歌舞伎『花競忠臣顔見勢』から神奈川へ飛ぶ(4)

歌舞伎『花競忠臣顔見勢』の大詰最終場が「花水橋引揚げの場」なんですが、「花水橋」が何となく引っかかりました。聞いたことがあるような。なんとなくむずむずします。

調べてみると神奈川の平塚と大磯の間にありました。花水川というのがあり花水橋がありました。あ~、あそこですか。旧東海道を歩いているときに渡っていたのです。

仮名手本忠臣蔵』が江戸時代を室町時代に代えて登場人物の名前も変えて上演したのですからさもありなんです。赤垣源藏の「徳利の別れ」も「稲瀬川々端の場」で稲瀬川も鎌倉の由比ガ浜に流れるこむ川の名前なのです。当時の人々は、だれもその川を想像してはいなくて、隅田川を思い描いていたわけですが当然花水橋の名も知っていたでしょう。

江戸の人が日本橋から出発して東海道で最初に泊まるのが戸塚宿ですからそこから藤沢宿、平塚宿、大磯宿ですから、人々の頭の中にはインプットされていたように思えるのです。

花水川というのは江戸時代にもあったわけで下記地図の朱色の丸の羅列は旧東海道です。東海道本線を右側に進むと平塚駅で左に進むと大磯駅となります。この間は歌舞伎での登場人物と縁のある場所でもあります。

平塚駅の近くに「お菊の塚」があります。近いはずなのに探すのに手間取りました。『番町皿屋敷』のモデルとなったお菊さん。奉公先のご主人に家宝の皿を壊したとして手打ちになったとされています。解説文によると家来が隠したとあります。歌舞伎ではご主人の青山播磨とお菊は恋仲で、お菊が播磨の愛を試してお皿を割るということになっています。「あるほどの花投げ入れよすみれ草」

   お菊さんの墓ですが、この場所も探すのにてこずりました。きちんと戒名を記されたお墓があるのですが、気の毒で哀れに思えて写真が撮れずこちらを写しました。

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下の史跡絵図の左手矢印の方向に花水橋があり、右手矢印方向が平塚駅です。二つの黄色丸が見附けでこの間が宿場町・平塚宿なわけです。朱丸は歌舞伎『鏡山旧錦絵』の「お初の墓」(お初のモデルの本名はたつ)と「平塚の塚」(平塚の由来)です。

義女松田多津顕彰碑」 ご主人の仇を討ったということで「義女」となっています。歌舞伎座8月には、その後の物語が上演されました。『加賀見山再岩藤』(かがみやまごにちのいわふじ)<岩藤怪異篇>。

花水橋を渡ってからの旧東海道には道なりに案内があります。

ここからは、曽我兄弟の十郎の恋人の虎御前関係となり、化粧坂と呼ばれていました。

弥次さん、喜多さんでしょうか、虎御石を持ち上げようとしています。あがったでしょうか。

延台寺

虎御石の解説

虎御前祈願の龍神 十郎との恋の成就を祈願したといわれる龍神様。実家にあったものを尼になって虎御前が移された伝えられています。

虎御前の供養塔

神奈川まで飛びましたが花水橋周辺からは忠臣蔵に関係することには巡り会えませんでした。お菊、お初、虎御前(大磯の虎)と歌舞伎に登場する女性たちを偲ぶ地図と写真の旅ということになりました。飛んで神奈川編でした。

今月の歌舞伎座<第二部>「寿曽我対面」には大磯の虎が登場されていますね。ということは神奈川から飛んで歌舞伎座の芝居の中に大磯の虎さんは戻してくれました。

義民・佐倉宗吾の『宗吾霊堂』

友人と月に一回は会いましょうということになり2回実行したところで新型コロナのため中断。そろそろということになり、人出が多くなったので場所は下りにということになり、友人は宗吾霊堂は行っていないので行きたいということになりました。

友人は歌舞伎を時々観ているので吉右衛門さんの舞台が浮かぶとも言います。私も吉右衛門さんの宗五郎が一番印象に強いです。吉右衛門さんの情の出し方は特別ですから。(歌舞伎『佐倉義民伝』)

宗吾霊堂は正式には「鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂」といい、今は佐倉宗吾(本名木内惣五郎)さんをまつっています。東勝寺は桓武天皇の時代に、征夷大将軍坂上田村麻呂が房総を平定したとき戦没者供養のために建立したとあります。ここも桓武天皇の時代につながっていて驚きです。3回目ですが、最澄さんに注目しなかったら今回も、そうなのですか、古いのですね、で終わったでしょう。

仁王門を入る手前の右手に宗吾親子のお墓があります。このお墓の場所が宗吾さんと子供4人が処刑された場所で、東勝寺の住職澄祐(ちょうゆう)和尚が遺骸を刑場跡に埋葬されたということです。

どうして処刑されたかと言いますと、悪政のために領民が苦しめられ、それを佐倉宗吾さんは、寛永寺で四代将軍家綱公に直訴します。直訴はご法度で死罪と決まっていたのです。命をかけても領民の窮状を訴えなければならなかったのです。

色々史実があるようですが、今日伝えられているのは、当時の人々が求める宗吾さんの理想像ということでしょうが、悪政に立ち向かう義民の代表として心の支えとなってきたのです。浪花節、講談、歌舞伎などでも評判となり伝承され広く伝えられてきています。

