上野から四世鶴屋南北終焉の地へ(3)

行徳の散策のほうへ移りたいと思ったのですが、南北さんの連理引きなのでしょうか、また深川です。

行徳は、以前『たばこと塩の博物館』で、塩の講座がありそのとき当然、行徳の塩浜についても話があり資料をもらったので、その資料があればもっと話は膨らむかなと思って探したのですがでてきませんでした。そのかわりに、江東区の観光イラストマップがでてきまして、そうかやはりこれも最後に紹介すべきかと思い至りました。

こういうのもあるのだということで参考にしてください。

黄色丸は、松尾芭蕉さん関係です。以前ふれましたので位置だけです。

朱丸は見えにくいかもしれませんので簡単に。深川神明宮の前の朱丸は書かれていませんが美人画の日本画家「伊東深水誕生の地」。隅田川にそってさがりますと「平賀源内電気実験の地」。清澄庭園の向かいが、「滝沢馬琴誕生の地」。その右に「間宮林蔵の墓」。間宮林蔵さんは、晩年は深川蛤町(門前仲町付近)に住んでいたようです。幕府役人のころは伊能忠敬さんに、測量術を学んでいます。その「伊能忠敬住居跡」が深川東京モダン館の下にあります。伊能忠敬さんは50歳で家督を息子に譲り日本地図を描くための勉学に励みます。全国の測量に旅立つ前には富岡八幡宮に必ずお参りしたそうです。深川東京モダン館の下が「小津安二郎誕生の地」。

そして、黒船橋を渡ったところが、「四世鶴屋南北終焉の地」です。

深川東京モダン館は、大正時代、生活の苦しい人のために公営食堂というのが作られ、深川は関東大震災後に仮設として作られました。その後、東京市深川食堂となり廃止となります。その建物を生かしつつ今は深川の観光案内の役目をし、情報発信やイベントを開催しています。

芭蕉記念館は、芭蕉さんに関した展示をされ、次々企画を考えられて展示内容をかえています。

森下文化センターはまだ行ったことがないのですが、田河水泡・のらくろ館があり、そのほか職人さんたちによる伝統工芸の作業を見せたり工芸品を展示しているようです。

深川江戸資料館には江戸の庶民の生活が実物大で体験できます。深川佐賀町の町並みを実物大で想定復元したのだそうです。ここは江戸気分に浸れます。そのほか企画展やイベントも多いです。改修工事のため、2021年11月1日から2022年7月末日まで閉館だそうです。

深川江戸資料館でもらいました資料も出てきました。その中に「歌舞伎と深川」というのがありまして、南北さん関連だけ紹介しておきます。

南北さんが生まれた日本橋乗物町は、中村座と市村座に隣接していて子供のころから芝居好きだったのでしょう。21歳で狂言作者の道を選びます。

東海道四谷怪談』は71歳の時の作品です。息子さんの二世勝俵蔵(かつのひょうぞう)さんも、舞台演出をはじめ父の南北さんを支える狂言作者でした。深川の一の鳥居近くに(門前仲町交差点付近)で妓楼を営み、五世南北は孫が受け継ぎます。

あの「砂村隠亡堀の場」の「戸板返し」の演出は息子の二世勝俵蔵さんの考案と言われます。南北さんには強い助っ人がいたのですね。

当時の狂言は、複数の狂言作者が場ごとに担当したりしました。立作者の南北さんが力を入れて自らの手で書かれたのが「深川三角屋敷の場」だそうです。この場は、南北さんが得意とした怪談のケレン(奇抜な演出)ではなく、時代を越えた人間の普遍的な感情を丁寧に描いているのが「深川三角屋敷の場」なんだそうです。

「それまでの様式的な歌舞伎の台本を越えて、近代的な演劇の脚本にまでつながる人間感情をリアルに描く重要な要素を生み出しました。」

凄いですね。先ずは心して『名作歌舞伎全集』の『東海道四谷怪談』を読み直させてもらいます。きちんと感じとれるとよいのですが。

市川市歌舞伎イベント『市川笑三郎 女方の美』

歌舞伎初めての方も、よく観劇されてる方も楽しめると思います。

トークショーはもっと聞いていたいと思いましたが時間制限があるので我慢です。笑三郎さんと師匠である猿翁さんの出会いも素敵だと思いました。笑三郎さんは岐阜の出身で、地歌舞伎に出られていて、たまたま猿翁さんが、地歌舞伎を観に来られたのです。猿翁さん、地歌舞伎から何か新たなものを見つけられるのではないかと『奥州安達ケ原』を観にこられたのだそうで、何からでも学ぼうとされる姿勢はさすがです。

そういう猿翁さんに見いだされた歌舞伎が大好きだった笑三郎さんにとっては、自然に引かれていった道だったのかもしれません。そのほか、師匠のもとでの厳しくも興味深いお話が聴けました。

聞き手の今井豊茂さんが、最初に行徳と歌舞伎の関係で『南総里見八犬伝』の登場人物で行徳に住んでいるという設定もあると教えてくださいました。江戸時代は塩田の行徳ですから江戸の人々は行ったことがなくても地名はよく知っていたとおもいます。

ワークショップは「女方ができるまで」で、お化粧から、衣装の着付けまで笑三郎さんが美しい女方に変身していくのを見せてもらえます。ここでは、笑三郎さんの三人のお弟子さんである、翔三さん、翔之亮さん、三四助さんが、お手伝い、説明などを担当してくれます。間近で長い時間なかなかお目にかかれませんから、ファンの方は必見です。好青年トリオです。

衣装はその後踊られる舞踊『藤娘』で、この踊りでは衣装も上だけかわったりと変化しますが、それがどのように工夫されているかも目にすることができます。

そして、舞踊『藤娘』で、顔、衣装だけではなく、女方としての身体表現が展開されます。『藤娘』はただ観ているだけで楽しいですが、男心をなじったり、ゆったりとした藤音頭が入ったり、お酒を飲んで酔って踊ったりと様々な姿態を踊り分けます。笑三郎さんは近頃性格のはっきりした役で魅了させていますので、こういう踊りが観れ新たな視点をいただきました。なによりも音楽に乗られていて楽しかったです。

