『大佛次郎記念館』は鞍馬天狗

谷崎潤一郎展』の帰りに、大佛次郎記念館に寄る。時間が無かったが、『鞍馬天狗』関係の展示があるようなので、軽く見学する。『鞍馬天狗』のコレクターの故・磯貝宏國さんが、コレクションを寄贈され、その第一回目の展覧会というこである。嵐寛寿郎さん主演の映画ポスターや、映画館の週報、メンコなど、いかに大衆に愛されていたかがわかる。

落語家の林家木久扇さんの「私と鞍馬天狗」の寄稿文も展示されていた。「杉作!日本の夜明けは近い!」は、木久扇さんの造語とのこと。杉作とくれば、美空ひばりさんの杉作と歌を外すわけにはいかない。

木久扇さんの『木久扇のチャンバラスターうんちく塾』にはお世話になっているがその本でもトップバッターは嵐寛寿郎さんである。何作目の作品かは忘れたが、軸足一本でくるくるまわりながら斬っていくのに驚いたことがある。殺陣も様々に工夫されたようだ。大佛次郎さんは嵐寛寿郎さんの映画に不満があり、自分で制作されたが、やはりアラカンさんでなくてはと、鞍馬天狗ファンは納得しなかったようである。

『徳川太平記 吉宗と天一坊』(柴田錬三郎著)の解説を書かれた清原康正さんが、その解説の中で、2003年に県立神奈川文学館で「不滅の剣豪3人展 鞍馬天狗、眠狂四郎、宮本武蔵」が開催されたことを紹介されている。それぞれの原作者は大佛次郎さん、柴田錬三郎さん、吉川英治さんである。清原さんは、「眠狂四郎」について一文を寄稿され柴田錬三郎さんの死生観にも触れている。この三剣豪の中できちんと映画を観ていないのが『眠狂四郎』である。観ていないのにイメージが固定化されていて観たいとおもわないのでる。『徳川太平記 吉宗と天一坊』を読んで柴田錬三郎さんの面白さに触れれたので、時間を作って観たいとは思っている。

『徳川太平記 吉宗と天一坊』の中に、盗賊<雲切仁左衛門>が出てきて、こちらの方は、五社英雄監督の『雲霧仁左衛門』(池波正太郎原作)をレンタルしてすぐに観た。時代劇映画に関してはまたの機会とする。

『鞍馬天狗』も一冊くらいは、原作を読んでおいたほうが良いのかもしれない。

話しは飛ぶが、嵐寛寿郎さんと美空ひばりさんの関係書物で竹中労さんがお二人のことを聞き書きも含めそれぞれの本にされている。これはなかなか面白い。嵐寛寿郎さん(「鞍馬天狗のおじさん 聞書アラカン一代」)のほうが飾りなく豪胆に話され人柄がよく出ていて好著である。

その竹中労さんのお父さんが画家であることを知った。山梨県の甲府は太宰治さんが新婚時代を過ごした町でもある。その間、甲府にある湯村温泉郷の旅館明治で、太宰さんは滞在し作品を書いている。そのため、太宰さんの資料も展示されているということなので、山梨県立美術館へ『佐伯祐三展』を観に行ったおり、寄って、見させて頂いたのである。その帰り道に『竹中英太郎記念館』の看板があり、その日は休館日であった。聞いたことがない方なので気になって調べたら、竹中労さんの父で画家だったことが分った。意外な組み合わせである。機会があれば訪ねたいと思っている。

思っていることが沢山あって、思い風船がどんどん膨れて行く。割れないうちに飛ばして誰かに拾ってもらうのがよいのかもしれない。

横浜から甲府まで飛んだが、次は東京新宿区にでもしようか。

日本近代文学館 夏の文学教室

2015年の「日本近代文学館 夏の文学教室」が、7月20日から7月25日まで有楽町のよみうりホールで開かれる。今回のテーマは<「歴史」を描く、「歴史」を語る>である。

