歌舞伎座5月『慶安太平記』『蛇柳』『め組の喧嘩』

『慶安太平記』は、<丸橋忠弥>で呼ばれる事が多い。徳川家綱の時代の油井正雪が幕府転覆を企てた慶安の変に加担した丸橋忠弥をモデルとした芝居である。

四代家綱の時代は大名などの取り潰しから浪人も多く、その不満を力として軍学者である油井正雪が駿府で、丸橋忠弥が江戸で蜂起することになっていた。その蜂起前の忠弥の様子と、妻の父に訴人され捕えられるところまでである。

お濠の前で中間が屋台酒を飲んでいて、茶碗酒のお変わりに一杯ではなく、茶碗に半分、半分と追加してもよく、そのほうが割安なのだそうである。そんな面白い会話も聴けた。忠弥は酒好きで、花道の出からしたたか酔っている。そこで、自分がどれだけの酒を飲んでるかがセリフとなっている。あちらで何合こちらで何合というので計算しようとしたが、判らなくなった。最後のほうに三升とあったので、三升以上は飲んでいるということであろう。忠弥の松緑さんの酔い具合が好い。堀に石を投げて堀の深さを測るのも悟られない酔っ払いの酔いに任せた不可解の行動である。

ここまでしているのに、なんで簡単に義父に計画を話すのかが納得できなかった。義父の団蔵さんとの間に打ち明けるに必要な緊迫感が無かったのである。この程度で話してしまうのかと不満であった。立ち回りは謀反人であるから壮絶さがあるであろうと予想したが、工夫された立ち回りでその通りとなったが、槍の名手ということであろうか、前の鴨居を持っての立ち回りはダレてしまった。あの部分はもう少し短くしたほうが、事敗れた忠弥に寄り添えたと思う。緩急にづれがあった。

『蛇柳』も同様にづれてしまった。期待していたのであるが、よく理解できなかった。内容は理解できなくても、色彩的に美しい舞台とか、音と動きに迫力があるとか、霊気が感じられるとか、何かを感じたかったがうーんという感じで、最後に海老蔵さんが、押し戻しで出てきた時、ぱっと明るくなり、さすが時代を通過してきた色彩美であると安堵した。<蛇>と<柳>。何か工夫が欲しかった。

『神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)』。通称『め組の喧嘩』である。これだけの若い役者さんの揃う『め組の喧嘩』は初めてである。皆さん、自分が一番格好いいだろうとばかりにイナセであり色気もでてきた。江戸の町火消が人気があったのが解かる。取的も負けてはいない。力士と鳶の意地を張っての喧嘩を描いたたわいない芝居であるが、江戸の風俗たっぷりの愛嬌のある演目である。

『幡随院長兵衛』の夫婦の別れと違って、め組辰五郎の菊五郎さんを女房お仲の時蔵さんが、なんで仕返しにいかないのかとけしかけるのが伝法である。芝居小屋前では大きな声が上がると何かあったのではないかと若い者の心配をしつつ、ここぞとなれば、頭の女房の腹である。力士側の左團次さん又五郎さんも大きく、梅玉さん、彦三郎さんの押さえも効き、団蔵さん、権十郎さんも熟練役者としての形を見せる。実際に血気盛んな若手の前で菊五郎さんは立ちはだかりしっかり舞台を締められ、<め組の大喧嘩>となった。

歌舞伎座5月『摂州合邦辻』

『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』<合邦庵室の場>。この作品に対する観る側の土台がやっとできた。それは、菊之助さんの玉手の無機質感が、この作品の基本を見せてくれたと言える。

お辻という女性が、後妻に入り、その家の先妻の子・俊徳丸と妾腹の子・次郎丸の家督争いから、この二人の子の命を守るという筋である。夫に話せば、次郎丸は殺されるであろう。そうさせないために、玉手御前(お辻)が考えた手段とは。そのことが明かされるのが<合邦庵室の場>である。歌舞伎であるから、色々な手が考えられる。妖怪をだそうと、忍術を使おうと奇想天外のほうが、さすが歌舞伎と喜ばれるかもしれない。そこを、芸で見せて納得させる作品の一つである。

次郎丸は先に生まれている。しかし、正室の子として俊徳丸が後から生まれ、家督は俊徳丸へ継がれるであろう。そこで、俊徳丸を殺す勢力が出てくる。玉手は二人の継母である。玉手はどちらも死なせるわけにはいかないと考え、俊徳丸をこの家から逃走させることを考える。その手段が俊徳丸に恋を仕掛け、業病を発症させる毒を飲ませるのである。世を儚んで俊徳丸は恋人・浅香姫とともにさまよい、玉手の親の合邦の世話となっている。

玉手は俊徳丸を探すため家出し、実家にたどり着く。父母は事の次第を知っているから合邦などは、いまいましい心持ちである。その合邦の気持ちを逆なでするように、俊徳丸に言い寄り、浅香姫に嫉妬する。ついに我慢できなくなった合邦は玉手を刺してしまう。ここまでの玉手の菊之助さんが、何かに取りつかれたような感じである。何を言われようと俊徳丸恋しいの狂気性を帯びている。花道の出から妖気が漂っていた。

玉手は、人目をはばかり、着物の右片袖を取り外し、頭から被っている。その着物の色が紫を少し含んだような濃紺である。人形浄瑠璃から始まっているから、人形使いさんが考えたのであろうか。袖の外れた右腕には、花模様の朱色の襦袢である。こういう衣装の色使いの発想が凄い。もしかすると、俊徳丸に対する本当の恋心があったのかもしれないと思わせる。現代でこれをやると見え見えの安っぽさになってしまう。頭から外されたこの片袖は、玉手の口説きのとき使われたりする。上手く使われそれが効果を出すのである。

