神田川舟めぐり

<日本橋から品川宿 (1)>(2012年12月23日)で、神田川コースの舟めぐりをしたいと書いたが、あれから早くも時間がたち11ケ月目にして実行である。少し捜してみたら、「江戸東京再発見コンソーシアム」というところが日本橋から、日本橋川、神田川、隅田川、日本橋川とめぐって日本橋にもどるコースがあったため事前に予約する。舟が小さく10人乗りである。東海道歩きの仲間たちも以前情報を提供したところ、興味を持ち貸し切りにしようと仲間が動いたが日にち調整ができず、まずは私がお先に失礼と一人先行する。後は2班位に分かれ後日に予約したようである。

全部で45の橋の下を通過するのである。古地図と現在の地図を見つつ、ガイドさん付きである。屋根もあるので雨でも大丈夫であるが、潮の満ち引きと関係しているので不定期であるためきちんと調べた方が良い。1時間半ほどであるが、45の橋である。それも、あちらの道とこちらの道を、さらには、あちらの町とこちらの町を結ぶのであるから、川は一筋でも地上は複雑で、さらに橋の形、浮世絵で江戸時代と現在との比較などとなると、結構忙しいのである。但し面白い。最初に講義を受けてから乗り込みたいところである。

一橋家は、一ツ橋の近くに住んでいたので、一橋の名前をもらったのだそうである。聖橋は関東大震災の後、ニコライ聖堂と湯島聖堂を結ぶ橋として聖橋。これは一般によく知られていることである。聖橋に異変が。御茶ノ水橋からの美しい聖橋の前に余計なものが。御茶ノ水駅を建てかえるため、川のほうに工事用資材を置く場所と移動するための橋が設置されてしまったのである。少なくとも5年はかかるとか。御茶ノ水駅も相当古いので安全のためには致し方ないが、あの川に移る姿がしばらく見られないのは残念である。

万世橋のところで、旧万世橋駅が復活し煉瓦造りの駅舎後には手作りのお店や飲食店が入っている。その二階からは両側を走る中央線の快速列車がみえるのだそうで、舟から下りたら寄らねばならない。ゆりかもめ(都鳥)も季節がらか沢山みかける。赤いブーツと赤い口ばしがゆりかもめでカモメより可愛らしい顔をしている。柳橋に近づくと、舟宿が並ぶ。上から見るよりも、やはり川から見る方が風情がある。落語の『船徳』を思い出す。この舟は電気ボートで、船頭さんも若旦那の徳さんではないので安心である。隅田川では、清州橋の真ん中にスカイツリーが見える。書き切れない沢山の楽しい発見がある。

舟を下りて、秋葉原駅から万世橋を渡り旧万世橋駅へ。可愛らしいお店があり、川べりはテラスになっていて歩くことが出来る。さっきまで舟にゆられた川を上から眺めるのもいいものである。二階に上がると、ガラス張りになっていて、お子さんたちも安全に手の届きそうな近さで列車の通るのが見えて声をあげて喜んでいる。列車を見ながらのレストランもあり人気で並んでいる。心惹かれたが、万世橋から御茶ノ水橋に向かって歩くことにする。階段を下りるとその階段は、旧万世橋駅の階段である。そしてここで買った本がまた大当たりであった。

万世橋から昌平橋。。そしてJR総武線のが走る鉄道橋、右手には湯島聖堂が、その奥は神田明神である。聖橋も見えてくるが道は聖橋の下をくぐる形で御茶ノ水橋へと続く。ここで散策は終了である。

大当たりの本であるが、竹内正浩著『江戸・東京の「謎」をあるく』である。<第四話 江戸・東京の怨霊を追う>は神田明神と平将門の集大成と言って良いのでは。私としては、これですっきりである。そして神田明神の氏子さんたちの頑張りには拍手である。万世橋駅についての歴史も書かれている。<第一話 江戸の京都を探訪する>からして引きつけられる。舟めぐりも本めぐりも的を射たようである。

映画『地下鉄に乗って』を見て思い出す。聖橋の前を地下鉄が走る。そうである。舟から地下鉄丸ノ内線の電車が通る鉄橋を見上げたのである。そして上手く丸ノ内線の列車が通ったのである。昌平橋、JRの鉄橋、丸の内線の鉄橋、聖橋である。映画『地下鉄に乗って』の聖橋前の地上に一瞬姿を見せる地下鉄の映像も貴重である。

 

司馬遼太郎 『白河・会津のみち』

司馬さんは、誘いの上手なかたである。『白河・会津のみち』も「奥州こがれの記」から入る。平安時代の貴族たちが如何に奥州・みちのくを恋焦がれていたかということから書き始めている。このみちを読むのは二回目であるから、はじめは今回のような誘いの手に乗らなかったわけである。

