新派 『葛西橋』 (2)

葛西橋」は北條秀司戯曲撰集によると今回の上演とは違う筋になっている。
おぎんと友次郎は友次郎が樺太に逃走する前に、ふたたび結ばれてしまう。その事をを菊枝は知ってしまい荒川放水路に飛び込むのである。菊枝は助かり、おぎんは友次郎に菊枝の事は任せておいてと葛西橋から友次郎を見送る。
昭和35年2月に明治座での初演は戯曲撰集の筋のままで上演されている。
昭和50年5月 新橋演舞場での公演では台本も全改訂と明記され今回の形となっている。

北條さんは花柳章太郎さんの芸を意識して書かれたのであろうが、15年を経過して大幅に改訂したのは時代の流れをも考慮したのであろうか。3役を一人で演じる変化の妙。そして、菊枝を姉の呪縛から自からの力で解き放つ女性として描く新しさ。昭和初期を回顧するだけではない新派の手探りがそこには見えるのだが。

横道にそれるが、菊枝が一時行方をくらました時泊まっていたのが<霊巌島(霊岸島)の舟宿>である。この霊巌島は現在の中央区新川一丁目・二丁目である。江戸時代埋め立てられそこに霊巌寺が建立され霊巌島と呼ばれるようになったようだが、【本所の灯り(3)】(8/23)2012年8月23日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)で出てきた霊巌寺と同じ寺である。

>霊巌寺は江戸六地蔵の一つで、寛政の改革を行った松平定信の墓がある。

明暦の大火で焼失し、現在の深川に移転したのであるが霊巌島の地名は残ったのである。深川だと永代橋を渡ると霊巌島につく。霊巌島には、霊岸島汽船発着所があり、房総・伊豆半島、大島、八丈島などへ船が通っていた。

菊枝はそこから伊豆に渡り友次郎のために身を売ろうとしたのである。誰にも知られないようにと考えたのであろう。新派全盛のころは、霊巌島と聴いただけでまだ観客はその地が浮かびあがったことだろう。

このあたりも北條秀司さんの東京に対する思いがあるようで、「東京慕情」三部作の『佃の渡し』『葛西橋』『百花園裏』は墨田川の東にあたり、埋め立てられた地に住む人々のしたたかさと悲哀を新派の芸で残そうとしたのである。

久保田万太郎さんの小説「きのうのこと」にふれ、喜多村緑郎らしき役者とただプラプラと深川界隈をあるいてまわっただけのことを書いたものだが北條さんは久保田さんの代表作品の中に指折っている。葛西橋・洲崎遊郭もよく歩かれたようでその 風景に馴染んでいる人々の生活を残そうとしている。洲崎遊郭に関しても、新派の長老の役者さんたちから話を聞いている。

『佃の渡し』『百花園裏』も台本で読んだが、『佃の渡し』などは、佃島を歩き、映画「如何なる星の下に」を観ていたので、その風景も加味してそこで育ったお咲の自分でも押さえきれない伝法なところが近い位置で感じる事ができた。

そんな事をつれづれ考えると歌舞伎役者春猿さんのおぎん・菊枝は艶やか過ぎるかなと考えたりもする。ただ澤瀉屋一門の息の合った三人であるのでそこはそこ、上手く納まったともいえる。新派の役者さんも三人に負けることなく奮戦していた。こうした経験のもとにこれからの新派の伝統と新しさを創造していって欲しい。