『画鬼暁斎展』幕末明治のスター絵師と弟子コンドル

鹿鳴館の設計者であるジョサイア・コンドルと絵の師である河鍋暁斎のジョイント展覧会である。開催されている<三菱一号館美術館>はコンドルの設計したときの建物の解体後に再建されたレプリカである。

展覧会には、鹿鳴館の階段の一部が切り取られた形で展示されており、暁斎の<河竹黙阿弥作「漂流奇譚西洋劇」パリ劇場表掛りの場>の行灯絵があり、明治の一部分も見せてくれる。

河鍋暁斎さんのこと、そして、ジョサイア・コンドルさんとの関係を知ったのは  河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (1)  からである。

そのあと、埼玉県蕨市にある『河鍋暁斎美術館』も訪ねた。今回の展覧会は、師弟二人の作品が観れるわけである。

コンドルさんは建築家でもあるので設計された図もあるが、こちらの興味は絵と、日本舞踊家であった奥さんと踊られた時の『京人形』の時の写真などである。京人形の扮装のくめさんの指に三つほど指輪をしているのが面白い。コンドルさんも彫り師の扮装である。『鯉の図』の鯉の目を見て、金目鯛の目を思い出す。これは、谷崎潤一郎さんの『春琴抄』のことに関係するのであるが、後日書くこととする。暁斎さんの<鯉>の絵は口を開けていてその口の強調と詳細さ、水を動かして泳ぐ律動感ある水面の描き方などに惹きつけられるが、コンドルさんは、穏やかな絵である。

暁斎さんと旅を共にし師の絵を描く姿を描かれているが、絵も描書き方もスケッチということもあるのか、絵の中の暁斎さんも力の抜かれたもので、狂画師の趣きはない。

暁斎さんのほうは、才能のほとばしりが感じられ、展覧会での解説でもかつては評価が難しかったとある。美人画なら、美しく描けばそれで評価の高い作品となる腕があるし、そうした作品もある。ところが、それだけでは暁斎さんはあきたらない。美人の眺める先には沢山のカエルが描かれていたり、美人のそばに飾りものではない動物の姿が加わっていたりする。美しい太夫も『閻魔と地太夫図』となる。

鳥花図や自然の中の動物も、生きて行くための狩りや弱肉強食の世界がある。花が美しく咲き、うさぎがそれを愛でていると思ったらその下には蛇が頭を持ち上げて待ち構えている。鷲がゆうゆうとその雄姿を誇っていると思うと、その下では、猿が頭を抱えて震えている。赤い柿を狙う鴉。蛙を口に咥える猫。戸隠神社の中社の帰りに出会ったという生首を加えた狼の絵。

そうかと思うと、楽しい鳥獣戯画的作品がある。『風流蛙大合戦之図』『猪に乘る蛙』など。

さらに、『鷹匠と富士図』は、鷹を手に、富士を眺めている穏やかな鷹匠の後姿。子供が盥に入れた金魚と遊びその後ろで木に縛られた亀が何んとかして逃れようとしている絵。あらゆる感情を喚起してくれる絵の数々である。

コンドルさんは、噺家の圓朝さんの落語を書き起こしていたが、暁斎さんの幽霊の絵は『牡丹灯籠』の新三郎にまとわりつく幽霊のお露さんを見たという伴蔵の話しから想像する幽霊を思い出す。美しいのとは反対のあばら骨の見える恐ろしい姿である。こちらも『牡丹灯籠』は読み終わったのだが、新三郎の住んで居た根津の清水谷はどの辺りかと思っていたところ根津神社のすぐそばらしい。本に地図があったので、森鴎外さんの作品散歩の時、二つ合体で楽しむこととする。

鴎外さんが大正6年に総長となった帝室博物館の東京帝室博物館はコンドルさんの設計で、この時はまだ現存している。関東大震災で崩壊してしまう。この大正6年に竣工したのがコンドルさん設計の、古河虎之助邸で、現在の旧古河庭園にある洋館である。

暁斎さんもコンドルさんも多くの現物が失われているが、残されているもので今も、まだまだ楽しませてくれている。暁斎さんは観るたびに、どうしてこの作品からこの作品に飛ぶのかと、その腕と想像と創造力に呆れさせてもらっている。分類、分析などを超えたところに暁斎さんの楽しみ方があるように思う。

 

 

白狐の「こるは」

『保名』から『葛の葉』について書いたが、『白狐』が素晴らしい姿を現してくれた。

岡倉天心さんが、信太(しのだ)の森の葛の葉伝説をオペラの台本『白狐(びゃっこ)』として作られていた。そして、その作品の作曲の一部が見つかったのである。悲しいことに、そのかた村野弘二さんは、東京音楽学校から学徒出陣され、終戦を知らずに1945年8月21日に自決されていた。

1942年4月に東京音楽学校予科に入学され、1943年の11月に校内演奏会で『白狐』を披露、12月には陸軍通信隊に入営。その一年後にはフィリピンのマニラへ。ルソン島の山岳地帯では飢えと伝染病の為に多くの死者がでる。村野さんは見習士官であったが、マラリアにかかり歩くこともままならず部下を指揮することも出来ない状態で、覚悟の自決であったようだ。

村野さんの同期に作曲家の團伊玖磨さんがおられ、村野さんの作曲を「傑作」として楽譜を捜したが見つからなかった。その一部が発見されたのである。

『白狐』の狐は<こるは>という名前で、この、<こるは>がピアノ伴奏で独唱する第二幕の楽譜の一部と「こるは独唱」のレコードも見つかったのである。

<お月さま きよらかなお月さま あなたの きよらかさを お貸し下さい>

詳しい事を知りたい方は、図書館ででも、「毎日新聞」の6月19日、20日、21日の朝刊のお読みください。

戦争によって夢多き時代に夢破れた人々の想いはどこかで息づいていて、姿を現してくれたり、捜し出してくれるのを待っているのである。余りにも多くの人々がいるので、村野弘二さんはその方々の代表として<こるは>を送り届けてくれたのであろう。

