歌舞伎座2月『義経千本桜 すし屋』

  • 義経千本桜 すし屋』。今回は平重盛(小松殿)の名前が耳に響いた。平清盛の長男で平家の物語の中でも人望の厚かった人として描かれている。その重盛の長男の維盛(これもり)が奈良のすし屋にかくまわれているのである。すし屋の弥左衛門は重盛に恩義がある人である。高い身分の人や有名な事件の登場人物が庶民の生活の場に登場させるための常とう手段である。シチュエーションとして庶民に身近な話として観客に引きつける。そして大きな流れが庶民生活の悲劇へと展開していく。『仮名手本忠臣蔵』の勘平とおかる一家もそうである。

 

  • 『義経千本桜』と言えば奈良の吉野である。そこの名物のすし屋というのもよい設定である。そして、鮨桶が重要な役割を果たすわけで、並んだ鮨桶を間違うところがヒッチコックも使いたくなるかもと思わせるところである。お金が入っている鮨桶と人の首が入っている鮨桶の間違いである。熱心に見ている観客はその鮨桶の取り違いに「あっー!」と小さな声を発する。この首の主は小金吾という人物で、今回は上演されないが『小金吾討死』の場面に登場し、維盛の奥さんの若葉の内侍(ないし)と子息・六台君を守りつつ追手から逃れているのであるが、無念、殺されてしまう。

 

  • その死体に遭遇したすし屋の弥左衛門は、維盛の首の代わりにこの死体の首をと考える。家に隠し持参し鮨桶に隠すのである。これにより小金吾は結果的に維盛を助けることになるのであるから家来としては本望ということになる。さらに、小金吾の首は弥左衛門の息子であるならず者の男のいがみの権太を親孝行者にするのである。しかし、まさかいがみの権太が改心するなどと思わないから父・弥左衛門は権太を刺してしまう。全て忠義につながる悲劇である。

 

  • 弥左衛門には娘・お里がいて、公達の維盛が奉公人としているわけであるから惚れないわけがない。周囲から怪しまれないようにと維盛とお里は明日祝言をあげることになっている。そこへ維盛の奥さんの若葉の内侍と子息・六台君が一夜の宿を求めて訪ねて来る。本妻の登場である。お里は寝ており、出来すぎているがきちんと考慮された設定である。

 

  • 一つの部屋に低い二つ折り屏風で仕切られていて、この屏風の置き方に注目である。屏風の内側は外からは見えず、内の者は外の様子がわかるのである。その後も屏風はしっかり役目を果たし隠したい人を隠す。そうした道具の扱い方も役者さんの役になってのしどころである。

 

  • 一つの舞台で行われる舞台劇であるが、ヒッチコック映画にもこうした一つの部屋で起こる殺人事件の映画があるがそれは先に伸ばすこととする。この一部屋に出たり入ったりして活躍するのが、いがみの権太である。歌舞伎は花道があるので、その出入りもみえるのが強みで、そこが役者さんの見せどころでもある。登場人物の特色をみせなければならない。松緑さんは何かありそうなヤツだなあと思わせる出であった。母親をだます自分自身がオレオレ詐欺のような人物である。ところが観客も家族も見た目で見事にだまされるのである。そして、父に刺されてからの権太の謎解きの告白になる。松緑さん、解ってくれよ親父さまの語りである。

 

  • 自分の妻子をも巻き込んだ梶原景時をだます大博打である。しかし、頼朝はそれを見抜いていたという更なる展開となる。清盛の継母・池禅尼が重盛を通して頼朝を助けたということから維盛を逃がしてやるのである。台詞の中にこうしたことがちりばめられている。これは夜の部の『熊谷陣屋』で義経が敦盛を平宗清に預けるのと類似している。観客もこうした情を好んだためでもあろう。

 

  • 初世尾上辰之助三十三回忌追善狂言の一つである。松緑さんのいがみの権太はもう少し悪の強さが欲しい気もするが、母親をだませても頼朝はだませず、親孝行で終わるという悪さ加減からいえば正解なのかもしれない。菊之助さんの奉公人の弥助から維盛になる変わり身の変化が、手ぬぐい一つの扱い方、袖の扱い方などを通してなるほどと思わせられた。お里の梅枝さんの身体も綺麗に動いていた。若葉の内侍の新悟さんはもう一歩貫禄が必要で、亀三郎さんの六代君の可愛らしさに助けられていた。母・おくらの橘太郎さん、父・弥左衛門の團蔵さん、梶原景時の芝翫さんと役どころを押さえられているので台詞を堪能でき、『すし屋』の構造が明確になった。(梶原の臣・吉之丞、男寅、玉太郎、橋吾)

 

映画『ホワイトナイツ/白夜』『愛と喝采の日々』(2)

  • 映画『愛と喝采の日々』(ハーバート・ロス監督)は『ホワイトナイツ/白夜』よりも7年前に制作されていている。かつてバレーダンサーとしてライバルだったディーディー(シャーリー・マクレーン)とエマ(アン・バンクロフト)の二人が、長い時間を経て逢う。エマはバレエダンサーの現役でバレエ公演がディーディーの住む街で開催されたのである。ディーディーは今、三人の子持ちの主婦で夫のバレエスクールの手伝いをしている。ディーディーはかつてエマと主役の取り合いを巡って心に引っかかることがあった。そのことをはっきりさせたいとの思惑がエマに逢う事によって強くなる。その心理葛藤と二人の女優の演技力が見どころである。

 

  • エマの長女はバレエをやっておりその優秀さからエマの所属するバレエ団に入団する。そのため、ディーディーも娘・エミリアン(レスリー・ブラウン)の世話のため一緒に他の家族から離れてニューヨークで二人で暮らすことになる。バレエ団に接することによって、ディーディーは妊娠してバレエから離れたことに忸怩たる想いが芽生える。そして、エマはエマで年齢的に現役でいられない分岐点であることに正面から向き合わなければならなくなる。その二人の間で輝き始めていくのがエミリアである。

 

