京都の旅 ・京都の建具、工芸術(3)

京都御所が通年公開となり申し込み不要となりましたので、烏丸御池からも近い御所見学ときめていまして、その後は相国寺に行き承天閣美術館もいいかなと考えていました。さらに、雨の可能性ありなので京都文化博物館のシアターも調べておきました。<生誕百年 映画女優山田五十鈴>で映画は『おぼろ駕籠』です。

京都御所』は、室内には入れませんから工芸品などは無理ですが、部屋の襖絵などは、外からも観れるように透明の遮断(ガラス?)ごしに見ることは可能です。それよりも、建物の時代性のほうが見応えがあるとおもいます。

決められた時間から案内のかたが解説してくれます。話しを聞いたほうがよさそうなのでその時間までビデオをみたり、行けるところまで先に眺めて、集合場所にもどり案内をしてもらいました。先に「話し始めたらとまりませんが、一応は一時間前後で、関西弁のまま吉本風にいきます」との紹介のごとく楽しいですがしっかり解説してくださいました。聞く方が覚えが悪く飛び石状態ですが。

公卿や貴族が入った御車寄(おくるまよせ)は牛車なわけですから左右に壁がありますが大正天皇が即位のとき造られた新御車寄(しんみくるまよせ)は車を横づけにしますから壁はありませんし、読み方も違います。

 

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<諸大夫(しょだいぶ)の間>という参内した公家や将軍家の使者たちの待つ部屋の「桜の間」「虎の間」「鶴の間」は名前に因んだ襖絵ですが身分によって入る部屋が違っています。などなどの説明がありますので時間のあるかたは案内のかたと歩かれるといいと思います。参加自由、途中でぬけるのも自由ですので。

 

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承明門と紫宸殿

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建物の屋根が、檜皮葺とこけら葺がありますが、時代に寄って流行みたいのがあったようです。建てた年代は違っても平安時代式の建物であったり、鎌倉時代の建物であったりと、その時代の建物が見れます。左右に開く、遣戸(やりど)、上に垂直に持ち上げて止める蔀(しとみ)、半分上げる半蔀(はじとみ)、外側がはずされることによって下げられる御簾、間仕切りの役目や飾りなどの役目もする障子、屏風、几帳(きちょう)などが再度確認でき、それらを比較して見ていくことができます。

 

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蔀(しとみ)なども板で出来ているわけで、実際に普段は上げたままですが台風のときなどは下げますが、留めているところを上手く外して、静かに下げるのですが重くて大変で、平安時代の女官さんたちはこれを毎日やっていたわけですから凄いことですと言われていました。

 

蹴鞠の庭

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御庭

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迎賓館は、また違った素晴らしいものがありますから機会があればどうぞということでしたが、御所の管轄は宮内庁で、迎賓館は内閣府で担当がちがいます。そしてこの外の御苑は環境省なのです。

もっと色々なことを教えていただき次に迎賓館に向かいました。

途中で仙洞御所の見学の案内もありましたが、こちらは入れる時間設定があり時間が空き過ぎ、迎賓館にいくとこちらも時間設定がありますが、ちょうど待ち時間を短くて見学することができました。こちらは有料で案内つきと無しがあり案内つきとしました。

京都迎賓館』のほうは中ですから、とくに京都の工芸に力を入れられていますのでこれまた見どころ沢山でした。木を豊富に使い、和紙の素敵なデザインの行灯、椅子には光沢のある有識織物(ゆうそくおりもの)、竹工芸の花かごなどが控えめながら眼をひきます。

 

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桐の間の和室には一枚板の黒漆の座卓が見事な輝きで直線を描き、座椅子には蒔絵で五七の桐がえがかれ釘隠しも五七の桐が。催し用の舞台扉は截金(きりかね)の模様をほどこし、柱の継ぎ目にも同じ模様で装飾していたりと、説明を聞きつつも先に眼がいってしまいます。

 

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障子の和紙が美濃和紙で、大きく漉くことができないので、継ぎ目があります。それもまたアクセントになっています。

 

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どの部屋からもお庭が見えます。目がお庭にいくように天井が庭側に下がっていたり、建物を繋ぐ廊橋の天井は船形で小さな切り込みの虫がところどころに見えます。お庭が和舟がありブータンの国王ご夫妻が新婚旅行の際にはお二人で舟で池を巡られた写真がありました。飾り棚に飾られている工芸や絵画など、こちらの見学も一時間ほどですがたっぷり京の工芸を眺めることができます。

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ここで抹茶を一服といきたいですがそうはいきませんね。計画外で上手くつながった見学でした。外に出ましたらそろそろ雨の危ない空もようです。

江戸末期の「禁門の変(蛤御門の変)」の蛤御門から出て、多少疲れましたので相国寺は止めて、座れる映画を見ることにしました。蛤御門の説明に、この門は新在家(しんざいけ)門といわれていましたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」に例えて、蛤御門とよばれるようになったといわれていますと書かれていました。

 

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2017年9月28日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

京都の旅 ・京都の建具、工芸術(2)

角屋(すみや)』さんは、今、『角屋もてなしの文化美術館』として公開しています。記念館となって公開しているのであろうとずーっと思っていましたが、実際には何代も続く御当主が保存に努力され、唯一の島原の揚屋を残されていて、島原という花街の認識を新たにしました。

花街と遊里の違いは、花街は歌舞音曲の芸を宴会で楽しむところで、歌舞練場があります。今は島原にはその跡しかありませんが、祇園などには残っていて今も活躍しています。東京の新橋演舞場は、大阪や京都の歌舞練場を目指して、新橋の芸妓さんの踊りの発表の場としてできたもので、今も東おどりがあります。島原もかつては、青柳踊があったようです。

金沢生まれの友人が実家に帰って、初めて金沢おどりをみてきてよかったと言っていまして、観光した金沢の花街や泉鏡花さんが浮かびます。

「島原」は最初は秀吉さんの頃、柳馬場二条に「柳町」として始まり、御所に近いため六条柳町に移転させられ、大変なにぎわいで町中すぎると朱雀野(しゅしゃかの)に移転させられ、移転騒動が九州の島原の乱に似ているとして「島原」とよばれるようになったそうで、そう呼ばれるほど注目されていたわけです。

その当時は辺鄙でたんぼばかりのところでしたが、『角屋』は格調高い揚屋であったため文人も訪れていたのですが、次第に便利な非公認の祇園のほうにお客が流れてしまい衰退していくのです。

