「マリア・カラス」とは(2)

  • 映画『永遠のマリア・カラス」は、晩年のマリア・カラスがアパートメントに引き籠って外に出なくなり、それを心配した友人がマリア・カラスの映画を企画する。声は期待できないので彼女の演技力で『カルメン』を映像化して、かつての若い頃のマリア・カラスの歌を編集して合体させるという試みである。

 

  • マリア・カラス役がファニー・アルダンで演技力抜群である。外見や雰囲気などをマリア・カラス本人と比較するのもいいが、ファニー・アルダンの作り上げた歌姫が映画『カルメン』にどう向かいあい、挑み、創り上げていくかで観ていても圧倒される。そのことがマリア・カラスを描くことに通じている。それは、マリア・カラスの友人でもあり、マリア・カラスの舞台を演出したことのあるフランコ・ゼフィレッリ監督が描きたかってであろうマリア・カラスと一致したのである。

 

  • 今回新たに知ったが、フランコ・ゼフィレッリ監督は、ルキノ・ヴィスコンティ監督のもとで仕事をしており、ルキノ・ヴィスコンテ監督はマリア・カラスの舞台演出をしていてマリア・カラスとは、相性が良かったらしくオペラも成功している。『マリア・カラスの真実』でもヴィスコンティ監督とテレビ出演しているマリア・カラスが真摯に監督の話を聞き答えてもいる。『マリア・カラスの真実』をどうして映画館で観なかったのであろうかと、フライヤーをさがして納得。フライヤーが好きでなかったからである。スキャンダルを追っているのではないかと想像したのである。実際の映像はきちんと調べて冷静にマリア・カラスの一生を追っていた。今回見逃さなくて良かった。

 

  • マリア・カラスはヴィスコンティ監督から演技を学んでいたであろう。おそらく呑み込みは早かったと思うし努力もしたであろう。歌を学んだ時のように。マリア・カラス自身も演技力には自信があり、声が出なくなったマリア・カラスにその演技力を求めたのが、映画の中での友人でプロモーターのラリーで、この役がジェレミー・アイアンズなのである。これまた完璧な役どころである。そして、歌と切り離して演技というところでマリア・カラスを復活させようとしたのがフランコ・ゼフィレッリ監督の狙いでもあろう。もしかすると、パゾリーニ監督が上手くマリア・カラスの演技を引き出せなかったことへの対抗心かもしれない。そう思わせるほど、フランコ・ゼフィレッリ監督のマリア・カラスへの友愛が感じられる。

 

  • ロックバンドなどをプロモーターしていて忙しいラリーはマリア・カラスを引っ張り出す企画を考え、若いスタッフがマリア・カラスは過去の人だというのを聞いて益々燃えあがり、逼塞して隠れるように生きている彼女をもう一度よみがえらせようと行動にでる。自分も資金を提供し、儲かるぞと資金提供者も集めいよいよ、撮影に入る。難色を示していたマリア・カラスも撮影が始まると水を得た魚のように、まるで鯉のように飛び跳ねたりもする。

 

  • 撮影のマリア・カラスに、オペラの舞台にのぞむマリア・カラスがいる。完璧主義で、時には傲慢で専制君主のようなところもあるが、生き生きとしている。この撮影場面やその場その場のマリア・カラス(ファニー・アルダン)の表情も眼が離せない。試写も終わりマリア・カラスも大満足。ラリーは次は『椿姫』だと意気込む。ところがマリア・カラスは次は『トスカ』で、今の声で歌って映像化するという。今の声ではお金にならないと資金提供者たちは納得しない。マリア・カラスは今の自分を冷静にみつめ決心する。

 

  • 『カルメン』を破棄してくれとラリーに伝える。この場面の撮り方も淡々としていながらマリア・カラスの言葉を深く心に刻ませる。やはりあの『カルメン』はニセモノである。「マリア・カラスはペテン師だった!」とは言われたくない。ラリーに「私のせいで破産?」と問いかける。ラリーは大丈夫と答える。このふたりの最後の会話がいいのだ。これは創作の世界だからこそできた場面であろうし、ここがまた、フランコ・ゼフィレッリ監督のマリア・カラスへの友愛の熱さである。

 

  • 脇役の女性評論家サラのジェーン・ブローライトの演技も光る。驚いたのは撮影が映画『王女メディア』と同じ人であった。『カルメン』は多数映画化されているが、1954年アメリカのミュージカル映画『カルメン』が長く感じて途中だれてしまった。マリア・カラスが録音したオペラ『カルメン』のCDを聴いてわかった。オペラも長いのだ。CDも2時間40分はある。解説文によると、ビゼーのオペラには、メリメの原作には出てこないドン・ホセの許嫁であるミカエラが登場する。これは、柄の良くない人間が多く登場し、最後は殺人でおわるため、もっと明るく愉しい雰囲気をだすため純情可憐な田舎娘を加えたのだそうだ。

 

  • 「マリア・カラス」とは、個人的にはオペラへの入口となった。作品をどう理解しその真意をどう伝えるか。マリア・カラス関連映像を観ているとオペラの作品に対するのめり込みかたにすざまじさがある。『私は、マリア・カラス』で語る、家庭とオペラを両立できないというマリア・カラスの言葉にうなずけるのである。