源氏物語 『末摘花』 (2)

歌舞伎の『末摘花』は北條秀司さんが、十七代目中村勘三郎さんのために書かれた戯曲である。北條さんは『末摘花』『浮舟』『藤壺』を書かれていて<北條源氏>と言われている。『源氏物語』を訳されたり芝居などにする場合、それに携わったかたの考えかた、想いが色濃く反映され<〇〇源氏>と言われるゆえんであり、それだけ様々の解釈を受け入れるだけの大きさのある作品ということであろう。どう解釈されようとビクともしない作品であると同時に柳のように風に逆らうことなくユラユラと揺れ、余りに酷いときは、亡霊をそっと柳の後ろから出現させるかもしれない。

私の録画は平成13年(2001年)12月歌舞伎座であるが、40年ぶりの再演だそうで、40年前となると、昭和36年(1961年)頃である。<末摘花>は勘三郎(十七代目)さんで、<光の君>は歌右衛門(六代目)さんである。『隅田川』のベストコンビである。

勘三郎(十八代目)さんと玉三郎さんもベストコンビであった。歌舞伎の<末摘花>は、最終的には自分の生き方を自分で決める、賢い姫である。

光の君が須磨から京に戻られたのに末摘花のところへは音沙汰がない。そんな時、東国の受領である雅国(團十郎)が宮家の姫であるのに自分のような者にも隔てなく琴など聞かせてくれ、その心根に惚れ求婚するのである。雅国は眼が不自由でその治療のため都へ来たのだが治らないと宣告され、明日東国に帰るため一緒に来て共に余生を送りたいと願うのである。この雅国の團十郎さんがこれまた素敵なのである。末摘花の本当の人柄を見抜いていることが、よく伝わる誠実さである。末摘花は光の君を待つ覚悟でありその話を断るのである。

雅国が帰った後、光の君から文が届く。今日姫を訪ねて、さらに二条院へ引き取るというのである。末摘花も姫に仕える人々も驚き喜び大慌てである。ところがこの手紙は花散里へ渡すべきものを、光の君の従者(弥十郎)が間違えて末摘花に届けてしまったのである。それを知った侍従(福助)は姫君に本当のことを伝えることが出来ず下がってしまう。いくら待っても来ない光の君。一人で待つところへ、手紙を間違えた従者が現れ本当のことを話してしまう。末摘花は黙って間違えた文を従者に渡すのである。

傷心の末摘花に侍従は光の君がお出でになったと告げる。いよいよ光の君が惟光(勘九郎)を伴って花道より現れる。優雅に周りの景色を眺めつつ、こんなに末摘花の住まいは朽ちてしまったのかと感慨深げでもある。

光の君を前にすると末摘花は何も話せない。侍従が一生懸命姫と光の君との間を取り持つ。光の君は姫は変らないねぇと姫の子供っぽさを笑いつつそのままでいいのだよと安心させる。姫は侍従に勧められ琴を披露する。光の君は逢った時の心持に返るのだが、笛の音に誘われ月までもが都では艶めかしいと言って庭に出る。光の君は全ての美しいものにすーっと心惹かれるのである。その場その場で。庭の祠の前に石が積んでありこれは何かと尋ねる。侍従がそれは姫様が、光の君様が須磨に行かれてからその祠に光の君の無事を祈り、その度に石を積み上げていたと伝える。光の君はないがしろにしたことを謝りその夜は末摘花のもとで過ごすのである。

次の朝、光の君と惟光が帰リがけ、侍従が花散里のもとへ行き少しの時間でいいからと光の君に願い出て、足を運んでもらったことが解る。惟光は、その場の状況で人の心に触れると合わせてしまう光の君をなじる。紫の上様は何ですか。あれは私の夢だ。花散里様は。あれは別だ。明石の君様がこちらに来たら。その時はその時で考えよう。その時その時が真実であるという光の君の人間性をよく理解したのが末摘花で、雅国のもとへ行こうと決心するのである。

友人の言う 「光源氏の玉三郎さんも、はまり役だね。末摘花の女性としての可愛らしさと切なさが、なんとも言えないものがあるねぇ(笑)」 がここなのである。好きになった人が、美しいものに魅かれるとあちらに行き、こちらに行く。それを停めるとその人でなくなるのである。しかし自分はそれには耐えられないであろう。自分は東国で、光の君様のこれからの繁栄を石を積んでお祈りしようと自分に言い聞かせるのである。

この芝居を観たとき、観た人達で盛り上がったものである。末摘花は賢い。雅国と結ばれるほうが幸せになれる。團十郎さんの雅国は素敵だもの。それにしても、憎めないのが玉三郎さんの光の君。あれは演じ方によっては、単なる浮気者よ。そうならないところが、さすが。勘三郎さんの末摘花はきちんと最後は泣かせて決めたわね。同情ならいらないわ。

