『美しきものの伝説』のその後

1918年(大正7年)島村抱月がスペイン風邪で亡くなり、翌年1919年(大正8年)松井須磨子が抱月の後を追う。

1923年(大正12年)大杉栄と伊藤野枝は憲兵に虐殺される。その年、それぞれの美しき人々は何を目指していたか。

荒畑寒村、堺利彦、神近市子は政治闘争を続け、平塚らいちょうは文筆活動へと進む。小山内薫は1924年「築地小劇場」を設立。久保栄はここで演劇を学び小山内の死後は自分の演劇論にのっとた戯曲を書く。沢田正二郎はすでに「新国劇」を設立していたが振るわず、松竹社長白井松次郎が座付け作者に行友李風を起用し『月形半平太』『国定忠治』の剣劇が当たりこの頃は人気を博していた。中山晋平は野口雨情との「船頭小唄」が当たりこの年は映画化されている。辻潤は自分の思うままに放浪生活をしている。

劇中の中でも台詞の中だけで辻潤と伊藤野枝の長男<まこと>が登場する。この<まこと>との不思議な出会いがかつてあった。本屋で文庫本「山からの言葉」を手にした。呑気に景色など眺めていられないような急斜面の少し窪んだところに登山家が、一人は腰をおろし、一人は立ってパイプを咥えている。頂上ではない。ここまで登れたら上出来だとでも思っているのか、映画のセットとは見えないやはりそこは山の斜面の途中なのである。見ていると肩の力の抜けるような絵である。中ををめくると山の雑誌「岳人」の表紙絵が出てくる。力強いもの。笑ってしまうもの。ほのぼのさせるものと見ていて楽しいのである。文章も適度の長さでなかなか良い。購入し楽しんで読み終わり、年譜を見て驚いた。<辻まこと>。それは彼であった。しかしそれを読み終えた<辻まこと>は私がかつて心配した彼ではない彼であった。嬉しかった。本の表紙に辻まこと「山からの言葉」とはっきり記されているが、あの辻まこととは全く思わなかった。「山からの言葉」(辻まこと著)。

劇中で<まこと>のことが二回ほど出てくる。野枝が二人のうち長男は辻に次男は自分が育てると。その後、野枝は外で待つ<まこと>に会うが、「おばさんと呼ばれた」と涙を流す。この場面を見て、宮本研さんもやはりどこかで<まこと>にこだわられたのかと感慨深かった。伝説の外で自分の歩みを見つけていた人は少なくはない。

 

 

池田満寿夫と内田康夫を繋ぐ謎

池田満寿夫の青 で信州松代で「池田満寿夫美術館」に遭遇したことを書いたが、そこで熱海に「池田満寿夫記念館」と「創作の家」があるのを知る。

「創作の家」は池田満寿夫さんと佐藤陽子さんが1982年から1997年3月池田さんが亡くなられるまで住まいとして、また、アトリエとして使われていた家で熱海市に寄贈され公開されている。MOA美術館に行く途中にあり坂がきついのでバスを利用したほうがよい。駐車場は無い。

「池田満寿夫記念館」のほうは、伊東線網代(あじろ)駅から熱海駅行きバスで5分「下多賀」バス停下車20分とある。歩ける範囲である。チラシの後ろには車用に、歩くものには役立たないような池田さん自筆の芸術的地図載っている。「下多賀」バス停からの道は一応調べて印刷したが、こちらもあまり役に立たず道ゆく人に聞くこととなる。住んでいる人が楽なように教えてくれたのであるが、教えられる方の力不足で山肌に面した道をかなり遠回りしてしまった。それと網代駅前バス停も少し駅から離れていて人に聞かなければわからない。バスの時間までバス停そばの川などを辿っていたが、そこではなく網代駅周辺をもう少し散策しておけばよかったと思っている。なぜなら内田康夫さんの推理小説「『紫の女』殺人事件」で網代が出てきたのである。網代→池田満寿夫→内田康夫→紫の女(ひと)と繋がってゆく。

この推理小説には内田康夫さんと浅見光彦さんとが登場する。これもなかなか楽しい。内田さんは実際にこの網代のリゾートマンションに仕事部屋を持たれていた時に事件が起こるのである。内田さんのマンションの住所は熱海市下多賀である。池田さんの陶の作品が中心の記念館も熱海市下多賀である。この小説の目次に〔第一章 網代日記〕とあったので1ページを開いたら熱海での殺人である。これは読まなくてはならない。