友人が、「読売新聞の19日の夕刊に谷崎潤一郎の佐藤春夫あての書簡が見つかったと出ているわよ。」と知らせてくれた。図書館でよんだが成程である。横浜の神奈川近代文学館での『谷崎潤一郎展』でも、谷崎さんと佐藤さんのその後の関係は円滑であったと思えたので驚きはしなかったが、谷崎さんの佐藤さんに対する信頼度を示す書簡で、谷崎さんの無防備さがわかる。 『谷崎潤一郎展』

もう一つ、同じ新聞に思わぬ発見をさせてくれる記事にあう。東京国立近代美術館工芸館の建物が旧近衛師団司令部であったことである。その日にこの工芸館を訪れていたのである。何回か訪れていて、いつも、古い建物だがいつ頃の物なのだろうとは思って居たが調べもしなかった。新聞の記事が無ければ、あの『日本のいちばん長い日』の舞台となった場所とは思ってもいなかった。 岡本喜八監督映画雑感

こちらは、21日までという「近代工芸と茶の湯」を観て、その作品の一つ一つの美しさに人間技なのであろうかと感嘆したのである。時代劇小説だったと思うが、銀と銅と金の合わせ方に<四分一>というのがあるというのが出てきてその<四分一>だけ記憶にあって、その水指があった。「これがそうなのか。」と想像していた色合いで嬉しくなってしまった。調べたら<四分一>でも色々あるらしいが、最初に出会えた色合いに満足である。

その場所が、時間の経過によって、全然違う想いの人間の感情を受け止めているのである。平和という時間が如何に大切な時間であることか。

ここに並べられるような技を具えていた人で亡くなられた方もいたであろう。こんなものは戦争の役には立たないとされ仕事を止められた方もいたであろう。見るのさえ出来ない時代である。

<お月さま きよらかなお月さま あなたの きよらかさを お貸し下さい>

<こるは>のこの願いの言葉と同じ想いでお月さまを眺める人は沢山いるであろう。

 

 

『岡田美術館』にて芦雪出現

箱根の『岡田美術館』で、喜多川歌麿さんの<深川の雪>が再び公開とある。正直のところ、ここの美術館は入館料が高すぎる。交通費を入れると躊躇する。そのため前の公開のときは止めたのであるが、今回は、一度観ておけばいいのだからと訪れた。高いと思う気持ちは変わらないが、長沢芦雪さんに会えたのである。

歌麿さんと同時代の絵師としては次のような方がいる。江戸の歌川豊春、司馬江漢、谷文晁(たにぶんちょう)。京都の円山応挙とその弟子の長沢芦雪、呉春、伊藤若冲、。大阪の森狙仙。

歌麿さんの『深川の雪』は、『 品川の月』『吉原の花』(米国の美術館所蔵)との三部作の一枚である。深川、品川、吉原の地域がら、着物の色、柄などが、深川が一番地味である。自然は<雪>であるから、お盆にのせたり、手を伸ばしたり、炬燵に潜り込んだりと、様々な様相を体している。中の品物は綿入れの着物であろうか、大きな風呂敷包みを背負う使用人の姿もある。<雪>に反応する料理茶屋の女性たち一人一人が歌麿さんによって配置されている。女性達の下唇が青である。笹色紅(ささいろべに)といって、紅を厚く重ねて玉虫色に光らせる化粧法を表しているとのこと。『品川の月』と『吉原の桜』のレプリカもあるので、比較できたのはよかった。

二階のこの展示室に到達する前に、一階展示の陶磁器などを見なくてはならないので、休憩と食事がしたくなる。入場券さえあれば、一日出入りできる。食事は一旦外にでて、美術館関係の食事どころ利用となり、そこを利用したが、メニューがすくないので、お隣の「ユネッサン」のレストランを利用するのも手である。雨模様だったので、庭園はやめたが、入園料がいる。足湯もあるが、有料である。美術館の中で、ほっとできる場所がない。

小田原で、限定公開の桜の見どころに寄ろうと思っていたが、雨でもあるし、この美術館一つと決める。貴重品のみ、携帯などは持ち込み禁止である。入場するとき、空港のような検知器を通らなければならない。出足の気分としては降下する。展示室には係り員がいないので、全てカメラで監視しているのであろう。食事場所が外なので、再入場となり、再び検知器を通る。こういう雰囲気の美術館が増えることを懸念するが、神社仏閣に油をかけるような犯罪が起こると、自由に見学できたものも規制されることにもなりかねない。自分も自由に見学できている立場を考えてほしいものである。

三階の展示室で、歌麿さんと同時代の絵師に会える。その中の芦雪さん、やはり楽しい。応挙さんの小犬の絵は可愛い。東京国立博物館での杉戸に描かれた「朝顔狗子」が最初の出会いであろうか。岡田美術館にもグッズとなっている「子犬に綿図」がある。その師匠の絵を手本にしたと思われる芦雪さんの「群犬図屏風」がある。この作品の芦雪さんの印が<魚>でないので、師匠を模して描かれた頃のものと判断されている。