その1日目が、谷崎潤一郎没後50年として

谷崎潤一郎の戯曲」(水原紫苑)、「谷崎潤一郎と探偵小説」(藤田宜永)、「おとぼけの狡智」(島田雅彦)である。

その中でも、「谷崎潤一郎と探偵小説」に惹かれる。『谷崎潤一郎犯罪小説集』の文庫を本屋で見つけ購入し未読であった。<探偵小説>と<犯罪小説>の区分けの基準が分らないが、どこかで繋がるような気がする。

『谷崎潤一郎犯罪小説集』に入っている作品は『柳湯(やなぎゆ)の事件』『途上』『私』『白昼鬼語(はくちゅうきご)』の4作品である。谷崎さんの場合、文字でありながら皮膚感覚にべったり張り付くよう巧妙な文章表現である。ただ会話部分での粘着力ではないのが助かる。会話的手法でベッタリ密着感を感じさせるものは嫌いである。

上方歌舞伎なども、結構この密着感があるが、あれはやはり、上方弁だから通用するのであろう。セリフの繰り返し、甘え、ぼやき、つぶやきなど、形がないだけに好き嫌いがはっきりするかもしれない。私の場合は好き嫌いよりも、捉えがたい軟体性にある。凄く面白いときと、よく分らないというときがあり、上方歌舞伎は難しいと思ってしまっている。

谷崎作品にもどすと、自分が触れているような感覚を呼び起こされ、それが不快でも、推理小説的読み方をしているので、やはり結末が知りたいと思って読み進むと、その不快感が解消されるような結果となり、いかに作家によって、あるいは語り手によって似非体験をさせられていたかがわかるのである。

文豪の探偵小説』には、次の文豪たちの探偵小説が載っている。

『途上』(谷崎潤一郎)、『オカアサン』(佐藤春夫)、『外科室』(泉鏡花)、『復讐』(三島由紀夫)『報恩記』(芥川龍之介)、『死体紹介人』(川端康成)、『犯人』(太宰治)、『范の犯罪』(志賀直哉)、『高瀬舟』(森鴎外)

これを探偵小説の分類に入れてしまうのかと思う作品もあるが、これだけの文豪たちの短編を一気に楽しめるという点でも面白い編纂である。

谷崎さんの『途上』は<犯罪小説>と<探偵小説>の両方に属しているが、確かにどちらともいえる作品である。江戸川乱歩さんは谷崎さんの作品は読んでいたようで、この『途上』は特に高く評価していたようである。

湯川という人物が私立探偵に声をかけられる。私立探偵はあなたの調査を依頼されたが、直接本人に聞くのが一番と思いましてと質問をしていくのである。会話が中心であるが、この二人は金杉橋から新橋方面に向かい日本橋の手前の中央郵便局前から兜橋、鎧橋を渡り水天宮へと至り、この私立探偵が最初に見せた名刺の「私立探偵安藤一郎 事務所 日本橋区蠣殻(かきがら)町三丁目四番地」の私立探偵事務所まで歩くのである。

二人の会話を目で追いつつ、こちらも歩いて移動している気分なってしまう。場所を明記されるとそこを歩きたくなるこちらの嗜好からであろうか、淡々と続く会話と共に一緒に歩いている。次第に湯川が歩きつつ周りの景色など眼中に無くなり、私立探偵の歩くのに合わせてついて行くかたちとなり、私立探偵事務所に引き込まれて行く動線を読者に実感させてしまうのである。

谷崎さんは、「日本橋区蠣殻町二丁目十四」の生まれである。現在は中央区人形町で、生家跡はビルとなり碑があるようだが、まだ行っていないのである。明治座に行った時に行こうと思いつつその時になると忘れてしまう。まさしく、<途上>状態である。

今年の文学教室は初日から魅力的な設定にしてくれた。あれも聴きたし、これも聴きたしである。

『谷崎潤一郎展』

谷崎潤一郎没後50年。『谷崎潤一郎展 絢爛たる物語世界』県立神奈川近代文学館 4月4日~5月24日。約2ケ月間あったのに最終日に行くことができた。谷崎さんの文学作品の流れと、作家としての実生活が資料をもとに、多数展示されているが、大変分りやすかった。分りやすいからと言って谷崎さんの文学作品というものが、分ったわけではない。

谷崎さんは、自分の鋭い感性は人と違い、それを表現する天才的能力も兼ね備えていて、自分はその仕事を成し遂げられるとの想いがあった。

 

