4月4バージョンの旅・B

  • B・歌舞伎関連バージョン/ 嵯峨野線の終わりが園部駅で、終わりと言っても山陰本線に続いているのですが、その園部に日本最古の天満宮『生身天満宮』があります。菅原道真公をご存命中から御祭伸としてお祀りしたので「生身(なまみ)」と称したのです。

 

  • 月刊社報の説明によりますと、かつて園部の地に、菅原道真公の邸殿があり、当時、園部の代官だった武部源蔵は京都からこられる菅原公と交流がありました。太宰府左遷のおり、菅原公は八男慶能君を隠し育てるように源蔵にたくします。源蔵はこれを引き受け、菅原公の姿を御木像として刻み、ひそかに祠を建てお祀りしました。生祠(いきほこら)で、これが『生身天満宮』の始まりで、武部源蔵は、当宮の始祖なのです。

 

  • 歌舞伎『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』では、武部源蔵は寺子屋の先生で、菅原道真公も学問の神様です。そういうことが関係するのかどうかわかりませんが、園部駅から学校が多いです。『生身天満宮』まで歩いて15分くらいですが、静かな田舎の登り坂、下り坂の道で土地としては狭いのですが、新しい学校が建っていて珍しい風景でした。小高い上にお城の櫓がみえ、行きませんでしたが園部城のようで、高校の敷地にあるのだそうです。

 

  • 生身天満宮』鳥井前に一つだけ大きな常夜灯があり、もしかすると道をつくるか何かのために一つだけ残ったのかもしれません。上の本殿を拝する所に屋根があり腰かけもあり、御神楽の舞台でしょうか、そことつながっていて珍しい形でした。当然使いの牛がありなでなで。社務所にここを訪れたかたの情報が掲示されており、猿之助さんも亀治郎時代にテレビ番組で来られていました。松也さんもお詣りに来られています。武部源蔵を祀る『武部源蔵社』とお墓もあり、やはり歌舞伎、文楽などにとっては縁の濃い天満宮と言えます。

 

  • 駅にもどると裏山に樹木の字が。「子のべ」? 「そのべ」でした。頭に浮かびました。「子らよ学べそのべの地」。駅で観光パンフをゲット。園部から美山への周遊バスあり。嵯峨野線で京都へもどり、せっかくなので保津峡で降車。水尾川にかかる赤い保津峡橋を渡り上から保津峡駅と保津川をながめる。徒歩でトロッコ保津峡駅まで15分、ゆずの里水尾まで一時間、鳥居本まで一時間の案内表示あり。歩けそうななコースである。次の機会に。

 

  • 亀岡駅から保津峡駅まで「明智越ハイキングコース」がある。明智越えは光秀が京都の愛宕山に参籠した時通った道で、これは3時間30分(10キロ)できつそうである。亀岡には、元愛宕と呼ばれる愛宕神社があり、京都の愛宕神社はここから勧請(かんじょう)されたとしている。光秀が京都の愛宕山で詠んだ句「ときは今あめが下たる五月かな」。歌舞伎の『時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ)』では実悪の美しい武智光秀である。紫紺の衣裳がこれまた色香があり恰好いいのです。黒もあり、色によって印象が違うのも面白いです。

 

  • 大阪の歌舞伎関連場所は、行けそう出て行けなかった、「合邦辻閻魔堂」である。天王寺上町台地の一心寺と天王寺動物園そばの天王寺公園北口信号の歩道橋下にあった。そんな大きな道路に面しているとは思わず、松屋町筋のどこか路地のなかと思ってしまい、地元の人に尋ねたら、「こちらにいらっしゃい。あの歩道橋の下にありますよ。」と教えられる。地下鉄恵美須町駅からきて、申し訳ない。見事通りすぎていた。「浪花名所 合邦辻閻魔堂」の石碑は見落としても「玉手の碑」に目もくれなかったとは嘆かわしい。時間的に戸は閉まっており、またのお出でをということでしょう。歌舞伎『欇州合邦辻(せっしゅうがっぽうつじ)』の玉手は時間の要する役で、そろそろ次世代もじっくり取り組んでいただきたい役である。

 

  • 新世界に寄ると、「グリル梵」の広告板がすぐ目に入った。チョッパーがささやいた。お肉食べて。席が空いていた、ラッキー。新世界が本店というのがいい。カレーにする。よかった!お腹すいていたのでカツともども完食できた。仁左衛門さんのサイン色紙があり、十三代目に見えてしまいご主人にお聞きすると十五代目さんでした。お付き合いが長く、楽屋で書いていただいたそうです。目の焦点の悪さは、他のサイン色紙がどなたのものか全く判別できませんでした。どうやら、谷崎潤一郎さんの『盲目物語』あたりの引きが強いのかもしれません。