宮城野」と「仙台」では受ける印象が全然ちがう。「仙台」といえば、伊達政宗を連想する。

福島市は「信夫」で司馬さんは「この時代のひとびとがきけば、千々みだれる恋の心に、イメージを重ねる」と書いている。ここには「信夫捩摺(しのぶもじずり)」(忍摺・しのぶずり)と都で呼ばれていた乱れ模様の絹布があって、「その染め方は、みだれ模様のある巨石の上に白絹を置き、草で摺って、模様をうつし出したといわれる。」

イーハトーボの劇列車」では、紫根染めをしている西根山の山男が、その技術を認められて東京に行く列車に乗るのだが、送られてきた汽車賃を使い果たし、サーカス団に加わるのである。この設定は面白い。井上さんの岩手であろう。

司馬さんは、この奥州への憧れの代表として、源融(みなもとのとおる)を出す。嵯峨天皇の皇子であり、光源氏のモデルと言われている人である。今の嵯峨野にある清凉寺がもと源融の山荘で、東本願寺前にある渉成園が別荘河原院でその優雅さから「河原大臣(かわらのおとど)」と呼ばれたりもした。河原院は奥州塩釜を取り入れてつくられたいう。現在、公開されているが、当時の面影はないそうで、わたしも行ったが庭の知識がないため特別河原院の感慨はなかった。入ってすぐの石垣のほうが興味深かった。そして宇治の別荘はのちに平等院になるのである。源融は能「」にもなり、旅の僧が六条河原院の跡で休んでいると一人の潮汲みの老人があらわれ、ここは昔、融の大臣が陸奥塩釜浦の風景を写した庭を造り、難波浦から海水を運ばせ塩を焼かせたと話す。この老人は融の亡霊であった。再び夢の中に現れ名月の光の中で舞うのである。

次に平将門の先祖が出てきてさらに義経と馬が出てくる。騎馬集団を指揮する天才である。それまで一騎打ちであった戦に対し、集団で奇襲をかける。歌舞伎で追われる義経であるのは、舞台に義経の騎馬集団を持ち込むことが出来ないのと、琵琶法師や浄瑠璃などの語りを聞いていた大衆の下地を上手く使って演劇化していったような気がする。勝利者はいらないのである。

みちは白河の関へと行き、会津へと入ってゆくのであるが、白河では、思いがけない人について書かれている。山下りんさん。ロシア正教の聖像画(イコン)を描かれた女性である。茨城県笠間の生まれで、笠間はかつて領主に浅野家の時期があり浅野家が播州赤穂に移って4代目が浅野内匠頭長矩である。山下りんさんのイコンはどこであったか忘れたが見た事がある。信者にしては、どこか物足りない。そんな思いで見た記憶があるが、このかたは絵筆を持ちたかったのである。ところが、没落下級藩士の子で絵などそれも女子が学べる環境ではない。しかし、りんさんは上京する。絵のために意に添わなくても彼女は絵筆を持ち続けた。ロシア正教はイコンに対し描き手の感情移入は許さない。その法則の中で縛られて描くのである。白河ハリス正教会の聖堂正面にあるキリスト像と聖母マリア像は山下りんさんの作でほかのものとは少し違うらしい。どこかでは、自分を出されていたのであろうか。

会津には、徳一という学僧がいて、最澄と論争したらしい。徳一は古い奈良仏教で最澄は新しい平安仏教で、かなり執拗に最澄を苦しめたようだ。面白いのは、空海と最澄を次のように比較している。「空海の場合、徳一の論鋒をたくみにかわし、むしろ徳一を理解者にしてしまったところがあり、このあたりにも、最澄の篤実さにくらべ、空海のしたたかがうかがえる。」最澄のほうが空海より保護されており、最澄のほうがしたたかと思っていたので司馬さんの見方が新鮮であった。このことがまた、「イートハーボの劇列車」を観た時、父と賢治の論争がこのことと重なった。

会津若松市に入る。井上ひさしさんの言葉に対する司馬さんの考えが出てくる。

<「会津は東北じゃありません」と、私にいったのは、山形県うまれで仙台育ちの井上ひさし氏だったが、そのとき大げさでなく息が止まる思いがした。そういわれるてみると、会津は藩政時代を通じて教育水準が高く、そのぶんだけ土俗のにおいがしない。>

この後、会津のこと、松平容保のことなどが展開してゆく。

内田康夫さんの『風葬の城』は、会津漆器の職人が殺される。大内宿や近藤勇の墓が出てくる。そして犯人はだれか。事件が解決し、浅見光彦は母雪江から、会津葵のお菓子を買って来るよう言いつかる。こちらのお菓子にも興味ひかれる。