仁王門。仁王像は鋳造、金箔仕上げで、我が国唯一の金色仁王像だそうです。首に飾り物のある仁王様でした。

本堂。

「宗吾御一代記年館」がありまして等身大の人形で13場面が紹介されています。スイッチを押すと場面の様子が流れます。友人が歌舞伎で一番記憶に残っている甚平渡しの場が故障で音声が流れず残念がっていました。

宗吾さんほか名主たちが江戸の佐倉藩主・堀田正信公の上屋敷に嘆願に行くのですが却下されてしまいます。直訴しかないと宗吾さんは決心するのです。そのため家に戻り妻に離縁状を渡し子供たちと最後の別れをしようとしますが、印旛沼の渡し舟は鎖でつながれてしまい渡れなくされていました。渡し守の甚兵衛さんは、これまた自分の命をかけ鎖を切って渡してくれるのです。いい場面です。

歌舞伎の名場面と重なるので、友人は、歌舞伎を観ているので心にしみるといっていました。たしかにそうです。

「宗吾霊宝殿」には各界の著名人の色紙に書かれた「義」が展示されています。

締めは霊堂すぐ前の『甚兵衛そば』で、甚兵衛そばを食しました。のどごし好いおそばに甘めのつけ汁で、ちょっとくせになるような御蕎麦でした。庶民的お値段に人情味を感じさせてくれ、青空の広がる心地よい散策となりました。

友人は、宗吾さんが立派に祀られているのに感動し満足したようですが、しきりに死んでから謝ってもダメよといっていました。ごもっともです。

京成線宗吾参道駅から歩いて10分位です。特急は停まりますが、快速特急は停まりませんのでご注意を。焦ってしまいました。

上野公園周辺の御朱印

友人が上野公園での御朱印10もらえるうちの1つがわからなくて貰えなかったというので、地図を送ることにしていましたが、緊急事態宣言も解除されるので会いましょうということで久方ぶりにランチをしました。

御朱印帖と照らし合わせて判明しました。私は護国院かなと思っていましたら、開山堂(両大師)でした。入口がわからなかったそうです。友人は御朱印をどこで貰ったかわからなくなるので、メモして整理していました。護国院には谷中と記していてあとは上野とありましたので混乱したようです。

上の地図は東叡山寛永寺の御朱印場所が表されている地図です。

1⃣ 寛永寺(根本中堂) 2⃣ 開山堂(両大師) 3⃣ 清水観音堂 ここで 5⃣、6⃣ の上野大仏の御朱印2種もいただけるので計3ついただけるのです。 4⃣ 不忍池弁天堂 

朱色の丸がそのほかの御朱印です。

清水観音堂と上野大仏の間にある五條天神社花園稲荷神社と同じ参道のようで朱丸二つにしました。上野東照宮釈迦堂(大黒天)は護国院のことで、ここは谷中七福神の一つになっています。

というわけで解決です。私は御朱印はいただいていませんし地図上のことですので、正確さに欠けるかもしれませんのであしからず。

友人の二冊の御朱印帖で、これはあそこねなどと旅の思い出が次々と浮かび、楽しいひと時を過ごせました。そして行徳界隈も御朱印もらえるところがありそうとの情報を伝えておきました。

そうそう、トーハク『最澄と天台宗のすべて』でゲットした情報も。

調布の深大寺秘仏・元三大師座像(慈恵大師・良源)がトーハクへ出開帳されています。それを記念して、深大寺では元三大師胎内仏「鬼大師」の特別公開があり、限定御朱印もあるようなのです。

トーハク『最澄と天台宗のすべては』は観るものが多く圧巻でした。もちろん東の比叡山である東叡山寛永寺関連のものも展示されていました。

上野から四世鶴屋南北終焉の地へ(3)

行徳の散策のほうへ移りたいと思ったのですが、南北さんの連理引きなのでしょうか、また深川です。

行徳は、以前『たばこと塩の博物館』で、塩の講座がありそのとき当然、行徳の塩浜についても話があり資料をもらったので、その資料があればもっと話は膨らむかなと思って探したのですがでてきませんでした。そのかわりに、江東区の観光イラストマップがでてきまして、そうかやはりこれも最後に紹介すべきかと思い至りました。

こういうのもあるのだということで参考にしてください。

黄色丸は、松尾芭蕉さん関係です。以前ふれましたので位置だけです。

朱丸は見えにくいかもしれませんので簡単に。深川神明宮の前の朱丸は書かれていませんが美人画の日本画家「伊東深水誕生の地」。隅田川にそってさがりますと「平賀源内電気実験の地」。清澄庭園の向かいが、「滝沢馬琴誕生の地」。その右に「間宮林蔵の墓」。間宮林蔵さんは、晩年は深川蛤町(門前仲町付近)に住んでいたようです。幕府役人のころは伊能忠敬さんに、測量術を学んでいます。その「伊能忠敬住居跡」が深川東京モダン館の下にあります。伊能忠敬さんは50歳で家督を息子に譲り日本地図を描くための勉学に励みます。全国の測量に旅立つ前には富岡八幡宮に必ずお参りしたそうです。深川東京モダン館の下が「小津安二郎誕生の地」。

