『類』(朝井まかて著)(4)

朝井まかてさんの『』のなかでは登場しないが、森類さんや森茉莉さんの作品には永井荷風さんの名前が登場する。そのことで頭を巡らした。

半日』(明治42年、1909年、鷗外47歳、杏奴誕生、茉莉6歳))、『妄想』(明治44年、1911年、鷗外49歳、類誕生)。その間の明治43年に志げ夫人の『あだ花』が出版され、鷗外さんは慶應大学文学部文学科の顧問となり永井荷風さんを教授に推挙したのである。

鷗外さんが亡くなったのが大正11年(1922年)、60歳であった。茉莉さんは杏奴さんが生まれるまでの7年が両親を独り占めし、15歳で結婚。パリにいる夫の元に兄の於菟さんと旅立ったので父の死には立ち会えなかった。杏奴さんが12歳、類さんが10歳であるからその年齢によって父に対する想いはそれぞれに違っていたこととおもわれる。

母の亡きあと茉莉さんと類さんは二人で一緒に暮らしている。志げ夫人の看病には二人に任せておくことが出来ないと出産前の小堀杏奴さんは頑張られた。茉莉さんと類さんはそれぞれの生活を犯すことなく行動するが、寄席や映画館などで顔を合わせ、お互いの感想などを打てば響く感じで交信しあった。茉莉さんは結婚したあとも出かけると銀座、上野、浅草と時間を忘れて行動している。そして浅草大好きであった。ただこれは戦前の浅草のようであるが。

森茉莉さんのエッセイ集『父の帽子』の中の『街の故郷』で故郷いえば生まれた千駄木附近になるがもう一つ第二の故郷があるとしている。「それは昭和10年頃の「浅草」と下谷神吉町にあったアパルトマンである。」部屋でごろごろして文章を書いていようが、一日本を読んでいようが、気が向けばなりふり構わずに散歩にでようが気楽で天国のようであったとしている。浅草人の気風がとても気にいっていた。しかし、戦争のため浅草と別れ類さん一家の疎開先へと移るのである。

戦後世田谷区のアパートに住んでいた頃そのアパルトマンの住人と肌が合わない様子が書かれているのが『気違いマリア』である。同じ格好をしていても全く異質の浅草族というのがあってそちらは、パリになじんだのと同じように越した日から浅草の人間になれたが、こちらときたらと気に食わないことだらけなのである。浅草はパリなのである。「要するに、浅草族は東京っ子であり、世田谷族は田舎者なのである。」

気違いマリア』の書きはじめが凄い。「マリアが父親の遺伝を受けたとしても、又母親の遺伝をうけたにしても、どこかに気違い的なところを持っていていい訳なのである。」で始まり父親と母親の変なところの紹介となり、だからそういうことなのであるとなる。

さらに永井荷風の気違いも遺伝し、宇野浩二の気違いが遺伝し、室生犀星の遺伝も引き受けているのである。永井荷風は彼が市川本八幡で死んだとき悪い脳細胞の悪い要素が風に乗って世田谷淡島まで飛んで来てマリアの頭にとりついたらしいのである。

茉莉さんは永井荷風さんの浅草とは違う独自の戦前の浅草に恋したのであるが、荷風さんの気違いが遺伝するのは当然としたのである。むしろ来い来いという感じである。

類さんの作品『細き川の流れ』のなかで、小説家を目指す主人公は奥さんから本気度が足りないと言われ言い争いとなる。そして荷風の名がでる。主人公は荷風は毎日出歩いてその先で小説の題材を産んで羨ましいと言ったらしく、奥さんはそのためにこづかいを渡したがそれによって書けた小説がないという。さらに「荷風だって出歩く電車賃は自分で稼いだ原稿料で好きな処へ行ったんだと思うの、出歩いた事が間接に創作に役立っていても元は頭から湧いたものよ。」と詰め寄るのである。

未発表の『或る男』の彼は、自虐的に自分の中の世間のあざけりを吐露しつつ浅草に行く。『彼奴とうとう浅草へ来やがった。恥知らず奴が赤い靴を履いて田原町を歩いている。馬鹿が、馬鹿者が、無能力者が、ウッフフ、女房と子供が四人もいるのに、耳の横に白髪が光っているのに』。しかし浅草は彼に作品となる題材をあたえてくれるところではなかった。

類さんは自分の身近な生活周辺で起こることを題材とする。生田の土地の所有権の問題発生。家主になるまでのアパート建設に問題発生。部屋を借りる人々の人間模様。診察をしてもらった医師の不当と思える起訴による裁判傍聴の記録。そして森家の兄弟の事などを題材とするのである。画家の熊谷守一さんにインタビューもしていました。

一度は絶縁しつつも最後まで交信し合った類さんは家族があるゆえに、茉莉さんのようには気違いの遺伝をもらうわけにはいかなかったのである。かつて楽をした分生活者として闘うことになるのである。

茉莉さんの鼻の化粧の事で絶縁したその鼻に対して茉莉さんは『気違いマリア』の最後に「その微かに紅く、高くなった面皰(にきび)の痕跡を、むしろよろこんでいた。決して若い時のように、薔薇色の粉白粉で隠そうという努力なぞはしないのである。」としめくくる。これは、室生犀星さんが自分の顔に強いコンプレックスを抱いていたが晩年は自分の雑誌に載った写真をほしがるようになり、父ものちに知的な自分の顔に自信をもったからである。気違いの遺伝もそう悪い方へとはいかないのである。

茉莉さんは『半日』というエッセイで、鷗外の『半日』に対し、ここに出てくる「玉」が成長し「博士」に対する哀しい訴えとして最後にきっちりしめている。「「公」と「私」との別は、どれ程悲しくてもつけなくてはなるまい。」そして『気違いマリア』の中では『妄想』に対しては、主人公が翁になった気分に浸っているとし、この翁に浸るために、子供たちには健康のために二週間日在に移住したらしいとしている。

半日』と『気違いマリア』では、同じ人が書いたのであろうかと思えるほどの飛び方である。そして日を経るごとに茉莉さんは少女のような妄想の世界に浸り込んでいく。

なぜ世田谷のこのアパートにいるのか。「(目下だけではなく、マリアはこの建物に永遠に住む覚悟でいる。今いる部屋でなくては小説が書けないと信じているからで、マリアは萩原葉子が自分のアパルトマンに来いと言った時もその理由で断った。富岡多恵子がそれを聴いて、葉子さんの誘いを断るとはさすがマリさんである、と言った)」なんともこのツーカーぶりが見事である。この交信の速さがなければ茉莉さんとは交信できないのである。

