シネマ歌舞伎『怪談 牡丹灯籠』

ひと言で表せば<いと可笑し>である。怪談物で、これだけ笑いの起こる芝居も珍しいであろう。

台風の過ぎ去ったあとで、8月20日~8月26日まで1日1回の上映であるためか東劇は驚いたことに満席の状態であった。一番の要因は、仁左衛門さんと玉三郎さんのコンビを観たいということでしょうが。2007年(平成19年)の舞台なので10年近く前の舞台ということになるが、数年前に観たような気分でそんな長い時間が経ったとは思えませんでした。

三津五郎さんが船頭の扮装から着流しとなり、その後ろ姿からチラッと色気がただよい、三津五郎さんのこんな一瞬の色気はじめてみました。培われた役者さんの身体の動きから垣間見た、あったかなかったかわからないような、短時間のことです。こんな大きな画面で見れるのですから、見つめていました。羽織りを着て前を向き圓朝になり、火鉢のうえの鉄瓶から湯呑茶碗にお湯か湯冷ましかを注いでゆっくりと呑み、さてと噺しはじめる。やはり語りが上手い。

仁左衛門さんの伴蔵は身体全体がつねに動いています。無駄に動いているわけではないのです。台詞とその人の置かれている状況からでてくる動きなので不自然ではないのですが、やはり歌舞伎役者さんの動きで、それでいてそのしどころがリアルにうつるんです。

伴蔵は幽霊と会っていて話しもしています。それを聴く女房・お峰の玉三郎さんは想像外のことで、聴いていてもピンときません。観客は伴蔵が幽霊を見たということは見ていますが、幽霊と話しをしたということは知りません。お峰が知らないことを観客は知っていますから、お峰が驚く様子に観客は優越感もふくむ笑いとなります。お峰はじーっと聞いて次への動きへの間、これがまた可笑しいのです。伴蔵が話すことによって自分の知った状況を整理できてきます。女房は次第に見ていない状況が自分のものになっていくというながれ、観客も伴蔵から知らない部分を知っていきます。次第にお峰と観客は同じ立場となります。そしてそこからのお二人のツーカーのやりとりができあがっていき、心理状態までこちらに伝わってきます。

お峰と同化していた感覚がまた、伴蔵とお峰の二人と観客の関係にもどり、客観的にそのやり取りの可笑しさを享受します。

一生懸命説明する伴蔵の動き、聴きつつじーっと止まっていた女房がやにわに言葉を発する。声をひそめたり、驚きの声となったり。いつの間にかお二人の芸にかどわかされていきます。かどわかされないと面白くありません。

そして、極め付きはお峰の思いつきの、お札をはがすことを承諾する条件に、百両幽霊に要求しようという案です。新三郎さんがいなくなると、伴蔵夫婦は生活がなりたたないのです。ですからそれを保証してもらおうという経済的根拠にもとずいた案で、伴蔵もそく納得です。いつの世も経済優先は強いです。幽霊はどこからもってきたのか百両もってきます。木の葉になりはしないかと心配しつつ、お峰は震える指先でチュウチュウタコカイナと数えつづけます。

さて、伴蔵とお峰のこのやり取りは伴蔵がお国と良い仲となり、そのことを知った女房が詰問する場面で使われます。使われるというと、演技してるという感覚がつよくなるが、演技しているのであるが、その境目を観客の中に残さないのです。演技していることが、今芝居の中で起こっていることを見ている観客の感性の邪魔をせず、可笑し味に変えてしまうのです。この可笑しさがたまりません。今度は伴蔵がわからない部分があります。お峰は馬子久蔵から伴蔵とお国の仲を聞き出していたのです。

このお峰の玉三郎さんと久蔵の三津五郎さんのやりとりも見ものです。

そのことを観客は判っています。ここでは、伴蔵とお峰とお峰の共犯者である観客との関係がなりたち、いつのまにか伴蔵とお峰のやり取りに見入ってしまうわけです。

映像が二人を大きく捉え、急所急所でそれぞれの表情がわかり、編集のよさも手伝っているとおもいます。そんなわけで<いと可笑し>たっぷりの映画鑑賞となりました。

幽霊のお米の吉之丞さんがこれまた幽霊らしい幽霊で可笑しいのです。幽霊のお露の七之助さんも、愛しい新三郎の愛之助さんに会えて最初はおとなしいお嬢さんですが、次第にお米幽霊に感化されて、幽霊らしい幽霊に昇格していくのも可笑しさを増してくれます。

お露の父(竹三郎)を殺すお国(吉弥)とその情夫・源次郎(錦之助)のもう一組の男女の関係がからみ、そのあたりがきちんと整理され演じられているので、流れも判りやすくなっていて、最後の幸手の土手での伴蔵のお峰殺しの場面へと繋がっていきます。

幽霊に魂を売って金をえて、新三郎を亡き者にする手助けをした伴蔵とお峰にとって、倖せを手に入れることはできなかったのです。とまあ言葉で書くと教条的になりますが、見ているとそんな形通りの解釈を吹っ飛ばし、そこへ行かせないだけの役者さんたちのやり取りの可笑しさに満足してしまいます。

団扇の使い方、着物の肩袖をたくし上げる仕種など、細かいところまで見させてもらい、大きい画面の楽しさを目いっぱいみつめさせてもらいました。錦之助さんは、信二朗から錦之助に襲名された年で、壱太郎さんはこのころは可愛さが売りだったのだなあなどという想いも忙しく回転し、映画料金分以上に刺激を貰ってしまいました。

 

もう一つ私の力では書き表せませんが、8月24日に国立劇場で開催された、

芸の真髄シリーズ第十回 能狂言の名人『幽玄の花』

能と狂言の最高峰の方々の催しで、判らないなりにも機会があれば、また触れてみたい世界でした。

 

映画『沖縄 うりずんの雨』『激動の昭和史 沖縄決戦』

「8・15 終戦の日特別企画 反戦・反核映画祭」(新文芸坐)

『沖縄 うりずんの雨』(2015年) 現在の沖縄の置かれている状況が長い歴史の中の今であることがわかってきます。分析が冷静で、話されるかたの想いが静かでありながら、何回も裏切られた人の言葉として耳を傾けさせます。

「うりずん」というのは冬が終り大地がうるおい、草木が芽吹く3月ころから5月の梅雨に入るまでをさす言葉で、1945年4月1日から始まる沖縄地上戦と時間が重なる季節のことです。

うりずんの 雨は血の雨 涙雨 礎の魂 呼び起こす雨 (詠み人・小嶺基子)