そして、黒船橋を渡ったところが、「四世鶴屋南北終焉の地」です。

深川東京モダン館は、大正時代、生活の苦しい人のために公営食堂というのが作られ、深川は関東大震災後に仮設として作られました。その後、東京市深川食堂となり廃止となります。その建物を生かしつつ今は深川の観光案内の役目をし、情報発信やイベントを開催しています。

芭蕉記念館は、芭蕉さんに関した展示をされ、次々企画を考えられて展示内容をかえています。

森下文化センターはまだ行ったことがないのですが、田河水泡・のらくろ館があり、そのほか職人さんたちによる伝統工芸の作業を見せたり工芸品を展示しているようです。

深川江戸資料館には江戸の庶民の生活が実物大で体験できます。深川佐賀町の町並みを実物大で想定復元したのだそうです。ここは江戸気分に浸れます。そのほか企画展やイベントも多いです。改修工事のため、2021年11月1日から2022年7月末日まで閉館だそうです。

深川江戸資料館でもらいました資料も出てきました。その中に「歌舞伎と深川」というのがありまして、南北さん関連だけ紹介しておきます。

南北さんが生まれた日本橋乗物町は、中村座と市村座に隣接していて子供のころから芝居好きだったのでしょう。21歳で狂言作者の道を選びます。

東海道四谷怪談』は71歳の時の作品です。息子さんの二世勝俵蔵(かつのひょうぞう)さんも、舞台演出をはじめ父の南北さんを支える狂言作者でした。深川の一の鳥居近くに(門前仲町交差点付近)で妓楼を営み、五世南北は孫が受け継ぎます。

あの「砂村隠亡堀の場」の「戸板返し」の演出は息子の二世勝俵蔵さんの考案と言われます。南北さんには強い助っ人がいたのですね。

当時の狂言は、複数の狂言作者が場ごとに担当したりしました。立作者の南北さんが力を入れて自らの手で書かれたのが「深川三角屋敷の場」だそうです。この場は、南北さんが得意とした怪談のケレン(奇抜な演出)ではなく、時代を越えた人間の普遍的な感情を丁寧に描いているのが「深川三角屋敷の場」なんだそうです。

「それまでの様式的な歌舞伎の台本を越えて、近代的な演劇の脚本にまでつながる人間感情をリアルに描く重要な要素を生み出しました。」

凄いですね。先ずは心して『名作歌舞伎全集』の『東海道四谷怪談』を読み直させてもらいます。きちんと感じとれるとよいのですが。

上野から四世鶴屋南北終焉の地へ(2)

江東区が出している『史跡を訪ねて』をぱらぱらとめくっていますと歌舞伎役者さん関連のことがありましたので続けることにしました。

そもそも「深川」という地名の由来から。この地を開拓したのは大阪からきた深川八郎右衛門他6名で、徳川家康が鷹狩に来た時に村の名前がないため八郎右衛門の姓を村名にと命じられたのです。そして深川村の鎮守のお宮が深川神名宮でした。

深川神名宮は下の地図で番号10の下にある朱丸です。

深川神明宮を左に移動しますと、小名木川の沿いに三つの青丸があります。芝翫河岸(しかんがし)と呼ばれていました。そこに二代目中村芝翫さん(四代目中村歌右衛門)が住んでいたからです。

芝翫さんが六歌仙を上演し、喜撰法師の清元の歌詞に「我庵は芝居の辰巳常磐町、しかも浮世のはなれ里」と自分の住んでいたところを詞にしたというのです。というわけで、十代目三津五郎さんのDVD『喜撰』(江戸ゆかりの家の芸)を久方ぶりで観ました。出だしがこの歌詞でした。ラストは「我が里さしてぞ 急ぎいく」で深川の常磐町の家へ帰るのです。

奇しくも今月の歌舞伎座第三部は、当代の芝翫さんが『喜撰』を踊られてます。

地図を下にさがりまして番号17から左に移動しますと浄心寺があります。そこに清元節の創始者・初代清元延寿太夫さんのお墓があります。今月の歌舞伎座の『喜撰』の清元は延寿太夫さんなのでしょうか。

そしてさらに左に移動しての青丸は三世坂東三津五郎さんが住んでいた永木横丁とおもうのですがこの地図ではよくわかりませんので悪しからず。それと「世」と「代」の使い分けもよくわかりません。『史跡を訪ねて』を参考にさせてもらっていますのでそれに合わさせてもらっています。

そこから、上に富岡八幡宮がありさらに上がると深川不動堂があります。境内を入った右手に高くそびえる石垣があり、石造燈明台です。石垣の四面には奉納者の名があり、南面中央部に九世市川団十郎さん、五世尾上菊五郎さん、初世市川左團次さんの名があり、団菊左時代を思わせます。

切絵図で番号14の富岡八幡宮の青丸はまだ深川不動堂はできていなくて、富岡八幡宮別当寺・永代寺に第1回目の成田山の出開帳がありました。明治に入り神仏分離令の時、出開帳で御縁のあるこの地に願い出て成田山から御分霊されました。

永代橋のピンク丸の二つは番外編として。一つは、赤穂浪士休息の場ですが、当時の浮熊屋作兵衛商店の主人が店に招き入れ、甘酒を振る舞ったといわれています。みそを作っていたので麹があったので甘酒もつくれたのでしょう。今も、ちくま味噌を作られているのです。知りませんでした。