  • アン・バンクロフトはバレエダンサーでもなく年齢的な事もあり、練習風景などそのあたりは上手く処理し、その分、プリンシパルであるユーリのミハイル・バリシニコフやレスリー・ブラウンやそのほかのバレエダンサーがカバーしている。特にミハイル・バリシニコフは存分に古典バレエを披露してくれる。その姿にエミリアが恋してしまうのももっともなことであるが、ユーリは浮気者でエミリアは裏切られる。そのため酔っぱらって公演に遅れて来て、エマに大丈夫だからと酔っぱらいつつ舞台で踊るのが可笑しさを誘う。

 

  • ユーリはエミリアの元に戻るが、エミリアは一段階成長していてバレエにかける心構えが強くなっていた。そうした経過の中で、ディーディーとエマは体ごとぶつかる喧嘩をして、今までの自分を認め、これからの自分を取り戻す。そのあたりの心境の微妙さやあけすけなやりとりが上手く出ている。こうしたライバルバレエ映画は、近年では映画『ボリショイ・バレエ 二人のスワン』(2018年・バレーリー・トドロフスキー監督)にもつながっている系列である。

 

  • シャーリー・マクレーンは独特の表現力を示す女優さんで、ヒッチコック監督の『ハリーの災難』でもそれは発揮されていてこの映画がシャーリー・マクレーンの初映画出演である。ヒッチコック監督は自分がシャーリー・マクレーンを有名にしたと言われているようだが、『ハリーの災難』はヒッチコック映画でも珍しいコメディー溢れるミステリーである。ハリーというのは死体で、誰に殺されたのかということが謎で、次から次へと殺した人が変わり、その度に埋められた、掘り起こされたりするのである。

 

  • シャーリー・マクレーンはハリーの妻で、ハリーから逃げて息子と暮らしていたのである。死体を見つけたのが息子で、息子に知らされて死体を確かめにくるが、見なかったことにするようにとさっぱりとあっけらかんと言うのである。ここに住む村人全員がどこか可笑しな人たちでまさしくハリーにとっては災難であった。いやハリーも可笑しな人であったと思える。その妻もやはり変わったキャラで、シャーリー・マクレーンならではであり、今もって映画『素敵な遺産相続』『あなたの旅立ち、綴ります』で存在感を充分に発揮している。

 

  • 映画『愛と哀しみのボレロ』(1981年・クロード・ルルーシュ監督)は、ジョルジュ・ドンのバレエ『ボレロ』から始まる。これまたバレエ『ボレロ』が見事である。今まさにユニセフと赤十字・チャリティーショーが開催されているのであるが、映画はここから過去に戻される。別々の国や場所で4つの家族がそれぞれ第二次世界大戦をくぐりぬけ、その4家族の生き残った次の世代が引きつけられるようにユニセフと赤十字・チャリティーショーに集まるという構成である。

 

  • ナチス強制収容所に送られる途中で赤ん坊だけでもと手放し拾われて育った子、父親が人気楽団を率いていた娘、ヒトラーと写真におさまった演奏家と親子と知らない娘、ボリショイバレエ団に関係していた人の子などがお互いの人生を知らないままに一つの大イベントのために同じ時間にそこに立っているのである。解ることは戦争という大きな時代に呑まれていた多くの人々をこの家族が代表しているということである。ジョルジュ・ドンのバレエ「ボレロ」が哀しみを象徴するような身体表現で、バレエが出てくる異色作といえる。どれもバレエダンスから目が離せない作品である。

 

 

映画『ホワイトナイツ/白夜』『愛と喝采の日々』(1)

  • 昨年の11月に三浦雅士さんの講演『ベジャール/テラヤマ/ピナ・バウッシュ』の中で、どんな関連からであったのか忘れたが、映画『ホワイトナイツ/白夜』の最初に出てくるバレエがバッハの『若者の死』であるということを言われた。映画の記憶としてはダンスが良かったということは残っているがその他は記憶が薄れている。まあ見直せばよいと思って見返したら初めて観るようなハラハラドキドキであった。

 

  • ミハイル・バリシニコフが踊るバッハ『若者の死』は、ジャン・コクトー台本で振り付けはローマン・プティである。導入から画面に釘付けになる。そこから主人公は飛行機事故で旧ソ連のシベリアに不時着。主人公は奇怪な行動に出る。次第に明らかになるのだが、主人公はソ連からアメリカに亡命したバレエダンサーで、亡命者はソ連では犯罪者である。主人公はKGBの監視の下に置かれるが逃れて脱出を試みるというサスペンス的な緊張感である。

 

  • もう一人、アメリカ人でベトナム戦争で白人より黒人の戦死者が多いのに疑問を持ち脱走兵としてアメリカから亡命した男性がいる。アメリカではタップダンサーであった。彼はソ連の女性と結婚していて、この夫婦は主人公を監視しつつバレエ公演に出るように説得する役目を担わせられる。お互いに心が通じ、脱出を計画する。そのため監視カメラの前で二人並んで踊る場面がいい。タップに合わせた音楽を作り、さらに振り付けが二人を光らせる。

 

  • もう一人脱出に協力するのが主人公の元恋人である。彼女はバレエの相手役でもあり恋人だったので彼が亡命した後はKGBから尋問を受けるなど苦境を強いられた。そのため主人公には再会の時怒り心頭であったが、自由なバレエダンスを求める主人公のバレダンサーとしての気持ちを理解して協力するのである。この元恋人がヘレン・ミレンで彼女は実生活で、この映画のティラー・ハックフォード監督と結婚している。ミハイル・バリシニコフも実際にアメリカに亡命していてる。ソ連時代のエリートは許せる限りの自由と豪華な生活の保障があったが、それだけではないバレエに対する窮屈さがあったのであろう。

 

  • 映画はソ連ではロケできなかったが、レニグラードをこっそり撮影している。映画での車の移動はセットで、背景は実際のレニグラードの映像で合成している。批評家がこの合成が下手だといい、レニグラードの場面は全てヘルシンキだろうと言ったが、撮影した人に迷惑がかかるのでレニングラードを映したとは当時は言えなかったと映像特典で監督が語っている。そういう時代の映画でもある。