茉莉さんの最後の住家は経堂のアパートとなるが、そこで類さんは茉莉さんの交信が弱くなり、部屋ごと硝子の水槽の中に入れて水族館に預けたいとおもったのである。茉莉さんを下界から囲って夢の世界で浮遊させ自分はそれを眺めているだけでいいと感じたのである。

そうした類さんを投射して朝井まかてさんは、『半日』の父と母を日在の川に浮かべた船に乗せ、童謡の世界に浮かべている類さんを作りあげたわけである。と、こちらは受け取ったようなわけであります。

朝井まかてさんの『』から森類さんの作品を読み、さらに森茉莉さんの作品に再度触れて笑わせられ、類さんと茉莉さんのどこに行くのか解らない作品に心配になった小堀杏奴さんの不安も伝わってきて、広く楽しい時間を持つことが出来ました。好い時間でした。

『類』(朝井まかて著)(3)

半日』(森鴎外著)は森鷗外さん夫人・志げさんが姑を疎ましくおもっている様子が書かれている。鷗外夫人悪妻のレッテルを張られたような作品である。

鷗外さんは遺言で観潮楼は於菟さんと類さんに半分づつの所有権とし夫人には日在の別荘を残した。日在の別荘での様子は、日在の場面から始まる小堀杏奴さんの『晩年の父』からも想像出来る。志げ夫人は田舎での生活は嫌いであり砂浜を歩くということも好きではない。鷗外さんはお金が必要になれば売ればよいのだからと考えたのであろうか。この多少ミステリーな部分を『』で夏井まかてさんは類さんの想いに解決をさせるという形にしたのである。

この日在の別荘地を志げ夫人は類さんに残すのである。類さんはこの地を売ってしまうのであるが妻の志穂さんと相談して買いもどす。志穂さんの死後類さんは再婚しこの地で二人で暮らすことになる。小さなころ怒られてばかりであった母は、類さんのために川崎の生田に土地を買っておいてくれ、日在の地も残してくれたのである。類さんの生活力を心配していたのであろう。

鷗外さんの亡きあと森家は先妻との長男・於菟さんが本家ということになる。さらに決定的だったのが、類さんが書いた『森家の兄弟』が『世界』に載り続きが載る予定であったときに岩波書店から断られてしまう。原稿を読んだ杏奴さんが茉莉さんの鼻の化粧の様子の記述に茉莉さん共々抗議したのである。類さんはその部分は削除するからと提案するが拒否されてしまう。このことから杏奴さんと茉莉さんとは絶縁となってしまう。

茉莉さんとはその後和解するが、杏奴さんとは終生歩み寄ることはなかった。

そのようなこともあり杏奴さんは於菟さんの本家としての後押しをし、類さんがなるべく表にでないように望む。於菟さん夫婦が亡きあと、その子の真章(まくす)さんにも「あなたが森家の本家」と伝えている。それは、鷗外記念会常任理事に真章がなったと知った時類さんは真章さんと話す。真章さんは、杏奴さんから言われたことを伝える。あなたが森家の本家なのだから先祖の菩提を弔うことはもちろん記念会のことも森家の代表者として面倒みるようにと頼まれました。ただ祖父の想いでは杏奴さんと類さんにお願いします。類さんは納得するがただほかから知る前に一言先に伝えてほしかったと胸に納める。

類さんを無視してことが運んでしまっていることが何回かあるのだ。それは鷗外さん亡き後、志げ夫人を排除していく力と関係し、その関係が、杏奴さんと類さんの不和でさらに強まってしまったようにみえる。

類さんと杏奴さんの蜜月時代もあった。類さんと茉莉さんの蜜月時代もあった。それが壊れてしまう。それは、亡き鷗外の愛の独占であったと類さんは思う。

パッパが一番愛していたのはあたしで、パッパを一番愛していたのはあたしなのと杏奴さんも茉莉さんも確信している。茉莉さんは「茉莉文学という花に、しとどの露を宿らせた。」杏奴さんは、「小堀姓になっても鷗外のご息女の生霊が森家の息災を願って正面からも側面からも舵取りを見守っている。」杏奴さんは森家のことに対し余計なことは書いて欲しくないと思っていたのであろう。

その杏奴さんも母に対してはかなり厳しい表現をし「父と母とが仲の好いように感じられた記憶は私には殆ど見付からない。」とまで書いている。類さんも、最後の小説『贋の子』で母らしい馨の人物像を珍しい性格として描いている。

一番印象的な志げさんは、『半日』である。主人公を挟んでの母と妻の嫉妬に対し、主人公は一応母に肩をもち妻をなだめる。自分(鷗外)が書くことによって外からの内に向かって入られるよりも内から外に発したほうがいいと考えたのかもしれない。

妻を世間が悪く言っても鴎外さんには愛する家族が手の届くところにあり守ってやることもできるのである。そして老いた母も自分の優位を感じつつ残された人生を送らせたいのである。さらにこの頃鷗外さんは志げさんに小説を書かせている。残念ながら志げさんの作品は読んでいないのであるが、志げさんが書く行為によって何か感じてくれることを期待したのかもしれない。そして『妄想』が書かれる。

妄想』は、主人公が別荘で老いを感じ、そこからドイツに留学したころのことを回想して死についてなど様々に考えがめぐる。志げ夫人は、夫との年の差から現実的な不安を感じていたと思う。その思考する方向性の違いもそれぞれにもっともなことに思える。

類さんは小説『贋の子』の発表前に津和野の父の生家に再訪したことを随筆『武士の影』で書いている。その質素な家から森家の人々の生活を想像し、先妻も母もお嬢様育ちで誰も悪い人間ではないのに相克が起ったのは当然であると考える。ただ最終的に自分が森家の墓に入ることを拒否されそのことを『贋の子』という小説にしこれが最後の小説作品となっている。

類さんが森家本家から受けた森類外しで納得できない心の内を伝える。類さんは森家のその後をここまで書いたのだからここでお終いにしようと考えたのかもしれない。もし佐藤春夫さんが生きていて相談したなら小説はもっとお書きなさいと言われたように思う。