感染対策もしっかりしていて、消毒をするとその下に体温が数字ででてくるという優れものの登場でした。こういう器具は次々と開発されていきますね。そして入口から二階への会場までの空間が狭いのですが、会議室のような場所に待機場所を作ってくれていまして、開場時間まで椅子に座って待っていられました。会場に行く前に、少し散策してきましたので、これは助かりました。会場は一つ席空きです。私はまだこの席空きが心穏やかに観劇できます。

地下鉄東西線行徳駅から歩いて7分という好位置の「行徳文化ホールI&I」です。

場所は行徳ですが、舞台は大津絵の藤娘。近江八景づくしもあります。旅が難しい体験をしてみますと、旅などそう行けない江戸の人々が、歌舞伎の舞台で、日本中のさまざまな場所へ旅をした気分になっていたことが実感できます。そしてそれを満たそうとして書き手も工夫したことでしょう。

行徳で歌舞伎体験楽しめました。

追記:  市川市歌舞伎イベント『市川笑三郎 女方の美』は有料配信されるようです。

市川市歌舞伎イベント 市川笑三郎 女方(おんながた)の美 【Streaming+(配信)】のチケット情報(Streaming+) – イープラス (eplus.jp)  (終了)

追記2: 興味惹かれるフライヤーを手にしました。「パンの会」の名前の由来からバレエ『牧神の午後』を思い浮かべたばかりでしたので、あれ!あれ!とニヤリとしました。

現代音楽レクチャーシリーズ 舞踊と20世紀音楽

動くとやはりSMSとは違う情報を手にできます。トーハクの『聖林寺十一面観音』も興味ありそうな人にフライヤーを送りました。3人の方が行かれました。まだフライヤーの力は大きいとおもいます。

こういう時期ですので選ぶことなくバーっといただいてきて選別します。行けなくても面白い企画だなあとながめています。

上野から四世鶴屋南北終焉の地へ(2)

江東区が出している『史跡を訪ねて』をぱらぱらとめくっていますと歌舞伎役者さん関連のことがありましたので続けることにしました。

そもそも「深川」という地名の由来から。この地を開拓したのは大阪からきた深川八郎右衛門他6名で、徳川家康が鷹狩に来た時に村の名前がないため八郎右衛門の姓を村名にと命じられたのです。そして深川村の鎮守のお宮が深川神名宮でした。

深川神名宮は下の地図で番号10の下にある朱丸です。

深川神明宮を左に移動しますと、小名木川の沿いに三つの青丸があります。芝翫河岸(しかんがし)と呼ばれていました。そこに二代目中村芝翫さん(四代目中村歌右衛門)が住んでいたからです。

芝翫さんが六歌仙を上演し、喜撰法師の清元の歌詞に「我庵は芝居の辰巳常磐町、しかも浮世のはなれ里」と自分の住んでいたところを詞にしたというのです。というわけで、十代目三津五郎さんのDVD『喜撰』(江戸ゆかりの家の芸)を久方ぶりで観ました。出だしがこの歌詞でした。ラストは「我が里さしてぞ 急ぎいく」で深川の常磐町の家へ帰るのです。

奇しくも今月の歌舞伎座第三部は、当代の芝翫さんが『喜撰』を踊られてます。

地図を下にさがりまして番号17から左に移動しますと浄心寺があります。そこに清元節の創始者・初代清元延寿太夫さんのお墓があります。今月の歌舞伎座の『喜撰』の清元は延寿太夫さんなのでしょうか。

そしてさらに左に移動しての青丸は三世坂東三津五郎さんが住んでいた永木横丁とおもうのですがこの地図ではよくわかりませんので悪しからず。それと「世」と「代」の使い分けもよくわかりません。『史跡を訪ねて』を参考にさせてもらっていますのでそれに合わさせてもらっています。

そこから、上に富岡八幡宮がありさらに上がると深川不動堂があります。境内を入った右手に高くそびえる石垣があり、石造燈明台です。石垣の四面には奉納者の名があり、南面中央部に九世市川団十郎さん、五世尾上菊五郎さん、初世市川左團次さんの名があり、団菊左時代を思わせます。

切絵図で番号14の富岡八幡宮の青丸はまだ深川不動堂はできていなくて、富岡八幡宮別当寺・永代寺に第1回目の成田山の出開帳がありました。明治に入り神仏分離令の時、出開帳で御縁のあるこの地に願い出て成田山から御分霊されました。

永代橋のピンク丸の二つは番外編として。一つは、赤穂浪士休息の場ですが、当時の浮熊屋作兵衛商店の主人が店に招き入れ、甘酒を振る舞ったといわれています。みそを作っていたので麹があったので甘酒もつくれたのでしょう。今も、ちくま味噌を作られているのです。知りませんでした。

もう一つは永代亭パンの会旧跡です。明治42年から44年頃まで青年文学者や芸術家たちがあつまり「パンの会」と命名しました。現在の交番隣あたりに、西洋料理店永代亭がありここを使ったようですが、高級な店ではなくポンポン蒸気船の発着所を兼ねた二階建て店でした。

パンの会」のパンは食べるパンのことだと思っていました。違ってました。ギリシャ神話の牧羊(牧畜森林を守る神)のことでした。バレエの「牧神の午後」が浮かびます。

パンの会の会員・上田敏、戸川秋骨、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、山本鼎、石井柏亭、倉田白羊、谷崎潤一郎、石川啄木、高村光太郎、等。(二代目左團次さん、初代猿翁さんも顔を出されていたようです)

とにかく深川は名を残した人など沢山の人々が住んでいました。そして様々の事件も起こり、芝居の舞台ともなっています。お寺も多いです。まだまだ確かめに行っていないところも多いのでリピートで散策を楽しめる場所でもあります。深川は広くてさらに『東海道四谷怪談』のお岩さんの流れついたとされる隠亡堀あたりとなるともっと東へ移動しなければなりません。ゆっくり地図で確かめつつ訪ねることにします。

