松竹歌舞伎 『河内山』『藤娘』『芝翫奴』

松竹歌舞伎の地方公演ということになる。幾組かの役者さんの組み合わせで地方を」回られているが、こちらのコースは、橋之助さんを中心に児太郎さん、国生さん、錦吾さん、秀調さん、友右衛門さん等である。

『河内山』。江戸の末期に無頼に生きた6人を六歌仙に準え、<天保六花撰>といい、講談から歌舞伎に取り上げその中心がお数寄屋坊主の河内山宗俊である。ユスリもなんのそので、悪を美しく描くのが歌舞伎であり、スカッと恰好良くなければならない。そろそろ橋之助さんに乗り移るのではと期待していたら、形となった。色気もあるし、大きさも出た。悪の妖しい凄みには少し弱いが、上々である。

質屋の上州屋の場面で娘を難儀から救おうとするが番頭に難癖をいわれ、じゃ、俺は降りるよというあたり、話が決まり花道で算段を思案して思いつくあたりがいい。花道がないので気の毒であったが充分観客を納得させた。ただ、肝心のもし失敗すれば命がないというところがあっさりして薄味であった。

朱の衣もよく似合い品もある。山吹の小判を所望し、それを確かめる仕草も、時を告げる時計の音にびっくりするあたりの崩しかたも崩し過ぎずに気持ちよく収めてくれた。玄関前での啖呵も楽しませてくれる。死と背中合わせ悪事の無頼さの光はこれからであろう。数馬の国男さんは若すぎで浪路の芝のぶさんとのバランスがとれていなかった。大膳の橋吾さんが頑張った。秀調さん、芝喜松さん、錦吾さん、友右衛門さんがツボを押さえられた。

『藤娘』の児太郎さんは踊り込んだとの印象である。身体をよく使って覚え込んだ身体であると思って観ていたら、左右中央と挨拶をされる。観客に媚びづに静かに挨拶されるのも今の児太郎さんには合っている。何か舞台に落ちた。何がどこから落ちたのかは不明。舞台上に落下物がある。どうされるか意地悪く観察していた。身体の形が崩れる恐れもあるから、無視されるか、それとも処理さえるか。観客に気がつかれるなら手を付けないほうが良い。伊勢音頭のあと、座って自分もお酒を飲むところで、左手に落下物のある良い状態の位置につく。立ち上がる寸前、左手で落下物を隠す。隠すといっても、自然にそこに手がいった。立ち上がった時には落下物は無かった。袖にいれた様子の手の動きも見えない。余りにも自然であった。落下してから、児太郎さんの視線も動きも不自然な個所は一つも無かった。

児太郎さんは、器用なかたとは思えない。外野からの音に惑わされず一つ一つを身体で覚えていかれる。と思っている。これからもその様に進んでいかれてほしい。そして、そろそろかなと思う時、自分の息のあった色をさし、自分の色香として欲しい。急がないでじっくりと。

『芝翫奴』。『供奴』は、二代目芝翫さんが初演されたことから『芝翫奴』とも呼ばれる。踊られた国生さんが七代目芝翫の孫ということもあってであろうか。『芝翫奴』の題名で観たのは初めてである。若さ溢れ、国生さんもしっかり身体をを目いっぱい使われる。花道での左右の足を前で反対の足の膝まで上げ、そのあと爪先をさらに跳ね上げる所作があり、この足さばきも初めてである。主人を迎えにいく逸る気持ちや、仲之町への心の浮立ちであろうか。足踏みも元気であった。愛嬌が出るまでのゆとりは無かったが、これからもっと欲がでてくることであろう。

暑い夏には、演目の選び方もよかった。初めて歌舞伎を観られるお客様も楽しまれたことであろう。こちらも、溜飲が下がり、涼やかな美しさを味わい、元気の気を頂いた。

 

歌舞伎座7月『一谷嫩軍記』『怪談 牡丹灯籠』

『一谷嫩軍記』<熊谷陣屋>。海老蔵さんの熊谷直実である。どこがどうと言えないのであるが、心が動かなかった。時々気持ちを込めようとするのか、中途半端なリアルさが加わったりする。腹と心とのアンバランスを要する役どころであるが、海老蔵さんの場合はまだまだ役者人生の時間があるので、鯛焼き君で良いと思う。

皮となる材料も中のあんこも決められた分量で、形よく、毎日毎日焼かれてみる。中が半焼きになっていなくて、外目の焼き具合も形よく、同じになって初めて欲をだし、材料の分量と焼き具合を工夫する。嫌になるまで焼かれてみる。これって結構必要なことなのではと思った次第である。近頃の海老蔵さんの器用さが気になるところである。

相模の芝雀さんと、藤の方の魁春さんの、母親としての息子に対する想いが、それぞれからの相乗効果も加わり、静かに底力を含んで伝わってくる。お二人のたたずまいが存在感を大きくし、その点でも、海老蔵さんの熊谷がお二人を抑える力の不足を感じてしまうのかもしれない。力強さと共に動きのゆとりみたいなものであろうか。ずしんとくるのに形は崩れることがなく、それに台詞が歌うのではなく乘っている状態そんな熊谷を期待していた。

