十月歌舞伎座『天竺徳兵衛新噺 小平次外伝』『俄獅子』

さてもさても南北さんの深川から木挽町の歌舞伎座へと飛びます。歌舞伎座では6月から南北作品が続いています。人気者はお忙しいです。今回の作品は、この時期ならではの上演形態によりすくいあげられた作品といえます。

三代目猿之助さんの選ばれた四十ハ撰の家の芸の中に『天竺徳兵衛新噺(てんじくとうくべえいまようばなし)』があります。これは南北さんの『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』と『彩入御伽草(いろえいりおとぎぞうし)』を合体させて新たな作品としたようです。

今回は『彩入御伽草』よりとあり、小平次が殺されて化けて出るという怪談話の部分をとりだして「小平次外伝」となっているわけです。言ってみれば南北さんお得意の怪談物のケレンということになります。

小平次(猿之助)は巡礼の旅にでていたのですが、気にかかる夢をみて途中で帰ってきます。帰ってみれば、突然、馬士・多九郎(巳之助)と医者・天南(猿三郎)に毒を飲まされるところでした。多九郎は小平次の女房・おとわ(猿之助)といい仲になっているため小平次が邪魔なわけです。そこで、医者・天南に毒薬を頼んでいたのです。

ところが毒薬と小平次にバレてしまったので、こんどはこん棒で殴って沼に落とすのです。苦しみながらも小平次は浮かび上がります。何回も。しつこいくらい何回も。

しつこいと言えば小平次の妹・おまき(米吉)が尾形十郎(松也)に惚れてこれまたあきらめることなくしつこいのですが、これには笑えました。そして、妹の口から出た言葉で、小平次は幽霊となってあらわれるのです。ここは上手くつながっていました。納得です。ここから小平次の怨念がはじまります。

東海道四谷怪談』で伊右衛門が悪人なのに色悪といわれるように、おとわは悪婆といわれる役どころです。

南北さん指にご執心です。おとわは夫の小平次が杭につかまっている指を切り刻むのです。悪い人間はいるものです。一番ワルなのは小平次の女房・おとわです。これでは小平次、簡単に成仏などできません。当然化けて出てきます。

どちらにしろ小平次は復讐しないわけにはいきません。小平次の幽霊とおとわの早変わりは楽しかったです。蚊帳を使っての早変わりなのですが、そういえば、『東海道四谷怪談』でも蚊帳は重要な役目をしていました。怪談ものは夏ですからやはり道具立てもそうなりますかです。

猿翁さんの著書『猿之助の歌舞伎講座』によりますと、小平次がこん棒で殺される場面では、小平次は泥だらけになっています。おとわが指を切ると、血が噴き出るようにしていました。やはり今の状況では制限が多いのでしょう。

それでも小平次が何回も浮かび上がるところは、もう少し工夫が必要だと思いました。回数が増えるごとに笑いが増えるようにし、おとわの指切りでぞくっとさせられるといいですね。

ケレンは観客の期待もあるので大変です。

お家騒動は背景にあるのですが、怪談が主ですから役者さんにとってはセリフが、解説になってしまってはいけません。そこが場面を取り出しの芝居の難しさでもあるようです。どんな芝居もセリフの交流の面白さは必要です。

小平次外伝」、これからも出番が増えるような気がしますし、さらなる工夫でまた観たいです。お家芸が四十ハ撰もあるのですから四代目猿之助さんも継承に奮闘中です。

奴・磯平(男寅)、小平次の父・正作(橘三郎)、庄屋・満寿兵衛(寿猿・役名にくふうがあります)

話が飛びますが、小平次はお遍路姿ですから白の衣装です。これをみて「白のたたりだ。」と思いました。前の夜、テレビドラマのDVD『謎解きはディナーの後で』をみていたのです。白い衣服のひとが次々ころされていくのです。それで白に反応してしまいました。やはり殺されました。ドラマはどこまでもおぼちゃまを守る女執事が面白かったです。

舞踊『俄獅子(にわかじし)』は、華やかで綺麗な舞台でした。吉原で芸者や太鼓持ちが仮装などをして踊り歩くという行事があったそうで、その雰囲気をあらわしています。最初は粋な鳶頭(松也)と傘をもった若者との動きで見せ、次に芸者(笑也、新悟)と鳶頭の踊りへと移っていき踊りおさめます。

松也さんはいづれ尾上松助を襲名するのでしょうが、初代松助さんが『天竺徳兵衛韓噺』の初演を演じて評判をとっていて、今回は縁のある作品出演ともいえます。今はしっかり身体で学ばれて積み上げていく大切な時期なのでしょう。踊りの芯を忘れないで欲しいです。

八月の『加賀見山再岩藤 岩藤怪異篇』の猿之助さんの配信を観ましたのでその話を少し。

舞台では巳之助さんの正室梅の方がちょっとと思いましたが、猿之助さんのは、多賀大領に疎まれているとのおもいと同時に、お家のことも心配する正室の立場がでていました。そのことによってお家騒動のふくらみが加味され、お家を守る側の人々も生きてきました。なるほどと思いました。

それにしても巳之助さんよく務められました。

八月の歌舞伎座での「骨寄せ岩藤」をみたとき、以前に観たときより骨が少ないのではと感じたのですが、『猿之助の歌舞伎講座』によると、計三人で糸を操っていたそうで、今回は人数減らしているのかもです。

とにかく少ない人数で、早くというのは今の時期の苦労なところです。ただおそらくこの経験が後に生きてくることでしょう。

巳之助さんへの要望ですが、鳥居又助と今回の多九郎で、三津五郎さんのセリフ術を学んで欲しいと切望しました。あの術は残してください。

何かが欠けても舞台は作れるのだの精神でケレン道の険しい道は続くことでしょう。

追記: 歌舞伎観劇の後、京橋の『国立映画アーカイブ』の『生誕120年 円谷英二展』へ。このフライヤーは東京芸大美術館でゲット、グットタイミング。イギリスで発掘された『かぐや姫』の一部映像もありました。円谷さんの生まれ故郷の福島県須賀川市に『円谷英二ミュージアム』ができていて、芭蕉さんが『奥の細道』で足を止めた場所がさらに光ってみえます。