応挙さんの犬と同じように愛らしいのであるが、構図が芦雪さんらしい。左に母犬がいてそのそばに子犬が戯れ、真ん中ほどに二匹の犬が優しい眼差しを、さらに右手の一匹の犬に向けている。二匹の犬が声をかける。「どうしたの。こっちへおいでよ。遊ぼうよ。」右手の犬は、他の子犬に比べると黒の斑の部分が大きい。足はしっかり止めていて、「でもさ、僕は自分の道を探しに行くよ。」と言っているようである。そんな会話を観る者が創作できる絵なのである。芦雪さんの絵はそれが魅力である。

もう一つは「牡丹花肖柏図屏風」で、辺りは淡く夕焼けに染まり、牛に乘った人物がゆったりと夕焼けを眺めている。牛はこちらにお尻を向けていて、この人物は牛を後ろ向きに乘っているのである。牛の頭には牡丹の花が載せられ、牛の顔は見えない。この人物は室町時代の連歌師の肖柏で出かける時はいつも牛に乘ってでかけ、号を<ぼたん花>ともいったそうである。のんびりユーモアあふれる夕景である。「良い夕焼けですね。一句出来そうですか。」「いやいや、こういう風景には言葉は無力です。」

呉春さんは、司馬遼太郎さんの短編集『最後の伊賀者』の中に『蘆雪を殺す』と一緒に『天明の絵師』として入っていた。小説では、呉春さんは与謝蕪村さんに弟子入りし、蕪村さん亡きあと、応挙さんのもとにいき「四条派」として繁栄する。蕪村さんの娘のお絹さんは「あの人は、器用だから。」と感想を述べている。呉春さんの作品はそつのない絵ともいえる。蕪村さんは生きているうちは認められなかった方である。小説のなかでは、当時の「千金の画家」として、応挙さん、若冲さんなどをあげている。さらに最終では、次のように記されている。

とまれ、蕪村は現世で貧窮し、呉春は現世で名利を博した。しかし、百数十年後のこんにち、蕪村の評価はほとんど神格化されているほど高く、「勅命」で思想を一変した呉春のそれは、応挙とともにみじめなほどひくい。

 

呉春さんは、京都の金福寺で師の蕪村さんと隣り合って眠っているという。金福寺は、『花の生涯』の村山たかさんのお墓があるのに驚いたのと、お庭の紫と白の桔梗の清楚さしか記憶に無い。蕪村さんは、芭蕉さんを敬愛されていた。近江の義仲寺にある<無名庵>の天井絵は若冲さんである。

サントリー美術館で、『若冲と蕪村』を開催している。同じ年齢とか。面白い企画である。

岡田美術館には四時間ほど居たであろうか。ここの美術館は時間がかかると思ったほうがよい。人もほどほどでゆっくり鑑賞できた。個人的には、色々なつながりの作品が見れて満足ではあった。

もし、いつか再度訪れるとすれば、講演会のある時などを考慮して訪れるかもしれない。お天気がよければ、<曽我兄弟の墓>のバス停から<六地蔵>バス停までぷらぷら歩きたかったのであるが、次の機会である。

串本・無量寺~紀勢本線~阪和線~関西本線~伊賀上野(2)

 

 

 

 

雑誌『苦楽』の大佛次郎と鏑木清方

10月に鎌倉に行った時、大佛次郎さんが戦後に創刊した『苦楽』という雑誌のことを知った。 鎌倉『大佛次郎茶亭(野尻亭)』

鎌倉の<鏑木清方記念館美術館>と横浜の<大佛次郎記念館>を訪れた。

<鏑木清方記念美術館>は、「清方描く 季節の情趣 -大佛次郎とのかかわりー」であった。雑誌『苦楽』の表紙絵に大佛さんは鏑木さんの絵をお願いした。鏑木さんは目の不自由さもあり、当時の紙の質の悪さからも断られたが、最終的には引き受けられた。その原画と、雑誌『苦楽』の表紙絵が並べられていた。季節に合った12ヶ月の美人画で、基本的に新作を描かれていて、体調を崩されたときのみ既成作品とし、その力の入れようが伺えた。

原画の寸法と雑誌の寸法が違うので、原画よりも雑誌の人物の顔などが、細面になってしまう。そういう事も承知されて、受けられたのであろう。

2月は、泉鏡花の『註文帳』に登場する吉原の二上屋の寮のお若(紅梅屋敷)。6月は、歌舞伎『生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)』の深雪と宮城野曽次郎が逢う場面(宇治の蛍)。新年号には『道成寺』、その他、『堀川波の鼓』のお種、『たけくらべ』の美登利などもあった。清方さんの『苦楽』のために描かれた最後の絵は『高野聖』で、清流で身体を洗ったあとの婦人図で、バックに馬の絵が影のように描かれていて、薬売りが馬にされたことを暗示している。

横浜の<大佛次郎記念館>では、「大佛次郎、雑誌『苦楽』を発刊す」のテーマ展示である。

この雑誌『苦楽』は、大正時代大阪のプラント社で出していた雑誌『苦楽』を受け継いでいて、大正時代の雑誌『苦楽』の編集に携わっていたのが、川口松太郎さん、小山内薫さん、直木三一五さん等である。『空よりの声ー私の川口松太郎ー』(岩城希伊子著)に、川口さんが、大阪の小山内薫さんの家に住みそこからプラント社に通ったことが書かれている。展示品の中には、大阪から川口松太郎さんが、大佛さんに出した手紙があった。川口さんは自分の作品を、大佛さんが執筆している博文館発行の『ポケット』に掲載して欲しいとの依頼をしている。川口さんは、まだまだ、物書きとして認められていない頃である。大佛さんの出した『苦楽』には、川口さんは、直木賞も受けられた作家で、小説『さのさ節』を載せられている。