朝井まかてさんは、『硝子の水槽の中の茉莉』で「ベスト・エッセイ集」に選ばれ日在で類さんの妻、子供、孫がお祝いをしてくれるところで終らしている。『硝子の水槽の中の茉莉』の最後に、茉莉さんの葬儀には類さんが喪主であったが、三鷹の禅林寺での一周忌には本家の営む法事となって参列している。「当然なのにこれで本当の茉莉姉さんの一周忌になったと思った。」茉莉さんが森家のお墓に入れたということに類さんはきまりがついたと考えられたのかもしれない。パッパに愛された茉莉姉さんがパッパのそばにもどった。

類さんは日在からの海をみつめつつ、パッパと母の関係を思い起こす。父の『妄想』の作品が日在の風景から始まっていることから自分の記憶をたぐる。「母は一緒に砂浜に出たりしない。自然が嫌いであったのだ。海の見える書斎で父とお茶をのんだり、本を操る音に耳を澄ませながら団扇でも扇いでいたのだろう。」その時鷗外さんには老いが近寄っていたのである。

鷗外さんは、日在で誰にも邪魔されない家族の時間を大切にしたのであろう。子供たちには自然を、妻には森家周辺の騒音を避けさせて。類さんは、回答をえる。「父はこの景色を他の者に継がせなかった。ここだけは母に残したのである。今になって、その真意に触れている。」その真意に触れるきっかけに、月夜に父は別荘の爺やに夷隅川に小舟を浮かべさせたことがあり、「月明りの下で、類は父と母の横顔を見上げ」月の砂漠の王子様とお姫様にたとえているが、これは朝井まかてさんのプレゼントで、個人的には感傷的と感じた。

この真意によって、類さんは、自分の存在の確かさを手にしたのである。

外されて外されて行き着いた自分だけの父と母であり、その子供であった。

』の作品がなければ類さんのことや作品を読むことはなかってであろう。森茉莉さんが亡くなられた時、親戚は何をしていたのかという批判があったように記憶している。その時、茉莉さんの作品や編集者と喫茶店で会っている記事などから茉莉さん独特の世界観と生活感から違う暮らしを無理強いはできなかったであろうと想像していた。かすかな記憶から、その批判を受けたのが類さんだったのではという想像も浮かぶ。

類さんの書かれた物から感じるのは、正直な人であった。ある意味母・志げさんの性格を受け、書くことに対しては静かに写生を試みる父・鷗外との子供であった。

『類』(朝井まかて著)(2)

森類さんの著書『森家の人びと 鷗外の末子の眼から』にて思いもかけない方向に導いてくれる。第一部・エッセイと第二部・小説となっている。森類さんの抑制のきいた文章がいい。朝井まかてさんの『』から想像していたよりも冷静な視線で変に感傷的でないのが信用できる。

優しかった父・鷗外を思い出す場面も本屋の仕事の合間に煙草を一服吸うような感じである。鷗外を背負うわけでもなく、嘆くわけでもない。読者は父鷗外の愛をそっと抱えて鷗外の子の枠からいい意味で解放される類さんの文章の世界に添う。文章は淡々としている。

佐藤春夫さんとの気を使っているようないないような微妙な関係が『亜藤夫人』に書かれている。「来たいから来ただけで、用がないから黙っている。先生の方も来たから座らせてあるだけで黙って居られる。」佐藤春夫さんは、校正刷りにさらに手を加えらているがなかなか終わらない。そんな長い時間の中でふっと先生は安宅さんの奥さんの様子をたずねられる。

「安宅さんの奥さんと云うのは僕の妻の母で、先生が昭和25年の「群像」十月号に書かれた『観潮楼付近』の主人公亜藤夫人である。」安宅夫人はかつて佐藤春夫さんと恋人であった。そして、類さんが佐藤春夫さん宅を訪れるきっかけを作ってくれた人である。

類さんは、入ってきた奥さんと先生のやりとりに夫婦の愛情が籠っているのを感じる。この奥さんが谷崎潤一郎元夫人の千代さんである。

観潮楼付近』を読んだ。わたくし(佐藤春夫)と観潮楼の関係、亜藤夫人との若かりしころの出会いと別れが書かれている。わたくしは郷里から出てきて生田長江の門下生となる。そして、観潮楼のすぐ前の下宿屋に住んだことがあったのである。わたくしは、森鷗外と観潮楼にあこがれをもって外からながめるだけであった。

その新しく出来た下宿に対して、鷗外が小説『二人の友』の中でこの家を描いている。「眺望の好かった私の家は、其二階家が出来たため陰気な住いになった。」

生田長江さんのところに出入りしていたO女(尾竹紅吉)が生田長江門下生の秀才を妹の結婚相手にしたいと提案した。その秀才がわたくしであった。一年半ほど妹と付き合うが、恋人は亜藤画伯と結婚することになってしまう。わたくしは落第生であり詩人ともいえない状態だったので彼女を祝福したのである。

O女は青鞜廃刊後、同人誌を発刊することになる。同人誌名『蕃紅花(サフラン)』は聖書から選んで命名したのがわたくしであった。「その創刊号には雑誌名と同題で鷗外の一文が寄せ与えられている。」鷗外さんも力添えしていたのである。

森鷗外記念館のため観潮楼址の地鎮祭と記念事業の奉告式があり、そこで、わたくしは若い夫人から一礼され「母から、よろしく申し上げよと申しつかってまいりました。」といわれる。その若い夫人が森類さんの妻であり、母が亜藤夫人であることを知るのである。わたくしはお共に頼んで来てもらった青年詩人Fに誰かと尋ねられ「夫人の方はむかし僕に『ためいき』という詩を書かせた原動力になった人の娘さん」とこたえるのである。

どんな詩なのであろうかと興味がわいた。『観潮楼周辺』には『ためいき』の詩も載っていた。恋に破れて故郷にもどって作られた詩であった。

その後、わたくしの家に亜藤夫人、森類夫婦、森茉莉の4人が訪れるのである。

小説『』のラストは、類さんが茉莉さんの没後に書いた随筆『硝子の水槽の中の茉莉』がベスト・エッセイに選ばれたため家族がお祝いのため日在の家に集まってくれたところで終わっている。そのエッセイは類さんが茉莉さんのマンションを訪ねときの茉莉さんとのその独特の交流を描いたものである。茉莉さんの様子を「硝子の水槽の中の茉莉」と表現したのは茉莉さんとかつてのように交信できなくなった淋しさと茉莉さんの世界観をそっとしておく類さんの心である。