己は禅僧のやうな枯淡な禁欲生活を送るにはあまり意地が弱すぎる。あんまり感性が鋭(するど)過ぎる。(中略)

 

己はいまだに自分を凡人だと思ふ事は出来ぬ。己はどうしても天才を持って居るやうな気がする。己が自分の本当の使命を自覚して、人間界の美を讃へ、宴楽を歌へば、己の天才は真実の光を発揮するのだ。

 

谷崎さんは自分の美意識に対しては周りの人をも取り込んでいく。それは、松子夫人との事でもわかるが、自分の美意識から外れるとして出産をも許さない。ただ、相手に自分の気持ちを納得させるためには、大変な努力をされた方でもあると今回思った。反対にその努力が平行して作品に反映しているとも言える。

佐藤春夫さんとは、谷崎さんと谷崎前夫人千代さんの不仲から、佐藤さんが千代さんを譲り受けたいとして、一旦は谷崎さんも承諾するが、その後断る。そして、千代さんは違う男性とのこともあったがそれが壊れる。谷崎さんは、佐藤さんに千代さんの身の振り方を相談し、千代さんは谷崎さんと離婚して佐藤さんと再婚するのである。

この事は世間的にも文学界にもセンセーションを起こすが、物書きという生業から、この辺りのことは文学作品にも吐露される、佐藤春夫さんの詩『秋刀魚の歌』は千代さんを想っての詩である。

今回面白いチラシを手にする。

 

夢と冒険、そして恋・・・ 時は大正。“片思いの神様 ” 佐藤春夫は「さんま」だけでは語れない!

 

こちらは、没後50年記念出版 『佐藤春夫読本(仮)』の宣伝チラシである。初の本格的文学案内とある。<「さんま」だけでは語れない!>というのがいい。

熊野の新宮、『佐藤春夫記念館』でお手上げだったが、この本が手助けしてくれそうである。大林宣彦映画監督の講演録も載っているようである。刊行されたら購入することとする。全体の流れのどういう部分であるかが解かると、一部分だけ取り上げられて強調される狭さの解釈もちがってくる。 美・畏怖・祈りの熊野古道 (新宮)

主軸を谷崎さんにもどすが、谷崎さんは、自分の目指す物語世界を、世間の思惑など眼中になく突き進む。大阪国立文楽劇場のそばに『蓼食う虫』の一文を記した文学碑がある。『蓼食う虫』には、文楽を観ての谷崎さんの感想が書かれている。そこには、『心中天の網島』の人形・小春に対し、「永遠の女性」を想い描いている。さらに主人公の美意識を書いている。

 

自分がその前に跪(ひざまつ)いて礼拝するやうな心持になるか、高く空の上へ引き上げられるやうな興奮を覚えるものでなければ飽き足らなかった。これは芸術ばかりでなく、異性に対してもさうであって、その点に於いて彼は一種の女性崇拝者であると云える。

 

まだこの時点では、この想いを実感したことがなく

 

ただぼんやりした夢を抱いてゐるだけだけれども、それだけひとしほ眼に見えぬものに憧れの心を寄せていた。

 

すでに、千代夫人はこの対象外であった。そして、人妻であった松子さんと出逢っている。谷崎さんの場合、女性観の基準がはっきりしている。

今回もう一つゲットしたのが、谷崎さんの作品の大阪弁のことである。入場したところで映像が飛び込んできた。田辺聖子さんである。座って見る。田辺さんが『卍』と『細雪』の朗読をしたときの映像の一部で、<『卍』は同性愛の話しであるが、谷崎さんが初めて大阪弁を使った小説で、大阪弁を使うことによって流れるように繋がっていき、『細雪』も同じで、このことが源氏の世界に繋がる要因である>とされる。

『卍』は、岸田今日子さんと若尾文子さんの同性愛の演技に興味がありDVDをレンタルして見ていた。このお二人の声のやりとりを耳にしたかったというのが一番強い。その時大阪弁の役割には気がつかなかった。想像していたよりも嫌味なくサラサラ見て居られ、田辺さんの話しを聞いて、なる程そういうことかと気がつかされた。