もう一つは永代亭パンの会旧跡です。明治42年から44年頃まで青年文学者や芸術家たちがあつまり「パンの会」と命名しました。現在の交番隣あたりに、西洋料理店永代亭がありここを使ったようですが、高級な店ではなくポンポン蒸気船の発着所を兼ねた二階建て店でした。

パンの会」のパンは食べるパンのことだと思っていました。違ってました。ギリシャ神話の牧羊(牧畜森林を守る神)のことでした。バレエの「牧神の午後」が浮かびます。

パンの会の会員・上田敏、戸川秋骨、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、山本鼎、石井柏亭、倉田白羊、谷崎潤一郎、石川啄木、高村光太郎、等。(二代目左團次さん、初代猿翁さんも顔を出されていたようです)

とにかく深川は名を残した人など沢山の人々が住んでいました。そして様々の事件も起こり、芝居の舞台ともなっています。お寺も多いです。まだまだ確かめに行っていないところも多いのでリピートで散策を楽しめる場所でもあります。深川は広くてさらに『東海道四谷怪談』のお岩さんの流れついたとされる隠亡堀あたりとなるともっと東へ移動しなければなりません。ゆっくり地図で確かめつつ訪ねることにします。

さて上野から深川でしたが、上野から根津駅に行く途中も興味深い道筋でした。東京芸大美術館からすぐの交差点で、古い甘味処があり『桃林堂』とあります。さらに進むと寺院の門が左手にみえました。帰ってからふっと思い出しました。かなり以前、友人が上野公園周辺に御朱印をもらえるところが十か所あって、一か所行けないところがあったと。もしかして探せなかったのはここではないかと、護国院です。友人に電話するとどこをどう歩いたか混乱していて覚えてないといいます。地図を送ることにしました。

十か所(1か所で二つもらえる所があるので正確には九か所)全部がのっている地図をと探し、こことこことここ。人のことながら楽しかったです。

友人は御朱印の旅もままならず、近くの寺院の毎月変わる御朱印で我慢しているそうです。今、季節限定とか、月替わりの御朱印も多くなりましたからね。

上野公園で、九か所の内の一つ花園稲荷神社の前を通ったので、並ぶ鳥居の写真だけ撮ってみました。もちろん不忍弁天堂も入っています。

少しづつそっと、寺院めぐりをしたいものです。

上野から四世鶴屋南北終焉の地へ(1)

四世鶴屋南北さんの終焉の地が地下鉄東西線門前仲町駅近くにあり、以前から行きたいと思いつつ実行していませんでした。上野の東京芸術大学美術館から地下鉄千代田線根津駅まで徒歩10分とのことです。大手町で乗り換えです。

南北さんの終焉の地は、江東区牡丹一丁目にあります黒船稲荷神社なのです。深川です。黒船稲荷の境内に住んでいて傑作を残されました。今は狭いところに鳥居とお堂があるだけですが、江戸時代は「スズメの森」といわれて大きな木々が茂っていたようです。

案内板がないのかなと思いましたら鳥居を入って右手にありました。要約します。

「1755年、生まれは日本橋新乗物町で、父親は紺屋の型付(かたつけ)職人。幼名は源藏で狂言作者を志し、初代桜田治助の門下に入門。1804年、河原崎座の『天竺徳兵衛韓話(てんじくとくべえいこくばなし)』で大当たりをとり、作者としての地位を確立。『心謎解色糸(こころのなぞときいろいと)』『謎帯一寸徳兵衛(なぞのおびちょっととくべえ)』などを次々と発表。1811年、鶴屋南北を襲名。その後『お染久松色売販(おそめひさまつうきなのよみうり)』『東海道四谷怪談』などの傑作を書き続ける。1829年11月27日、黒船稲荷地内の居宅でなくなる。享年75歳。」

また一つ気になっていたことを終わることができました。ところがそれから地図上の旅が始まりました。

見づらいかもしれませんが門前仲町駅の少し上の朱丸の黒船橋を渡り黒船稲荷へ。近いです。下の方の緑の丸が富岡八幡宮。そして黄色の丸は『髪結新三』関連です。一番上に永代橋がああります。その橋を渡ったところのピンクの丸は赤穂浪士が討ち入り後に休憩した場所です。碑があります。永代橋を渡って泉岳寺へ向かうのです。

その下の三つの黄色の丸は下に福島橋とありその上が新三の住んでいた長屋のある富吉町です。

ずっと下がりますと法乗院で通称・深川のえんま様で閻魔堂があります。江戸時代から少し移動しているようです。黄色のは今はない富岡橋の位置がわからないのと閻魔堂橋が実際にあったのかどうか、富岡橋が閻魔堂橋のことなのかよくわからないのでにしました。

かつて訪ねたときには、閻魔堂橋前の場面の派手な絵看板がありぎょとしました。

白丸は、『東海道四谷怪談』の三角屋敷がこの三角の地域ということなので印をしました。

髪結新三』の「永代橋川端の場」で新三は忠七を足蹴にし置き去りにし永代橋を渡って深川に入り、富吉町の長屋に帰るのです。「富吉町新三内の場」で乗物町の親分・弥田五郎源七が新三にさんざん悪態をつかれ、「深川閻魔堂橋の場」での二人の切り合いとなります。南北さんじゃなく黙阿弥さんじゃないのと言われそうですが、『東海道四谷怪談』の北南さんの方が先に「三角屋敷の場」でこのあたりの場所を芝居にしていました。