さて上野から深川でしたが、上野から根津駅に行く途中も興味深い道筋でした。東京芸大美術館からすぐの交差点で、古い甘味処があり『桃林堂』とあります。さらに進むと寺院の門が左手にみえました。帰ってからふっと思い出しました。かなり以前、友人が上野公園周辺に御朱印をもらえるところが十か所あって、一か所行けないところがあったと。もしかして探せなかったのはここではないかと、護国院です。友人に電話するとどこをどう歩いたか混乱していて覚えてないといいます。地図を送ることにしました。

十か所(1か所で二つもらえる所があるので正確には九か所)全部がのっている地図をと探し、こことこことここ。人のことながら楽しかったです。

友人は御朱印の旅もままならず、近くの寺院の毎月変わる御朱印で我慢しているそうです。今、季節限定とか、月替わりの御朱印も多くなりましたからね。

上野公園で、九か所の内の一つ花園稲荷神社の前を通ったので、並ぶ鳥居の写真だけ撮ってみました。もちろん不忍弁天堂も入っています。

少しづつそっと、寺院めぐりをしたいものです。

上野から四世鶴屋南北終焉の地へ(1)

四世鶴屋南北さんの終焉の地が地下鉄東西線門前仲町駅近くにあり、以前から行きたいと思いつつ実行していませんでした。上野の東京芸術大学美術館から地下鉄千代田線根津駅まで徒歩10分とのことです。大手町で乗り換えです。

南北さんの終焉の地は、江東区牡丹一丁目にあります黒船稲荷神社なのです。深川です。黒船稲荷の境内に住んでいて傑作を残されました。今は狭いところに鳥居とお堂があるだけですが、江戸時代は「スズメの森」といわれて大きな木々が茂っていたようです。

案内板がないのかなと思いましたら鳥居を入って右手にありました。要約します。

「1755年、生まれは日本橋新乗物町で、父親は紺屋の型付(かたつけ)職人。幼名は源藏で狂言作者を志し、初代桜田治助の門下に入門。1804年、河原崎座の『天竺徳兵衛韓話(てんじくとくべえいこくばなし)』で大当たりをとり、作者としての地位を確立。『心謎解色糸(こころのなぞときいろいと)』『謎帯一寸徳兵衛(なぞのおびちょっととくべえ)』などを次々と発表。1811年、鶴屋南北を襲名。その後『お染久松色売販(おそめひさまつうきなのよみうり)』『東海道四谷怪談』などの傑作を書き続ける。1829年11月27日、黒船稲荷地内の居宅でなくなる。享年75歳。」

また一つ気になっていたことを終わることができました。ところがそれから地図上の旅が始まりました。

見づらいかもしれませんが門前仲町駅の少し上の朱丸の黒船橋を渡り黒船稲荷へ。近いです。下の方の緑の丸が富岡八幡宮。そして黄色の丸は『髪結新三』関連です。一番上に永代橋がああります。その橋を渡ったところのピンクの丸は赤穂浪士が討ち入り後に休憩した場所です。碑があります。永代橋を渡って泉岳寺へ向かうのです。

その下の三つの黄色の丸は下に福島橋とありその上が新三の住んでいた長屋のある富吉町です。

ずっと下がりますと法乗院で通称・深川のえんま様で閻魔堂があります。江戸時代から少し移動しているようです。黄色のは今はない富岡橋の位置がわからないのと閻魔堂橋が実際にあったのかどうか、富岡橋が閻魔堂橋のことなのかよくわからないのでにしました。

かつて訪ねたときには、閻魔堂橋前の場面の派手な絵看板がありぎょとしました。

白丸は、『東海道四谷怪談』の三角屋敷がこの三角の地域ということなので印をしました。

髪結新三』の「永代橋川端の場」で新三は忠七を足蹴にし置き去りにし永代橋を渡って深川に入り、富吉町の長屋に帰るのです。「富吉町新三内の場」で乗物町の親分・弥田五郎源七が新三にさんざん悪態をつかれ、「深川閻魔堂橋の場」での二人の切り合いとなります。南北さんじゃなく黙阿弥さんじゃないのと言われそうですが、『東海道四谷怪談』の北南さんの方が先に「三角屋敷の場」でこのあたりの場所を芝居にしていました。

さらにお岩さんと小仏小平の戸板を神田川の面影橋から隅田川を通って小名木川に入り込ませ、隠横十間川から隠亡堀へとのことなんですがはっきりしないので追いかけるのはやめます。隅田川から小名木川に引っ張ったというのが凄いです。

黙阿弥さん、当然知っていたと思うのです。まったく違う世話物で南北さんに挑戦、なんて考えるのも楽しいです。

切絵図ですといかに深川が川や堀で囲まれていたかがわかります。番号13・久世大和守の下屋敷が今の清澄庭園で、元は紀伊国屋文左衛門の屋敷があったところで、後に岩崎弥太郎が買い取り庭園にしました。

番号17の右手、黒の点々が小名木川です。

切絵図を拡大ルーペで観ましたら法乗院、富岡ハシ、三角の文字がわかりました。

江東区で出している『史跡を訪ねて』をながめていましたら、法乗院には、曽我五郎の足跡石があるようです。このあたり何回か散策していますが、伝説や旧跡あとがまだまだありそうです。

三世坂東三津五郎さんも住んでいたようです。富岡八幡宮そばの永木横丁と呼ばれた通りに住んでいて「永木の三津五郎」「永木の親方」といって親しまれたようです。

パソコンの画面から地図を写真に撮り、『史跡をたずねて」の地図からおそらくこのあたりだろうと予想をたてました。

永代通りの青丸が都バス富岡一丁目バス停です。その右の四つの茶色丸がおそらく永木横丁とおもいます。碑はないようでこのあたりに住んでいたということだけです。

南北さんも亀戸村に住んでいた時には「亀戸の師匠」と呼ばれていたそうです。

それにしましても南北さんは、黒船橋を渡った、お偉い方たちの下屋敷に囲まれた静かな森の中で書かれていたのですね。頭の中は静かどころか激しく回転していたことでしょう。