義経が梅玉さんである。それに連なる若い四天王、巳之助さん、種之助さん、廣松さん、梅丸さんが、しっかりした視線で控えている。今回は梅丸さんに拍手である。弥陀六の左團次さんは安定しているので、この辺りからは気が抜けて、最後の熊谷の花道の引っ込みが、やはり物足りなかった。リアルさはいらない。無の悲しさでいい。

『怪談 牡丹灯籠』。玉三郎さんに嵌められた、中車さんと観客である。中車さんの台詞を生かすために仕組まれたのではないかと思わせる舞台であった。伴蔵の中車さんの台詞も動きも抑え気味である。そのことが反って中車さんの台詞術と演技力を際立たせ、玉三郎さんの女房お峰とのバランスと掛け合いの面白さを増した。

浪人であるが美男の萩原新三郎は旗本の娘・お露に一目惚れされ、お露は会えないため恋焦がれて亡くなってしまう。亡くなってもこの世に迷い出て乳母のお米と牡丹灯籠とともに新三郎宅を訪ね、新三郎と逢瀬を楽しむ。幽霊に取りつかれたわけである。新三郎は幽霊と気づき身を案じて、懐には金の海音如来を、家の周りにはお札を張り巡らす。幽霊は、百両を渡して、伴蔵に仏像とお札を一箇所だけはがさせる。そのことにより新三郎はあの世へ連れ去られてしまう。伴蔵夫婦が新三郎を殺したわけで、そうなると、江戸には居られず、栗橋に引っ越し、百両を元手に商売を始め上手くゆくのである。

伴蔵は幸手宿の笹屋に勤めるお国に入れ込み、江戸での長屋住まいのお六が訪ねてきて泊まる。お六は夜中に突然何かに憑りつかれたように、伴蔵がお札をはがして新三郎を殺したと言い始める。伴蔵はお六を殺し、お峰までが同じことを言い始め、お峰をも手をかけてしまう。

伴蔵は、お峰と二人で、幽霊の頼みをきいて二人で悪事を働いて共に生きて来たのに、お峰をないがしろにして一人になった事に恐怖と後悔の想いを抱きつつ花道を去る。中車さんはこのラストが違和感なく伴蔵を演じ運ばせた。

この花道の去り方と終わり方に驚いたが、そういう結末にするように、玉三郎さんと中車さんの伴蔵夫婦の掛け合いの台詞劇はながれていた。

原作では、幸手の土手で、伴蔵はお峰をだましうちにするのである。殺す気で殺すのであるが、今回は殺す気がなくて殺してしまう形となっている。初めて観る流れである。

幽霊にお札をはがすことを頼まれて恐怖の伴蔵に、百両要求すればあきらめるであろうと提案したのはお峰である。この辺りの庶民の幽霊に対する恐怖と貧乏に耐えている庶民の悲しくも可笑しい様子が浮き彫りにされる。栗橋でお国のことを問いただし、伴蔵に丸め込まれるお峰と伴蔵のやりとりなど上手い台詞劇である。

お峰が伴蔵とお国の仲をお酒で聞き出すのが馬子久蔵の海老蔵さんで、観客サービスたっぷりの楽しい一場面である。円朝役の猿之助さんも背中を丸め噺家円朝らしい雰囲気を出した。お国の春猿さんも、伴蔵をとりこにする色気があった。

萩原新三郎(九團次)、お六(歌女之丞)、お露(玉朗)、お米(吉弥)、お国(春猿)、山本志丈(市蔵)、定吉(弘太郎)

 

歌舞伎座7月『南総里見八犬伝』『与話情浮名横櫛』『蜘蛛絲梓弦』 

『南総里見八犬伝』の<芳流閣屋上の場>と<円山塚の場>である。<芳流閣屋上の場>は、犬塚信乃と犬飼現八がお互い八犬士として仲間であることを知らずに、芳流閣の屋根の上で相争うのである。歌舞伎では、舞台上の屋根が二人を乗せたまま後ろへどんでん返しとなり、激し立ち廻りとともに見せ場の一つである

犬飼現八の市川右近さんは、こういう動きは得意である。犬塚信乃の獅童さんは得意そうでいて意外と身体が硬いのであるが、動きつつの首から肩の線が良くなった。

<円山塚の場>は、八犬士が一同に会するのであるが、暗闇の想定で、暗闇の中を探りつつ動くだんまりの場である。修験者の犬山道節の梅玉さんが出と引っ込みに統率力を見せる。犬塚毛野の笑也さんの古風な妖艶さがいい。犬田小文吾の猿弥さんの相撲取りとしての動きが良い。犬川荘助に歌昇さん、犬江親兵衛に巳之助さん、犬村角太郎に種太郎さんで、市川右近さんと獅童さんが加わり一つ一つの動きを丁寧に扱い、退屈のすることないだんまりであった。

浜路の笑三郎さんと網干左母二郎の松江さんの殺しの場も形通りに納まった。弘太郎さんと梅丸さんとの場面も足並みそろって行儀よかった。梅丸さんの手の置き方からくる高貴さに驚いた。これ一つで違うのである。

『与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)』は、あまりにも有名なお富さんと与三郎の<見染め>と<源氏店>である。まさしく見染めである。玉三郎さんのお富が粋で、鼻緒が黒であった。与三郎の海老蔵さん、お富に見惚れて羽織を滑り落とすのであるが裏地には牡丹が描かれていた。ただ、羽織落としの段取りが見えてしまった。こちらの目が意地悪になったのであろうか。