友人は自分の体験から次のように附け加えている。

「 実は、私は、末摘花で? 10年位、皮膚科に通院しているんです(笑)。鼻の頭が赤くなり、吹き出物もできやすく大変でした。現在は、ほとんど完治状態ですが、まだ薬は、飲んで通院しています。鼻の頭の血管が開いてしまい、そこにアレルギーが加わり赤くなってしまったのです。薬で治らない場合は、血管を焼く事もあるようですよ(笑) 私は薬でなんとか済みそうです。末摘花も現代なら~紅花なんて言われなかったでしょうに・・・・。可愛そうに!他人事ではないわ(笑) 」

源氏物語 『末摘花』 (1)

ブログを読んでくれている友人が、どこで紹介したのか忘れたが、円地文子さんと白洲正子さんの対談集 『古典夜話 ーけり子とかも子の対談集ー 』が面白かったと言ってきた。ちなみに勝海舟の『氷川清話』は半分で閉じたそうである。

『古典夜話』を読むとやはり<源氏>を読まなくてはと思わされ、どこから入ろうかと思案し、『末摘花』から入る事とする。なぜか。歌舞伎の『末摘花』がパッと浮かんだからである。勘三郎(十八代目)さんの末摘花と玉三郎さんの光源氏である。友人は歌舞伎を観た事がなく、かなり鄙びたところに住まいしているため簡単には観劇できないので、『末摘花』は録画してあり、それをダビングして送ることとした。

そんなこんなで、本のほうは、読みやすい村山リウさんの 『源氏物語 ときがたり 』とする。村山源氏 と古本屋で出会って1年と3ヶ月がたち、やっとひも解くこととなる。<末摘花>というのは<紅花>のことである。<紅花>といえば高畑勲監督のアニメ『おもひでぽろぽろ』である。紅花は棘があり茎の先についている花を上手く摘まなくてはならないので<末摘花>とも呼ばれるのだそうで、『おもひでぽろぽろ』の主人公はその紅花を摘みたくて自分探しの旅にでるのである。

『源氏物語』の末摘花は旅にでることはない。彼女の鼻は紅花のように赤いのである。彼女はじっーと光源氏を待つのである。

夕顔を忘れられないでいるのに珍しい話を聞くと心動かす源氏である。亡き常陸宮(ひたちのみや)の姫君が荒れた大きな屋敷に一人寂しく暮らしていると聞き、その屋敷に出入りしている女官の命婦に手引きさせ姫のお琴を聞く。上手とはいえないが、手筋は良いと源氏は思い想像をたくましくさせ、次に歌を送る。ところが返事が来ず、頭少将も求愛者と知り、源氏は積極的な行動に出て、次に訪ねたときは、ふすまをあけてなかに入ってしまわれた。その後、返歌も面白味がなく、再度の訪れまで時間がたち、気になって朝の雪見をしましょうと姫を誘いだされた。その時、姫の姿と赤い鼻を見てしまう。源氏はこの時、自分しかこの姫の面倒をみる者はないと自分に言い聞かせるのである。それでいながら源氏は自分の鼻を赤くぬり、若紫に色が取れなくなると心配させ、たわむれるのである。紅梅の色に常陸宮の姫君を思い出し、< なつかしき色ともなしに何にこのすえつむ花をそでに触れけむ >としてこの姫を<末摘花>と呼ぶのである。

末摘花はこの後、『蓬生(よもぎう)』で再登場する。『紅葉賀』『花宴』『葵』『賢木』『花散里』『須磨』『明石』『澪標』の後である。源氏は住みづらくなった自分の周辺の様子を察し自ら須磨へ身を引く決心をする。青春真っ只中の源氏はここで身を引くことにより、青春と別れ大人になって行く時期でもあった。人の結びつきのはかなさも分かり、再び京にもどった源氏は末摘花の事を思い出し、もう居ないであろうと訪ねてみると、朽ちた屋敷で末摘花はじーっと待っていたのである。源氏はそれから2年後二条東の院へ末摘花の君を引き取るのである。この<末摘花>は出てはこないが『末摘花』から『蓬生』までを<末摘花>の完結として考えた方が良いとの意見がある。私も読んでいて、源氏の人としての成長が<末摘花>を扱う考え方に変化を与えたと思うし、紫式部も<須磨>の前に意識的に<末摘花>を持ってきたように感じる。

さてさて、歌舞伎の『末摘花』は原作とは違う、これまた素敵な<末摘花>なのである。

友人からのメールを本人の了解を得て紹介しておきます。

「昨夜、『末摘花』見終わりました。旧勘九郎さんの末摘花は、私が勝手に想像していた姫の姿とぴったりで、楽しく見ました。光源氏の玉三郎さんも、はまり役だね。末摘花の女性としての可愛らしさと切なさが、なんとも言えないものがあるねぇ(笑)。」