清方さんは、表紙絵のほかにも、『日本橋』や『金色夜叉』の名作物語の一文に絵を描かれている。

今回は、大佛次郎さんと鏑木清方さんの関連するところが、雑誌『苦楽』という共通のテーマで展示されていたため、『苦楽』という雑誌が、如何に絵画的な分野にも力を入れ、そこから視覚的にも楽しめるように考慮していたかが解った。清方さんの原画に多数見れたのも嬉しかった。さらに、第十三回大佛次郎論壇賞として『ブラック企業ー日本を食いつぶす妖怪』(今野晴貴著)が<大佛次郎記念館>の閲覧室に紹介されていて、これは読まなくてはと思った。若者たちを犠牲にするブラック企業と思っていたが、日本をもくいつぶすのか。良い物を見たあとは、少しは社会的思考も加えなくては。

 

 

『北斎 ボストン美術館 浮世絵名品展』 上野の森美術館

京都国立博物館の「国宝 鳥獣戯画と高山寺」展で 音声ガイドナビゲーターが、佐々木蔵之介さんであったが、その時思い出した。猿之助さんのナビゲーターもあるのだと。 太田記念美術館 『葛飾応為』 で、まだまだと思っていたら、上野の森美術館で、9月から始まっていたのである。11月9日で終わりである。並ぶのが嫌いな私も開館1時間前から並ぶ。

天才というものは、頭の中から湧きあがるものが、その人を押しつぶしてしまわないかと心配になるほど、次から次へと出てくるものだと呆れてしまう。北斎は90歳まで生きたわけで押しつぶされはしなかったが、その発想と技量は凡人には気が遠くなるような膨大さである。

役者絵から始まって、富嶽三十六景、諸国瀧廻り、花鳥、お化け、百人一首、さらに、切り取って組み立てる組立絵、押し絵のように裏に詰め物をして重ね張りをして厚みをだすようにできるもの、お客の要望の店の包装紙や張り箱絵などの個人的刷り物など、その都度、新しい構図、それぞれの特徴を生かす工夫をしている。それも斬新にである。

そもそも、フェノロッサによって、1892年から1893年にかけ、ボストン美術館で、アメリカで初の日本美術展覧会が開かる。フェノロッサの日本美術に対する貢献度は計り知れないものがある。保存状態も良く、藍色をはじめ実物を見れた満足感に浸れるそのものの色である。次第に館内も混雑してきて一つの作品を長く見つめて居られないし、天才のものを見たからと言ってこちらが天才になるわけではないから、感嘆し、感動し、感心し、どんどん忘れていくしかない。そして、どこかで、またお会いしましたねということになる。その一つが「富嶽三十六景 深川万年橋下」であったりする。

「東海道五十三次 」では日本橋、志な川、川さき、かな川、程がや、戸つか、ふじ沢が展示されている。広重と違い、旅をする人物が主となっている。

花鳥では、花に向かって突進していく鳥類(とんぼ、蝶、つばめ、すずめ等)が印象的であった。枝に止る鳥たちも身体をひねり、ただ鳥を花に対する添え物とはしていない。花は風にゆれるだけであるが、羽のある生き物の風を起こす力も表現している。

歌舞伎の演目に関係したものもあり、「忠臣蔵」(初段から十一段目)などが目を引く。

さてさて、葛飾応為の「三曲合奏図」である。最後に展示されている。<琴><胡弓><三味線>を演奏する女性三人の姿が描かれている。琴を演奏する女性は正面で後ろ向きで顔はわからないが、着物の柄が黒地にすそに蝶が舞い散り鮮やかな色使いである。左上の胡弓の女性は顔は正面で着物は濃い鼠色に黒の格子縞でそでから覗く襦袢に赤を使っている。右上の三味線の女性は横向きで、着物は一番地味で背景の色と同系で色名は表せない。左の女性から考えると、娘、華やかな恋をしている女性、妻女という設定も考えられる。楽器を操る手の指が楽器の違いもあるが、娘は左右しっかりと胡弓を握っていて、恋する女性の指は細く長く踊っており、妻女は右手はバチを握り左の指は三本の糸を押さえ、落ち着きがある。母と二人の娘という設定もなりたつ。これだけ絵はがきを購入したが、眺めているとそれぞれの楽器の音が聞こえてくるようである。それにしても、正面の女性を後ろ向きとは、斬新である。そのことによって、合奏に無心なのか、心ここにあらずなのかなど、色々に想像が働く。応為は面白い。

メナード美術館に問い合わせたところ、葛飾応為の「夜桜美人図」は常設されているのではなく、展覧会の趣旨に合わせて展示されるようである。また、<異才>に会える楽しみが先にのびた。

猿之助さんのガイドナビゲーターは、絵を見つつ、そして、休憩しつつで2回聞いてしまった。一つだけ書いてしまうと、あの有名な高い浪の遥か彼方富士山の「神奈川冲浪裏」を見て、ドヴィシーは「海」を作曲し、ロダンの恋人のカミーユ・クローデルは「波または女たち」の作品をつくったのだそうである。「神奈川冲浪裏」は北斎が72、3歳ころの作品と推定できる。晩年は号を<狂画老人卍>としていたようであるが、<狂>だけでは描けない<真>のあった天才と思う。

 

 

歌舞伎座 秀山祭九月 『法界坊』

別名『隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)』ともいわれ、ここに出てくる法界坊が主人公だからであろうか、通称『法界坊』と呼ばれている。