かつて茉莉さんのことをリアルに描いた類さんを通過しての表現者としての類さんである。

佐藤春夫さんの『観潮楼周辺』は観潮楼の建物を中心に、その中に住んだ者、その周辺をウロウロした者、そして周辺の風景が上手く交差しつつ描かれている。わたくしの「青春時代のわが聖地」であったと今回初めて知ったのである。

小説『』で、斎藤茂吉さんは本屋の名前の候補を二つ出している。『鴎外書店』と『千朶(せんだ)書房』で、「千朶」はどこから考えられたのかと疑問におもっていた。それは、鴎外さんが前妻の登志子さんとうまく行かず離れて住んだのが千朶山房であったと『観潮楼周辺』に書かれている。この家はその10年後夏目漱石さんが住み、『吾輩は猫である』を書かれたので「猫の家」と言われている。住所の千駄木とも重ねて「千朶」が浮かんだのかもしれない。

前妻の登志子さんとの子が於菟(おと)さんで、類さんより21歳年上である。類さんと於菟さんの関係は、祖先から続く森家の構造、異母兄弟、年の差などが複雑にからんでいる。

観潮楼周辺』のわたくしは、於菟さんはちょっと苦手のようである。亜藤夫人の娘婿でもあるゆえか類さんには好意的である。亜藤夫人たちが帰った後、わたくしの奥さんは詳しく客の説明を聴いて亜藤夫人はこんなところに嫁に来なくて良かったと思ったでしょうという。わたくしには複数の女性関係があり、今の夫人とは二回目の結婚である。奥さんの言葉に対してわたくしは「それとも自分が来ればこの人もそんなに度々結婚しないでも一度で納ったろうと思ったか、どちらかだね。」といって笑うのである。

お二人には揺るぎない関係が存在しているが、わたくしはハッピイエンド観の小詩をしたためて満足する辺りが作家のサガであろう。

類さんは、『亜藤夫人』の中で、義母が先生の家に何回行こうがどうでもいいことだが「一緒に並んで行くのが厭だった。岳父が心の底からこれを楽しめないとすれば、先生の奥様にとっても、心から楽しい筈がないのである。」と書いている。

類さんには彼特有の周囲に対する観察力がある。その観察力で自分が主導権を握るとか、強く自己主張するというのとは違う。自分の中で調節して決まれば自分の考えとして自分で納得するのである。そして世間の喧騒から身を引くのである。

佐藤春夫さんは喧騒に立ち向かう方である。

朝井まかてさんは、『』のラストで、類さんが自分なりの父と母のつながりを完成させ納得する類さんを描かれている。それは朝井まかてさんの類さんに対する上等のプレゼントのように思えた。

ひとこと・ドストエフスキー

30分でわかるドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」』(2009年)のDVDをみる。登場人物関係と流れが本当にわかりやすかった。紹介してくれるのは講談師の一龍齋貞水さん(人間国宝)。その抑揚が抜群。読みたくなる運びの上手さ。この企画を考えた方に拍手。素晴らしい。決心する。『白痴』を読もう。

白痴』の解説部分を読んだら、ドストエフスキーも癲癇の病気をもっていたのである。そして、映画『ナスターシャ』にも出てきたハンス・ホルバインの絵画「死せるキリスト」(模写)が気になった。

ドストエフスキーは本物を観たとき、とても衝撃をうけたらしい。ただその時のドストエフスキーの心の内はわからない。映画にもでてくるが「この絵を見ていたら、信仰を失くしてしまう人だっているだろう。」の詞である。ここから信仰の話しになりますます映画が解らなくなってしまったのである。また観返したがわからない。ただ映画の構成には慣れた。

原作に出てくるとすればもっともっと先でしょう。

当然映画との違いがある。ここでこのことは話されるのか、登場人物の印象も違うなあなどなかなか面白いのです。

年内には終わりそうにない。ゆっくり読むことにする。

追記: 一龍齋貞水さん、見事な語りをありがとうございました。(合掌) 

『類』(朝井まかて著)(1)

』はひとことで記すつもりであったが、森鴎外さんの三男・森類さんがが主人公なので登場する人々が凄いのである。そのたびに、こちらの旅の思い出と重なってきてその後を追うことにした。

千駄木の文京区立『森鷗外記念館』の地に二階が観潮楼である森鷗外邸での森家の生活が描かれているので、その地を訪ねたことがある者としては、先ず団子坂に面したその空間に人々が交差していたのかと想いがめぐる。ところが団子坂の方は裏で、薮下通り側が表門であった。それだけでも頭の中が回転する。

鷗外さんは北側には自分で花畑を作り楽しんでいたようである。

記念館は団子坂の方からいつも入っていたので、こちらが森邸も表と思っていた。記念館は薮下通りに抜けられるがチラッと覗いて団子坂側に戻っていた。今度、薮下通りも歩いてみたい。

鷗外さんの亡くなった後邸宅は、表門の東側は前妻の子であり長男の於菟(おと)さんが西側の裏門のほうは類さんが相続する。

次女の 杏奴(あんぬ)さんは、様々な習い事をしていて全て全力投球している。絵画、日本舞踊、フランス語、源氏物語、漢語。舞踊はかなり力を入れ、いままでの師匠を不満として劇評家の紹介で新しい師匠につく。その師匠が市川猿之助さんの母堂である。欧米に留学したとあるから二代目猿之助さんである。さらに、猿之助さんの妹が鼓の名人の夫人なので、太鼓と鼓も習うことになる。鷗外夫人も本物を身につけさせたいと力を入れ、ついに 杏奴さんは力尽き身体をこわしてしまう。そのため踊りのほうはやめてしまう。

類さんも杏奴さんと一緒に長原孝太郎さんから絵を習っていて長原さん亡き後は、藤島武二さんに師事していた。鷗外夫人は二人を絵の勉強のためフランスへ留学させる。その時力を貸してくれたのが与謝野鉄幹・晶子夫妻である。かつて鉄幹さんがパリ滞在中に晶子さんが飛んで行くがその時手を貸してくれたのが鷗外さんであった。

長女の茉莉は翻訳をしたものを、与謝野夫妻の新詩社の『冬拍(とうはく)』に連載してもらっている。与謝野夫妻や特に晶子さんは旅の途中で歌碑などよくであう。一番新しいのは散策中に出会った千駄ヶ谷の『新詩社の跡地』。