 

  • KGB幹部の役のイエジ―・スコモリフスキが上手い。世界的バレリーナをソ連で再び受け入れて舞台に立たせれば、その寛大さが賞賛され彼の手柄となる。その手柄を自分の物にできる絶好のチャンスである。必死である。一度舞台に立たせ、その後は尋問にするという計画である。この役者さん、この映画をたっぷりと盛り上げてくれる。アメリカ領事館へ主人公にピッタリくっついて向かい、メディア関係のカメラに微笑むのも見どころであるが、さらなる展開もありなかなか手が込んでいる。タップダンサーの妻役が、イザベラ・ロッセリーニで初々しくて美しい。

 

  • タップダンサー役のグレゴリー・ハインズも映画の中で、みすぼらしい小さな場所で『ポギーとベス』を演じていて、場面場面で見事なタップを披露する。ミハイル・バリシニコフが出るのでバレエ映画と思っていたら思いがけない展開が始まり、バレエ、タップ、バレエダンサーとタップダンサー共演のダンスという場面ありで驚いたことを思い出したが、再度観ても面白さは薄れなかった。

 

  • ティラー・ハックフォード監督は映画『愛と青春の旅立ち』(1982年)で興行的に大成功だったようで次が映画『カリブの熱い夜』(1984年)でミステリアスな展開をさせ、そして映画『ホワイトナイツ/白夜』(1984年)となる。『愛と青春の旅立ち』『カリブの熱い夜』も見直したが懐かしかった。そして、同じ<愛>でもバレエ映画となれば『愛と喝采の日々』(1977年)であろう。こちらの映画にはミハイル・バリシニコフが浮気なプリンシパルとして登場する。

 

ヒッチコック映画『鳥』と『マーニー』そして・・・(3)

  • グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』では、グレース・ケリーの最後の出演映画『上流社会』(1956年・チャールズ・ウォルターズ監督)の撮影が終わる。撮影セットでの車から降りるグレース・ケリー(ニコール・キッドマン)は白いフードつきのコートを着ている。映画『上流社会』でこの場面は、フランク・シナトラがグレース・ケリーの運転する車に乗せられ、上流社会のお屋敷が税金のために売られたり、維持費がなく閉じられたりする情景を案内されるシーンである。スピードを出す運転など車の事故で亡くなることと重なるのを意図してであろうか。

 

  • 1961年12月、ヒッチコック監督がモナコ宮殿を訪れグレース大公妃と会う。『マーニー』の出演依頼のために。その時、ヒッチコック監督は『』(1963年)の脚本をケリー・グラントに渡したのでその意見を聞かなくてはならないと言っている。まだ『』の撮影には入っていず、ミッチの役は、ケリー・グラントに要請したようであるが、実際には、ロッド・テイラーとなった。グレース大公妃はマーニーの役が気に入り、遣り甲斐があるとして映画出演に心動かす。ところがモナコは大変な時期であった。

 

  • この時期のモナコとフランスの関係はこの映画から知った。ただ映画からなので偏るかもしれないが。フランスはド・ゴール大統領の時代である。アルジェリアに手を焼いており、戦費調達を急務としていた。そのためモナコが無税で誘致した企業に所得税を払わせフランスに納めさせ、フランス企業の誘致を中止するように言ってくる。その大変な時期にグレース大公妃がアメリカ映画『マーニー』に出演するとの情報が流れる。グレース大公妃は発表の時期の機会をうかがっていて秘密にしていた。ところがモナコ宮殿内から漏れ、アメリカ映画会社ユニバーサル側は急きょ発表したのである。時期が時期だけにグレース大公妃はモナコから逃げるのかと非難される。

 

  • フランスはさらにモナコ国民にも課税してフランスに納めるようにと言う。モナコ大公は要求を一部飲むがモナコは独立国だとして拒否する。国境は封鎖される。食料も水道も電気も全てフランス経由であった。グレー・ケリーはモナコ大公妃としての古くからの礼儀作法を学び直し、モナコ大公妃になりきる訓練を始める。モナコはオナシスの提案で、ヨーロッパの首脳に集まってもらいモナコ支援を取り付けようとするが、ド・ゴール暗殺失敗の情報が入りこの集まりもとん挫する。そして、モナコ大公の実姉夫婦がフランスと親密な関係であることが発覚。まるでヒッチコックのサスペンス映画のようである。

 

  • グレース・ケリーはヒッチコック監督に映画出演を断る。ヒッチコック監督は忠告する。フレームの端によりすぎないようにと。グレースは、大公妃主催の国際赤十字慈善舞踏会を催し、世界各国からの著名人を招待する。そこで、モナコが独立国であることを各国に披露するのである。ド・ゴール大統領も出席した。これが、グレース大公妃の切り札であった。モナコ国民にも愛される圧倒的存在感のモナコ大公妃である。

 

  • 人の集まる重要な場面にオナシスがいて、深くかかわっていたようである。投資したものは守らねばという。複雑極まりない世界である。グレース・ケリーもこのモナコとモナコ宮殿の複雑さに困惑気味で、ヒッチコック監督の映画出演で自分の力を発揮し、本来の自分をとりもでしたい希望を持ったのかもしれない。しかし、その希望を封印しグレース大公妃への演技力に全力を傾ることになる。赤十字のパーティーで、マリア・カラスが歌劇『ジャン二・スキッキ』(プッチーニ)より、「私のお父さん」を歌う。それを聴くグレース・ケリーは、お父さん見ていて私はしっかりやりとげて見せるわよと静かな闘志を秘めているようである。

 

  • 1963年5月にフランスの徴税の要求を取り下げ国境の封鎖は解除した。ラストには、映画『上流社会』のセットの中で白いマントのグレース・ケリーが座って静かにクールな微笑みを浮かべる。それはかつてのグレース・ケリーである。どう、この私が最後に到達した演技はこんなものじゃないでしょ。完璧だったでしょうと言いたそうである。

