『ふるさと隅田川』幸田文著

「たばこと塩の博物館」で隅田川の文学作品として永井荷風さんの『すみだ川』と小山内薫さんの『大川端』を紹介していたが、私が押したいのは、幸田文さんの『ふるさと隅田川』である。

幸田さんは、明治37年に現在の墨田区東向島で生まれ、関東大震災のあった大正12年の19歳まで、かつては南葛飾郡寺島村という隅田川近くの農村で生活している。病身の義母に代わって、主婦代行をしている。代行どころか、父露伴の厳しい生活教訓をしっかり受け、それを人並み以上に体現したかたである。

家事全般を受け持ちつつ、川そばの人々の生活、川に対する係り方などの観察眼は並大抵ではない。今回『ふるさと隅田川』を読み直して、両国界隈から本所を散策したこともあって、一層、幸田文さんの眼と生活感と文章に惚れ直したのである。

春の雪の日の露伴さんへの酒のしたくの一節である。

「雪の日にあたたかい鍋のものをしたくするのは人情だし、また実際たべてもうまいに相違ないが、わたしはそれをわざとしたくなかった。雪が降るからこそ湯気鍋よりむしろ潔く青い野菜などが膳へつけたかった。」 「鍋ものは雪より多分こがらしのほうがいいかとおもうのだ。」 「ちょうどこんな春の雪の日に私は蕗の薹をえらんだ。」

鍋ではなくふっとした苦味ふきのとうをえらんでいる。それに対し露伴さんは、「ああ酒うすきこと水のごときものだ。」という。その言葉に対して文さんは、「蕗の薹に酒の味を奪われたのを歎じて云ったのではなく、その逆である。その日その晩、ただなんということもなく蕗の薹を噛んで、水のごとき酒をふくんだことに興じてゐる父なのである。」と書く。

隅田川のそばの農村での露伴さんと文さんのいってみれば生活感性の贅沢なさや当てである。しかし、文さんは露伴さんから見れば自分は出来損ないの娘であると思っている。

作家の堀江敏幸さんは、作家の森まゆみさんとの対談で「幸田文は、父親が怖かったとか、「嫌いだ」とか、「疎まれていた」とか散々書いていますけれど、彼女の一番のファンはお父さんだったんじゃないか。」と言われているが、私もそう思いはじめている。

そうした日々の暮らしのなかで水に対しては、じーっと視つづける。

幸田文さんは、二百十日、9月1日の生まれである。文さんは、自然界の荒れる日に生まれたことにこだわられる。水に係る職業の人の話しに耳をそばだて、あらしの動きを肌で感じ取っていく。

そして濁流とともに流される家具などを目にすると次のような思いを書く。「平和とだんらんを流して行きやがった!というくやしさが来る。害された、という思いが濃い。家具よ!」「川は美しくばかりない。恐ろしい川を見たおかげで、私は家具を違った角度から見る。」

主婦代わりの文さんは、周囲の大人たちとの接触も多かったであろう。そして、自分の住んでいるところよりももっと湿地の人々の生き方から「その低い湿った土地に我慢して住んでいる人たちが持つ強さと脆さ」をきっちり受け止めるのである。

その湿地での夫婦のありようも、いい条件の場所で住む夫婦とは違う強さとバランスを浮き彫りにする。

隅田川のそばに住むことに寄って見聞きした19歳までの「ふるさと隅田川」の人々の暮らしが、潔い文章でおもねることなく書き表されている。

開いてどこから読んでも、その場が以前読んだときよりもはっきりと頭の中に映像が結びつき広がっていく。人々も動きまわる。

しばらくは、『ふるさと隅田川』の文章にとりつかれていた。

映画の『おとうと』や『流れる』を観返し、原作ももう一回読み直し新たな味わいを堪能したいものである。

映画『流れる』は、川本三郎さん著『銀幕の東京』の「流れる」を参考にすると当時の柳橋からの風景が映像の中でピンアップできる。それがなくても、今はいない女優さんたちの演技力を堪能できる。