パリでお世話してくれたのが、画家の青島義雄さんである。このかたの絵は『茅ヶ崎美術館』で初めてお目にかかった。マチスに認められた方というので驚いたが、「在仏の日本人画家では藤田嗣治(ふじたつぐはる)と並び大看板と評されている。」と本にあり、あの画家だと再会できたように嬉しくなった。岡本太郎さんも出現し、そういう頃なのだと時代的流れがわかる。

杏奴さんはパリからもどると、パリでも顔見知りの藤島武二さんの門下生の小堀四郎さんと結婚する。小堀四郎さんは小堀遠州の子孫である。杏奴さんは父・鷗外のことを書き、単行本となる。その本の装丁を考えてくれたのが木下杢太郎さんである。森鷗外さんの死後、残された家族に優しく接してくれたひとりである

木下杢太郎さんは、静岡県伊東市に『木下杢太郎記念館』があり伊東駅からも近く訪れたことがある。生家が木下杢太郎記念館になっていて、商家で中が薄暗かったのを覚えている。杢太郎さんが描かれた花の絵の絵葉書を購入したが、植物図鑑のような地味さである。

類さんが結婚する。媒酌人は木下杢太郎夫婦である。お相手は画家・安宅安五郎さんの長女・美穂さんである。その母親のお姉さんは尾竹一江(尾竹紅吉)さんで『青鞜』の婦人運動にも参加したことがあり、陶芸家の富本憲吉さんと結婚しいる。『青鞜社発祥の跡地』は鷗外邸のすぐ近くである。

結婚式には斎藤茂吉さんが祝辞を述べたようで、類さんにとって斎藤茂吉さんも優しく接してくれたひとりである。斎藤茂吉さんというと歌作に没頭して子供たちから変なおじさんと思われていたということを読んで偏屈なイメージがあったが、この本での類さんに接する様子は穏やかで楽しげで精神科医としてはこのように接していたのかもと違う姿を想像した。

戦争が始まり、類さんは徴兵検査では丙種で、福島県の喜多方へ疎開する。東京の空襲で千駄木の家は焼けてしまう。鷗外夫人が生きている時に、於菟さんは東側の家を出て人に貸して火を出され、西側だけが無事で住んでいたのである。その火事で東にあった観潮楼も焼けてしまっていた。

終戦後は類さん一家は、鷗外夫人が買って類さんの名義にしてくれていた西生田にバラックを建てて住んだ。そこで類さんは疎開先でも書いていた文筆家を目指すようになる。美穂さんの母の福美さんは佐藤春夫さんと知り合いで三人で詩の習作を見てもらいにいく。佐藤春夫さんも類さんに優しく接してくれる人の一人である。三人が訪ねた佐藤春夫邸は今は和歌山県新宮市にある『佐藤春夫記念館』である。二階に日当たりの良い八角塔の小さな書斎があった。

千駄木の焼けた家の敷地に文京区が史跡を残す方針で、斎藤茂吉さんや佐藤春夫さんが発起人となってくれ「鷗外記念館」を建てようということになり、敷地は於菟さんと類さんが区に譲ることにした。ただ類さんはこの地を離れがたく40坪ほど所有し本屋を開くことにした。家族は子供4人で6人にふえていた。

働いてお金を得るという事の出来ない類さんは、遺産も戦争で紙屑となり、父の印税が少し入るだけであった。それまでも美穂夫人のやりくりで何とかしのいできたが、美穂さんの実家の思案の末での提案であった。

斎藤茂吉さんに店の名頼む。『鷗外書店』と『千朶(せんだ)書房』を考えてくれた。類さんは『千朶書房』を選んだ。案内状は佐藤春夫さんが書いてくれた。観潮楼あとは『鷗外記念公園』となり前途洋々にみえるが、そう簡単ではなかった。類さんは自転車で本の配達に励む。あの辺りは坂が多いから大変であったろう。その間美穂さんが店番をし、子供4人の面倒をみる。いやいや、類さんも子供みたいなところがある。類さんが主人公であるが、疎開中といい美穂さんの頑張りは大変なものである。

本屋ということで著者の朝井まかてさんは、その時々の評判になった小説などを上手く紹介してくれて時代の流れというものを読者に伝えてくれている。この手法がなんとも読者にとっては納得させる善きスパイスでもある。

佐藤春夫さんも優しいだけではなく、物を書く人間として励まし方に実がある。岩波と揉めていた類さんの原稿を雑誌「群像」に載せるように尽力してくれる。『鷗外の子供たち』。美穂さんは大喜びである。絵もダメ、勤め人もダメ、やっと光が射したのである。さらに初めての著書として光文社カッパ・ブックスとして『鷗外の子供たち あとの残されたものの記録』となった。

松本清張さんが芥川賞を受賞した『或る「小倉日記」伝』の発想の元となっている鷗外さんの「小倉日記」は類さんが見つけたのである。このことも驚きであった。もし類さんがもっと世に出た物書きならこのことも類さんの手柄となっていたかもしれないがそうはならなかった。

『鷗外記念公園』は『文京区立鷗外記念本郷図書館』に代わることになり、類さんは立ち退くことになり本屋も閉めることとなり杉並に引っ越すのである。この『文京区立鷗外記念図書館』にも一度行ったことがある。記憶のなかでは、がっかりした想いが残って、これが団子坂かとそちらのほうで満足した。

その後、美穂夫人が亡くなられ、類さんは、思いがけない行動となる。こちらの想像とは違っていてむしろ笑ってしまった。森家の別荘「鷗荘」のあった千葉の日在(ひあり)に類さんは家を建てる。最後はそこの地で終わっている。パッパ(鷗外)は、おまえは類としての生き方を貫いたよと微笑まれているようにおもえる。

日在の海岸は、電車からながめているとおもうが頭の中に映像が残念ながら浮かばない。

森家を背負って生きた人々の複雑な関係も描かれている。森家の人々の作品としては鷗外さんをのぞいて森茉莉さんのを一番読んでいる。他の人もおそらくそうなのでは。残念ながら類さんのは読んでいないのである。さらにこの本を読んで、鷗外さんの『半日』と『妄想』を読み返したい。読んだという印はついているがなさけないことにまったく記憶にのこっていないのである。『』から森家のことがこれからも少しずつ動きそうである。

あと、川崎の生田にある『岡本太郎美術館』もまだ行けていないのでそこも訪ねたい。もちろん千駄木の『森鷗外記念館』にも出かけます。類さんはパッパの記念館、目にすることができませんでした。