映画で驚いたのは、園子(岸田)と光子(若尾)が奈良に出かけるのであるが、柳生街道の道が映ったことである。増村保造監督の意図的なロケ場所と思えた。原作では、若草山になっている。園子が女子技芸学校で観音様を描くが、光子の説明のつかない奔放ぶりを観音様と重ね、柳生街道の磨崖仏の前に二人を立たせたのも意図してのことであろう。成り行きから、園子と光子と園子の夫は睡眠薬を飲み、園子一人が生き返るのである。誰かが亡くなり誰かが生き残るとすれば、誰がという事によって作者の意図も、考察の対象となる。光子は園子の夫を連れ去り、夫を園子から離して、観音様の絵を残した。光子の行動が描いた物語は出発点にもどり、丸い円を描き完成させたともいえる。このあたりは自由解釈である。

この作品の前に、谷崎さんは松子さんと出逢っていて、この大阪弁も松子さんと出逢うことによって作品に取り入れるきっかけをつかんだのかもしれない。大阪弁がなければ、谷崎さんの耽美主義も完成度を低下させていたということである。大阪弁によって新たな開拓をしたのである。『細雪』は大阪弁でも船場言葉ということで、一般の大阪弁とはちがうらしい。大阪弁も何となくの段階であるから、大阪弁と船場言葉とどう違うのかも判らない。谷崎さんが耳に受けたイントネーションで朗読を聞いてみたいものである。

小津安二郎監督の『彼岸花』も、山本冨士子さんが大阪弁で、小津監督の映画のなかで、いつもとは違う明るさとテンポを作り出しているのが印象的で大阪弁の不思議な効果を感じた。

谷崎さんは映画にも関係していて、横浜にあった映画会社・大正活動写真株式会社の脚本顧問として参加し映画4本に関係したがフイルムは現存していない。この時女優として千代夫人の妹さんも参加していて、義妹は『痴人の愛』のインスピレーションを与えた女性でもある。岡田茉莉子さんの父上の岡田時彦さんも、高橋英一という名前で出ていた。谷崎さんはこの時期北原白秋に勧められ3年ほど小田原に住んで居る。

お墓は、京都の哲学の道に並ぶお寺の一つ法然院にある。慌ただしく満杯の計画の旅の時期(今よりも)に訪ねた。境内の奥のほうにあったと記憶する。桜の下に自然石のお墓が二つあった。<寂>と<空>の一字で潤一郎書とかれていて、谷崎さんと松子夫人と思ったらそうではなく、<寂>は谷崎御夫婦で<空>は松子夫人の妹重子さん御夫婦の墓である。訪れたというより、「なるほど。」と通過に近い。あの時は、南禅寺の境内にある琵琶湖疎水の水路閣から、疎水沿いに歩いて、地下鉄蹴上駅までをも予定に入れていたのである。

ついでに、京都市動物園の琵琶湖疎水側の仁王門通りに山県有朋さんの別荘<無鄰菴>があり、庭が小川治兵衛さん作である。東山を借景にしている。山県さんは小田原に<古稀庵>、東京には<椿山荘>がある。政治的手腕は置いておき、庭に対する造詣は深かったようである。<古稀庵>へはまだ行っていない。

自分の理想とする女性を探しもとめ、その感性と天才は<絢爛たる物語世界>を創造し闘い続けた。

 

谷崎潤一郎生誕の地碑  東京の人形町で誕生しています。鳥料理店玉ひでのすぐそばで建物の間の一隅にあります。碑は谷崎松子夫人筆。

 

旧東海道・箱根 箱根湯本~元箱根港

実際にはバスで元箱根港に行きそこから箱根湯本まで下ったのであるが書き込みは上り道順とする。

箱根登山鉄道の箱根湯本駅から本来は早川にかかる三枚橋を渡るところであるが実際には箱根湯本駅を目指してのラストスパートで渡らずに駅に向かってしまった。

後日小田原からの三枚橋を渡る道は歩いた。旧箱根街道を歩いて箱根が身近になり何回か箱根を楽しませてもらう事になった。箱根バス路線での美術館巡りなどの行き方がわかったためである。