円谷英二ミュージアム|tette テッテ 須賀川市民交流センター (s-tette.jp)

追記2: 『加賀見山再岩藤 岩藤怪異篇』での配信で数えましたが、猿之助さん、17回衣装替えしていました。それを支える係のかたたちも縁の下の力持ちですね。

追記3: 映画『怪異談 生きてゐる小平次』(1982年・中川信夫監督)、思いのほか早く観れました。南北さんの『彩入御伽草』には実在のモデルがあり、女房とその愛人に殺されたのは旅役者でした。鈴木泉三郎さんがそれらを新たに戯曲『生きてゐる小平次』とし、さらに脚色し映画にしたのが中川信夫監督です。登場人物は三人だけ。役者・小平次(藤間文彦)、狂言作者・太九郎(石橋正次)、太九郎の女房・おちか(宮下順子)。三人は幼なじみで、三人にねじれがはじまります。中川信夫監督ゆえに怪談物かなとおもうと題名通りちょっとちがうところがさらなるねじれです。

追記4: 中川信夫監督の『東海道四谷怪談』(1959年)をユーチューブで観れました。DVD購入しないとダメかなと思っていたので歓喜。これですっきりしました。やはり怖くて伊右衛門の心理も現代的。(伊右衛門・天地茂、お岩・岩杉嘉津子)

怪談物は、歌舞伎、講談、落語、映画、演劇ら、多方面のジャンルでそれぞれの力量の見せどころ、聴きどころで愉しませてくれます。能などは多くに亡霊が出現です。夏だけの風物でなくなってきています。

 

上野から四世鶴屋南北終焉の地へ(3)

行徳の散策のほうへ移りたいと思ったのですが、南北さんの連理引きなのでしょうか、また深川です。

行徳は、以前『たばこと塩の博物館』で、塩の講座がありそのとき当然、行徳の塩浜についても話があり資料をもらったので、その資料があればもっと話は膨らむかなと思って探したのですがでてきませんでした。そのかわりに、江東区の観光イラストマップがでてきまして、そうかやはりこれも最後に紹介すべきかと思い至りました。

こういうのもあるのだということで参考にしてください。

黄色丸は、松尾芭蕉さん関係です。以前ふれましたので位置だけです。

朱丸は見えにくいかもしれませんので簡単に。深川神明宮の前の朱丸は書かれていませんが美人画の日本画家「伊東深水誕生の地」。隅田川にそってさがりますと「平賀源内電気実験の地」。清澄庭園の向かいが、「滝沢馬琴誕生の地」。その右に「間宮林蔵の墓」。間宮林蔵さんは、晩年は深川蛤町(門前仲町付近)に住んでいたようです。幕府役人のころは伊能忠敬さんに、測量術を学んでいます。その「伊能忠敬住居跡」が深川東京モダン館の下にあります。伊能忠敬さんは50歳で家督を息子に譲り日本地図を描くための勉学に励みます。全国の測量に旅立つ前には富岡八幡宮に必ずお参りしたそうです。深川東京モダン館の下が「小津安二郎誕生の地」。

そして、黒船橋を渡ったところが、「四世鶴屋南北終焉の地」です。

深川東京モダン館は、大正時代、生活の苦しい人のために公営食堂というのが作られ、深川は関東大震災後に仮設として作られました。その後、東京市深川食堂となり廃止となります。その建物を生かしつつ今は深川の観光案内の役目をし、情報発信やイベントを開催しています。

芭蕉記念館は、芭蕉さんに関した展示をされ、次々企画を考えられて展示内容をかえています。

森下文化センターはまだ行ったことがないのですが、田河水泡・のらくろ館があり、そのほか職人さんたちによる伝統工芸の作業を見せたり工芸品を展示しているようです。

深川江戸資料館には江戸の庶民の生活が実物大で体験できます。深川佐賀町の町並みを実物大で想定復元したのだそうです。ここは江戸気分に浸れます。そのほか企画展やイベントも多いです。改修工事のため、2021年11月1日から2022年7月末日まで閉館だそうです。

深川江戸資料館でもらいました資料も出てきました。その中に「歌舞伎と深川」というのがありまして、南北さん関連だけ紹介しておきます。

南北さんが生まれた日本橋乗物町は、中村座と市村座に隣接していて子供のころから芝居好きだったのでしょう。21歳で狂言作者の道を選びます。

東海道四谷怪談』は71歳の時の作品です。息子さんの二世勝俵蔵(かつのひょうぞう)さんも、舞台演出をはじめ父の南北さんを支える狂言作者でした。深川の一の鳥居近くに(門前仲町交差点付近)で妓楼を営み、五世南北は孫が受け継ぎます。

あの「砂村隠亡堀の場」の「戸板返し」の演出は息子の二世勝俵蔵さんの考案と言われます。南北さんには強い助っ人がいたのですね。

当時の狂言は、複数の狂言作者が場ごとに担当したりしました。立作者の南北さんが力を入れて自らの手で書かれたのが「深川三角屋敷の場」だそうです。この場は、南北さんが得意とした怪談のケレン(奇抜な演出)ではなく、時代を越えた人間の普遍的な感情を丁寧に描いているのが「深川三角屋敷の場」なんだそうです。

「それまでの様式的な歌舞伎の台本を越えて、近代的な演劇の脚本にまでつながる人間感情をリアルに描く重要な要素を生み出しました。」

凄いですね。先ずは心して『名作歌舞伎全集』の『東海道四谷怪談』を読み直させてもらいます。きちんと感じとれるとよいのですが。

市川市歌舞伎イベント『市川笑三郎 女方の美』

歌舞伎初めての方も、よく観劇されてる方も楽しめると思います。

トークショーはもっと聞いていたいと思いましたが時間制限があるので我慢です。笑三郎さんと師匠である猿翁さんの出会いも素敵だと思いました。笑三郎さんは岐阜の出身で、地歌舞伎に出られていて、たまたま猿翁さんが、地歌舞伎を観に来られたのです。猿翁さん、地歌舞伎から何か新たなものを見つけられるのではないかと『奥州安達ケ原』を観にこられたのだそうで、何からでも学ぼうとされる姿勢はさすがです。