二階は、緞子(どんす)の間(襖が緞子ばり)、御簾の間、扇の間、草花の間、馬の間、青貝の間、檜垣の間と趣向を凝らした部屋が並んでいます。釘隠しも部屋によって違い、障子の組子が一枚の板を曲線に細く削ってたてにはめ込んでいたり、腰板に工夫があり、天井ががまむしろだったり、大きな仏壇置きに似た浄瑠璃を語る場所があったり、その建具類が京の専門の職人さんが腕を奮ってこしらえているのがわかります。

壁も種類を替え、九条土のくすんだ青がこれまたいいのです。金沢の料亭でも鮮やかな群青色の壁を使っていましたが、日本海側と内陸の風土の違いの色かもしれません。さらに名家の絵なぞも飾られ、蒔絵の食器なども出されたわけで、そこで太夫さんの博識と芸妓さんの踊りの芸が花を添えていたわけです。

周辺には七つの名所に文芸碑が建立されています。大銀杏、島原住吉神社、末社幸天満宮、島原西門、東鴻臚館(こうろかん)跡、歌舞練場跡記念碑、大門。

 

大銀杏と弁財天社

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島原

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大門

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かつては太夫、芸妓をかかえる置屋でした輪違屋さんは、今はお茶屋さんとして営業していて非公開ですが、意匠をこらしたお部屋があるようです。

 

丹波口駅近くに京都の中央卸売市場がありました。京都の食材はここから運ばれているんですね。

 

細見美術館』は、<麗しき日本の美 -秋草の意匠ー>の展示で、秋草の絵画や工芸がならんでいました。『角屋』さんにも唐紙の引手に『角屋』の紋・蔓三の蔦をあしらったり凝っていましたが、ここにも七宝で楓をかたどった引手がありました。秋草と虫の蒔絵の小箱や団扇、屏風などが人工的空調の中に秋風を感じさせてくれます。

酒井抱一さん関係が中心で、こんなに多くの一門のかたがいたのかなどと思いながらじっくり鑑賞させてもらいました。

面白かったのは、<きりぎりすの絵巻>で、美しい姫が輿入れする様子で顔がきりぎりすで、馬の代わりに蛙だったり、家来がトンボで裃から羽が飛び出していたりします。鳥獣戯画より衣装を着ていますので人に近いです。

秋の葉の一枚一枚を眺めていると、北斎さんが狩野派も土佐派も琳派も、その描き方の違いを学びたいと思った気持ちがわかります。一つの部屋の一枚の絵がその部屋に秋を運ぶためにはどう描けばよいのか。

料亭では絵画や床の間に飾られた工芸がお客さんを秋の気分にさせ、障子を通して届く名月のくすんだ光などを愉しんだのでしょう。美術館ではそんな贅沢な空間を味わえませんが、時々入館者はありますが程よく一人貸し切り状態で、6時の閉館時間ぎりぎりまで優雅な時間をもてました。

ここで手にしたのが、高島屋で開催されている『ぼくらが日本を継いでいく ー琳派・若冲・アニメー』で、この時点では行く予定ではありませんでした。

 

2017年9月26日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

京都の旅 ・京都の建具、工芸術(1)

渋谷オーチャードホールでの玉三郎さんと太鼓芸能集団・鼓童とのコラボ『幽玄』に魅せられて、もう一度と思っていましたらロームシアター京都での公演が決まりました。では観光も兼ねてと実行したのですが、音が違っていました。

色々な条件の重なりもあるのでしょうが、ロームシアター京都の音響が、和楽器の音の微妙さを捉えるには不向きに思えました。最初の締太鼓のときからオーチャードホールと比較すると違和感を感じてしまい、何か違う何か違うと思いつつ聴いていました。玉三郎さんの腰鼓の羯鼓(かっこ)と鼓童のかついだ桶胴太鼓とのセッションも羯鼓(かっこ)の音がとらえられないのです。

お箏はきちんと音をとらえていました。洋楽器のシンバルのような和楽器の手平鉦(てひらがね)なのか妙鉢(みょうはち)なのでしょうか、その音もよく響いていました。後半から太鼓も大きな音はよく響くのですが響き過ぎの感じでした。舞台最終に向かっての盛り上がりかたは素晴らしく何回もカーテンコールとなり、こちらもしっかり拍手しましたが、オーチャードホールでのあの最初からの幽玄さではないとの感はぬぐえませんでした。コンサート会場によって音というものが違うのだということを感じさせられた次第です。

管弦楽用の音響なのでしょうか。笛も神経質な響きにおもえました。和楽器の細やかな音の響きがオーチャードホールのようには伝わってきませんでした。そう思ったのは私だけなのかもしれません。最初にいい出会いをすると、それが誇大妄想になっているのかも。でもやはり最初がよかったです。

しかしそういう意味では和楽器を考えての造りの歌舞伎座などの和楽器の響きにはやはり適しているのでしょう。だからといって、太鼓集団が歌舞伎座でより発揮できるのかどうかはわかりません。歌舞伎もいろいろな劇場で催しますが、役者さんたちもそれなりの違いを感じつつ調整されつつ演じられているのでしょう。旅での公演は音響、舞台の大きさ、楽屋、大道具の置き場所など気苦労も多い事とおもいます。

ロームシアター京都は平安神宮のそばのお洒落な建物でした。休憩時間には、外のテラスでちらっと見える街灯りをながめつつ飲み物を賞味でき、季節がら心地よい空気でした。何より嬉しかったのが、『細見美術館』の目の前ということです。コンサートの前思う存分ゆっくりと鑑賞できました。

 

 

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今回の旅は、京都の建物の建具や工芸の腕前を堪能する旅となりました。お得な宿泊つきフリーがありそちらにお任せで、宿泊が地下鉄の烏丸御池駅近くでしたので、先ずは、ロームシアター京都からは歩いて地下鉄東山駅から一本で三つ目の駅ですからとても楽でした。

地図をながめつつ、今回は後回しにされている島原の『角屋(すみや)』へ行くことにしました。京都駅から山陽線(嵯峨線)で丹波口駅へ。見学後は、山陽線で一つ先の二条駅で地下鉄東西線に乗り換えれば二駅で烏丸御池にいきますからホテルで一息ついて、地下鉄で東山に向かい、『細見美術館』を鑑賞してから『幽玄』へ。

雨が降っても予定を変える必要なしです。上手くはまってくれました。そして、その流れが、京都の建具や工芸品の数々を眼にする旅の始まりとなったのです。そして、琳派・若冲とアニメのコラボにまで行き着いてしまいました。

さて京都の島原は、江戸時代から公認されていた花街(かがい)で、江戸の吉原の遊郭とは違います。(説明されたかたが強調されていました)花街は、歌舞音曲を愉しみながらの宴会の場所なのです。『角屋』はその揚屋(今の料亭)で、二階を建てることを許されたので二階をあげるということから揚屋というようになったとも言われているそうです。