 

  • 忘れていたが映画『ヒッチコック』のことを記していた。 「ヒッチコック」と「舟を編む」 ヘレン・ミレンに関しては映画『ホワイトナイツ 白夜』を見直すことになりこの映画に出ていたのかと改めてその演技力を確信する。好みというものはそう変わらないのかもしれないが嫌いなものもそう変わらないものである。

 

ヒッチコック映画『鳥』と『マーニー』(2)

  • マーニー』(1964年)はヒッチコック映画では人気度がそれほど高くないようであるが面白かった。女性が歩いている後ろ姿。左腕脇に黄色のバックが抱えられている。右にはスーツケース。髪は黒。黄色のバックがアップされる。観客の目をひき大切なものが入っていることを察知させ、さらにその女性は何者か、観客は黙って彼女の後をつける。そして、その後の彼女の行動を覗き見る誘惑の中にいる。

 

  • 彼女は会社の金庫から多額のお金を盗んでいた。何回もやっているようである。ショーン・コネリーが演じるマークは、マーニーが自分の会社の社員として雇う。盗難にあった取引き先で彼女を見かけていた。マーニーはそれを知らない。マークは彼女に盗癖がありそれが病気のようであり、どうしてそうなったのか興味を持つ。マークはその原因となる過去を究明するのである。

 

  • マークは言う。このままだと刑務所か乱暴されて身の破滅となるだけだと。それでもマーニーは結婚してまで自分を守ってくれようとするマークを拒否して自由を求める。マーニーは赤の色に異常な反応を示す。その場面は赤の色が画面一面に重ねられる。これは、『裏窓』(1954年)で、主人公が殺人者から身を守るとき焚かれるカメラのフラッシュの時にも出てきた手法である。そしてマーニーの実家を訪ね母親から明らかになる過去。原作では、一人の女性に二人の男性という関係だそうだが、映画では、マークの死んだ妻の妹が加わり、二人の女性に一人の男性という設定である。

 

  • ショーン・コネリーのマークがさすが頼もしくて格好良い。そのマークを拒否してまで自由を求めるマーニーの謎を観客は知りたいと思う。マーニーの美しさに加えて病理的疑問からマークがマーニーに魅かれたことは、マーニーにとっては幸いであったし、サスペンスとしても面白くなった。美人女優の起用の多いヒッチコック監督は、当然男優人も美男子が多い。しかし脇俳優もしっかりと計算している。脇役の女優陣がベテランの演技力をみせてくれる。『ロープ』の家政婦、『裏窓』の看護師、『』のミッチの母親、『マーニー』のマーニーの母親などもその例で、ユーモアを加えてくれたり深みを出してくれたりしている。

 

  • 映画『ヒッチコック』では、ヒッチコック監督が『サイコ』(1960年)の女優を誰にするか決めかねている。グレース・ケリーなら何を演っても許されるのにとつぶやき、妻に王妃なんだから無理よと言われる。最終的に妻のジャネット・リーはどうと言われて決まる。ヒッチコック監督の机の上に女優のポートレートが重ねられている。妻はその写真の一枚に、自分のイヤリングの一つを置く。その写真がグレース・ケリーの写真で、グレース・ケリー大公妃の出演依頼を暗示しているようにも思える。出来るものならやってみたら。

 

  • 映画『ヒッチコック』(サーシャ・ガヴァシ監督)は内容も興味あるが、ヒッチコック監督役のアンソニー・ホプキンスと妻・アルマ役のヘレン・ミレンの演技上のぶつかり合いも見どころであった。

 

  • 女優グレース・ケリーのことは今までもにも多少見聞きしたことがある。両親に認められることを願っていたが、特に父親が女優という職業をよく思っていなくてグレース・ケリーの努力を認めてくれなかったというようなことなど。ドキュメンタリー映画『グレース・ケリー 公妃の生涯』(ジーン・フェルドマン監督)ではそうしたことまでは触れず父母の生い立ちや、グレース・ケリーの生涯を個人的波風は少なく公的に追っている。

 

  • 喝采』(1954年・ジョージ・シートン監督)でアカデミー賞主演女優賞を受賞したグレース・ケリーは、モナコ大公レーニエ3世と出会い結婚(1956年)へと進むのである。映画『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』(オリヴィェ・ダアン監督)では、モナコ大公妃になってからの1961年から1963年までの大公妃の身に起ったこととして描かれている。

 

ヒッチコック映画『鳥』と『マーニー』(1)

  • アルフレッド・ヒッチコック監督の『』を見直すことにした。引き延ばしにしていた確かめたかったことがあった。オペラ映画のフライヤーに『マーニー』が載っていて、ヒッチコック監督も映画にしているのを知り『マーニー』を続けて鑑賞する。そして、この二つの映画が、モナコの大公妃となっていたグレース・ケリー大公妃に『マーニー』出演を依頼と関係していたことを知る。

 

  • 』で確認したかったのは、主人公メラニーが魅かれている男性・ミッチの妹を学校へ迎えに行く場面である。教室では子供たちが歌を歌っており、もう少しで終るというのでメラニーは外のベンチで煙草を吸いながら待っている。後ろの遊具にカラスが一羽。メラニーのアップから後ろの遊具を映すと二羽、三羽と増えていく。この時のBGMがどんなであったか確かめたのである。子供たちの歌声が続いていた。これからの展開を何も知らず歌う子供の声。それに反し、彼女はイライラしている。イライラしているのにはそれまでにいたる鳥による体験による。

 

  • 彼女は飛んでくる一羽のカラスに目をやり、視線はその後を追う。カラスが行き着いた遊具はカラスでおおわれていた。彼女は学校に飛び込み教師に窓からその様子を知らせる。ガラスなどは簡単に割られてしまい襲われるので、誘導して子供たちを避難させることにする。逃げる子供たちに襲いかかるカラス。CGのない時代なので、実際の撮影用に訓練したカラスと飛んでいる鳥の映像とを編集して作り上げている。この映画に出てくる多くの鳥の場面は本物と作り物の鳥を混ぜて、観る人の錯覚を利用したらしいが、映像の切り替えなどから、あれはニセモノと思わせる時間を与えなかった。