行くのはいつになるでしょうか。友人の娘さんが癌の手術をして抗がん剤の治療にはいるとのことです。病で不安なかたがコロナでさらに医療現場に不安になることがありませんように。

ひとこと・朝井まかて『残り者』

朝井まかてさんの小説『残り者』を前進座が舞台にしたのですが観ることができませんでした。残念。というわけで原作を読みました。面白い。朝井まかてさんは軽くいくように見せて知らない世界を展開してくれます。

残り者』も江戸幕府が江戸城明け渡しの江戸城の前日からその日までを、大奥に勤める女性達の考え方仕事ぶりなどを見せてもらえます。そして外見の姿によってその階級制もわかるようになっています。さらに天璋院(篤姫)と静寛院宮(和宮)では武家と公家の違いがあり、そんなことも交えて、天璋院が可愛がっていた猫のサト姫が五人の江戸城に残っていた者を会わせるのです。仕事の部署の違う者との出会い。

是非再演があり観劇する日を願っています。

前進座の公式サイトを紹介しておきます。劇団前進座 公式サイト (zenshinza.com) 前進座チャンネルの松涛喜八郎さんのーふかぼり芝居講座シーズン3ー「おうち散歩 四谷漫談 エピソード1~4」は戸板のお岩さんの川の旅が紹介されていて紹介地図から鶴屋南北さんの頭の中の地図が想像できました。『残り者』はーふかぼり芝居講座シーズン4-でおたのしみを。

朝井まかてさんの読者といたしましては、森鷗外さんの末っ子の類さんのお話『』の世界に侵入いたします。ソワソワ、ワクワク。心落ち着けて。

ピアニスト・室井摩耶子さんと映画

思いがけないところからピアニスト・室井摩耶子さんが飛び出してくれた。映画『ここに泉あり』でご本人で出演されていて、室井摩耶子さんは今どうされているのであろうかと検索したら、現役99歳のピアニストであらせられた。人生楽しいです。

室井摩耶子さんの著書を読んだらこれまた元気の出る本で、黒澤明監督の映画『わが青春に悔なし』(1946年)では、原節子さんのピアノ場面の指導と、ピアノを弾く手で出演されていると。

原節子さんの白魚のような手ではないのでと書かれてあるが、このピアノの手の場面は重要な場面である。『わが青春に悔なし』は、滝川事件(京大事件)を扱っていて大学を追われた滝川教授を八木原と名前を変えている。その娘・幸枝が原節子さんである。学生たちとの交流の中でピアノを弾き、終盤になって突然ピアノを弾く手が映し出され、そこから農婦となった原節子さんの手が映し出される。ただ映画では農婦となっても手は簡単に農婦の手にはならないので、それを隠すように水田の水にさらしてすかし、はっきりとは見えないようにしている。

ピアノの手から農婦の手にかわることによって、幸枝の生きかたが変わったことをあらわしているのです。室井摩耶子さんの手がきちんとピアノを弾くことによってその手が農婦の生き方を選んだことに悔いがないことを伝えてもいるわけである。観返して重要な場面なのだとあらためて感じた。

映画『ここに泉あり』(1955年)では、高崎市民フィルハーモニーと東京管弦楽団との合同演奏会でチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第一番」が演奏される。指揮者が山田耕筰さんでピアノが室井摩耶子さんである。市民フィルハーモニーの速水かの子(岸恵子)が弾くことになっていたが妊娠していてつわりと腕に自信がなく辞退し、室井さんの演奏をじっとみつめる。これまた重要な心理が交差する。

この時の室井さんの髪型が縦ロールに巻いている。映画『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラのような髪型である。室井さんによると映画が日本で上映される前で自分で考えられたとのことである。「他人と同じではつまらない」というおもいが強いようである。

東京音楽学校(東京藝術大学)に入っても何かが違うとおもいつづけ、『ここに泉あり』の次の年には日本を飛び出すのである。ふたたび日本にもどるのは30年後である。

チラッと触れているのが映画『カルテット!人生のオペラハウス』である。かつて活躍した音楽家たちが暮らす老人ホームで、金銭的に継続が難しいというのでガラコンサートを開催し資金を集めるのである。それぞれ自分の音楽にかけてこられてきた方々なので個性的で色々あるがガラコンサートは盛況であった。そのなかでもヴェルディの歌劇『リゴレット』の四重唱のかつての仲間が再び披露するまでの4人の人間関係が中心になっている。

この映画について室井さんは言われている「こういう人を自由に暮らさせるホームは素晴らしいと思ったけれど、もし日本にあったら、どうかしら。私はやはり音楽家同士で暮らすのは大変な気がするわ。」

この老人ホームのモデルとなったのがミラノにあるそうでドキュメンタリー番組もあり室井さんは観たとのこと。その中で、一日中『エリーゼのために』を弾いているピアニストがいて「私は彼女の奏でる音を聴いて、ベートーヴェンの半音の使い方の美しさを知った気がして、とても印象的だった。」と。

室井摩耶子さんは、一音を求めてピアノを弾かれ続けておられる。室井さんの本を読んでいるとピアノが聴きたくなる。室井さんのCD『「演奏の秘密」~聴けば納得~』を聴く。楽譜は読めないが、解説の語りには一音一音に恋している室井さんの爽やかで強い想いが伝わってくる。こちらもただ流れを追っていたピアノの聴き方に違いが生じたようにも思える。勝手にそうおもっているだけであるが。ピアノとの新しい出会いである。

「音楽とは音で書かれた詩であり、小説であり、戯曲です。物語のない演奏には感動がありません。」

ひとこと・小説『オー・マイ・ガアッ!』

ラスベガスのカジノを舞台にした小説があった。浅田次郎さんの小説『オー・マイ・ガアッ!』である。ラスベガス関連映画の映像が浮かんでくるくる回る楽しい小説である。映画の話しも出て来るし、日本のパチンコ店では、席を立つとき煙草とライターを置いたらその席はその人の席という日本の慣習が出てきたりと可笑しさが絶えない。54126029の数字がどこに落ち着くのか。

追記: 小説の中にミュージカル映画『南太平洋』(1949年)をベースにしたホテルがでてくる。ということで鑑賞。ミュージカル映画のなかでも苦手な部類。展開がおそくて、歌う。前半はかなり飽きがきてしまった。CDのミュージカル映画音楽でたのしむがむいているかも。

映画『リヴァプール、最後の恋』からグロリア・グレアム出演映画(2)