講演 『荷風をめぐる女性たち』 川本三郎

市川市文学ミュージアムで、川本三郎さんの講演「荷風をめぐる女性たち」を聴く。今までこちらでのイベントは市川在住の人でなければ参加出来なかったが、今年から空きがあれば参加可能ということである。

川本さんは、その著書で永井荷風さんの「断腸亭日乗」を踏まえて、永井さんの東京散歩のブームをつくったかたである。今回は東京散歩が一般化したのでと、荷風さんの周囲にいた女性たちについて講演された。時間たちメモをながめても荷風さんが愛した女性が誰であったのかよく判らないのである。川本さんも話の最初に、荷風さんの時代の恋愛は今の感覚とは違っていることを強調されていた。

荷風さんは新橋の芸者をモデルに「腕くらべ」を書き、銀座のカフェ・タイガーに通い「つゆのあとさき」を書き、私娼の玉ノ井に通い「墨東綺譚」を書かれている。荷風さんの場合、そこに足しげく通ってもそれは取材のためであり、作家であることの野心は忘れないのである。

荷風さんの母親・恆(つね)さんは、一宮出身で漢文学者・鷲津毅堂の娘であり、父親の永井久一郎氏は、尾張藩士の息子で、鷲頭毅堂の弟子であるから師の娘をめとったことになる。のちに米国に留学もしている。荷風の渡米も父の勧めである。荷風さんは二十歳のころは落語家朝寝坊むらくの門人となり、三遊亭夢之助を名乗たっり、福地桜痴の門に入り、歌舞伎座作者見習いとなり、拍子木を入れたりしている。

40代の頃は森鴎外さんを尊敬している荷風さん、鴎外史伝の仕事に影響され祖父・鷲頭毅堂氏の資料など探究したりもしている。全くの想像であるが、川本さんの話しと年譜などから総合判断すると、荷風さんの女性観の一方に母親・恆さんがある。自分の仕事の対極に鴎外さんがあるのと構図が似ているように思う。

荷風さんは39歳の2月より、三世清元梅吉さんに師事している。永井荷風展の資料の中に、昭和30年9月11日の清元梅吉さんから荷風さん宛の手紙に、今月は中村吉右衛門の追善興行で法界坊に出ているとある。(この月の演目と出演者は興味があるので後で調べたい)

荷風さんは歌舞音曲は好きだったようで、浅草へ通ったことからしても、その上下関係は無かったようである。映画「つゆのあとさき」の映画に関しては、「銀座街上及びカフェの空気、映画に現れず全体に面白くなし」と批評している。

永井荷風展では荷風さんが見た映画なども調べられていた。

川本三郎さんには、荷風さんの映画についての話もききたかった。講演後、サイン会があり、川本さんの著書「映画は呼んでいる」にサインしていただいた。「この本はかなりマニアックですよ。大丈夫ですか。」といわれた。「大丈夫です。頑張って読みます。」と答えたが、頑張って読んでいない。サラサラと流した。映画を見てから詳細に読まないと変に植えつけられる部分がでてくるのである。水木洋子さん脚本で山下清さんモデルの「裸の大将」では、花の事がかかれていた。記憶に残っていない。こちらは山下清さん役の小林桂樹さんを見入っていた。口のとんがらせ方とか。先日、松本清張原作・野村芳太郎監督「張り込み」を見た。この列車やバス、車の移動には、事件の犯人の現れるのを待つ観客としては、刑事と一緒に張り込んで追いかけている。さらにこのDVDには「シネマ紀行」の映像もふくまれていた。ほとんどがロケーションで撮られ、現在と比べていた。さらに街に流れている流行歌が時代をあらわしている。もう撮り得ない映像である。

川本さんの本の「張り込み」を読んだらマニアックであった。刑事は犯人が佐賀に住む、かつての恋人のところへ来るであろうと考え、東京から九州の佐賀まで急行さつま号で24時間かけて張り込みのため移動するのである。その途中での乗り換え駅が出ていないと。これは原作が読みたくなる。頭に映像が残っているうちに文字でなぞって置きたいのである。ただ高峰秀子さんのいつもと変わらぬ後ろ姿なのに、日傘が微かに静かに回っていき心の中を表し、何か違うと思わせる。これは文字で表現されているであろうか。この辺の映像と文字の対決も見ものである。

 

『太鼓たたいて笛ふいて』(the座 第48号)

太鼓たたいて笛ふいて』のパンフレットは、こまつ座の出している2002年7月の「the座 第48号」である。このお芝居は何回か上演されているので、その度に違う資料なども載せているようである。「the座 第48号」には、演劇評論家の大笹吉雄さんが連載で「女優二代 鈴木光枝と佐々木愛 第13回」も載せている。

