映画『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』、ドキュメンタリー映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』

  • マリア・カラスが貧しい中から才能を開花させたのと同じように貧しい環境から才能を開花させた人は多いであろう。アメリカのフィギュアスケート選手トーニャ・ハーディングとウクライナ生まれのバレリーナのセルゲイ・ポルーニンもそうである。この二人についても映画で知った。

 

  • 映画『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』は、1994年のライバル襲撃事件を題材にしている。ノルウェー・リレハンメル冬季五輪の米代表選手選考委員会で優勝候補のナンシー・ケリンガンが何者かにひざを殴打されて欠場した。優勝したトーニャ・ハーディングの元夫らが容疑者として逮捕され、トーニャ自身も関与していたとの疑いがかかる。トーニャは幼い頃からフィギュアスケートの訓練を受け、トリプルアクセルを成功させた。彼女になにが起こったのかを描いている。

 

  • トーニャ役のマーゴット・ロビーはこの映画のプロデューサーもつとめ、撮影の4ヶ月前から猛特訓を受けているが、バレエとアイスホッケーの経験があったという。スキャンダルも興味あるところだが、そのスケートの演技に驚いてしまった。もちろん編集はしているが、どこからどこまでなのであろうかとその演技力に舌をまく。

 

  • トーニャは、毒舌家できびしく時には手も飛んでくる母に育てられる。母も働いたお金をトーニャのスケートレッスン料につぎこむのであるから並みの性格の人ではない。トーニャはそんな環境でもスケートが好きだったとしか思えないほどの成果をあげてゆく。ところが好きなって結婚した男もDVの常習であった。観ているとこんな環境でよく五輪に出れる才能を開花させたものであると信じがたいのであるが、トーニャはやりとげるのである。

 

  • ところが、トーニャが嫌がらせの手紙をもらったことで、ライバルのナンシー・ケリンガンに対する疑いが生まれ仕返しを考える。それは脅迫手紙だけのつもりが思わぬ展開でナンシーへの襲撃ということになってしまう。トーニャの幼い頃からの閉ざされた環境からくる展開でもあるが、もし彼女が違う環境ならこういうことにはならなかったのではと想像すると残念である。ただ、トーニャは自分の環境を他と比較できる状況にはなかったであろうし、それを受け入れて実力をつけていく強さには賞賛を送ってしまう。それだけに、アメリカスケート協会からの永久追放には胸にくるものがある。ただし悪は悪である。

 

  • 映画でありながらスケート場面の力の入れようが、一人の女性の生きざまを浮き彫りにした。マーゴット・ロビーのトーニャのしたたかさをも感じさせる演技力は、同情だけに終わらせない人の生きることの複雑さをも映し出す。最後に流れる一人息子と元気に暮らしているというトーニャのメッセージがなによりである。したたかに、しなやかに違う人生を築いてほしい。襲撃事件の被害者であるナンシー・ケリンガンの精神力にも驚いてしまう。恐怖と怒りが渦巻いていたであろうがリレハンメルオリンピックでは銀メダルをとるのであるからお見事である。

 

  • ドキュメント映画『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』。最初から大丈夫なのと思わせる。開演まえ控室で薬を飲む。心臓の薬、栄養剤、米軍用に開発された薬、鎮痛剤など。これだけの薬の服用は彼だからなのかそこのところはわからないが、それだけ舞台が肉体を酷使するものであるということなのだろう。彼は、ウクライナ・ヘルソン出身で幼い頃から股関節が柔らかで体操から始めてバレエにかわる。

 

  • キエフ国立バレエ学校に入学させ母とセルゲイはキエフに移り住む。学費を払うため父はポルトガルへ、母方の祖母はギリシャに出稼ぎに行く。11歳のとき学年トップとなり、ロイヤルバレエ学校を受け入学。母はウクライナにもどり、英語が話せないセルゲイは一人英国へ。家族ばらばらとなる。

 

  • セルゲイは成功してとにかく家族を一つにしたかった。ロイヤルバレエ団入団一年後には第1ソリストに昇格。19歳のときロイヤルバレ団の最年少のプリンシバルとなる。ところが、彼が15歳のときに両親は離婚している。セルゲイは決して両親を自分の舞台に招待しなかった。母の子供時代の厳しさ、思いもしなかった離婚で特に母には反発を感じていた。セルゲイの生活はコカイン、タトゥー、パーティー、うつ症状など乱れていき、絶頂期にロイヤルバレ団を退団。タトゥーのあるバレダンサーをアメリカでも受け入れてはくれなかった。