追記: 江戸切絵図の世間の世界へいざなってくださった柳家小三治さんが亡くなられました。私の中での三大噺家さん、古今亭志ん朝さん、立川談志さん、柳家小三治さん、皆さんがあちらへ行かれてしまった喪失感は深いです。生で聴かれたことは幸せでした。(合掌) 

九月歌舞伎座『東海道四谷怪談』

最初から伊右衛門(仁左衛門)の悪にぶつかってしまいました。普通は徐々に伊右衛門の悪に引っ張られていくのですが、今回は伊右衛門から御主人のために薬を盗んだ小仏小平(橋之助)が捕まって、指十本を折ってしまえのひとこと。その嗜虐的残酷さは知っているのですがここから入られると一気に悪の世界の異常さに連れ込まれ、南北さんは凄いことをさせていると衝撃でした。

この悪の世界に迷い込んだお岩さん(玉三郎)。彼女のそのひとこと、ひとことのセリフから伝わってきます。すでに伊右衛門の邪険さは知っていますが、親のあだ討ちのためと我慢して耐えています。現代人としては、そこまで我慢してのあだ討ちが疑問になってきますが、武士の家族にとっては第一主義の重要なことなのでしょう。

そこへ、隣の伊藤家から子供の着物と、薬を届けてもらい、お岩さんにとっては地獄の中の仏のようなありがたさでした。お岩さんの様子から人の情けにほっとしたほのぼのとした心持ちがわかります。

それだけにこれが裏切りであったならお岩さんの恨みはいかばかりかということが想像できます。顔がみにくくなり、髪が抜け、それまで武士の妻としてつらくてもきりっとしていた姿は、見事に崩れていきます。その崩れ具合が、お岩さんの心も壊れてしまったのがわかりますが、母親としての心だけは維持していました。

それに比べて伊右衛門はこんな非道な人間もいるのかと思わせます。次々と悪道を考え出すのです。今回はその悪道のリアリティが濃かったです。

お岩さんが醜くなるのは薬が原因なのですが、お岩さんの心の恨みが爆発したようにも観えてくるのです。観るほうは、この後のお岩さんは死んで恨みをはらすのだと納得していて、恨みを晴らさずにいられるものかと待ち望んでしまいます。

残念ながら、今回はそれがありません。何か拍子抜けでした。それほど凝縮した濃厚な舞台でした。

伊右衛門の「首が飛んでも動いてみせる」のセリフがこれほどリアルに響くとは。そういう男なのよ伊右衛門は。神仏をも恐れぬ男なのです。仁左衛門さんの中に伊右衛門が入り込んでいました。まずいこれは。やはり伊右衛門をお岩さんの恨みで封じなくてはと思わせます。

その悪の世界に顔を出した直助の松緑さんも悪の世界を壊すことなく「首が飛んでも動いてみせる」のセリフを引き出しました。ここで悪が薄まっては台無しです。そして、成仏できない戸板のお岩さんと小仏小平。

そのあとのだんまりで、伊右衛門、直助(鰻かき直助権兵衛の小幅の足使い)、与茂七、茶屋女おもんの登場です。伊右衛門に不義密通の罪にされ戸板に打ち付けられたお岩さんと小仏小平は茶屋女おもん(玉三郎)と与茂七(橋之助)として登場し、お岩さん役者・玉三郎さんが美しい玉三郎さんとして復活したのはよかったのですが、やはり不完全燃焼に終わってしまったのが無念でした。それにしても凄い『東海道四谷怪談』でした。

今回の芝居でさらに確認しました。セリフで心の内を発することができますが、それだけではどうしても表すことはできません。それをもっと観客に伝えたい。そこから生まれたのが型であり身体での表現です。ある意味異形での表現となりますから、それが観客に自然な流れで伝え納得させるにはそれなりの技が必要になってきます。

それにしても、実際にあったとされる本所砂村に流れついた心中の死体と、不義をした妻の死体を杉板に打ち付けて流したという二つを結び付け、戸板返しで舞台で見せたという四世鶴屋南北さんはやはりただ者ではありません。

もちろんそれを舞台で再現する役者さんも。

宅悦(松之助)、伊藤家→喜兵衛(片岡亀蔵)、お弓(萬次郎)、お梅(千之助)、乳母おまき(歌女之丞)

歌舞伎舞踊『博奕十王』

DVDの『博奕十王(ばくちじゅうおう)』を鑑賞したとき猿之助さんが相変わらず洒脱な愛嬌さで踊られているなとの感想でした。そこで止まっていました。

ところが『新TV見仏記 (3) 京都編』(DVD)を観ていましたら、例によりお二人はトークを交えつつ京都の神護寺への階段をのぼっています。かなりシンドイらしく、いとうせいこうさんが江戸時代の話をしました。大山詣りでは、江戸の人はサイコロをころがしながら出た目の数をきそってのぼったというのです。

その話のあとで『博奕十王』を観なおしましたら前回よりも可笑しさが膨れていました。見仏記は色々な香辛料となってくれます。神護寺ではかわらけ投げもされていて住職さんの見本の投げ方が綺麗でした。かわらけ投げの型のようでしたし、切れよく飛んでいました。。私も神護寺で投げましたが落語の『愛宕山』を思い出しつつでしたのでこんな深さでは登ってこれないでしょうなどと思って投げていました。

みうらじゅんさんは閻魔像や地獄絵図の前に立つといつも自分が地獄落ちと決められています。さらに映画『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』では、みうらじゅんさんしっかり地獄にいました。

博奕十王』は、当代の猿翁さんが猿之助時代に自分で脚本を手がけて自主公演で演じられたのが始めで、同名の狂言から考えられたようです。それを当代の猿之助さんが亀治郎時代にやはり自主公演で演じられ、2014年の新春浅草歌舞伎の本公演でのDVD化です。来年2022年の浅草新春歌舞伎は中止となってしまいました。残念です。

博奕十王』の内容は、仏教に帰依するひとが多くなって地獄にくる人が少なくなったので、閻魔大王が自ら地獄、極楽の分かれ道、六道の辻へお出ましになり自分で罪人は地獄に送ろうと考えたのです。

