歌舞伎座 3月『菅原伝授手習手習鑑』(2)

桜丸は、何を仕出かしたのか。桜丸は、醍醐天皇の弟の斎世親王(ときよしんのう)の舎人(とねり)である。斎世親王と菅丞相の娘である苅屋姫(かりやひめ)は恋仲で、桜丸夫婦は気を利かして、二人の逢引の手助けをし牛車に乗せてしまう。加茂神社での神事中の逢引で、斎世親王(萬太郎)知れては辱めを受けると、苅屋姫(壱太郎)とともに姿を隠してしまう。

それを、左大臣の藤原時平は、菅丞相が自分の娘を親王と結ばせ、皇位を奪おうとしていると讒言するのである。そのことにより菅丞相は大宰府に左遷となる。桜丸夫婦の好意はとんでもない方向に進んでしまう。長閑な色香を添える梅の咲き誇る<加茂堤>に残された桜丸の妻・八重(梅枝)が、動かぬ牛に難儀して牛車を引き帰るところが皮肉にも笑いを誘う。

菅丞相の館には、職場恋愛で勘当になった式部源蔵夫婦が、菅丞相に呼び出され訪ねてくる。この夫婦と松王丸の夫婦は、後に不思議な糸で結ばれ対峙することとになる。この<筆法伝授>での源蔵夫婦は染五郎さんと、梅枝さんで、後の<寺子屋>の源蔵夫婦は松緑さんと壱太郎さんで、松王丸夫婦が染五郎さんと孝太郎さんである。

菅丞相の妻・園生(そのえ)の前は二人の様子から、浪人となって困窮していることを悟る。魁春さんは心痛めつつも、菅丞相の妻としての品格と威厳を保つ。

学問所で菅丞相と対面する源蔵。逢いたい人であるのに、静謐な深さを醸し出す仁左衛門さんの菅丞相に対面すると、ただただ畏まってしまう源蔵の染五郎さんである。菅丞相は、源蔵が、寺子屋を開きつつ、筆を捨てていないことを知ると、自分の手本を写すように命じる。ありがたくも机と書道具を借り受けた源蔵は、兄弟子の希世(まれよ)に邪魔されつつ書き上げる。ここで、喜劇的邪魔する希世(橘太郎)を入れることによって、そんな状況でも書き終え、腕の落ちていない源蔵の字を確かめ、菅丞相は、筆法を伝授するのである。しかし源蔵は、筆法伝授よりも、勘当をといて欲しいと食い下がる。菅丞相は、静かにきっちりと「伝授は伝授、勘当は勘当。」と告げる。この場面は感涙する。

菅丞相は、宮中からの呼び出しがあり、源蔵夫婦は参内する菅丞相を陰ながら見送るのである。

屋敷に戻る菅丞相は、藤原時平の讒言により装束を脱がされ、罪人の扱いで、静かに、外には見せぬ憂いを内に秘め屋敷の中に消える。屋敷の門には、太い竹が打ちつけられ閉ざされる。源蔵は、菅丞相の息子、菅秀才の今後の身を案じ、菅丞相に仕える梅王丸から預かるのである。

桜丸の心中はいかばかりであろうか。こともあろうに、かつての父の主人で、三つ子が生まれたとして名前までつけて貰った菅丞相を、大宰府に流す原因を作ってしまったのである。

そして、筆法を伝授されても、会う事も適わず、今また、菅丞相の流罪を知った源蔵。後は、菅秀才を守り抜くことだけである。

 

歌舞伎座 3月『菅原伝授手習鑑』(1)

菅原道真公を中心に据えた、通し狂言である。道真公は、醍醐天皇の御代、右大臣の地位にありながら大宰府へ左遷させられてしまう。その史実を土台に、道真公が名前をつけた三つ子、筆法を伝授した式部源蔵、そして家族との別れを加え膨らませた名作である。

今現在、当代仁左衛門さんしか考えられない菅原道真公(菅丞相)と、道真公を慕う人々を演じる次世代のぶつかり合いでもある。次世代のリアル過ぎると思われる役への思い入れも感じられたが、そのリアルさが、時間とともに深みある芸となり形となって行くのであろうと想像した。そして、思いを一つ一つ確認している姿から、こちらが見落としていたことなども気づかされる。

この名作も悲劇が次々と展開されるため、その場面ごとで上演されても、一つの悲劇が普遍的な問題性を提示させるだけの力のある作品である。それでいながら、芝居の随所に可笑し味を提供してくれて、肩の力を抜いてくれるようになっている。

菅丞相(かんしょうじょう)に名前を付けてもらった三つ子の、松王丸、梅王丸、桜丸は、それぞれが仕えた主人が違うことによって、政争に巻き込まれ、それぞれの木として自らの道を進まなければならなくなる。そのことが「梅は飛び桜は枯るる世の中に何とて松のつれなかるらん」と読んだ菅丞相の歌に重ねられる。道真公が実際に読まれた歌ではないが、歌人としても優れていた道真公と菅丞相とを重ね合わせる芝居の妙味でもある。

肩の力を抜く場面で音楽的リズム感とも相まって楽しいところで、一番こちらが楽しかったのは、父親の70歳のお祝いで実家での、梅王丸と松王丸の兄弟喧嘩である。相対する主人に仕えているという事よりも、親元に帰り、子供の頃もあったであろう、稚気あふれる喧嘩の可笑しさである。さらに、無量寺での芦雪さんの虎図と龍図を重ねてしまったのである。虎が梅王で、龍が松王である。あの襖絵から飛び出したらこの二人のような喧嘩になると思えたのである。

愛之助さんの梅王は、まだ幼さの残るそれこそ、飛べもしないのに飛ぶぞと飛んでしまう虎である。染五郎さんのほうは、何を小癪なと思いつつも、弟の向こう見ずなけしかけに乘ってしまう龍である。龍は飛べるのであるが、その力を出しては公平でないとばかりに絡みつく。そんな様子が浮かび、梅王と松王に乗り移ったらこんな楽しい喧嘩であろうと思って楽しかった。そして、桜の枝を折ってしまう。桜丸は兄弟喧嘩のできない立場である。稚気は消え薄せ、自分の責任問題に決着をつけなければならない立場に立っていたのである。その辺りのアップダウンの構成も上手くできている。

三人は実家での<賀の祝>の前の<車引>の場で顔を合わせるが、桜丸の菊之助さんは、どこか憂いがある。梅王丸は菅丞相に仕えていて、その主人が左遷となったのは、この車に乗っている藤原時平の懺悔からであるから敵という思いで怒り怒りであるが、桜丸は梅王と同じに怒りを表に出せない。それは、菅丞相の流される原因を作ってしまっているのである。松王は、時平に仕えているから、弟二人を相手に、自分の主人に何事かと立ち向かう。善悪でいうなら、松王は悪である。その三人三様の立場での太棹に乘った、様式美の場面である。この場面の菊之助さん、愛之助さん、染五郎さんが、役柄に相まって生き生きとしている。

しかし、桜丸と松王丸の悲劇が、後を追っている。