 

  • モスクワでスター扱いされずにテレビ番組で売りこみ、モスクワ音楽劇場のバレ監督・イーゴリ・ゼレンスキーに認められゲスト出演。しかし2年で単調さを感じバレエをやめることを決心。最後の踊りとしてハワイのマウイ島で「テイク・ミー・トウ・チャーチ」の曲で踊り動画で配信。それを見た小さい子がセルゲイの踊りに憧れてテレビの前で踊るのを知る。彼はウクライナに帰り子供の頃の楽しかったバレエ学校にも顔を出し、母とも話しあう。彼はやめれると思ったバレエから離れることができない自分を知る。国立モスクワ音楽劇場の舞台に初めて両親と祖母を招待する。

 

  • その時代その時代のセルゲイの踊る映像が挿入され、その踊りは見事である。才能あるがゆえに、その才能が家族を壊しているということに対する苦悩は、才能=破壊という図式で彼を苦しめたのであろう。観ている方は、何という素晴らし才能であろうかとその踊りに感動するだけである。そして、この踊りが観られないとすれば観客にとってなんという損失かと残念がるしかない。映画を観て初めてセルゲイ・ポルーニンを知ったわけで、やはり映画は未知の世界が観れて知れるという点では嬉しい文明の利器である。セルゲイ・ポルーニンはその後映画俳優としても活躍している。

 

猪突猛進の旅(八犬伝・あしかがフラワーパーク)

猪の年だからというわけではないが、猪突猛進の旅となっているかもしれない。昨年の箱根から始まっているともいえるので、猪とは関係ないかも。まだ行っていない気になる場所をかたずけたいと思って行くと新たな情報を得、方向転換して突き進むということになる。少しお酒の入った猪のジグザグ突進。そこどけそこどけ。

先ずは千葉の『南総里見八犬伝』の<伏姫ノ籠窟>に行きたいと思っていたひとつ。近親者の若い人がつき合ってくれるというので正月早々行動する。彼はこの辺りの海岸線は自転車で走っているらしい。本当は冨山まで登るのが良いのだがそこまでの元気はない。<伏姫ノ籠窟>はJR内房線岩井駅から歩いて40分位で富山の裏参道にある。富山を表参道から登り南峰に到着し、つづいて北峰(こちらのほうが見晴しが良いらしい)へ行き、裏参道から降りるのが一般的であるらしい。そう思っていたらなかなか行動できなかったので<伏姫ノ籠窟>だけとした。短い猪突猛進である。

岩井駅から線路を渡り古い案内図に富山小学校とあるが様子が違う。(今は体育館のみ)それを左手にして進み、さらに福聚院を左手にして進み、芝入口を左に入り冨山中学校をめざす。学校が新しい感じ。富山学園とあり小学校もここに移っていた。あとは道なりに行けば門が見え上に<伏姫ノ籠穴>と書かれていて階段が続く。

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八犬士の名前が書かれた八角形の踊り場があり、先の岩場の間の階段を上ると洞穴があり白い球が一つありその奥に八犬士の名前が見える。

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石板に、「伏姫籠穴へ遠路ようこそお越しくださいました。私は里見義実(さとみよしさと)の娘、伏姫でございます。」と犬の八房とともに十六歳のときに籠り、十八歳のときに童子があらわれ受胎したことを知らされ八犬士の誕生の紹介文がある。文字が見えづらいのが残念である。

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門まで戻ると門の右手上に<犬塚>の石碑があった。

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同道者には先に下りてもらいその先の道の様子を見てもらう。道は20分位は穏やかな道でその先から急な階段道がつづいているとのこと。やはり富山までは無理なようであった。偵察ありがとうである。何となく富山の様子がわかった。

水仙が咲いていてこの時期が空気もクリアで展望にも良い時期だそうである。北峰の近くに<里見八犬士終焉の地>がある。駅にもどると、<伏姫と八房の像>があった。見落としていたようである。

次は栃木である。栃木のパンフレットに<あしかがフラワーパーク>の紹介があった。大藤が有名で冬はイルミネーションである。JRあしかがフラワーパーク駅から徒歩3分とある。JRあしかがフラワーパーク駅 ? 昨年の2018年4月に新駅・あしかがフラワーパーク駅が開業していたのである。かつて藤を見にいったことがあるが不便で駐車場からも歩いた記憶があるので、あそこね!ぐらいの印象であった。栃木県内では、35年ぶりのJR新駅の開業だそうである。両毛線に新駅が。富田駅から徒歩13分とそう遠くもなかったのだが最初の印象が強くその後調べもしなかった。