熱海の紹介もある。古くは『吾妻鑑』に記載されてるそうだ。江戸時代徳川家康が湯治にきており、明治になると新政府の高官の社交場となり、別荘も立ち並ぶ。尾崎紅葉の「金色夜叉」、演歌の「熱海の海岸散歩する、貫一お宮の二人連れ~」も熱海を全国区にするのである。

熱海も今は時代から取り残された温泉場のイメージが強いのかもしれないが、谷崎潤一郎さんの「台所太平記」の場所でもあり、熱海にて でも簡単に紹介したがなかなか面白い街である。小説の方は熱海、網代を舞台に京の宇治まで旅するのである。作者に言わせるとこの作品は「駄作揃いの僕の作品群の中でも突出してケッタイな作品の部類に入りそうでです。」とあるが、私にはお気に入りの作品である。和菓子を見ても思い出す作品である。出てくる和菓子のお店も実在するとか。この作品の文庫は1995年に出ている。まだあることを願い確かめに行きたいものである。時間があれば「池田満寿夫記念館」にも再度足を延ばしたい。

 

河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (5)

あの明治三年に逮捕された「筆禍事件」後も暁斎は、文明開化の諸政策に対する風刺戯画は描いており、旧幕臣や江戸市民層には人気があった。政府にとって要注意人物であったであろうが、その画才を認めないわけにはいかず「枯木寒鴉図」は博覧会で日本画部門で最高賞を獲得している。

「一般には戯画、狂画の作者ないしは浮世絵師として知られていた暁斎だったが、コンドルは師を伝統的日本画の正統を継ぐ画家として評価した。」

これがコンドルの基本にあり、暁斎の晩年そばについて制作の画材・画法・手順方法など細部にいたるまで記録し、おそらく今日でも日本画の伝統的手法の参考文献となりえるであろう。

コンドルは建築に携わる前、画家を志しており、その上建築設計の知識が加わり、谷中の五重塔のような建造物のスケッチでは暁斎を驚かせている。<暁英>の画号を貰うのは入門して2年目、コンドルの代表的建築物、鹿鳴館の開会式のあった明治十六年である。また展覧会などにも出品し賞もとっている。

暁斎とコンドルの関係は、師と弟子というよりも友人としての意味合いが強かったようである。コンドルはそれとなく金銭的援助もしていたようで、それを素直に受け入れられる友人関係であったとするなら、暁斎の晩年は何よりも良き友人が傍に居たという事で幸福であったと言える。

コンドルは大正九年(1920)に日本で亡くなっている。かれの建築作品は焼失してしまっているものも多く残念であるが、多くの日本人建築家も育て、画家河鍋暁斎を日本人よりも深く理解していたことに敬意を感じる。

「河鍋暁斎記念美術館」が埼玉県の蕨市にある事が分かり、楽しみが増えた。

 

河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (4)

コンドルについては、訳者の解説をかりると、英国生まれで日本へ来たのが明治九年(1876)24歳の時。建築家でも本国では実作は無い。どのような経緯で日本政府に招かれたのかは不明である。明治政府工部省管轄の工部大学建築学科教師となる。学生たちにも「温順で親切な」人柄で評判は上々である。

コンドルは<日本衣裳史><日本の造園研究><生け花の研究><日本画の研究>など日本古来の成り立ちから現在にそれがどう生き続けているかを調べ紹介している。

「そのほかコンドルは歌舞伎を愛好して役者の演技や声色を披露し、寄席に通って三遊亭円朝の落語や神田伯円の講釈を聞き惚れ、自ら実演を試みる意図があったのか、その速記本をローマ字で書き写したりした。日本舞踏の稽古では出稽古に招いた坂東流の師匠金蝶(きんちょう)の内弟子と遂には正式に結婚するほどに熱中している。」

コンドルが暁斎に入門したのは明治十四年(1881)、第二回内国勧業博覧会のため自分の設計した上野美術館(旧国立博物館)で暁斎の「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」を見てからであろうとされている。コンドル・29歳。暁斎・50歳の時である。

 

河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (3)

訳注によると、暁斎が狩野家を出たのは安政二年(1855)24歳の時で、河鍋洞郁を名乗るのは安政四年(1857)数え27歳、<狂斎>の名で狂画を描き始めるのが安政5年(1858)28歳の時としている。

