シネマ歌舞伎『沓手鳥孤城落月』『楊貴妃』

  • 沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)』。実際の舞台でも落城前の大阪城での臨場感ある場面には圧倒されたが、映画は表情がよくわかるので息を詰める箇所もあった。あの淀君が、千姫を連れ出そうという徳川側の動きを察知して止め、怒り心頭である。さらにそれを企んだ主要人が舌を噛み切って自害するのであるから、なんたる失態かと局たちへの叱責も次第に増大するばかりである。居たたまれない千姫はその場から消え、城を出る。

 

  • 次第に淀君の心は壊れていく。自分の両親を殺した秀吉と一緒になり秀吉亡き後は、秀頼の母としてその権力を握ったわけであるが、今、それが崩れる寸前である。自分と秀頼の位置を脅かそうとしている者たち。そばに仕える者に対する猜疑心。それらがかみ合わさって壊れていくしかない淀君。

 

  • そんな母を見るに耐えない秀頼。この芝居の中の秀頼はマザコンではない。しっかり母親の姿を見据えていて憐れんでいる。この母の姿を広く周知させてはならないと母を殺し、自分も自害しようとする。周囲は、正気に戻るからそれまで待ってくれと懇願する。正気に戻る淀君。秀頼のことは認識できた。しかし、元の母ではない。秀頼は自分が豊臣家としての判断をしなくてはならないと腹を決める。そして側近たちの意見に耳を貸し、徳川に降伏することを決断するのである。

 

  • 映画を観て、この秀頼は凄いと思った。見終わった後、友人と淀君はあの最後の秀頼を育て上げただけでも凄いよと感じ入ってしまった。まさか淀君は自分を客観的に見つめ決断するだけの判断力があるとは思っていなかったのではないだろうか。自分が守らなければの母としてのいつまでも子供である意識である。ところが息子はしっかり最期を自分で決めるまでに成長していたのである。

 

  • さらに観ていて面白かったのは、玉三郎さんという役者さんの大きな壁に向かって他の若い役者さんたちがぶつかっていく姿が大阪城の落城の異常な緊迫感を漂わせているのである。その玉三郎さんの淀君に負けまいとしつつも冷静に心の内をおさえつつ臨む七之助さんが現実と芝居を一致させているところに深さがでた。もしこの壁のない若手同士でやるときはどうするのか。仮想の壁を自分たちで作らなければならないのである。今でもその心構えは必要と思う。いらぬ心配かもしれないが。(松也、梅枝、米吉、児太郎、坂東亀蔵、彦三郎)

 

  • 楊貴妃』は、『沓手鳥孤城落月』の世界からすると、浄土の世界である。玄宗皇帝は亡き楊貴妃が忘れられないでいる。方士に楊貴妃の魂を探し出すように命じる。方士というのは特別の能力がある人のことを指すようで、方士の徐福は秦の始皇帝から不老不死の薬を探すように命じられる。和歌山県新宮市に徐福の墓があった。日本にも来たことになっていて伝説が残っている。

 

  • 『楊貴妃』のほうの方士も難問を命じられたわけである。日本ではイタコという死者の言葉を口寄せで語るのがあるが、『楊貴妃』は姿を現すのである。そして、自分と会った証拠にと簪を方士に与えるのである。シネマ歌舞伎の前に先の映画予告『七つの会議』があって、方士の中車さんが香川照之さんで凄い顔で映っていた。

 

  • 現れた玉三郎さんの楊貴妃は、もう阿弥陀様になられているのを楊貴妃の姿にもどって出てきたという感じである。本来の趣意としては、私も玄宗皇帝のことを想い続けていますよということなのかもしれないが、そういう人間性はもう飛んでいる感じで、玄宗皇帝あなたももうそろそろ救われた気持ちにおなりなさいという風に思えた。これはもしかすると映像のためかもしれない。舞台ではそう感じなかったので。舞台と映像では、違った見方となるのが面白い。

 

  • 映画のあと、友人が『平家物語』の講話を聴いているというので、義仲、義経、頼朝の源氏の同族争いのことや、義経のゲリラ戦術などの話しを聞いた。埼玉県嵐山町散策の後だったので復習のようなかたちとなって楽しかった。嵐山町を案内したいが、足が不自由で無理なのが残念である。