 

 

 

『隅田川』 推理小説から歌舞伎まで (2)

私がDVDで観た歌舞伎『隅田川』(清元)は、斑女の前(はんにょのまえ)が六代目中村歌右衛門さんで、舟人が十七代目中村勘三郎さんである。そして清元が清元志寿太夫さんである。驚いた。歌右衛門さんの動きと志寿太夫さんの清元が見事に合っている。歌右衛門さんが描く世界と志寿太夫さんが語る詞がぴったり重なっている。さらに舟人の勘三郎さんが、全く無駄のない動きで歌右衛門さんに寄り添っている。歌右衛門さんが我が子を探し、その死を知った時の悲嘆と狂気を演じられているそばで、どうする事も出来ずに支えたり、落涙する姿の勘三郎さんは演じているのではなく、演じられている歌右衛門さんの芸の流れに乗っているだけにみえる。それほど演じているとは思えない芸なのである。

斑女の前が花道から、白い小さな花の枝を手にし、打掛の片外しで塗り笠を背負い、尋常では無い姿で登場する。静々と何かに導かれるような出である。京の都の白河から人商人(ひとあきびと)にさらわれた我が子を探し訪ねて隅田川にたどり着いたのである。花道で塗り笠を鏡に見立てて髪を直すあたりなども、如何に苦労してたどり着いたかがわかる。来合わせた舟人との問答になり、飛び交う鳥に対し、業平の <名にし負はば いざこと問わん 都鳥 わが思ふ人は ありやなしや> の歌にかけて母親は問う。舟人は、去年旅の疲れから倒れた子供を人買いが置き去ったと話す。その子の国は都の白河、父の名は吉田、年は十二歳、その名前は梅若丸とわかる。お二人の聴く親と語る舟人の動きが美しい。悲しい話がもっと切々と伝わる。

舟人はその子の埋められた対岸まで斑女の前を舟に乗せ連れて行く。梅若丸の墓は < 今はこの世になき跡に 一本(ひともと)柳枝たれて 千草百草しげるのみ > 母は、ここを掘って亡骸でいいから一目会いたいと嘆く。 舟人はそれを止め、念仏を唱えてやりなさいという。舟人は道端の花を摘み母親に渡す。その土墓に母は自分の打掛を掛けてやり母は自分の髪の乱れを手で撫でつけ気持ちも新たに念仏を唱えるがその念仏の声の中に梅若丸の声があったとして気がふれて梅若を探しまわる。花道で我が子を何度となく抱こうとする母。どうする事も出来ず涙する舟人。勘三郎さんの情が歌右衛門さんの芸を際立たせる。

< 幻の 見えつ隠れつするほどに 空ほのぼのと明けにけり > 土墓に掛けた打掛を撫ぜ、悲しみゆえに身をよじり握りしめる斑女の前に上る朝日の光が紫炎となって射すのである。

隅田川七福神の多聞寺と白髭神社の間の木母寺は梅若伝説のお寺で、境内には梅若塚とガラス張りの梅若堂がある。また、そばの梅若公園には晩年を向島で過ごした榎本武揚像がある。

そして隅田川の対岸には、梅若の母が梅若の死を知り尼となり妙亀尼と称し庵を結んだとされ、その伝説の塚として妙亀塚がある。二つの塚を結ぶ橋としては白髭橋が近いであろう。

 

『隅田川』 推理小説から歌舞伎まで (1)

葛飾北斎の「深川万年橋下」は、深川の小名木川から流れ込む隅田川を前方に描いている。その隅田川は人気者で様々のところで活躍している。

小旅行とかちょっとの電車の行き来ように文庫本を持つ。本の厚さ、字の大きさ、適度に文と文の間に空間、読み返さなくて良いほどの流れのものと、パラパラと開いて検討して持参するのである。そうして選ばれた本がまたしても、内田康夫さんの本『隅田川殺人事件』となってしまった。ああ、隅田川ねの軽い反応を反省させる広がりであった。

先ず、浅見光彦の住んでいる位置と母親の雪江夫人の浅草近辺を戦前、戦中、戦後の見てきた風景が判るのである。浅見光彦の住まいと言うより母と兄のもとに同居させてもらっている住まいは、東京北区西ヶ原で、飛鳥山に隣接している。飛鳥山は八代将軍吉宗がサクラなどを植え、江戸庶民の遊行地としたところである。音無川(石神井川)に掛かる音無橋の下は公園になっていて、飛鳥山からこの橋したあたりが光彦少年の遊びの縄張りだったようである。さらに先へ行くと、王子の地名の由来の王子神社があり、さらに進むと落語の「王子の狐」でお馴染み王子稲荷神社がある。源頼朝が太刀を寄進したともいわれ、関東稲荷総社の格式がある。