劇団文化座の代表として係ってきた鈴木光枝さんと佐々木愛さん親子の歩みを書き記しているらしい。この第13回は火野葦平さんの『ちぎられた縄』を文化座の創立15周年記念公演で上演した事から書き始められている。『太鼓たたいて笛ふいて』の舞台を見たとき、この大笹さんの連載は素通りしていた。NHKスペシャル『従軍作家達の戦争』で火野葦平さんのことを知らなければ、永井荷風展に行かなければ見返すこともなかったであろう。

『ちぎられた縄』は火野葦平さんの二作目の戯曲で、沖縄がまだ米軍の占領下にあった頃で、火野さんの弟さんが沖縄線で戦死しているため強い関心があり、沖縄の文化を取り入れた戯曲を書いたようである。この芝居は大変評判を呼び、文化座の旗揚げにカンパした花柳章太郎さんも補助席でみたという。鈴木光枝さんは新派の井上正夫さんに弟子入りしている。

『ちぎられた縄』は本土の作家が初めて沖縄のことを取り上げた戯曲で意欲作であったが、大笹さんは、作者の“二度と戦争があってはならない”のテーマが明確に打ち出されていないのと、人物の描き方に突っ込み足りぬところがあって惜しいとされている。しかし、この芝居の好評判で文化座は経済的に助かったらしい。

今は沖縄に「国立劇場おきなわ」もあり、東京の「国立劇場」でも琉球舞踏は見ることが出来るが、芝居の中に琉球舞踏がでてきたのは火野さんの戯曲が初めてなのかもしれなし、沖縄文化というものを考えさせる作品でもあったのであろう。

時代の中で自分の小説のテーマを庶民の生活の中に模索しつつ突き進んでいた火野さんは、死者たちはまだまだ語りたいことがあるのだと伝えに来たような気がする。

井上ひさし 『太鼓たたいて笛ふいて』

太鼓たたいて笛ふいて』は林芙美子さんの評伝劇である。井上さんの評伝劇は、資料を調べるだけ調べて、そこから井上さんの思いを込めて人物像を造形していく。

林芙美子さんに関しては、母と養父の行商について歩く貧しい少女時代。本に夢中となり、職を転々として詩や小説の創作に打ち込む時代。長谷川時雨主宰「女人芸術」に発表した『放浪記』がベストセラーとなり流行作家となった時代。日中戦争が始まり戦争従軍記者として活躍する時代。戦後一転して戦争が引き起こす女性の悲劇を描いた林芙美子さん。その林さんを生活する庶民と文学者の境界を造る事無く走り続けた小説家として肯定し、そこから見えてくる、物書きとしての矛盾をも映し出す井上戯曲。歌を挿入することによって、攻撃性を弱めたり、雰囲気を明るくしたり、理論性で疲れる脳を休めてくれ、新たな問題点、思考すべき事がないのかなどを提示してくれる。

この芝居の中の林芙美子と一緒に林芙美子を探している。戦争従軍記者として戦地におもむいた作家は日中戦争前からいた。あの正岡子規さんも新聞記者として従軍しその報告を書いている。林さんは、東京日日新聞(毎日新聞)の従軍記者として、南京に一番乗りし、女性で一番乗りということもあって脚光を浴びる。そして、火野葦平さんの芥川賞受賞が内閣情報部の目に止まり、作家達による「ペン部隊」がつくられ、林さんはその一員として漢口に行き、またまた一番乗りとなり、一段と名を売るのである。日本へ帰ってからも、現地の様子を知りたい残されている家族は、林さんの講演会に殺到する。内閣情報部は見せたいものと、見せたくないものはコントロールしているので、その中で動いた林さんの見たものは、戦場の全貌では無かったであろう事は想像できる。内閣情報部の狙った通り、作家の戦場と銃後をつなぐ一体感は上手くいくのである。戦後そのことに気付いた林さんは、戦争で傷ついた女性たちを題材として小説を書くのである。

『太鼓たたいて笛ふいて』には、驚くべき人が登場する。それは、島崎藤村さんの『新生』で書かれた藤村さんの姪御さんの島崎こま子さんである。芝居は芙美子さんの家で、そこに芙美子さんのお母さん、レコード会社の人、昔の行商隊の人などに交じって島崎こま子さんも登場するのである。これには芝居を観ていて驚ろいた。帰りに慌ててパンフレットを購入する。それによると、こま子さんは藤村さんと別れ結婚もするが、幼い娘を抱え、貧しさと過労から倒れ養育院に収容され、林さんはこま子さんを訪ねる。そして、そのことを「婦人公論」に手記として発表していたのである。