  1. 第一部 沖縄戦
  2. 第二部 占領
  3. 第三部 凌辱
  4. 第四部 明日へ

「ペリーが琉球の那覇港に来航したときすでに東アジア進出の足がかりとしていた。」のナレーションが重い。2004年に沖縄国際大学に米軍の輸送ヘリが墜落したとき米軍によって警察、消防をはじめ、大学関係者、報道など一切立ち入りを禁止され、米兵がカメラのレンズを帽子で隠す。これはショックでした。これが本土ならどう思うでしょうか。そして政府もどう対処するのか。

一つ一つ丁寧にインタビューしていきます。沖縄戦を戦った元日本兵、元米兵。元学徒隊。映像を照らしあわせつつ言葉を重ねていく。沖縄は本土の楯となって戦火におおわれる。

「占領」では、アメリカにつく、日本に復帰するの人々が半々で独立が少数であって、高校生たちが真剣に討論し、日本復帰を望んでいた人は、東京オリンピックで聖火リレーが通った時、日本国旗を力一杯ふったと語ります。復帰したら日本国憲法があり戦争もせず基本的人権にまもられた一員となれるとおもっていたが、復帰してみたら、基地は残りまた沖縄は本土の軍事的要石とされた。復帰運動が反戦運動に転換したといわれます。

米軍の犯罪は復帰後も続き、沖縄は軍事基地で食べているといわれるが、農地を基地のためにとられたため基地に仕事を求めたわけで、基地からの経済的貢献度は低下していて、返還された場合の経済効果のほうが期待できるとの考えかたもあります。

印象的だったのが、アメリカの女性隊員が、<何かおこれば24時間以内にかけつけ本国に及ばないようにくいとめます。世界各地に基地があるのはよいことです。>と明るく答えている。アメリカ本国をまもるためと。

さらに映画はアメリカの軍内部での女性兵士の受けた性暴力にもふれ、そうした被害者のネットワークSWANにも取材していて声をあげれない小さな声にも寄り添う姿勢をみせています。

沖縄という地域から、犠牲者への鎮魂と戦争という巨大怪物を消し去る方法を、人間の言葉でさぐり探しもとめる優れたドキュメンタリーでした。

監督・ジャン・ユンカーマン/企画・制作・山上徹二郎/音楽・小室等

『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年)

監督が岡本喜八さんで脚本が新藤兼人さんである。『沖縄 うりずんの雨』を観ていたので早いテンポにどうにかついていくことができた。ぞくぞくと兵隊が沖縄に到着し沖縄の人々も兵隊さんが沖縄を守ってくれると頼もしくおもい歓迎する。しかし、本土決戦を長引かせるための沖縄決戦だったのである。

そんなことは島民は誰も知らない。ただひたすら戦うしかない。本土に学童疎開中の対馬丸は米軍の潜水艦に撃沈されてしまう(1944年)。1945年3月から米軍の沖縄列島への上陸が開始され島での集団自決が相次ぐ。

戦況が報告されていくにしたがい、若い学生たちの戦闘隊が結成されていく。爆弾の木の箱を担ぎ戦車の下にもぐりこむのである。『黒い雨』でも、自動車のエンジン音がすると戦車と思い飛び出して行き、枕をタイヤの下に置く青年が登場した。

沖縄にはサンゴ礁でできた洞窟がたくさんあり、そこへ身を隠し飛び出して攻撃する作戦もとられる。洞窟は病院としても使用され、女子学生も看護婦として従事したり食事を作ったりするが、次第に洞窟からでると機銃掃射が待ち構えている。

『沖縄 うりずんの雨』の中で元兵士のかたが、皆で火焔放射では死にたくないと言い合っていたそうです。とにかく何で生き残ったかわからないような有様で、もう駄目だとなり、島民の集団自決が行われてしまう。徹底抗戦の教育が浸透していたのでしょう。

少年が兵士にお前はもう戦うなといわれ、自分は沖縄のために戦うのだといいますが少年の無意識下の叫びともとれます。

戦闘場面の時間的経過とどう守備しどう攻めるかという作戦会議、本土の大本営とのやりとりなどが加わり、観ているほうも混線してき、とにかく次々と人々が死んでいくのに麻痺してしまうような映像の追い方になってしまう。それくらい死に向かっていく道しか残されていないのです。

琉球王国から琉球藩となり、沖縄県となり、沖縄決戦である。

美しい沖縄を訪れ、沖縄の人々が語りたい沖縄の声を聞くことが鎮魂へのささやかな心の献花となるのかもしれません。

監督・岡本喜八/脚本・新藤兼人/出演・小林桂樹、丹波哲郎、仲代達矢、酒井和歌子、大空真弓、加山雄三、池部良、中谷一郎、神山繁、田中邦衛、東野英治郎、岸田森、天本英世

 

映画『千羽づる』『ソ満国境 15歳の夏』

「8・15 終戦の日特別企画 反戦・反核映画祭」(新文芸坐)

『千羽づる』(1989年)は神山征二郎監督作品で独立プロ「神山プロダクション」第一回作品です。

2歳の時広島で被爆した禎子さんは、10年後に原爆症発症となります。それまで学友とクラス対抗リレーの練習をしたり、教師を囲んで元気はつらつの学校生活を送っていたのが、突然体調をくずし病院へ行き、そこで医師から「血液検査はしていますか」とたずねられます。自分も被爆している母親は「ABCCで2年に一回検査していて、1年半くらいたちます。」と答えます。医師は「すぐ検査してください。」と伝えます。「ABCC」とはなんであろうか。「原爆傷害調査委員会」で原爆被爆者の調査研究機関で、調査はするが治療はしていない。

血液検査の結果、禎子さんは広島日赤病院に入院し、白血病のことは知らされないが、白血球が多くなると死に近づくということは知ってしまいます。二人部屋となりお隣のかたは不治の病とされていた結核ですが元気になり退院することができます。折りづるを千羽折ると病気が治るといわれ鶴を折り続けますが、歯茎から出血し関節が痛み、皮下出血が体中にあらわれてき、禎子さんは帰らぬ人となります。

その禎子さんの闘病生活を通じ学友たちが募金活動をはじめ、折りづるを空に掲げもつ少女の像・原爆の子の像ができあがるのです。

元気に駆け回って生を謳歌していた少女と次第に病魔におかされ衰弱していく様子の変化が悲しい。実家は理容院をしていて他人の保証人となり借金をかかえ、さらに禎子さんの治療費のために現在の理容院を売り小さな理容院を開き家族ささえあい、家族と学友に看取られて禎子さんは亡くなられます。

監督・神山征二郎/原作・手島悠介/脚本・神山征二郎、松田昭三/出演・広瀬珠美、倍賞千恵子、前田吟、石野真子、篠田三郎、田村高廣、殿山泰司、岩崎ひろみ、田山真美子、安藤一夫、樋浦勉

 