 

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説明を聴く場所が「松の間」で枯山水の庭に臥龍松(がりゅうまつ)の見える部屋なのです。昼間は俳諧師などが句作をして夜は宴会という文芸の街であり、お庭にはお茶室も三つあるとのこと。

 

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「松の間」は、新撰組の芹沢鴨(せりざわかも)さんが最後に宴会をした部屋でもあります。ここで酩酊し(酩酊させ)、お客を泊まらせませんから駕籠で壬生の屯所八木邸に帰り暗殺されるのです。『角屋』から真っ直ぐ北へ進めば(上ル)壬生です。

玄関には、刀置きがあり、さらに帳場のそばに刀入れの箪笥がありました。『角屋』は料亭ですからお料理も作っていまして大きな台所があります。歌舞伎の『伊勢音頭恋寝刃』を思い出しました。料理人の喜助が刀を預かります。油屋も料理を作っていたことになりますが、遊郭の場合は、仕出し屋から料理をとります。その辺は芝居のために料理人という設定にしたのかもしれませんが、伊勢はまたちがうかもです。

 

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「松の間」の柱には新撰組の刀傷があり、『角屋』では騒乱は起きていないので、本来刀を持っては入れないのに持って上りいやがらせのためではないかとのことで、新撰組の悪い評判はこんな行為からもきているのでしょう。この刀傷をみると人斬り刀の威力にゾッとします。

 

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置屋から太夫や芸妓が揚屋に派遣されてくるわけで、その道中が太夫の道中でもあるわけです。江戸吉原では花魁道中といわれています。

二階が別料金となりますが、建具らに手を尽くされた部屋がならんでいて説明つきで見学できます。

 

2017年9月25日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

信州の旅から群馬へ・坂本宿(6)

めがね橋>でボランティアの説明の方が、軽井沢はリピーターがいるがここはいないからと言われていましたが、そんな事はないと思います。歩きやすいし秋の紅葉などはまた来たいと思います。<熊ノ平>残していますし、温泉の質も良かったです。友人に話したら歩きたいと言っていました。

温泉で身体も軽く、温泉施設のかたに坂本宿への道を確認。それらしい建物は残っていませんよと言われました。なるほど建物は残っていませんでしたが、きっちりと説明や石柱は設置していてくれていました。家々には屋号が標示されています。「上州中山道坂本宿・丸仁屋跡・西 京へ百二里」

 

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小林一茶さんは、信濃の郷里・柏原への行き来に宿泊したのが定宿「たかさごや」で、一茶さんがくると旦那衆から馬子、飯盛り女にいたるまで指を折って俳句に熱中したとあり、一茶さんらしい表現です。碓氷峠の<覗き>という坂本宿が一望できる場所で詠んだ句。 坂本や袂の下は夕ひばり

若山牧水さん宿泊は「つたや」。碓氷峠にアプト式鉄道が開通して15年後の明治41年ごろには坂本宿はさびれてしまいます。この年の8月6日軽井沢から坂本宿へ入り、一軒残っていた宿「つたや」に無理に頼んで泊めてもらいます。そして暑さに寝付かれず焼酎をもとめて糸操りの歌を耳にしてできた歌。 秋風や碓氷のふもと荒れ寂し坂本の宿の糸操りの唄

坂本宿の旅籠のおもかげを残す「かぎや」。屋根看板も残っています。

坂本宿には二つの本陣があり、文政年間には31大名が往来しています。東に碓氷関所、西に碓氷峠をひかえて、坂本泊りは必然で、大名のすれ違いもあり、二つの本陣が必要でした。その一つ佐藤本陣は、明治8年には坂本小学校として開校しています。

 

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もう一つの金井本陣には、皇女和宮内親王も宿泊されています。御降嫁にあたりお付き添え、迎え都合3万人ともいわれています。

 

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文久元年の絵図には巾14、8メートルの道路の中央に川巾1、3メートルの用水路があり、その両側に本陣、脇本陣、旅籠、商家が160軒あり賑わっていました。

今、この水路は車道と歩道の間の両脇にあり、新しくその水音が涼やかで美しい直線を描いています。水路のないところでも道の下を豊富な水が流れている音が聞こえます。

 

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小さな赤い鳥居の水神宮がありました。この水神はもとはこの地より東の40戸あまりの集落の原村にあって水を大切に思っていたが、現在は容易に安全に得られるため粗略に扱いがちであるが、水神を詣でることで水への認識を深めたいものであると書かれています。もっともです。水道の水がすぐ飲めるなんて凄いことです。

 

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さて、横川駅への脇道を土地のかたにお聞きして進むと「碓氷馬車鉄道由来」の案内板がありました。我が国二番目の馬車鉄道とあり、一番めはどこかとおもいましたら、新橋~日本橋間(1882年・明治15年)でした。横川~軽井沢間(1888年・明治21年)開通で、蒸気機関車碓氷線が明治26年にでき姿を消します。

 

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そして、出発時にはぷい!をした<碓氷関所>の道標。温泉に入り、坂本宿を歩きはじめると習慣は恐ろしい。再び汗を吹き出しつつも身体は東海道歩きバージョンになっていました。

招魂碑由来>。碓氷アプト式鉄道の建設は、距離11、2キロ、26のトンネル、18の橋梁、高低差553メートルを1年9ヶ月の短期間で開通しました。技術力も凄いですが、その人海戦術には多数の犠牲者もあったといわれています。その碑をこの地へ移して忘れることなく冥福を祈ろうということです。実際に歩いて見て本当にそう思います。

 

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碓氷関所跡> 碓氷坂にあった関所がこの地に移りました。門柱および門扉は当時のもので総ケヤキ材で金具を用いていて昭和34年に復元しました。

 

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おじぎ石>というのがあり、通行人はこの石に手をついて手形を差し出し通行の許可を受けたとあります。

 

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横川駅に到着。<峠の湯>から1時間です。無事<碓氷関所跡>も通過できました。最後は「碓氷馬子唄」の説明が。

元来馬は音楽を好む動物で、音に対して非常に敏感であると言われていて、苦しい峠の道すがら、馬子たちが唄った馬子唄は人馬を励ますための唄だそうです。シャンシャンの鈴の音は唄声に合わせる調子としてなるほど好い音だったわけです。

一に追分二に軽井沢三に坂本ままならん

西に追分東に関所せめて峠の茶屋迄も

碓氷峠のあの風車たれを待つやらくるくると

雨が降りゃこそ松井田泊りふりゃなきゃこします坂本へ

様々な歴史をみてきた碓氷峠ですが、当然、葛飾北斎さんとお栄さんの歩く姿も目撃していたわけです。そんなこんなを思い巡らす坂本宿でした。

これにて信州から碓氷峠を越して群馬の旅も幕となります。シャンシャン!

