アニメ映画『君の名は。』まで(1)

「日本近代文学館 夏の文学教室」の一日目一講時の長野まゆみさん(作家)の講演から、深海誠さんのアニメ映画に飛んでしまいました。この時点ではまだ『君の名は。』は見ていません。

大岡信さんが亡くなられたこともあり、三島駅のすぐそばなので『大岡信ことば館』へ旅の途中で寄りました。開催していたのが『 新海誠展 「ほしのこえ」から「君の名は。」まで』でした。

書きつつ思ったのですが『君の名は』ではなく『君の名は。』で  がついているのですね。

アニメ映画『君の名は。』はヒット作品であることは知っていましたが、その監督が新海誠さんであることは自分の中に刷り込まれていませんでしたので、あの映画の監督さんなのだと、入場券を買う時に知ったのです。映画よりも先に、その創作過程を見た事になります。

絵コンテなどから、光と色にこだわっておられることがわかりました。中高校生時代を主人公にしているので日常生活に使う文房具や手紙、携帯のメール、通学路の風景などリアルに細かく描かれていました。傘の閉じた時と開いた時、靴の形と色とその底裏の部分、登場人物の背の高さなど物語を作る過程の作業の細かさに驚きました。

新海監督の作品を見ると解りますが、これだけ細かい作業をしていても、映し出されるのは一瞬でテンポが速いです。これだけ時間をかけたらその映す時間を長くしたくなりそうなものですが、あっ!あれだと思う間に映像は流れていきます。

バイクのカブの展示もあり、特別な靴なのでしょう、女性用の大人っぽさのなかに可愛らしい結び紐のついた靴の展示もありました。これらのものがどの映画に出てくるのか映画の題名は覚える気もなく、どの映画のどんな場面ででてくるのかが見てのお楽しみでした。この時点で新海誠監督のアニメ映画を見ようと決まっていましたので。

実写の映像がありまして、中村壱太郎さんが踊られています。巫女さんが踊る舞の振りつけを考えられたのが壱太郎さんで、神楽鈴についている朱色の紐を上手く舞に取り入れた素敵な舞になっていました。映画では、全てを映しませんので、これは展覧会での映像のほうが舞としては美しいです。これだけは、『君の名は。』であることを記憶しました。

展示物からみますとSF的な作品もあるようです。大岡信さんのコーナーで大岡さんを偲んで、その帰りレンタルショップへ。

映画を見てから『新海誠展』を見ると、あの映画のものだと展示物を注視しするのでしょうが、こちらは反対で、映画を見ながらあのことかと反復することとなりました。

秒速50センチメートル』『雲のむこう、約束の場所』『言の葉の庭』の順番でみて、そのあとに「夏の文学教室」の長野まゆみさんの講演「宮沢賢治をナナメに読む」だったのです。参考資料は薄茶の封筒に入ったはがき大4枚の藍色を使った今までに手にしたことのない可愛らしい資料でした。ただ字が小さいのです。長野まゆみさんがその小ささについて意地悪をしたのではなく、自分が宮沢賢治を読んだときルーペを使って読んだその想いがあらわされていたのです。

そして話の内容が、宮沢賢治さんの『春と修羅』の言葉からでてくる光と色でした。この時点で、新海誠さんのアニメ映像とつながりました。蜘蛛の糸についても言及され、即こちらは『スパイダーマン』を思い出していました。そんなわけで、「夏の文学教室」のこちらの捉え方がかなり飛んでいますので、これからも「夏の文学教室」に触れていても講演者の高尚な内容とは距離があります。報告ではありませんので。

その後の他の講師の方々の講演からの啓示があり、新海誠監督の作品に宮沢賢治さんが、ちらっ、ちらっと顔出されるのです。

最初に見た『秒速5センチメートル』はとても気に入りました。<秒速5センチメートル>は、さくらの花びらの散る速度なんだそうです。この作品は「桜花抄」「コスモナウト」「秒速5センチメートル」の三つの短編で構成されていて、「秒速5センチメートル」が一番短いのです。まさしく「秒速5センチメートル」の短さです。

特に興味を引いたのは「桜花抄」で、小学卒業で東京から栃木へ引っ越した篠原明里に会うため、遠野貴樹が電車に乗るのです。中学1年生になっていますが、栃木遠いなあという貴樹の感覚がわかります。それも、明里の待つ駅はJR両毛線の岩舟駅で、今は新宿からなら湘南新宿ラインがありますから小山まで一本でいけますが、貴樹のときは、大宮まで行き、そこから小山に行き、両毛線に乗り換えます。両毛線は時には一時間に一本です。

こともあろうにその日は関東が夕方から大雪になってしまいます。下校してからの旅で貴樹はきちんと電車の時間を調べていました。両毛線に乗り換えが上手くいくかどうかが問題ですのに雪。貴樹の不安が伝わります。その描き方がいいのです。電車が雪のため遅延していきます。知らせのアナウンス。調べた時刻表など関係なくなります。

携帯のある時代ではありません。連絡のつけようもない。時々点滅する電車のなかの蛍光灯。電車の連結部分の描写。止った駅で座っていられず、開いた電車のドアから雪と駅を佇んで眺める貴樹。突然ドアが閉められます。在来線にある手動の開閉ボタンつき電車で、寒いためドアの近くに座っていた乗客がボタンを押してドアを閉めたのです。びっくりして気がつき謝る貴樹。ああいいよという感じの乗客。そこらあたりの描写がリアルで細かく見ているなと感心します。

アニメでありながらこのリアルな丁寧さと繊細さ。貴樹の不安とあきらめと、とにかく進むというおもいが交差します。その心理を映し出す場面設定。映像テンポははやいです。この部分で新海監督やりますなと思ってしまいました。そして、明里は駅のベンチで待っていてくれたのです。

貴樹は、そのあと鹿児島に転校してしまいます。そこでのことが「コスモナウト」で高校時代はカブで通学します。澄田花苗と見上げる、打ち上げられたロケットの行く先。貴樹が見ている先。途絶えてしまった明里との経験した時間。

そこから抜けだせない貴樹は、東京で社会人となっても彼女を探しています。踏切ですれ違った女性。走る電車が過ぎ去ってしまったあとの踏切の先には女性はいません。

ロケットは相手との距離感をあらわし、踏切りも新海監督の映画には重要なシチュエーションとなります。当然電車は新海監督の映像で多く通ります。言葉では説明できない交信できた人との別れの喪失感。これがテーマとなります。ただ探します。そのための遠い冒険の旅にもでます。喪失感を埋める旅が果てしない危険を要する冒険ともなります。それほどの振幅が心の中で存在する闘いとしてあるということです。