この主人公の法界坊は、歌舞伎では珍しい外目にも胡散臭い風体の破壊坊主で、衣装もよれよれで、他の芝居に出てくれば追い払われてしまうような格好である。浅草聖天町(しょうてんちょう)に住み釣鐘建立の勧進のお金で暮らしている。さらにこの法界坊、女好きで永楽屋の娘・おくみにぞっこんである。どう見ても女性から好かれるタイプではないのに、これがめげずに挑戦するのである。思いつきで行動しながらめげないところが、可笑しさをさそう。しかし、この性格執念深く、殺されたあとも、自分が殺した野分姫の霊と合体して、もう一人のおくみになって現れるのでる。

永楽屋のおくみは、手代の要助と恋仲であるが、この要助は実は京の吉田家の嫡男・松若で、歌舞伎に定番のお宝探しは「鯉魚(りぎょ)の一軸」である。このお宝の持ち主はおくみを嫁にすることを条件に永楽屋に「鯉魚の一軸」を渡す。法界坊は、その一軸の中身を入れ替えたり、許婚がいるおくみと要助が不義をしているとして差し出したおくみの要助への恋文が入れ替わっていて、自分がおくみに書いた恋文を皆の前で読まれたりと品物がクルクル入れ替わる可笑しさと、法界坊の失態の様子が笑いを誘う。この辺りが法界坊の悪と愛嬌を見せる見せ場の一つでもある。

この法界坊を懲らしめるのが道具屋甚三の仁左衛門さんで、法界坊が論破され花道を去るとき、法界坊の吉右衛門さん、自分と仁左衛門さんとは同じ齢で、夜の部の仁左衛門さんとお孫さん千之助さんとの『連獅子』のことなどに触れてお客の笑いをとる。

要助には許婚の野分姫がいて、法界坊はこの野分姫をも口説くが相手にされず、要助に頼まれたと言って殺してしまう。野分姫は要助を恨みつつ死んでいくのである。

法界坊は、こういう時に嫌な奴が現れてよくバッサリやられるのでと、穴を掘ってそいつをこの穴に落としてしまおうと、穴を掘り始める。この穴掘りも法界坊のひょうきんさの見せ場である。そこへ法界坊にとって嫌な奴、甚三が軸を取り返しに現れる。甚三を穴に落とそうとして自分が穴に落ちバッサリやられてしまう。このまま法界坊引き下がってはいない。次は<双面水照月>の舞踏へと移る。

要助とおくみは駆け落ちをして隅田川の渡しに現れる。二人は葱売りに姿を替えている。そこへ、おくみと同じ姿のもう一人のおくみが現れ、舞踏となる。どちらがおくみか解らないという設定。当然わかります。背の高い吉右衛門さんのおくみですから。ここが難しい。この吉右衛門さんのおくみが、法界坊と野分姫がひとつになっている霊で、野分姫の霊は本当のおくみに対抗して要助に言い寄り、時には法界坊の存在も知らしめるといった混んだ趣向の踊りである。おくみがどちらかわからないので観世音菩薩像を指し示すと、法界坊が現れ出てきて、やはりそうであったかと大団円で終了である。

珍しく要助を罪に落とすべく、おくみの恋文を観客に見せ自分の正当性を主張し愛嬌を振りまく法界坊の吉右衛門さん(本当は自分がおくみに書いた恋文である)と、すっきりとした姿で法界坊を成敗する甚三の仁左衛門さん。やはり穴掘りの場での見得もお二人見せ場を作ってくれる。要助の錦之助さんもやつし(身分が高いのに町人などに身をやつしている)が手慣れたものである。芝雀さんのおくみは許婚のことや、言い寄る法界坊などが要助との間を邪魔し、なかなか思うように行かない様子を見せる。野分姫は種之助さんと児太郎さんとの二役で、種之助さんを見たが、要助の本心が解らずに慕うお姫様には時間がかかる。楽しく法界坊をいじる丁稚の玉太郎さんはもうけ役にした。

吉右衛門さんもこの法界坊を身体から可笑しさを醸し出すには年数がかかっておられる。生真面目な法界坊を見せられたこともあった。写真からは想像できないが、初代吉右衛門さんは明るい笑いをも表現できる芸風も持ち合わせていたようである。初代を観ていた観客の眼は厳しくその視線は薄れても、自分の中での初代の芸との闘いと伝達がこれからも二代目は続くのであろう。

三井記念美術館で『能面と能装束』の展示があり、能面の表と裏、目の部分に開けられた穴の大きさなども目にすることができた。能装束の歴史を感じる創作の技術。三越伊勢丹所有の歌舞伎衣装も「名優たちの名舞台」として展示されている。さらに、名優たちの写真があり、初代吉右衛門さんの牙次郎、六代目菊五郎さんが正太郎の『上州土産百両首』のお二人並ばれた写真があった。観たかったに尽きる。

東北の旅・五所川原~青森~盛岡 (青森県立美術館)(6)

五所川原から青森で一つ残念だったことがある。岩木山の頂上にいつも雲がかかっていたことである。岩木山の全貌を楽しみにしていたのだが、ついに見ることができなかったのが、心残りである。

新青森駅の観光案内で、<青森県立美術館><三内丸山遺跡>の行き方と時間配分を検討してもらいう。以前、<棟方志功記念館>へ行ったとき、バスの本数が少なかったことが頭にあったので、青森の場合、多くの観光は無理ときめていた。<青森県立美術館>と<三内丸山遺跡>は隣接している。係りのかたが、青森駅に行き新青森駅にもどることなど、幾つか調べてくれた。新青森駅から歩いて30分位なのであるが、今回は歩きはパスし、結果的にタクシーで新青森駅にもどることとなった。

<青森県立美術館>は思い描いていた通り、広い自然空間の中に、白い幾何学的な建物が居座っている。入ってすぐに高倉健さんの映画上映会のお知らせのチラシを見つける。モノクロの渋いチラシである。展示物を観終ったあとで、ここで、横尾忠則さんのポスターがあって、高倉健さんの任侠映画が見られたらシュールでこの白い建物との対抗が面白かったのにと思ったりした。上映のなかに任侠映画は、入っていなかった。