追記: 日米共同研究機関「放射線影響研究所」(放影研)が設立70周年の記念式典(2017年6月19日)で現理事長さんが、放影研の前身である「米原爆傷害調査委員会」(ABCC)が、治療はしないで調査だけをしていたことに言及し謝意を表明されました。苦しまれた被爆者の方が、広く知ってもらうことで少しでも癒されることを願います。

 

『ソ満国境 15歳の夏』(2015年)。この映画は、戦争末期15歳の少年たちが、ソ連と中国の国境に置き去りにされたとチラシにあり、どういうことなのかと観たいと思っているうちに終わってしまったので良い機会であった。

昭和20年の夏、旧制新京第一中学校の三年生がソ連と満州の国境付近の報国農場に勤労動員として派遣される。途中で長い列車と出会い、あれは何を運んでいたのだろうと中学生同士が話す場面があります。

あとで判るのですが、それは関東軍が引き上げる列車で、それをカモフラージュするために少年たちが派遣されたのでした。日ソ中立条約が突然破棄されソ連が参戦となり、置き去りにされた少年たち120名は新京に向かいますがソ連軍の攻撃をうけ捕らえられ捕虜となります。支給される食べものはわずかで、衰弱しきった50日後どこへでも行けと突然開放されます。少年たちは歩けない数人を残し新京を目指します。

みんなどうすることもできない状態の時、石頭村(現在の石岩鎮・せきがんちん)で食べ物と水と一夜の宿を提供されます。村人は憎っき日本人ではあるし、自分たちにも余裕がなかったのですが、村長の言葉により少年たちはたすけられます。次の日元気を取り戻した少年たちは出発し、新京にたどりつくことができ生還できたのです。生きて帰れたからこそ語り伝えることを決心されたのでしょうし、その事によって知らなかったことを知ることができたのです。

この原作『ソ満国境 15歳の夏』(田原和夫著)をもとにして、東日本大震災の仮設住宅で暮らす中学校の放送部員と中国の長老との交流から、君たちだって、あの頃の少年たちと同等の苦しみを味わっているのだからと励まされる内容となっています。

いつも犠牲となるのは、名も無き力の弱いものなのです。

田原和夫さんは映画のパンフレットに書かれています。「戦争を知る世代は、何かしらつらい負い目を死ぬまで背負って生きている世代です。私の戦争反対は、理念や観念の問題ではない、私の骨肉に刻みこまれたた深手の疼きです。」

監督・松島哲也/原作・田原和夫/脚本・松島哲也、友松直之/出演・柴田龍一郎、田中泯、夏八木勲、金子昇、田中律子、大谷英子、香山美子、金澤美穂、木島杏奈、澤田玲央、清水尚弥、清水尋也、三村和敬、六車勇登、吉田憲祐

 

 特別企画 8・15 反戦・反核映画祭

池袋の新文芸坐で特別企画のオープニングとして

8月6日 ・7日 「映画が描いた原爆の悲劇  -スペシャルゲストを迎えてーが開催された。

6日が『原爆の子』、『黒い雨』を上映し、スペシャルゲストに奈良岡朋子さんを迎えてのトークショーで、

7日が『愛と死の記録』、『母と暮らせば』を上映し、スペシャルゲストに吉永小百合さんを迎えてのトークショーです。

6日の奈良岡朋子さんの話しが実り多いものでしたので、吉永小百合さんのも是非聞きたいと思い挑戦したのですが、整理券の取得ができませんでした。映画も15時10分からしか入場できないということなので一応見てはいるのでやむなく帰ることにしました。暑いので図書館によったところ、お二人のトークの聞き手の立花珠樹さんの著書『新藤兼人 私の十本』の本があり、奈良岡さんのトークとも重なり多くの情報源となりました。

『原爆の子』は、原爆投下から七年目に撮影され、当時の広島の様子を残す貴重な映像ともなっています。新藤兼人監督、吉村公三郎監督等が独立プロ「近代映画協会」をつくり大映と提携して映画を創りはじめます。しかし、『原爆の子』は大映から許否されてしまい、『愛妻物語』で一緒に仕事をした宇野重吉さんに一緒にやらないかと相談したところ即決のかたちできまり、近代映画協会と劇団民藝が半分ずつ資金をだすかたちとなり、民藝の劇団員が出演ということになります。

奈良岡朋子さんは、乙羽信子さんが幼稚園で教えていて生き残った園児を訪ねる園児の一人の姉役で一番上の兄が宇野重吉さんです。奈良岡さんは、潰れた家の下敷きになって足が不自由になります。結婚を約束した人が復員したとき、結婚を断られるのではないかと心配しますが、婚約者は約束を守ってくれ乙羽さんが訪ねたその夜が結婚式の日でした。奈良岡さんは落ち着いた感じで喜びを内に秘め、宇野重吉さんが、乙羽さんに心からほっとして語るところが兄の妹に対する情愛をにじませます。

奈良岡さんは、『原爆の子』のロケ風景もよく覚えておられ、老婦人から本当に足が不自由だと思われ「おいたわしい」といたわられたそうで、自分たちのほうが大変なのに優しく、広島は人が少なく、泊まった民家の柱には、ガラスの破片が刺さっていたそうです。

奈良岡さんも空襲を体験されていて、そのトラウマのため70歳まで戦争のことは思い出したくなく話したくなかったそうです。しかし、やはり伝えなくてはと思い、劇団の若い人たちにも話すようにし、井伏鱒二さんの『黒い雨』の朗読もはじめられました。

日本が木造住宅であることを知っていて、先に爆弾で建物を破壊し、そのあとで焼夷弾をおとして燃やし、弘前へ疎開する列車でも、デッキにつかまっている人は、機銃掃射で殺されていったと話されました。

多くの役をされているので、その役作りについて立花さんが尋ねられると、全て自分のなかにありますと。<人殺しの役もしますが、たとえば人は殺さなくても自分の血を吸った蚊が腕に停まっているのを打ち殺したときやったと思うでしょ、それは一種の殺しの快感ですよ、全て自分の中にあります。>

明快な答えがポンポンかえってきて、それが実体験をともなっているので説得力があります。

奈良岡さんは不思議なお付き合いがあって、美空ひばりさんが大病をされた後に『みだれ髪』をレコードに吹き込まれて終わって最初に電話で報告されたのが奈良岡さんなんですよね。プロとしての仕事を成し得たとき、伝えたくなるようなかたなんでしょう。

立花珠樹さんの『新藤兼人 私の十本』から少し紹介しますと、大映が『原爆の子』を拒否した理由は、「まだアメリカの占領の最中だぞ!原爆を誰が落としたと思ってるんだ。占領が解けていないのにアメリカに対して直ちに反抗的なものをつくるなんてとんでもない。」ということです。これだけの民間人を犠牲にするなら、通告があってしかるべきかと思います。不意打ちですからね。核を持たなければいいのです。映画は平成23年(2011年)にアメリカで「新藤兼人回顧展」で初めて一般公開されています。企画したのが俳優のペ二チオ・デル・トロさん。頑張って映画にしておいてよかったです。