さらにお岩さんと小仏小平の戸板を神田川の面影橋から隅田川を通って小名木川に入り込ませ、隠横十間川から隠亡堀へとのことなんですがはっきりしないので追いかけるのはやめます。隅田川から小名木川に引っ張ったというのが凄いです。

黙阿弥さん、当然知っていたと思うのです。まったく違う世話物で南北さんに挑戦、なんて考えるのも楽しいです。

切絵図ですといかに深川が川や堀で囲まれていたかがわかります。番号13・久世大和守の下屋敷が今の清澄庭園で、元は紀伊国屋文左衛門の屋敷があったところで、後に岩崎弥太郎が買い取り庭園にしました。

番号17の右手、黒の点々が小名木川です。

切絵図を拡大ルーペで観ましたら法乗院、富岡ハシ、三角の文字がわかりました。

江東区で出している『史跡を訪ねて』をながめていましたら、法乗院には、曽我五郎の足跡石があるようです。このあたり何回か散策していますが、伝説や旧跡あとがまだまだありそうです。

三世坂東三津五郎さんも住んでいたようです。富岡八幡宮そばの永木横丁と呼ばれた通りに住んでいて「永木の三津五郎」「永木の親方」といって親しまれたようです。

パソコンの画面から地図を写真に撮り、『史跡をたずねて」の地図からおそらくこのあたりだろうと予想をたてました。

永代通りの青丸が都バス富岡一丁目バス停です。その右の四つの茶色丸がおそらく永木横丁とおもいます。碑はないようでこのあたりに住んでいたということだけです。

南北さんも亀戸村に住んでいた時には「亀戸の師匠」と呼ばれていたそうです。

それにしましても南北さんは、黒船橋を渡った、お偉い方たちの下屋敷に囲まれた静かな森の中で書かれていたのですね。頭の中は静かどころか激しく回転していたことでしょう。

追記: 江戸切絵図の世間の世界へいざなってくださった柳家小三治さんが亡くなられました。私の中での三大噺家さん、古今亭志ん朝さん、立川談志さん、柳家小三治さん、皆さんがあちらへ行かれてしまった喪失感は深いです。生で聴かれたことは幸せでした。(合掌) 

上野・トーハクから上野東照宮へ(3)

歌舞伎座6月の『京人形』から左甚五郎さんが彫った龍があるということを知り、これは良い機会と拝見しに寄りました。上野東照宮ちょっと派手派手さに避けていたところもあり、今回はあらゆる異文化を受け入れつつの江戸徳川家の威信を示すための建築物とおもうと、その工夫も一つの時代のながれに残したものとして大工さん達の努力の結晶でもあるのだという感慨がわきました。

大石鳥居をくぐりますと表参道となりますが、石燈籠が並んでまして約200基あるのだそうで現在の社殿の造営の年(1651年)に諸大名が奉納したのです。

そして唐門と後方に社殿があるのが解ります。お天気が曇りでお日様に照らされず助かりましたが、建物はかなり渋めに写りました。白の丸印が左甚五郎さんの彫刻の昇り龍降り龍です。よく見えませんが青の丸印は銅灯篭です。これは48基あり、唐門の両側の6基は内側から、紀伊、水戸、尾張ということです。青丸は紀伊家が寄進した銅灯篭となります。こんな写真じゃいやだよと思われるかたは是非上野に行かれたら立ち寄ってください。

社殿を拝観するのは有料ですが、社殿側から見た唐門です。

こちらの龍のほうが近くから見ることができます。昇り龍降り龍は毎夜不忍池に水を飲みに行くという伝説があるそうで、<京人形>も動いたのですからもそれくらいのことはするでしょう。そして頭を下げている龍が昇り龍で、偉大な人ほど頭を垂れるということからだそうです。

印象的だったのが透塀(透かし彫りの塀)です。東洋館でイスラームのブルーの透かしタイルを見た後だったので、日本の木の彩色の透かし彫りが金色に負けない存在感でした。風土の違いや寺社仏閣の建物の違いなどは新しい発見があり楽しいです。

表側の唐門の左側とするなら、水戸、尾張の銅灯篭でしょうか。それぞれの透かし具合がおもしろいです。

社殿を拝観していると整備されているかたが、お狸様ご神木も観て行ってくださいとすすめてくれました。

お狸様というのは栄誉権現社です。大暴れのタヌキでしたが本宮に奉献されてからは<他を抜く>強運の神様となったのです。お狸様を拝見して笑ってしまいました。発想外でした。あまりにも笑ってしまい免疫力アップしたかもしれませんが、笑いすぎと怒ってられるかもと写真は撮れませんでした。お狸様ファンになりました。

ご神木は整備中でそばには寄れませんが拝観できました。見どころの多い上野東照宮です。

表参道からは五重塔もみえます。明治に入っての神仏分離令により壊されるところを寛永寺の所属であるとして願い出、東照宮五重塔から寛永寺五重塔と改められました。しかし離れているため維持が難しく都に寄付されたので今は動物園の中にあるのです。

ここからが五重塔への表参道だったので、こちらが五重塔の正面だそうです。残してもらってよかったです。

大石鳥居を出たところにはおばけ灯篭もありまして、日本の三大石灯篭は、名古屋熱田神宮、京都南禅寺、そしてこの石灯篭だそうです。

不忍口鳥居もありまして、こちらから出て不忍池の弁天堂に寄るのもいいですね。ぼたん園には来ましたが、東照宮は興味薄だったため改めて今回しっかり観させてもらいました。これで友人を誘えばガイドできそうです。