「女の新生 島崎藤村氏の姪荊棘の道を行くこま子さんを訪ひて」  <「新生」と云う作品は岸本と云う男の主人公の新生であり、そうしてまた藤村氏自身の新生でもあって、作中の不幸な女性節子さんの新生ではあり得なかったのだと思います。>

芝居では、こま子さんが突然林さんを訪ねてくる。彼女は貧しい子供たちの託児園の仕事をしていて、「新生」の中では言えなかった事を語る。

小説の中ではない現実のこま子さんと芝居の中のこま子さんを知りそして観ると、小説のこま子さんは藤村さんに作られたこま子さんであるという視点に立つ。

『新生』  「節子の残して置いて行った秋海棠の根が塀の側に埋めてあった。『遠き門出の記念として君が御手にまゐらす。朝夕培(つちかい)ひしこの草に憩ふ思いを汲ませたまふや。』」(岸本はこの節子の言葉が気になり、引っ越しで慌ただしく植えたのが気になる。その根は土の中かから転がって出ていた。二人の子供と一緒に植え直す。)「こういふ子供を相手に、岸本はその根を深く埋め直して、やがてやって来る霜にもいたまないようにした。節子はもう岸本の内部にいるばかりでなく、庭の土の中にも居た。」

この前に節子の手紙もあり、そこからの流れは、節子も<新生>を成し得たように読者は思わせられる。林さんは、そこのところを突いているのである。井上さんは藤村さんに異議ありとした林さんの一本気なとこと、それが、<太鼓たたいて笛をふく>ことにもなる全ての林さんを芝居にしている。林さんを見ると同時に自分を肯定しなくては生きていけない人間の強さと弱さの表裏一体を見るのである。

それは大文豪にも言える事である。しかし、『新生』は書く必要があったのであろうか。物書きの<業>であろうか。

永井荷風・森鴎外・井上ひさし・林芙美子・火野葦平~

どんどん繋がっていくのであるが、北九州市の文学サークルの活動も歴史がある。

驚いた事が幾つかあった。、北九州市立文学館の第9回特別企画展のチラシに 『いつもそばには本と映画があった』 とあり、ウラに <あなたは「読んでから観る」派?「観てから読む派」?> とある。2011年(平成23)4月23日~6月19日であるから、今年5月から7月にかけて開催した東京芸大美術館『夏目漱石の美術世界展』の <みてからよむ> に先駆けて既に使われている。東京芸大美術館のほうが二番煎じのようで後味が悪い。

2010年(平成22)1月~4月にかけては 『筑前のおかみさんの東路をゆくー田辺聖子「姥ざかり花の旅路」と小田宅子 「東路日記」-』 を開催。この旅は天保12年(1841年)のことで、この小田宅子さんは俳優高倉健さんの祖先にあたるという。歌仲間の桑原久子さんと連れ立って赤間関(現・下関市)から伊勢詣でに出かけ、伊勢・善光寺・日光・江戸をめぐり旅からもどって10年かけて『東路日記』を書きあげたのである。小田宅子さんも日光街道杉並木を歩いたのである。その時同時開催として 『2010年収蔵展 火野葦平の没後50年』 があったがその詳しいことはチラシからは残念ながら分からない。

火野葦平さんの旧住居は北九州市指定文化財になっている。そのしおりによると <史跡、火野葦平旧居「河伯洞(かはくどう)」河童をこよなく愛したことから名付けた。><「河伯洞」は父、玉井金五郎が息子、葦平のためにとその印税によって建てたものです。葦平は、戦地での戦友達の苦労への思いから、後々もこのことを負担に感じていたといいます。>

火野さんは若いころ同人誌「第二期九州文学」を創刊しその時の参加仲間に、小説『富島松五郎伝』で直木賞候補になった岩下俊作さんがいる。この作品が映画「無法松の一生』の原作である。この映画も検閲でカットされたシーンがあり、稲垣浩監督は伊丹万作のシナリオの原型を残すべく再度映画にする。それがベニス映画祭で金獅子賞をとる。

松本清張さんは、森鴎外さんが小倉にいたころ書いた『小倉日記』をもとに小説『ある「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。そのお祝いの言葉を、火野さんと岩下さんが送っているが、火野さんの言葉は強烈である。

「芥川賞に殺されないようにしていただきたい」(昭和26年・1月)

林芙美子さんは下関市生まれで、幼いころから母と義父とともに、九州を行商して歩いている。『太鼓たたいて笛ふいて』には「行商隊の唄」も歌われる。

どうもどうも ご町内の皆さま こんちわこんちわ 行商隊です

 

『永井荷風展』 (3)

今回の図録には、平成16年の井上ひさしさんの講演の抄録も載っていた。どうやら私の聞いた講演である。9年前になるのだ。私の記憶違いが判明した。

「私の見た荷風先生」(井上ひさし)。私が書いた 【一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいと】 は実際は次のようになる。