<源氏店>での、お富の湯からの帰りの小さなぬか袋の赤と洗い髪の大きな横櫛が何んとも色香を立ち込めさせる。番頭藤八の猿弥さんはさりげなく居座るところがよい。蝙蝠安の獅童さんは、こういうクセのある役になると頭角を現す。それと対称的な落ちたにしてはまだ色男の美しが抜けない与三郎を引き立たせる。海老蔵さんは、切られ与三郎の赤い傷あとを見せつつ、拗ねた感じと怨みをたっぷりでありながら未練の残る様を上手く出した。和泉屋多左衛門の中車さんは玉三郎さんの、お富の兄としては貫禄不足であるが、おさまっていた。九團次さんの身体の上下のバランスがよくなった。

裏世界の闇に開いた華麗な風景となった。

『蜘蛛絲梓弦(くものいとあずさのゆみはり)』は分りやすく楽しい変化舞踏であった。猿之助さんの六変化の舞踊を楽しめ、終盤戦の海老蔵さんの平井保昌の押し戻しが入っての舞台は締まりきっちりと幕となった。

猿之助さんの女童からして、その特色が際立ち踊りも面白い。そして頼光を守る四天王の坂田金時(市川右近)と碓井貞光(獅童)をたぶらかし、薬売り、新造、座頭、傾城と踊り分けて行く。やはり猿之助さんの動きは楽しませてくれる。引っ込みや出も、澤瀉屋のケレンを上手く使い、そのことがかえって変化物の軽快さを増してくれる。四天王の渡辺綱の巳之助さんと卜部季武の喜猿さんがいい。このコンビの衣裳の色も素敵である。巳之助さんの下半身がしっかりしてきた。

なぜ海老蔵さんの平井保昌なる人物がでてくるのかよくわからないが、よくわからないのも歌舞伎の内である。衣裳ばかり褒めるようであるが、この衣装の色どりが綺麗である。モダンなさすが荒事の成田屋である。

猿之助さんの蜘蛛の糸も綺麗にまき散らされ、蜘蛛の精となっての子分の蜘蛛の数も少なく、品のある源頼光の門之助さんと四天王との立ち廻りを多くしたのが優雅さも加わり舞台を大きくした。

珍しく舞台写真を眺めたが、海老蔵さんが抜けていたので購入はやめた。七人写ったのでは一人があまりにも小さくなるのでまあ無理ではある。

 

 

新橋演舞場 『阿弖流為(あてるい)』

染五郎さんが『アテルイ』を演じたときに観ている。坂上田村麻呂が堤真一さんである。アテルイと田村麻呂の立場を超えた男気も呼応といった感じで面白かった。

阿弖流為(染五郎)は蝦夷(えみし)で田村麻呂(勘九郎)は大和とそれぞれにと生きている土地が違う。大和朝廷は、蝦夷を大和に吸収し一国としようとしている。そのやり方に蝦夷の人々は納得できず抵抗する。その中心的人物が長の息子・阿弖流為なのであるが、そこが事情があるらしく紆余曲折である。この事情が、ずーっと阿弖流為の気持ちにしこりをのこすのである。

田村麻呂も、姉が帝を操る力をもっている巫女・御霊御前(萬次郎)で何かとそちらになびかせられ、叔父の藤原稀継(彌十郎)にも大和のために利用されるという足かせがある。

戦さとなっても、それぞれの生き方を貫くことで、お互いを認め合おうとする阿弖流為と田村麻呂二人の想いは一筋縄ではいかないのである。

阿弖流為の事情というのは、阿弖流為は恋人の鈴鹿(七之助)が人が入ってはいけない神の領域に入り、神の恐れから鈴鹿を救ってやるが、それが神を怒らせ、蝦夷の一族全体に神の災いがあるとして、二人は蝦夷を去る身となっていたのである。しかし、大和の横暴さに、阿弖流為は立烏帽子という盗賊になった鈴鹿と再び蝦夷のために戦うのである。しかし、神というものは、そう簡単には許さないのである。

そういうなかで、裏切者はいるもので、蝦夷であるのに懲りずに大和についたり、また戻ったりとする男が、蛮甲(亀蔵)である。このパートナーが熊子である。めす熊ちゃんである。熊がビラ配りなんぞしているので、この熊はいったい何と思って居たら、七之助さんが「ハーイ!」と手をあげて聞いてくれた。タイミング抜群である。熊子ちゃんは蛮甲のパートナーと判明。

何かの恩返しではなく、熊のままの姿で日蔭者ではない。愛する蛮甲のためなら火の中、水の中である。裏切りまくる蛮甲であるから、人間では心理が重くなる。そこが熊子ちゃんの存在たる由縁であろうか。人間の術策陰謀がまかりとおるので、このコンビなかなかである。終盤の熊子ちゃんの行動は驚きである。そのことによって、蛮甲はとんでもない役目を働き、蛮甲おとこでござるとなるのであるから。熊チョップも凄いが、それよりも蛮甲に対する愛の深さが凄い。