狩野派にあっても暁斎は実物の写生はしている。日本の画家の写生についてコンドルは高く評価している。「日本の画家が自然を写すというのは、単に目前の形態を紙に写し取ることに終わるのではない。」「日本の画家は記憶力によって自然の形態を心に留めると同時に、目には見えても紙には写せぬ自然の心の動きを心に捉えているということである。」

洞白の画塾は自由なところがあり、夜になると60人の塾生の多くは外に遊びに行き、講釈を聞いたり寄席に通ったりした。暁斎は能が気に入り能の師匠のもとへ通ったりした。その費用を援助してくれたのが狩野洞白陳信の祖母貞光院である。

暁斎が狩野派を去った理由をコンドルは次の様に書いている。「狩野派の様式と伝統を十分に学んだのち彼は狩野派を去った。その主たる理由は狩野派に対抗する諸派の技術を知るに及んで、一流派の画論にのみ束縛されるべきではない、広くすべての流派を研究し、すぐれた部分は積極的にこれを利用すべきであると決意したからである。」狩野派を去ることにより、上流人士や官界有力者の引き立てからも疎遠になってゆく。

明治三年(1870)狂斎時代、席画の場所で逮捕され投獄される。その風刺絵によるものなのか当時の政府高官を戯画的に表しているとして国事犯扱いとなる。明治四年(1871)頃<狂斎>から<暁斎>に改名する。<狂>は北斎の<画狂人>から「画に熱狂する人」をもじって付けたとされるが、その<狂>が災いしたとの考慮もあったようである。

暁斎は、仏画、宗教画、戯画、滑稽画などその画の領域が広範囲である。

他界する四年前54歳の時剃髪し、「如空」の法名をもらう。

「この偉大なる画人は明治二十二年、病苦を得て他界した。享年五十八であった。その最期は、こよなく愛し続けた画業との永別に多分の憾みを残すものであった。暁斎の死はその力量の絶頂期にあったと言えるかもしれない。」

「彼は外国の著書で知った解剖学的形体、透視画法、陰翳法に関する科学的知識や、西洋に見られるような絵画の写実的発展に深い敬意を寄せていた。暁斎の想像力の前には常に限りなく豊かな美術の世界が存在していた。それは彼の生まれた世界を照らす光の外側にあるものであった。彼は自分の世界を照らす光の範囲の中で、機会を捉えて仕事をせざるをえなかったのである。」とコンドルは結んでいる。

年譜によると明治二十一年亡くなる前の年、狩野芳崖没後東京美術学校教授依頼のため岡倉天心とフェノロサが来宅するが病気のため謝絶とある。学術的にも暁斎の画業はみとめられつつあったわけである。

 

河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (2)

美術館で見つけた「河鍋暁斎」 (ジョサイア・コンドル著、山口静一訳)から少し河鍋暁斎の生い立ちを紹介する。なかなか面白い。

生まれは茨城県の古河市である。本名は河鍋周三郎。暁斎は自分の思い出を「暁斎画談・外篇」に書いているらしく、コンドルはその本から紹介もしている。暁斎は子供の頃、玩具や菓子よりも絵を見せたり手で持てる生き物を与えられると泣いていても泣き止み、三歳のとき初めて写生をしている。駕籠に乗っての長い旅で、蛙を与えられそれを観察し、目的地につくと紙にその外形を写したという。後年暁斎は作品を完成させるにあたり、モデルを用いたり、直接対象をスケッチすることがほとんどなかったそうで、それまで溜め込まれている観察力と記憶力から画いたらしい。

6歳の時父の仕事から江戸に出て、現在の御茶ノ水にある順天堂大学病院にあった幕府火消組の屋敷に移る。父は賛成ではなかったが、彼の志向から浮世絵師一勇斎国芳に入門させる。この師から、例えば戦闘中の人物を画くなら実際に喧嘩をしている人たちの表情から手足の位置、動き、優勢、劣勢の相違などを深く観察する事を教えら、江戸の裏町を歩きまわり観察力と記憶力を養う。二年で国芳のもとを去り、独自で観察、写生を試みる。

ある時大雨のあと、神田川で尻尾のふさふさした蓑亀と思ったものが人間の生首であった。驚き慄いたが気を取り直し家に持ち帰りこれを画き写そうとしたが親に見つかり、もとの場所にもどす前に急いで写生している。

