無料配信・国立劇場『通し狂言 義経千本桜』

こちらは、『通し狂言 義経千本桜』の忠信・知盛・権太の三役に菊之助さんが挑まれるということでAプロ、Bプロ、Cプロに分れての一か月公演の予定であった。場所は小劇場ということで全てを観るのは無理だなと思っていた企画である。

時間短縮ではあるが無料舞台映像配信で観劇できたのは幸いであった。そうした中で魅了してくれたのはBプロのいがみの権太である。台詞といい動きといい、特に椎の木の場の悪でありながら粋さがあり恰好好いのである。最後の死に際をみて、『仮名手本忠臣蔵」の四段目の菊之助さんの塩冶判官が観たくなった。

勘三郎さんが勘九郎時代に出された本『勘九郎ぶらり旅 ~因果はめぐる歌舞伎の不思議~』がありまして、昨年の暮れそろそろ処分しようかなと読みはじめたら面白くて処分するどころではなくなった本である。本は時間が経ってみると新たな発見が生じる。開かないで処分するのがよい。その発見とは、「はじめ」にで梅幸さんの判官について書かれてあった。

「僕は、子供の頃から梅幸おじさんの判官が大好きで、自分が舞台に立っていない時でも、いつも目を皿のようにして、その優雅な所作を見ていたし、素晴らしい口跡(こうせき)に聞きほれていた。」

その判官役を勘九郎さん自身が歌舞伎座で演じた時泣いたと言う(平成10年3月)。三段目で本蔵に抱きとめられ刀を投げつけてチョンと幕になったあと。「終わったら、涙が自然に出てきた。尊敬していた、あの梅幸のおじさんが演じた役を、この僕がまったく同じ舞台で、しかも同じ板の上で演らせてもらった喜びと、演れた感激で、目頭がジーンとしちゃってさ、知らず知らずのうちに涙が出た。」

菊五郎さんの判官は印象に強いが、梅幸さんの判官は実際に観たかどうか記憶にない。昨年、『にっぽんの芸能』で七世尾上梅幸さんを紹介していて『判官切腹の場』も紹介してくれて録画が残っていた。『魚屋宗五郎』の二世松緑さんと梅幸さんの夫婦役も素晴らしかった。九世三津五郎さんやなかなか映像では観られない七世門之助さん、二世助高屋小伝次さんも出られていた。魚屋宗五郎の酔っぱらいに合わせる梅幸さんはもちろんのこと皆さんの動きが自然で見事である。

判官切腹の場』は十三世仁左衛門さんが由良之助で、判官が由良之助を待つ気持ちが目の動きなどで丁寧に表されている。秀太郎さんの力弥がこれまた絶品。判官が由良之助に仇討を伝えそれを受ける由良之助との緊迫感とマグマの一瞬はぴかっと光が走る。これらが頭に浮かび、菊之助さんの判官が観たいと思ったのである。菊之助さんは新しい事にも挑戦されているのでまた違う判官になるのではと期待がたかまるのである。

その一つに新作『風の谷のナウシカ』がある。『風の谷のナウシカ』は、前半はアニメ映画を見返して観劇したので、なるほどこう歌舞伎化されたのかというのがよくわかった。後半はかなり難解で登場人物をとらえるのに苦労した。観劇した後で、漫画のほうを購入したが、そのまま開かずにいた。この巣ごもり時間に読むことができた。モノクロなので想像力全開で舞台のナウシカの青い色の衣裳などを思い出しながら、そうかそういう事かと何んとか全体像を掴むことができた。

アニメ映画が強いので、前半一つだけ不満があった。風を感じられないことであった。その工夫がもう少しほしかった。ナウシカは、王蟲(オーム)や巨神兵と心を通わせ、彼らが自分の役目をわかっているかのようにその役目追行してくれて浄化の犠牲となってくれることに涙する。その事をわかってあげれる人としての役目がナウシカだったのである。芸術、芸能、文化とは様々な感情を呼び起こし、考えさせ、力づけ、共に涙するそんな役目がある。

追記: さまざまに頑張っているのに新型コロナウィルスに感染して非難されたり、死にいたったり、自死するようなことになったら仇討を託したくなる。相手は幕府。それで駄目ならお岩さんになって出てくるしかない。『四谷怪談』の初演を『仮名手本忠臣蔵』とつないで舞台にかけた江戸歌舞伎は凄い。ゾクゾクする。

映像無料配信・三月歌舞伎座

三月歌舞伎座の無観客舞台の映像も無料配信されいる。大幹部の役者さんたちとその後を一生懸命追いかけられている次の世代の役者さんたちの出演なので、観ていて安心である。

雛祭り』。そういえば雛祭りの時期には、女の子いない友人たちにお雛様の絵葉書を送っていたが今年はすっかり忘れていた。映像でおそい雛祭りである。

男雛、女雛も美しく品よく鎮座され優雅な立ち振る舞いである。左大臣、右大臣もご機嫌に飲み踊り、若手の多い五人囃子も軽妙な踊りを披露してくれる。晴やかな気分にさせてくれる演目である。

新薄雪物語』は、役者さんが揃わないと公演できない作品である。歌舞伎には子供が親の主従関係から犠牲になるという演目があるが、この作品は、親が子供を守るために命をかけるという物語である。若さゆえに周囲の状況など目に入らず恋愛一直線の息子と娘を、それぞれの親がお互いに子供たちの窮地をどうすり抜けさせ命を守ってやれるのかという親心の葛藤が描かれる。

若い二人の恋心の場面、それがとんでもない罪をかぶせられ、詮議をされることになり、親子の関係を入れ替えての預かりとなる。それぞれ自分たちで詮議し罪をあきらかにせよということになる。姫を預かった夫婦は、姫を大切に預かり逃がしてやるのである。ではもう一方の親はどうするのか。ここからは父親同士の心の探り合いとなる。父親同士が繰り広げる駆け引きの見どころでもある。そしてどう見せてくれるのか期待の高まるところである。

衣裳のさばき方から、身体表現による立ち姿、歩き方、上半身の動かし方、首の回し方、傾け方、手の位置など、そうくるのですかとじっくり見させてもらう。物語と同時にすんなりと役者さんの動きや台詞を堪能させてもらった。

梶原平三誉石切』は、これまた観ていて面白かった。名刀が主人公のようなところがあり、刀を通じての物語である。さてこの刀は名刀なのかどうか。梶原平三は刀の鑑定人としては一流である。ところがその鑑定を認めない兄弟がいた。

梶原の鑑定の際の刀の扱い方など興味深い。そして気が付いた。鑑定し終わるとじっとしていた左右の家来が動くのである。彼らも息をつめていたということである。そしてこの左右の家来のひざに置く手の形が違うのである。兄弟側は握っている。梶原側は開いている。これって悪役側と善役側では違うのであろうか。今まで気にかけなかった。