 

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信州の旅から群馬へ・碓氷めがね橋(5)

信州の旅は群馬に入りました。横川駅で予想外な事態が。コインロッカーがなく駅でも荷物は預からず、どこにも預かるところはないということでした。信じられませんでした。横川駅から<めがね橋>を通って<熊ノ平>までの往復一日コースの散策路がありながらコインロッカーもなく荷物も預からないとは、これいかにです。

止めるわけに行きませんから進みはじめます。<碓井峠鉄道文化むら>というのがありましたがお休みで、開いていたとしても覗く気分ではありません。<アプトの道>を歩きはじめます。

アプトの道>というのは、かつての線路を歩きやすくした道で、アプトというのは、日本一勾配が急な線路のため普通の線路だけでは速度がだせず、二本のレールの間に、歯車のような車輪がかみ合いつつ進んでいけるようにギザギザのラックレールを敷いているのです。これがアプト式と呼ばれているようです。軽井沢~横川間碓氷線のアプト式蒸気機関車が走ったのは1893年(明治26年)です。現役のアプトは大井川鉄道で走っています。(大井川鉄道も計画するにはやりがいのある鉄道旅です。)

碓氷関所跡>の矢印がありましたが、少しでも体力は使いたくないとばかりに無視です。歩きやすいですが、少しづつ登りですから背中の荷物がうらめしい。今回の旅で一番この道が気がかりでしたが、さらなるまさかの展開でした。碓井峠トロッコ列車というのが<峠の湯>までありますが、これも限られた日にしか運行していません。

先ずは<峠の湯>までめざします。途中でレンガ造りの<旧丸山変電所>(1911年・明治44年)の建物があります。蒸気機関車では煙のためトンネルが多く人体に悪い影響があり、日本で初めて電化された線でもあります。(1912年・明治45年)。

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途中ですれ違う若者が、余ほどひどい様子をしていたのでしょう。「もう少しですよ。頑張ってください。」と優しいお言葉。君は天使だ! どうにか天然温泉の<峠の湯>に到着。約1時間。コインロッカーがあった! これで<めがね橋>まで行けます。

出発!<霧積温泉>の説明板があります。森村誠一さんの小説『人間の証明』の舞台となった霧積温泉が碓氷峠入口(国道)から8キロ入った山の中にあり、碓氷線ができるまでは文人、外国人、政界人の別荘があったが、碓氷線ができて避暑地は軽井沢に移ってしまったとあります。この地だって十分山の中でアプトの道からは他の道など見えません。映画『人間の証明』は、角川映画が今までにない宣伝方法で映画界に風を起こした一作品でした。

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白秋さんの歌碑。うすいねの南おもてとなりにけり くだりつゝ思ふ春のふかきを(碓氷の春 大正12年白秋39歳) おそらく夏きても秋きてもここの風景はふかいことでしょうがそういうことではないのでしょうが詩人の心も時には軽くいなします。

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ここから<めがね橋>まで5つのトンネルを通っていきます。2号トンネルと3号トンネルの間の左手に碓氷湖がみえます。碓氷湖一周散策もできるようです。先を急ぎます。ついに<めがね橋(碓氷第3橋梁)>です。途中の第2橋梁も歩きましたが木などでその姿をみることはできません。下に降りて<めがね橋>の姿を仰ぎみました。やはり圧巻です。ここから国道沿いに駐車場まで遊歩道があるようです。

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ボランティアの方でしょうか。説明してくれるかたがいました。その方に少しお話を聞き、ここからさらに5つのトンネルを通って25分くらいで最終の<熊ノ平>なのですが、今回は一番長い546メートルの6号トンネルを通って引き返すことにしました。この6号トンネル長いだけに天井に煙の抜ける穴がありました。

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<めがね橋>から<熊ノ平>のトンネル間隔は短いですから、機関車の機関士さんと機関助士の缶焚きの方は大変だったと思います。アプトの蒸気機関車によって日本海側からの物資や兵隊さんも運ばれてくることになったのです。1894年(明治27年)には日清戦争が始まるのですから。そういう歴史の流れを初めて知りました。旅というものは不思議なものです。

新幹線の開通で、信越本線の横川と軽井沢間は廃線となります。横川の<峠の釜めし>は横川駅横で販売していて、テントを張ったお休みどころがあり、ここで食べることもできます。

<めがね橋>から<峠の湯>までは下りでもあり、一度歩いた道なのでゆとりで到着できました。ここまでで3時間です。ここまで戻れれば、あとは坂本宿を歩いて横川駅までですので、せっかくの温泉です。温泉に入り休憩としました。

信州の旅から群馬へ・坂本宿(6) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

信州の旅・御代田(4)

長野駅からしなの鉄道は軽井沢までいきますが、その途中の御代田に『真楽寺』があるのを思い出しました。映画『ゆずり葉の頃』でロケ地となったお寺さんです。そこへ寄ってから軽井沢へ向かい、横川へのバスを調べたところ12時までには横川に着けます。となると遊歩道<アプトの道>の道を歩いてレンガ造りの『めがね橋』へ行けます。帰りは坂本宿を通って横川へ帰れれば、葛飾北斎さんの歩いた道を少し歩くことが出来るわけです。いいではないですか!

<アプトの道>は、かなり前に友人たちが歩いていて地図を貰っていたのですが、先に行きたい所優先で計画しなかったのですが、今回上手くはまってくれました。

真楽寺』へは御代田駅から徒歩1時間弱なので約二時間の時間をとり、御代田駅から行きはタクシーを使い、帰りは徒歩としました。リュックはコインロッカーがなく御代田駅で預かってくれました。

タクシーはお寺の境内まで運んでくれましたので、映画の主人公の市子(八千草薫)さんは藁葺屋根の仁王門から入って行きますが、こちらは仁王門から出ていくかたちとなり、少し味気なかったです。映画『ゆずり葉の頃』の映像そのままの三重塔です。こちらの塔は、自己主張の少ないすっきり安定形で時間の長さを思わせます。

 

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このお寺は浅間山の噴火を鎮めるように祈願して創建された古刹です。観音堂には本尊聖観音菩薩が安置され別名「厄除観音(やくよけかんのん)」と呼ばれています。屋根は残念ながら銅板葺きです。茅葺を維持することが今は大変な時代です。

 