上っていれば見どころありの早雲寺なども見学したであろうがそんな余裕はなく前を通過しただけである。

残っている写真からは割石坂となったいる。

曽我兄弟が仇討ちに向かう途中で刀の切れ味をためして路傍の巨石を切り割ったという由来の坂のようである。もし刀が折れたら仇討ちはなかったのであろうか。

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須雲川自然探勝歩道の道標

なかなかいい感じの探勝歩道のようである。旧東海道を抜けこちらを楽しむ人も多いようである。

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旧東海道の大沢坂近くの石畳

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大沢坂は須雲川からわかれた大沢川を渡ったところの坂

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畑宿本陣 旧茗荷屋庭園

旅人たちを感嘆させた庭園のようである。「お吉物語」で有名な幕末の初代駐日アメリカ総領事ハリスも下田から箱根の関所での検査に立腹し役人たちは大変だったようだ。ただ畑宿本陣の日本庭園には大満足している。

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畑宿は寄せ木細工の里でもある。

そして村はずれの23番目の一里塚が復元されていて立派である。

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山の斜面にあるこの一里塚は周囲を整地したあと、直径9メートルの円形に石積を築き小石を積み上げ表層に土を盛って標識樹を植えている。

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そばに芹沢光治郎の歌碑がある。

<箱根路や往時をもとめ登りしに未来のひらけてたのしかりけり>

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石畳の道の説明

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石畳の道の前は雨や雪のあとはひざまでうずめて歩かねばならなかった。毎年竹を敷いていたが調達するのにお金と労力がかかり大変であった。

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西海子坂(さいかちざか)、橿木坂(かしのきざか)、猿滑坂(さるすべりざか)、追込坂など急坂が続くが残っていないため箱根新道いろは坂を渡ったりしながら急な階段を上ることになる。

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<さかをこゆればくるしくて どんぐりほどの涙こぼる>

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<殊に危険、猿候といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす>

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甘酒茶屋  茅葺で風情がある。江戸時代には甘酒小屋として箱根に9軒ありこのあたりはには4軒あったらしい。特に険しい坂道を上ってきた旅人には至福の一服だったであろう。食していないので想像であるのが寂しい。(時間配分の予想で断念)

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隣にある「箱根旧街道資料館」をざっと見学。赤穂浪士が馬喰に因縁をつけられるが討ち入り前なので詫び証文を書いたというエピソードなどが紹介されていた。とにかく名の知れた人から知られていない人まで色んな出来事に出くわしたことでしょう。

六代目菊五郎も箱根に来た時忠臣蔵にゆかりがあるとして甘酒茶屋に寄っていとのこと。

白水坂

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石畳の構造案内板  

これがなかなか面白い。谷川に並木を植え石畳と並木の間に排水路を作ってある。

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以前は竹を敷いていたとあったが箱根に群生するハコネダケという細い竹を使ったらしい。延宝8年(1680年)石畳となる。江戸時代の末期に14代将軍家茂がきょうに上洛する際全面的に改修。やはり将軍様の通る場合はお金をかけますね。

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鎌倉時代は箱根を通らず尾根伝いの湯坂路を使ってこのあたりから箱根峠を目指したが須雲川にそった谷間の道が整備され江戸時代の人は旧東海道を使うようになった。鎌倉時代と江戸時代では道が違っていたのである。

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お玉観音堂

伊豆から江戸に奉公に出ていた娘が勤めがつらく逃げ出し故郷に帰ろうとした関所破りとなり処刑された。その娘お玉や箱根で亡くなった無縁仏をくようしている観音堂。

このそばの坂をお玉坂といい近くにお玉の首を洗ったお玉が池もあるようだ。

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箱根旧街道からお玉が池を巡って国史跡元箱根石仏群まで歩けるようである。

上二子山と下二子山があるがこの二子山から産出される安山岩は硬く加工しにくいが鎌倉時代後期に鎌倉の極楽寺を開いた僧・忍性(にんしょう)が率いる石工集団によって加工されようになり石仏群も造営されたようである。