グロリア・グレアム出演映画で観たのは次の8作品である。

素晴らし哉、人生!』(1946年)役名・ヴァイオレット

十字砲火』(1947年)役名・ジニー

孤独な場所で』(1950年)役名・ローレル・グレイ

地上最大のショー』(1952年)役名・エンジェル

悪人と美女』(1952年)役名・ローズマリー

復讐は俺に任せろ』(1953年)役名・デビ―・マーシュ

仕組まれた罠』(1954年)役名・ヴィッキー・バックリー

オクラホマ!』(1955年)役名・アニー

ハリウッドの黄金時代』(川本三郎著)に次のような記述がある。「監督のキング・ヴィダーが語っているように、第二次大戦後ハリウッドも新しいタイプの女優が登場していた。従来のスタジオの意のままになる大人しい人形のような女優ではなく、社会意識もコモセンスもある自己主張する女優である。ローレン・バコールやグロリア・グレアム、リザベス・スコットという女優である。彼女たちは、自分で演技のコンセプトを持っていたし、衣裳に関しても自分で選べるセンスも持っていた。」

グロリア・グレアムが助演女優賞を受賞した映画『悪人と美女』にラナ・ターナーも女優役として出演している。同著書で「エヴァ・ガードナー、ラナ・ターナー、マリリン・モンローと1950年を代表するグラマー女優がいずれも貧困家庭の出身であることは興味深い事実だ。セーターも買ってもらえなかった子供時代から宝石と毛皮に囲まれたスター時代へ、彼女たちは極端から極端への振幅の大きい人生を生きた。その点でも、常識はずれだった。」としている。それぞれの立ち位置の違いが面白い。

素晴らし哉、人生!』の内容は次を参考にされたい。

 映画『ステキな金縛り』から『スミス都へ行く』『素晴らしき哉、人生!』(2)

続きとなるが、翼のない天使はもしジョージアがこの世に生まれていなかったら今の世界はどうなっていたかを見せるのである。その世界に驚きジョージアは自分でも役に立っているのだと自殺を思いとどまるのである。

ヴァイオレット(グロリア・グレアム)は、自分を男性に注目させるように行動するタイプの女性である。しかし、上手くいかなくなって心機一転ニューヨークへ出ることにする。その時ジョージアがお金を手渡してくれるのである。感謝するヴァイオレット。もしジョージアがいなかったらヴァイオレットは身を持ち崩して悲惨な状況にいた。

十字砲火』(エドワード・ドミトリック監督)は、犯罪事件をあつかった映画なのであるが、なかなか奥が深いのである。第二次世界大戦が終わり、兵士たちが復員して除隊を待っている。4年間の戦場から解放されてその状況に対応できない兵士もいる。自分の想いとは違う状況にいら立ちを感じている者もいる。あるいは、隊の上下関係から怖れを抱いている者もいる。夫を待つ妻。自立したくて酒場で働く女性など殺人事件によって映し出されてくる。ただ、3回ほど観てなるほどとわかってきたのである。

サミーが自室で殺された。バーで4人の兵士と会っている。サミーの部屋には、ミッチ、モンティ、フロイドの3人の兵士がいた。その一人の財布が落ちておりミッチに疑いがかかる。一緒にいたモンティ軍曹(ロバート・ライアン)は彼には人殺しは出来ないと主張。ミッチの友人のキーリー軍曹(ロバート・ミッチャム)はミッチではないと彼の無実のために動く。捜査の指揮をとるの警察署長(ロバート・ヤング)。

事件の夜、ミッチはサミーの部屋を一人先に出て街中をうろつく。ある酒場でジニー(グロリア・グレアム)と出会う。彼女は生活のためにここで働いていた。ミッチに妻に似ているから一緒に踊りたいと言われ食事に誘われる。ジニーは何となく魅かれて自分の部屋でスパゲティーをご馳走するからと部屋の鍵を渡す。夜中、ミッチの妻と署長からミッチのアリバイを聴かれるがそんな人知らないと答える。ジニーの複雑な心境の役どころである。ジニーとジニーが別れたい夫からの証言はミッチのアリバイにはつながらなかった。

署長は犯人の殺人の動機が見つからず、犯人の心の中を考える。ユダヤ人に対する偏見である。サミーはユダヤ人であった。犯人はわかった。しかし、証拠がない。そこで、バーに一緒の居たフロイドの友人のハロイに協力を求める。フロイドも殺されていた。

ハロイは同じ隊であったモンティ軍曹にテネシー生まれの田舎者としてあつかわれ彼を恐れて関わりたくないと主張する。ここから署長の話がはじまる。自分の祖父の話しである。祖父はアイルランドからの移民であった。祖父は土地も買い自分はアメリカ人と思っているカトリック教徒であった。しかし、ある日、バーからの帰り道襲われて亡くなってしまう。嫌いなだけだったのだ。それが憎しみとなり爆発する。モンティも同じである。

ここが凄いのだが、モンティはテネシーに行ったこともないのに田舎だといい、田舎者はのろまだと思っている。嫌いが憎しみになり爆発するとどうなるか。どこにでも偏見が発生し暴力と結びつくことを暗示するのである。ハロイの協力によりモンティの犯行は明らかになり逃亡する所を署長に撃ち殺されてしまう。

撃ち殺してのラストはちょっと考えてしまった。ここまで言う署長なら生かして逮捕すべきなのではと。映画であるから最後はケリをつけるということにしたのかもしれない。ミッチの心の内なども語られ心理劇も展開されるがそれだけではなく、どこにでも一方に暴力性が潜んでいることを強調したのかもしれない。

グロリア・グレアムさんからこんな映画にぶつかるとは。ハリウッド黄金時代には、一方にフイルムノワールの最盛期でもあり、アメリカ映画にとってなかなか面白い時代でもあったということを教えてもらいました。

映画『ぶっつけ本番』『SCOOP!』

撮影監督 高村倉太郎』(高村倉太郎著)によると、高村倉太郎さんは、中学生で写真にのめり込み、東京写真学校に進む。学校に松竹大船撮影所から募集があった。

昭和10年(1935年)映画法ができ、映画を上映する際、文化映画とニュース映画を併映することになる。国策の始まりである。松竹にも文化映画部ができて、昭和14年(1939年)に高村さんは、大船撮影所文化映画部所属となる。劇映画と文化映画の撮影助手として撮影にたずさわる。