見たいと思っていた島崎藤村さんの『夜明け前』も近代映画協会で、脚本・新藤兼人、監督・吉村公三郎でした。

吉永小百合さんはどんな話しをされたでしょうか。『夢一途』のなかで、『愛と死の記録』でカットされた部分があり残念だと書かれていましたが、立花さんそのあたりも聴き出されたでしょうか。

それからこの企画は「新藤兼人平和映画祭主催」でもあり、若い方が尽力されています。

この映画祭で10日上映される渥美清さんが企画・制作した『あゝ声なき友』のDVDもみました。肺疾患で内地にかえされ生き残った兵士が、戦友の遺書を遺族に届けるのですが、寅さんとは別の役目を果たす渥美清さんです。最後、主人公の渥美さんの眼がどんな想いを現しているのか汽車の陰になって映されないのがこちらに何かを考えさせます。

オバマ大統領と結ばれた折鶴の少女・禎子さんをモデルとする映画『千羽づる』も13日に上映されます。

この暑さが原爆で被爆された方々にはもっともっと暑かったのです。

 

 

シネマ歌舞伎『野田版 研辰の討たれ』

日本近代文学館の夏の文学教室が開幕していて、4日目が終わった。昨年はこの様子を書いているが、今年はどうなるであろうか。テーマが「文学の明治ー時代に触れて」で、文豪のオンパレードであるからして、講義される方々も文豪の作品と向かい合われた痕跡があらわれ、こちらも神妙に聴かせてもらっている。

今日あたりから<文豪>さんに対し慣れが生じはじめ、聴く側の態度が軟化してきているが、書けるかどうかはまだわからない。

入ってくるものが多く、頭をめぐる血液の流れかたが少しつまり気味のような気がするので、かたまらないように適当にプッシュすることにする。ということで映画のこととなる。

野田秀樹さんが演出した歌舞伎『野田版 研辰(とぎたつ)の討たれ』の映画版である。これは、大きなスクリーンの映画で観た方が面白い部分がはっきりするのではと予想したら当たりであった。

研ぎ師の研辰は、剣術を習うため侍の守山辰次(勘三郎)を名乗り剣術道場に現れる。ところが、皆が赤穂浪士の討ち入りの話しで盛り上がっているところで、仇討をばかにしたためさんざんなめにあってしまう。研辰は痛めつけられた家老(三津五郎)に復讐すべく、あやしいカラクリをつくり、板を踏むとお堂から、言い表せられないような人形(亀蔵)が飛び出し、それを見た家老はショックのあまり死んでしまう。この事件が研辰が家老を闇討ちにしたという事になり、家老の二人の息子(染五郎、勘九郎)が仇討ちに向かうのである。

逃げる研辰、追い駆ける兄弟、曽我の兄弟の仇討ちとだぶらせて拍手喝采の世間。ところが、いつの間にか討たれる側と討つ側が入れ替わり、深く確かめもしない世間は、仇討ちという現象を喜んでいる。世の中の無責任さの怖さもちらちらする。

世間の関心が覚めたころ、研辰は兄弟に殺されてしまう。こういう場面は桜となるが、赤く染まった紅葉が一面をおおう中、紅葉の一葉が研辰の亡骸に落ちるのである。

映像で見て面白いのは、勘三郎さんの道場での一人芝居ともおもえる動きと台詞である。それが、ずーとカメラがとらえている。このなが丁場飽きさせない。舞台とは違いアップである。ここを予想していて面白いく、笑えるであろうと思っていたのである。そのとおりとなった。

舞台を実際にみたとき、どうしても全体が動くので、わさわさしていて笑いがあっても捉えどころがなく進んでしまう状態であったが、最初の一人芝居がしっかりとらえることができた。動きながらも台詞ははっきりしている。

そして、家老がカラクリを踏むところが、勘三郎さんと三津五郎さんの間のやりとりである。これは映像のとらえかたが、上手くとらえたとはいえない。三津五郎さんが踏みそうで踏まない、その可笑しさと、それに一喜一憂する勘三郎さんの間は映像のアップではとらえられない間なのである。これは、お二人を映していなければとらえられないのである。これは実際の舞台の空間の勝ちであり観客の視線になれない映像の限界である。

三津五郎さんのこの足の動きは、勘三郎さんの全身で現す芸に匹敵する可笑しさなのである。三津五郎さんの踏むか踏まないかの間に答える勘三郎さんの間は、このお二人の芸の間の絶妙さであり、個人的には一番の見どころであったことを思い出しあらためて感じいったのである。

こういうところにも、勘三郎さんと三津五郎さんの面白さの違いがある。

映画『やじきた道中 てれすけ』で、とにかく体いっぱいで表現する勘三郎さん。映画『母べえ』で、語りの上手さで存在感を表現する三津五郎さん。それぞれ独立していながら、並ぶとまたその独自性が大きく広がってくれる。こんな役者さんの組み合わせをみせてもらえたことは幸せであった。

舞台と映像では、相容れない部分もあるがそれを差し引きしても、舞台を楽しんだ気分させられる映画であった。

平成17年の舞台なので、現在活躍の役者さん達の今とを比較して観るのも楽しみ方のひとつである。

皆で、『ウエストサイド物語』のステップを踏む場面ははまり過ぎで、真面目な顔がよりうけてしまう。

脚本・演出・野田秀樹/ 出演・中村勘三郎、坂東三津五郎、中村福助、中村橋之助、中村扇雀、坂東彌十郎、市川染五郎、中村獅童、中村勘九郎、中村七之助、片岡亀蔵

 