そういう猿翁さんに見いだされた歌舞伎が大好きだった笑三郎さんにとっては、自然に引かれていった道だったのかもしれません。そのほか、師匠のもとでの厳しくも興味深いお話が聴けました。

聞き手の今井豊茂さんが、最初に行徳と歌舞伎の関係で『南総里見八犬伝』の登場人物で行徳に住んでいるという設定もあると教えてくださいました。江戸時代は塩田の行徳ですから江戸の人々は行ったことがなくても地名はよく知っていたとおもいます。

ワークショップは「女方ができるまで」で、お化粧から、衣装の着付けまで笑三郎さんが美しい女方に変身していくのを見せてもらえます。ここでは、笑三郎さんの三人のお弟子さんである、翔三さん、翔之亮さん、三四助さんが、お手伝い、説明などを担当してくれます。間近で長い時間なかなかお目にかかれませんから、ファンの方は必見です。好青年トリオです。

衣装はその後踊られる舞踊『藤娘』で、この踊りでは衣装も上だけかわったりと変化しますが、それがどのように工夫されているかも目にすることができます。

そして、舞踊『藤娘』で、顔、衣装だけではなく、女方としての身体表現が展開されます。『藤娘』はただ観ているだけで楽しいですが、男心をなじったり、ゆったりとした藤音頭が入ったり、お酒を飲んで酔って踊ったりと様々な姿態を踊り分けます。笑三郎さんは近頃性格のはっきりした役で魅了させていますので、こういう踊りが観れ新たな視点をいただきました。なによりも音楽に乗られていて楽しかったです。

感染対策もしっかりしていて、消毒をするとその下に体温が数字ででてくるという優れものの登場でした。こういう器具は次々と開発されていきますね。そして入口から二階への会場までの空間が狭いのですが、会議室のような場所に待機場所を作ってくれていまして、開場時間まで椅子に座って待っていられました。会場に行く前に、少し散策してきましたので、これは助かりました。会場は一つ席空きです。私はまだこの席空きが心穏やかに観劇できます。

地下鉄東西線行徳駅から歩いて7分という好位置の「行徳文化ホールI&I」です。

場所は行徳ですが、舞台は大津絵の藤娘。近江八景づくしもあります。旅が難しい体験をしてみますと、旅などそう行けない江戸の人々が、歌舞伎の舞台で、日本中のさまざまな場所へ旅をした気分になっていたことが実感できます。そしてそれを満たそうとして書き手も工夫したことでしょう。

行徳で歌舞伎体験楽しめました。

追記:  市川市歌舞伎イベント『市川笑三郎 女方の美』は有料配信されるようです。

市川市歌舞伎イベント 市川笑三郎 女方(おんながた)の美 【Streaming+(配信)】のチケット情報(Streaming+) – イープラス (eplus.jp)  (終了)

追記2: 興味惹かれるフライヤーを手にしました。「パンの会」の名前の由来からバレエ『牧神の午後』を思い浮かべたばかりでしたので、あれ!あれ!とニヤリとしました。

現代音楽レクチャーシリーズ 舞踊と20世紀音楽

動くとやはりSMSとは違う情報を手にできます。トーハクの『聖林寺十一面観音』も興味ありそうな人にフライヤーを送りました。3人の方が行かれました。まだフライヤーの力は大きいとおもいます。

こういう時期ですので選ぶことなくバーっといただいてきて選別します。行けなくても面白い企画だなあとながめています。

上野から四世鶴屋南北終焉の地へ(2)

江東区が出している『史跡を訪ねて』をぱらぱらとめくっていますと歌舞伎役者さん関連のことがありましたので続けることにしました。

そもそも「深川」という地名の由来から。この地を開拓したのは大阪からきた深川八郎右衛門他6名で、徳川家康が鷹狩に来た時に村の名前がないため八郎右衛門の姓を村名にと命じられたのです。そして深川村の鎮守のお宮が深川神名宮でした。

深川神名宮は下の地図で番号10の下にある朱丸です。

深川神明宮を左に移動しますと、小名木川の沿いに三つの青丸があります。芝翫河岸(しかんがし)と呼ばれていました。そこに二代目中村芝翫さん(四代目中村歌右衛門)が住んでいたからです。

芝翫さんが六歌仙を上演し、喜撰法師の清元の歌詞に「我庵は芝居の辰巳常磐町、しかも浮世のはなれ里」と自分の住んでいたところを詞にしたというのです。というわけで、十代目三津五郎さんのDVD『喜撰』(江戸ゆかりの家の芸)を久方ぶりで観ました。出だしがこの歌詞でした。ラストは「我が里さしてぞ 急ぎいく」で深川の常磐町の家へ帰るのです。

奇しくも今月の歌舞伎座第三部は、当代の芝翫さんが『喜撰』を踊られてます。

地図を下にさがりまして番号17から左に移動しますと浄心寺があります。そこに清元節の創始者・初代清元延寿太夫さんのお墓があります。今月の歌舞伎座の『喜撰』の清元は延寿太夫さんなのでしょうか。

そしてさらに左に移動しての青丸は三世坂東三津五郎さんが住んでいた永木横丁とおもうのですがこの地図ではよくわかりませんので悪しからず。それと「世」と「代」の使い分けもよくわかりません。『史跡を訪ねて』を参考にさせてもらっていますのでそれに合わさせてもらっています。

そこから、上に富岡八幡宮がありさらに上がると深川不動堂があります。境内を入った右手に高くそびえる石垣があり、石造燈明台です。石垣の四面には奉納者の名があり、南面中央部に九世市川団十郎さん、五世尾上菊五郎さん、初世市川左團次さんの名があり、団菊左時代を思わせます。