筋は知っているが、その場では役者さんの演技に乗せられるて進むようにしているので、周囲の戸惑いがよくわかる。毒を飲ませたうえに、若い身とて、義理の息子に恋い焦がれるとは尋常ではない。親であれば情けなくて殺したくもなり自分も死のうと思うであろう。合邦はついに玉手に手をかける。玉手にとってこれが目的であった。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に生まれた女の肝臓の生き血を飲ませると俊徳丸の業病を治すことが出来るのである。自分がこの条件にあるので、俊徳丸に毒を飲ませたのである。それも、アワビの貝を盃にして。その盃で、生き血を飲ませるのである。俊徳丸は全快する。このアワビの貝の盃というのも面白い。<鮑の片思い>である。この盃を懐に抱き俊徳丸を探すのである。

もしかすると、継母としての親心だけではないかもと疑わせる色香が必要な役でもあるが、菊之助さんはそこまでは踏み込まず、人としての一心不乱の様を表した。

観るほうとしては、そこの基本まで伝えてもらえば、次の演じ手に期待するだけである。次はどなたであろうか。もしかすると菊之助さんかもしれないし。探しにいくのではなく、手ぐすね引いて次を待つことにする。歌舞伎は<鮑の片思い>の観客が沢山おられるので、役者さんも大変である。上手くいけば良し。気に添わなければ、今回は盃お返しいたしますてなことになり兼ねない。

俊徳丸が、継母の恩に報いるため、月光寺を建てるという。再度、浄瑠璃の床本を調べた。

「継母は貞女の鏡とも曇らぬ心は清(す)める江(え)に、月を宿せし操を直ぐに、月江寺(げっこうじ)と号(なつ)べし」とあり、<月光寺>ではなく、<月江寺>であった。<月江寺>は浄瑠璃が上演される前からあるお寺である。

「仏法最初の天王寺、西門通り一筋に、玉手の水や合邦が辻と、古跡をとどめけり」の<合邦辻閻魔堂>は、ゆかりのお堂として今も病気平癒を祈願する人々が訪れているようだ。

やはり、西方浄土を考えての位置設定をされたようである。俊徳丸は継母の玉手御前をきちんと西方浄土へ送り出す場所で平癒し、弔うのである。再度こちらに基本を納めてくれた舞台であった。

玉手御前(菊之助)、俊徳丸(梅枝)、浅香姫(尾上右近)、奴入平(巳之助)、合邦道心(歌六)、母おとく(東蔵)

大阪と江戸

 

歌舞伎座5月 『天一坊大岡政談』

歌舞伎観劇前に読み終わるであろうと思っていた柴田錬三郎さんの『徳川太平記 吉宗と天一坊』が半分までしか進まなかった。小説では悪の強い山内伊賀之介と、これまた悪にまみれそう天一坊である。<徳川太平記>とあるように、赤穂浪士のこと、紀伊國屋門左衛門らの商人のこと、庶民の生活模様も出てきて調べたくなり寄り道続きで時間がかかる。読み進むと小説と歌舞伎の登場人物が重なりそうなので、歌舞伎も『天一坊大岡政談』から始めて、心おきなく小説の続きにはいることにする。

それにしても、歌舞伎役者さんは、今の芝居を演じつつ、来月の芝居のセリフを覚え役の探究をするのであるから凄いことである。

『天一坊大岡政談』は、解かりやすい。紀州の法澤(ほうたく・菊之助)という坊主が、娘が吉宗の子供を産みそのお墨付きと短刀を持っていた老婆(萬次郎)を殺し自分が御落胤に成りすますのである。吉宗の子とその母親もすでに死んでいる。法澤は自分の師も殺し、下男の久作(亀三郎)に師と老婆殺しの罪を被せ紀州を出立する。

法澤は、自分の計略のために仲間を増やす。その一人の僧(團蔵)は、名前が天一坊という名前の子坊主を殺し、法澤を天一坊と改め、法澤という人間をを消し去る。さらに、九条関白家の浪人・山内伊賀亮(海老蔵)を味方とする。

江戸では、偽物であると看破している大岡越前守(菊五郎)の対決となるが、大岡の追及を伊賀亮が見事かわし、大岡は責任を取って息子(萬太郎)と切腹する寸前、紀州に天一坊の素性を調べにいっていた池田大助(松緑)が久作を連れて帰り、天一坊とは全くの偽りで、法澤であることが露見し、大岡の名お裁きとなる。

人の良さそうな法澤が、ご落胤と同じ年月日のうまれで、孫のように思って漏らしてしまった老婆の昔話が、法澤の中に火を灯す。何んという美しい短刀であろう。自分と違う世界がある。鼠殺しの薬。法澤の周りに燃える火の種が増えて行く。どういうわけか、法澤の左腕には<天>の一字の赤いアザがあるのである。菊之助さんが次第に悪の炎を見せて行く。

山内伊賀亮が九条関白家の浪人という事で、公家のほうに仕えていた浪人ということであり気位も高く、知恵もありそうである。海老蔵さんが着流しで座って着物の端を手のひらを見せて整える仕草に、こういう正しかたがあるのかと目が止った。その所作が美しかった。すでに、天一坊は自分の意思でご落胤に化けようと決心しているので、芝居では天一坊と伊賀亮関係が希薄である。そこが残念である。芝居では伊賀亮の役目は大岡との対決である。<網代問答>は朗々とよどみなく答える。ただ言葉が難しい。

窮地に追い込まれた大岡は息子と共に切腹の支度をしている。妻(時蔵)も自刃覚悟である。大岡は、介錯として家来平石(権十郎)を呼ぶ。権十郎さんの台詞のトーンがいい。突然切腹の場面で入り込めなかったのが、この方のセリフで次第にことの重大さが伝わてくる。大岡の腹は決まっているが諦めきれない心持ちを家来の権十郎さんが引き受ける。必ず役目を果たすと誓って紀州に向かった池田大作の松緑さんが到着する。大岡の目に狂いはなかった。

ここからは、大岡越前守の菊五郎さんの見せ場である。久作という生き証人を出してのお裁き。天一坊が白を切っても黒である。白黒はっきりのお裁きは、庶民にとってはいつの時代も人気があったようで講談で評判を呼び、河竹黙阿弥が明治に入って歌舞伎として書き下ろした。