井上さんが一度目に荷風先生を見た時のこと。やくざを追い払う役もしていて、<ある日スーと背中に気配を感じて「またやくざかな」と思って見たら、なんとそれが荷風先生でした。体が震えました。それはすぐわかりますから。ちょうど一本歯が欠けていました。><先生に会ったというので、私はもうれしくて、その晩はそれで終わりました。>

二回目は<荷風先生に憧れていた文学青年としては手厚く、といってもイスをすすめただけですが、もてなしました。> その頃、谷さん、渥美さん、関さんの芝居は鉄砲が出る乱暴な芝居で、その音を出すため、舞台の袖の先で引き弾を引く役もしていて、荷風先生のお気に入りの踊り子さんの時もその役目があった。荷風先生の座った位置がその近くで音がうるさいので、先生のイスを移動させようとするが先生は気が付かないで熱心に舞台を見ている。しかたがないのでひもを引いたら、先生がイスから転げ落ちてしまった。<人間国宝みたいな人をイスから転げ落として申し訳なくて助け起こしました。そうしたら先生、何でもなく、にこっと笑ったときのその歯の汚かったこと(笑)。> 三回目はなかった。でもこの事があったからこそ、井上さんは荷風さんの住んだ市川に、一時住むことになるのである。

【一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいと】 それにしても随分創作したものである。【荷風さんとは、一度だけ口をきいたことがある。引き弾の役目をしていて、荷風さんをイスから転げ落としたことがある】である。いい加減なものである。図録を買ってきてよかった。

荷風さんの事から井上さんの舞台『太鼓たたいて笛ふいて』、林芙美子さんの評伝劇の話に移りたい。それは、火野葦平さんとも関係することである。

市川市文学ミュージアムの上階は資料室になっており、そこに市川市ゆかりの文学者の資料がまとめられている。さらに、地方の文学活動のチラシや図録もあり、そこで、北九州市立文学館の資料もあった。

『永井荷風展』 (2)

岩波文庫の『摘録 断腸亭日乗 (上)(下)』(磯田光一編)を買い足す。しかし、これも全文から抄出したものなのである。文庫なので扱いやすい。

年譜によると、1916年(大正5)、父の住まい牛込区大久保余丁町の来青閣(この時代の人は自宅に名前をつけるのが好きだったようである。その名ですぐ仲間が共通理解できるからであろうか)の玄関の6畳を断腸亭と命名している。このとき既に荷風さんの父上は他界している。『断腸亭日乗』の書き出しは、1917年(大正6)9月。

森鴎外さんと荷風さんが初めて会ったのは、市村座で小栗風葉さんの紹介である。その後鴎外さんと上田敏さんの推薦で、荷風さんは慶応義塾大学文科の教授になる。(1910年)。1916年3月には、教授職を退く。アメリカ、フランスに行かせてくれた父を一応安心させ、その後は自分の生き方を貫くこととなる。文学者森鴎外さんを敬愛する荷風さんは、鴎外さんによって父の生前中に形を整えられた感謝の気持ちも含まれているのであろう。

1918年(大正7)1月24日には、鴎外先生から文をもらう。「先生宮内省に入り帝室博物館長に任ぜられてより而後(じご)全く文筆に遠ざかるべしとのことなり。何とも知れず悲しき心地して堪えがたし。」

1922年(大正11)7月9日、鴎外先生亡くなる。「早朝より団子坂の邸に往く。森先生は午前七時頃遂に纊(こう)を属(ぞく)せらる。悲しい哉(かな)。

前日、7月8日にも見舞っており、特別に病室に入ることを許される。通夜、葬儀。

鴎外さんに比して、幸田露伴さんとは、近くに住みながら会うこともなく、葬儀は外から見送っている。荷風さんは、全てを焼失してから、鴎外さんと露伴さんの全集だけは揃えている。荷風さんが菅野に来て(昭和21年1月16日)、その後、露伴さんは娘の文さん、孫の玉さんと引っ越してくる(1月28日)。露伴さんは高齢で外に出ることもなく、昭和22年7月30日亡くなられる。

荷風さんは、露伴さんの葬儀には喪服がないからと、外にたたずみお別れをしている。この露伴さんの葬儀の映像が、今回の展示で見る事が出来る。鴎外さんは、私的と公的を区別されていて、私的には親しみやすい方であったが、公的な仕事になると上下関係などをきちんとされたようである。人付き合いの苦手な荷風さんにとって露伴さんは私的に接する人ではなかったのかもしれない。喪服がないからと中に入らなかったのからして、荷風さんにとって露伴さんは鴎外さんとは違う位置に立つかただったのであろう。