切絵図で番号14の富岡八幡宮の青丸はまだ深川不動堂はできていなくて、富岡八幡宮別当寺・永代寺に第1回目の成田山の出開帳がありました。明治に入り神仏分離令の時、出開帳で御縁のあるこの地に願い出て成田山から御分霊されました。

永代橋のピンク丸の二つは番外編として。一つは、赤穂浪士休息の場ですが、当時の浮熊屋作兵衛商店の主人が店に招き入れ、甘酒を振る舞ったといわれています。みそを作っていたので麹があったので甘酒もつくれたのでしょう。今も、ちくま味噌を作られているのです。知りませんでした。

もう一つは永代亭パンの会旧跡です。明治42年から44年頃まで青年文学者や芸術家たちがあつまり「パンの会」と命名しました。現在の交番隣あたりに、西洋料理店永代亭がありここを使ったようですが、高級な店ではなくポンポン蒸気船の発着所を兼ねた二階建て店でした。

パンの会」のパンは食べるパンのことだと思っていました。違ってました。ギリシャ神話の牧羊(牧畜森林を守る神)のことでした。バレエの「牧神の午後」が浮かびます。

パンの会の会員・上田敏、戸川秋骨、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、山本鼎、石井柏亭、倉田白羊、谷崎潤一郎、石川啄木、高村光太郎、等。(二代目左團次さん、初代猿翁さんも顔を出されていたようです)

とにかく深川は名を残した人など沢山の人々が住んでいました。そして様々の事件も起こり、芝居の舞台ともなっています。お寺も多いです。まだまだ確かめに行っていないところも多いのでリピートで散策を楽しめる場所でもあります。深川は広くてさらに『東海道四谷怪談』のお岩さんの流れついたとされる隠亡堀あたりとなるともっと東へ移動しなければなりません。ゆっくり地図で確かめつつ訪ねることにします。

さて上野から深川でしたが、上野から根津駅に行く途中も興味深い道筋でした。東京芸大美術館からすぐの交差点で、古い甘味処があり『桃林堂』とあります。さらに進むと寺院の門が左手にみえました。帰ってからふっと思い出しました。かなり以前、友人が上野公園周辺に御朱印をもらえるところが十か所あって、一か所行けないところがあったと。もしかして探せなかったのはここではないかと、護国院です。友人に電話するとどこをどう歩いたか混乱していて覚えてないといいます。地図を送ることにしました。

十か所(1か所で二つもらえる所があるので正確には九か所)全部がのっている地図をと探し、こことこことここ。人のことながら楽しかったです。

友人は御朱印の旅もままならず、近くの寺院の毎月変わる御朱印で我慢しているそうです。今、季節限定とか、月替わりの御朱印も多くなりましたからね。

上野公園で、九か所の内の一つ花園稲荷神社の前を通ったので、並ぶ鳥居の写真だけ撮ってみました。もちろん不忍弁天堂も入っています。

少しづつそっと、寺院めぐりをしたいものです。

上野から四世鶴屋南北終焉の地へ(1)

四世鶴屋南北さんの終焉の地が地下鉄東西線門前仲町駅近くにあり、以前から行きたいと思いつつ実行していませんでした。上野の東京芸術大学美術館から地下鉄千代田線根津駅まで徒歩10分とのことです。大手町で乗り換えです。

南北さんの終焉の地は、江東区牡丹一丁目にあります黒船稲荷神社なのです。深川です。黒船稲荷の境内に住んでいて傑作を残されました。今は狭いところに鳥居とお堂があるだけですが、江戸時代は「スズメの森」といわれて大きな木々が茂っていたようです。

案内板がないのかなと思いましたら鳥居を入って右手にありました。要約します。

「1755年、生まれは日本橋新乗物町で、父親は紺屋の型付(かたつけ)職人。幼名は源藏で狂言作者を志し、初代桜田治助の門下に入門。1804年、河原崎座の『天竺徳兵衛韓話(てんじくとくべえいこくばなし)』で大当たりをとり、作者としての地位を確立。『心謎解色糸(こころのなぞときいろいと)』『謎帯一寸徳兵衛(なぞのおびちょっととくべえ)』などを次々と発表。1811年、鶴屋南北を襲名。その後『お染久松色売販(おそめひさまつうきなのよみうり)』『東海道四谷怪談』などの傑作を書き続ける。1829年11月27日、黒船稲荷地内の居宅でなくなる。享年75歳。」

また一つ気になっていたことを終わることができました。ところがそれから地図上の旅が始まりました。

見づらいかもしれませんが門前仲町駅の少し上の朱丸の黒船橋を渡り黒船稲荷へ。近いです。下の方の緑の丸が富岡八幡宮。そして黄色の丸は『髪結新三』関連です。一番上に永代橋がああります。その橋を渡ったところのピンクの丸は赤穂浪士が討ち入り後に休憩した場所です。碑があります。永代橋を渡って泉岳寺へ向かうのです。

その下の三つの黄色の丸は下に福島橋とありその上が新三の住んでいた長屋のある富吉町です。

ずっと下がりますと法乗院で通称・深川のえんま様で閻魔堂があります。江戸時代から少し移動しているようです。黄色のは今はない富岡橋の位置がわからないのと閻魔堂橋が実際にあったのかどうか、富岡橋が閻魔堂橋のことなのかよくわからないのでにしました。

かつて訪ねたときには、閻魔堂橋前の場面の派手な絵看板がありぎょとしました。

白丸は、『東海道四谷怪談』の三角屋敷がこの三角の地域ということなので印をしました。

髪結新三』の「永代橋川端の場」で新三は忠七を足蹴にし置き去りにし永代橋を渡って深川に入り、富吉町の長屋に帰るのです。「富吉町新三内の場」で乗物町の親分・弥田五郎源七が新三にさんざん悪態をつかれ、「深川閻魔堂橋の場」での二人の切り合いとなります。南北さんじゃなく黙阿弥さんじゃないのと言われそうですが、『東海道四谷怪談』の北南さんの方が先に「三角屋敷の場」でこのあたりの場所を芝居にしていました。

