劇団民藝『光の国から僕らのためにー金城哲夫伝ー』

金城哲夫さんというのは、あの<ウルトラマン>を誕生させた脚本家である。劇団民藝で金城さんを取り上げてくれなければ、おそらくこの方のことは知らずにいたかもしれない。

円谷英二、ゴジラ、円谷プロ、特撮、ウルトラマンなどはつながってでてくる。そこには脚本家もいたのである。それは怪獣たちが映画からテレビに移って子供達を歓喜させる時代であった。その時代に金城さんは円谷プロの企画室長として、よろずや的に様々な仕事をこなし、脚本も書くのである。

舞台の本のほうは、畑澤聖悟さんで『満天の桜』を観ているので、それなりに調べられ書かれるのであろうと、畑澤さんの作品にゆだねてその辺のことは前もって詮索しなかった。観たとこ勝負である。

金城さんは沖縄出身のかたで、チラシによると、ウルトラマンの栄光を捨てて沖縄に帰ってしまうという。そこには、沖縄に対する何かがあるのであろう。

金城さんとともにウルトラマンにかかわり、金城さんがヤッチーとよんだもう一人の沖縄出身の脚本家上原正三さんも登場する。<ヤッチー>とは沖縄の言葉で兄貴という意味である。

金城さんは、とにかく仕事が楽しくて仕方がない。戦争による凄まじい犠牲のあと沖縄がアメリカに支配されている時代である。上原さんには金城さんの何のこだわりもない明るさに戸惑う。たとえば、君は下宿を沖縄の人間ということで断られたことがあるかとたずねる。観ているこちらも、そういう時代があったのだと時代をさかのぼる。

金城さんは生来の明るさもあるのであろうが、彼は、高校から本土の玉川学園で寮生活である。金城さんはそうした環境のためもあり、本土での生活は沖縄と本土という狭間での傷つき方は少なかったのかもしれない。そして、借金だらけでありながら仕事に夢をもって、<オヤジさん>とよばれた円谷英二さんを中心とする仲間意識もそれをカバーしてくれていたように思う。

金城さんは、アメリカ軍の艦砲射撃のなかを逃げまどい、お母さんはそのために片足を失っている。しかし金城さんはそのことにふれることはなかった。

沖縄の本土復帰を目前にして、金城さんは、自分は沖縄と日本の架け橋になるのだと光に向かって進んで行く。しかし、ウルトラマンは現れなかった。ただ、かれの中の理想郷では現れていたのかもしれない。

<ウルトラマン>と<沖縄>がつながっているとは驚きである。ウルトラマン誕生から50年だそうである。ウルトラマンは今、沖縄にすくっと立っていて、こちらを見なさいと言っているのかもしれない。

金城さんの本土で会った人が、幅の広さのあった人達だったのかもしれないとも思える。芝居のなかで「せきざわしんいち」という名前がでてきた。もしかして「関沢新一」さんかなとおもって検索したところ、金城哲夫さんの脚本の師匠とある。関沢新一さんは、岡本喜八監督の映画『暗黒街の顔役』、『暗黒街の対決』の脚本も担当している。『モスラ』も書かれている。さらに作詞もされ『柔』(美空ひばり)『涙の連絡船』(都はるみ)『銭形平次』(舟木一夫)等のヒット曲もある。そのほか写真家でもあるらしい。

金城さんは、沖縄のことを忘れていたわけではないが、作品を作り出すあらゆるエネルギーを学んで吐き出し、学んでは吐き出しと嬉々としてやられていたように思う。

沖縄に帰ってからの金城さんの吐き出した美しい糸は、吐き出せば吐き出すほど思うような流線を描いてくれず混線してしまうのである。

ウルトラマンという子供達のヒーローの陰で、光の国をさがしていた大人がいたのである。今も疑心暗鬼となりつつたくさんいるのである。

金城哲夫を演じたのが、『根岸庵律女』で正岡子規を演じた齋藤尊史さんで、熱く金城にぶつかっていた。上原正三を演じたのが『大正の肖像』で中村彜を演じたみやざこ夏穂さんで鬱屈した部分を照らした。それぞれの沖縄に対する気持ちの出し方のちがいや、受け取り方の違いが感じられ、それでいながら同郷者として、仕事仲間として、生きる上でのつながりなどが台詞をとおして伝わって来た。

演出は丹野郁弓さんで、パンフレットに雑記として、沖縄にいって一番印象的だったのは海だと書かれている。同じである。あの美しい海に何人ものひとが飛び込んで自決したのである。悲しいほど海の色は美しすぎるのである。

それにしても金城哲夫さんに着目した丹野さんの着眼点は凄い。ウルトラマンも50年目にしてこの人だと光の国から飛んできたのもお見事。

胸につけてる マークは流星 ~ 光の国から 僕らのために 来たぞ われらの

ウルトラマン

 

紀伊國屋サザンシアター  2月21日(日)まで