十一歳の時、狩野派の狩野洞白(とうはく)の画塾へ入れてもらう。十八歳で狩野家から雅号洞郁(とういく)を授けられ、十六年間幕府お抱え狩野派の門弟としての道を歩む。二十七歳の時、主家といさかいを起こし狩野派を離れ独立、狂斎と称する。洞白のもとを去るが、暁斎は師に敬意を持ち続け、狩野派の巨匠たちにも深く尊敬の念を抱いている。健康を損なうほど狩野派の絵の研究をしている。

「門弟の修業は既製の絵を何度も模写することにあったが、その絵そのものがかつての狩野派巨匠の作を模写したものであり、現実の動物も想像上の動物もその表現は狩野派古画の規定した先例に従うように厳しく制限されていた。」

 

河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (1)

三井記念美術館で『川鍋暁斎の能・狂言画』開催中である。

<河鍋暁斎>と眼にすると個性に強い怪気的イメージを受けるのであるが、今回のテーマは「能・狂言画」である。ユーモアがあったり、躍動的だったり、幽玄に充ちていたり暁斎の幅の広さと奥の深さを知らされた。そして、能・狂言に詳しい人も、よく知らない人も、実際に観てみたいと思わす企画展示であった。ここの美術館は作品の数的にも丁度よい数で、いつも音声ガイドを借りるのであるが、この解説も気に入っている。これも難しいもので、あまり専門的に詳しくても疲れるし、軽すぎると別に借りることもなかった、となってしまう。

暁斎という絵師は狩野派に所属していて18歳で独立している。幕末から明治にかけて活躍している。能は自分でも習い、その費用は貞光院という方が援助してくれその方の墓前で三番叟を舞う画も描いている。「猩々」などは自分でも好きなのか何枚か描いている。

「能・狂言画聚」は沢山の演目の印象的一場面と詞をいれ、後のち参考になる資料ともなっている。それも躍動的で狂言師の笑顔は観客の笑顔でもあると思わせる。自分の実際の体験から下絵ではあるが「道成寺」で白拍子が鐘に入ってから鐘の中で後シテがロウソクの明かりの中で鬼に支度する様子が描かれている。鐘の中などの画は初めて見た。

能の場合は鐘の下に行き堕ちてくる鐘の中に入るのであるが、鐘が降りて来たとき中で飛び上がり鐘が堕ちきらないうちに足を見せなくして鐘を地に着かせるのである。そのタイミングが難しく、飛びすぎて頭を鐘の天井にぶつけたりすることもあるそうである。能の「道成寺」を観た時そんな解説を聞いた。

時代的に14代将軍家茂が3代将軍家光以来240年ぶりに上洛し、それを記念して能が庶民にも披露されそれを見たあとの様子が「東海道名所之内 御能拝見朝番」に描かれている。これは背景が二代歌川広重、二階から覗く女中達を歌川芳虎、浮かれる町人達を暁斎が合作で一枚のえ画にしている。浮かれる町人たちの姿が生き生きとしていて、暁斎の才能の広さがわかる。

面白いことに、鹿鳴館、ニコライ堂、旧岩崎邸、旧古川庭園など設計して携わったジョサイア・コンドルが暁斎の弟子で<暁英>の画号をもらっている。さらにコンドルは暁斎の生い立ちや暁斎の晩年の仕事の細部までを記録し本にしており、暁斎の名を海外に知らしめている。(「河鍋暁斎」ジョサイア・コンドル著社/山口靜一訳)

『天保遊侠録』(てんぽうゆうきょうろく)

勝海舟の父親・勝小吉を主人公にした真山青果の作品で「天保遊侠録」という芝居がある。

小吉は旗本ではあるが無役であるため、役付きになりたいと思い上役を向島の料理屋で接待する。周囲の皆からどんなことがあろうと悋気を起こさないように注意される。しかし、持ち前の自由奔放さと江戸っ子気質であるから上役たちのこちらの弱みに付け込んだ勝手な振る舞いに堪忍袋の緒が切れる。言いたいことを言い役付きも終わりである。