さらに、市川市の市民の方が、市川市文学ミュージアムの協力のもと、自分たちで制作した映像『荷風のいた街』(発売)の中で、当時近くに住んでいて人が沢山集まるので露伴さんの葬儀を見に行っており、荷風さんの様子も話されている。さらにその他、荷風さんの日常の様子を知ることが出来る。戦後から亡くなるまで、市川に住まわれていたということは、一人で暮らすには荷風さんの好む街だったのである。

 

『永井荷風展』 (1)

市川市文学ミュージアムで『永井荷風 -「断腸亭日乗」と「遺品」でたどる365日ー』を開催しているのを知る。何んとタイミングの良いことか。<市川文学プラザ>としていた展示フロアーを、<市川文学ミュージアム>としてリニュアールしたらしい。<市川文学プラザ>の時、一度行っている。市川関係の文学者や芸術家の資料を丁寧に保存、収集し、整理されて展示されていた。

今回は「市川市文学ミュージアム開館記念 特別展」で有料であった。荷風さんは昭和21年から亡くなるまで市川市菅野、八幡を終の棲家としている。「断腸亭日乗」の原本も当然あり、清書した時期もあり、その紙の質などからも荷風の心の内、時代の流れなどを分析した解説も面白い。その時々のスケッチや地図もある。亡くなる前日まで書いている。 【昭和三十四年四月廿九日。祭日。陰。】(陰は曇りということである)筆跡も当然変化していき、そこには、荷風さんの生きた証がある。

谷崎潤一郎さんから送られた「断腸亭」の印章が展示されている。その印章は、昭和16年に送られたもので、昭和30年の東京大空襲の時、偏奇館とともに焼失。ところが次の日、従弟の杵屋五叟(きねやごそう)さんが、焼け跡の灰の中から堀リだしたものである。この印は、戦後も、全集の検印や蔵書印として使われている。

私が「断腸亭日乗」を読んだ箇所に、荷風さんが岡山の谷崎さんを訪ねる前、昭和20年7月27日、岡山駅に谷崎さんから送られた荷物を受け取っている。品物は鋏、小刀、朱肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本、その他である。「感涙禁じ難し」と書き加えている。焼け出された文学者に対する谷崎さんの心遣いである。それは、荷風さんが自分の作品を認め評価してくれたことによる作家として誕生できた谷崎さんの思いであろう。

8月15日、宿屋の朝食(鶏卵、玉葱味噌汁、はや小魚付け焼き、茄子香の物)に、八百善の料理を食べている心地であると書いていたが、その八百善の煙草箱が愛用品として展示されていた。これは、八百善で売っていたのであろうか。煙草箱の中には、ピースが10本。箱の外の絵は、江戸時代山谷にあった時の老舗割烹八百善の絵図である。それでいながら、自炊に使用していた釜は、使わない時は洗面器と兼用である。

森鴎外さんを敬愛し、鴎外さんの子息たちとも交流している。森茉莉さんも荷風さんの菅野の家を訪れている。どんな話をされたのであろうか。茉莉さんの作品と晩年を思うと、自分の好みがはっきりしている荷風さんは、茉莉さんの先駆者だったかもしれない。森於菟(もりおと)さんは、森鴎外記念館設立のための協力を願う手紙をだしている。この展示の図録によると荷風さんは、記念館設立のため高額の寄付をしている。すぐには記念館とはならず、文京区図書館の一部に鴎外記念室として残したりしていたが、2012(平成24)年11月1日に「文京区立森鴎外記念館」として開館した。森於菟さんの手紙が1956年(昭和31年)であるから約56年目である。鴎外記念室の時一度訪ねたが想像と違いがっかりしたことがある。

5月に森鴎外記念館を見学し「特別展 鴎外の見た風景~東京方眼図を歩く~」を見た。今度は記念館として充実していた。鴎外が考案した地図「東京方眼図」。鴎外は与えられた仕事を成し遂げる。それが、小説家森鴎外の痛手であった。鴎外は翻訳、評伝など、さらに軍医としても、多くの仕事をしている。だが一番時間を使いたかったのは小説を書くことではなかったのか。その時間が生涯充分にとることが出来なかった。

荷風さんは、世間から一歩引くことによって維持した自分の小説家としての位置と、森鴎外さんのように世間にいながら小説家としての位置を何とか確立しようと闘っていた人としてへの敬愛であったのであろうか。

