰記ー逆櫓』

八月納涼歌舞伎である。三部構成で、『ひらかな盛衰記ー逆櫓』以外は、踊りと新作歌舞伎で気楽に観れる演目である。八月の若手での納涼歌舞伎に尽力された十世坂東三津五郎さんに捧げる演目も二つある。子息の巳之助さんが参加されているが、面白いことに、巳之助さんは歴代の三津五郎路線と違う味わいの役者さんで、これからどのように成長されていくのか楽しみなところである。

『おちくぼ物語』は、シンデレラストーリーで、落ち窪んだ場所に暮らしているので、おちくぼの君(七之助)と呼ばれている。侍女の阿漕(あこぎ・新悟)とその夫帯刀(たてわき・巳之助)が味方で、帯刀は貴公子の左近少将(隼人)とおちくぼの間を取り持つ。ところが、継母(高麗蔵)は自分の娘に左近少将をと考えている。それを知ったおちくぼは落胆するが、左近少将は計略を考え、鼻の大きな兵部少輔(宗之助)を娘のところへ行かせ、目出度くおちくぼと夫婦となる。

左近少将の隼人さんが、美しい貴公子を作りあげた。おちくぼの本来の性格をきちんと解かっているのだが、その包容力までは出せなかった。七之助さんのおちくぼは、押し込められた本心をちらりと見せ、お酒に酔って変貌するあたりも上手く演じ分けた。帯刀の巳之助さんもひたすら二人のために尽くす誠実さを見せた。父役の彌十郎さんさんが頼りなく、それでいて最後に鷹揚に二人を祝福して大きさを出す。継母の高麗蔵さんグループがもう少し丁寧にいじめの演じ方を工夫すると芝居に厚みが加わると思うのだが。夢ものがたりの美しさが見せどころともいえる。

『棒しばり』(十世三津五郎に捧ぐ)は楽しい踊りである。勘三郎さんと三津五郎さんの時は、結構力を入れて観ていたが、勘九郎さんと巳之助さんのは、楽しんで気楽に観られた。良いとか悪いとかいうことではなく、ここがどうでこうでとか考えずに観れたのである。棒に手をしばられても、後ろ手にしばられてもなんのその。お酒の好きな困った次郎冠者と太郎冠者である。

『ひらかな盛衰記ー逆櫓』。橋之助さんがしっか演じられるであろうと想像していたが、その通りになった。すっきりとして芯のある松右衛門、実は木曽義仲の家臣・樋口次郎兼光であった。樋口は漁師の権四郎(彌十郎)の娘・およし(児太郎)の婿として入り、逆櫓という櫓の使い方を習得する。梶原景時にその技量が買われ、義経の船頭を仰せつかる。その様子を義父と女房に話す時の松右衛門の自慢げなのも良い。

漁師・権四郎の家にはもう一つ事件が起こっている。およしの息子の槌松(つちまつ)が三井寺参詣のおり、大津の宿で取込みがあり、他の児と取り違えとなりその子を連れて帰り、その子の親が槌松を連れて来てくれるのを待っているのである。

実は連れてきた子供は、木曽義仲の遺児・駒若丸であった。訪ねて来た腰元のお筆(扇雀)は、そのことを告げ、槌松に早く逢いたいと思っている権四郎とおよしに残酷にも、槌松は駒若丸の身代わりとなって殺されたと伝える。権四郎は嘆き怒るのである。ここは、映画『そして父になる』を観ていたので、取り変えられたその後の深刻な問題も、二人が生きているということで生じるが、どちらかが亡くなっているとするなら、その嘆きはこの権四郎やおよしのような立場で、権四郎の彌十郎さんの怒りが響く。

義仲の家臣である松右衛門は、自分の素性を明かす。現代の感覚からすれば理不尽であるゆえ、ここでの樋口の大きさが物をいう。権四郎に駒若丸の前で頭が高いと言って頭を下げさせるのである。権四郎も婿の主君とあれば納得しないわけにはいかないのである。この場面の橋之助さんはしっかりと抑えた。

ことの次第がはっきりすると、駒若丸を助けるため権四郎は畠山重忠に樋口を訴人する。樋口と他の船頭たちとの立ち廻りも形よく決まる。権四郎は、駒若丸を槌松とし、樋口とは何の係りもない子供であることを強調する。権四郎が、駒若丸の命を守ろうとしているのを知った樋口は、おとなしく重忠(勘九郎)の縄にかかるのである。

『そして父になる』の映画の影響もあるが、それぞれの立場の役者さん達のしっかりした役の押さえどころによって、時代物に血が通って観れた。

時代物でも、武士と庶民の悲哀が重なる物もあるが、『逆櫓』もその一つである。その二重性をしっかり映し出してくれた。