さらにお岩さんと小仏小平の戸板を神田川の面影橋から隅田川を通って小名木川に入り込ませ、隠横十間川から隠亡堀へとのことなんですがはっきりしないので追いかけるのはやめます。隅田川から小名木川に引っ張ったというのが凄いです。

黙阿弥さん、当然知っていたと思うのです。まったく違う世話物で南北さんに挑戦、なんて考えるのも楽しいです。

切絵図ですといかに深川が川や堀で囲まれていたかがわかります。番号13・久世大和守の下屋敷が今の清澄庭園で、元は紀伊国屋文左衛門の屋敷があったところで、後に岩崎弥太郎が買い取り庭園にしました。

番号17の右手、黒の点々が小名木川です。

切絵図を拡大ルーペで観ましたら法乗院、富岡ハシ、三角の文字がわかりました。

江東区で出している『史跡を訪ねて』をながめていましたら、法乗院には、曽我五郎の足跡石があるようです。このあたり何回か散策していますが、伝説や旧跡あとがまだまだありそうです。

三世坂東三津五郎さんも住んでいたようです。富岡八幡宮そばの永木横丁と呼ばれた通りに住んでいて「永木の三津五郎」「永木の親方」といって親しまれたようです。

パソコンの画面から地図を写真に撮り、『史跡をたずねて」の地図からおそらくこのあたりだろうと予想をたてました。

永代通りの青丸が都バス富岡一丁目バス停です。その右の四つの茶色丸がおそらく永木横丁とおもいます。碑はないようでこのあたりに住んでいたということだけです。

南北さんも亀戸村に住んでいた時には「亀戸の師匠」と呼ばれていたそうです。

それにしましても南北さんは、黒船橋を渡った、お偉い方たちの下屋敷に囲まれた静かな森の中で書かれていたのですね。頭の中は静かどころか激しく回転していたことでしょう。

追記: 江戸切絵図の世間の世界へいざなってくださった柳家小三治さんが亡くなられました。私の中での三大噺家さん、古今亭志ん朝さん、立川談志さん、柳家小三治さん、皆さんがあちらへ行かれてしまった喪失感は深いです。生で聴かれたことは幸せでした。(合掌) 

上野・東京芸大美術館『みろく』展

東京芸術大学美術館で開催中の『みろくー終わりの彼方 弥勒の世界ー』展鑑賞のため上野へ。弥勒誕生の地ガンダーラからアフガニスタンのバーミヤン、中国の敦煌(とんこう)らを経て日本へ伝わりました。その地、その地で祀られていた周囲の様子や祀られかたやそこにあった弥勒像が復元されています。

A4フライヤー_ページ_1.jpg

上のフライヤーの弥勒はバーミヤンE窟仏龕天井壁画のラピスラズリで彩色した<青の弥勒>です。

A4フライヤー_ページ_2.jpg

一番上の弥勒は敦煌莫高窟第275窟の交脚弥勒菩薩像の再現です。足を交差させているのは初めて意識してみました。今まで見たことがあるかどうかさだかではありません。中宮寺や広隆寺の弥勒菩薩半跏像の原点と思える像もあったのですが上手く写真に撮れませんでした。

敦煌莫高窟57窟想定復元の弥勒。窟での独特の存在感です。

こんな場所におられた弥勒様の像の姿が様々な形で伝えられ日本に渡られて新たな姿として祈りの尊像となられたわけです。


東大寺中性院弥勒菩薩立像摸刻と室生寺弥勒菩薩立像復元摸刻をながめますと宝冠の飾りやアクセサリーや飾り物が豪華できめ細やかになっています。

復元、復刻と言いましてもその技術は素晴らしく、近くで鑑賞できますし、その美しさに満足しました。

芸大の美術館へ行く前に、不忍池弁天堂に宇賀神像があるということでそれを確かめさせてもらいました。おられました。弁天堂のまえに。先ずは確認できてひと安心です。

映画『ドアをノックするのは誰?』『ミーン・ストリート』

ドアをノックするのは誰?』はすでに書いているので、『ミーン・ストリート』から入ります。

ミーン・ストリート』は、ニューヨークに住むイタリア系アメリカ人の街の若者の姿が描かれています。イタリア人系の街といっても色々あるようで、映画はシチリア系の多く住む下町ということのようです。こういうことはそうなのかという感じでよくはわかりません。映し出されている祝祭は聖ジェナーロ祭でナポリ人のお祭りだそうです。地域によって守護聖人が違うらしいのです。

マーティン・スコセッシ監督の住んでいたところは組織的犯罪が網の目のように巣くっていて、逃れる術がなく自分が罪を犯さなくても周囲に犯罪が満ち溢れていたといいます。ある時、ドライブに行って家に帰った後、数分の差でその車が銃撃されたこともあったといいます。

主人公のチャーリー(ハーベイ・カイテル)は友人のジョニー(ロバート・デ・ニーロ)に手こずっていますが、自分がかばってやらなければあいつは生きていけないと思っています。

ジョニーはお金を借りまくりその場その場で言い訳したり返すと約束しますが、返さないというか返す気がないというかやっかいな人間です。チャーリーの口添えもあるからと貸し手のマイケルは待ってくれているのです。

観ていてもこのジョニーはどうしようもない人だとおもいます。トラブルメーカーです。何とかしようとするチャーリー。チャーリーは父親代わりの叔父からレストランを任されることになっています。叔父からジョニーとは手を切れといわれています。叔父には内緒で何とかしようとしているのにジョニーは、叔父さんに話してお金を都合してもらおうよとのたまいます。そんなことをすればチャーリーは自分のレストランの仕事もダメになってしまいます。

この街にいてはジョニーが危ないと、チャーリーは車でジョニーを連れ出します。しかし、お金を貸して踏み倒されたマイケルが追いかけてきて銃撃されます。命は助かりますが、この後この若者たちの明るい人生は難しいだろうと想像してしまいます。