永井荷風 『断腸亭日乗』

2012年11月6日<浅草紹介のお助け>で下記のように記した。

【フランス座に関しては井上ひさしさんの講演でも聞いたことがある。警察沙汰の時の一応脚本家としての責任で警察で泊まる役目の話。一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいとか、荷風さんが踊り子さんに差し入れられたカレーを芸人さんが少し頂戴してそれを小麦粉かなにかで量を増やして食べていたなど例のごとく軽妙洒脱に話してくれた。ただそれだけではなく、荷風の日記から日常からみた戦争もしっかり語られていた。】 (一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいとか→この部分は8月24日『永井荷風』(3)2013年8月24日 | 悠草庵の手習 (suocean.com) で訂正しています)

作家達の戦中の記録として永井荷風さんの日記『断腸亭日乗』、井上ひさしさんの話されていた箇所が知りたくなった。それは、荷風さんが昭和20年7月末に東京を離れ岡山から勝山の谷崎潤一郎さんの所に寄った時の事である。

岡山から勝山に行く列車の中。 「この媼(おうな)も勝山に行くよし。弁当をひらき馬鈴薯、小麦粉、南瓜を煮てつきまぜたる物をくれたれば一片をを取りて口にするに味案外に佳し。」

8月13日、勝山の谷崎さんの仮住まい屋にて、 「佃煮むすびを恵まる。」 宿に案内され、 「白米は谷崎君方より届けしもの。膳に豆腐汁。渓流に産する小魚三尾。胡瓜もみあり。目下容易には口にはしがたき珍味なり。」 広島が焦土と化し、この地の配給も停止し、他郷からくる避難民は殆ど食料を得ることに困窮している。(原爆の記述がないので詳しい事は知らないのであろうか)

8月14日、 「事情既にかくの如くなれば長く氏の厄介にもなり難し。」 その夜 「谷崎氏方より使いの人来り津山の町より牛肉を買ひたれば来れと言ふ。急ぎ赴くに日本酒も亦あたゝめられたり。」

8月15日、 「宿屋の朝飯。鶏卵、玉葱の味噌汁。ハヤ附焼、茄子糠漬けなり。これも今の世にては八百善(やおぜん)の料理を食する心地なり。」 終戦を知る。

8月16日には奈良にいる。

8月17日、 「朝稀粥(きしゅく)を啜り(すすり)昼と夕とには粥に野菜を煮込み飢えを凌ぐ。唯空襲警報をきかざることを以て無上の至福となすのみ。」

『断腸亭日乗』は日常のことを細かく書いている。井上さんは、その中の食べ物のことを拾っていくだけでも戦争中の生活が分かると話されていた。谷崎さんの接待は谷崎さんらしいと思った。ある面では居づらい事ともなるであろうが。荷風さんは自分の動きに合わせて、その周辺の風景、接した人々、物の値段、食べた物などを、1917年(大正6)から1959年(昭和34)まで書き綴っていたのである。

私の所持している『断腸亭日乗』は(抄)とあり、ところどころの抜粋であるが、日記の書きようはわかる。荷風さんが、大正9年(1920)から昭和20年(1945)まで独居していた、木造ペンキ塗り洋風二階建ての家<偏奇館>を昭和20年3月10日の東京大空襲で焼失している。その様子も詳細に記録している。この<偏奇館>跡へは、ある町歩きの会で行ったことがある。六本木一丁目で違う建物が建てられていた。

昭和20年10月には、荷風さんは熱海で、雨宿りした旅館の道を隔てた前に<金色夜叉の碑>を見ている。 「道を隔てゝ一老松あり。金色夜叉の碑を建てたり。小栗風葉の句を刻む。」私の『金色夜叉』の読書は読む速さが遅々としていて、なかなか進まない。少し気張らねば。

もう少し付け加えるなら、<金色夜叉の碑>から荷風さんは次の様に書いている。 「これ逗子の海岸に不如帰の碑を見ると同じく、わが国民衆の趣味を窺ひ(うかがい)知らしむるものなり。予はその是非を論ぜむと欲するも、到底(とうてい)能ふべからざるを知る。唯一種不可思議の感に打たるゝのみ。」 この様に 、自分の思いや感慨なども加えている。

巖谷大四さんは、尾崎紅葉さんの未亡人が重体となり、生活に困窮していることを志賀直哉さんに話したところ、志賀さんと広津和郎さんが発起人となってくれ見舞金を集めることになり、一番先に荷風さんを訪ねるように言われる。荷風さんはにこにこしながらその趣意書を目読し、「一金参万円也 永井壮吉」と書き、その上に手の切れるような百円札を三万円のせ、「よろしく、たのみます」と丁寧に言われた。ある人から「永井先生からお金を引き出すことに成功したのは、あなたがはじめてじゃないですか?」と言われている。

志賀さんが一番先に荷風さんを訪ねるように言ったことなど、文学者の思惑と交流は、その文学的個性と相まってニヤニヤしてしまう部分である。