そして江戸時代には箱根の石畳も硬くて摩滅しにくい二子山の石が使われたのである。

権現坂

昔の旅人がやっと箱根路を登り着いたと実感した場所。

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排水路が残っている。

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天下の剣記念碑

滝廉太郎の「箱根八里」の <箱根の山は天下の剣>からその険しさを表しているようだ。現代に入ってはこの歌をうたいつつ上った若い人もいたのであろう。

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箱根旧街道から芦ノ湖畔へ

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実際には元箱根港バス停から歩き始め芦ノ湖を撮るという余裕もなかった。歩き始めて最初の被写体が興福院であった。フジが咲いていた。

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とにかく芦ノ湖から箱根湯本まで無事歩くことができた。芦ノ湖そばの成川美術館も好きな場所である。途中ゆっくろしたいところもあったが旧東海道を走るバスを利用すれば畑宿や甘酒茶屋などは行きやすい。

色々経路を探して違う旅も楽しそうである。

【 寄り道 】   

後日箱根石仏群へ行く

映画『父ありき』と箱根石仏群

【 続・寄り道 】

初代駐日アメリカ総領事ハリスがでてきたので伊豆下田へ。

芝居などでのお吉さんは許婚がいながら周囲のすすめでハリスのそばに仕える。仕事を辞してから今度は周囲はお吉さんを唐人お吉として忌み嫌らわれる。それを苦にしてお酒を飲みすぎ自殺してしまう。日本のためになどと説得されたのであろう。かなりの報酬をもらい人々は妬みがふくらんでいったようである。

下田の宝福寺にお吉のお墓と「唐人お吉記念館」がある。

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お吉の写真

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お吉の生涯

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お吉が持っていた雛人形

この人形を譲り受けた友人から花柳章太郎に進呈され舞台で実際に使いその後宝福寺に寄贈。

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西条八十の「唐人お吉小唄」の色紙

駕籠で行くのはお吉じゃないか 下田港の春の雨

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謁見の間

宝福寺は山内容堂に勝海舟が謁見した場所でもあった。

勝海舟は脱藩した坂本龍馬を許してほしいと願い出、容堂は下戸の勝に酒をすすめそれを勝つは飲み容堂は願いを聞き入れる。

盃と許したという印のひょうたんの描かれた扇がある。

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お吉が経営した料理屋 「安直楼

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お気軽にお入りくださいとあったが入れなかった。

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お吉が淵そばのお堂

お吉は下田近郊の稲生沢川の門栗ケ淵に身を投じ亡くなってしまう(没48歳)。今はお吉が淵と呼ばれお堂が建っている。

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旧東海道・『二宮』から『小田原』を通り『箱根湯本』へ (2)

目標の小田原宿は国道1号を歩き続け<江戸口見附跡・一里塚跡>を見つければ良いのである。道路の右側の舗道を歩く。<東海道小田原宿>の新しい解説つき石柱が迎えてくれる。解説に「おだわらまちしるべ〔山王口〕「江戸口見附」とも呼ばれ、小田原城から江戸に向かう出入り口で、また、ここは東海道小田原宿のいりぐちでもある。」と記され、この「またここは・・・」の書き方が、東海道に対する小田原の特色がある。後で歩きつつ感じるのであるが、小田原には<小田原城>がある。中心はやはりそこなのである。目線の先はそこに集中されている。城下町のなかの東海道である。

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日本橋から約83キロの地点である。江戸の旅人は一日40キロ歩いているわけで、いかに健脚であったかが、今更ながら実感する。

こちらは東海道が主なのでその目線で進む。木柱で<小田原城址江戸口見附跡>とあり、その後ろの盛り土に一本の古い松が、幹を東に曲げ年代を感じさせる。案内板に<江戸口見附跡並びに一里塚>とある。「見附とは、城の枡刑門に設けられた見張番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原合戦の際には、町ぐるみ堀や土塁で囲まれていたが、江戸初期にこの構造を壊して東海道を通す際に、枡形が作られた。」とある。

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城を守るための土塁も時代の流れによって東海道という一本の道の入口となったわけである。どこか、<小田原城>を前面に出したいという空気が感じられる。

ここから要注意の国道1号から旧東海道に入る道を見つけなければならない。本には「新宿の交差点を左に入る」と書かれているのに読み込まず、手前の道を入ったのであるが、そこに<新宿町>の石碑があり、東海道が北に移動したらしく旧宿町のあとにできたので新宿町としたとある。もともとの宿場町があったわけである。なるほど、このあたりは<新宿町>なのか。