花道を二つ使い、阿弖流為と田村麻呂の別々の道をも現している。もう少し阿弖流為と田村麻呂との関係に捻じれがあってもよかったと思う。二人とも良い男の感じが物足りなさを残した。染五郎さんも勘九郎さんも動きはさすがで、何処かで殺陣の手順を勘違いしないであろうかと心配してしまうほどの動きの回数が多い。動くためか、染五郎さんの声が少々籠る時があるのが残念。

七之助さんの立烏帽子と鈴鹿の違いがいい。阿弖流為の内面の投射の役目をはたす。是非古典でもこの変化生かして見せて頂きたい。萬次郎さんの巫女は、独特の声できっちり大和をしきり、彌十郎さんの権力者としての野望とエゲツナサもよく出ていた。

パンク頭の亀蔵さんのノリで変わる生き方と熊子ちゃんに愛されたツキのよい蛮甲も合っていた。静かめの新吾さんがかえって印象を残す。

観て聴いて、頭の中で話しの積木を積んでいくので、細かく一人一人の役者さんを捉えていられなかったが、積木は崩れることなく満足いく完成度であった。

自分の運命を納得し、阿弖流為は田村麻呂に託すのである。

腕のペンライトが時間で光り出すのは、ねぶたの神の仕業であろうか。

作・中島かずき/演出・いのうえひでのり/出演・市川染五郎、中村勘九郎、中村七之助、坂東新吾、大谷廣太郎、市村橘太郎、澤村宗之助、片岡亀蔵、市村萬次郎、坂東彌十郎

 

 

国立劇場 『義経千本桜 <渡海屋の場><大物浦の場>』

国立劇場大劇場は6月に続いて7月も歌舞伎鑑賞教室である。

観た日は学生さんで満席状態であった。三階席の一番後ろで観ていて、この作品を歌舞伎初めての学生さんが三階席では辛いなと思った。

萬太郎さんが、「歌舞伎のみかた」の解説をされたが、この演目に関してはもっと詳しく説明してもよいと思った。実は何々であったという展開になるので、前と後の役の映像を使ってインプットさせて、その展開を納得ずくで楽しむという形をとっても意外性が損なわれることはないであろう。むしろその違いを楽しめたのではなかろうか。

菊之助さんが渡海屋銀平から知盛となる。それも、知盛は死んだと思われているのが、実は生きて源氏を討つ機会を狙っているという設定である。そのため知盛は亡霊知盛として源氏の前に出現するわけで、その辺はイヤホンガイドで説明しているのであろうが、三階席では顔が解からない。たとえば、菊之助さんという役者さんを知っている場合は扮装が変っても変わったことが分るのである。その辺が初めての観客にとって国立劇場の三階からではハンデとなってしまうと感じたのである。

平氏と源氏の説明もされたが、そこを、具体的に役として映像を使い、平氏と源氏に分けて説明してしまって、最後の戦いに挑む平氏の苦肉の策を三階席の観客にもっと感じてもらう工夫があって良いと思ったのである。

平家の船の灯りが消え、もうこれで終わりかと、安徳帝に仕える乳母の典侍(すけ)の局が帝に「お覚悟を」と海へ向かう。帝は、覚悟、覚悟と言うが、どこへ行くのかと尋ねる。このあたりは、学生さんも乗り出していた。海の下と言われて幼い帝は恐ろしいという。それはそうである。戦の犠牲となる幼子の悲哀は身分に関係なく人としての目の前の恐怖である。

ここからが、安徳帝が義経に助けられ知盛が入水する難解な部分である。ここは、客席を芝居の世界に取り込まなくてはいけない部分で、知盛の負ける武士の怨みもあり、諦めあり、戦の虚しさも渦巻くところである。渦巻くまでにいたらなかった。

口跡がよく、役者さんのほとんどのセリフがはっきりしていて聞きやすかった。それに加え身体のほうは、まだついて行けないところが見てとれた。

オペラグラスから見える役者さんの顔は皆さん凄くよくて、大役に押しつぶされないだけの真摯さで溢れていた。若い観客にも押しつぶされないだけの気概があったが、取り込むだけの力にはまだ時間が必要のようである。

学生さんたちも、何かよく判らなかったと思われたなら、もう一度資料を読み返して、あの解説していた人が義経で、義経は知盛のことを見破っていたのか。あのよくしゃべってた船を用意する女の人は、安徳帝の乳母で、夫が本当は夫ではなく知盛なんだ。二人の追い返されて魚のラップをやっていた侍も知盛側だったのか。とでも思い描いてくれることを期待したい。

『義経千本桜』とあるから、義経が主人公と思ったら違ってたなあ。などの疑問でもよい。疑問から少しだけ、ぐるっと周囲を見回して欲しい。よくわからないのも、経験の一歩である。

こちらはその連続である。その引っ掛かりに、時には、天女の羽衣がフワァ~と一瞬留まってくれることもあるのだから。

平家側 - 渡海屋銀平・実は知盛(菊之助)、銀平女房お柳・実は典侍の局(梅枝)、北条時政の家来と名乗るが実は知盛の家来・相模五郎(亀三郎)と入江丹蔵(尾上右近)、銀平の娘・実は安徳帝

源氏側 - 義経(萬太郎)、武蔵坊弁慶(菊市郎)

 