最初の展示室が<マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の背景画>で、バレエ舞台の大きな背景画の綿布が三点展示されている。シャガールがアメリカに亡命していた時に手がけたものである。伝説的なロシアのバレエ団バレエ・リュスには、ピカソやマティスなども係っていたが、シャガールも、その流れをくむバレエの舞台美術や衣装に携わっていたのだ。今、国立新美術館で『魅惑のコスチューム:バレエ・リュス展』(6/18~9/1)を開催している。

<第一幕 月光のアレコとゼンフィラ>→青 <第二幕 カーニヴァル>→赤と黒 <第四幕 サンクトぺテルブルクの幻想>→左手の黄色のロシアの町  →の後は自分のメモで、色使いが印象に残ったのであろう。

次が、奈良美智さん。韓国で展示された「ニュー・ソウルハウス」という、作られた小さな開放された部屋の中の展示を見て移動するのが楽しかった。壁に囲まれた外には巨大な白い犬の作品がある。頭は青い空の光を受けている。「あおもり犬」。実物では感じなかったが、絵葉書の「あおもり犬」は随分悲しい表情である。光と影のコントラスであろうか。写真の枠に入った悲しさかもしれないと勝手に解釈する。

 

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奈良さんの作品はよくわからないのである。ただ今日、或る人にカチンときて、そうだ、この気分で、奈良さんのにらむ少女とにらみ合いたいと思った。そんな鑑賞の仕方もありかな。

次は、棟方志功展示室。志功さんも、故郷の青森ねぶたが大好きな方である。自らも、作品も、制作過程も、あの躍動感はお祭りのようであり、祈りがある。棟方志功記念館でのほうが、見る側の状況との連鎖反応からか、物凄い生命力が押し寄せてきた。今回は冷静に線や色などを楽しんだ。

最後は 「寺山修司×宇野亜喜良 ひとりぽっちのあなたに」の部屋。その時は<ひとりぽっちのあなた>の気分ではなかったので、このポスターは観た事がある、こんなポスターもあったのかと、宇野さんの細い線、ファンタジーでありながらそれを裏切る無機質な感じを楽しんだ。ポスター「毛皮のマリー フランクフルト公演版」の、映画『大いなる幻影』の捕虜収容所所長役のエリッヒ・フォン・ストロハイムが描かれているのが好きである。このポスターを初めて見た時、<あの収容所の所長だ。>とそのことだけ判ったので好きなのである。前衛とされるものの中に自分の知っているものがあると安心するものである。ただそれだけのことであるが。「毛皮のマリー」の脚本を読んだとき、毛皮のマリーの入浴しているそばに、<その傍らに、なつかしいエリッヒ・フォン・ストロハイム氏を思い出させるような下男がタオルを持って、ほぼ直立不動の姿勢で立っている。>とあったので、そのポスターの無機質性に立体感が加わったのである。ポスターハリス・カンパニー所蔵の物も沢山展示されていた。苦労して収集された物が生かされ、その仕事の意味が伝わる。パソコンを閉じて旅に出よう

インパクトの強い方々の作品が、なぜか、青森という土地の空気に飲み込まれて、大人しすぎた。晴れ渡った暑い日であった。それでいながら、冬になると別世界の自然に立ち向かうことが想像出来てしまう。冬の季節のなかで、この美術館を訪れたい。想像とは違う何かが見えるのかもしれない。

 

2014年7月11日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

東北五県を巡る旅(1)

東北六県であるが、福島は通過で降車しなかったので、宮城山形秋田青森岩手と東北五県を巡る。

山形の慈恩寺に憧れを抱き、いつかは行くぞと思っていたら、今年は今世紀初の秘仏御開帳である。宮城県仙台からバスツアーが出ている。山形県<慈恩寺>から<羽黒山>へ行き秋田県の鶴岡に抜けるのである。そうなると、五能線で青森に出れる。青森の<県立美術館><三内丸山遺跡>に寄り、岩手県の一関から、<平泉世界遺産めぐり>のバスツアーがある。平泉が世界遺産となり初めて知ったのであるが、それまでは形として残っている中尊寺の金色堂と毛越寺(もうつうじ)だけが頭にあったが違うのである。奥州藤原氏三代の築き上げ理想とした、万人平等の平和な浄土の世界、それが100年続いたという事が評価の対象である。その拠りどころとなった建物で当時のまま残っているのが金色堂だけなのである。残されたわずかなものと、今も発掘が続けられている遺跡の地を訪ねて想像の翼を広げないと、捉えきれないのである。青森の<三内丸山遺跡>も今年の発掘調査が開始されたばかりであった。

これが、今回の旅の柱であったが、旅には、予定外のサプライズの出会いがつきもので、最初の宿泊地秋田で、出会いがあった。

友人が先に、東北から新潟への旅に出ていて、時々報告がメールで入る。彼女は、レンタカーを使い、石川雲蝶を追いかけている。石川雲蝶は<越後のミケランジェロ>といわれている彫り物師である。その一報に、「秋田県立美術館所蔵、藤田嗣治の『秋田の行事』が最高。他の油絵、素描も感激。」とある。こちらは仙台から秋田に抜けて、秋田に泊ったのであるが時間が無いと思いきや、朝起きて気が付く。美術館がホテルから5、6分。美術館は秋田駅から10分である。美術館の開館前に行くと、20分は時間をとれる。