 

  • メラニーはミッチが探していた<愛の鳥>を届けるためにミッチの住む町に来たのであるが、カモメに襲われたり、ミッチの家では驚くべき数のスズメが暖炉から部屋の中に飛び込んできたりする。ミッチの母が鶏がエサを食べなくなったので同じ状態の知り合いの農家を訪ねていったところ、その農夫は目をえぐられて死んでおりカモメに襲われた思われる。母は家にもどり寝込んでしまい学校に行っている娘のことが心配だということでメラニーが様子を見に行ったのである。

 

  • 』の前が『サイコ』で、『サイコ』に関しては、映画『ヒッチコック』が詳しくその撮影にいたる経過を教えてくれる。ヒッチコック監督は新しい試みの映画を作りたいと考えていて実際の事件を題材にした『サイコ』の映画製作に入るが、どこも企画を受け入れてくれず家を抵当に資金は自分持ちとする。夫婦間の問題、撮影現場、俳優とのやり取り、映画公開の仕掛け方などが盛り込まれている。

 

  • ヒッチコック監督は『サイコ』は失敗だと認めるが最終的に妻が編集に加わりシャワーの殺人場面に音を入れる。ヒッチコック監督は音を入れることに反対するが、これが臨場感を生み出し効果抜群となる。映画館のロビーで監督自身もシャワー場面の観客の悲鳴と音に大満足である。映画の最後に、ヒッチコック監督のいつもながらのしゃべりがあり、ヒッチコック監督の肩にカラスが止まって奥さんの呼ぶほうへ去っていく。次の映画の予告である。『』では音は鳥の鳴き声など最小限にしている。

 

  • 』のメラニー役のティッピ・ヘドレンはモデルでこの映画が初めての映画出演であった。ヒッチコック監督は美人が好きである。ファッションに関しても女性があこがれそうな衣裳を着せ、そこに恋愛も含ませ女性の入りやすいサスペンスとしている。そして男性の気をそそる色香も忘れない。『』の場合はミッチとの最初の出会いの場面と男性の住んで居る場所で事件に巻き込まれるため洋服は二着である。二着目は理由のわからぬ鳥の襲撃など想像もできないさわやかな若草色系である。鳥と緑の調和のイメージが見事に崩壊する。

 

  • サスペンス映画よりもスリラー映画に近い。ただ、ミッチの母がメラニーを見る目が敵視しているようで謎を秘める。母は息子を恋人に取られるのが恐怖であった。ところが、鳥の出現で、母は自分が守られることしか考えていなかったのが、最後にはメラニーを守る強さが生まれていた。そのあたりも恐怖だけではない人間心理の変化も加味されている。そして、この母の心理が『マーニー』ではもっと複雑になるのである。さらに、主人公のマーニー役をヒッチコック監督は、グレース・ケリー大公妃に依頼していたが断られ『』に出演していたティッピ・ヘドレンに決定するのである。

 

歌舞伎座2月『當年祝春駒』『名月八幡祭』

  • 當年祝春駒(あたるとしいわうはるこま)』。洋画を見続けていたので長唄の八丁八枚、お囃子が心地よく響く。中央のセリがあがり、工藤祐経(梅玉)、小林朝比奈(又五郎)、大磯の虎(米吉)、化粧坂少将(梅丸)が登場。人数は少ないが長唄お囃子連中をバックに梅の華やかさと相まってパーっと明るい。花道から曽我十郎(錦之助)、五郎(左近)が春駒の門付けで登場。

 

  • 左近さんの節のないすっと伸びた素直さがさわやかである。踊りでの工藤に対する仇の気持ちもむき出しではなく、それとなく伝える。それを押さえる兄の十郎と朝比奈。十郎はあくまでも気品をもって、それに添う朝比奈の踊りにユーモアが加わる。大磯の虎は少し威厳をもって、化粧坂少将は愛らしく、曽我物のキャラの雰囲気をそこはかとなく描いている。工藤が狩場の切手を「切って」に掛けて投げ与えて大きさをみせて幕となる。曽我物が続く中、ほど良いリズム感に梅の香りを感じる舞台である。

 

  • 名月八幡祭』。真面目で真っ直ぐな考え方の越後の行商人縮屋新助が深川芸者美代吉に百両用意してくれればいっしょになると言われる。ひたすら信じて家、田畑を売り払い百両こしらえる。田舎には老いた母もいるのであるが、美代吉と二人で働いて頑張れば取り戻せると考えている。コツコツと働いて生きてきた新吉と美代吉では世界が違い過ぎていた。

 

  • 美代吉には藤岡慶十郎という旗本の旦那がいる。この旦那が良い人で、美代吉には船頭三次という情夫がいるがそのことも知っている。お金に綺麗な旦那で美代吉の旦那である以上、美代吉が三次にかんざし与えたのを知って、そんなみっともないなりじゃ俺が笑われるとお金を渡す。申し訳ないといってかしこまる美代吉だが、お金を貰い、三次が現れるとこのお金でぱーっと飲もうよという。お金がないのだがはした金では仕方がない、宵越しの金はもたないよの性格なのである。

 

  • 土地を抵当にでもして百両こしらえ、八幡祭りの用意をして美代吉姐さんの粋をみせてそのあとはどうとでもなれの生き方である。そこに美代吉に惚れこんでいる真面目な新助があらわれる。新助が気になっていた三次が現れるが、美代吉は啖呵を切って三次を帰してしまう。これも美代吉の気分屋のあらわれで、なんとでもなるという性格なのである。新助は美代吉が困っているならと一生懸命になる。その真面目さを深く考えることもなく一緒になることを約束する。美代吉には新吉のような行商人にお金が作れるわけがないという投げやりなおもいもある。

 