男子高校生の観劇の日で、『天一坊大岡政談』の休憩の時、「俺ダメだよ。ことばが分らない。なんかダメなんだよな。」「滑舌がダメなのか。」「いや、滑舌はいいんだと思う。言葉なんだろうな。」と、もどかしく思っている気持ちの学生さんがいた。<滑舌>という言葉に、今の若い人のほうが、音に対する敏感さがあるのかもしれないと思った。もどかしいとそこまで引っかかっただけでも凄いことである。

この芝居の前が『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』である。『天一坊大岡政談』を見終わった後は、どんな感想だったのであろうか。聞きたかった。

 

明治座5月花形歌舞伎『矢の根』『鯉つかみ』

『矢の根』。市川右近さんの五郎は元気いっぱいで、初役とは驚きである。澤瀉屋の荒事の代名詞的役割である。コタツ櫓に座っての振りは、今回は右手が気になってずーと見ていた。あれはこのように動かすという約束ごとがあるのであろうか。右手の動きが五郎を大きくみせていた。五郎は派手で豪華な衣装を着ているのに貧乏暮らしなのである。そこが庶民の五郎贔屓の表れなのかもしれない。声もいいし、稚気もありスカッとさせてくれた。亀鶴さんは大薩摩文太夫もお正月に相応しい行儀も良さがあり、笑也さんは十郎の憂いがあり、猿弥さんの馬方はいつもながらのひょうきんな明るさで組み合わせもよかった。

『鯉つかみ』。「鯉や鯉なすな鯉」ではないが、鯉の尾ひれパンチには笑ってしまった。魚類では、一番の出来である。目玉を白黒させ、死んだ真似もして、愛之助さんの空手チョップもなんのそのである。尾ひれパンチの水しぶきは迫力があった。

これは初めて観る。今回通し狂言としたということで、愛之助さんは六役の早変わりである。奴はわかるが、みんな白塗りのいい男の役なので、途中からやっと役が理解できたりする。そして、筋が解りづらい。最初に俵藤太のムカデ退治があり、そのあと、琵琶湖の水中の世界となるらしいが、そこらがよくわからなかった。市川右近さんが御注進で説明にくる。この御注進は格好よく動きもよいが、言葉が難しくてよく理解できない。筋書きによると、俵藤太が倒したムカデの血が琵琶湖を汚し、鯉一族の皇子が龍に変化できるところが、血で汚れて龍になれず、末代まで俵藤太家を恨むということらしい。それで、愛之助さんの白い着物が赤くなったのかと納得した。

この俵藤太の末裔の釣家が鯉一族の怨みから、釣家の娘小桜姫を鯉の精が化けた志賀之介を好きになってしまう。その小桜姫と鯉の精・志賀之介の夢の中での逢瀬から流れが解って来て面白くなってくる。小桜姫の壱太郎さんと鯉の精の愛之助さんが優雅に舞う。夢から覚めると志賀之介が現れ、小桜姫と志賀之介は手を取り合って奥へ入る。釣家では家宝の龍神丸が紛失しているが、奴がそれを取り返し届け、鯉の精も本物の志賀之介に弓で射られ、琵琶湖に逃げ込み、そこで、大鯉と志賀之介の愛之助さんとの本水舞台の闘いとなり、鯉退治となるのである。

ムカデ退治と鯉退治があり、ムカデ退治によって害をなした鯉が怨みに思って仕返しをしようとするが、やっつけられてしまうのである。龍神丸はムカデを退治した刀で、それを欲しがる一群が絡むのである。

釣家の家老夫婦の亀鶴さんと門之助さんがきっちりと釣家の格を表した。愛之助さんは六役もやらなくても良かったように思う。通し狂言としての話しを煮詰めることが肝腎と思う。

最期の鯉退治が充分見せ場として盛り上がった。よく解らないが、せっかくだから一緒に盛り上がらなくては損々という感じで楽しませてもらった。鯉さんも愛之助さんもご苦労さんである。

 

明治座5月花形歌舞伎『男の花道』『あんまと泥棒』

『男の花道』は、映画で、長谷川一夫さんと古川緑波さんのコンビで大当たりしているが、残念ながら映画は見ていない。お二人の『家光と彦左』は見ていて面白いと思ったのでどこかで出会いたいと思って居る。( 『三千両初春駒曳』から映画『家光と彦左』 )

筋書によると、 長谷川一夫さんが『男の花道』を舞台化されたとき三世加賀屋歌右衛門を長谷川一夫さん、医者土生玄碩(はぶげんせき)を二代目猿之助さんが演じられている。猿之助さんは4月には、名古屋中日劇場で、『雪之丞変化』もされ、さらに『あんまと泥棒』は十七代目勘三郎さんと長谷川一夫さんが組まれている。この『あんまと泥棒』は先代中車さんと先代段四郎さんが、ラジオ放送で組まれたそうで澤瀉屋にとっても縁のある作品ということになる。

猿之助さんの中には、かつての時代劇映画が歌舞伎から流れそれが舞台化され、それをまた歌舞伎にして継承するのも今ではないかと思われているようである。竹三郎さんが、長谷川一夫さんからの秘伝を教わっており、それを埋もれさせるのは勿体ないとの想いがある。

『男の花道』は、三代目加賀谷歌右衛門(猿之助)が上方から江戸の中村座に出るため出立するが、眼の病で歌右衛門は役者として続けられないとの絶望の中で、眼科医土生玄碩(中車)に出会い治してもらう。もし先生から来て欲しいという時はいついかなる時も参上しますと約束する。その約束通り、玄碩の手紙が届き、玄碩の窮地を救うという筋である。興味があったのは、どのような時に玄碩の手紙が届くのかということであった。