この映画でロバート・デ・ニーロが主人公のハーベイ・カイテルの演技を食ってしまうということになりました。言ってみればそれくらいジョニーはやっかいな人物なのです。

この映画の前にコッポラ監督の『ゴッドファーザー』(1972年)がヒットしています。『ミーン・ストリート』は最初に上映されたのが二ューヨーク映画祭で、見た人たちが自分たちの街のようだったと声をかけてくれ、『ゴッドファーザー』よりもリアルだったという意見が多かったようです。

聖ジェナーロでの撮影の時教会の管理者から使用料を要求されたがお金がなくコッポラ監督が立て替えてくれ、映画が売れたのでコッポラ監督に借金を返せたということもあったようです。

スコセッシ監督は実際のストリートでは喘息もあり見ている側で、彼を落ち着かせてくれる場所が教会でした。司祭になろうとし神学校に通いますが成績が悪く放校。高校でもっと勉強したくなって、ニューヨーク大学の映画学科に進み、そこでバグダット出身のマーディク・マーティンと出会い誰も観ないようなマニアックな映画の話ばかりしていました。マーディク・マーティンは『ドアをノックするのは誰?』で助監督をし、『ミーン・ストリート』では共同脚本に参加しています。

マーディク・マーティンはスケールの小さなチンピラを描きたかったと語ります。登場人物はスコセッシ監督の家の近所に住む人がモデルなので、自分はストーリーを見つめる冷めた視線をたもっていたと。

スコセッシ監督は後になってチャーリーとジョニーの関係は父とその弟の関係であると気がついたといいます。いつも問題を起こす弟がいてそのたびに父は他の兄弟と親族会議を開いて何とかしようとしていたことが重なっていたようです。

問題を解決する際、暴力に走る人がいてそれに巻き込まれる人がいて、そんな自分の過ごした状況を映画という表現手段で提示したかったのでしょう。そこを吐き出さなければその場所を去り次に進めない。スコセッシ監督のそんな叫びが聞こえてくるようです。

ドアをノックするのは誰?』と『ミーン・ストリート』はセットとして考えるべき作品だとおもいます。登場人物たちの時間的経過。そしてスコセッシ監督の映画監督としての成長。

ミーン・ストリート』の日本公開は1980年で、『タクシー・ドライバー』が1976年ですから『タクシードライバー』が成功してスコセッシ監督の映画ということで公開されたのでしょう。ロバート・デ・ニーロとハーベイ・カイテルも出ていますし。

スコセッシ監督の作品の場合、監督の宗教性が問題になるようですが、そこはよくわかりませんので、スルーさせてもらっています。偶然にもスコセッシ監督の初期作品にめぐりあえたのはラッキーでした。

そしてこの時期から短い期間ですが、ハリウッドでの監督主導の映画が誕生していく時代でもあるのです。

追記: 映画『カムバック・トゥ・ハリウッド』(2021年・監督・脚本・ジョージ・ギャロ)は、1974年のハリウッドを舞台にしています。借金だらけのB級映画のプロデューサーがロバート・デ・ニーロ。死にたいと思っている老俳優がトミー・リー・ジョーンズ。映画大好きで映画製作にお金を貸すが取り立ても厳しいギャングがモーガン・フリーマン。映画に一途だと思っていたプロデューサーが詐欺を思いついたためにおかしなことに。映画の中で上映反対のデモまでされた映画『尼さんは殺し屋』が最後の最後に紹介されるのが粋なサプライズです。ジョージ・ギャロ監督が、大学時代『ミーン・ストリート』をみて映画学科に変更したといいますから縁がありました。

九月歌舞伎座『東海道四谷怪談』

最初から伊右衛門(仁左衛門)の悪にぶつかってしまいました。普通は徐々に伊右衛門の悪に引っ張られていくのですが、今回は伊右衛門から御主人のために薬を盗んだ小仏小平(橋之助)が捕まって、指十本を折ってしまえのひとこと。その嗜虐的残酷さは知っているのですがここから入られると一気に悪の世界の異常さに連れ込まれ、南北さんは凄いことをさせていると衝撃でした。

この悪の世界に迷い込んだお岩さん(玉三郎)。彼女のそのひとこと、ひとことのセリフから伝わってきます。すでに伊右衛門の邪険さは知っていますが、親のあだ討ちのためと我慢して耐えています。現代人としては、そこまで我慢してのあだ討ちが疑問になってきますが、武士の家族にとっては第一主義の重要なことなのでしょう。

そこへ、隣の伊藤家から子供の着物と、薬を届けてもらい、お岩さんにとっては地獄の中の仏のようなありがたさでした。お岩さんの様子から人の情けにほっとしたほのぼのとした心持ちがわかります。

それだけにこれが裏切りであったならお岩さんの恨みはいかばかりかということが想像できます。顔がみにくくなり、髪が抜け、それまで武士の妻としてつらくてもきりっとしていた姿は、見事に崩れていきます。その崩れ具合が、お岩さんの心も壊れてしまったのがわかりますが、母親としての心だけは維持していました。

それに比べて伊右衛門はこんな非道な人間もいるのかと思わせます。次々と悪道を考え出すのです。今回はその悪道のリアリティが濃かったです。

お岩さんが醜くなるのは薬が原因なのですが、お岩さんの心の恨みが爆発したようにも観えてくるのです。観るほうは、この後のお岩さんは死んで恨みをはらすのだと納得していて、恨みを晴らさずにいられるものかと待ち望んでしまいます。

残念ながら、今回はそれがありません。何か拍子抜けでした。それほど凝縮した濃厚な舞台でした。

伊右衛門の「首が飛んでも動いてみせる」のセリフがこれほどリアルに響くとは。そういう男なのよ伊右衛門は。神仏をも恐れぬ男なのです。仁左衛門さんの中に伊右衛門が入り込んでいました。まずいこれは。やはり伊右衛門をお岩さんの恨みで封じなくてはと思わせます。