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そして、観音堂と三重塔から下がったところに、『ゆずり葉の頃』でも重要な場所である湧き水で水の美しい<諏訪明神出現大沼の池>があります。映画では<龍神池>といわれ、ここで東京から疎開してきていた市子と真楽寺の息子である謙一郎のほのかな心のやりとりがあり、健一郎は龍神のようにここから飛び立つと語り、市子に飴玉を手渡します。

その想い出を市子に呼び覚ましたのが、世界的画家となった健一郎の個展が軽井沢で開かれているということを新聞記事でした。その新聞には、市子と思われる、赤ん坊を背負った少女の絵「原風景」が載っていました。もう一枚の印象的な絵は、龍神が空に向かって力強く進んでいく作品で、そこには三重塔も描かれています。

ここから市子の人生での思い残すことのない次への一歩を踏みだすまでの静な時間が湧きだすのです。本当に綺麗な水の池で、八千草薫さんの姿が映っていますが、周りの木々も全て水が吸い込むように水面に写しだし、水草と戯れているようです。どこからどのように撮影したかがわかりました。

『ゆずり葉の頃』を見直しましたが、丁寧に語られる台詞のひとつひとつの間がなんとも言えない味わいでした。(余談ですが、映画『お父さんと伊藤さん』のセリフの間もちょっと気に入りました。) 映画『ゆずり葉の頃』の涙

諏訪明神出現大沼の池>の碑によりますと、昔近江の伊吹山の麓に、甲賀という大富豪がいて太郎、次郎、三郎の三兄弟がいました。父が亡くなる前、三郎に全てを任せると言い残したため、二人の兄は三郎を殺すことにします。三郎は兄たちによって深い穴底に落とされ、横道を進んで行くと大沼の池にでましたが、水に映った姿は蛇体でした。そこに住むうちに大きくなり、そこから諏訪湖に移動して諏訪明神となり、一年に一回大沼におみ渡りされるのです。

 

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そうした言い伝えが<龍神祭り>となって、勇壮な甲賀三郎龍の舞い姿となっています。

 帰りにはお寺の後方には浅間山がくっきりと見え、駅までは平坦な道で40分くらいで行き着けました。そして、軽井沢へ至りバスで横川へと向かいお昼には横川に到着でき予定通りでした。

 

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軽井沢と横川間のバスで<めがね橋>に停車するのは、期間限定で、上下線の一本づつです。ほとんどの期間、徒歩の人は横川から往復歩くしかないのです。

 

信州の旅から群馬へ・碓氷めがね橋(5) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

信州の旅・塩田平(3)

前山寺』は、木々に挟まれた参道並木が続き、両腕に余る太いケヤキもあり静かでいい感じです。空海上人が開創したといわれるています。本堂が木造の厚い茅葺き屋根で正面に唐破風の向拝がでている美しい姿です。

 

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この向拝の厚い茅葺きの中央に文字が見え、火事から守る<水>かなとおもい入口の受付のかたにお聴きしたら本堂の<本>で、三重塔のある大きなイチョウの木から見ると<水>に見えますと教えてくださいました。近づいてよく見ると言われた通り<本>で、上からは<水>でした。火に強いイチョウの木からみるというのは単なる偶然であろうか。

 

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茅葺の一部上の何センチかは葺き替えたそうで色が変わっていました。それにしても唐破風の向拝の茅葺といい屋根といいお見事です。三重塔は「未完成の完成塔」といわれ、二層と三層に扉も窓も廻廊もなく、横板壁で未完成なのですが、屋根の先のカーブが美し曲線で、その三つの屋根のバランスといい、全体に安定感があり、細部にはこだわらせない力があります。

 

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「クルミおはぎあります」の看板に誘われて、庫裏の塩田平の見えるお部屋でしばし休憩です。庭の土塀には、鉄砲を撃てるように三角の穴がありました。塩田城の鬼門に位置しています。武田勝頼さんが寺領を寄進していて武将たちの信仰も厚かったようです。

 

 

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クルミの練りたれの上に白いはんつぶしのもち米の小さいのが二つで、おはぎというよりお菓子的可愛らしさです。なるほど、上からたれをかけるより、色としては白が美しいなどどと思いつつ賞味。風景といい結構でした。『信濃デッサン館』でのコーヒータイムもよさそうでした。

ここからは塩野神社までは<あじさい小道>を歩きます。小道に入るところで歩いてくる男性に会い、小道を確かめます。親切にそのかた、途中草の繁っているところがあるので、へびに会うといやだろうから杖があるといいといわれ、近くに落ちていた適当な枝の杖になるものを探してくれました。本当に靴が隠れるほどの雑草のところがあり草を払いつつ歩きました。杖にはそういう働きもあるのかと再認識です。幸いへびには会いませんでした。

途中に<塩田城跡>の標識があり、鎌倉幕府の重職であった北条義政が館を構え、塩田北条と称し、その後あの武田信玄に滅ぼされ、さらに上田のヒーロー一族の真田昌幸が支配し上田城ができると廃城となったとあります。(ヒーローとは書いてありませんが・・・)

 

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龍光院』は、北条義政さんの菩提寺です。立派な黒門のまえに樹齢600年の大きなケヤキが。観世音堂も羅漢堂も本堂も閉じられていましたが、寺宝の狩野永琳筆の六曲屏風が本堂に常時展示とありましたので拝見させてもらいました。穏やかな線と色合いでした。外に並んだ干支と赤い帽子と前垂れのお地蔵さんが現代のアニメ風で可愛らしかったです。

 

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次の<塩田の館>は食事処もおわっていて係りの方がお掃除しているようなので、すぐに続きの<あじさいの小道>へ。この道は巾が狭く満開時には両手にアジサイ!の感じで見事なことでしょう。この道の最終が『塩野神社』です。ここで杖を立てかけ、無事のお礼を。古代の公文書「三代実録」「延喜式」にも記されている古い社です。拝殿(勅使殿)や本殿は江戸時代建築で、作者は上田市の名工、末野忠兵衛とありますから、この忠兵衛さん、有名だったのですね。

拝殿は二階建てで、拝殿も本殿も彫刻に力を入れています。沢山の小さな社(八坂社、白山社など)が苔むした石の上や石垣の上などに自然なかたちで自由に並ばれているのが、かえって何者のの束縛も受けず神様たちの語らいの場のようで印象的でした。

 

 

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すぐお隣さんが最後の『中禅寺』です。ここで別所温泉駅行のバスは無くなり、約一時間後の塩田町駅行のバスとなりましたのでゆっくりです。それでいながら列車の乗り換えの関係で長野駅に着く時間は同じなのです。それもまたローカル線の楽しいところです。