罪人の酒名づくしの台詞、梶原の名刀を証明する驚くべき行動などバラエティーに富む。そして、義太夫節が耳に入りやすい作品でもあり登場人物の動きが音楽に乗るのに気が付くであろう。

赤っ面の悪役も出てくる。『新薄雪物語』に出てくる奴や違うタイプの悪役などもパターン化している。役者さんはそれぞれのパターン化した動きを習得している。お姫さまと、普通の娘のちがいなども今回かなり詳細に鑑賞できる。身についた役者さんたちで観れたのは幸いである。

新薄雪物語』や最後の『沼津』などは、悲劇にともなう親子の情愛を主題にしていて少し重い作品となっているので、『高坏』などの楽しい踊りが入っているのは歌舞伎の演目の並べ方としては観客の心持ちを上手くコントロールしてくれる。特に『高坏』は下駄タップが入るので軽快で気分を軽やかにしてくれる。『雛祭り』では雅なあでやかさをとそれぞれの愉しみ方ができる演目で歌舞伎の変化に富んだ趣向を感じとれる。

沼津』は、客席を演者が道中として使い、観客を喜ばせる場面であるが、無観客となればそうもいかない。キャメラがお地蔵様に見立てられて拝まれていたが。まさかこの後悲劇につながっていくとは思えない雰囲気で始まる。人の縁というものはこのようなめぐり合わせをするのであろうか。

そのめぐり合わせに父と息子のそれぞれの立場の違いの説得がある。情は十分すぎるほどある。しかしそれぞれが持ちこたえなければならない位置づけがある。お互いに親子であると知りながら口にださず、その情に頼らないのである。父はその息子の義に対して義で臨む。雲助であるにもかかわらずその義を心中に秘めていたとは。庶民の中に武士に劣らぬ腹構えがあった。

新薄雪物語』でも悪に対して、笑ってやろうという心意気がある。これは親心が庶民とは変わらないというところまで視線を下げる歌舞伎の観客を意識していているように思える。刀を持たぬ者たちの、権力に対して笑ってやるという何とも手の込んだ逆説とも思えるのである。命をかけて。

全てを観て、自分の好きな演目を見つけるのもいいでしょう。お気に入りの役者さん目当てでも。またそれを見つけ出すのも。歌舞伎座が新しくなった時、テレビなどでみて、歌舞伎には興味ないけれど新しい歌舞伎座にいきたいという人がいて驚いたことがあるが入り方は自由である。

追記1: 行定勲監督によるショートムービー『きょうのできごと a day in the home』(YouTube)面白かった。観てない映画がドンドン出てきて観なくてはと思わせられた。最後に観た映画が一本出てきた。う~ん、感想ちがう。うむ、好きなタイプということ?いや~こういう撮り方もありやな。私を映画館に連れてって!

追記2: 無料配信を紹介した友人の一人は『新版オグリ』は長すぎて女方さんの美しさのみに目がいったようなので、『雛祭り』と『高坏』を再度プッシュ。「飾っているはずの人形が、酔って踊るのは、不思議な現実感がありました。」「お酒の飲み方が、スッゴク美味しそうで、私も~あのお酒を飲んでみたい(笑)とおもいましたよ。幸四郎さんの演技が、素晴らしいなぁ~と感心しました。」ではお次は、幸四郎さんが出ている『新薄雪物語』と『沼津』をプッシュ!

映像無料配信『新版オグリ』映画『CATS』映画『ライオン・キング』

3月京都南座で公演中止になったスパー歌舞伎Ⅱ『新版オグリ』の無料配信(松竹チャンネル・YouTube)が始まった。新橋演舞場で2ケ月、2月博多座、3月南座で中止となり南座での無観客舞台の映像配信となった。  気ままに新版『オグリ』

博多座は新橋演舞場から少し変わり、南座はさらに変わったと言うことで観劇したいと思っていたので歓喜である。天馬の宙乗りが、南座は一箇所だけということで、オグリ一人かなと想像していたが、鬼頭長官が手綱を引き受けオグリが後ろに乗る形となった。天馬なので、制御は鬼にまかせたのであろうか。二人乗りなので天馬が大きく、南座でのインパクトの強さを考えたのかもしれない。確かに新橋演舞場では、小さくて可愛らしくうつった。

一幕での照手姫の輿入れの時、照手姫の登場がなく「待てー!」の一声でおわった。その後、横山家の家来の登場で、照手姫がオグリ一門にさらわれたことがわかってくるのである。ここは、えっ!照手姫出ないと思ったが二回目観ると入り込めた。新橋版を観ていない人はスムーズに理解できたであろう。そしてオグリの登場となり、オグリを印象づける。

テーマ曲が出てくるとやはり心が踊ります。そうそうそう!パソコンでイヤホーンで観ているので、台詞がよく耳に入り込み、その強弱、抑揚などがよくわかる。パソコンで映画など観るのは嫌いなのであるが、歌舞伎の台詞を聴かせるような舞台芸術には有効であった。若手も感情だけの発声から工夫して身についてきたなと思わせてくれる。反対にまだ感情に頼っているなと思わせるところもある。新しい一郎もおだやかにすんなり仲間になっていた。

もろこしが浦の場面は噂話ににぎやかな老女たちが大幅にリストラされて、志村けんさんのひとみばあさんらしきホヤ婆だけが残こった。志村さんの芸がつながっていることを知らしめることになり、舞台の映像のなかで志村さんを偲ぶことになってしまった。

地獄の鬼兵士もさらなる活躍をしていて、花道での立ち回りでの細かい動きも観ることができて満足である。さらにバックに鏡を使った回り舞台では、半円に並んだ鬼兵士が一つの円に見えるという演出は上手く使ったとうならせてくれる。映したカメラの位置にもよかった。

舞台は生きものである。昨年の秋に耳にした台詞の意味が今もっと強く響いてくる。自分のためだけに生きる、それでいいのか。ただオグリが地獄で自我を爆発させなければ閻魔もオグリを選んで旅出たせなかったわけである。オグリと閻魔と遊行上人と仏たちの巡り合わせであり、さらに照手姫にかけたオグリの言葉が照手姫からオグリにもどるということにもなっている。

自分の体験から熊野を目指すのがいいと指し示してくれた人。多くの生き方がありそれを通過した考え方がある。そこに耳を傾けてくれた人がオグリにとって良い選択であろうと道を開いてくれ、それを次の人に手渡してくれる。それを静かに聴いていることしかできないオグリ。それがオグリにとって一番必要なことであった。