『櫓お七』の梯子を登るところであった。猿之助さんの人形振りをたっぷり見せられたあとである。その前の、失明前の歌右衛門が、眼の見えない役を稽古したりと、舞台ならではの歌舞伎の実演があるのが楽しい。そして、歌右衛門のお客さんにしばしの猶予をお願いするところが、現実の舞台のお客さんに参加してもらうという手法へと移る。舞台の実感をそのまま、芝居の中に滑り込ませるのである。そして、男の約束を果たし、そこでまた歌右衛門であり猿之助さんの舞いを見せる。

歌右衛門と玄碩がそれぞれ、役者としての力量と誇りを見せることで、眼科医としての腕と誇りを見せることで、歌舞伎としての厚みが出た。中車さんの玄碩は、無理のない演技で意思を貫き、これまた武士の見栄を押し付ける田辺嘉右衛門の愛之助さんに、「今舞台中だぞ。芝居を大事にする歌右衛門がそれを捨てて来るかな。」の言葉に、自分の軽率さを悔やむ。それを腹におさめ待つところも良い。苛め役の愛之助さんの自分が負けた時のさっぱりとした潔さが愛之助さんの愛嬌である。秀太郎さんの座敷の取り仕切りもいつも軽くそれでいてリアルで手堅い。

弘太郎さんの按摩に一つ学んだことがある。旅籠の畳の縁を片足でスーッと触りながら移動するのである。なるほど、今まで気がつかなかった。亀鶴さんの少し襟元を崩しての出が良い。玄碩に食ってかかりながら、歌右衛門の治療に土下座して頼んだり、歌右衛門の包帯を取る時心配でまともに見られず俯いていたり、一つの役に仕上げている。壱太郎さんの鼓も良い。男女蔵さんらお馴染みの方々が円滑に納まっている。

『あんまと泥棒』は、中車さんのあんま秀の市と猿之助さんの泥棒権太郎である。二人芝居の台詞劇である。あんまのところに泥棒が入り、泥棒があんまに意見されるのである。中車さんにはポーカーフェイスとは何ぞやを思い起こして頂きたい。この役をどう工夫しようかという力が見えすぎる。泥棒権太郎に向かっているのではなく、猿之助さんの芸歴に挑んでいる。そして、映像で期待される、香川照之になっている。とんまな泥棒があんまに騙されてお金まで投げていくのである。私なら投げない。どうみてもくせのあるあんまがずーっとそこにいるのである。ひとくせもふたくせもあっても、相手の気の許す愛嬌が必要である。全然気が許せない。

くせのある役はお手の物であるがゆえに、ただの人の情けで倖せに暮らしている按摩さんに重心をかけて、では一寸くせのあるほうをと重心を少し移してとの変化が欲しい。

お二人の軽妙なやり取りを期待したが、演技の上手さはわかるが、それぞれの芸歴が邪魔をした。

原作は村上元三さんで、初演は明治座で、あんまの勘三郎(十七代目)さんと富十郎(五代目)さんである。

映画の中で歌舞伎が出てくるものの一つに、『お役者文七捕り物帖 蜘蛛の巣屋敷』がある。役者でありながら、勘当された錦之助さんの文七が、その実父でもある時蔵(三代目)さんを助けるのであるが、そこで演じられるのが時蔵さんの『女暫』である。この年に時蔵さんは亡くなられている。映像でお目にかかれた。

庶民に愛された時代劇を、歌舞伎として復活させようとする猿之助さんの試みは、大衆文化の継承の一つの形として心強い試みである。

 

 

『炎の人 式場隆三郎 -医学と芸術のはざまで-』

市川市文学ミュージアムで企画展を開催している。三月からやっていたようだが、五月に入って知った。チラシの<炎の人>に惹きつけられた。やはりゴッホである。ゴッホ関連の訳者として名前があったのかもしれないが記憶には留めていない。

新潟に生まれ、文学に目覚め、新潟医学専門学校に入る。この時、雑誌『白樺』でゴッホを知り、精神科医となりゴッホの研究を続けた人である。ゴッホ関係の書物は50冊を超え、本の装丁にもこだわり、芹澤銈介さんの装丁が30冊を超える。

ゴッホと弟テオ双方のそれぞれに宛てた書簡を翻訳し、さらに、ゴッホを描いた文学作品や伝記小説にも関心をよせ、翻訳している。その中のステファン・ボラチェック著『炎の色 小説ヴァン・ゴッホの一生』を翻訳。その本の愛読者だった劇団民芸の岡倉士朗(演出家)さんと滝澤修さんが式場さんを訪れたことがきっかけで、三好十郎さんに脚本を依頼することになるのである。民芸公演で式場さんは、制作委員長になっている。

<この芝居を最も喜んでいるのは、私かも知れない。>とし、新橋演舞場での千秋楽で<最後の幕がおりたとき、私は涙のこみあげてくるのを抑えることができなかった。>と昭和26年の『民芸の仲間 第3号』に寄稿されている。新橋演舞場は超満員で、各地も公演で10万人以上の観客を集めている。

柳宗悦が提唱した民芸運動にも参加。『中央公論』や『改造』などの総合雑誌や新聞にも寄稿し、病院勤務が困難となり、市川に国府台病院を開院する。スイスのレマン湖畔の精神病院の庭園に感銘を受け、病院内にバラ園を造成する。

八幡学園の顧問医となった式場さんは、そこで山下清さんを知り、彼の後援を行い、作品の発表に尽力するのである。

その他、日比谷出版社を設立し、長崎の永井隆博士の『長崎の鐘』なども出版している。

ゴッホゆかりのひとからの手紙。芹澤銈介さん装丁本。棟方志功さん装丁の『炎と色』の限定本。ゴッホ生誕百年祭に行われた展覧会の様子。深川にあった精神を病んだ人が建て不思議な家の資料。ロートレックの研究。山下清さんの直筆文。数多く展示品があり、式場さんの仕事の範囲と深さに驚く。このかたの睡眠時間はどの位だったのであろうかと思ってしまう。

