もぐらさんたち 【西行】

西行は、武芸・和歌・蹴鞠に優れていて鳥羽院の北面の武士として仕える。しかし、23歳(1140年)で妻子がありながら出家する。この時代出家しても世俗との関係は継続していたようであるが、西行は浮世を離れ仏道・山伏修行に身をおいたようである。出家の原因は鳥羽院と崇徳院親子をめぐる皇位継承らの争い、鳥羽院の中宮待賢門院への悲恋とも言われている。

待賢門院は1142年に仏門に入り1145年に崩御している。その後待賢門院の生んだ第四皇子が後白河天皇となるが、兄崇徳上皇と勢力が分裂し<保元の乱>となり崇徳院は讃岐に配流となる。西行は崇徳上皇の讃岐での崩御に心を痛め讃岐の崇徳上皇の白峰陵に詣でている。

崇徳院は「金葉集」「詞花集」の編纂を勅宣している。<瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思う>(川瀬の流れが早いので岩にせき止められた滝川の水は分かれてしまうがいつかは逢いたいと思う)は「詞花集」に収めらてていて百人一首の77番目の歌である。

百人一首の80番目に待賢門院に仕えた待賢門院堀川の歌が載っている。<長からむ心も知らず黒髪のみだれてけさは物をこそ思へ>(あなたが長く私を思ってくれるかどうかわからない。今朝の私は黒髪の乱れたように心がちゞに乱れてもの思いに耽っている。)

百人一首の86番目に西行法師の歌が。<なげけとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな>(嘆けと言って月が私を物思いにさせるのであろうか。まるでそうであるかのように流れ落ちる私の涙よ。)

待賢門院堀川と西行法師の歌は「千載集」からである。「千載集」は後白河院が勅宣して編纂されたものである。