忠度(ただのり)・経正(つねまさ)の都落ち

清盛の弟、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)は都を去るとき歌の師である藤原俊成を訪ねて、世の中の乱れから数年歌の道を粗略にしていたわけではないが疎遠となっていたこと詫びる。自分は都を離れるが勅撰集のご沙汰があった時は一首なりとも入れていただきたいとお願いする。世の中が鎮まってから俊成は『千載集』の中に一首入れる。ただし帝からとがめを受けた平家の人なので「読み人知らず」と名を伏せ「故郷花(こきょうのはな)」という題の歌を一首。

さざなみや志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな

敦盛の兄であり、経盛の長男である経正(つねまさ)は仁和寺(にんなじ)の御室(おむろ)の御所に八歳から十三歳の元服まで稚児姿でお仕えていた法親王(ほっしんのう)にいとまごいに訪れる。法親王は戦の出で立ちなので遠慮する経正を庭から大床(おおゆか)まで上げさせる。経正は琵琶の名手でもあったのでお預かりしていた赤地の錦の袋にいれた琵琶<青山(せいざん)>を名残をおしみつつ、都に帰って来る事があればまたお預かりしますと言ってお返しした。

法親王はたいそうかわいそうに思われ歌を詠まれて一首おあたえになった。

あかずしてわかるる君が名残をば のちのかたみにつつみてぞおく

経正の返歌。

くれ竹のかけひの水はかはれども なほすみあかぬみやの中(うち)かな

この琵琶は仁明(にんみょう)天皇の御代に唐から伝えられた名器で、仁和寺の御室に伝えられたもので、経正は法親王の最愛の稚児であったので、十七歳のときこの名器を賜ったとある。

心に残るいとまごいである。

 

平家の笛

大原富枝の平家物語」を読み始めた。読みやすく、見逃していた細かいところに興味がいく。

高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)が大切にされていた笛のことなど。宮は<小枝(こえだ)>と<蝉折(せみおれ)>二本の笛を所持されていた。二本とも中国産の竹からできている。<小枝>は宮が御所から逃れる時忘れたのを信連が届け最後まで所持されていた。

<蝉折>は鳥羽院の時宋の皇帝から贈られたもので、蝉のような節のついた竹で作られた由緒あるもので、宮が笛の名手でいられたのでご相伝になった。宮はいまは最後と思われたので三井寺の金堂の弥勒菩薩に奉納されたとある。

よく知られているのは敦盛の<青葉>の笛であるが、「平家物語」では敦盛が熊谷次郎直実に討たれたとき身に着けていたのは<小枝(さえだ)>となっている。敦盛の祖父忠盛が鳥羽院から賜った名笛を父経盛からやはり笛の名手であった敦盛に譲られたとある。<小枝>が(こえだ)と(さえだ)の二通りの呼び方で二本の笛があるのが面白い。

須磨寺には、敦盛卿木像(熊谷蓮生坊作)と青葉の笛が展示されていて、青葉の笛の説明がつぎのようにあった。 [ 弘法大師御入唐中 長安青龍寺に於いて天竺の竹を以ってこの笛を作り給ひ 笛を加持遊ばされしところ不思議に三本の枝葉を生す。大師帰朝の後 天皇に献上。天皇青葉の笛と命名。後 平家につたわり敦盛卿の笛の名手にて愛玩。肌身放さずもつ。] 右に青葉の笛、左に細い高麗笛があった。この笛も敦盛所持の笛なのか。

平家の公達は歌・舞・音曲・御所での儀式のしきたりを心得、さらに武芸にも優れていなければならなっかたわけで、これらすべてを兼ね備えられるとしたらスーパースターである。頼朝が鎌倉に幕府を開いた意味もそこにあるのか。