雪江夫人は「花」の歌から青春時代に行った隅田川を連想する。 ~春のうららの隅田川 上り下りの舟人が かいの雫も花と散る~  「花」は武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲である。明治33年で内田さんは明治33、34年の学校唱歌として、「荒城の月」「鉄道唱歌」「箱根八里」「おつきさま」「お正月」「うさぎとかめ」「はなさかじじい」などをあげている。参考までに附け加えるなら、滝廉太郎も演奏した上野にある旧東京音楽学校奏楽堂は残念ながら建物が古いため現在は公開されていない。その建物前にある滝廉太郎像は朝倉文夫作である。建物が修復され公開されると良いのだが。

雪江夫人は戦中は空襲のため火を逃れて隅田川に飛び込んだ人々が亡くなった様子を聞き、その無惨さに隅田川に近づくことを頑なに拒否しつづけている。ところが、隅田川での殺人事件に雪江夫人の知人が関係し、光彦と隅田川や浅草を訪れることとなるのである。この殺人事件、吾妻橋から出ている水上バスで行く浜離宮とも関係があり、読みつつ行った所を思い出していた。浜離宮は『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』の御浜御殿である。浜離宮の横を流れている築地川は昭和20年代には新橋演舞場の後ろを流れていたのである。この一冊だけで、再び新旧の東京見物の一部が出来てしまうのである。

~見ずやあけぼの 露あびて われにもの言う桜木を~  隅田川で手を合わせてから、桜の時期の水上バスもいいであろう。飛鳥山公園の桜もいい。もう一つ出てくるのが、能の『隅田川』である。<愛するわが子・梅若丸を人買いに連れ去られて、物狂いになった母親が、都からはるばる東国にやってきて、隅田川のほとりで梅若丸の幽霊に出会う> そう来れば、こちらとしては、中村歌右衛門さんの『隅田川』のDVDを見ないわけにはいかなくなるのである。

 

太田記念美術館 『葛飾応為』

<父は北斎 知られざる異才の女絵師>

葛飾応為(かつしかおおい)は北斎の三女でお栄(阿栄)とされている。太田記念美術館で2月1日から26日まで、応為の「吉原格子先之図」が公開されていてぎりぎり間に合った。吉原和泉屋の張見世の夜の場面、張見世の格子中の様子とそれを眺める外のお客の様子が灯りの<光と影の美>として捉えられている。

格子中も明るいところと影になる部分があり、外は外で、提灯の灯りと照らす部分と影となる部分の立体感が絶妙である。この浮世絵(肉筆)が応為の作品と判明するのは、三つの提灯に<応><為><英>と書かれているので応為の作品であると分るのだそうで、これまた味なことをされる方である。

北斎は数えるのが大変なくらい引っ越しをしていて暮らしも大変だったらしい。北斎と応為の姿が描かれている「北斎仮宅図」を見ても、北斎は布団をかぶり、どう見てもお二人とも絵師としての才と生活の才が均等ではないように見受けられる。

応為の「夜桜美人図」は江戸博物館の『浮世絵展』に展示されていたようであうが、あの広さの作品の多さに対峙する元気がなかったので行かなかった。それと、この作品はメナード美術館が所持しているので、そちらでお会いしたい。ただ、ボストン美術館所蔵の「三曲合奏図」は『ボストン美術館浮世絵名品展 北斎』で9月に巡回で東京にくるらしいのでそれは見ようと思う。市川猿之助さんが音声ガイドナビゲーターであるからして、楽しみが増えた。

今回の太田記念美術館での浮世絵は夜の作品に主眼があって、こういう限定された展示はそこに視点が集中して、浮世絵師の夜の作品への取り込み方の違いや、こういうふうに夜を表現するのかと大変楽しく見ることが出来た。そして、引き返して応為の<異才>を改めて味わった。

北斎の「深川万年橋下」のカーブした万年橋の間から見える富士もよかった。ちょっとここで歌舞伎につながるが、二月歌舞伎座の『心謎解色糸』の米吉さんと廣松さんの芸者の雰囲気の違いが面白かった。米吉さんの小せんは菊之助さんの芸者小糸の動きや台詞によく反応するが、廣松さんのお琴はでんと構えている。そしてお琴の台詞の時思ったのである。廣松さんは辰巳芸者を意識しているのかと。筋書で米吉さんは小糸の妹分として世話を焼く立場と考え、廣松さんは(粋と侠気で知られる)辰巳芸者を工夫する考えを述べられている。なるほどである。

辰巳芸者と言えば、『梅ごよみ』の芸者仇吉の玉三郎さんと芸者米八の勘三郎さんである。あの意地の張り合いがもう観られないのかと思うと、目が潤んでくる。でも若い人たちが一つ一つ学んでいってくれれば花開く日は来るであろう。

応為にも辰巳芸者のような、女絵師としての張る意地を感じてしまう絵師である。