  • お金の使い方を心得た旦那の藤岡から手切れ金が届く。そこへ三次が恥をかかされたと刃物をもって現れる。美代吉は三次が自分を本気で殺しに来たとは思っていない。三次もそのつもりで一種の二人の戯れなのである。美代吉の母も二人にはあきれてしまうほどなのである。そういう世界の二人なのである。そんな二人のところに新助が息せき切ってもどってくる。美代吉は新吉にお金は出来たからもう大丈夫という。利子をつけて返しておくれと軽く云う。新吉が思い込んでいるような美代吉ではなかった。新助の帰る場所はもうないのである。

 

  • 八幡祭りを見て帰りなと越後に帰るのを引き留めた魚惣は心配してやってくるが、まさかこんなことにまでなるとは想像しなかった。どこかで新吉が美代吉の性格を知って深入りしないであろうと思っていたのである。面白おかしくその日を暮らす美代吉。自分の生き方を通す美代吉は、新助とは世界が違うが客商売ゆえ軽くその場その場であしらっているのである。ところが、新吉は美代吉も自分と同じ世界に生きてくれる人間になってくれると思い込んでしまっていたのである。

 

  • 切れると言って切れない男女の仲、お金に対する価値観など美代吉の住む世界と新助の世界は違い過ぎた。その亀裂に挟まって狂ってしまう新助のその先は。新助は美代吉を殺すしかなかった。高々と笑い、祭りの若い衆に担がれて花道を去る新吉。三次のような男を情夫にして好きなように生き、お金が転がりこみ何とかなってしまうような生活をしている者には、新助の実直さは通じなかったのである。月の明るさもどこか妖艶である。

 

  • 深川の花街で繰り広げられる人間模様。美代吉に明るく声をかけられる新吉。そのずれに観客は可笑しさを感じる。魚惣の心配がわかる。藤岡の遊び方。その中での美代吉と三次の仲。苦笑がおこる。そこへ飛び込んだ新吉。信用が第一と商売してきた新吉には泳ぎ切れない人の流れであった。

 

  • 初世尾上辰之助三十三回忌追善狂言である。初世辰之助さんが縮屋新助を演じられた時、今回同様、芸者美代吉は玉三郎さんで、船頭三次は仁左衛門さんだったそうである。その先輩たちに挟まれての松緑さん初世辰之助さんにどんな報告をされるのであろうか。

縮屋新助(松緑)、芸者美代吉(玉三郎)、魚惣(歌六)、魚惣女房(梅花)、美代吉母(歌女之丞)、船頭長吉(松江)、藤岡慶十郎(梅玉)、船頭三次(仁左衛門)

 

歌舞伎座2月『熊谷陣屋』

  • 熊谷陣屋』。文楽のガイダンス版のDVDを観ていたので、文楽と歌舞伎の違いが興味深かった。文楽ではで相模の出が上手側の部屋からで障子を開けてである。浄瑠璃でもそう語られる。歌舞伎では正面の襖が開いて相模の登場である。竹本では障子からと語られるので、これは役者さんが演じることによって正面になったのであろう。そのほうがインパクトも強いし相模役者を見せるためにも効果がある。ここも文楽とは違う役者を見せる歌舞伎の特色であると思える。幾つかの違いがでてくるが、そこが歌舞伎の先人たちが工夫してきた足跡でもあろう。

 

  • ヒッチコックの映画を観たあとだったので、『熊谷陣屋』をサスペンス感覚で観ていた。熊谷直実は敦盛を討ちとったと妻・相模と敦盛の母・藤の方に明かすことになるが実は、敦盛を生かし実子・小次郎を身代わりにしているのである。そのことを相模と藤の方に発覚させないで敦盛として首実検に臨まなくてはならない。なんとか二人を納得させ首実検へ向かうが、義経が出向いてきていたのである。熊谷ピンチ。首実検のとき、相模と藤の方を騒がせずに収めることができるのか。

 

  • 熊谷は花道の出から深い苦慮の中にある。手に握った数珠を袖奥にしまい気を変える。自分でわが子を殺したことに対する複雑さが現れている。陣屋に帰ってみれば、妻の相模がいる。動揺し怒る熊谷。しかし、ここから悟られぬトリックの語りが始まる。サスペンスの極みである。心理劇でもある。相模に小次郎が戦死したらどうするかと尋ねる。現実を知らない相模は初陣での誉であると答える。熊谷はでかしたと相模の心構えを褒める。敦盛を討ったと聴き敦盛の母の藤の方が熊谷を殺すため障子から現れる。それを押さえ、藤の方の出現に動揺するが、熊谷の語りが始まる。

 

  • 敦盛の潔さを語りつつ藤の方の気持ちを静めていくが、それは相模にも自分の子であったらとの想いを含んで語り、現実を知った時の相模の嘆きを押さえるための語りでもある。そのことが伝わる。それでいながら義経を前に首を見たときの二人の動揺。あたりまえである。それを制札を使って大きくその場を押さえる熊谷。目撃者を共犯者にしなければならないのである。黙らせるのである。制札を使っての形がなければ肉体的に二人を押さえることができないのが納得できる。だれが聞き耳を立て盗み見ているかわからないのである。そして制札の意味を二人に投げかけているのであるがそれは観客へも投げかけている。ここまでの経緯わかりましたかとこの制札の重み。

 

  • 「一枝を切らば一指を切るべし」と制札は弁慶の文字である。見事な桜を眺める人はこの制札をみることになる。弁慶の文字と知って人々は見事な書であると話す。比叡山で修業もしており書も立派なのであろう。最初に観客はこの制札の文字がみえないから見物人から聞くこととなる。桜の一枝を切ったならば、おのれの指を一本切るべしということであるが、熊谷はこれを義経の本心として、敦盛を助け身代わりをと読むのである。敦盛は帝の子なのである。熊谷は大変である。この解釈が間違っているかも知れないのである。実行して陣屋にもどれば、相模が来ており、さらに藤の方の出現である。

 