そこへ極楽とんぼのような亡者(もうじゃ)がやってきます。彼は博奕打ちでした。浄玻璃(じょうはり)の鏡に映すと彼の罪業が次々と現れます。ところが博奕打ちは博奕は時の運で遊びなのだから負けるときもあれば勝つときもあるといいます。博奕を知らない閻魔様はまじめに博奕を知ろうとしました。それが運のつきでした。閻魔様はサイコロ博奕に熱くなります。

何とか詣りにも祭式にも今なら悪行の遊びをしっかり取り入れた江戸庶民の動向が、冥土でも発揮されるというわけです。

博奕打ちが猿之助さん、閻魔大王が男女蔵さん、獄卒が弘太郎さんと猿四郎さん。男女蔵さんの後見が蔦之助さんです。当時は左字郎さんでした。自主公演『蔦之会』の二回目では『博奕十王』を踊られたようです。この時の後見がきっかけだったのでしょうか。

博奕打ちは、まんまと極楽への切符を手に入れ、博奕で勝ち取った浄玻璃の鏡らを背負い極楽に向かうのですから閻魔大王もお手上げです。

< そもそも博奕の始まりは >と踊りで解説するところが端唄も入り楽しいです。天武天皇の時代の九月、菊の宴のときが始まりだそうです。衣装の花札とサイコロの模様が映えるところでもあります。出から入りまで憎めない博奕打ちなのでした。

追記: 『空飛ぶ雲の上団五郎一座 アチャラカの再登場』(DVD)は、いとうせいこうさんとケラリーノ・サンドロヴィッチさんが中心になって旗揚げ公演(2002年)した舞台で、出演者が個性的でさらに文芸部(井上ひさし、筒井康隆、別役実、いとうせいこう、ケラリーノ・サンドロヴィッチ)が豪華です。一番笑ったのは、興行主のいとうせいこうさんが、興行主としてもっともらしいことを言って去り際、言葉が意味不明になります。三谷幸喜さんが出てきてカチャカチャやっています。興行主がロボットだったという落ちです。見事に落ちました。もとを変化させてさらに新しくする。冒険であり博奕です。

不易流行『遅ればせながら 市川弘太郎の会』

市川弘太郎さんの自主公演の感想のほうはさらに遅れに遅れてです。場所は池袋の東京建物 Brillia HALL(ブリリアホール)です。旧豊島区立芸術文化劇場のようです。

切符を購入するときから手違い。8月1日昼の部購入の予定が気がついてみれば7月31日の夜の部を購入していました。池袋駅周辺は行きつけていないので苦手なのです。予定していた駅の出口の番号が見つからず駅員さんに尋ね、駅から近かったので何とか到着です。

一席空きなので気分的にゆとりがあります。席に着くとアナウンスの声に反応しました。どうも松也さんの声に似ているのです。弘太郎さんと松也さんとつながらないのです。開演間近に「誰かわかりましたか。尾上松也です。」と。そもそもこの会は、弘太郎さんと七之助さんと松也さんが食事をしたとき、弘太郎さんの一番やりたいことは問われて『四の切』(「義経千本桜」)と答えられお二人が出演すると約束され、それがきっかけで実現に向かったのだそうです。松也さんは出演できないのでアナウンス係りとなりましたと。声でこういう内幕を聞くのも楽しかったです。

最初は『吉野山』で七之助さんの静御前です。改めて女形は色々細かい仕事があるのだなと感じさせてもらいました。自主公演ははじめてなのですが、観客の皆さんが歌舞伎通なのか拍手がピタッ、ピタッと決まっていて驚きました。弘太郎さんは基本的に芸に対しては真面目な方と思っていますが、今回もしっかり基本にそっておられたとおもいます。あがっている様子もなく真摯に向かわれていました。

次の演目『四の切』までの休憩時間が15分で、舞台装置大丈夫かなと気になりました。途中舞台から何か落ちる大きな音が。仕掛けもあるのでしっかりお願いします。やはり時間通りには無理でした。安全のためにもそれは必要な時間です。生の舞台は舞台の設置も大変です。

忠信の登場から始まり、静に二人目の忠信の詮議が任され、竹本の床が回ると拍手がおこり、葵太夫さんでした。贅沢です。観客の皆さん、よくわかっておられます。1992年の上演DVDでの三代目猿之助さんの時も葵太夫さんです。狐忠信の三段階段からの登場は半々呼吸ほど起き上がりが遅いかな。床にひれ伏して正体が静に見破られるとストンと床下に落ちて狐となってあっという間に床下から再登場。成功。

ここから初音の鼓の皮が父母であると子狐は語り親子の情を全身で表現し、欄干渡り。そして子狐は鼓と別れる名残り惜しさを切々と。泣きつつ格子窓に飛び込んで姿を消します。

その様子を本物の忠信が見ていて障子窓から姿を見せ、義経の心の内を聞き障子を閉めます。

義経の自分と狐の立場を重ねた言葉を聞いてか子狐は再び登場。欄間抜けです。舞台上に降りて所作台にスーと滑って止まるとき位置的に後ろすぎると思われたのか膝でスースーと前にでました。それをみて、弘太郎さん欄間抜け何回も練習されたなとおもいました。それでなければその距離感をすぐ察知して動けないとおもいます。初回の公演なのに律儀ですね。ただ慣れていないならなおさら定位置でないと次への動きが美しくならないともおもえます。

この後、義経から鼓を送られます。子狐は大喜び。そのお礼に義経を襲おうとしている悪僧達をおびき寄せ翻弄しやっつけ、自分の古巣へ帰るのでした。

何事もなく無事終わり何よりでした。改めて一つ一つのパーツが上手く重なり合って呼吸を合わせつつ作られていくのだと思い知らされました。そしてそこから物語が発生し観客を感動に導くのです。

今回は、七之助さんが約束通り静を受け持ってくれてよかったです。細やかな動きの中に芯があって、團子さんの義経を映えさせました。そして葵太夫さんのゆるぎない語り。おそらく支えてくれた舞台裏の裏方さんたちも『四の切』を熟知されている方たちだったのでしょう。駿河次郎が鶴松さんでつつがなくつとめ、亀井六郎の國矢さんが適度な軽やかさの雰囲気がよかったです。