『陰陽師 平成講釈 安倍晴明伝』(夢枕獏著)

夢枕にはまだ立たられてはいないが、夢枕獏さんとは、今、相性が良いみたいである。本屋さんで『陰陽師 平成講釈 安倍晴明伝』を見つけるというか、呼ばれたというか。

帯には <少年・尾花丸は、いかにして安倍晴明となりしかー 名付け親は蘆屋道満だった!?> <陰陽師外伝>とある。安倍晴明の生い立ちと成長記録が書かれているのであろうか。今のこちらの状態としては、熱中症の水分のようなものである。

安倍晴明の先祖から始まって、保名が出てきて、白狐もでてきて、その間に生まれた子は信太丸で、えっ!尾花丸ではないの。信太丸は白狐の母親の後を追いかけて行方知れず。その後に、保名と加茂保憲の娘・葛子姫との間に生まれたのが、尾花丸である。そんな、もし、このまま信太丸が行方不明のままなら作家として許せないと思っていたところ、許してしまう結果となるのである。

この本のネタ本も紹介され、夢枕獏さんは、平成の講釈師・夢枕獏秀斎となって語り、手の内も見せ、実生活の観劇のことや旅の途中であることなども出現し、怪しき手を使われる。そのため、読み終わってからこちらも、えーと、この歌舞伎は観ていたような、いないようなとチラシを捜すやら、DVDを観るやらてんてこ舞いさせられたのである。

夢枕獏さんは玉三郎さんの舞踊『楊貴妃』の作詞をされている。さらに『三国伝来玄象譚(さんごくでんらいげんじょうばなし)』の舞踏劇脚本も書かれているとのこと。ありました。1993年10月昼の部です。羅城門の鬼女・沙羅姫を玉三郎さん、安倍晴明を橋之助さん、源博雅を弥十郎さん、蝉丸を十八代目勘三郎さんが勘九郎の時である。しかし、内容が全然思い出せない。『人情噺文七元結』のお久で松たか子さんが出られていてその姿と『鷺娘』は記憶に残っているのであるが、理解できなかったと思われる。

というわけで、歌舞伎のこともチラチラとでてきて、短いが結構気になることを書かれているのである。コクーン歌舞伎のこと。『お夏狂乱』などの解釈も興味深く、玉三郎さんのDVDを観なおしたが、解かるはずもない。

時には、漫談風で笑わせられたり、歴史的面白を加味されたりして変幻自在である。そしてしっかり、尾花丸(安倍清明)と蘆屋道満の呪詛合戦も堪能させてもらった。

『陰陽師』は歌舞伎と映画でしか観ていないが、それらと比較すると『安倍晴明伝』は雰囲気が違っていて人形アニメのような映像が頭の中で映し出されていた。

そして、様々な地層が断面図となって現れるように、歴史的人物や、伝説的人物、妖怪などがそれぞれの地層としてずーっと横に流れて続き、また新たな地層が現れるといった感じである。

一気に読ませてもらった。益々、京都に違う面白さが加わり、それがまだ残っているというのが有難い。

歌舞伎座 『九月花形歌舞伎』 (2)  歌舞伎座『陰陽師』は2013年の「九月花形歌舞伎」だったのである。自分の書いたのを読みつつ、このメンバーで再演して欲しいと思うが、今となっては無理であろう。しかし、もう少しきちっと歌舞伎の型を作りあげれば、次の若手へ引き継ぐ演目の一つになると思う。

 

 

国立劇場 『壺坂霊験記』

歌舞伎鑑賞教室なので、学生さんが主客である。「歌舞伎のみかた」の解説があり、小さいが優れもののパンフも配布される。今回字幕表示もあったが、字幕表示を見ていると役者さんの演技を見落とすので、最初目にしたが忘れてしまった。

物凄い元気の良い学生さん達で、どうなるのかと思って居たら、場内が真っ暗になるとピタッとおしゃべりが消えた。幕が開くと何もない広い舞台である。花道のすっぽんから亀寿さんが上がってくる。効果的な出であった。歯切れよく説明され学生さん達も興味深々である。女形さんのお姫さまのお化粧から着付けまでの仕上げを見せ、映像つきなので細かいところまでよく判った。一緒に参加して女形の基本を教えてもらった男子学生さんも、笑いをとりつつ、楽しんでいた。

『壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)』は奈良にある壷阪寺の観音様が、眼の不自由な夫と献身さゆえの信仰深い妻との夫婦愛に、命を救い、眼も見えるようにしてくれるという霊験のお話である。

パンフ等の説明によると、『観音霊場記』というのがあり、西国三十三ヶ所の霊場を一つを一段として、三十三段で構成されているらしい。そのうちの一つが第六番札所の南法華寺で、壺阪山にあるので、「壷阪寺(つぼさかでら)」と呼ばれている。清少納言の『枕草子』にも出てくるお寺である。

浄瑠璃では、桓武天皇が奈良の都におられたとき眼病を患い、壺阪の尊像に道喜上人がご祈祷し平癒されたという言い伝えがあると語られ、眼病にきくお寺として名が通ていることがわかる。そういう事も踏まえ、『壺阪霊験記』が浄瑠璃となり、現在の歌舞伎となって残ったのである。