新版オグリ』の前に1998年版の映画『CATS キャッツ』を観た。『CATS』は強いメッセジー性があるわけではない。『CATS』からは、猫たちのメーキャップと動きが大きくはっきりと観れるのでそこが興味深く、楽しんで観た。「メモリー」の歌はやはり優しくズシンとくる。スーパー歌舞伎の場合、古典歌舞伎の衣裳の継続性とは違ってドンドン変化するという愉しみもある。今回は猿之助さんと隼人さんのダブルキャストなので顔のメイクと衣裳の違いなども楽しむことができる。

もう一つ映画『ライオン・キング』(2019年)も観ていた。これは映画館で観たかった。アニメなのであるが実写さながらの映像である。2019年版に出演している声優さんや歌手のかたは子供時代にアニメ映画『ライオン・キング』(1994年)で大好きになっているかたもいた。1994年版は観ていないが今回の映画は実際の動物が演じているようで楽しかった。凄い技術的進歩である。

新版オグリ』は今回映像を使った。この映像が人の生きる世界の広さ雄大さを感じさせてくれた。『ライオン・キング』(2019年)の映像と重なってしまった。YouTubeの無料配信でミュージカル派の人や海外の人々が眼を止めてくれるのを期待したい。19日までですので要注意!この後、歌舞伎座3月歌舞伎公演無観客映像が配信される。(17日16時~26日)古典歌舞伎である。さらに国立劇場でも『義経千本桜』の無料映像の配信をしている。(30日15時まで)歌舞伎の入口を利用してみてはいかがであろうか。

『梅笑會』(第二回)

ヒップホップ文化にしばらく触れていたので、気分を変えて日本の芸能へ。『梅笑會』は中村芝のぶさんと市川笑野さんの二人会である。歌舞伎役者さんの個人的な会の観劇は初めてである。諏訪湖と諏訪大社に関連した演目の構成で観たいと思わせてくれた。観ておいて良かった。

芝のぶさんも笑野さんも歌舞伎の舞台では脇をつとめておられ、こんなに華のあるかたであったのかと驚いてしまった。諏訪大明神のバックアップがあったのかもしれない。神様だけではなくこの舞台にたずさわられた方々の人の技というものが一つになって作り上げたと言う意気込みをしっかり感じとることができた。

ゲストは尾上右近さんで、最初の出し物の清元『四季三葉草』では、素踊りの三番叟である。女方の品のある翁の芝のぶさんとあでやかな千歳の笑野さんの中に入って見た目にも新鮮であった。清元なのでお兄さんの斎寿さんも三味線を担当されていておごそかな中にホットな雰囲気も感じられた。演者と音楽が日本の伝統芸能を高めていった要因でもある。そして、舞台装置や小道具なども。

次の演目は諏訪2題の一つ、鼓舞『タケミナカタ』。長野県岡谷市出身の笑野さんが諏訪大社の御祭神・タケミナカタを題材に構成、演出、主演である。鼓舞とは太鼓をたたいて舞うということで、岡谷太鼓保存会の方々と諏訪大社木遣り衆が参加される。

タケミナカタは国譲りの神話に出てきて、オオクニヌシの二子である。力くらべでアマテラスからつかわされたタケミカヅチに負け諏訪湖まで逃れてくる。タケミナカタは先にそこをおさめていたモレヤノミコトを服従させたことにより、諏訪大社の祭神となる。

右近さんは諏訪明神の使いとして口上をのべる。『風の中のナウシカ』での前篇で口上をされていたが、『タケミナカタ』ほうが短時間でのややこしい神話の解説なので慎重に見えた。解らなかった観客は渡されたパンフの解説でさらに補充できた。

笑野さんは、巫女では、岡谷太鼓の会の演奏に合わせ華麗に舞い、諏訪大社木遣り衆のたくましい美声の後には勇壮なタケミナカタとして舞う。古典芸能の調和に満ちた融合であった。

最後の諏訪二題は、義太夫『本朝廿四孝ー奥庭狐火の段』である。歌舞伎三姫の一つ八重垣姫に芝のぶさんがいどむ。『奥殿狐火の段』は狐火に導かれ、氷の張った諏訪湖を渡って許婚の勝頼に危険を知らせるという激しさと愛らしさを持つ姫の内面と行動を現わす場面である。

パンフに、諏訪湖の御神渡り(おみわたり)の伝説から生まれた筋とある。諏訪大社上社の男神が下社の女神のもとに通う足跡で、湖面の氷が三尺ほど一直線に盛り上がるのだそうである。私の中では、姫ということもあり、スケートのようにすーっと滑るように進むイメージである。

狐火ということで、最初に神の使いの白い狐が現れる。人形の白狐でそれを操るのが右近さんで白狐の残像を残してくれる。八重垣姫を行かせまいと力者(中村福緒、坂東やゑ亮)がさえぎるが、姫の勝頼を想う心情は何者にも負けなかった。さらに諏訪法性の兜を手にしているのであるから。

素晴らしい構成であった。芝のぶさんと笑野さん、かなりのハードルを見事に越えられた。第三回は第二回のハードルより高くするのであろうから、なかなか大変であるが期待が持てる。

諏訪湖や諏訪大社下社春宮と秋宮には行ったことがあるが上社のほうは行っていない。行った時からかなり年数がたってしまって、社のイメージが湧いてこない。その時、大きなお風呂も観たなと調べたら『片倉館』の千人風呂であった。今は千人風呂に入浴もできるようで、休憩所や食堂もある。見学した時は殺風景なイメージがあったが、時代とともに変わったようである。次に寄った北澤美術館も健在である。

皇女和宮の降嫁の際に使われた本陣岩波家など見どころの多い場所でもある。岡本太郎氏が絶賛して有名になった万治の石仏にはまだお目にかかっていない。お会いしたいものである。浅草から諏訪湖まで飛ばせてもらった。第三回はどこに飛ばせてくれるであろうか。

気ままに『新版 オグリ』

ヒップホップ文化のもやもや感が少し薄れ、スーパー歌舞伎Ⅱ『新版 オグリ』のことが出て来たので気ままに書かせてもらう。

猿之助さんと隼人さんが並んだ『新版 オグリ』のフライヤーを見た時、猿之助さんの鬘は今までのスーパー歌舞伎のイメージから納得できたのであるが、隼人さんのがわからなかった。地味系だなとおもったら、ヒップホップ系であった。舞台にオグリ6人衆が出て来て、玉太郎さんのキャップで、そいうことだったのかとパッと解明したのである。ストリートダンス映画を観ていてどうして気が付かなかったのであろうか。悔しい。

もう一つは、衣裳にフードがついている。これもストリートダンスには多い。さらにヒップホップ文化の誕生当時は、一人がMC、DJ、ブレイクダンス、グラフィティの全てやっていたという。グラフィティなどは、違法の場所にも描くので映画などではフードで顔を隠すためフード付きのパーカーを着ていることが多いのである。