その悪の世界に顔を出した直助の松緑さんも悪の世界を壊すことなく「首が飛んでも動いてみせる」のセリフを引き出しました。ここで悪が薄まっては台無しです。そして、成仏できない戸板のお岩さんと小仏小平。

そのあとのだんまりで、伊右衛門、直助(鰻かき直助権兵衛の小幅の足使い)、与茂七、茶屋女おもんの登場です。伊右衛門に不義密通の罪にされ戸板に打ち付けられたお岩さんと小仏小平は茶屋女おもん(玉三郎)と与茂七(橋之助)として登場し、お岩さん役者・玉三郎さんが美しい玉三郎さんとして復活したのはよかったのですが、やはり不完全燃焼に終わってしまったのが無念でした。それにしても凄い『東海道四谷怪談』でした。

今回の芝居でさらに確認しました。セリフで心の内を発することができますが、それだけではどうしても表すことはできません。それをもっと観客に伝えたい。そこから生まれたのが型であり身体での表現です。ある意味異形での表現となりますから、それが観客に自然な流れで伝え納得させるにはそれなりの技が必要になってきます。

それにしても、実際にあったとされる本所砂村に流れついた心中の死体と、不義をした妻の死体を杉板に打ち付けて流したという二つを結び付け、戸板返しで舞台で見せたという四世鶴屋南北さんはやはりただ者ではありません。

もちろんそれを舞台で再現する役者さんも。

宅悦(松之助)、伊藤家→喜兵衛(片岡亀蔵)、お弓(萬次郎)、お梅(千之助)、乳母おまき(歌女之丞)

ロジャー・コーマン監督とマーティン・スコセッシ監督(4)

ひょんなことからマーティン・スコセッシ監督の作品に行きあたり、ひょんなことからロジャー・コーマン監督がプロデュースする映画『明日に処刑を...』をマーティン・スコセッシ監督が撮ったということを知りました。

そのひょんなことというのは、マリリン・モンローの映画『ノックは無用』(1952年)を観て、題名が『ドアをノックするのは誰?』(1967年)という映画があるのを知り、どんな映画なのかと行きついたのがマーティン・スコセッシ監督の初期の映画です。そして映画『ミーン・ストリート』(1973年)につながりました。この二つの間に映画『明日に処刑を...』(1972年)が入っているのです。

全然違うところからの出発だったのですが、ロジャー・コーマン監督とマーティン・スコセッシ監督との関係が出てきましたので続けることにしました。

マリリン・モンローの『ノックは無用』には驚きました。その演技力に。その前にイブ・モンタンと共演の『恋をしましょう』(1960年)を期待して観たのですが、ここに至ってまで踊り子の可愛い女を演じさせられていて気の毒でした。プロですね。歌と踊りではしっかり魅了させてくれます。『ノックは無用』はもっと前の作品ですから同じタイプの女性かなと期待しませんでしたら、サスペンスで彼女が次第に異常さを増していくのです。今まで観たことのないマリリンでした。その変化の凄さに、この人の演技力をもっとわかってあげれる環境があればよかったのにと思いました。

ドアをノックするのは誰?』は、なんだかよくわかりませんでしたがこういうことなのかなと思いました。

若者が仲間うちでお互いの通じる世界の中で楽しんでいます。主人公はフェリーで一人の女性と知り合います。お互い好きになりますが女性の過去の出来事を告白され彼女を責めます。それは自分が招いたことだとして、許すから結婚しようといいます。女性は許すということはお互いにずーっとそのことにこだわり続けるわけでそれでは充分ではないといいます。主人公は彼女が求める人間性をつちかっていない自分にも怒りを感じます。教会に行き自分の気持ちを整理します。

そうなのであろうとの解釈です。ハーベイ・カイテルのデビュー作で彼の若い頃の演技を見ているだけで愉しかったです。若者たちのふざける場面のカメラの回し方。フェリーの待合室で出会う主人公の彼女への話しかけ方。二人が屋根上を行ったり来たりして過ごすデート。その切り替えての次の場面。その時間的スピード感が上手くいって先の見えない不安を抱えつつの明日話し合おうというラストも印象的です。明日も変わらないのでしょう。

この映画の脚本は、マーティン・スコセッシ監督がニュヨーク大学映画学科の卒業作品として書いたもので10分ほどの作品に4年かけて『ドアをノックするのは誰?』に作り上げた作品です。主人公はマーティン・スコセッシ監督がモデルで、他の登場人物もモデルがあるとのことです。スコセッシ監督は自分が過ごした街の様子を描きたかったようです。

俳優を広告募集し、その中にハーベイ・カイテルがいて彼は裁判所の速記者をしつつ演技を勉強していてダントツに上手かったようで主人公役となります。

この最初の短編は賞もとり一部の人には評判がよく、さらに劇場公開を目指して女性を加え、主人公の恋愛を入れてストーリー性をもたせます。その当時のアメリカは倫理規定が崩れ自由な表現を求めていて公開用にするなら裸がなくては駄目だとの意見があり、唐突に主人公と女性の登場人物とは関係のない女性との絡みの場面が入ってきます。主人公の妄想の場面ということなのでしょう。スコセッシ監督の絡みの撮り方はねちねちさがないのがいいです。

この映画の続きとして『ミーン・ストリート』となります。スコセッシ監督が撮りたかった自分と自分の育った街の人々が描かれています。

スコセッシ監督が自分も映画を作れると希望を与えてくれたのがジョン・カサヴェテス監督の映画『アメリカの影』です。この『アメリカの影』を一番最後に観てスコセッシ監督のその想いが納得できました。

映画『明日に処刑を...』を撮っていた頃、すでに『ミーン・ストリート』のことは頭にあったと思います。

スコセッシ監督は、ロジャー・コーマンから撮影のイロハを教わったといいます。

「週6日で24日間の撮影期間、朝6時から夜10時まで撮影。構図を考えリハーサルしろ。難しいシーンを最初に撮れ。B級映画を撮りきったのは重要なことだと考えた。仕事のコツがわかった。」