これは行かなければ。あしかがフラワーパーク駅からイルミネーションを目指して。両毛線は小山駅から高崎駅までの路線で途中駅に史跡など結構見どころの町が多い。岩舟駅はアニメ映画『秒速5センチメートル』にも出てきた駅である。今回は寄り道なしにイルミネーションのみ。新駅から西ゲート入口は車を注意すればすぐである。花をテーマにしていて平地での設定なので歩くのは楽である。そのぶん光に満ちた建物を作りそこを階段で登って降りれるように工夫している。

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小さな藁囲いの中の寄せ植えの花も可愛らしい。

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銀河鉄道の列車は動かないが、警笛を鳴らしている。藤のイメージの光の通路。藤の時期にもう一度きてみようかな。ショップには、お花も売っていて、サボテンの小さな寄せ植えもアイデア。飲食できる外のコーナーには石油ストーブで温まりつつ。人が少なかったのでレストランもゆったりと待たずに飲食できる。ここで佐野ラーメンが食べれた。年越しそばのあとはラーメンかな。伸びないうちに行動開始。

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両毛線は不便ではあるが、楽しませてもらった在来線でもあるので新しい駅ができて人々が利用してくれることを願う。今は無人駅でも利用可能であるから、こういう新しい駅の検討をしてみることも必要かも。スイカなどのチャージは充分にとのことです。埼玉の武蔵嵐山へも行った。木曽義仲の誕生した土地である。この旅については後日。

「マリア・カラス」とは(2)

  • 映画『永遠のマリア・カラス」は、晩年のマリア・カラスがアパートメントに引き籠って外に出なくなり、それを心配した友人がマリア・カラスの映画を企画する。声は期待できないので彼女の演技力で『カルメン』を映像化して、かつての若い頃のマリア・カラスの歌を編集して合体させるという試みである。

 

  • マリア・カラス役がファニー・アルダンで演技力抜群である。外見や雰囲気などをマリア・カラス本人と比較するのもいいが、ファニー・アルダンの作り上げた歌姫が映画『カルメン』にどう向かいあい、挑み、創り上げていくかで観ていても圧倒される。そのことがマリア・カラスを描くことに通じている。それは、マリア・カラスの友人でもあり、マリア・カラスの舞台を演出したことのあるフランコ・ゼフィレッリ監督が描きたかってであろうマリア・カラスと一致したのである。

 

  • 今回新たに知ったが、フランコ・ゼフィレッリ監督は、ルキノ・ヴィスコンティ監督のもとで仕事をしており、ルキノ・ヴィスコンテ監督はマリア・カラスの舞台演出をしていてマリア・カラスとは、相性が良かったらしくオペラも成功している。『マリア・カラスの真実』でもヴィスコンティ監督とテレビ出演しているマリア・カラスが真摯に監督の話を聞き答えてもいる。『マリア・カラスの真実』をどうして映画館で観なかったのであろうかと、フライヤーをさがして納得。フライヤーが好きでなかったからである。スキャンダルを追っているのではないかと想像したのである。実際の映像はきちんと調べて冷静にマリア・カラスの一生を追っていた。今回見逃さなくて良かった。

 

  • マリア・カラスはヴィスコンティ監督から演技を学んでいたであろう。おそらく呑み込みは早かったと思うし努力もしたであろう。歌を学んだ時のように。マリア・カラス自身も演技力には自信があり、声が出なくなったマリア・カラスにその演技力を求めたのが、映画の中での友人でプロモーターのラリーで、この役がジェレミー・アイアンズなのである。これまた完璧な役どころである。そして、歌と切り離して演技というところでマリア・カラスを復活させようとしたのがフランコ・ゼフィレッリ監督の狙いでもあろう。もしかすると、パゾリーニ監督が上手くマリア・カラスの演技を引き出せなかったことへの対抗心かもしれない。そう思わせるほど、フランコ・ゼフィレッリ監督のマリア・カラスへの友愛が感じられる。

 

  • ロックバンドなどをプロモーターしていて忙しいラリーはマリア・カラスを引っ張り出す企画を考え、若いスタッフがマリア・カラスは過去の人だというのを聞いて益々燃えあがり、逼塞して隠れるように生きている彼女をもう一度よみがえらせようと行動にでる。自分も資金を提供し、儲かるぞと資金提供者も集めいよいよ、撮影に入る。難色を示していたマリア・カラスも撮影が始まると水を得た魚のように、まるで鯉のように飛び跳ねたりもする。