フードを使ってダンスの振り付けを考えたら、振り付けを盗まれてしまうというのが映画『ボーン・トウ・ダンス』に出てくる。新しい振り付けはバトルの最重要課題である。映画『ユー・ガット・サーブド』でも盗まれていた。振り付けを盗まれるのでは、映画『ストンプ!』にも出てくる。<ストンプ>はアフリカで生まれたもので、それがアメリカの大学の友愛会で行われるようになる。足踏み、拍手、体を叩いて音をだしつつリズムをつくりながら踊るのである。なかなか勇壮である。

ストンプの映画は数が少なく『ストンプ!』、『ストンプ・ザ・ヤード』、『ストンプ・ザ・ヤード2』の3本を観る。『ストンプ!』はカナダ制作で高校生の年代であるが、脚本家はカナダでは高校生が踊っていて、アメリカでは大学生が殆どなのでその違いに驚いたとコメントしている。入り方もそれぞれである。

さて軌道修正し、『新版 オグリ』は、個人的興味ゆえにストリートダンスと重ねて観て楽しんだ。オグリに見いだされたオグリ軍団の仲間意識。オグリ自体が貴族社会から逸脱した人物である。馬を乗りこなすのは武士の誇りでもあったが、その能力さえもオグリには備わっていた。ただしその才能による自信過剰をなんとかしようとする人物(?)がいた。この方フットワーク抜群である。ダンスも踊れるかも。

愛し合うオグリと照手姫は離れ離れとなり、それぞれの旅をすることになる。その旅先で登場するのが二人組である。ストリートダンスのバトルでは、得意分野のダンスをしかけるとき、単独、コンビ、トリオでしかけ変化をもたせることが多い。全員でやるときは気持ちを一つにし、さらにそれぞれの持つ力を上手く発揮させること。これもバトルの重要な作戦でもあり、観客を楽しませることにもつながるのである。

新版 オグリ』でも、このコンビとトリオが流れの中に上手く取り入れられていて上手い使い方であると思った。衣裳も電飾つきの衣裳が出て来た時は、映画にもあったので笑ってしまった。もちろん立ち廻りでもこの組み合わせは使われる。

若い役者さんの活躍をみれるのも楽しみである。竹松さんは、歌舞伎『あらしのよるに』の<はく>が印象的であったが小栗一郎で活躍する。ぴったりである。博多座と南座は鷹之資 さんだそうである。どうなるのであろうか。これまた興味深い。

二郎が男寅さんで、どこか甘えん坊の雰囲気が次男坊ゆえであろうか。四郎の福之助さんの武骨さが出自と合っている。六郎の玉太郎さんが難しい役どころで、屈折した若者像を上手く出している。そしてきっちり若者に同化しているのが三郎の笑也さんと五郎の猿弥さんである。この六人を率いるのが猿之助さんの小栗判官と隼人さんの小栗判官のダブルキャストである。今、思った。猿之助さんのオグリの鬘、アフロヘア―をイメージしてるかも。そんなわけで色々想像豊かにしてくれる。

隼人さんのオグリは颯爽として仲間をひきつけ、遊行上人の猿之助さんに思慮深く導かれる。猿之助さんの遊行上人の雰囲気がいい。隼人さんの若いオグリを導くという印象が強く出た。時代の成り行きに懐疑的なオグリの猿之助さんは仲間を力強くひっぱる。隼人さんの遊行上人は、猿之助さんのオグリと共に自分も導く道を模索しているという感じである。そこの違いも見どころの一つであり、どう見るかは観客に任される。

小栗判官のお墓があるのが神奈川県藤沢遊行寺であるが面白いことを知った。河竹登志夫さんが書かれているのであるが、曾祖父にあたる黙阿弥が「阿弥」号をもらったのが、この時宗総本山遊行寺からだということである。

相模湖に行った時には小仏峠に照手姫の美女谷伝説があるのを知った。照手姫が小仏峠の麓で生まれていて、その美貌から地名が<美女谷>となったといわれていて、両親が亡くなって照手姫は<美女谷>から消えてしまったとあった。『新版 オグリ』での照手姫の運命はいかに。

照手姫は新悟さんである。新悟さんの照手姫の役にも、新悟さん自身にも自意識がみえた。あまり自分を押し出さない方だが、猿之助さんのオグリの時、凄い大きな声で台詞を言われて客席に笑いが起きた。意に介さずさらに貫いた。これは好い傾向であると思えた。次の国立劇場の『蝙蝠の安さん』の花売り娘では、細やかさが加わっていた。ひとつ突き抜けたかも。

今月の新春歌舞伎では、『新版 オグリ』の役者さん達は、あちらこちらの舞台で活躍している。悪戦苦闘している方もいるであろう。そろそろ心は、『新版 オグリ』への移行が始まっているのかもしれないが、今月の舞台、悔いのないように無事つとめられますように。

<「ヒップホップ文化」(グラフィティ)> →  2020年1月26日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

     

歌舞伎座5月『鶴寿千歳』『絵本牛若丸』『京鹿子娘道成寺』『御所五郎蔵』

鶴寿千歳』 昭和天皇御即位の大礼を記念してつくられ作品だそうで、箏曲が中心となっていて、新らしい時代を寿ぐ舞踏である。宮中の女御(時蔵)、大臣(松緑)、男たち(梅枝、歌昇、萬太郎、左近)が優雅に踊りをくりひろげる。そして雌鶴(時蔵)と雄鶴(松緑)が目出度く舞い納めるという設定である。箏曲の音色がゆかしくて、夫婦の鶴が平和な世を愛でている。時蔵さんはゆったりとたおやかで、松緑さんの身体の動きの角度やそのゆるやかに流れる速度に品の良さが映し出されていた。そういうことなのかと袖の扱いかたなどに見惚れる。

絵本牛若丸』 七代目尾上丑之助襲名の初舞台である。菊之助さんが六代目丑之助襲名の初舞台のときに作られたそうで上手く出来ている。(村上元三脚本)『鬼一法眼三略巻』の人物背景と義経の牛若丸時代の鞍馬山とを組み合わせている。鬼一法眼(吉右衛門)と吉岡鬼次郎(菊五郎)に伴われて牛若丸(丑之助)が鞍馬山にやってくる。修業のあかつきには兵法の三略を授けるという。平家の郎党が牛若丸暗殺のためあらわれる。これを牛若丸はやっつけてしまう。実は郎党は源氏側で牛若丸の腕をためしたのである。牛若丸は弁慶(菊之助)をともない、源氏再興を目指し奥州へと旅立つのである。