坂のある町・函館とシネマ

坂のある町・函館の出てくる映画

  • 点と線』(1958年) 小林恒夫監督・南弘、山形勲、高峰三枝子
  • ギターを持った渡り鳥』(1959年) 齊藤武一監督・小林明、浅丘ルリ子
  • 渡り鳥北へ帰る』(1962年) 齋藤武一監督・小林明、浅丘ルリ子
  • 夕陽の丘』(1964年) 松尾昭典監督・石原裕次郎、浅丘ルリ子
  • 赤いハンカチ』(1964年) 舛田利雄監督・石原裕次郎、浅丘ルリ子
  • 飢餓海峡』(1965年) 内田吐夢監督・三国連太郎、左幸子
  • 男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(1975年) 山田洋次監督・渥美清、浅丘ルリ子
  • 男はつらいよ 翔んでる寅次郎』(1979年) 山田洋次監督・渥美清、桃井かおり
  • 男はつらいよ 寅次郎かもめ歌』(1980年) 山田洋次監督・渥美清、伊藤蘭
  • 俺とあいつの物語』(1981年) 朝間義隆監督・武田鉄矢、伊藤蘭
  • 居酒屋兆治』(1983年) 降旗康男監督・高倉健、大原麗子
  • 新・喜びも悲しむも幾年月』(1986年) 木下恵介監督・加藤剛、大原麗子
  • テイク・イット・イージー』(1986年) 大森一樹監督・吉川晃司、名取裕子
  • キッチン』(1989年) 森田芳光監督・川原亜矢子、松田ケイジ
  • いつかギラギラする日』(1992年) 深作欣二監督・萩原健一
  • オートバイ少女』(1994年) あがた森魚監督・石堂夏央
  • 霧の子午線』(1996年) 出目昌伸監督・岩下志麻、吉永小百合
  • 風の歌が聞きたい』(1998年) 大林宣彦監督・天宮良、中江友里
  • キリコの風景』(1998年) 森田芳光監督・杉本啓太、小林聡美
  • パコダテ人』(2002年) 前田哲監督・宮崎あおい、大泉洋
  • 星に願いを』(2003年) 冨樫森監督・吉沢悠、竹内結子
  • 海猫』(2004年) 森田芳光監督・伊東美咲、佐藤浩市、中村トオル
  • Little DJ~小さな恋の物語』(2007年) 永田琴監督・神木隆之介、福田麻由子
  • 犬と私の10の約束』(2008年) 本木克英監督・田中麗奈、豊川悦司、高島礼子
  • 引き出しの中のラブレター』(2009年) 三城真一監督・ 常盤貴子、林遣都、八千草薫、仲代達也
  • つむじ風食堂の夜』(2009年) 吉田篤弘監督・八嶋智人、月船さらさ
  • わたし出すわ』(2009年) 森田芳光監督・小雪
  • 海炭市叙景』(2010年) 熊切和嘉監督・谷村美月、竹原ピストル、加瀬亮、南果歩、小林薫
  • ACACIA』(2012年) 辻仁成監督・アントニオ猪木、北村一輝、石田えり
  • そこのみにて光輝く』(2013年) 呉美保監督・綾野剛、池脇千鶴

函館がちらっとでも出てくる映画で観たのは30本であった。函館空港から函館市内方向に車で移動する風景、函館港に入る船、函館山など、それとなく通過する映画もある。

函館には、三月に航空会社の所有マイルが消滅してしまうものがあり、あわててどこかに行こうと思い立った。調べると函館がマイル数に合ったのである。函館にはツアーで一度訪れているが、函館の坂を歩きたいと思っていたので好都合であった。2泊3日、正確には半日、1日、一日の3分の2の昼間と2夜の夜の持ち時間である。

2夜が有効に使用でき、函館山の夜景、夜の八幡坂、夜の赤レンガ倉庫街、夜の七財橋、夜の『つむじ風食堂の夜』的雰囲気の街なみ、夜の路面電車などを歩き眼にすることができた。

江差まで行きたかったが、江差線が函館から木古内までしかない。なぜか途中で消えてしまうのである。北海道新幹線の開通日に江差線は消えてしまうのである。消えるまえに函館にいきたかった。悔しい。映画では、『男はつらいよ 寅次郎かもめ歌』で江差追分も聞けたのでそれで我慢する。

映画『キッチン』の原作を読み、吉本ばななさんの発想の転換に驚き自分は到底考え付かない人間構成で気に入ってしまった。人が癒される空間というのは人それぞれである。森田芳光監督の映画『キッチン』は不入りだったようであるが、私は函館の風景を架空の場所として使い映画は映画で違う楽しみ方ができ、森田監督の世界と思えた。

函館市生まれの作家・佐藤泰志さんの『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』、映画監督もされた辻仁成さんの『ACACIA アカシア』。お二人には「函館市文学館」でも知ることができる。もちろん石川啄木さんも。

江差には行けなかったが、大沼国定公園で大沼湖を自転車で一周する時間をとることができた。映画のロケ一ションとしても抜群の風景で、自分の眼からの自主映画である。大沼国定公園には、駒ヶ岳がよくにあう。

上記30本の映画のほかにまだあるようで、函館市いがいの周辺の市を加えるとさらに20本位ありそうである。今までにも観れない映画が2本あったので観れるのは10数本であろうか。観てからまた付け加えることとする。

函館ということで観たが、こういう映画もあったのかと全部楽しませてもらった。初めての監督からさらに作品を観たり、この監督のをもう少しと観た映画もあり駒ヶ岳のようにすそ野は広がっている。

 

新たな視点 <江戸・文七元結・寅さん>

加来耕三さんの講演会『すみだと北斎&海舟 歴史裏話』を聞きにいく。<北斎&海舟>なら聞きたいと思ったのだが、希望者が多くめでたく抽選に当たったのである。時間は1時間で加来さんいわく、いつも1時間半なので短めでと言われたが、まさしく、勝海舟さんの話が短かった。

まず歴史は疑ってくださいとのこと。江戸っ子というが、いつからが江戸っ子なのか。<火事と喧嘩は江戸の花>というがどうしてか。火事が多かったことはわかりますが、どうして喧嘩が多かったのですか。

時代劇でいえば、江戸の火事は火消しでマトイである。恰好いい。その火消し同士がけんかするのであるから、てやんでとなってやはりいなせで花なのではないかなと思ったら、喧嘩が多かったのは、言葉が通じなかったからとのこと。江戸をつくるために地方から人が集まってきているため、言葉の壁がありコミュニケーションが大変だったらしい。江戸弁ができあがるのはずーっと後ということになる。

江戸のシンボルマークは江戸城だったが、江戸城の天守閣は焼けおち、新しいシンボルマークを打ち出したのが、葛飾北斎の富士山。加来さんの言われたごとくこれも疑ってかかりたいところであるが、いやこれはおみごとである。もしかすると、江戸城の天守閣が残っていたら、葛飾北斎さんはここまでの賞賛はえられなかったかもしれないし、北斎さんの絵の発想も突き進まなかったかもしれない。技と発想が上手く結びつくということ、これは鑑賞者に幸せをもたらしてくれる。

「暴れん坊将軍」の吉宗の時代はもう天守閣がなく、あのテレビに映るお城はどこか。疑問をもつと最初からしっかり見ることとなる。タイトルだけ見たりして。

いつの頃からであろうか、大河ドラマも、物を食べる演技でその人物の性格を誇張するようになった。さもいわくありげに食べるのである。食べる回数が多すぎ、あれは個人的につまらないシリアスな演技だとおもう。