式場隆三郎さんこそゴッホと同じ<炎の人>として、捉えたのがわかる。この方によって、知らされ広がった芸術、演劇、映画の恩恵を今も受けている。

よくわからないが、<洗濯療法>という本もあり、洗濯は精神活動に何か良い影響があるのか興味があったが内容はわからない。

講演会もあったようであるが、知るのが遅すぎた。しかし、こういう方がおられたことを知っただけでも、幸いである。この方によって、ゴッホの絵と精神は深く静かに人々の目と耳と心を働かせる力となったのである。

会期は5月31日(日)までである。

『炎の人 式場隆三郎』展の図録の年賦を見ていたら、ロートレックの伝記小説で、ピエール・ラ・ミュール原作『ムーラン・ルージュ』も翻訳して刊行していた。この原作が映画『赤い風車』で、ホセ・ファーラーがロートレックを演じている。

さらに、歌舞伎役者・守田勘弥さんの後援会長にもなっている。

『炎の人』から『赤い風車』 無名塾 『炎の人』(1) 無名塾 『炎の人』(2)

映画『江戸っ子繁盛記』

映画『江戸っ子繁盛記』は『宮本武蔵』の脚本も手がけた成澤昌茂さんである。『芝浜』『魚屋宗五郎』『番町皿屋敷』の三つを組み合わせた作品で、魚屋勝五郎(萬屋錦之介)が三つの世界を生きてしまうという繁盛ぶりである。

『魚屋宗五郎』は、歌舞伎では『新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)』のなかに『魚屋宗五郎』があり、上演も『魚屋宗五郎』が主である。こちらは、宗五郎の妹のお蔦が磯部のお殿様の愛妾となっていて、横恋慕の家来の策略でお殿様に斬られてしまうのである。

映画のほうでは、魚屋勝五郎(萬屋錦之介)は、時間を間違えて誰もいない早朝の浜で、財布を拾い百両を手にするが、それが夢で、その後はお酒も絶ち、真面目に働くのである。気にかかるのは、しばらく顔を見せない妹・お菊(小林千登勢)のことである。お菊は青山播磨(萬屋錦之介)に見初められ奉公に上がっているのである。勝五郎の夢の中に現れ、青山播磨のことは恨まないで下さいなどと言ったりする。

見ているほうも、このお菊さんはどうなるのであろうかと気になるし、映画ではどういう展開になるか楽しみである。錦之介さんの、一心太助ではない、貧乏な魚屋勝五郎が上手いのである。お金を拾って長屋の連中とお酒を飲み酔っぱらう所もいい。1961年同年の先に『宮本武蔵』を公開しているから、役の幅が出来てもいる。なかなか芸が細かい。娯楽映画でありながらそのあたりも楽しませてくれる。

そしてお菊のこともなかなか出て来ないのが客を引っ張るこつである。お菊が亡霊となって勝五郎と女房・お浜(長谷川裕見子)の前に現れ消えてしまう。お屋敷から、お菊が死んだという知らせが入る。遺体は無いという。長屋の連中は、勝五郎に同情し長屋中のお酒を持ってきて飲ませる。ここからが、『魚屋宗五郎』の酔いっぷりとなり、播磨に、真相を直接聞きに行く。播磨は静かに事の次第を話す。

青山家は三河の出で、徳川家直参の旗本である。ところが、天下泰平の世なれば、無用の存在で何かとはじかれる。面白くない播磨は町奴との喧嘩に明け暮れ、その心を癒してくれるのが、お菊であった。将軍家より、高麗皿が拝領され、この皿で後日もてなすようにと言われる。役人が皿を確かめにきて開けてみると一枚割れている。仕組まれたのである。お菊は主人の責任になってはならぬと自分が割ったと主張し、播磨も仕方なく斬らざるおえない。お菊は切られ苦しみつつ井戸に落ちてしまう。

播磨は、黙っていても潰されることはわかっているので、勝五郎に自分は何れ菊のもとへ行くと告げる。勝五郎は、二人の深い仲を知り納得する。播磨は、幕府が取締りに出るであろう、町奴と旗本の争いに飛び込んでいき死を選ぶのである。

勝五郎夫婦は二人を弔う。ある日大家が顔を出し、かつて勝五郎がお金を拾ったのは夢でないことを伝え、目出度し目出度しである。

三つの話しを上手くまとめ、錦之介さんの魚屋勝五郎も良く、すっきりした娯楽映画になっていた。監督はマキノ雅弘監督である。

『江戸っ子繁盛記』の錦之介さんを見て、評判の高い『関の彌太ッペ』(1963年)を見る。脚本が成澤昌茂さんで、監督は山下耕作監督である。原作は長谷川伸さんの同名戯曲。なるほどこれも見せてくれる。ひょんなことから幼い娘を助ける。その子は年頃になっても、助けてくれた人のことが忘れられない。しかし、その人は姿、人相も変わり果て、娘に名乗れないのである。娘と分れての何年か後の弥太郎(錦之介)は目も凄味、頬には傷跡がある。お化粧の工夫が上手い。むくげの花を挟んで笠を被ったままの弥太郎と娘・お小夜(十朱幸代)とのシーンは山下監督ならではの情感たっぷりの美しい場面である。<情感溢れる美しさ>の錦之介の映画にレンタル店でなかなか手がのびなかったのであるが、むくげの花をぼかし、弥太郎のやるせなさが伝わり、甘味料の甘さはなかった。最後の弥太郎の別れの挨拶の言葉でお小夜はこの人だと気がつくのであるが、弥太郎の姿はない。

萬屋錦之介(改名の時期が記憶できないので、萬屋錦之介に統一させてもらいます)さんなどの映画を見ていて、、役柄の幅も広がり演技の工夫と実力も備わるので、新しい分野の映画に挑戦したいという気持ちが解る。

『孤剣は折れず 月影一刀流』(原作・柴田錬三郎/脚本・成澤昌茂/監督・佐々木康 1961年)は鶴田浩二さんの時代劇であるが、予想に反して、時代劇も悪くない。見ていない<次郎長物>も見てみようと思った。