牛若丸が弟子入りする東光坊の蓮忍阿闍梨(左團次)、お京(時蔵)、鳴瀬(雀右衛門)、山法師西蓮(松緑)、山法師東念(海老蔵)などの役どころで役者さんが一同にそろう。『鬼一法眼三略巻』を思い出させつつ鞍馬での牛若丸の立ち廻りで、その後の義経の活躍を思い起こさせる構成となっていて、菊五郎劇団の立ち廻りを披露する新丑之助さんにふさわしい活躍ぶりであった。

(楽善・休演、彦三郎、坂東亀蔵、松也、尾上右近、権十郎、秀調、萬次郎、團蔵)

京鹿子娘道成寺』 菊之助さんの白拍子花子である。期待して楽しみにしていた。ところが、可愛らしくて甘い娘道成寺であった。怨みを伝えるために道成寺に来るわけである。所化たちをだましても鐘のそばへ行きたいと思っているのである。所化たちをその愛らしさで煙に巻いてもいい。しかし、鐘のそばで踊っているうちに心の中に変化が強まってそれを静めたりする内面の葛藤があるはずである。しかしそれをみせない芯が身体から、どこか踊りの中に出てこないであろうかと鑑賞していたが、可愛らしさと甘さの雰囲気を持続された。最後にその恨みを爆発させるということだったのであろうか。何か考えがあってのことかもしれないが、印象が薄くなったのが残念であった。

所化の役者さんたちは手慣れていて安定していた。(権十郎、歌昇、尾上右近、米吉、廣松、男寅、鷹之資、玉太郎、左近)

曽我綉俠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ) 御所五郎蔵 』 御所五郎蔵が松也さんで、星影土右衛門が彦三郎さんである。声の良いお二人なのでどう変化をつけて河竹黙阿弥ものに挑戦されるかと楽しみにしていたが、良さを生かしきれていなかった。力みが前面にでていた。良い所を生かすということも難しいことであると思わせられた。

彦三郎さんは、悪役である。顔の作りがどうも気になった。声で悪を表現できる声質なので、もう少しかっこよくしても良いように思えた。あくまでも彦三郎さんの場合である。松也さんは、神経質な五郎蔵になっていて、仲之町での出会いでのつらねも沈んでしまった。とめに入る坂東亀蔵さんに落ち着きがあった。

五郎蔵が、女房でもある皐月に愛想づかしをされるがずっと線の細さが目立ってしまうのである。五郎蔵は今は侠客なのである。侠客と傾城である。梅枝さんが古風で地味で、五郎蔵のためなのだからと、引き加減である。しかし、心を隠して傾城として女房としての意地の見せ所があってもよいのでは。侠客と傾城という立場の見せどころでもある。

その分、逢州の尾上右近さんのほうが艶やかに見える。逢州は旧主の恋人でもあるからこういう位置関係もありかなと思ってしまった。

逢州を皐月と間違って殺してしまう場面が、若い役者さん同士でもあることから勢いがあり、見せ場となってしまった。やはり、見せ所はその前の場面であろうと思えた次第である。

若い役者さんが、大きな役を演じる機会が多くなった。それをどうこなしていくかが、今の歌舞伎界に課されているように思える。また歌舞伎を観ていない友人から上から目線だと言われそうである。

(吉之丞、廣松、男寅、菊市郎、橘太郎)

 

歌舞伎座團菊祭5月 『壽曽我対面』『勧進帳』『め組の喧嘩』

壽曽我対面』 大先輩たちの力を借りないでの上演である。様式美の演目なので、やはり若すぎるなという感想である。それぞれの役どころの強弱の際立ちが感じられなかった。ただ、立ち位置と衣裳に負けていないところが修業の賜物である。(松緑、梅枝、萬太郎、尾上右近、米吉、鷹之資、玉太郎、菊市郎、吉之丞、歌昇、坂東亀蔵、松江)

勧進帳』 やっとストーンと落ちてくれた。いやいや、いやいや、何か違いますなという想いが今まで続いていた。これぞ十一代目海老蔵さんの弁慶であるとその完成度に納得できた。あくまでも十一代目海老蔵さんの弁慶であり、さらに変化していくであろうが。

とにかく面白かった。張りのある声の台詞の語尾がすっきりしている。無駄なこもりがない。語尾の押さえ方が心地よい。目力に無駄がない。目が物を言うというが、うるさ過ぎる傾向があった。動きと声と目が一致していて、細心さ、闘争心、安堵感、ゆとり、情愛、緊迫感、責任感、感謝などの想いが無理なく伝わってくる。

菊之助さんの義経は弁慶を信頼しつつ任せる。松緑さんの富樫は、疑ったからには逃がしはしないと弁慶に迫る。ガチンコである。迫力あり。じっと静かに弁慶に打たれる義経。そこまでするかとハッキリ見届ける富樫。くっと引く富樫。

弁慶おそらく混乱しているとおもう。自分の気持ちを整理するのに必死である。すっーと義経から差し出された手。救いの手である。勿体ない。やっと自分を取り戻す弁慶。ここがあるから、富樫が再び現れても態勢を整えられたのである。いつも弁慶の踊りに注目するのであるが、今回はどう踊ろうと差しさわり無しの気持ちであった。義経と四天王を先に立たせる弁慶。

今回はオペラグラスが離せなくて、四天王を見るゆとりがなかった。こんなこと初めてである。全体をみる時間がなかったのである。最初に太刀持ちは注目して玉太郎さんのしっかりした動きに満足。ぴたっと決まっていたので安心。

十一代目海老蔵さんの頂点の弁慶を堪能できて満足このうえなし。はや次の十三代目團十郎さんの弁慶がどう変化するのか楽しみなところであるが、こちら好みとなるか、またまた時間がかかるのか、それもまた挑戦のなせる技である。(右團次、九團次、廣松、市蔵、後見・齊入)

神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)・め組の喧嘩』 これは菊五郎劇団が中心なってのチームワークも見せ所であろうからと、ゆったり愉しませてもらう。「江戸の三男」、火消しの頭、力士、与力。その火消しと力士の喧嘩である。火消の頭は、弁天小僧の浜松屋の場でも登場する。ゆすりとわかって収めようと登場する。火消しを鳶ともいうのは、棒のの先に鳶のくちばしのような鉄の鉤をつけた用具をもっていたことから鳶とよばれたようである。『盲目長屋梅加賀鳶』では、花道を引っ込むとき鳶口をくるりとひるがえして格好良くひきかえす。力士といえば、『双蝶々曲輪日記』を思い浮かべる。 

『盲目長屋梅加賀鳶』は、加賀鳶(加賀藩前田家お抱え)は大名火消しと町火消しの争いが出てくるが、乱闘にはならず納められる。町火消しは南町奉行・大岡越前守忠相によって1718年に組織されその二年後には、隅田川の西岸に「いろは48組」と東岸に「本所深川16組」が結成されている。「いろは48組」の「へ、ら、ひ」は音の関係から避けられた。そのかわりであろうか、万、千、百などがある。「め組」は芝が担当地域である。