「ロジャー・コーマンからは計画性と規律をもって撮影することを学んだ。『ハネムーン・キラーズ』の時みたいに上手くいかず、首になることもなかった。『ウッドストック』では編集さえ完成しなかった。」

「ロジャー・コーマンによって、一つにまとまり監督としての段取りをつかめた。」

ドアをノックするのは誰?』は資金面のこともありますが、4年もかかっていますから。

ただ友人たちはあ然として、散々いわれたらしいです。カサヴェテス監督からは、最初の長編のような映画を撮れ、君は何をしていたんだといわれ、出演者への愛があるね、でもこんなの低俗だだろ?と付け加えられたようです。

映画『明日に処刑を...』はいわゆるギャング映画です。映画『俺たちに明日はない』を思い出させます。初めに<この物語はバーサ・トンプソンの実話に基づいています>とクレジットされますが、実際にはバーサ・トンプソンは実在しなかったいうはなしもあります。

1930年代、バーサは飛行機を操縦する父親を農薬散布の仕事中に亡くします。彼女は貨車に乗り町に出ます。そこで鉄道会社の労働組合員であるがビルに出会います。労組員は弾圧を受け、バーサとビルとその仲間4人はギャングに変貌します。バーサ以外は何回か捕まりますが刑務所から脱出し逃げ回りつつお金を奪います。そして最後はバーサの前でビルは貨車にハリツケにされ虐殺されてしまいます。必死で貨車を追うバーサ。

カサヴェテス監督が言った「出演者への愛がある」の言葉どおり、4人のギャングには不快感はありませんが暴力が暴力を生んでいくといった構図の中で行き場を失うという結果です。

スコセッシ監督が経験していないロケ現場でもあり、狭い街のさらなる狭い範囲の設定とは違い学んだものは沢山あったとおもいます。そして次に映画『ミーン・ストリート』が出来上がっていくのです。

スコセッシ監督は学びつつも自分の心に温めていたテーマは貫くのです。

ロジャー・コーマン流で新人たちの才能が開花していったのは興味深いことです。新人たちもロジャー・コーマンから学びつつ自分の手法を見つけ出していくたくましさがあったわけです。

映画『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』 (1986年)(3)

1986年版映画『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』のDVDには特典映像があり、ロジャー・コーマン監督も現れました。

二日で撮ったといわれる1960年版のそのことを語られています。

あるスタジオの関係者が昼食の席で「撮影が終わったばかりのセットがそのままある」というので、じゃそのセットで何か撮ろうということになった。「どのくらいで撮れる?」と聞かれたので「2日で挑戦してみよう。」と答える。

セットの手直しを終え、脚本家のチャック・グリィスと話し合って人食い植物の話を2週間で書き上げ、1週間分のギャラで役者を雇い、リハーサルは月曜から水曜日で、大方の撮影は木曜と金曜でほかに少し追加のシーンを撮り終了したと。

舞台も観に行っていて「気にいったよ。とにかく楽しくてテンポがあって、ナンセンスで、映画版のセリフも見事に生かされていた。」と監督は満足していました。

この映画を舞台にしたのがデビット・ゲフィンで、この方やり手です。ワーナー・ブラザーズ映画の副会長を5年間務め、その後、音楽業界に返り咲きゲフィン・レコードを立ち上げ、ジョン・レノン、エルトン・ジョンらが所属していたというのですから。

1960年版の映画は日本で劇場公開されていないのですから評判はよくなかったようで、あの映画を舞台にするとはと不思議がられたようです。ところがそれを当ててしまったわけです。

脚本・作詞がハワード・アッシュマンで作曲がアラン・メンケン。この後、二人は長編アニメ『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』でオスカーを手にし大活躍です。(アラン・メンケンは『アラジン』の途中で亡くなります。)3作品とも観ていませんので音楽を目的で鑑賞したいと思います。

舞台をさらに映画化した製作者がデビット・ゲフィンです。ワーナーから監督としてスピルバーグやスコセッシの名前も挙がったのだそうですが、ゲフィンは最初から低予算でのリメイクを考えていてそれを貫きました。

そして声を掛けられたのがフランク・オズ監督でした。最初フランク・オズ監督は断ったそうです。やることが多すぎてとても無理だと。ただコーラスの3人を舞台で自由に出入りしていたように、衣装を変えて映画的にどこにでも出現させればよいのだと思いつきやる気になったようです。

コーラスの3人は、1960年代の動きを習うためダンスレッスンを受け、それはステップではなく動きなので、すぐできる娘と苦労した娘とがいたと本人たちがコメントしています。時代を感じさせる動きということは踊ることよりも難しいかもしれません。でも踊らなかったのがやはりよかったです。

撮影はイギリスのスタジオでのセットで、当時としては最大規模といわれていた<007>のセットを飲み込む大きさだそうで、ダウンタウンのあの高架線に電車が走っていたのには驚きました。

セットは細かいところまでこだわり、ものすごい量の60年代の小道具がニューヨークから運ばれたようです。ゴミバケツなどは車に新しいのを積んで古いのと取り換えて集めたと。映画人のこのこだわりは映画への愛としか言いようがありませんね。どこの国でも。

ですからオードリーⅡなどは、大きさが7種類あって、最後は床下に30人が機械を使ったり、大きな梃子(てこ)や長いレバーを手で動かしたりしていました。なんせオードリーⅡのツルがレジを開け、コインを取り出し、電話にコインを入れて、ダイヤルを回すのですから。

フランク・オズ監督の狙いは、いかに観客を納得させるか。あまりわざとらしい演じ方だと観客はキャラクターに関心をもってくれないし、反対にあまり正攻法でもメロだラマになってしまう。目指したのは<誇張したリアリティ>。

ラストの撮り直しには、監督もアッシャマンも不満だったようですが最後は映画は観客のためにつくるものという結論にいたったようです。

観客の一人としましては、オードリーⅡにはどうやっても勝てると思えないシーモアが勝って、幼いころから苦労してきた二人が幸せになれたことにはやはり拍手ですね。