成澤昌茂さんは、監督もされておられるが、脚本の仕事のほうが圧倒的に多く、ジャンルが広い。高峰秀子さんと芥川比呂志さんの『雁』(森鴎外原作・豊田四郎監督)は好きな映画であるが、これも成澤さんの脚本だったのである。どうなるのか、期待感をもたせ、最後は悲恋でも、ストンと納得させてくれるところが上手いかただと思う。

 

前進座 『番町皿屋敷』『文七元結』

前進座五月国立劇場公演である。

『番町皿屋敷』は、平塚市のお菊さんの<塚>と<お墓>を訪ね終えたばかりでの観劇である。さらに、1月には、松竹歌舞伎で歌舞伎座でも上演されている。今回前進座は、『番町皿屋敷』では従来女形を当てて来た役に女優さんを起用した。

お菊には、今村文美さん、青山播磨に嵐芳三郎さん、播磨の伯母に妻倉和子さんである。女形での『番町皿屋敷』は何回か観ていて、さらに1月の芝雀さんが脳裏にのこっているので、始まってしばらくは、女優さんに違和感があった。歌舞伎を最初に観た方は女形のほうが違和感があるであろうが、女形に見慣れてしまうと、女優さんの女の生身がどうも苦手になってしまう。感覚的で説明のしようがないのであるが。お菊が登場した時から潜在意識が作用したが、後半からの播磨のセリフ劇あたりからは芝居に集中できた。

この芝居自体が、少し無理な所もあるのである。皿屋敷伝説を土台にして、純愛にしたて、純愛としてお菊を手打ちにしなくてはならないのである。終演後にトークショーがあり、芳三郎さんは、お菊が手打ちとなる哀れさから、播磨の気持ちの純粋さを感じてもらうのが難しいと言われていた。

殿様と腰元の恋である。お菊は、播磨に妻にすると言われても播磨に縁談の話しもありどこかに信じきれない部分がある。それをお手打ちもあり得る家宝の皿を故意に割ることで、試したのである。そこをお菊の一途さとしている。しかし、自分の純粋な恋ごごろを疑われた播磨の無念さがお菊を手打ちにする。解釈として、単なる播磨のプライドではないかとも考えられる。播磨は最終的には、自分の気持ちを疑われ皿で試されたプライドが許さなかったのではないかとすると、この物語もガラガラと崩れるのである。そして、町奴との喧嘩も播磨のプライドだけの問題であるとなる。そこを、恋にたいしては、純真な一人の男として設定しており、そう思わせるのが難しい。

岡本綺堂さんは、事実が判った時点で、お菊に残りの皿を出させ、播磨はそれを自らの手で割り、お菊に皿の枚数を数えさせる。その部分は、文美さんのお菊は恐れおののき、芳三郎さんの播磨は怒りを静めてもう一度自分のお菊に対する自分の感情を確かめようとしている。このあたりが若いお菊と播磨の感情に写った。

吉右衛門さんと芝雀さんの時は、この時すでに、お互いがお互いの気持ちを読み取り、最後は二人で自分たちの大切な恋を一つ一つ壊していくようであった。

役者さんによって、心の内が違って見えるのが面白い。芳三郎さんは、自分の気持ちを高らかに思い存分語る。お菊の文美さんは納得し静かに手を合わせる。お菊は弁解するセリフはなく、身体で語らなければならない。

お菊の死体は井戸へ投げ込まれ、家宝のお皿を壊した者への成敗と、恋の消えた一人の男の闘争心が残る。純愛だけに、この作品を消化するのは大変である。女優さんにしたことで、また一つの見方が増えたのかもしれない。

萬屋錦之介さん主演の映画『江戸っ子繁盛記』というのがある。これは、『芝浜』『魚屋宗五郎』『番町皿屋敷』の三つを上手く組み合わせたもので、この青山播磨とお菊の関係と播磨がなぜ町奴と喧嘩をするのかの理由がはっきりしていて面白かった。そのことは後日。

人情噺『文七元結』は、これが、前進座の前進座たる芝居の面白さなのかと思った。松竹歌舞伎と前進座の歌舞伎との面白さがそれぞれ違うと言われるのを耳にしてきたが、それが具体的に分らなかった。『文七元結』で初めてこういうところなのかも知れないと感じたのである。

そこに江戸時代の長屋の住人がいる。気持ちの切り替えの必要がない。上手い噺家さんの実写に自然に入り込まされていく流れである。娘・お久が見つからず、左官の長兵衛と女房・お兼は不安の中で喧嘩である。これがいつもの喧嘩と調子が違うのが感じ取れる。お久は父のバクチとお酒から借金でどうすることもできないのを知って自分から吉原の遊女屋佐野槌に身を売ったのである。

佐野槌は長兵衛が仕事をしたお店でもあり、女将さんは事情を知っていて、一年はお久を店には出さないと言ってくれる。娘に母親のことを頼まれ、父親として形無しの長兵衛であるが、涙を流して仕事に励むことを約束する。ここでの長兵衛とお久は、駄目な父親でありながら、その心根は悪くなくお久の気持ちを素直に汲む実直な親子関係を表す。藤川矢之輔さんの長兵衛と本村祐樹さんのお久親子の情愛が伝わる。この場面を、お金を取られて川に身を投げようとする文七に語って聞かせるところは、聞かせどころで、涙が浮かぶ。

文七の忠村臣弥さんと長兵衛の弥之輔さんの川に飛び込むところを止めるやり取りの動きがいい。主人の信用を受けて今は死しか頭にない若者と、散々迷惑を掛けておきながら江戸っ子気質は生きている職人の対比を身体のからみで見せてくれる。

なんでこんなところに選りによって遭遇してしまったのかという、長兵衛の気持ちも、他人ごとではない可笑しさでこちらに跳ね返ってくる。ついに、お久が身を切って作った50両のお金を若者に投げつけて立ち去る。