江戸の火消しには三種類あって、もう一つは旗本お抱えの定(じょう)火消しである。町火消しには、江戸を守っているのは俺たちだという心意気もあるであり、武士お抱えの力士なんぞに負けてなるものかという意識も強いのであろう。力士も江戸の華であるから負けられない。

品川の遊郭で力士の四ツ車大八がお抱えの武士と宴会中に隣の部屋にいため組の火消しと喧嘩になる。め組の頭・辰五郎が間に入り一応おさめるがそうはいかなかった。それで収まらなかったのである。鳶頭の女房が凄い。仕返しをしないのかと夫に詰め寄るのである。火事ともなればその度に覚悟を据えているのであろうし、それだけ命を張っている鳶が、なんという意気地のなさかとの想いであろう。辰五郎にはお仲の性格の知っていての考えがあったのである。

ついに芝の神明で、喧嘩になってしまう。この鳶と力士の喧嘩が見せ場でもある。そして若い役者さんたちの活躍の場でもある。ここぞとばかりに力士と火消しの乱闘である。乱闘をそれらしい立ち回りで見せてくれるわけである。たすきは荒縄である。力はあるが動きの鈍い力士相手にフットワークよろしく果敢に立ち向かっていく。

さすが鳶頭・辰五郎の菊五郎さん、鶴の一声でまとめてしまう。女房・お仲の時蔵さんもただの女房ではなかった。きりきりと夫にせまる。鳶ともなれば一秒を争う火事相手であるから着替えの手伝いも速い。衣裳箱をポンと投げる勢いで刺子半纏に着替えさせるのである。なるほどなと納得しつつ観ていた。『極付幡随院長兵衛』の着替えと妻子との別れの違いなども交差する。

四ツ車大八の左團次さんに貫禄があり、又五郎さんも力士大きさが似合うようになった。若い役者さんたちも鳶の恰好良さが身についてきて、若さっていいなと思わせてくれる。その中でも菊之助さんがやはりすっきりとしている。町火消しの纏(まとい)も組によって違うわけで、舞台に出てくる「め組」の纏は継承しているのであろうか。白の透かしが素敵である。

自分の担当地域が火事になれば一番纏でなければならない。他の町内からも次々と応援がくる。そうすると到着順番に屋根上の纏の花形をゆずるのが習わしであった。火事でありながらそういうところが喝采をあびるゆえんでもあったわけで、家事が多いから庶民の生活道具は少なく、すぐ逃げれるような状態である。逃げつつ、纏を確認していたのかもしれない。

纏は上の飾りで、下のヒラヒラしているのはばれんといい、重さは約11キロ。それを肩に屋根に上るのである。「め組」の鳶たちも、力士は猛火との想いでぶつかっているのであろう。舞台では喜劇性を加えたぐっと若い役者さんたちの見せ場にもなっている。映画などからすれば、江戸の風俗をのぞきからくりを大きくして眺めている感じであろうか。

仲裁にはいるのが、焚出しの喜三郎の歌六さん。この焚出しの喜三郎というのは、町火消人足改(まちびけしにんそくあらため)の相当するのであろうか。火事の際、町火消や火消人足(火消しの見習い)を管理した役人のことである。その辺が疑問に思った次第である。出演者多く記さないが、フライヤーに市村光さん(萬次郎さんの次男)の名前があった。

踊りの『お祭り』が鳶頭で、落語の『火事息子』は、質屋の息子が町火消人足となる噺である。久しぶりで志ん朝さんの『火事息子』をCDで聴く。話題の広がる『め組の喧嘩』である。

歌舞伎座4月『実盛物語』『黒塚』『二人夕霧』

実盛物語』。『源平布引滝』は、「義賢最期」「御座船」「実盛物語」と続いている。「御座船」は上演されることがまれで、この三作をつないでいるのが小万という女性である。死してまで切られた自分の腕を自分の息子の太郎吉に託し、葵御前の窮地を実盛を通じて救うのである。実盛は、後になってこの腕について物語り、そこからまた意外な展開となる。

「義賢最期」は、源義賢の壮絶な最期が描かれており、妻の葵御前は九郎助に託され、白幡は九郎助の娘・小万に託される。小万は「御座船」で、深手を追いつつも白旗を口にくわえて琵琶湖に飛び込み泳いで逃れようとする。途中、御座船にたどり着こうとするが、その船は平宗盛の船であった。同行していた斎藤実盛は、その白旗を握りしめた女から白旗を取ろうとするが女は白旗を放さない。実盛は女の腕を斬り落とすが女も腕も湖の底に沈んでしまう。

その腕を、九郎助と孫の太郎吉が拾いあげ家に持ち帰る。ここで、小万の腕は着くべきところにたどり着いたといえる。太郎吉が白旗を握る指をときほぐし白旗は葵御前に渡される。そしてこの腕はさらに義賢と葵御前の間に生まれ赤子の命まで救うのである。その赤子が、後の木曽義仲である。

実盛(仁左衛門)は、瀬尾十郎(歌六)と共に、九郎助(松之助)がかくまっている葵御前(米吉)が男の子を生んだなら殺す役目でやってくる。九郎助の女房・小よし( 齊入)は赤子が生まれたと抱きかかえてくる。それは、女の腕であった。瀬尾はあきれるが、実盛は、唐国でも后が鉄の柱を抱いて鉄の玉を生んだという話を披露し、瀬尾を丸め込む。ここで、実盛が平家につきながら源氏の味方らしいということがわかる。

瀬尾は去り、実盛は「御座船」での女の腕を斬ったことを物語る。仁左衛門さんの実盛は、そうかそうであったかと自分でも得心しつつ物語られる。小万(孝太郎)の死体が運び込まれる。孝太郎さんが死体のままということはないわけで蘇生する。そして、息子の太郎吉(寺嶋眞秀)に一言語ろうとしてふたたび息絶える。

蘇生させたのは実盛で、小万の念力を感じたからであろう。芝居はこのあとさらなる展開をみせ見せ場となる。時代物では子供が親の主従関係から犠牲となることが多いが、『実盛物語』では太郎吉が首を討つという結果となり、さらに実盛は太郎吉に自分が白髪になった時、合戦の場で会おうと愉快そうに馬上の人となる。

小万は、実盛に遭遇したことによって、自分の役目を全うさせることができたわけで、実盛によって木曽義仲誕生の物語も出来上がるわけである。仁左衛門さんは、実盛の懐の大きさと太郎吉への情愛をまじえつつ手の内のしどころを展開され、颯爽とその場を後にするのである。実盛を取り巻く役者さんたちも手堅く上手くはまってくれていた。