『東海道中膝栗毛』は初めてのベストセラーで次が『東海道四谷怪談』で、先の<東海道>にあやかって『東海道四谷怪談』としたということで、これは私もなぜと思ったのでピンポンである。ちなみに、実際の旧東海道歩きは、鈴鹿峠越えを残して、京都三条大橋まで到達した。この暑さの鈴鹿峠越えはひかえたのである。到達してみると残っているのも、楽しみがもう一度あるということで良いものである。歌舞伎座八月の『東海道中膝栗毛』はラスベガスに行くそうで、お手並み拝見とする。

勝海舟さんに関しては、海舟さんの祖父の話で終わってしまい残念であった。お金のあるものが御家人株を買うという時代になっているわけで、函館の五稜郭にいってみて、海舟さんに対する興味がつよくなったのと通じあい加来さんのお話しは大変面白く参考にさせてもらった。

江戸時代は長いわけで、江戸時代といってもどこのあたりという視点が必要のようである。

視点ということで、映画の山田洋次監督から新たな視点を授けてもらった。シネマ歌舞伎『人情噺文七元結』『連獅子/らくだ』の演出をされていて、歌舞伎学会の企画講演会でお話しを聞けた。

シネマ歌舞伎、落語、映画関連の話しが様々な角度から聞かせてもらったが、そのなかでも、新しい視点が二つあった。一つは「文七元結」の長兵衛は文七に会って幸運であったというのである。長兵衛は、バクチ好きの借金だらけのどうしょうもない人間である。人情噺の主人公になるような人間ではない。ところが、お店の大切なお金を紛失してしまい死ぬしかないという文七に出会い、長兵衛は娘のおかげで手にしたお金を文七にやってしまうのである。

この出会いがよりによってなんで俺なんだよと長兵衛は思うのである。えいっとお金を渡し走り去る。そのあと、しがない長屋の住人はとてつもない情のある主人公として光輝くのである。文七に会っていなければ、真面目になった長兵衛であろうか、もとの黙阿弥の長兵衛である。

もう一つは、『男はつらいよ』の風景映像である。山田監督は、この映画のために様々な場所へいかれるが、寅さんならこの風景をどうみるであろうかと思われて観ているといわれた。函館での寅さんの映画は三本ある。函館をロケ地としている映画は調べて観た限りでは30本ほどあり、海、港、函館山、倉庫群、洋館、教会、路面電車など絵になりやす場所で観ながらあそこだということがわかるのである。ところが『男はつらいよ』の場合、「函館」とクレジットされないとわからないほど観光的な場所はさらりとしている。

そうなのである。寅さんが観る風景は自分の商売が成り立つ場所と寅さんがかかわりが出来た人の生活の場それが見えているのである。

山田監督の映画の中で歌舞伎役者さんが出演している作品ということで『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』を観た。マドンナはいしだあゆみさんで、そのマドンナと出逢うのが京都の陶芸家役である十三代目片岡仁左衛門さんの家である。葵まつりの場面がでてくる。それは、寅さんが商売をしつつみているような映像である。仁左衛門さんに連れられてお茶屋にいくが、寅さんが心配してのぞく先にあるお茶屋さんである。

寅さんにとって知られている有名な場所、建物、寺院仏閣など関係ないのである。自分の眼でみた風景が、心地よいか、楽しいか、悲しいか、苦しいか、嬉しいかなのである。今まで寅さんを観ていてウケを狙っている台詞かなと思ったりした台詞が、これは寅さんにはそう見えているのだとわかり、新鮮な眼で映画が観れたのである。

その寅さんの視点で風景をみつつ映像をみると風の向くまま、気の向くままの気分になる。そして人間国宝の陶芸家の大先生も寅さんにとっては<じいさん>であり、お茶碗もただの茶碗なのである。

もう一つ山田監督は映画を観た土地のひとが、自分の住んでいるとこは良いところだと思ってくれるように撮りたいといわれていた。

勘三郎さんは、資料の山田監督との対談で、<あたらしい古典>という言葉を使われている。技と新しい視点が合体した古典という意味なのではないかと思った次第である。そうなのである。その勘三郎さんを観たかったのである。

視点と実証、視点と技。こちらは視点と好奇心を苦もなく頂戴させてもらう。

 

でこぼこ東北の旅(3) 歌舞伎シネマ『阿弖流為』

五所川原の<立佞武多(たちねぷた)>は是非友人に見せたいと思っていたが、ことのほか友人もその豪快な全容に満足してくれた。あらためてその色づけの美しさと巨大でありながら細やかな色使いになぜかしみじみとした想いにとらわれてしまう。

陰陽師・安倍晴明の立佞武多もあり、歌舞伎の『陰陽師』をおもいだす。四月の歌舞伎の『幻想神空海』は、『陰陽師』の二番煎じの感がまぬがれず期待に応えてくれなかったことも浮かび上がる。私立探偵空海で、空海(染五郎)と橘逸勢(松也)の関係が、安倍清明(染五郎)と源博雅(勘九郎)とだぶり、『幻想神空海』のほうが衣装が地味で分が悪い。最後に舞台全面に曼荼羅(まんだら)がでてやっと<空海><密教>の色合いがでた。

<ねぷた>の由来はいくつかあり、坂上田村麻呂が大きな灯籠で敵をおびきだしたという一説もある。ただ田村麻呂は青森までは遠征しなかったようである。

今回は歴史館「布嘉屋(ぬのかや)」にもたちよる。無人の時にあたってしまい拍子抜けしてしまったが、<布嘉>とは豪商の佐々木家に婿養子となった嘉太郎さんが、分家して大地主となり本家の「布屋」の屋号をもらい布屋嘉太郎が「布嘉」とよばれるようになり、斜陽館を建てた棟梁・堀江佐吉さんが請け負った布嘉御殿の模型が展示されていた。斜陽館よりも外見的にも手の込んだ建物であった。

大地主。太宰治さんの心の鬱屈の原因でもあった。太宰さんの父はお金を貸しそれが返せないと担保の土地を手に入れて広大な土地の所有者となっていったのである。

五能線のリゾートしらかみ号は気にしていなかったが、乗る列車によって列車内のイベントがあったりなかったりで、さらに<千畳敷>で降りて見学する時間のとるものとそのまま通過する列車があったのである。幸い見学する時間のある列車で友人のためにホッとする。風が強く、満ち潮で岩にぶつかる波しぶきが激しく、海の違う顔がみえた。この波が押し寄せてきたらと想像すると恐ろしくなるわねと友人とうなずき合う。

次の日、仙台から塩竈神社にいくため仙石線にのる。途中<多賀城駅>があり、多賀城があるのかとそれとなく記憶にのこった。

多賀城跡|観る|多賀城市観光協会 (tagakan.jp)

帰ってから歌舞伎シネマ『阿弖流為(アテルイ)』を観ていたらでてきた。<多賀城>。もう一つ先にでてきたのが<いさわ城>。調べたら<胆沢城>である。歌舞伎で観たときは気がつかなかった。

胆沢城跡/奥州市公式ホームページ (city.oshu.iwate.jp)