その時、小吉と一緒では麟太郎(海舟)の先行きが思いやられると考えたお局になっている小吉の義姉が、隣の別室に麟太郎を呼んでいた。麟太郎は父の一部始終を見ていて、叔母の言う通り大奥に勤めるのである。この時の麟太郎は父を負かせてしまうほどの賢さを見せ、父は父、子は子の人生だなあと思わせたのである。

麟太郎は7歳の時、十二代将軍家慶の五男・初之丞に仕えるのであるが、この初之丞が夭折し、9歳でお城から下がるのである。芝居では父と子それぞれの生き方と思えたが「氷川清話」を読むと小吉の血が確実に流れていると感じてしまう。

観たお芝居の方は小吉が吉右衛門さんで窮屈な感じで接待をし、ぶちまけた時はきっぷの良い江戸っ子で、麟太郎との別れには親の切なさを格好よく演じられていた。麟太郎役の子役さんもなかなかの賢さを出していたが名前の方は分からない。この時の甥役の染五郎さんを観て染五郎さんの三枚目がいいと確信したのでる。世間からずれている小吉より勝ってずれている加減が良かったのである。

そういえば『西郷と豚姫』の西郷も吉右衛門さんであった。愛嬌があり腹の据わった西郷であった。このあたりの芝居はリラックスして観られる演目ではあるが、「氷川清話」を読むと、軽くは言っているが生死の狭間を潜り抜けていたわけで、胎の中心の深さが常に決まっていなくてはならないと思う。小吉もただ自由奔放の変わり者ではなく時代の風に会えば何を仕出かすか分からないといった大きさが無くては単なる人情話に終わってしまう。海舟の道に至る無頼さの味が必要である。

 

勝海舟 『氷川清話』

佐久間象山が勝海舟の妹婿である。随分と面白い繋がりになった。そこで勝海舟の『氷川清話』を手にし開いてみたら頭から出てきた。

「おれが海舟という号をつけたのは、(佐久間)象山の書いた「海舟書屋(かいしゅうしょおく)」という額がよくできていたから、それで思いついたのである。」

佐久間象山その人については「佐久間象山は、物識りだったョ。見識も多少もっていたよ。しかしどうも法螺吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当たらしたらどうだろうか・・・。何とも保証はできないノー。」

横井小楠(この人の事は詳しくは分からないのであるが海舟は買っている)と比較し「佐久間の方はまるで反対で、顔つきからしてすでに一種奇妙なのに、平生緞子の羽織に、古代様の袴をはいて、いかにもおれは天下の師だというように、厳然と構えこんで、元来覇気の強い男だから、漢学者が来ると洋学をもっておどしつけ、洋学者が来ると漢学をもっておどしつけ、ちょっと書生がたずねて来ても、じきに叱りとばすというふうでどうにも始末にいけなかった。」としている。

海舟は自分の価値感で直感的に人を判断することに長けているようで、様々な人の人物評を簡潔に自分の好き嫌いも含めて書いている。海舟は<動>の人である。知識だけあって実践の伴わない人は優秀とは思っていない。象山は<知>の人で同じ<知>でも横井小楠の方が上でこれに西郷隆盛の<動>が加わればこわいことになると。海舟は幕府に抱えられているからこわいこととは幕府が潰れるという事である。芝、田町の薩摩屋敷で勝と西郷の会談が行われ徳川氏の滅亡は免れたのではあるが、その時の西郷の様子などは、非常に読みやすい。『氷川清話』じたいが「話」で、話し言葉なのである。

勝は自分は弟子は持たないとしている。なぜなら弟子がいると祭り上げられるからで、西郷がそうであるという。しかし、「おれは西郷のように、これと情死するだけの親切はないから、何か別の手段をとるョ。」といっている。自分はずるいからそのような立場になってもそれを回避するであろうと言っているようにも取れる。

驚いたことに、西郷と豚姫のことも書かれている。これは歌舞伎演目に「西郷と豚姫」というのがあるのであるが勝は次のように話している。

「西郷は、どうも人にわからないところがあったョ。大きな人間ほどそんなもので・・・小さい奴なら、どんなにしたってすぐ肚の底まで見えてしまうが、大きい奴になるとそうでないノー。例の豚姫の話があるだろう。豚姫というのは京都の祇園で名高い・・・(略)西郷と関係ができてから名高くなったのだが・・・豚の如く肥えていたから、豚姫と称せられた茶屋の仲居だ。この仲居が、ひどく西郷にほれて、西郷もまたこの仲居を愛していたのョ。しかし今の奴等が、茶屋女と、くっつくのとはわけが違っているョ。どうもいうにいわれぬ善いところがあったのだ。これはもとより一つの私事に過ぎないけれど、大体がまずこんなふうに常人と違って、よほど大きくできていたのサ。」