黒塚』。これは、以前に書いた時と同じ気持ちなのでその感想を参照にされたい。歌舞伎1月 『黒塚』

さらにつけ加えるなら、猿之助さんが、中腰で膝を曲げての姿勢を維持しつつ軽やかな足取りで踊られるのには改めて感心してしまった。怪我のこともあってか、鬼女になってからの動きがバージョンアップされたように思う。今できることは全て出しきるといった感じであった。今回は、阿闍梨が錦之助さんで、強力が猿弥さん。山伏大和坊が種之助さんと山伏讃岐坊が鷹之資さんの若手である。

錦之助さんを先頭に数珠の音もかなり強く響き、猿弥さんのあの身体がどうしてあのように動けるのか不思議であるが、そうしたことが重なっての靜と動の変化のある『黒塚』となった。

二人夕霧』<傾城買指南所>とある。伊左衛門(鴈治郎)が遊女夕霧(魁春)に先立たれ、今は二代目の夕霧(孝太郎)と夫婦となり、傾城買いの指南所を開いていると言うのであるからこれは喜劇かなと思ったところが、死んだ夕霧があらわれ伊左衛門としっとりと踊るのである。夢の中かと思ったら夕霧は生きていたのである。そこで二人の夕霧の対面となり、すったもんだの末、最後はめでたしめでたしなのであるが、喜劇性が上手く収まってくれなかった。

その場その場を面白く盛り上げようとするのであるが、和事の流れるようなちょっと肩透かしのような面白味が上手く出ず、ドタバタとした流れになってしまったのが残念である。和事でさらに喜劇性となると想像以上に難しいのだということを感じさせられた。

若手の萬太郎さんと千之助さんが頑張られたが、舞台を盛り立てる役というのはなかなか大変なものである。もっと経験が必要であろう。これを機に舞台の一つ一つ大切されて、さらに和事を意識されて励んでほしいとおもった。芝居全体にもう少し工夫が必要のようである。(彌十郎、團蔵、東蔵)

歌舞伎座4月『平成代名残絵巻』『新版歌祭文』『寿栄藤末廣』『御存 鈴ケ森』

平成代名残絵巻(おさまるみよなごりのえまき)』。平家と源氏の時代に設定し「平成」の時代を讃え新し時代「令和」を寿ぐ演目である。平家の全盛で平徳子が中宮に上がると言うので平家の人々は喜びに満ちている。一方源氏は、遮那王(義経)が東国の藤原氏の下に行くことを母の常盤御前に報告し、いずれ白旗を上げることを誓う。知盛と義経が赤旗と白旗をかざし、のちの世に戦さのない新し時代をということであろう。

常盤御前の福助さんの一言一言の発声に舞台を押さえる力がある。平家側の面々(笑也、笑三郎、男女蔵、吉之丞など)もその優雅さがあり、知盛の巳之助さんの声も安定してきて、徳子の壱太郎さんとの出に花がある。児太郎さんの遮那王も背筋にきりっとした線がきまって源氏を代表している。平宗清(彌十郎)、藤原基房(権十郎)なども登場し、源平の世界を上手く繰り広げた一幕である。

新版歌祭文』。<座摩社>の場面を加え、久松が野崎村の久作の家に帰された原因がわかるようになっている。お染が雀右衛門さんで、お光が時蔵さんで、もう少し早くこのコンビでやってもらいたかった。襲名などが続いて、ベテラン同士の新たなる組み合わせが遅れた感がある。ただもう少しテンポが欲しいかった。

町のお店のお嬢さまと田舎娘のお光の違い、お店の若旦那・山家屋佐四郎(門之助)と武家の遺児でもある丁稚の久松(錦之助)の柔らかさの違いなど芸としての違いが観れる芝居でもあり、そのあたりはそれぞれの役者さんによって表現されていた。

<座摩社>では、手代小助の又五郎さんが小細工をして久松を窮地に陥れ、そのだますところが喜劇性ということに持って行きたかったのであろうが、又五郎さん、侍や奴の喜劇性は上手いが手代のほうは硬すぎるように思える。悪のほうにも傾き加減が弱く、喜劇にいくか、悪にいくかの方向性をもう少し決めてほしかった。

<野崎村>では、祭文語りが登場し、お光はお夏清十郎の唄本を買う。お光のその後の悲劇性が暗示されている。久作の歌六さんは手の内で、後家お常の秀太郎さんは座してからの台詞に実と押さえがある。両花道での舟のお染と駕籠の久松と残るお光との別れとなる。舟の赤い毛氈の色がお染とお光の立場の違いを際立たせ、悲劇性に色を添える。

観ているほうが体力切れで、役者さんが揃っていながら、せっかくの<座摩社>と<野崎村>が少しだれてしまったのが残念である。

寿栄藤末廣(さかえことほぐふじのすえひろ)鶴亀』。坂田藤十郎さんの米寿を祝う一幕である。女帝の藤十郎さんの周りを、藤十郎さんの子息世代から孫世代までの若い役者さん達で固め華やかで明るい一幕となった。鶴(鴈治郎)と亀(猿之助)の頭上の飾りで臣下が長寿を現わし、従者たち(歌昇、壱太郎、種之助、米吉、児太郎、亀鶴)が足拍子も加え軽快さもあり、ほど良い変化に飛んだ寿ぐ舞踊となった。

箏の音も効いて、舞台も梅から藤に変わり、形式さだけではなく、観客をなごませてくれた。

御存 鈴ヶ森』。またかと思ったのであるが、今まで見た『鈴ヶ森』で一番かもしれない。白井権八の菊五郎さんがどこにも力が入っていず、雲助をかたずけて行く。江戸時代の若者の虚無感をも感じさせる。それを見ていた幡随院長兵衛の吉右衛門さんが駕籠から呼び留める。台詞の妙味で聴かせ、長兵衛の大きさで権八との違いがわかり、厚みのある一幕であった。(左團次、又五郎、楽善)

京マチ子映画祭・『有楽町で逢いましょう』と『七之助特別舞踏公演』

映画『有楽町で逢いましょう』(1958年・島耕二監督)と『七之助特別舞踏公演』とどんな関係があるのかと言えば、七之助さんのトークからつながってしまったのである。千葉市民会館での鑑賞だったのであるが、七之助さん市民会館から千葉駅へむかいぐるっと回って市民会館まで散策したのだそうである。駅が大きくて「そごう」があって凄いですねと話される。千葉市民会館の緞帳には「千葉そごう」の名があったので、こちらはその前から反応していたので、さらに反応してしまった。

 

映画『有楽町で逢いましょう』は、フランク永井さんの歌の『有楽町で逢いましょう』の歌謡映画ともいえるが、歌は「そごうデパート」の宣伝用でもあった。今はもう宣伝ソングとは知らずにフランク永井さんの代表曲として受け入れられている。こちらもそんな話を聞いたことがあるなと思いつつ映画を観るまでどこかに飛んでいた。映画を観て、この歌は、フランク永井さんのあの声と佇まいのダンディな雰囲気が成功し、有楽町のそごうがあこがれの場所となったことが想像できた。その後この歌は自立し、大人の恋の歌となる。