 

  • 撮影のマリア・カラスに、オペラの舞台にのぞむマリア・カラスがいる。完璧主義で、時には傲慢で専制君主のようなところもあるが、生き生きとしている。この撮影場面やその場その場のマリア・カラス(ファニー・アルダン)の表情も眼が離せない。試写も終わりマリア・カラスも大満足。ラリーは次は『椿姫』だと意気込む。ところがマリア・カラスは次は『トスカ』で、今の声で歌って映像化するという。今の声ではお金にならないと資金提供者たちは納得しない。マリア・カラスは今の自分を冷静にみつめ決心する。

 

  • 『カルメン』を破棄してくれとラリーに伝える。この場面の撮り方も淡々としていながらマリア・カラスの言葉を深く心に刻ませる。やはりあの『カルメン』はニセモノである。「マリア・カラスはペテン師だった!」とは言われたくない。ラリーに「私のせいで破産?」と問いかける。ラリーは大丈夫と答える。このふたりの最後の会話がいいのだ。これは創作の世界だからこそできた場面であろうし、ここがまた、フランコ・ゼフィレッリ監督のマリア・カラスへの友愛の熱さである。

 

  • 脇役の女性評論家サラのジェーン・ブローライトの演技も光る。驚いたのは撮影が映画『王女メディア』と同じ人であった。『カルメン』は多数映画化されているが、1954年アメリカのミュージカル映画『カルメン』が長く感じて途中だれてしまった。マリア・カラスが録音したオペラ『カルメン』のCDを聴いてわかった。オペラも長いのだ。CDも2時間40分はある。解説文によると、ビゼーのオペラには、メリメの原作には出てこないドン・ホセの許嫁であるミカエラが登場する。これは、柄の良くない人間が多く登場し、最後は殺人でおわるため、もっと明るく愉しい雰囲気をだすため純情可憐な田舎娘を加えたのだそうだ。

 

  • 「マリア・カラス」とは、個人的にはオペラへの入口となった。作品をどう理解しその真意をどう伝えるか。マリア・カラス関連映像を観ているとオペラの作品に対するのめり込みかたにすざまじさがある。『私は、マリア・カラス』で語る、家庭とオペラを両立できないというマリア・カラスの言葉にうなずけるのである。

 

「マリア・カラス」とは(1)

  • 2019年も災害の多い年となるのであろうか。まだまだ災害の爪痕が回復していないところもあるというのに、不安をつのらせる現身の世の中である。そんななか楽しい年であることを願いつつ、そうあるべきように祈りつつ、「マリア・カラス」から始めることにする。

 

  • 昨年の続きということである。昨年12月、ドキュメンタリー映画『私は、マリア・カラス』をみて、マリア・カラス関連の見れる映画や舞台映像、ドキュメンタリー映像などを観た。創作部分の多い映画『永遠のマリア・カラス』は、映画館で観た時よりも創作にマリア・カラスへの愛が感じられて観ていてさらに心に沁みた。作った人の温かさがある。

 

  • 「マリア・カラス」をどのようにまとめたらよいのか。書きつつその流れに任せることにする。『永遠のマリア・カラス』は、マリア・カラスの名前は知っているが歌もきちんと聞いたことはないし、ゴシップ的なマリア・カラスといってもそれほどくわしくはないしで、「マリア・カラス」ってどんな歌手だったのかと興味を持たせてくれた映画である。その映画のあとパリデビューの公演DVD『歌に生き、恋に生き』を購入したらしい。らしいというのはパリデビュー自体がよくわからず、観ておそらく途中で投げ出しているようだ。『永遠のマリア・カラス』は、『カルメン』が主なのである。『カルメン』なら聞きなれた歌もある。ところが、『歌に生き、恋に生き』は素晴らしい声なのであるが、こちらの気持ちとかけ離れていたのであろう。

 

  • 私は、マリア・カラス』では、声が出なくなってからコンサートに切り替えて歌うマリア・カラスの表情が好きであった。『歌に生き、恋に生き』のマリア・カラスは挑むような表情で入りこめなかった。それに比べ、サーカスで子象に観客席まで押されて、子象のお尻を軽くたたくマリア・カラスには生身のキュートさがあった。最後のコンサートは日本で札幌であった。完全主義でもあったであろうし、傲慢でもあったであろうし、とにかく突出している才能を発揮した歌い手であった。