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新宿交差点にもどり、左にはいる。地図どおり直角に曲がっている。これが旧東海道である。<よろっちょう>と書かれた石柱がある。どういう意味なのかと、後ろを見ると<万町>とある。説明には、「よろっちょう」と呼ばれ、和歌山藩の飛脚継立所もあり、提灯作りの家もあったとある。小田原提灯である。

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左手にはかまぼこ屋さんが並ぶ。車の数も少なく、国道1号とは違う空気がいい。入口に小田原提灯が二つ下げられ「小田原おでん」と書かれている。何であろうかと二人は惹きつけられる。お食事処である。時間的にも、行程の中継としてもベストタイミングである。「鰺寿しランチ」と「牛すじ丼ランチ」に迷うが、鰺に決めた。おでん5品が選べて、その品が別々の小田原のお店の品物で、さすが練り物の産地である。デザートのアイスクリームにかけられた手作り梅ソースが甘酸っぱくて美味。ランチビールも少し飲みたい気分を満足させてくれた。しかしやはり「牛すじ丼」が心残りである。

小田原は、小田原城をはじめ、文学者や政財界関係者の邸園などもあって、見どころが多くあり3回ほど来ているが、この辺りは駅から20分ほどかかり東海道を歩く予定をいれなければ通らない道である。近くに北村透谷の生誕の地もあるようだ。今回は東海道だけへの目線なので、次の東海道を歩き始めるための準備として、箱根登山鉄道の風祭(かざまつり)駅まで行けば楽であると話し合う。暑い時間帯をゆっくり食事ができ気力充分である。

そしてここからの歩きが、また突っ込みの必要な時間帯となった。表示が、東海道というより、城下町の<町>の捉え方のようである。国道1号と合流したのに史跡として最初に見つけたのが、<明治天皇本町行在所跡>明治天皇が東海御巡幸の際に宿泊(明治11年)された<片岡本陣>のあった場所とある。その前に<清水金左衛門本陣跡>がなければならないのである。またまた戻る。左奥に碑がある。近づいて見ると<明治天皇宮ノ前行在所跡>明治元年から5回宿泊されている<清水金左衛門本陣跡>とある。この辺りが宿の中心である。

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小田原宿には4つの本陣があった。残りはどこか。「小田原宿なりわい交流館」で尋ねると、もっと先のビルに一つあり、あとは判らないとのこと。言われなければ判らないビルのところ<小田原宿脇本陣古清水旅館2F資料館>とプレートがあったが、2階に上がれるような雰囲気ではない。

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地図上は「久保田本陣跡」「清水彦十郎本陣跡」とあるが、どうやらきちんとした史蹟はないようで、石碑の<本町>の説明にこのあたりに本陣などがあったというようなことが書かれ、一括りにされているようである。今まで東海道を歩いてきた者としては曖昧模糊としていて残念であった。

歌舞伎でもお馴染みの「ういろう」のお城のような建物のお店を右手に先へ進む。最後の要注意点である。東海道本線、箱根鉄道をくぐると、<板橋(上方)口>周辺の案内板がありここを上方見附跡とする。東海道新幹線をくぐり、ここから国道1号と分れ旧東海道を進み、途中で箱根鉄道国道1号をくぐって国道1号に合流。さらに先で国道1号と分れ箱根鉄道を左に進むと風祭駅が左にみえる。少し進むと<風祭の一里塚>の解説板がある。コブのように国道1号を出たり入ったりする箇所も終わりである。

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ここからは捜す史跡もなく、道祖神に迎えられ道なりに進めばよい。箱根鉄道の「入生田(いりうだ)駅」に到達。もう一駅行けそうと「箱根湯本駅」まで行けたのである。

その夜地震である。教訓。達成感から乾杯をせずに帰ったのが良かった。これだけ歩いて足どめとなったら大変であった。いつ何が起こるか分からないので疲労困憊の手前にしておくこと。ただし、歩いて帰宅できる場所なら乾杯の考慮の余地あり。