一晩、長兵衛とお兼はすったもんだである。お兼の河原崎國太郎さんの声が声高にキンキン響かせないのが良い。国太郎さんのお兼が、どこともわからない若者に死ぬというのでお金を渡したと言われても信じられないの怒りに、現場を見ているこちらも、それはもっともだと思わせる。その二人の聞き役が、大家さんの中村梅之助さんである。

しかしその若者は、主人の嵐圭史さんと共に現れる。使い先の屋敷にお金は置き忘れてきていたのである。文七はとお久は夫婦として結ばれることとなり、文七は暖簾分けも許され、元結を切り売りする工夫を話す。商売もうまくいくであろうとハッピーエンドである。庶民感覚と動きが無理な誇張ではなく一致していて、<人情噺>としての情と軽さが程よい味わいであった。

前進座の人気演目とあったが、納得である。今回、本村祐樹さんと忠村臣弥さんは大抜擢だそうであるが、大先輩たちに囲まれ十二分に自分の力を発揮されたような出来映えであった。

 

二代目 吉田玉男襲名披露公演

国立小劇場 人形浄瑠璃文楽五月公演は、『二代目 吉田玉男襲名披露公演』である。パンフレットに、二代目玉男さんが、襲名を決心したのは、平成25年の『伊賀越道中双六』の通し狂言で唐木政右衛門を勤めたときと言われている。残念ながらこれは観ていない。

伊賀越資料館に行った時、玉女(当時)さん、勘十郎さん、和生さんと三人の並ばれた写真を見て、世代交代の時期なのだと感じたが、今回の文楽を観ていてもっと強い思いを感じた。自分たちが引っ張って行かなければならないという思いである。( 伊賀上野(忍者と芭蕉の地)(5-2)

口上で並ばれた、玉男さん、勘十郎さん、和生さん。第一部の『一谷嫩軍記』での、熊谷直実の玉男さん、相模の和生さん、藤の方の勘十郎さん。第二部の『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』の帯屋長右衛門の玉男さん、お絹の和生さん、お半の勘十郎さん。そして、長右衛門とお半の道行は、玉男さんと勘十郎さんコンビの息の合わせかたに人形に息を吹き込ませる瞬間を瞬間を観させてもらった感がある。

そして、さすがであると楽しませてくれたのが、丁稚長吉の蓑助さんのコミカルなリズム感のある人形の遣い方である。嶋大夫さんのかたりと錦糸さんの太棹に乘って、顔、胴、手足が面白いようにピタリと止り、その可笑しさが長吉の軽薄さを表す。しかしこの軽さは長右衛門とお半の悲劇性の前に立ちはだかり、長吉には到底解かり得ない、自己中心的な残酷さが含まれたいて、次の道行への展開となる。

まわりに義理を深く感じて生きてきた長右衛門には、過去に一つの事件があった。そのこととお半とが重なり心中へと滑り落ちて行く。このあたりで、ふーっと、太宰治さんと重なってしまった。

偶然が必然になってしまった長右衛門とお半の道行は5挺の太棹で激しく揺すぶられ運命に逆らえない二人をいざなう。

口上で和生さんが初代玉男さんの『一谷嫩軍記』での熊谷直実の工夫について語られた。「文楽藝話」でも初代玉男さんは語られているが、それがすぐに目にすることが出来、成程このことかと判った。芸談も本で読んでいても舞台を観た時には忘れていたりするので、初代玉男さんの芸の継承が二代目玉男さんに繋がったのが実感できた。口上は、ロビーで映像で紹介されている。

今回の『一谷嫩軍記』の<嫩 ふたば>の一文字の重さに深い意味を観た。同時に生まれいでた双つの葉。それは、小次郎と敦盛である。その二人が入れ替えられる。小次郎が死に敦盛が生きる。しかし、表向きは敦盛が死んだことになっている。幼少の義経を助けた弥陀六の宗清が、義経に、あなたを助けなければ平家はこんなことにはならなかったという。そして敦盛を預かると、もし敦盛が大きくなってあなたを仇としたらどうするかと問う。義経は、その時は、受けて立つと答える。

それに対し熊谷は、浮世を捨てた自分には源平どちらにも縁はないと告げる。このとき「十六年も一昔」の場面より、熊谷の虚しさが深くなった。我が子を犠牲にしてまで院のご落胤ということで敦盛の命を助けた。ところが、敦盛はまた誰かに神輿に乗せられ次の戦の火種となるのだろうか。この世に生を受けた<嫩 ふたば>は、なんのために命を授かったのだ。一枚の葉は落ち、自分の守ったもう一枚の葉も、この戦さの世にあっては、落ちる運命なのであろうか。熊谷の虚しさが、胸に一気に押し寄せ、平家物語の世界が熊谷直実の背後に広がった。そしてそこに流れる交差する<嫩 ふたば>のそれぞれの母親の子を思う心。

この物語性は、人形と人間の表現では違ったものとなる。人形に物足りなさを感じたり、かえって人形でのほうが、歴史的背景が舞台上に出現したり、情の深さや無常観などが現出したりする。それは、それぞれを観てのお楽しみである。

人形と浄瑠璃のぶつかり合い。息の合い方。人形同士のぶつかり合い。息の合い方。大夫と三味線のぶつかり合い。息の合い方。この複合体が文楽である。

そして、一体の人形を三人で遣う。初代玉男さんは、「<これなら無口な俺でもやれるかな>と黙っていても商売になる人形遣いの道を選んだ」(山川静夫・文)そうで、その師匠の足を十五年、左遣いを二十五年つかえられた二代目吉田玉男さんの先の長い出発点である。<祝>

(他のお勧め紹介。竹本千歳大夫さんと三味線の野澤錦糸さんの「素浄瑠璃の会 浄瑠璃解体新書~サワリ、クドキ、名文句~」が行わわれる。5月27日19時開演。江東区森下文化センター。下町で浄瑠璃とは粋である。迫力あるベンベンの音と千歳大夫さんの語りのお顔拝見だけで、浄瑠璃に触れたぞと思えるであろう。)