  • 義経からの制札の身代わりの解釈も間違いではなかった。役目を終えた熊谷。まだサスペンスは続くのである。梶原がこれを知って注進しようとするがどこからか石が飛んで来て殺されてしまう。殺したのは弥陀六となって身を隠す平宗清の出現である。身代わり仕掛け人の義経は宗清と見破る。宗清は幼い頃の義経を助けた人である。思いがけない出会いである。義経たちを助けたことが平を滅ぼすこととなったのであるから。敦盛を助けてまた平氏との争いか。しかし熊谷はもう自分にはそんなことは関係のない世捨て人となっているのである。ただ胸に残るのは無常観。

 

  • サスペンスの謎解きとして観ていたので、登場役者さんの一つ一つの演技が事細かく鑑賞できた。その動きからあらわす表と裏の心。何を隠しどうしようとしているのか。役者さんがそろったので、その鑑賞に細かく応えてもらえて熊谷の無常観に到達した。正面から毅然として現れた相模。くどきがあり自分の気持ちを吐き出すがその辛さがいやされるのはいつであろう。何処から切っても血のにじみが観える舞台であった。仕えて立ち働く者たちまで全て立ち振る舞いが綺麗で心みだされず緊迫感を味わうことができた。

 

  • 熊谷直実(吉右衛門)、相模(魁春)、藤の方(雀右衛門)、義経(菊之助)、弥陀六(歌六)、堤軍次(又五郎)、梶原(吉之丞)、義経家来(歌昇、種之助、菊市郎、菊史郎)

 

『演劇人祭』

  • 五年ごとに行われている日本演劇協会の主催による『演劇人祭』である。今年は創立七十年記念である。1951年(昭和26年)に設立されてた演劇にたずさわる人たちの団体で、初代会長・久保万太郎さん、二代会長・北條秀司さん、三代会長・河竹登志夫さん、そして四代現会長・植田紳爾さんの挨拶から始まった。(総合司会・葛西聖司さん)

 

  • 日本演劇に貢献された15人の演劇功労者の方々の表彰式があり、配られたパンフレットに記された年齢をみ、皆さんお元気で活躍されておられるので心強いかぎりである。石井ふく子さん(プロデューサー)、辻亨二さん(舞台音響家)、小田島雄志さん(翻訳家)、八千草薫さん(俳優)欠席、坂田藤十郎さん(歌舞伎俳優)、嶋田親一さん(演出家)、花柳壽應さん(日本舞踏家)、仲代達矢さん(俳優)、吉井澄雄さん(舞台照明家)、黒柳徹子さん(俳優)欠席、草笛光子さん(俳優)、藤田洋さん(評論家・逝去・奥さまが代理授与)、横溝幸子(評論家)、ジェームス三木さん(劇作家)、水落潔さん(評論家)

 

  • 次の座談会の司会をされた渡辺えりさんは『有頂天団地』で着た和服で登場で、草笛光子さんも同じ戯曲の『隣人戦争』で舞台に立たれたことがあり、演劇の流れも次の世代につながっているのを感じさせられる。今はかつてのスター演劇が無くなってきていてアンサンブルの演劇性が強くなってきている。歌舞伎もアニメを題材にするようになったのであるから演劇もこの先大きく変わっていきそうである。そんな中、座談会はG2さん、横内謙介さん、市川猿之助さんで司会の渡辺えりさんも歌舞伎の演出をしたことがあるので、大変盛り上がる。

 

  • 歌舞伎の練習の短さとか、今日出来上がって渡したセリフや歌が次の日には完璧に動きもできていて驚いたなど、ゾンビの世界といわれる。先代の猿之助さんの時には、練習が初日の幕前に終わり、そのまま本番とか、今であればブラックといわれそうな世界である。それだけ新しいことを取り入れるということは大変ということなのであろう。G2さんは、絵コンテもなく衣裳さんがこれこれの衣裳と口頭で伝えられてチンプンカンプンなのを福助さんが、それはこういう衣装でと通訳してくれたなど沢山の裏話がでてくる。

 

  • 横内謙介さんは『ワンピース』のとき、これで歌舞伎関係者から総スカンクで、自分の劇団があってよかったといわれる。猿之助さんは歌舞伎は歌舞伎役者にとって皮膚感覚になっていて、先輩たちが残してくれた公式が沢山あり、この芝居にはこの公式とこの公式を使えばよいと組み合わせていくと。それを受けて渡辺えりさんが引き出しが沢山あるのよねと。他の演劇も引き出しはあるのでしょうが、歴史が長いだけにその数が半端ではなく、歌舞伎界という組織全体で継承してきたという強みなのであろう。歌舞伎と他の演劇人とのコラボはこれからも続きそうである

 

  • この座談会から祝賀芸能へと移る。新派『朗読 北條源氏ー六條御息所ー』 (水谷八重子、波乃久里子、喜多村緑郎、河合雪之丞)雪之丞さんの語り手のみぐさを、語り手のときとみぐさのときの声質をかえての朗読が効いて聴きごたえある世界であった。 宝塚歌劇『すみれファンタジー ー宝塚歌劇105周年 名曲を綴ってー』 観ていないので歌になじみがなく眺めているという感じになってしまうが、やはり華やかである。葛西聖司さんが、読むのが大変とおもいますがといわれたが、名前の読み方が難しい。(凪七瑠海、暁千星、麗泉里、風間柚乃、天紫珠李、彩音星凪、結愛かれん、礼華はる、羽音みか)

 

  • 地唄舞『』(坂東玉三郎) いつ観られるかわからない『雪』に逢えた。傘の扱い方にさらなる想いを込められたように見えた。 舞踏『七福神船出勝鬨』(西川箕乃助、花柳寿楽、花柳基、藤間蘭黄、山村友五郎)日本舞踏会のかたが流派を越えて5人で「五耀會」を結成されている。素踊りなのであるが五人で五福神の様子を現わし最後に二神を加えて五人で七福神を踊るという試みである。色々な工夫ができるものなのである。 半能『石橋』(観世三郎太、観世清和) 獅子のでる後場だけなので半能ということである。赤獅子と白獅子が登場。面をつけているので人間界と違う世界という遮断差がある。最後は千秋万歳を祝って舞い納めるということで、『演劇人祭』も目出度く幕がおりる。