中禅寺』も空海さんが開いたといわれ、ここの「薬師堂」は平泉中尊寺の金色堂と同じ形式で東西南北どこからみても4本の柱で柱の間が三間からなっていて、<方三間>と言われ、上から屋根をみると正方形に見えるかたちです。この薬師堂は茅葺ですので、金色堂とは趣が違い、茅葺き独特の曲線の膨らみに素朴な愛嬌があります。残念ながら薬師如来坐像、神将像らは公開しておりません。

 

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手の行き届いた小さな枯山水庭があり、そこから「薬師堂」も見え、休憩場所でしばし一日の終了に満足感を味わいます。これらの寺社は、後ろに独鈷山を控え、その山麓に位置しています。天候も穏やかで、歩く距離もほどほどでゆっくりと鑑賞できる時間をもてました。

 

 

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また少し話が飛びますが、別所温泉の『北向観音』は長野の善光寺と向かい合うように本堂が北を向いているための命名ですが、この愛染明王堂のそばのカツラの木から、川口松太郎さんは『愛染かつら』を思いつき、田中絹代さんと上原謙さんコンビの映画が大ヒット(1938年)しました。ロケ地は、日光市の『中禅寺』と言われています。ところが、『北向観音』ではなく東京谷中の『自性院』の説もあり、ロケ地も東京の池上本門寺説もあります。

映画で驚いたのは、京マチ子さんと鶴田浩二さんコンビの『愛染かつら』(1954年)があったのです。鶴田さんはわかりますが、京マチ子さんはイメージが違います。ただ、応援にかけつけた元同僚の看護婦さんたちの前で、「私事ではありますが・・」と挨拶をされ、それが堂々としていて圧倒され、これもありかと思わせられます。こちらの映画には、カツラの木は出てきませんでした。

 

信州の旅・御代田(4) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

信州の旅・塩田平(2)

さて『無言館』を目指してと調べていましたら、<塩田平ウォーキング>という散策コースが出てきました。上田電鉄の別所線、塩田町駅から別所温泉駅までの塩田平を散策するコースで、<信州の鎌倉シャトルバス>を使うと『無言館』前で降りて、『無言館』→『信濃デッサン館』→『前山寺』→『龍光院』→『塩野神社』→『中禅寺』までが散策としてよさそうです。ゆっくり一日をかけて。上田駅でこのコースを利用できる一日券がありました。

長野から塩田町駅までは三つの鉄道会社を乗り継ぐことになります。

長野駅(JR東日本・篠ノ井線)⇒篠ノ井駅(しなの鉄道)⇒上田(上田電鉄別所線)⇒塩田町駅

篠ノ井駅からのしなの鉄道は軽井沢まで行く線で、長野から乗り入れていますので、長野から軽井沢まで行けることがわかり、三日目の予定が決まったのです。なかなか面白い計画を立てることができました。

上田電鉄別所線は、かつて別所温泉へ行った時、「上田電鉄を守ろう!」というスローガンがあり運営が大変なのだと思った記憶があります。別所温泉は散策にも楽しい場所で、また歩きたいところです。

無言館』と『傷ついた画布のドーム』の二つの展示館があります。前日には小布施で80歳を過ぎても旅をし勢力的に絵筆を持ち、90歳を目前で亡くなられた葛飾北斎さんと対面していたので、志なかばで戦争で亡くなられた若い方達への想いが押し寄せてきます。

出征前、自宅に帰り、周囲が声をかけられないほどの真剣さで絵を描いていたというお話。最後に大好きなおばあちゃんを絵に描かれたかた。貧しくて一家団欒などなかったが、それを想像してゆったりと過ごす家族を描いた絵。父母には心配はかけられないという気持ちが強いため本音が言えなくても、姉や妹などには本音をつぶやかれていたりします。その想いをしっかり受けとめられ、作品を守り通されてこの美術館に託された方達もたくさんおられます。

ここの美術館はドアを開けるとすぐ展示場で、出口でお金を払うかたちになっているのですが、ドアが開いて「ごめん下さい。」といって入って来られたご婦人が、「御免なさい。もっと早く来たかったのですが、やっとこれました。」と言われ静かに絵を観始められました。戦争を体験された年齢とお見受けしました。中にいた人々はちょっと驚きましたが、またそれぞれ静かに絵を眺めそれぞれの世界へ。

ご婦人は、ここへ来たいと長い間思われていたのでしょう。たくさんの抑えられていた想いを絵のまえで解放されていかれることでしょう。

絵と言葉に涙が出てきますが、背中を優しく押されるような気配を感じつつ『無言館』(戦没画学生慰霊美術館)を後にしました。

信濃デッサン館』の館主である窪島誠一郎さんは、大正から昭和にかけて活躍しながら、結核や貧しさのため早くに世を去った画家の作品をあつめてこの美術館を開かれました。その後、『無言館』の開館となったのです。途中に分館の『槐多庵』がありました。「ヨシダ・ヨシエの眼展」。初めて眼にする名前です。美術評論家であるらしく2016年1月(享年86歳)に亡くなられています。写真の様子からしますと、自分の意思を通されたかなりユニークで豪胆なかたという印象です。

米軍占領下時代に、丸木位里、俊子夫妻の絵『原爆の図』を抱えて全国巡回展示をしておられます。横尾忠則さん、池田満寿夫さん、赤瀬川原平さんらの作品が展示されていて、こうした方々の作品についても書かれたのでしょう。ヨシダさんの「檸檬」についての文がありましたが独特の解釈です。当然、梶井基次郎さんの名前もでてきました。

 

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そして、ここで『日本近代文学館 夏の文学教室』での堀江敏幸さん(作家)の『檸檬の置き方について』という講演を思い出しました。梶井基次郎が檸檬をどんな置き方をしたのかということを考えられて話しをすすめられて結論を出しました。その結論は、ビリヤードの玉を置くときの感覚です。(このユニークな展開は今はもう説明できません。勝負する前のビリヤードの玉。梶井さんのお母さんがビリヤード店をやっていたことがあります。)

信濃デッサン館』には、夭逝された戸張孤雁さん、村山槐さん、関根正二さん、野田英夫さん、靉光さん、松本俊介さんなどの作品やデッサン、資料があります。「立原道造記念展示室」が併設されていて、なぜここにと思い係りの方にお聴きしました。東京にあった「立原道造記念館」が閉館となり、その作品を預かる形で、この美術館におかれたのだと説明してくださいました。