 

旧東海道 平塚から大磯を通り二宮へ(2)

JR東海道線と交差して進むと<江戸見附>の案内板がある。

左手に日枝神社がみえてきてここから国道1号線と重なる。このあたりから大磯宿となる。左手に<小島本陣跡>の碑と案内板があり、もう一つの本陣跡をさがしていると、中年の男性が、<地福寺>は行かないの。藤村のお墓があるよ。と声をかけられる。左手のすぐ近くにお寺が見える。これなら寄れると、そちらに先に行くことにし、男性に新島襄の終焉の地を尋ねると、解かりやすく教えてくれた。

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一度大磯の町だけは歩いているが、東海道と上手く効率よく廻れるか事前に調べていなかったので助かった。島崎藤村と静子夫人のお墓が梅の木の下に並んでいる。そこから<島崎藤村旧宅>へまわることとする。かつて大磯駅から来た道がわかるが、その時も旧宅まですぐには行きつかなかったので、地図を見つつ進むが、やはり途中で、地元の人に尋ねる。藤村さんはこの家が気に入り、終焉までの2年半を過ごしいる。静子夫人はその後、箱根に疎開するが、最後はこの家で暮らされ亡くなっている。

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国道1号線に出て<本陣跡>方向にもどる。先ず<鴫立庵>に立ち寄る。西行法師の「こころなき身にもあわれはしられけり鴫立沢の秋の夕暮」の歌にちなみ、小田原の崇雪が草庵を結び、鴫立沢の標石を建てたという。この庵室に初めて入庵したのが、俳諧師でもあった大淀三千風(おおよどみちかぜ)さんで、今の庵主さんは二十二代目である。俳諧道場もあり、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び三大俳諧道場の一つである。円位堂には西行法師の座像があり、法虎堂には、虎御前の十九歳の時の姿の木像がある。観音堂には、中国革命家・孫文の持仏(二千年を経た化石仏)であった観音菩薩像が本尊としておさめられている。

この日も句会が行われていた。庵の前に置かれたお茶をいただき、ホッとする。

同志社創設者、新島襄が病に倒れて亡くなった旅館百足屋の一部だけのこっている場所に徳富蘇峰の筆による碑がある。志し半ば47歳で亡くなる。

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さらに東に進み、虎御前が曽我兄弟をしのんで庵を結んだ跡といわれる<延台寺>。ここに、虎御石と呼ばれる石がある。山下長者が子宝を願い虎池弁財天に願いをかけると子供が授かり、虎と名前をつける。長者の枕元には小さな石も置かれてあり、その石を大切にしていたところ、虎女とともにその石も大きくなる。十郎が虎御前の家で工藤祐経の刺客に襲われた時、十郎に放たれた矢を身代わりとなって受けたといわれる石である。石はお堂の中で見学は予約が必要のようである。大磯では虎御前の人気は高いようである。広重の大磯宿の浮世絵が「虎が雨」で雨が降っていて、虎御前の十郎を想う雨なのであろうか。

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さてふり出しに戻り、もう一つ<尾上本陣跡>があるはずだがと捜す。これは案内板がなく、碑のみであった。もうひとつ、石井本陣があったようであるが、この碑はない。本陣が三つあったのである。再び西に向かうと<高札場跡>の案内板があり、ありがた味を加えるために高い位置に高札があったとあり、皆が見上げている絵がある。見やすさが肝腎であろうと思うが、いつの時代も上のお方は見上げられるのが重要な事なのであろう。

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<鴫立庵>を過ぎて西に向かうと見事な松並木が続く。海の潮風でかなり曲っている松もある。今は排気ガスに嘆いている。海側にも行きたいが海までは遠いので迷っていると、友が<こゆるぎ緑地>への小路を見つける。よさそうな小道なので海に向かう。この海岸地帯は明治の名士たちの邸宅や別荘が並んでいる場所である。海のかなり手前にこれから育つ松を植えた緑地があり、それを、西に進む。海も見え良い進み方である。

適当なところで国道1号線にもどり進むと、右手に城山公園があり、左が吉田茂さんの旧邸である。建物は焼失し、再建しているところである。庭をまわるが広い。海が広がりこの庭を歩くだけでもかなりの運動量になりそうである。

後は、、<一里塚>を見つけてJR二宮駅に向かえば良いだけである。今日は、かなり上手くいき充実した内容だったと友と話し合い、「いつも一つくらい見つからないのよね。」と言い合う。変な予感。<六所神社>まで2キロの表示が見える。「このへんから左手の<一里塚>に注意しよう。」「もう出てきてもいいはずよね。」「おかしい見落としたかな。」右に<六所神社>が見える。納得できないまま、JR二宮駅となり、電車の中で地図を広げる。地図の左下の囲みに城山公園周辺図があり、城山公園前の信号から、旧東海道の道筋とある。本を取り出す。「旧東海道はこのあたりから国道1号と分れる。」とかいてある。地図は丁度綴じ込みの部分で、よくみると国道からそれている。これである。大磯の途中から小田原までは、国道で面白くないとの仲間の感想が二人ともインプットされていた。

きちんと文章を読み込まなかったのがいけないのである。これは、またリベンジである。これから先、何回もリベンジしているわけにはいかないので、旧東海道に入る部分を厳重チェックと二人で戒めた。

この日のお昼は、仲間たちが寄ったという水車のあるお蕎麦屋さんで、冷たい天ぷらそばとシラスどんぶりセットでエネルギーは充分だったので、次のリベンジの意欲も残っていて、メラメラと計画を練った。

 

追記: 一里塚跡リベンジ

江戸から17番目の国府本郷一里塚跡

 

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実際には現地点より200メートル江戸よりにあった。

 

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旧東海道つづき → 「二宮~小田原~箱根湯本(1)」  2015年5月31日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)