今回の公演でこちらも『四の切』の骨格をもう一度確認させてもらいました。弘太郎さんはきちんと基本を重ねていくタイプなのかもしれません。今までのほかの役でもそう感じていました。安易に崩したりしません。土台をしっかりということでしょう。ケレンの多い澤瀉屋ではそれがかえって必須ともいえるでしょう。

舞台が幕となってのアナウンスで弘太郎さんは一回目は誰でもできると言われないように次をといわれていましたので、次はどんな土台を重ねられるのでしょうか。こうご期待です。

劇場の中は安心なのですが、行きかえりの移動がいやなんです。何ということか確率的に超低い体験をしました。電車はすいていたのですが、出入り口に吐いた人がいたのです。本を読んでいたので全然気がつきませんでした。若い女性が乗ってきて「何?」と足裏をみています。吐しゃ物を踏んだらしいのです。吐いた人は乗るときに吐き乗らなかったのでしょう。

私は一度外のホームに降り立ち思いをめぐらしました。お酒によることかどうかはわかりません。ただお酒は人を高揚させ楽しい気分にさせてくれます。それが新型コロナの突きどころでもあります。お酒愛好者のためにも、居酒屋さんのためにも、今までのお酒の飲み方ではない楽しみ方を見つけなくてはお互いの損失です。

そして地方公演の方々も安全に留意され無事幕が下せますように。

追記: <アーカイブ配信>不易流行 遅ればせながら、市川弘太郎の会 今年7月31日、8月1日に開催の劇場公演を映像化【Streaming+(配信)】のチケット情報(Streaming+) – イープラス (eplus.jp)

歌舞伎座八月『加賀見山再岩藤』

さて女中のお初となりますと歌舞伎では『加賀見山旧錦絵』(かがみやまきょうのにしきえ)です。多賀家に仕える女たちの争いでもあります。かつては御殿女中の宿下がりの三月に上演され、自分たちと同じ屋敷の奥の話しなので御殿女中たちに人気があったようです。

局岩藤は、御用商人の子である中老尾上をさげすんでみています。さらにその尾上が多賀家の宝である蘭奢待(らんじゃたい)の名木と朝日の弥陀の尊像をあずかることになったのですから岩藤にとっては許しがたきことです。当然難癖をつけます。

中老なら武芸くらいはたしなんでいるであろうと自分と立ち合えと岩藤は尾上にせまります。そこへ尾上の召使であるお初が登場し主人の代わりに立ち合い岩藤を負かしてしまうのです。尾上一筋のお初です。

尾上が上使に蘭奢待の箱を提出するとその箱には片方のぞうりが入っています。岩藤はその草履で尾上を打つのです。(草履打ち) 恥辱と失態から尾上は自害しますがその時岩藤が尊像を盗むのです。使いに出されていたお初がかけつけ事の次第を飲み込み、尾上のを仇をとり岩藤は亡くなります。多賀家の家宝二品も戻りめでたしめでたいです。

そのお初が二代目尾上となっていて、死んだ岩藤の怨念が亡霊となって姿を現すというのが『加賀見山再岩藤』(かがみやまごにちのいわふじ)です。八月歌舞伎座第一部ではと、<岩藤怪異篇>としてダイジェスト版としての上演でした。

さらに猿之助さんが休演ということで巳之助さんが代役となり異変続きの上演となり、さらに猿之助さん復帰ということで<岩藤怪異再篇><岩藤怪異旧篇>のようなややこしいことになりましたが無事に千穐楽を迎えられめでたしめでたしです。

私が観劇したのは巳之助さんのほうでした。六役早替りなんですが、六役を一回づつ早替りではないのです。一役を何回かということなので、全部で何回早替りをしたのでしょうか。巳之助さんの一番の手柄は代役を早変わりしたことでしょう。

舞台上の早替りも違和感なくスムーズで、こういう内容だったなあと三代目猿之助さんの舞台を思い出していました。体格の違いはありますが。

先代の雀右衛門さんの尾上は儚く、こちらもお初と一緒に守ってあげなければという気持ちにさせました。当代の雀右衛門さんが二代目尾上ということで時間の流れの不思議さを感じてしまいました。

多賀家のお家騒動から5年がたちますが、またまた怪しい雰囲気です。領主の多賀大領(巳之助)が側室のお柳の方を寵愛し、正室梅の方(巳之助)はないがしろにされてしまいます。それどころか、お柳の方の兄の望月弾正(巳之助)や蟹江兄弟がお家乗っ取りを考えています。

梅の方の味方は、大領をいさめて勘当された花房采女、鳥居又助、安田帯刀、安田隼人(巳之助)、奴伊達平(巳之助)、局浦風などです。又助の忠義をみて弾正は又助にお柳の方がいなくなれば万事うまくいくから彼女を殺害するように仕向けます。又助は図られて誤って梅の方を殺めてしまうのです。

二代目尾上は今は大領の妹の花園姫に仕えています。尾上は初代尾上の墓参の後、岩藤の死骸が捨てらた場所で菩提を弔いますが散らばっていた岩藤の骨が集まり(骨よせ岩藤)、岩藤の亡霊(巳之助)となって現れ、恨みをはらすと告げます。さらにかつての局の姿となってこれからの仕返しを楽しむようにふわふわと空中を飛び去っていくのでした。(岩藤の舞台だけでの宙乗り)

ここまでで大体の登場人物が揃いました。この後は実は何々でしたという展開や、再びぞうり打ちなども加わり、消えたはずの岩藤の亡霊が執念深く現れたりし展開がはやいです。最後はめでたしめでたしとなります。

多数の役をするとき動きの少ない役のほうが難しいと思いました。雰囲気をその存在感で表さなければならないからです。領主の多賀大領、正室梅の方などです。早変わりのため梅の方などは顔の作りが険しく、側室柳の方と比較するとこれは側室になびいてしまうと思えます。工夫が必要でした。あとは上手く演じ分けられていました。