『秋田の行事』見れた。一人一人の表情、筋肉の動き、人の動きによって踏まれた雪、今にも雪が降り出しそうな鈍よりとした空模様、右手の祭りの造り舞台では、秋田音頭が踊られていて、見物人は浴衣で、夏祭りであろうか。大平山三吉神社の大祭であろうか、鳥居を潜ろうとする神輿を担いだ男たち。その前面に漁師であろうか、厚い刺し子の長い防寒衣を着た大きな男。秋田竿燈(かんとう)もある。立てかけられた木材には秋田産の焼印。箱そり。秋田犬。継張りされた、夜店の囲い布の色が優しい。油絵、素描と凝縮された時間である。油絵の町芸人、力士などは、フェリー二監督の登場人物を思わせる。

『回想 寺山修司』の中で、『毛皮のマリー』パリ公演の最終日、ホモセクシュアル文化のメッカでもあり、その手の客を招待した時の様子を次のように表現している。「フェデリコ・フェリー二の映画からぬけだしてきたような着飾った連中が、まるで悪夢のようにどっと押し寄せたものだから、公演どころではなく奇妙なパーティー騒ぎになってしまったのである。」すぐ想像がつく光景描写である。やはり、旅の途中もどこかで寺山さんを引きずっているようだ。

感動を知らせてくれた友に感謝である。藤田嗣治さんの絵は、資産家・平野政吉さんが収集したもので、『秋田の行事』も平野家の米蔵の中で描いている。平野政吉コレクションとあるので、秋田県立美術館が所蔵しているのではないかもしれない。この壁画は、1937年(昭和12年)に新しい美術館に飾られる予定であったが、戦争のため美術館の建設が中止となり、一般公開されるのが、30年後の1967年(昭和42年)である。その間、平野家の米蔵で保管されていた。今は、秋田県立美術館に行けば藤田嗣治の『秋田の行事』を見る事ができるのである。時間の無い者には嬉しいことに、310円の観覧料であった。

もっと驚いたのは、青森の<三内丸山遺跡>は、展示室も含め無料である。あの広い縄文時代の<ムラ>の草刈りなど、ボランティアの方達がされているのだそうである。東北の地に根ざした力は凄いです。平泉にしろ、頼朝は恐れを感じていたことがわかる。東北独自の考え方を持つ現世の浄土感の土地だったのであるから。

 

東北の旅・仙台~天童~慈恩寺(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

コロッケと「早稲田大学演劇博物館」

ものまね芸人のコロッケさんが、地下鉄の関係の小冊子だったと思うが、人形町のすき焼きの「今半」の<すき焼きコロッケ>をお勧めと紹介していた。明治座に行った時思い出した。水天宮駅前店のほうで、お客さんが少なかったので1個購入し、お店で食べて行きたいのですがとことわると快く紙の包みにいれてくれた。温かくて、すき焼きのたれの味つきなので美味しかった。

~ いつも出てくるおかずはコロッケ 今日もコロッケ 明日もコロッケ これじゃ年がら年中コロッケ ~

この歌は、誰が歌っていたのか記憶にないが、なぜか知っている。ところが、よく知らなかったのである。「早稲田大学演劇博物館」へ、<六世中村歌右衛門展>を見にいったところ、<今日もコロッケ、明日もコロッケ “益田太郎冠者喜劇”の大正>企画展示もやっていた。初めて目にする名前である。この歌は大正時代に作られていて、益田太郎冠者さんの造った劇の劇中歌として歌われたものらしい。このかた、実業家でありながら、劇作家でもあり、帝国劇場の出し物にかかわり、そこで女優を育て、踊りあり、歌ありの喜劇を上演したのである。その代表的な女優が森律子さんで、彼女の等身大の人形が展示されていた。このお人形、<生人形>と云って、江戸時代から続く伝統的な技法なのだそうである。大正時代にこんなハイカラな明るい喜劇が流行していたのである。

益田太郎冠者さんの経歴をみると、三井創始者の御曹司で、ヨーロッパに留学し、実業家で、帝国劇場の役員でもあり、 ~あれも益田太郎冠者 これも益田太郎冠者~ といった感じである。映画『残菊物語』(溝口健二監督)で花柳章太郎さんと共演されている森赫子さんは、帝劇スター・森律子さんの姪にあたる。明治座では、新派の伊井芙蓉・河合武雄が 、益田太郎冠者さんの作品『思案の外』を上演している。

<六世中村歌右衛門展>は4月で終わってしまった。は2005年から10年間開催したので、ひとまずシリーズとしては今年が最終回である。演劇講座「六世中村歌右衛門を語る」講師・渡辺保さん(演劇評論家)/聞き手・児玉竜一さん(演劇博物館副館長)に参加させてもらった。一番印象に残る話は、<戦争という時代に女形が否定されたことである。> 歌舞伎に限らず、あらゆる芸能が戦局の統制下に入ったわけであるが、特に女形は否定される空気であったと思う。修行を積んでそれが否定され、<戦後そこから、また復活するということは、他の役者さんでは考えられないほどの辛苦であった。>女形でありながら、歌舞伎界の頂点に君臨したということは、並々ならぬ思いであったのであろう。<今の人達には判らないであろう。美しさが衰えてから本当の芸が出てくる。だから実際に観ないと駄目である。>との渡辺保さんの話に、あの身体も小さくなられながら、そばでそれとなく補助されながらも、役に成りきられた舞台姿が浮かんできた。『建礼門院』などは、歌右衛門さん自身が一度海深く沈まれたことの思いと重なっておられたのかもしれない。

評論家のかたの見方はなるべく見ないようにしている。それこそ、こちらの見方を否定される結果となることもあるので。ただ、時には、刺激となり観る勢いをもらう事もある。

~明日も見よう 明後日も見よう~

 