 

  • 私は、マリア・カラス』では、年齢と共に衰えるであろう声に関して、オペラ歌手を続けられるかどうかということに対しては常に頭にあったようである。パゾリーニ監督の映画『王女メディア』に出演するときも、新しいこともやっていかなければと話している。家庭にあこがれるが、家庭と仕事の両立は難しく自分には無理であると語る。どの時点でのインタビューの答えかということが問題になってもくるが、普通の家庭に対するあこがれが非常に強かった。それは、両親が離婚して母に才能をみつけられ鍛えられて自分が望まずに歌い手になったことにもよるのであろうし、オナシスを完全に信じ歌を捨てて家庭に入っても良いと思ったことにもよるのであろう。

 

  • 私は、マリア・カラス』では、マリア・カラスへのインタビューを中心に、その答えかたなどでマリア・カラスの生の魅力を引き出そうとしている。マスメディアでの写真や映像が次々とでてきて、その着こなし、一瞬一瞬の表情の多様性に驚いてしまう。これはドキュメンタリー映画『マリア・カラスの真実』でなぞが解けた。こちらのドキュメンタリーのほうが、マリア・カラスの生い立ち、母との確執、オペラ歌手としての成功、結婚、離婚、オナシスとの関係、最後のコンサートまでの一生を客観的に描いている。舞台衣装も映されて、その豪華な舞台が想像できる。

 

  • 痩せて美しい歌姫となったマリア・カラスの洋服をデザインしていたのがミラノのデザイナーでプッチー二の孫娘のビキ。太っていたころのマリアはスリッパをはいてリハーサルへ行き、ビキは「晴れ着の百姓女」とまでいっている。そこまで言えるのはいかに変身させたかという自信があってのことであるが、1957年にマリアはベストドレッサーに選ばれている。これであの着こなしの素晴らしさの仕掛け人がわかった。マリア・カラスは、洋服にいつどこで着たかラベルをつけたそうでその整理の緻密さには驚いてしまう。そして表情であるが、マリアの演技力である。マリア自身が前奏曲のときに表情で観客を引きつけるといっている。自分の歌い始めからではなくその前に引きつけるのである。

 

  • 私は・マリア・カラス』で次々と紹介されるマリア・カラスのその時々の映像の表情が、演技なのかどうかはわからないが、あらゆる表情があってそこが見どころでもあり魅力的でもある。ただ『歌に生き、恋に生き』を今回観て、その表情は演技力が過剰すぎるきらいがあり歌よりもその強烈さからこちらは引いてしまった。パリデビューは、1958年1月のローマ歌劇場で『ノルマ』第一幕で出演を中止させ怒号の幕切れとなった後の、1958年12月パリ・オペラ座公演である。これがパリデビューである。キャンセル問題から一躍マリア・カラスを再び頂点に引き上げた公演でもある。ここで成功するかどうかは重要な分岐点でもあったが大成功を収める。ただすでに声は下降線であるという人もいる。

 

  • このパリ公演『歌に生き、恋に生き』はモノクロの映像なのであるが、『私は、マリアカラス』では、カラーに直し真っ赤な衣装となっている。映画『マリア・カラスの最後の恋』では同じ衣裳がグリーンにしていてこれにはちょっと驚いた。こちらの映画はオナシスの人の利用の仕方の凄さがわかりそこが面白い。オナシスは死ぬ前に病身でありながらマリア・カラスを訪ねている。償いをしたともいえ、そういう点では最後までマリア・カラスを愛していたのか。それとも彼特有の見せ場としたのか。海運王になるくらいの人であるから、これも彼の最後の演出だったのかもしれない。当人どうしがわかればよいことである。

 

  • パリデビュー公演はテレビでも放映された。そういう意味では、マリア・カラスの演技力はオペラに馴染のない人々にとってもオペラを親しみやすくさせたことだろう。それまでのオペラが退屈なものであるという固定観念をくつがえしたのもマリア・カラスである。ただ、テレビというものが、時間をかけて舞台に完璧主義をもとめたマリア・カラスにとって仇となる。テレビの出現によるスピードはそんなに時間をかける必要はない。人気のある演目をやればよい。そのため『ノルマ』などは80回近く歌うこととなる。こうしたことにもマリア・カラスは不満を募らせていく。そうしたマリア・カラスのオペラに対する姿勢を生き返らせたのが、映画『永遠のマリア・カラス』である。