信濃追分の油屋のことを書いたとき、ここでお会いするとは思っていませんでした。油屋が火事になった時、立原道造さんは泊っておられ、危機迫ったところで助けらています。

立原道造さんの詩の原稿は太いブルーのインクで書かれていて読みやすいです。詩も若い頃の心情が多少甘酸っぱさを含んでいます。絵のほうの『魚の絵』などはパステルで童画のようで、色合いが明るさと楽しさで溢れています。北斎さんの写実なカレイとサヨリとメバルの三匹の魚の絵を観た眼は、ころっと立原道造さんのこの絵に眼がいきました。

館主の窪島誠一郎さんは著作品も多く、『詩人たちの絵』は、立原道造さん、宮沢賢治さん、富永太郎さん、小熊秀雄さん、村山槐多さん5人の短くも激しく生きた姿を絵も掲載されて書かれています。立原道造さんは、その短い一生のなかで信濃追分の風景が重要な役割を果たしていたことがわかりました。でも今は、塩田平を見下ろすこの地が気に入られているとおもいます。

村山槐多(むらやまかいた)さんは、父との確執から京都の家を飛び出し東京へ向かう途中信州の大屋の伯父の家に寄っています。このそばに海野宿がありその古い家なみと信州の風景をスケッチします。本格的な絵を始める心づもりと場所がこの地だったのです。海野宿はしなの鉄道の大屋駅と田中駅の中間に位置します。行きたい場所がまた一つ出現しました。

無言館』から『信濃デッサン館』までの歩く道の間にも、時々塩田平が姿を見せてくれます。

 

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美術館とはお別れして、散策コースの続きですが、なんと『信濃デッサン館』のすぐ前が『前山寺』の参道でした。

 

2017年9月11日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

信州の旅・小布施(1)

今回の信州の旅のメインは『無言館』を訪れることですが、予定を立てているうちに他の方面にもおもいが広がり、『無言館』は一日あてるとして先ず小布施となりました。

小布施は、葛飾北斎さんが岩松院(がんしょういん) の本堂天井画「八方睨み鳳凰図」を描かれている場所です。北斎さんの娘である葛飾応為さん(お栄)をモデルにした朝井まかてさんの小説『(くらら)』を読んだとき、お栄さんが一緒に小布施に行ったのかどうかに興味がありました。『眩』では北斎さんが小布施に行った時お栄さんも一緒だったとは書いていないのです。行かなかったのかと残念な気持ちだったのですが、北斎さんが亡くなったあとでお栄さんが回想するかたちで自分も小布施へ行ったとあり、まかてさんこう来ましたかとその手法にまいったと思って嬉しくなったのです。

事実なのかどうかはわかりませんが、お栄さんがあの鳳凰のどこかに筆をあてたと考えるだけでも、もう一回観に行こうと思ってしまいます。それで小布施を加えたのです。岩松院は長野から長野電鉄で小布施の次の都住駅から歩いて20分とのことで、下りたことのない駅で歩ける楽しさでもあります。<実りの秋>とはよく言ったものです。林檎の木に小ぶりのの林檎が赤かったり青かったりたわわに実り、歩く道から手を差し出せばとれてしまいます。果樹園でない場所で、無造作にこんな近くにリンゴの木が続いている道は初めてです。栗も大きな真ん丸の緑が可愛らしいです。

天井画の鳳凰はあいかわらず色鮮やかな姿を展開しています。かつては寝転がって鑑賞したのですが、今は椅子に座ってです。やはり寝転がって味わいたい鳳凰です。お栄さんの描いたところはどこかなと眺めます。あの赤の色を変えているところか、茶の羽根の濃淡の部分かな、いやいや、北斎さんは目を優しく描くので、「おやじさん、目はあたしに書かせて。」とばかりに、あの睨んでいる目かなと想像しつつ眺めていたら首が痛くなりました。

 

北斎大鳳凰図  (絵葉書より)

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説明の放送もありますが、係りに説明を聴いてくださいとありましたので、お栄さんがここに来たかどうかをお尋ねしました。来たとのこと。この絵は、小布施の豪商で文化人の高井鴻山(たかいこうざん)さんが依頼し、150両の絵の具代がかかっているのです。宝石を砕いて使っており、それだけの金額をかけたからこそ驚くべき色が残ったのかもしれません。初めて観た時は、修復して綺麗にしたのだと思ってしまったほどでした。

 

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北斎さんが80過ぎてからの作品で、小布施までよく来たものだとおもいますが、絵だけに集中できる環境だったからでしょう。弟子が何人きたのかどうかは記録にないそうで、お栄さんが一生懸命絵の具を作られ、北斎さんとはどんな言葉をかわししつつ完成させていったのでしょうか。お二人のバトルの姿を、今、鋭い目の鳳凰がお二人に負けじと睨み照らしているような感じがします。

岩松院には、<福島正則霊廟>もあります。

 

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さらに小林一茶さんの「やせ蛙まけるな一茶ここにあり」を詠んだ場所でもあり<蛙(かわず)合戦の池>があります。桜の季節の五日間、大人の手のひらの大きさの蛙がメスの産卵のときオスが手伝うのだそうで、メスが少ないため争奪戦となり、その様子と自分の病弱な初児・千太郎への声援と重ねて詠まれたのだそうです。残念ながらお子さんはなくなります。一茶54歳の時です。

 

 

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シャトルバス<おぶせロマン号>で北斎館前へ移動し、ここで栗の木を小さな正方形にして埋め込んだ<栗の小径>を進むと『高井鴻山記念館』があります。高井家は豪農商家でその子孫である鴻山さんは15歳から16年間、京都や江戸へ遊学していて幕末期ということもあり様々な人々と交流し、屋敷には佐久間象山さんも訪れ畳が擦り切れるまで火鉢を押し合って激論したようです。

もちろん北斎さんにはアトリエを提供し画の師として厚遇し、合作も残しています。晩年は妖怪の絵を多く描き、維新の世は鴻山さんが想像していたのとは違っていたのかなとも思えてきました。妖怪は北斎さんと河鍋暁斎さんの絵から学んばれたようです。「夏季特別展 高井鴻山の妖怪たち」

 

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さらに栗の小径を進むと『北斎館』です。『北斎館』に入る前に栗のアイスクリームを賞味。砕けた栗とアイスが絶妙です。『北斎館』では「企画展 北斎漫画の世界」を開催中で、絵の勉強をする人のための本ともいえるもので、人物、動物、植物などあらゆるものの形が描かれています。北斎さんは見えるものは全て自分の手で描く。北斎さんの手が描かずにはいられないという天才の宿命のようなものを感じます。

肉筆画に鮭の切り身一切れと椿という絵があり、その組み合わせにどうしてこうなったのであろうと可笑しさと不思議さに頭をかかえました。普通では考えられない発想です。たまたま鮭の切り身があり、その身の色に、ぱっと見えた椿の花の色が反応したのでしょうか。笑うしかこちらは反応できず。まいったなあ。