多賀城は平安時代、蝦夷(えみし)の指導者・アテルイを降伏させた田村麻呂が築いた城柵である。

多賀城にあった陸奥の軍政の拠点の鎮守府をのちに胆沢城に移している。そのことからも田村麻呂は岩手までで、青森には行っていないであろう。ただ<アテルイ>には<ねぶた><ねぷた>の灯りがよく似あっている。

胆沢城は東北本線の水沢駅からバスのようである。水沢駅から盛岡駅まで早朝一本だけ列車の<快速アテルイ号>が走っている。

 

歌舞伎シネマ『歌舞伎NEKT 阿弖流為<アテルイ>

染五郎さんが少年時代に、アテルイの処刑に田村麻呂が涙したという学習漫画から二人の関係を不思議に想われたどり着いたのが、『歌舞伎NEXT 阿弖流為<アテルイ>』である。かなりの時空を経て舞台化したわけである。そして映像化となった。

こと細かに鑑賞させてもらった。カメラを何台使ったのであろうか。ここという場面の台詞では役者さんたちの顔がアップとなり表情がよくわかる。そちらに気をとられて、舞台を観た時のアテルイと田村麻呂の敵でありながらもお互いに惚れこむ二人の関係が、役者さんが近すぎて伝わり方の波長が少しずれてしまった。観賞の難しいところである。ただ圧倒的な迫力で格好よすぎである。太刀や剣の使い方にスピード感があり、止まっていう台詞がキザでも許せてしまう。

最初から観た時の感覚がもどり、そうでしたそうでした。今更ながら、勘九郎さんの田村麻呂はだまされやすいおひとじゃ。裏をよみなさいよ。七之助さんの立烏帽子、動きにつれて衣装のすそがひるがえり、アテルイ、田村麻呂の関係に視覚的にも風をおこしている。市村橘太郎さん、澤村宗之助さん、大谷廣太郎さん、中村鶴松さんらもしっかりチェックできました。

この場面はこうした表情でと撮る映画とは違う映像なのに、しっかり眼が演技しつづけている。それでいながら身体はばしっときまる。これを昼夜二回演られたのかとおもうと、考えただけ見ているほうがが酸素吸入器が必要となりそうである。

舞台映像として、複眼で楽しめた。

作・中島かずき/演出・いのうえひでのり(劇団☆新感線)

新橋演舞場 『阿弖流為(あてるい)』

 

続き →  2016年7月8日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

でこぼこ東北の旅(2) 映画『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』

旅の持ち時間の関係から、別行動となった友人達は、弘南鉄道で黒石へ行く。津軽フリーパスという弘前周辺の二日間乗り放題の切符があり、これは行動範囲から検討するとお得な切符である。帰ってからの友人の報告によると、黒石はガイドの説明もあり酒蔵見学もでき半日コースとして楽しめたようである。

こちらは、五能線に乗り秋田を通り塩釜・松島へ行く予定なので、時間まで五所川原散策とする。五能線も五所川原も二度目であるが、初めての友人にあわせる。五所川原には太宰さんを可愛がってくれたおばさんのきゑさんが住んでいた家があり、この家は大火で焼け、蔵が残りそこで暮らしていたことがあり、太宰さんもその蔵を訪れている。その蔵が解体再生されて、「思い出の蔵」として小さな資料館になっていた。 青森五所川原の町 

 

 

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資料館に角樽(つのたる)が展示されており、きゑさんの娘さんの結婚の時のもので、金木の津島家から分家とある。意味がわからず係りのかたにたずねる。太宰さんの叔母のきゑさんは金木の津島家に娘さんたちと一緒に暮らしていたが、娘のリエさんに養子をむかえ五所川原に分家したのである。養子さんが歯医者で歯科医院を開業し、現在も人気の歯科医院とのことである。叔母のきゑさんが津島の名を残したわけである。

そんな話しから、太宰さんの場合も津島の名前は女性によって残されているという印象が強い。そして小説家太宰治さんは、娘さんの小説家津島祐子さんによって乗り越えられたと以前から個人的に思っていた。津島祐子さんとは小説家と言われる前に小さな文芸誌で作品に偶然出会った。この人は面白いと思った後で太宰さんの娘さんと知る。その後小説家として名前がでるようになる。

作家津島祐子さんは残念なことに今年二月に亡くなられてしまわれた。内面的に太宰さんに負けないだけの闘いをされて小説と向き合われていたようにおもえる。ここでも津島家は女性によって突き進んでいく。

友人も私も太宰さんの生き方には、三人の女性、小山初代さん、田部シメ子さん、山崎富栄さんとの関係から懐疑的な気持ちがある。小説家太宰治の名のもとに三人の女性が不当な扱いを受けているようにおもわれるのである。そのことを友人とふたり、かなり太宰さんを糾弾する。係りのかたも聞こえていたであろうから困ったことであろう。糾弾したとしても、太宰さんの血を授かった太田治子さんも、ご自分の道をしっかり歩まれているので、太宰さんの亡くなったときとは事情が違ってきている。

最後は係りの方も加わり、映画『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』のサチさんは素晴らしい女性で、あのような女性はいないという結論になった。太宰さんの作品をうまく組み合わせ理想の女性像をつくっている。なるほどこういう女性像をつくりあげれるのかと、その脚色と監督と俳優の組み合わせと映画の力に感嘆したのである。

映画『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』(2009年)

常識では推し量ることのできない作家・大谷(浅野忠信)の妻・佐知(松たか子)が、世の中から糾弾されないようにとった行動。居酒屋からお金を盗んだ夫を警察に突き出されるときに妻はどう行動したか。他の女性と心中未遂事件を起こし、殺人未遂容疑の疑いで警察に拘束されてしまう。そのときとった妻の行動は。夫が釈放されて帰ってきたときの妻の行動は、夫の食べている桜桃を一緒に食べる。そして発した言葉とは。

この映画を観たとき原作は忘れていたので、佐知さんの行動がミステリーのように想像外で新鮮で賛辞を送った。

<桜桃>は、『桜桃』にでてくるが、「子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶであろう。」と思いつつひとりで食べ「子供よりも親が大事。」とつぶやく。

<タンポポ>は、『葉桜と魔笛』のなかの手紙の一節にある。「タンポポの花一輪の贈りものでも、決して恥じずに差し出すのが最も勇気ある男らしい態度であると信じます。」

ヴィヨンの妻は、夫と桜桃をたべ、タンポポ一輪受けとったのであろうか。こういうつまらないつながりなど考えさせない内容の映画であるのでご安心を。原作からこうもっていくのかと、うなってしまった。

監督・根岸吉太郎/原作・太宰治/脚本・田中陽造/出演・松たか子、浅野忠信、伊武雅刀、室井滋、広末涼子、妻夫木聡、堤真一

 