 

  • 演劇の様々な一端を感じることができ、平成最後の一月も終わる。さて二月は歩みをゆるめ、積んである映画などのDVDを中心に鑑賞し、整理したいと思うので書き込みもゆるゆるとなる予定である。

 

新橋演舞場初春歌舞伎

  • 十三代目市川團十郎と八代目新之助襲名が2020年と決まり新橋演舞場は賑わっていった。ただ十三代目市川團十郎白猿とあり、白猿は俳名でもあるらしくそれも継ぐということらしいが、十三代目市川團十郎(俳名・白猿)とかでは駄目なのであろうか。すきっとした名前につぎ足しましたという感じである。このあたりがよくわからなかったが、その後皆さん十三代目團十郎と記しているのでそれでいいのであろう。

 

  • 今回の舞台を観ていても思ったが、「團十郎」という名前は知名度が高く重い名前である。それだけ芸の歴史のある名前である。歌舞伎が芸を伝える古典文化とするなら、一つの家では伝えられないほどの重量がある。一代の一生は、成田屋全ての芸をその時代に伝えるには短いのである。そのため成田屋だけでは無理である。歌舞伎界全体に拡散されて伝わってきているのである。一代がその家の芸一つをを身につけるだけでも年数がかかるのである。そうした中で受けついだ当代さんが当代はこんな團十郎であると認識されるまでが大変でもあり、楽しみでもあるわけです。

 

  • 今回も海老蔵さんが大奮闘(人気は堀越麗禾さんと勸玄さんに奪われていたが)で夜の部は『俊寛』の後に『鏡獅子』という並べ方である。『鏡獅子』を生で観るのは久しぶりである。綺麗な弥生であった。ただ二枚扇でもこれといった印象はなく獅子頭へと移る。獅子は予想通り勢いがあった。

 

  • 俊寛』であるが、これが泣かせられたのであるが疑問が浮かんだ。その泣かせ方が、俊寛は千鳥の父の立場であるが芝居の方では、もっと年齢的に近い位置に観える。千鳥の児太郎さんのくどきがいい。よくここまで身体の使い方を練習して作り上げたと感心して観ていた。その後、俊寛が船から降りて千鳥を自分の代わりに乗せようとする。自分には都に帰っても愛する妻はもういないと話す。この時点で、父親的立場でなくて、千鳥に聞いて欲しいという感じなのである。同じ年代に切なさを語っているように見える。

 

  • 瀬尾の市蔵さんがこれまた憎たらしい敵役で、隠れていてこちらも砂を投げつけたいくらいの好演である。そして俊寛は瀬尾を殺すことになるのであるが、清盛に対して妻の仇をとったぞのような雰囲気となる。俊寛の中にその気持ちがわき上がるのもわかるが、あくまでも芯は娘とも思う千鳥を少将成経と共に船に乗せて添わせてやりたいと想う親心であるが、どうも私憤を晴らしてやったぞと伝わってくる。こちらもその気持ちに引きずられて気持ちが入れこむ。最後は俊寛が満足して菩薩の世界に到達したように思えて涙してしまったのである。

 

  • 人間の悲しさ、寂しさというものが飛んでしまった。こう受け取ったこちらの見方がおかしかったのか。海老蔵さんは個人的想いを盛り込み過ぎたのではないだろうか。古典は私的感情に偏るとちがったものとなり、受けつがれるべきものが不確かになってくる。受け継ぐことを基本にするならその芯はしっかりさせるべきである。こちらは観る側であるからいくらでも解釈はでき勝手に鑑賞するが、歌舞伎を受けつぐことを伝統文化とするなら、演じる側の立場は全く違ってくるとおもう。そのことが今回の海老蔵さんを観ていて疑問にも思ったところである。

 

  • 幡随院長兵衛』は、やはり柔らかさの余裕が欲しい海老蔵さん。長松の勸玄さんの「おとっつあん、はやくかえってきておくれよ」のト~ンがいい。女房お時の孝太郎さんの身体での動きから気持ちが伝わってくる。ドーンとしている左團次さんの水野十郎左衛門。長兵衛の子分たちの出来は経験の差あり。『三升曲輪傘売(みますくるわかさうり)』は海老蔵さんが登場したとき、ずいぶん着ぶくれしているなと思ったら傘を次々と手品のようにだす。芝居のなかでこれが挿入されればそれなりの効果があるとおもうが一つの舞踊としては軽すぎる。

 

  • 義経千本桜 鳥居前』は、忠信の荒事である。『道行初音旅 吉野山』の舞踊との違いに驚かされる演目である。弁慶も『勧進帳』と比較するとあれあれである。『勧進帳』は能を取りいれているので別物であるが。歌舞伎は役者さんが荒事の衣裳で出てくればそれに合わせて楽しむしかない。見得があり、引っ込みがありで荒事の勇壮さを愉しませてくれるかどうか。獅童さんは愉しませてくれた。弁慶の九團次さんと静の廣松さんが少し軽すぎであった。

 

  • 鳴神』の児太郎さんの絶間姫の手練手管がいい。そして、絶間姫が亡くなった夫とのなりそめを語るとき、夫からもらった歌の下の句が出てこない。(この句は『伊勢物語』によるらしい)経験はないが教養のある鳴神上人はこの下の句がスラスラでてしまう。これが言霊の恐ろしさでもある。右團次さんの鳴神上人ここから、話しから実体験へと入り込んでいくのである。お二人の息も会っていて楽しませてもらった。

 

  • 牡丹花十一代』は十一世團十郎生誕百十年を寿いでの舞踏である。その舞台に麗禾さんと勸玄さんが元気に出演し明るい舞台となる。十三代團十郎、八代目新之助の襲名を控え、その名跡の重圧に負けることなく一歩一歩、歩まれてほしい。