『隅田川』 推理小説から歌舞伎まで (1)

葛飾北斎の「深川万年橋下」は、深川の小名木川から流れ込む隅田川を前方に描いている。その隅田川は人気者で様々のところで活躍している。

小旅行とかちょっとの電車の行き来ように文庫本を持つ。本の厚さ、字の大きさ、適度に文と文の間に空間、読み返さなくて良いほどの流れのものと、パラパラと開いて検討して持参するのである。そうして選ばれた本がまたしても、内田康夫さんの本『隅田川殺人事件』となってしまった。ああ、隅田川ねの軽い反応を反省させる広がりであった。

先ず、浅見光彦の住んでいる位置と母親の雪江夫人の浅草近辺を戦前、戦中、戦後の見てきた風景が判るのである。浅見光彦の住まいと言うより母と兄のもとに同居させてもらっている住まいは、東京北区西ヶ原で、飛鳥山に隣接している。飛鳥山は八代将軍吉宗がサクラなどを植え、江戸庶民の遊行地としたところである。音無川(石神井川)に掛かる音無橋の下は公園になっていて、飛鳥山からこの橋したあたりが光彦少年の遊びの縄張りだったようである。さらに先へ行くと、王子の地名の由来の王子神社があり、さらに進むと落語の「王子の狐」でお馴染み王子稲荷神社がある。源頼朝が太刀を寄進したともいわれ、関東稲荷総社の格式がある。

雪江夫人は「花」の歌から青春時代に行った隅田川を連想する。 ~春のうららの隅田川 上り下りの舟人が かいの雫も花と散る~  「花」は武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲である。明治33年で内田さんは明治33、34年の学校唱歌として、「荒城の月」「鉄道唱歌」「箱根八里」「おつきさま」「お正月」「うさぎとかめ」「はなさかじじい」などをあげている。参考までに附け加えるなら、滝廉太郎も演奏した上野にある旧東京音楽学校奏楽堂は残念ながら建物が古いため現在は公開されていない。その建物前にある滝廉太郎像は朝倉文夫作である。建物が修復され公開されると良いのだが。

雪江夫人は戦中は空襲のため火を逃れて隅田川に飛び込んだ人々が亡くなった様子を聞き、その無惨さに隅田川に近づくことを頑なに拒否しつづけている。ところが、隅田川での殺人事件に雪江夫人の知人が関係し、光彦と隅田川や浅草を訪れることとなるのである。この殺人事件、吾妻橋から出ている水上バスで行く浜離宮とも関係があり、読みつつ行った所を思い出していた。浜離宮は『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』の御浜御殿である。浜離宮の横を流れている築地川は昭和20年代には新橋演舞場の後ろを流れていたのである。この一冊だけで、再び新旧の東京見物の一部が出来てしまうのである。

~見ずやあけぼの 露あびて われにもの言う桜木を~  隅田川で手を合わせてから、桜の時期の水上バスもいいであろう。飛鳥山公園の桜もいい。もう一つ出てくるのが、能の『隅田川』である。<愛するわが子・梅若丸を人買いに連れ去られて、物狂いになった母親が、都からはるばる東国にやってきて、隅田川のほとりで梅若丸の幽霊に出会う> そう来れば、こちらとしては、中村歌右衛門さんの『隅田川』のDVDを見ないわけにはいかなくなるのである。