しっかり役柄にあったおもだか屋の役者さんが固め、手慣れた裏方さんが動いてくれたからの進行だったのでしょう。

花園姫が誰なのかわかりませんでした。男虎さんだったのですね。『京人形』での井筒姫も若い女方さんを思い浮かべてもわからなかったのですが玉太郎さんでした。小栗党、変身しつつ修行中ですね。鷹之資さんも鳥居又助役に代役早変わりでした。小栗党の活躍も今後楽しみです。何事も修行あるのみです。そのことによって観るほうは楽しさを増やしてもらえるのですから。

お宝ですが、朝日の弥陀の尊像は二代目尾上におくられました。この朝日の弥陀の尊像もまた紛失するのですが、新しい家宝も登場します。金鶏の香炉です。これも盗まれます。朝日の弥陀の尊像の力で岩藤は消えますが、その威徳にも限界があり、さらなる鬼子母神の尊像の登場となるのです。

歌舞伎のお家騒動に欠かせないのがこのお宝たちです。これも注目していると登場人物の善悪、流れなどがみえてきます。キーワードの一つです。

お柳の方(笑也)、蟹江兄弟(亀鶴、猿四郎・鷹之資の代役)、花房采女(門之助)、安田帯刀(男女蔵)、局浦風(笑三郎)、局能村(寿猿・めずらしくお局役)

追記: <めでたし、めでたし>と書いたら、デルタ株が打ち返してきました。手ごわい感染症です。歌舞伎座はことを明らかにして公演の対処方法が早いので、世のなかの動きが歌舞伎座にも到達したかと参考にしています。無症状の陽性者がいること、ワクチンを接種しても感染はあるということです。感染された役者さんたち、歌舞伎オンデマンドを鑑賞し、早く回復されますよう応援します。

追記2: 『演劇界』10月号の『加賀見山再岩藤』の舞台写真は巳之助さんです。立派に務められた記録ですね。

追記3: 来年の九月は、吉右衛門さんが復帰され穏やかに秀山祭が開演されることを祈願いたします。

歌舞伎座七月『あんまと泥棒』『蜘蛛の絲宿直噺 』

七月の歌舞伎座第一部は二作品とも再演です。『あんまと泥棒』は2018年に上演され、あんまの中車さんと泥棒の松緑さんのコンビです。

前回よりも肩の力が抜けられているであろうと予想しましたがその通りでした。あんまの秀の一の声からして自然で、前回は姿が見えないだけに調子も強調していたように思えましたが、その力みがなく、登場しても声だけで充分聞かせるセリフの流れでした。そのためか、外の暑さから涼しさにホッとしてセリフを子守歌にコックリされる方もいました。

ゆっくりと秀の市をという人物を理解していきます。犬を追い払ってから、いや足を噛まれて怒鳴り込めば幾らかにはなると考え直すあたりは、全てお金に換算して生きている人なのです。

そのことが、泥棒とのやり取りでもどんどん出現します。泥棒の権太郎はおどすしか能のない男です。その差が秀の市と権太郎のやり取りでわかってきます。二人のやりとりから、コックリの方もお目覚めですっきりとされたのか観劇に参加され笑っておられました。

買い置きの焼酎も泥棒に呑まれてはいません。しっかり飲み終わっています。さてっとどこから攻めようか。ところで泥棒さん、あなたの稼ぎはどのくらいですかときます。そして、借金の取り立てだって頭を使うんですよときます。さらに10両盗めば首が飛ぶんですよ、泥棒なんて割に合わないではないですか。

もと八百屋の泥棒は、島送りになって帰ってみると女房は死んでいて、秀の市が女房のお墓のためにチビチビお金をためていると聞くとどっと情にはまってしまう男なのです。秀の市の話術以上に権太郎は泥棒に向いていない男なのです。

泥棒に向いていない男と、金貸しに向いている男の話しでもあります。お勤めの太鼓の音にも情をかきたてられる泥棒さんだったのです。

中車さんのこざかしいあんまに、見栄えは立派な身体でも泥棒に向かない松緑さんがコロリと騙され本性をさらけ出され、本性をさらけ出すお芝居でした。

蜘蛛の絲宿直噺(くものいとおよづめばなし)』は<再びのご熱望にお応えして>とつけられています。

昨年、2020年11月に4部制で一演目づつ公演したときの第一部でしたので、はや再びということになります。

今回は配役も少し変わり、源頼光の四天王も昨年は2人だけの登場でしたが、今回は4人揃い、さらに平井保昌の押し戻しが挿入されるという豪華さです。

そして、猿之助さんの役どころの衣裳も前回と変わるところがあります。太鼓持彦平の羽織が変わり涼やかになっています。傾城薄雲が実は女郎蜘蛛の精であったということで、この衣装とカツラと顔のつくりも変えて今回は6役として一つ増やしています。

女郎蜘蛛の精の墨の濃淡のような隈取りと平井保昌の茶の隈取りの違いが映えていました。ラストが豪華な絵で、白の蜘蛛の糸とバックの滝のような白が外気の暑さを忘れさせる華の色どりです。

松緑さんの平井保昌が押し戻しの豪快なのに、セリフは出演者の名前づくしや内輪話というご愛嬌も。源頼光の梅玉さんに傾城薄雲がたおやかな色気でせまります。

太鼓持彦平の踊りも軽快さにゆったり感も加わり、番新八重里は前回よりも古風さを感じました。前回は早変わりの軽快であっというまに終わりましたが、今回は早変わりはもちろんですが、しなやかさと豪快さと涼しげさを堪能しました。

坂田金時(坂東亀蔵)、碓井貞光(中村福之助)、ト部季武(弘太郎)、金時女房八重菊(笑三郎)、貞光女房桐の谷(笑也)、渡辺綱(中車)

歌舞伎座六月・第三部『京人形』『日蓮 』

銘作左小刀 京人形』。またまたバーチャルな染五郎さんでした。役が人形ということですからなおさらですが。染五郎さんの女形は初めての観覧と思うのですが記憶は怪しいです。