眼の不自由な沢市を亀三郎さん、お里を孝太郎さんでの舞台である。役者さんは二人だけで、最後は奇跡が起こるハッピーエンドである。舞台も「歌舞伎のみかた」の時には何もなかったのが、沢市の家、壺阪観音堂の前、谷底と三つの場面があり、何もない舞台に作られる舞台装置にも学生さん達は目がいったことであろう。

孝太郎さんと亀三郎さんは初役だそうであるが、声質が似ていて、気持ちが響きあう。孝太郎さんは、最後まであきらめず沢市を快活さも出しつつ励まし、沢市に夜な夜な夫のためにお詣りに行くのを、男があるのではと疑われ、時にはきりっと情けなさをあらわした。

二人で明るく壺阪にお詣りに来るが、沢市は三日間断食をして祈願するから用事を済ませにお里は家に帰るようにと、お里を家に帰す。そこからの沢市の絶望的な心の内と死までの過程を亀三郎さんは変化をつけ表現する。

もどって沢市のいないのが信じられないお里。貧乏にも耐えてきたのは誰のためなのか。お里の後追いにも嘘が無い。それを見ていた観世音が現れ、命をのばしてくれ、沢市の目を治す奇跡を起こしてくれる。その後の二人の倖せさは、花道の引っ込みで充分表現された。

若い人たちのせいか、幕が引かれての拍手の響きいい。拍手の叩きかたにも年の差があるのであろうか。耳の錯覚か。

 

気分回生には玉三郎舞踊集

気分転換でなくても当たると思うのが、玉三郎さんの舞踊集DVDである。明治座5月の『男の花道』で、猿之助さんが、歌右衛門がお風呂帰り花道を、長谷川一夫さんが、長唄の『黒髪』の独吟に乘って出るという情報を得た。猿之助さんの出がそうだったかどうかは、観た後の情報なので捉えていない。その程度の音感ということである。

ただ、金谷の宿でだったと思うが御簾から良い音曲が流れていたのは記憶にある。なんだろう後で調べようと思って詞を気をつけていたが、見事に忘れている。それはいいとして、『黒髪』が気になる。手もとには玉三郎さんの舞踊集の地唄の『黒髪』がある。やっと手が伸ばせる時間がめぐった。今回は詞の字幕、解説つきで観る。人の意見に左右されやすいので、解説つきでみるのは初めてである。こちらの想いの邪魔にはならなかった。次が大好きな地唄の『鐘ケ岬』である。もうはまってしまった。

舞踏集2と6を一気に観た。詞の重なり、枕詞、などなどもうたまらない。なんでこう遊び心を挿入しつつ人の想いを伝えられるのか。そしてそこに玉三郎さんの踊りがある。『鷺娘』など<妄執の雲 晴れやらぬ 朧夜の恋に迷いしがわが心・・・>とはじまり、最後は地獄の呵責の責めに合い死んでいくわけだが、その間に傘づくしなどがあり、傘を車に見立てた箇所では、『日本橋』のお孝を思い出す。『鷺娘』は舞台でも何回も観ているのに改めてその新鮮さに驚愕してしまった。

荻江節の『稲舟』は、最上川を渡る稲穂をつん小舟のことなのだそうで、最上川特有の風物だったそうだが、玉三郎さんは、遊女の恋という設定である。日本各地の風物も詞に入っている。

『藤娘』では、近江八景が歌いこまれている。行ったところが半分、行っていないところが半分。この機に、今年は制覇しようなどと余計なことも考える。

『保名』は、どうも中だるみしてしまう。<男物狂い>で気がふれて亡くなった恋人を捜したり、幻覚をみて恋人の打掛を恋人にみたてたりする。この作品は保名の美しさだけでは物足りないのである。具体的な物語は語られないのである。

そこで、大川橋蔵さんの映画『恋や恋なすな恋』を見直す。1962年の作品で監督は内田吐夢監督である。1959年に萬屋錦之助さんの『浪花の恋の物語』を内田吐夢監督が撮っていて、橋蔵さんの役の流れに違う流れも入れてみようとされたと思う。脚本・依田義賢、音楽・木下忠司、美術がのちに『トラック野郎シリーズ』の監督・鈴木則文、撮影・のちに任侠映画の吉田貞次。1962年には橋蔵さんは大島渚監督の『天草四郎時貞』にも出られていて、時代劇スターの変わり目の時期であることがはっきりしてくる。『天草四郎時貞』は、橋蔵さんに合わなかった。権力者と宗教、信者のキリスト教の解釈も絡んでくるので大島監督流の問題提起の映画である。

『恋や恋なすな恋』は、保名(大川橋蔵)が天文博士・加茂保憲の一番弟子なのであるが、跡目相続の争いに負け、師匠の娘で恋仲の榊(嵯峨美智子)にも死なれ気がふれてしまう。その場面を踊り『保名』として作ったわけである。映画のなかでも保名は踊るのである。そのあと、狐葛の葉(嵯峨美智子)との場面となるが、保名に恩ある狐が、榊の妹・葛の葉(嵯峨美智子)になりすますのである。映画ではその場面は舞台上での物語として設定している。いわゆる安倍清明の誕生と狐葛の葉との別れである。幕がぱっと落とされたような場面展開や、一面菜の花での保名の狂乱振りなど映画と舞台との共存のようである。