帰りは韻松亭で一人ランチでした。ショックなのはこれだけの行動で帰宅するとものすごく疲れたことです。自粛生活は心身に少なからず影響を与えているようです。

市川雷蔵・小説『金閣寺』・映画『炎上』(2)

文芸評論家・中村光夫さんが「ときどきの世間の注目を曳いた事件から取材するのは、この作者にめずらしいことではなく」とし『親切な機械』『青の時代』『宴(うたげ)のあと』をあげています。さらに「評判の事件を小説か戯曲の仕組む伝統は、我国においてはジャーナリズムの発生とともに古く、近松や西鶴に多くの名作がかぞえられます。」としています。

さて今回は、描かれいる場所のほうに視点をかえます。

主人公が住んでいた日本海側から金閣に住むようになってからで舞鶴周辺と京都ということになります。時には三島由紀夫さんは実際に取材して歩いたであろうと思われる詳しい表現の場所もあります。そういう場面になると読み手も気を抜かせてもらい一息つくのです。

ただその場所の歴史的解説もあり、その場所を選んだ三島さんの計算もあるのだろうとおもうのですが、そこまではついていけませんのでただわかる程度に楽しませてもらいました。

溝口の生まれたのが、舞鶴市の成生岬です。そこから中学校がないため叔父の志楽村の家から中学校に通います。そこで有為子に出会います。有為子は舞鶴海軍病院の看護婦で、海軍の脱走兵と恋に落ち安岡の金剛院に隠します。憲兵に詰問され、隠れ場所を教え、金剛院にて脱走兵の銃弾に倒れます。

水色丸が成生岬で黄色丸が金剛院の位置です。

溝口は京都の金閣寺の徒弟となります。

心を許す同じ徒弟の鶴川と南禅寺にいきます。三門の勾欄(こうらん)から天授庵(てんじゅあん)が眼下に見え広い座敷が見えます。そこで戦地に向かう陸軍士官と長振袖の美しい女性との別れを目撃します。

 

溝口は大谷大学へ進学させてもらいます。

大学で出会った柏木が女性二人を連れて来て嵐山へ遊びに行きます。今まで知らずに見過ごした小督局(こごうのつぼね)の墓にも詣でます。

渡月橋そばの水色丸が小督塚です。今の小督塚は女優の浪花千栄子さんがあまりにも荒れていたので化野から石塔を運び設置したのだそうです。この近くに浪花さんが経営していた旅館があったようです。今はありません。美空ひばり館もすでにありません。

四人はもう一つの水色の丸で印した亀山公園に行きます。この公園の門からふりかえると保津川と嵐山が見え対岸には小滝が見えるとあります。

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溝口が金閣から逃れて旅に出る時寄ったのが船岡公園にある建勲神社(たけいさおじんじゃ)です。ここでおみくじを引くと「旅行ー凶。殊に西北がわるし」とあり、西北に向かいます。

京都駅から敦賀行に乗り、西舞鶴駅で降ります。そこから宮津線と直角に交わってから由良川にでて、その西岸を北上して河口にむかいます。そして海に向かいここで「金閣を焼かなければならない」という想念に達するのです。

途中、溝口は和江という部落で由緒の怪しい山椒太夫の邸跡のあるのを思い出します。立ち寄る気がないので通り過ぎてしまいます。

山椒大夫で、出ました!とおもいました。溝口健二監督の映画『西鶴一代女』『雨月物語』と観て『近松物語』を観ました。『近松物語』はその特報と予告で、三つの作品が三年連続ベニス映画祭で賞をとり、その勢いで期待される新作と凄い力の入れようです。受賞した三作品とは『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』で、『山椒大夫』ももう一度観なくてはと思っていたところだったのです。

近松物語』は長谷川一夫さんに色気と貫禄があり過ぎて長谷川一夫さんは溝口作品向きではないとおもいました。

桃色丸が西舞鶴駅で、白丸が山椒太夫の邸跡です。

こんな感じで少し地図上の旅を楽しみました。舞鶴方面と京都の小督塚と亀山公園には行っていません。

現在の雪の金閣寺です。

金閣寺垣。

銀閣寺も。

追記: 水上勉原作の映画『五番町夕霧楼』(1963年・田坂具隆監督)を鑑賞。金閣寺炎上と関連していたのを知りました。水上勉さんならではの視点でした。

 

えんぴつで書く『奥の細道』から(12)

市振から出立した芭蕉は大垣まで様々な所に寄っています。それがオレンジ色の丸です。森敦さんの『われもまたおくの細道』から地図をお借りしました。

黒部四十八か瀬 → 那古の浦 → 卯の花山 → 倶利伽羅峠(くりからとおげ) → 金沢 → 小松 → 多田神社 → 那谷寺 → 山中温泉 → 全昌寺 → 吉崎の入江 → 汐越の松 → 天竜寺 → 永平寺 → 福井 → 敦賀 → 気比の明神 → 色の浜 → 本隆寺 → 大垣   