『源氏物語』から『愛宕信仰』そして『源氏物語』

栄西禅師から明恵上人そして清滝とつながったが、その後の旅で『愛宕信仰』に出会った。予想外にである。京都でそれまでの旅のルートから外れて、行っていないところを訪ねることにした時、『源氏物語』執筆地といわれ、紫式部宅址と言われている<蘆山寺>をまずと思った。

地下鉄今出川駅を降りたら同志社大学である。素敵なキャンパスである。ここは歩かなければなるまい。眼にも楽しい古い建物を見つつ進んでいくと、同志社の歩みを紹介しているらしい案内の建物があり、そこで一通りの同志社の沿革や新島襄さんの思想などを学ばさせてもらう。さらに、襄さんと八重さんの住んで居た旧宅が公開されているのを知る。是非寄らねば。

京都御所に向かうとき、この同志社と相国寺が近いのに気がつく。特別公開の時期をめざし、お寺のみを駆け足で巡っていたころであろう。大学など眼中になかった。清滝を歩いたのもそのころである。京都御所も『源氏物語』の舞台であるが、予約していないので建物の中には入れない。御苑の中を通り清和院御門を出ると<梨木神社>がある。この説明板に、このあたりは中川と呼ばれ、『源氏物語』で貴族の別荘が多くあった地で、「花散里」や「空蝉」と逢ったのもこのあたりとしている。『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱の母も、中川の近くに住んでいたとある。工事中のところもあったが、ここは京都三名水(醒ヶ井、県井、染井)のうち唯一現存しているところで<染井の水>は、現在も名水を求めて人々が並んでいた。

<梨木神社>の向かいが<蘆山寺>である。このお寺はもとは、京都の北にあったが、応仁の乱、信長の比叡山焼き討ちに遭遇し、現在地・紫式部邸宅址に移転したのである。ここは、紫式部の曽祖父・中納言藤原兼輔の邸宅で、鴨川の西側の堤防に接していたので「堤邸」と呼ばれ、兼輔は「堤中納言」の名で知られていた。その後、息子の為頼、為時(紫式部の父)へと伝えられ、紫式部は、ここで結婚生活を送り、娘・賢子(かたこ)を育て『源氏物語』を執筆したとされる。あれ!では<石山寺>は。あそこは、構想を練ったところでしたかな。

<蘆山寺>の源氏庭と命名された苔と白砂の庭をゆったりと一人占めして眺めた。桔梗の庭としても有名であるが、桔梗は想像の中で咲かせる。そういえば、東福寺の塔頭の一つで桔梗を愛でたなと思って調べたら天得院であった。<天得院>は内輪という感じで、<蘆山寺>は少し余所行きに気取らせて貰いましたという感じである。

寺町通りを<新島襄旧邸>目指して丸太町通りに向かうと、<京都市歴史資料館>がある。覗かせてもらうと、何か難しそうである。「愛宕信仰と山麓の村」。ではさらさらと分かる範囲で。火を防ぐ、火伏せ信仰で、映画で見たような気がするが、京都の家の台所に張ってあるお札の事のようである。あのお札「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれているのだ。この火伏せ信仰として名高いのが愛宕信仰で、その総本社が愛宕山の愛宕神社なのである。

あの鳥居はずっと下であったのか。道理で神社などありそうもなかったのだ。愛宕山は神仏習合の霊山で祭神は天狗である愛宕権現太郎坊と称する火神で、江戸時代には庶民から武士まで信仰したらしい。そのお参りの人々の宿泊所として愛宕山を支えたのが、水尾、樒原、越畑の3村で、愛宕山へのそれぞれの登山口であった。航空写真もあり、愛宕山の下の3村が写っている。博打はしてはいけない、身元の判らない者は泊めてはいけない、病で倒れたら介抱し、亡くなったら村の墓地に葬るなど色々なきまりもあったらしい。それから、日本地図を作った伊能忠敬さんも、愛宕山付近を測量して、越畑から樒原を通過し水尾・清滝へと向かっていた。それらのことを実証する当時のこちらには全然読めない文書が展示されていて、いいとこ取りをさせてもらいまいした。こういう地道な仕事をされているかたがおられるから歴史が残るのである。

東京の愛宕山の方は、町歩きであの急な階段を馬で降りたか登ったかしたという説明を聞いた覚えがある。あそこも火の神様なのであろう。

新島襄旧邸は機能的にハイカラに作られていた。台所も土間ではなく床で、井戸も室内にある。襄さんの両親の隠居所は江戸藩邸にあった住居に準じている。配られた小冊子が写真入りで丁寧なつくりであった。最初に、見学は無料であるが、東日本大震災の支援金300円を帰りにいただきますと言われ、帰り出口にきちんと係りの人が立っておられ、お願いしますと言われ、襄さんが、同志社の為に寄付をお願いして回った精神と似ているように思われた。

最後の『源氏物語』は、東京の<五島美術館>で展示されている源氏物語絵巻である。今回は、「鈴虫一・鈴虫二・夕霧・御法」で、絵の復元もある。この源氏物語絵巻は『源氏物語』が出来てから百数十年後の12世紀に誕生していて、その中でも現存する日本の絵巻の中で最も古い作品とされている物である。気が遠くなるような年数である。詞書と絵は別にしている。絵の方を楽しむ。現存しているのが不思議なくらいである。色は薄くなっているが、構図ははっきりしている。それをさらに原本に近い色使いで復元したものも展示されているので、美しい色使いの絵をながめつつ、心踊らせて読んだ平安の人々の様子が想像できる。

この旅はこの辺で閉じる事とする。