信州の旅・塩田平(2)

さて『無言館』を目指してと調べていましたら、<塩田平ウォーキング>という散策コースが出てきました。上田電鉄の別所線、塩田町駅から別所温泉駅までの塩田平を散策するコースで、<信州の鎌倉シャトルバス>を使うと『無言館』前で降りて、『無言館』→『信濃デッサン館』→『前山寺』→『龍光院』→『塩野神社』→『中禅寺』までが散策としてよさそうです。ゆっくり一日をかけて。上田駅でこのコースを利用できる一日券がありました。

長野から塩田町駅までは三つの鉄道会社を乗り継ぐことになります。

長野駅(JR東日本・篠ノ井線)⇒篠ノ井駅(しなの鉄道)⇒上田(上田電鉄別所線)⇒塩田町駅

篠ノ井駅からのしなの鉄道は軽井沢まで行く線で、長野から乗り入れていますので、長野から軽井沢まで行けることがわかり、三日目の予定が決まったのです。なかなか面白い計画を立てることができました。

上田電鉄別所線は、かつて別所温泉へ行った時、「上田電鉄を守ろう!」というスローガンがあり運営が大変なのだと思った記憶があります。別所温泉は散策にも楽しい場所で、また歩きたいところです。

『無言館』と『傷ついた画布のドーム』の二つの展示館があります。前日には小布施で80歳を過ぎても旅をし勢力的に絵筆を持ち、90歳を目前で亡くなられた葛飾北斎さんと対面していたので、志なかばで戦争で亡くなられた若い方達への想いが押し寄せてきます。

出征前、自宅に帰り、周囲が声をかけられないほどの真剣さで絵を描いていたというお話。最後に大好きなおばあちゃんを絵に描かれたかた。貧しくて一家団欒などなかったが、それを想像してゆったりと過ごす家族を描いた絵。父母には心配はかけられないという気持ちが強いため本音が言えなくても、姉や妹などには本音をつぶやかれていたりします。その想いをしっかり受けとめられ、作品を守り通されてこの美術館に託された方達もたくさんおられます。

ここの美術館はドアを開けるとすぐ展示場で、出口でお金を払うかたちになっているのですが、ドアが開いて「ごめん下さい。」といって入って来られたご婦人が、「御免なさい。もっと早く来たかったのですが、やっとこれました。」と言われ静かに絵を観始められました。戦争を体験された年齢とお見受けしました。中にいた人々はちょっと驚きましたが、またそれぞれ静かに絵を眺めそれぞれの世界へ。

ご婦人は、ここへ来たいと長い間思われていたのでしょう。たくさんの抑えられていた想いを絵のまえで解放されていかれることでしょう。

絵と言葉に涙が出てきますが、背中を優しく押されるような気配を感じつつ『無言館』(戦没画学生慰霊美術館)を後にしました。

信濃デッサン館』の館主である窪島誠一郎さんは、大正から昭和にかけて活躍しながら、結核や貧しさのため早くに世を去った画家の作品をあつめてこの美術館を開かれました。その後、『無言館』の開館となったのです。途中に分館の『槐多庵』がありました。「ヨシダ・ヨシエの眼展」。初めて眼にする名前です。美術評論家であるらしく2016年1月(享年86歳)に亡くなられています。写真の様子からしますと、自分の意思を通されたかなりユニークで豪胆なかたという印象です。

米軍占領下時代に、丸木位里、俊子夫妻の絵『原爆の図』を抱えて全国巡回展示をしておられます。横尾忠則さん、池田満寿夫さん、赤瀬川原平さんらの作品が展示されていて、こうした方々の作品についても書かれたのでしょう。ヨシダさんの「檸檬」についての文がありましたが独特の解釈です。当然、梶井基次郎さんの名前もでてきました。

そして、ここで『日本近代文学館 夏の文学教室』での堀江敏幸さん(作家)の『檸檬の置き方について』という講演を思い出しました。梶井基次郎が檸檬をどんな置き方をしたのかということを考えられて話しをすすめられて結論を出しました。その結論は、ビリヤードの玉を置くときの感覚です。(このユニークな展開は今はもう説明できません。勝負する前のビリヤードの玉。梶井さんのお母さんがビリヤード店をやっていたことがあります。)

信濃デッサン館』には、夭逝された戸張孤雁さん、村山槐さん、関根正二さん、野田英夫さん、靉光さん、松本俊介さんなどの作品やデッサン、資料があります。「立原道造記念展示室」が併設されていて、なぜここにと思い係りの方にお聴きしました。東京にあった「立原道造記念館」が閉館となり、その作品を預かる形で、この美術館におかれたのだと説明してくださいました。

信濃追分の油屋のことを書いたとき、ここでお会いするとは思っていませんでした。油屋が火事になった時、立原道造さんは泊っておられ、危機迫ったところで助けらています。

立原道造さんの詩の原稿は太いブルーのインクで書かれていて読みやすいです。詩も若い頃の心情が多少甘酸っぱさを含んでいます。絵のほうの『魚の絵』などはパステルで童画のようで、色合いが明るさと楽しさで溢れています。北斎さんの写実なカレイとサヨリとメバルの三匹の魚の絵を観た眼は、ころっと立原道造さんのこの絵に眼がいきました。

館主の窪島誠一郎さんは著作品も多く、『詩人たちの絵』は、立原道造さん、宮沢賢治さん、富永太郎さん、小熊秀雄さん、村山槐多さん5人の短くも激しく生きた姿を絵も掲載されて書かれています。立原道造さんは、その短い一生のなかで信濃追分の風景が重要な役割を果たしていたことがわかりました。でも今は、塩田平を見下ろすこの地が気に入られているとおもいます。

村山槐多(むらやまかいた)さんは、父との確執から京都の家を飛び出し東京へ向かう途中信州の大屋の伯父の家に寄っています。このそばに海野宿がありその古い家なみと信州の風景をスケッチします。本格的な絵を始める心づもりと場所がこの地だったのです。海野宿はしなの鉄道の大屋駅と田中駅の中間に位置します。行きたい場所がまた一つ出現しました。

『無言館』から『信濃デッサン館』までの歩く道の間にも、時々塩田平が姿を見せてくれます。

美術館とはお別れして、散策コースの続きですが、なんと『信濃デッサン館』のすぐ前が『前山寺』の参道でした。