ニュース映画会社は日本ニュース映画会社統合され、国策強化へと進むのである。高村さんも昭和16年(1941年)末そちらに呼ばれそちらに移るが昭和17年2月に入隊がきまる。昭和21年(1946年)復員して松竹大船撮影所に復職する。

高村さんは、ニュース映画には携わらなかったが、その経過がわかった。ニュース映画にたずさわり、戦争に行き復員して再びニュース映画に闘志を燃やす主人公にした映画が『ぶっつけ本番』(1958年・監督・佐伯幸三)である。主人公役はフランキー堺さん(松木徹夫)で、21年に復員する。このニュース・カメラマンには松井久弥さんというモデルがあるらしい。

松木はやっと再びカメラ撮影ができるようになり、事件が起きれば飛び出していく。ただ生活は貧しく、それを支えるのが妻・久美子(淡路恵子)である。次から次へと事件が起こり松木はスクープを撮るため、色々な手段を用いる。仲間の背中に乗っかて映すなどは朝飯前である。

この映画は録画してあったもので、こんな面白い映画があったのかと再度見る予定にしていたら急に録画器機を取り替えることとなり一度しか観れなくて細かいところは曖昧である。松木がかかわった歴史的な事件を列挙できないのが残念である。

殺人事件で捕まった犯人が現場検証に姿を現わすというので、その犯人の姿を撮るため、松木は警察の目をかいくぐって近づき犯人を撮ることができるのである。その場面が、後に観た映画『SCOOP!』にも同じような場面が出てきたのである。そのことは後にする。

映画ニュースは映画の上映の前に上映され、テレビの出現で、その伝達のスピード感に遅れがでてくる。後輩の原(仲代達矢)も松木に申し訳ないという気持ちを持ちつつテレビのほうに移ってしまう。それでも、松木は好い映像を撮りたいと頑張るのである。復員してきた父親とその家族の再会を駅のホームで撮ろうとする。ところが同じホーム上ではその感動的な場面が上手く入らない。松木はホーム下の線路に下りてカメラをかまえる。そこへ貨物車が入ってきて松木は亡くなってしまう。

亡き松木を讃える賞の授賞式があり、妻の久美子が亡き夫の代わりに出席する。松木は地味な仕事で、それを心から讃えてくれたのはかつての仲間の原たちであった。

「ドラマよりドキュメンタリーや文化映画のほうが、臨機応変に対応しなければいけないからですか。」の質問に対し、高村倉太郎さんは、次のように答えられている。「要するに劇映画の場合はある程度状況をつくれるわけですよね。文化映画っていうのは、相手によってはこっちが考えていないような悪条件のときもあるわけです。、、、「これじゃ写りません」では済まない。絶対ちゃんと写していかなきゃいけないから、その方法をいろいろ考えるわけです。」

ニュース映画となれば、ぶっつけ本番度はさらに増したことであろう。

映画『SCOOP!』(2016年・大根仁監督)は、フリーの中年パパラッチが主人公である。こちらは決定的瞬間を連続写真でとらえる。芸能人や有名人の個人的生活の一部を待ち伏せや隠し撮りなどをして雑誌社に売るのである。映画『盗映1/250秒』(1986年・原田眞人監督)のリメイクで、こちらは観ていない。

中年パパラッチ(都城静)が福山雅治さんでその下で指導される雑誌「scoop!」新人担当記者(行川野火)が二階堂ふみさん、何かと情報をくれるチャラ源がリリー・フランキーさんである。

静(しずか)はかつては優秀なカメラマンだったようであるが、今はあくどく私生活をあばくスクープ写真を追い駈けている。それが雑誌「scoop!」の売り上げを助けている。そんな時、女性連続殺人犯の現場検証があり今の犯人の顔写真を撮ることになる。『ぶっつけ本番』でも悪戦苦闘していたので、静がどう作戦を立てて見せてくれるのか楽しみであった。作戦は成功するが、結果的には野火に犯人の顔を撮らせるのである。

チャラ源はクスリをやっていてチャラチャラとしているようで腕っぷしは強い。静と野火(のび)をハングレから救ったりもするが、ついにクスリによって制御能力がなくなり静に電話してくる。格好いい写真を撮ってくれと。

静は野火を乗せて車を走らせる。チャラ源はすでに人を殺し、自分の娘を連れ、クスリで人格が無くなっている。静は何んとかチャラ源の気をそらし娘を安全な場所に行かせる。このあたりのチャラ源と静のやり取りは上手く静があしらうだろうと期待してしまうが思いがけない結果となる。

野火は最後の一瞬をカメラにおさめる。その写真は、静がカメラマンになるきっかけとなったロバート・キャパの写真「崩れ落ちる兵士」を思わせる。静の上司でもあり、静の元パートナーでもある定子(吉田羊)が、最後に愛された人がこの事件の記事を書くべきだと野火に記事を書かせる。

定子や、かつて一緒に仕事をした馬場(滝藤賢一)が、違う立場で静のカメラマンとしての生き方を受けとめることによってこちらも納得できるのである。静とチャラ源の関係。そして野火との愛も軸としてあるが、どうもそこが弱い。静は、カメラは素人である野火を通して自分には撮れない新鮮な写真を託したのであろうが、そこも弱かった。野火のどうしようどうしようという動揺から恐怖感にいってそこから静の自分に発信しているプロへのプロセスを受け取る過程の描き方にもう少し強弱が欲しかった。

おそらく野火が記事を書いて「写真・都城静」と書き残すところにそれが現れているのかもしれないが、リリー・フランキーさんの演技を押さえる効果までにいたらなかった。

殺人事件の犯人の現場検証のスクープねらいの成功で、映画『ぶっつけ本番』と映画『SCOOP!』がつながり、『撮影監督 高村倉太郎』で、ニュース映画の成立と劇映画ではない映像カメラマンと写真カメラマンのぶっつけ本番度を感じた次第である。

追記: コロナ専門家会議の議事録を作成しないのだそうである。価値あるものではないということなのであろうか。これから先の検証に凄く役立つものだと思いますけど。未知との闘いのあかし、残して下さいよ。

追記2: 霞が関のかなりの人々は億の0の数に対して軽いのではないかと邪推してしまう。1億は100000000である。(間違ってないでしょうね。緊張します。)税金は誰のものでしょう。← 感染症拡大により大きな影響を受けた事業者に持続化給付金(パチパチパチ!)の委託過程に疑問(?)