最期は、病が治ったと思った保名は踊っていた保名で、恋人の小袖をかぶって伏してしまう。そして、狐の葛の葉の鬼火であろうか、石の周りを飛び回っている場面で終わりである。あの石は、保名なのであろうか。理解に苦しむ終わり方である。保名と榊との関係から舞踏『保名』が生まれ、保名と葛の葉の関係までは、歌舞伎や文楽では『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』がある。通しで観たくなる。

トントンとノックして返事の無い部屋に入り、様々な想いをもらって後にするプロの部屋は新たな気分を発酵させてくれる。素人に媚びたプロの仕事は爪痕しか残さないが、素人に媚びないプロの仕事は足跡を残す。時には、痕跡さえも消え、ふたたびノックさせるのである。

歌舞伎座6月 『天保遊侠録』『夕顔棚』

『天保遊侠録』。十一代将軍家斉の時代とあり、この芝居の主人公、小吉の息子の鱗太郎が言うように、新しい時代のくる兆しのあった時代である。それは、小吉が、無役から役につこうと、向島の料亭で上役に接待し、上役が傍若無人という武士の腐敗した姿を映し出している。

小吉は後の勝海舟(鱗太郎)の父である。小吉は勝家に養子に入った人物で、養子でありながら成人してからも放蕩生活を続け、座敷牢に入れられた、その時期にできたのが鱗太郎である。それらの事はセリフで語られる。

武士の腐敗と小吉の生き方などを全てセリフで理解し、小吉の生き方から、到底我慢できる世界ではないということがわかる。観ていて思ったのだが、小吉が爆発して全てをぶち壊すのは、甥の庄之助が一同にばかにされてである。小吉は、庄之助の姿に役についた時の自分の姿を見たのである。鱗太郎はその父の姿を見て呑み込み、父に代わって若君のお相手としてお城に入ることを決めるのである。

今回、残念だが鱗太郎のセリフにさらわれて人情噺になってしまった。小吉の橋之助さんには、もう少し大きな小吉を見せてもらいたかった。小吉に対しては、姉である阿茶の局である魁春さんが、きちっと一同に言い渡してくれる。小吉が父として息子に見せたくない部分を息子はしっかりわかっている。小吉は自分の行動を理路整然とは語れず、啖呵を切るだけである。それがこの人の生き方であり魅力である。この時代の風の中で遊侠でしか自分を表せられない小吉である。そこのあたりの人間像をもう少し骨太に押し出して欲しかった。

かつて駆け落ちした八重次の芝雀さんとの最後の場面に、小吉の照れ隠しの本音が上手くおさまり、良い幕切れであった。勘三郎さん、三津五郎さん亡きあと、橋之助さんに対する期待が大きいゆえの感想になってしまった。

團蔵さんが、聞きやすいセリフで、ややこしいしきたりなどを説明してくれたので、小吉の押さえが効かなくなっていく流れ上手くかぶさった。庄之助の国生さんは、セリフの多い役だけに、時々言葉がはっきりしないのが残念であった。

『夕顔棚』は、菊五郎さんと左團次さんは地そのものではないかと思われるような息の抜き方が楽しかった。お風呂からあがったお爺さんとお婆さんが、お酒を酌み交わしつつ、盆踊りのお囃子にのって昔を思い出しながら踊るのである。

清元と三味線を聞いていると、この老夫婦の若い頃の色気が彷彿としてくるから不思議である。このあたりに邦楽の艶の力を感じる。里の若者たちが二人を誘いに来て軽快に踊る。舞台がぱっと明るくなり良い感じである。里の女の梅枝さんと、里の男の巳之助さんのコンビがほのぼのとした健康的な色気を振りまく。

たわいない老夫婦の倖せが心地よい舞台となるとは、菊五郎さんと左團次さんのたわいなくはない舞台裏のありそうな芸道であろうか。

 

 

歌舞伎座6月 『新薄雪物語』

『新薄雪物語』は昼夜にまたがっており、昼が<花見><詮議>、夜が<広間><合腹><正宗内>であった。

奉納の刀に、鑢(やすり)で傷目がついていたことから、天下調伏の疑いをかけられた幸崎(さいざき)家と園部家の悲劇の話しである。

鑢で傷目をつけるのが、団九郎で、それを操っているのが、秋月大膳である。証拠隠滅で、普通下手人は殺されるのであるが、大膳は団九郎を殺そうとするが見逃すのである。この部分が以前から納得いかなかったが、今回分かった。

団九郎は吉右衛門さんである。大膳が仁左衛門さん。あらすじを読んでいなかった。<正宗内>という場面がある。今回は、刀に関係する刀鍛冶の話しがついているのである。団九郎が殺されなかったのは、<正宗内>で団九郎の話しとなるからである。今まで、<正宗内>はあまり上演されないので、団九郎は中心人物ではなかった。

夜の部の入場口で、よろしければ参考にと、昼の部の簡単なあらすじと、人物相関図の紙を渡された。<合腹>までは以前観ているので、<正宗内>の人間関係が一目瞭然で助かった。