 

平将門の人気

『平の将門』(吉川英治著)を読む。<将門遺事>に次のようにある。

「江戸の神田明神もまた、将門を祠(まつ)ったものである。芝崎縁起に、由来が詳しい。初めて、将門の冤罪(えんざい)を解いて、その神田祭りをいっそう盛大にさせた人は、烏丸大納言光広であった。寛永二年、江戸城へ使いしたとき、その由来をきいて、「将門を、大謀反人とか、魔神とかいっているのは、おかしい事だ、いわれなき妄説である」と、朝廷にも奏して、勅免を仰いだのである。で、神田祭りの大祭を勅免祭りともいったという。」

今年は四年ぶりの神田祭が5月9日から15日までおこなわれる。神田明神の資料館に行けば将門の事も分かるかなと思い出かける。その前に大手町にあるという首塚へも。地下鉄の大手町駅の5番出口から出ると左手すぐに幟と白壁が見える。

説明板によると「酒井家上屋敷跡 江戸時代の寛文年間この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末 伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである」。これは驚きでした。原田甲斐と将門が繋がるとは。将門が戦で命を落としたのは、天慶3年、2月14日、38歳である。将門首塚の碑には次のような説明が。「昔この辺りを芝崎村といって神田山日輪寺や神田明神の社があり傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆は徳治二年(1307年)に真教上人が将門の霊を供養したもので焼損したので復刻し現在に至っている。」

この後、延慶二年(1309年)神田明神のご祭神として祀り、徳川家康が幕府を開き江戸城を拡張する際現在の江戸城から表鬼門にあたる場所に移動し、首塚の碑は大手町にそのまま残ったわけである。神田明神の正式名称は神田神社でご祭神は、だいこく様、えびす様、まさかど様である。

資料館ではー江戸の華 神田祭をしりたいー【大江戸 神田祭展】の特別展を開催していた。そこで面白い説明があった。江戸時代将門の凧が好まれて空に多く舞ったという。朝敵といわれた将門の凧が空を舞ったのは江戸以外ではあまりみられなかったそうだ。もう一つは将門は妙見様を武神として篤く信仰していて将門が彫ったといわれる妙見尊像が奉られていた。妙見様は本体は北斗星・北極星といわれている。それで思い当たることがあった。吉川英治さんの本の解説に劇作家の清水邦夫さんが、将門生存説があり将門には七人の影武者がいてその影武者が将門の身代わりとなり将門は生きのびたとする説で、茨城県のあちらこちらに七騎塚とか七天王とかの塚が残っていて、名古屋あたりにも七人塚があると書かれている。清水さんは将門を戯曲にしていて将門のことを色々調べたらしい。そこで思ったのである。この七という数字は将門の妙見様信仰の七からきているのではないかと。他の数字でもよいであろうが、将門の事をよく知っている身近なところからこの伝説は生まれたようにおもうのである。

歌舞伎の舞踏劇<将門>は、山東京伝の将門の遺児たちの復讐の物語をもとにした芝居の大詰めの踊りで、将門が余りにも呆気なく敗死してしまったことに対する庶民の思い入れもあるような気がする。江戸時代にはもっと人気があったと想像するのだが。

清水さんは東京の近郊の鳩の巣の神社にも将門を祀っていると書いている。奥多摩の鳩の巣渓谷は歩いた事がある。参考にした雑誌を見たらJR青梅線鳩の巣駅の上に将門神社があり、暑い日だったので行くのを止めた記憶が蘇る。今なら無理してでもも行ったであろうが、その時は将門への興味は薄かったのである。将門っ原とありそこは居館跡とある。その雑誌では将門神社の説明が次のように書かれている。

天慶(てんぎょう)の乱をおこした平将門は権力に圧迫されて苦しんでいた民衆に人気を集め、いつしか民衆の英雄として都内のあちこちに将門伝説をのこした。ここ将門神社もその子良門が亡父の像を彫って祀ったといわれる場所。

これからもあちらこちらで将門神社や将門伝説に会うことであろう。