 

有楽町駅前の読売会館に「そごう」が東京進出を果たしたが、閉店して今はビックカメラが入っている。その同じ建物の8階の映画館で『有楽町で逢いましょう』の映画を観ているのであるから不思議な感じであった。映画を観終ってから建物を眺めたが映画の中のおしゃれさはないが、建物はそのまま残っていて、そばにレンガ造りの電車の高架下も残っており今もそのアーチ下を通れるのは嬉しいことである。映画を観ると、二階の喫茶に座りレンガの高架を走る電車も実際に見たかったと思う。この建物は今も電車から見ることができる。

 

有楽町の「そごう」は、都庁が西新宿に移転、それが大きな痛手であったようである。都庁あとが東京フォーラムである。大阪の心斎橋にあったそごうも今は無いようである。有楽町の「そごう」に入ったことは無いように思う。

 

映画『有楽町で逢いましょう』は、クレジットが入る前にフランク永井さんが『有楽町で逢いましょう』を歌う映像がでる。フランク永井さんが出るのはそこだけで映画の流れとの関連性はなく、斬新である。そして大阪城が映り、パリから帰った新進デザイナー・小柳亜矢(京マチ子)が大阪のそごうでファッションショーを開いている。映画は東京と大阪を行ったり来たりもする。亜矢は今は東京に住んでいるが大阪生まれである。早々、東京の有楽町のそごうでもファッションショーを開く。エスカレーターを使ってのショーで、おそらく今のエスカレーターであろう。

 

弟で大学生の武志(川口浩)と亜矢のお客で大学生の篠原加奈(野添ひとみ)が、ひょんなことから恋仲になる。加奈の兄・練太郎(菅原謙二)は建築技師で大阪から東京への列車の中で亜矢とは偶然顔見知りであった。歌の歌詞は若い武志と加奈の恋愛模様に合っている。武志は家出して大阪に住んでいたころのばあや(浪花千栄子)の家に転がり込む。東京の家には祖母(北林谷栄)がいて、若い者をそれとなく後押ししている。大阪と東京の二人の老女の演技もそれぞれに光っている。

 

歌の『有楽町で逢いましょう』のB面が『夢見る乙女』で、道頓堀と思うが武志とばあやの娘がボートに乗っていてそこから『夢見る乙女』を歌っている藤本二三代さんが見える。歌詞が「花の街かど有楽町で 青い月夜の心斎橋で」で始まる。大阪から東京へのそごう店を意識して使われたのかもしれないが、映画の中の武志はこの歌から東京の加奈を思い出す。そして加奈は武志を想っている。この二人のデート場所が有楽町のそごう二階のティ―ルームなのである。その下に女神像が掲げられていたらしい。入ってすぐにティ―ルームへの階段がありおしゃれである。

 

大阪のばあやの家で亜矢と武志そして練太郎も加わり若い二人のことを話し合う。亜矢と練太郎も言いたいことを言い合っていたが好意をもったらしい。二人は大阪の帰り、仕事、仕事、と忙し過ぎるからと箱根に寄ってゆっくりする予定が、やはり仕事優先となる。そして「有楽町で逢いましょう。もっと頻繁に。」ということになるのである。軽いコメディタッチの娯楽映画であり楽しめる映画である。京マチ子さんのデザイナーとしての洋服も着物もしっかり着こなしていて仕事優先の気持ちが伝わる。

 

菅原謙二さんの建築現場から江戸城が見えておりあの近辺の開発も急ピッチですすんでいたのであろう。かつてはその中で高級感と新しさの夢を売っていたのが、今は欲しい物を安く手に入れようという庶民の買い物の場所になっており時代の流れである。他の開発が周囲に影響を与えると言う事は多い。

 

ここからが、七之助さんの驚いた話しにつながるのである。七之助さんは、千葉駅と駅前が高層化していて驚いたのである。そしてなるほどと思って歩き進み橋を渡ったところから、風景が一変したのだそうである。摩訶不思議な気持ちで市民会館にもどられたようでその話をしてくれたわけである。会場、会場で違う話がでてくるのだそうであるが、司会の澤村國久さんが、地元の話しがこんなに出たのは初めてですねと言われていた。

 

少し調べてみたところ、千葉市民会館の場所がかつてのJR千葉駅だったのです。ですからそこから伸びる栄町と言われる町はかつては活気ある千葉の商店街だったのでしょう。ところが戦災に合いその後千葉駅はそこから西に移動して建てられ開発もそちらに移動してしまったわけで、今の千葉駅前があるわけです。そういう事情があって七之助さんが歩かれた場所は開発とはほど遠い地域となってしまったところのようです。七之助さん、その落差に初めて歩いた街で突然遭遇し驚かれたのでしょう。

 

さて舞台のほうですが、舞踊『於染久松色読販より 隅田川千種濡事(すみだがわちぐさのぬれごと)』の四役早替りにの七之助さんには観客は声をだして驚かれていました。歌舞伎座の見慣れたお客さまとは違う新鮮な驚きかたです。帰りの出口のところではポスターを見て、こんなに全部演じていたかしらできるわけがないと主張されているかたもいました。どこで替わったのかしら、どこか解らないけど替わったのよ、などの声もあり、もめないでお帰りくださいと思いました。主張するかたのお気持ちもわかります。とてもスピーディーにスムーズでかつ美しい早替わりでした。

 

トークの時に登場人物やどんな関係かも説明され入りやすかったと思いますが、お光、お染、久松、お六とそれぞれの役が一人一人にうつりました。だからお客さまも同じ人が演じているわけがないと思われたのでしょう。お光の久松を想っての踊りがやはり心に残りました。(猿廻し夫婦・いてう、國久)鶴松さんの舞踊『汐汲』は扱う物も多いのでそのバランスなどに目をとられてしまうところがありました。可憐さがありますが、物語の世界と登場人物と同じ気持ちに入り込めるところまでには至りませんでした。時間がたってみると両演目とも、もう一度観てたしかめたいなあという気分である。

 

時代の移り変わりで街も変われば、役者さんたちの成長も変わって来る。しかし芸は、伝えたいと思う気持ちと踏ん張りどころで、伝えたいことはつながっていくのではないだろうか。それにしても、変化に飛んだお話と舞台でよい刺激をいただき、さらに大阪から有楽町そして千葉へとつながりました。

 

追記: Eテレの『にっぽんの芸能』で「中村七之助 歌舞伎の里に舞う」の放送あり。4月5日(金) 午後11:00~11:55 再放送 4月8日(月) 午後0:00~。