黒部四十八か瀬ではうんざりするほどの川を渡り那古の浦に着きます。古歌にある担籠(たご)の藤波にも行きたかったのですが土地の人に大変ですよと言われて卯の花山倶利伽羅を越えて金沢につきます。

芭蕉は死後義仲寺に自分を葬って欲しいと残したほど木曽義仲びいきです。倶利伽羅峠は『源平盛衰記』にも義仲の活躍が書かれています。牛の角に松明を結び付け数百頭の牛を先頭にして野営中の平家軍に奇襲をかけ勝利するのです。このことに芭蕉は一切触れていません。

金沢で悲しい知らせを受けます。再会を楽しみにしていた期待の若い弟子小杉一笑(いっしょう)が亡くなっていたのです。この悲しみの中、小松多田神社に参拝します。ここで、斎藤実盛が源義朝から拝領したという兜と直垂の錦の切れ端が納められていてそれを目にします。

実盛は最初源氏に仕えます。その時、幼少の木曽義仲を助けます。その後実盛は平家に仕え倶利伽羅峠で敗走する平家のために戦って篠原の戦いで討ち死にします。実盛の髪が黒く義仲はいぶかります。家臣が首を洗うと髪は真っ白で黒く染めていたのです。義仲は涙し、実盛の遺品を多田神社に奉納したのです。

太平洋側は義経、日本海側は義仲ということでしょうか。義経ゆかりの場所があってもぷっつり語らなくなり、義仲についてはここだけです。そしてここで愛弟子一笑の死と実盛の死を重ねて、それに涙する自分と義仲を重ねているように思われます。

実盛は歌舞伎では『実盛物語』、文楽では『源平布引滝』での<九郎助内の段>、能では『実盛』があります。興味惹かれるのが能で、実盛が亡くなって230年経ったころ加賀国篠原で遊行上人が実盛の幽霊を弔ったという話が巷をにぎわし、世阿弥がさっそくそれを曲にしたというのです。前シテが早くも幽霊となって表れるのだそうで異例なことです。世阿弥といえば超お堅い人と思っていましたが、作品のために様々な情報から制作していた一端がうかがえました。

山中温泉へ行く途中で那谷寺に寄り趣のある寺であったとし、山中温泉で湯につかり有馬温泉の効能に次ぐといわれているとしています。ここの宿主は久米之助と言いまだ小童(14歳)です。父が俳諧をたしなみ、その思い出を記しています。曾良がお腹の具合が悪く伊勢の縁者を頼って先に旅立ちます。

金沢から同行してくれた北枝と共に全昌寺に泊まり、吉崎から舟を出して汐越の松を見物、天竜寺の大夢和尚を訪ねます。ここで北枝と別れここから福井まで芭蕉一人旅となります。永平寺を詣で福井へ入り古い友の等栽をやっとのおもいで訪ねあてます。貧しい住まいで出てきた女性もわびしい感じで、主人はでかけているのでそちらへお尋ねくださいといわれ、等栽の細君らしいのです。古い物語で読んだような場面だと芭蕉は感じます。

等栽は再会を喜び旅の続きに同行してくれ敦賀に着きます。次の日は中秋の名月で、着いた夜は晴れていたのでその夜気比の明神へ参拝に出かけます。月の光で社前の白砂が霜のようにみえるのを見て<遊行の砂持ち>という故事について語ります。気比明神がお参りしやすいように草を刈り、土砂を運び整備したのが遊行上人だったのです。

次の日の中秋の名月は雨となります。さらに16日は晴れて、天屋なにがしという人がお酒や、お弁当ををそろえてくれて天屋の使用人たちと一緒に色の浜へ舟をだします。色の浜にはわずかに漁師の小屋と寂しげな法華寺の本隆寺があるばかりで夕暮れ時がさらに寂しさをかきたてます。

色の浜では西行の歌にある「汐染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあるらん」の<ますほの小貝>を拾うのが目的でもあったのです。芭蕉が詠んだ句です。「波の間や小貝にまじる萩の塵」(波が引いたあとにますほの小貝が見え隠れしそこにまじって萩の花びらが散見している。面白い組み合わせである。)

私的には遊女との句の<萩の月>と<萩の塵>が呼応しているように感じます。そう思わせる芭蕉の構成力があちこちに散逸しています。そこで別れて新しいことに向かっていてもどこかで呼応していてさらにもっと古いものにも近づいていて考えさせられます。そしてさらに新しさに向かって進んでいきます。<不易流行>と通じるような気がします。

露通が敦賀へ迎えに来てくれて一緒に美濃の大垣に入ります。そこには伊勢から曾良も先についており、その他多くの弟子たちが顔をそろえてくれます。まるで蘇生した人に会うかのように喜んでくれます。芭蕉も満足だったでしょうが、旅の疲れもいやされぬうちに伊勢の遷宮を拝するためとまた舟にのるのでした。

⑪蛤の ふたみに別れ行く秋ぞ

・蛤が殻と身に分かれるように再会した人々とまた別れていくのです。秋も深くなったこの時期に。

ついに『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』も最終回となります。黛まどかさんと榎木孝明さんは、敦賀色浜(いろがはま)に行かれました。

敦賀では気比神社へ。芭蕉は月がキーワードの一つであり、中秋の名月をみるためにここに日にちを合わせています。敦賀は歌枕の地でもあるのです。十五夜前夜の月を<待宵(まつよい)の月>といい、雨の月でも、<雨月>とか<無月>という詞があるのでそうです。