園部家の子息・左衛門(錦之助)は、刀を打った名匠・来国行(らいくにゆき・家橘)、奴・妻平(菊五郎)と共に清水寺に刀を奉納に来る。先に花見に来ていた幸崎家の息女・薄雪姫(梅枝)は、腰元・籬(まがき・時蔵)と妻平に左衛門との仲をとりもってもらう。その時の艶書には、「刀」の字の下に「刀の絵」その下に「心」で、「忍」となり、忍んで逢いにくるようにと薄雪姫の想いが書かれていた。美しい梅枝さんと、しっかり柔らかさの身についた錦之助さんを取り持つ、余裕の菊五郎さんと時蔵さんで安心して観ていられる。

薄雪姫に心ある秋月大膳は、団九郎に奉納の刀に鑢目を入れさせ、それを来国行に見とがめたれ、小柄を投げ殺してしまう。ここで、団九郎も殺すつもりであったが、見逃すのである。この時の仁左衛門さんと吉右衛門さんの悪の呼吸の決めがいい。久しぶりの空気の振動である。大膳の園部家と幸崎家を失脚させる策略であった。

<花見>の場の最後は、妻平が、大膳側の水奴との大立ち廻りである。水奴ということから、水桶を持ったり。傘をもったりで、二回ほど妻平を囲んで三角形の幾何学模様を作り、見た目にも楽しい立ち廻りであった。

<詮議>は、幸崎家邸にて、葛城民部(菊五郎)と大膳の弟・大学(彦三郎)を上段に、下段には、園部兵衛(仁左衛門)、左衛門(錦之助)、幸﨑伊賀守(幸四郎)、薄雪姫(児太郎)が控えているが、国行も殺され、左衛門と薄雪姫には身の潔白を証明できない。兵衛と伊賀守の辛抱どころであり、二人は花道に渡り話し合い、それぞれが相手の子供を預かり詮議して事の次第を白状させることを申し出る。民部も承諾し、左衛門と薄雪姫との手を自分の開いた扇の下で重ねあわさせ、いずれはと希望を持たせる。重苦しい中にわずかな情をかもしだす。錦之助さんと児太郎さんのそれぞれ顔を合わせつつの交叉する別れに悲哀があった。幸四郎さんと仁左衛門さんの親としての腹の据えどころもいい。

<広間・合腹>である。薄雪姫は今回、梅枝さん、児太郎さん、米吉さんの三人がそれぞれ勤めた。ここは米吉さんで、三人三様の薄雪姫であった。何れは通しで演じることを胸に闘志を燃やしてほしい。兵衛は薄雪姫を逃がすことに決める。この場ですすすっと別室から出てきた腰元の足さばきがよい。腰元・呉羽の高麗蔵さんであった。ちょうど、先代の又五郎さんと佐貫百合人さん共著『ことばの民俗学 4 「芝居」』を読んでいたら、歌舞伎についての実践的なことや色々多義にわたることが書かれてあって、そのことが頭にあってか、足さばきが目に入ってしまったのである。

足さばきだけではなく、役の性根もしっかりしていた。この場の主人・園部夫婦(梅の方・魁春)の窮地、薄雪姫を守れという任務。ことは重大である。その責務を受ける腰元としての動きがいい。この人なら、おぼつかない薄雪姫を守って行けるであろう。やはり託す人によって、その場の雰囲気も変わってくる。左衛門に会えないのを悲しがる薄雪姫と自分の娘として送り出す園部夫婦。

幸崎家から左衛門の首を落としたとして、その刀が使者(又五郎)によって届けられる。その刀で薄雪姫の命をとの口上である。その刀を見て、兵衛は伊賀守の真意を悟る。お互いに通じ合った二人は、蔭腹を切り子供たちの命を嘆願する行動に出るのである。伊賀守、梅の方、兵衛、三人の泣き笑いとなる。ここが見せ場、聞かせどころである。幸四郎さん、魁春さん、仁左衛門さん、それぞれの役者さんがどう表現するのか。こちらも息をつめてその笑い方を待ち、圧倒された。伊賀守の妻・松が枝(芝雀)も訪ねてきて、男親二人を見送るのである。

<正宗内>。殺された国行の父と師弟関係なのが団九郎の父五郎兵衛正宗(歌六)で、団九郎は父の師匠の息子国行の打った刀にやすり目を入れたのである。国行の息子・国俊(橋之助)が放蕩から父に勘当され身を隠して正宗の弟子となり、娘のおれん(芝雀)と恋仲である。

仕事場で三人が刀を打つ音がいい。正宗は、息子団九郎の悪事を見抜き、刀鍛冶の秘伝である焼き刃の湯加減を息子には教えず、風呂の湯で国俊にそっと伝授する。それを察し、湯に手を入れた団九郎の手を切り落としてしまう。父・正宗に諭され改心した団九郎は、追われてきた薄雪姫を助すけるべく、片腕で捕り手と大立ち回りとなる。

<正宗内>は初見なので期待していたが、吉右衛門さんの息子と歌六さんの父との名コンビのセリフが深くならず、団九郎の改心がすんなり心に落ちてこなかった。立ち廻りも工夫しすぎの感があり、ツケの効いた基本的な立ち廻りにして欲しかった。期待しすぎで少し気がぬけた。

しかし、これだけの役者さんを揃えての、<正宗内>までの『新薄雪物語』は暫くはないであろう。