続き →  2016年7月5日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

青梅から 映画『トキワ荘の青春』

奥多摩への途中駅、青梅駅は降りたことがなかった。映画『雪女』から、青梅は映画看板の街でもあるので訪れてみようとおもいたった。塩船観音寺は以前から行きたいとおもっていたので調べると、バスは本数が少ないようである。東青梅駅から15分のところに吹上しょうぶ公園があり、そこから20~30分で塩船観音寺まで行けそうなので、青梅から塩船観音寺までの行程とする。

青梅駅の駅舎は三階建ての四角いビルである。山手線の原宿駅が建て替えられるとの情報から、『関東の各駅途中下車ー小さな旅で訪ねたい、いい駅100』(原口隆行著)をさらさら読んだ中に青梅駅もあった。

なぜ三階建ての四角いビルかというと、大正に建てられたその時はJRではなく青梅電気鉄道でその本社が駅のビルとなったからである。それにしても、今の原宿駅がなくなってしまうのは残念である。

青梅駅のホームから入る地下通路に映画看板が並ぶ。駅のそばの観光案内所でまず地図と<雪女の碑>までの経路と青梅の見どころを教えてもらう。

行って歩いてわかったことであるが、青梅駅から映画の看板をながめつつ、<雪女の碑>のある調布橋をわったて、釜の淵公園を散策して多摩川の自然をながめつつ歩いて青梅駅にもどるのがよさそうだということである。

今回は、吹上しょうぶ公園と岩船観音寺を入れていたので調布橋を渡ってUターンしてしまった。調布橋からの両岸を緑におおわれた多摩川はどんよりした梅雨空を払拭する美しさで、大きな街道を消し去って、雪をふらせれば雪女の伝説のうまれた土地と思えてくる。正式には「雪おんな縁の地」の碑である。

 

 

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裏に小泉八雲さんの写真と『怪談』の序文がある。

この「雪おんな」という奇妙な物語は、武蔵の国、西多摩郡、調布村のある百姓が、その土地に伝わる古い言い伝えとして私に語ってくれたものである。

 

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青梅は青梅街道の宿場町で、商店街が旧青梅街道にあり、その建物に映画の看板がすえられている。映画の看板はこの青梅以外ではこれだけの数をみることはできないであろう

昭和を楽しむ三館めぐりというのがあって「昭和レトロ商品博物館」「青梅赤塚不二夫記念館」「昭和幻灯館」がある。

昭和レトロ商品館」には、映画看板絵師・久保板観さんの紹介もある。二階に「雪おんなの部屋」がある。小泉八雲さんの『怪談』序文からの青梅市との関連を展示説明している。

 

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青梅赤塚不二夫記念館」で、昭和31年5月頃のトキワ荘二階の漫画家たちの上から見た部屋のふかん図と赤塚さんの部屋の様子から映画『トキワ荘の青春』をみたくなった。<トキワ荘>というのは、東京都豊島区にあった漫画家たちが住んだアパートである。映画『喜劇役者たち 九八(クーパー)とゲイブル』(瀬川昌治監督、井上ひさし原作、愛川欣也とタモリコンビ)のポスターがあり、こんな映画もあったのかとしばしながめる。

 

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昭和幻灯館」は、小さな灯りのジオラマである。そこで売っていたスターのプロマイドの中に十二代目團十郎さんのプロマイドがあった。新之助さんか海老蔵さん時代であろう。お若い。

青梅の街はそのほか、古い建物やお寺もあり、青梅鉄道公園なるものもあるので、人によって楽しみかたがまだまだありそうである。

青梅駅から東青梅駅に移動し、「吹上しょうぶ公園」で多種類のしょうぶの花をめで、塩船観音寺にむかう。

 

 

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裏からの道でなかなか風情ある道も通った。

 

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塩船観音寺はツツジで有名なお寺であるが、時節がらアジサイであった。仁王門も風格があり、十一面千手観本菩薩も拝観でき、本堂の右側がアジサイ園ということでアジサイを見つつお寺の裏側にまわり、登って上から本堂をながめると、一面まあるく刈り込まれたツツジの緑色の玉が見事であった。これは、ツツジの時期は混みそうである。

 

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帰りは、塩船観音寺前からバスで川辺駅にむかう。このバス、土日は一時間に一本か二本である。

映画『トキワ荘の青春

この映画以前見始めたが気分が乘らずやめてしまったことがある。今回は、じっくり味わえた。

漫画家の寺田ヒロオさんが主人公で、手塚治虫さんがトキワ荘を去ってから、この寺田さんが、つぎつぎ引っ越してくる若き漫画家のリーダーとして均衡をとっていくのである。寺田さんはマンガの絵をみるとこの人だったのかとわかる。赤塚不二夫さんも重要な位置をしめ、記念館でみた、机が買えないのでマンガ本を支えに板を置きその一方を窓の敷居にくぎで打ち付けて固定させ机にしていた。その板がなにかの拍子にとんでもないことになり、赤塚さんらしい場面もある。

売れなくて悲喜こもごもの葛藤の時代であろうが、市川準監督はあくまでも真摯に漫画に向かう青年たちを寺田さんの心棒に合わせ、静かにふっと暗転にしてすすませる。それがかえって効果的である。次第に世の中に認められ、認められる漫画を模索する方向へといき、そうした中で寺田さんは、自分の漫画を捨てることを拒みつつトキワ荘を去って行き、トキワ荘の青春時代の映画は閉じられる。

当時の写真や昭和歌謡曲を入れつつ、そのなかでひたすら時代の寵児となっていく以前の若き漫画家の姿を、商業主義の編集者のつきまとう動きで明暗を色づけしながら、本木雅弘さん演じる寺田さんを通して映像で語る市川準監督である。寺田さんが黙ってバットを振る空気の振動音が言葉よりも深い。現在の個性派俳優さんが多数でていて押さえた演技も見ものであり、子供達を喜ばせていた漫画がその読者層の年齢をあげていく過程をみているようでもあった。

青梅はやはり映画好きを刺激してくれる街であった。

監督・市川準/脚本・市川準、鈴木秀行、森川幸治

出演/寺田ヒロオ(本木雅弘)寺田の兄(時任三郎)赤塚不二夫(大森嘉之)安孫子素雄(鈴木卓爾)藤本弘(阿部サダヲ)藤本の母(桃井かおり)石森章太郎(さとうこうじ)石森の姉(阿部聡子)手塚治虫(北村想)森安直哉(古田新太)鈴木伸一(生瀬勝久)水野英子(松梨智子)つのだじろう(翁華栄)つげ義春(土屋良太)棚下照生(柳ユーレイ)、学童社関係(原一夫、向井潤一、広岡由里子)娼婦(内田春菊)、編集者(きたろう)