内容はたわいないといいますか、上手くつくられているといいますか気軽に楽しめる演目です。名工の左甚五郎が郭の小車太夫の人形を作り、その人形を前に太夫と楽しい宴の時間を再現するという趣向です。それをどうぞどうぞとおおらかな夫婦関係でもあります。

名工の作った人形ということもあり、人形が動き出します。動き始めが男のようなギクシャクとした動きで、人形の懐に鏡を入れると驚いたことに今度は優雅な女性の動きになり甚五郎も共に踊るのです。さらに、鏡を抜くと男になり、もどすと女となる可笑しさです。話はそこへお家騒動を差し入れています。甚五郎は人形を箱にもどします。

甚五郎は井筒姫を隠していて栗山大膳が差し出すようにとやってきますが、上手くいなします。ところが甚五郎は間違って味方の奴・照平に右腕をきりつけられます。井筒姫を奴・照平に託します。そして大工に成りすました敵と大工道具を使っての立ち回りとなります。

頭に豆絞りの手ぬぐいを巻き、半纏の大工姿の立ち回りは若々しくて素敵です。右手を怪我した甚五郎の白鸚さんが左手だけで鷹揚に立ち回りの相手をつとめ和やかな舞台となりました。

日蓮 ー愛を知る鬼(ひと)ー』(日蓮聖人降誕八百年記念)は、映画『日蓮』、『日蓮と蒙古大襲来』やその他の仏教関係の映画やアニメなども観ていましたので、それを払拭するだけの舞台になるであろうかと興味津々でした。最後の日蓮の言葉はバーンとパワーがきました。

映画は、比叡山で修業した蓮長(後の日蓮)が得度した安房の清澄寺に戻ってきて講和をするというところから始まるのです。清澄寺の住職も両親もその晴れ姿を喜びと自慢の気持ちで迎えます。ところが、蓮長は自分が学んで追及した法華経が正しい仏の教えでほかの教えは間違っているということから始まるのです。今までの教えが間違っているといわれた武士などは思い上がりと激情します。しかし日蓮はどんな迫害のにも負けずそれを貫くという内容です。

今回の『日蓮 ー愛を知る鬼(ひと)ー』』その前の描かれていない比叡山での修行の蓮長に焦点を合わせています。この時代のことはよくわかっていないようです。

蓮長は比叡山でも自分の仏法に対する一途な思いは強く他の僧からの風当たりも強いのです。その内面の強さと優しさを阿修羅天と幼少のころの善日丸とを登場させて、蓮長の葛藤を表現します。

世の中は災害や疫病がはやり末法の世なのです。日蓮は人々が救われるためにはどうしたらよいのかと経典を読み直し、今までの教えでは駄目だとして行きついたのが法華経でした。

比叡山にもそんな蓮長に同調する僧・麒麟坊や、もう少し周りと同調するようにと諭そうとする僧・成弁もいます。

蓮長は、賤女・おどろと再会します。おどろはかつて蓮長の教えに救われたと思いましたが、そんな教えは何の役にも立たなかったと蓮長を責めます。そんな時赤ん坊の声が聞こえます。おどろが生んで捨てた子供でした。蓮長は赤ん坊を抱きつつ、この世に生まれ出た赤子の命をいつくしみます。しだいにおどろの気持ちに新しい命に対する愛おしさが芽生えてきます。

そんな様子を見ていた成弁は意見するどころか、弟子になりたいと申し出ます。蓮長は勇気づけられ気持ちも新たに日蓮と名乗り法華経を広めることを決めます。

さらに最澄が姿を現し、自分の信ずる道を進めと祝福します。

日蓮はこの世を浄土にするために自分は歩き続けると決意を表明するのでした。

舞台はここで終わるのですが、人々の中に入っていき布教していく先には、執権北条氏の圧力や他の宗派との相克もあり修行以上の厳しい現実が待っているわけです。

日蓮の父母の慈愛や清澄寺住職・道善房の期待もよくわかります。その先の状況に想いが至りますが、時間的に上演時間が許していたなら、猿之助さんの日蓮はぐいぐい引っ張っていったことでしょう。そのエネルギーは十分にありました。

セリフ劇で、澤瀉屋ならではのこれまでの培ってきた結集が感じられ、それぞれ一言一言がはっきりと聞きとれて、観る、聴く、感じるの循環がスムーズに流れ、今に通じる世界観でした。

初心に帰り、時代に合った進み方を見つけるというのは宗教だけではなく、あらゆることが今求められているように感じます。

成弁の隼人さんもスーパー歌舞伎Ⅱ『新版 オグリ』の遊行上人のセリフに比べると、浮つきさが沈んで修行中の僧の言葉になっていました。おどろの笑三郎さんと蓮長の猿之助さんのやりとりも主題をはっきりとさせ、ここに絞ることによって分かりやすく物語に集中できました。

猿弥さんの阿修羅の姿と善日丸の右近(市川)さんの愛らしさの対峙も上手くいっていました。右近さんはこのまま素直にたくさん吸収していって欲しいです。

音楽はこれから映画が始まるような感覚だったのですが、開幕すると即セリフに集中しましたのでその後の音楽は記憶に残っていません。

カーテンコールがなかったのがかえってこの時期潔しの感覚で、席を立ちました。

追記: 歌舞伎座正面に飾られている演目絵の絵師・鳥居清光さんが5月に亡くなられ、『日蓮』の絵は間に合わなかったそうで、今回は横山大観さんの「日蓮上人」となったようです。改めて歌舞伎関係の歴史的継承を感じさせていただきました。(合掌)

通行の人に邪魔にならないように慌てて撮りましたので雑ですみません。

追記2: 今秋、東京国立博物館で、特別展『最澄と天台宗のすべて』が開催される予定です。ほんの少し身近になれた気分ですので楽しみです。

東京国立博物館 – トーハク (tnm.jp)

追記3: 上野東照宮の唐門には、左甚五郎作の昇り龍と降り龍の彫刻があるらしい。今度きちんと眼にしてこよう。

上野東照宮公式ホームページ : 見どころ (uenotoshogu.com)