小布施にはかつて祇園祭があって、その屋台の天井絵を二基分描いていてそれも展示しています。一基は<男波>と<女波>、もう一基は<鳳凰>と<龍>です。小布施の人々は、北斎さんという画人をもっと身近なところで、江戸の広さとは違ったかたちで口の端に乗せて語りあっていたように思えます。

驚いたのは、『北斎館』にテレビドラマ『眩(くらら)~北斎の娘~』のポスターがありました。あまりのタイミングに係りのかたに今年の9月の放送ですかと確かめてしまいました。調べてみましたら、NHKテレビで北斎さんの波のようなうねりで北斎関連番組があります。

 

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  • 9月15日 NHK 歴史秘話ヒストリー 『世界が驚いた3つのグレートウエーブ 葛飾北斎』 午後8:00~8:43
  • 9月22日 NHK 歴史秘話ヒストリー 『おんなは赤で輝く 北斎の娘・お栄と名画ヒストリー』 午後8:00~8:43
  • 9月18日 NHK 特集『日本ーイギリス 北斎を探せ!』 午前9:05~9:50
  • 9月18日 NHK ドラマ『眩(くらら)~北斎の娘~』 午後7:30~8:43
  • 10月7日 BSプレミアム 特集番組『北斎インパクト』 午後9:00~10:30
  • 10月9日 NHK 特集番組『北斎 ”宇宙” を描く』 午前9:05~9:55

先のことですので、興味のある方は確認されてください。参考まで。

 

日本橋高島屋8階ホールで『民藝の日本 ー柳宗悦と「手仕事の日本」を旅するー 』を開催しています。改めて日本の人々の手仕事の素晴らしさに豊かな気持ちになりました。展示のし方と民芸の選び方も視点のしっかりさを感じさせてもらいました。(9月11日まで) 劇団民藝『SOETSU 韓(から)くにの白き太陽』

 

信州の旅・塩田平(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

和歌山かつらぎ町<丹生都比売神社>

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)>へは、JR和歌山線の笠田(かせだ)駅から丹生都比売神社行きのコミュニティーバスが出ていました。駅にかつらぎ町の地図があったのですが、紀ノ川とJR和歌山線に分断される細長い町です。平成の大合併でそうなったんだそうです。

バスの運転手さんがいろいろ説明してくれました。紀ノ川を渡るとき下流側のこの先には蛇島というのがあり、有吉佐和子さんの『華岡青洲の妻』はその近くが舞台ですと教えてくれました。蛇島と言われるのは雨のあと死んだ蛇が沢山流れついたからではないかとのことです。

『紀ノ川』では、主人公の花さんが亡くなるとき、家の守り神であるとされる白い蛇も死んで映画の中では三度姿を現しました。

2015年の和歌山国体でこの道も良くなったということで、かなりのカーブが続く山の中を走行していきます。この山道の先に平地があり視界が開けますからと教えられましたが、そこは田んぼの稲が青々した米どころ<天野の里>でした。標高約450メートルだそうで人は平地を求め高い場所であっても生きるための食物を育てる場所を求めて開墾していくのですね。ただ途中に閉校になった学校が二つもあり人口の少なさへの変化が実態となってわかります。

その<天野の里>の上に<丹生都比売神社>があり、九度山で<丹生都比売神社>までは無理と教えてくれた方が子供の頃この辺に住んでおられたのがよくわかりました。こんなに開けた田畑の場所とは想像ができませんでした。

 

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鳥居の前には、カーブのきつい赤い太鼓橋が印象的でした。階段のようになっていて一段一段登って下ります。<丹生都比売神社>は参拝に時間のかからない広さで、拝殿奥の本殿の檜皮葺(ひわだぶき)が新しくたっぷりとした厚さがありました。

 

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主祭神である丹生都比売大神は別名を稚日女命(わかひるめのみこと)といい、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の妹さんにあたるんだそうで、空海さんを導いた二頭の犬を連れた狩人はこの女神のお子さんの高野御子大神(たかのみこのおおかみ)が化身されたとの言い伝えがあるようです。

九度山と高野山をつなぐ意味でも重要な位置をしめ、天野の里を見れたので古(いにしえ)の山の中にひっそり暮らす村落に出会えたような風景でした。アスファルトの道は風情に合いませんが、現在生活されている人々にとっては安全で快適な道です。

高野町石道にある六本杉まで20分とあり、少し歩いてみようかと歩きはじますとと、<自然遊歩道六本杉までの近道>とあり、そちらの道を歩いてみることにしました。急な登りで一人歩けるほどの細さで10分位歩いたのですが引き返しました。暑いので歩かなくても良いところとして計画に入れましたので、素直に計画に従うことにしました。

帰って来てから映画『紀ノ川』を見ましたが、やはり花さんが紀の川を船でお輿入れする場面から始まっていました。船でのお輿入れはなく有吉佐和子さんが考えた事らしいですが、フィクションもここまで考えられれば紀ノ川も満足と思います。

映画『紀ノ川』は、花の巻・文緒の巻とあり、司葉子さんの花とその娘・文緒の岩下志麻さんの生まれた時代の生き方の違いでもありますが、司葉子さんの迷うことなく紀ノ川と一体となって流れていく生き方を再度時代を感じつつ楽しみました。花の夫・真谷敬策(田村高廣)の弟・浩策(丹波哲郎)が文緒に紀ノ川に取り込まれない川が鳴滝川で俺もお前も鳴滝川だよという台詞が生き方の違いを表した印象的な言葉でした。

お箏の音色が素敵でした。静かな時の紀ノ川の流れに合っています。

花さんは九度山から六十谷(むそた)の真谷家へ嫁ぐのですが、JR阪和線に六十谷駅というのがありました。阪和線に乗ると映画にも出てくる六十谷の鉄橋を渡ることができるのです。一度<道成寺><紀三井寺>から<伊賀上野>への電車で通過しているのですが、その時は『紀ノ川』の意識が薄く<六十谷>を気に留めませんでした。残念です。

今回はの旅の友の本は『忍びの国』でしたので、伊賀上野も関係していたのです。映画『忍びの国』が上映中ですが、本のなかの登場人物が自分流に出来上がっているのと、信長がどうして伊賀攻めに至ったかの和田竜さんの仕掛け方が面白いので、すぐには見たくない気分なのです。

随分話が飛んでしまいましたが、自分の中では地図が埋められていってはいるのです。

 

九度山と映画『娘道成寺 蛇炎の恋』『真田十勇士』(1)