気比神社

奥の細道』は柏木素龍によって清書を頼み、それが芭蕉の兄に渡り、さらに敦賀の西村家に代々嫁入り本として伝えられたそうで、森敦さんは西村家で見せてもらい、黛さんと榎木さんは敦賀市立博物館で見させてもらっています。それが『おくのほそ道』素龍清書本です。芭蕉が書いたと言われる表紙の短冊に書かれているのが<おくのほそ道>の仮名なのです。どうして森敦さんの本が『われもまたおくのほそ道』で『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』なのかちょっと気にかかりましたがこれで納得しました。

さて黛さんと榎木さんは色浜に行きます。色浜は小さな漁港でここで<ますほの小貝>を拾われました。赤ちゃんの爪くらいのかすかにピンクいろの小貝です。

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の映像で『奥の細道』を読み続けるための楽しい刺激をたくさんもらいました。

スケッチも俳句もしませんが、旅の途中で写真とは別にスケッチするならどこが良いかなとか、キーワードの単語を探したりすれば旅の新たな視点が見つかるかもしれません。

私的には日本海側の旅の写真が保存されないまま消滅。私的旅はおぼつかない記憶で頭の中で組み立てるしかありません。これで『奥の細道』は何とか終了です。『奥の細道』の関連本は数多くあります。それらを眼にしてもこれで少しはあそこの場所のあの事だなと気がつくことが出来ることでしょう。

追記: 旅行作家の山本鉱太郎さんの『奥の細道 なぞふしぎ旅 上下』は疑問を出しつつ答えを見つけていき、しっかり歩かれて写真も地図も豊富で『奥の細道』の貴重な参考書です。

えんぴつで書く『奥の細道』から(11)

奥の細道』も、日本海に沿って歩き始めることになります。下の地図の市振の関の右横のの丸印は親知らずです。

私的な旅は芭蕉さんの旅とは違っていて、東京から佐渡へ、金沢へ、能登へと観光が目的で重なる部分が少なくなります。

ある方は酒田までを一部とし、酒田を立つときから二部に分けられるといわれていて、私の感覚もそれに近いです。森敦さんは酒田から越後路あとを起承転結の<>としています。

芭蕉は酒田が名残惜しく日を重ねますが、金沢までは130里ということで出立を決して再び歩き始めます。ところがしばらく記述がなく次に記されているのが、鼠の関(念珠の関)を越えて市振(いちふり)に着いたと書きます。ここまでの9日間は暑さと湿気に悩まされ病が起こって筆をとれなかったとしています。そして市振で二句載せています。

⑨文月や 六日も常の夜には似ず / 荒海や 佐渡に横たふ天の河

・今夜は七月六日七夕の前の夜であると思うといつもの夜と違うようにおもえる。

そして、「荒海や 佐渡に横たふ天の河」の雄大でいながら流人の島に対する繊細さも感じられる句がきます。おそらく出雲崎で眺めた佐渡と荒海に七夕の天の河を組み合わせたからでしょう。

市振りに着く前に難関の親知らずを通ってきています。そのことはこの後宿で寝るときに書いています。

「今日は親知らず、子知らず、犬戻(いぬもど)り、駒返(こまがえ)しなどいふ北国第一の難所をこえて疲れはべれば、枕引き寄せて寝たるに」

<に>ときました。どうしたのでしょう。隣の部屋から若い女の話し声がしたのです。女は二人でどうやら新潟から来た遊女らしく、伊勢参りの途中らしいのです。年配の二人の男が同行してきたらしいのですが男たちは明日引き返すようです。自分たちの身の上を嘆き悲しむのを夢うつつに聞きつつ疲れている芭蕉は寝入ってしまいました。

次の朝、女性たちは女二人では先の旅が不安ですので芭蕉たちの後ろからついていかせてくださいと涙ながらに頼みます。芭蕉はあちらこちらと留まるので無理です。人の流れに任せていけば、神明の加護があり伊勢に導いてくれるでしょうといって先に出立してしまうのです。つめたい。途中までならとでも言ってあげればよいのにとおもいましたが芭蕉もしばらくは気がかりだったようです。

⑩一つ家に 遊女も寝たり萩と月

<萩と月>はもの悲しさを感じさせます。遊女とのことは曾良に話をしたら書き留めたとしていますが、曾良の日記には記されていないそうです。ゆとりのない自分の老いを改めて感じてあえて記したのかもしれません。それとも終盤の旅に色をそえたのでしょうか。 

黛まどかさんと榎木孝明さんが『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』で出雲崎親不知市振を紹介してくれました。知らない地域でしたので大変参考になりました。

出雲崎は佐渡島から運ばれた金で栄えた街で、金の輸送にたずさわる廻船問屋が100軒近くあったそうです。街道筋には間口が狭く細長い妻入りと呼ばれる家並みが続いています。

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親知らずの海岸線

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今は海上を高速道路が通っています。

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親知らずを無事通過できると市振にて海道の松が迎えてくれます。

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芭蕉が市振で宿泊した桔梗屋の跡

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出雲崎といえば良寛さんです。良寛関連の施設が幾つかあるようです。良寛は芭蕉が亡くなって60数年後に誕生されていて、芭蕉を敬愛していた文章がのこっているようです。禅僧として芭蕉さんとは違う視点での句を残されました。