10月歌舞伎座『宮島のだんまり』『吉野山』『助六曲輪初花桜』

  • 宮島のだんまり』は、宮島の厳島神社を背景に13人の登場人物が闇の中を動きまわって探り合うのである。赤旗が出てくるので、それをめぐる平家と源氏ということになる。途中でこの赤旗を全員が手に見得を切ったりするので小道具としてもいきる。最初は、大江広元、典侍の局、川津三郎の三人で次々増えてゆき、中心となる傾城浮舟太夫(実は盗賊)が背後中央から姿を見せて消え、さらに増えてゆく。役よりも役者さんは誰とそちらが気になる。

 

  • 観たときは何んとなくどんな人物かを姿でとらえていた。武士、奴、奥女中、姫とか。登場人物名をみて少し探りを入れた。観る前に知っていたらもっと楽しめたであろうと残念に思う。間違っているかもしれないが記しておく。傾城浮舟太夫・盗賊袈裟太郎(扇雀/ほかでのこの名は聴かない。衣裳と最後の引っ込みに注目)、大江広元(錦之助/『頼朝の死』に出てくる。政治に長けた立役)、典侍の局(高麗蔵/『大物浦』で安徳帝を抱える乳母)、相模五郎(歌昇/『大物浦』での注進。衣裳も分かりやすく目立つ)、本田景久(巳之助/くわしくは不明で立役ということでは他にもいるので難しいしどころ)、白拍子祇王(種之助/清盛に愛され捨てられた方で白拍子は分かりいい)、奴団平(隼人/色奴でこれも一目でわかる)

 

  • 今回の舞台は、来年の新春浅草歌舞伎のメンバーが色々な役を受け持ってい、修練の舞台のようでもある。役の衣裳を着させてもらうだけでも勉強になる。新しい春にはどんな役に挑戦することになるか楽しみである。ただ人形振りが二つあるというのは避けていただきたい。歌舞伎初めての観客が『操り三番叟』で、おう!といって興味を示したが、『京人形』では次第にテンションが下がりきみであった。気持ちわかります。興味度を表に出す分かりやすいお客さんでさすが浅草である。

 

  • 息女照姫(鶴松/お姫様)、浅野弾正(吉之丞/浅野長政のことなのであろうか。悪の立役であろうか不明)、御守殿おたき(歌女之丞/『小猿七之助』の奥女中滝川。そろそろ『小猿七之助』が観たい)、悪七兵衛景清(片岡亀蔵/名は分かりやすいが演る方にとっては重い)、河津三郎(萬次郎/曽我五郎、十郎の父。名前はでても、芝居には出てこない方である)、平相国清盛(彌十郎/これまた知られ過ぎていてかえって難易度)

 

  • 書いているともう一回観たくなる。13人を捉えるのは観る方にとってもゲームに挑戦する能力が必要になる。「だんまり」とは「暗闇」とも書くのだそうだ。暗闇でのだんまりとは言わないということか。まあいいでしょう。人間だもの。改ざんされた数字に比べれば。ただ時々やってしまうお名前の間違えは平身低頭である。ご容赦ください。

 

  • 吉野山』は言うことなしの満足である。静御前の玉三郎さんは花道からの出で、たっぷりと見せてくれる。失礼ながら、何が失礼なのかわからないが、勘九郎さんの忠信とぴったりなのである。勘九郎さんがそれだけ成長されたということであろうか。これ以上書くとはげ山になりそうなのでおしまい。

 

  • 玉三郎さんを観たいと友人がいうので先月夜の部の切符を用意してあげた。「『幽玄』、よくわからなかった。」気持ちはわかる。彼女は『鷺娘』で時間が止っているのである。『吉野山』を観せるべきであったかも。こちらも観てみないと決められないのである。海老蔵さんが観たいというので『源氏物語』を。「『源氏物語』は荒事のような張る台詞がないのね。あれが好きなんだけど。」それは『新・新・源氏物語』でもできればあるかもである。「歌舞伎って何か新しく変わってしまったのね。」観せたものがそうだったのであるが、選択の難しい時代ともいえる。

 

  • 今回の『助六曲輪初花桜(すけろくくるわのはつざくら)』はおおいに笑ってしまった。いつもは少々固まって観ていたようにおもう。揚巻の出とか、助六の花道のしどころとかしっかり観なくちゃの意識が働きすぎていた。七之助さんの揚巻は、匂いたつ花魁というより実のあるしっかり者という印象で、それがかえって助六を子供に見せているところが面白い。

 

  • 助六の仁左衛門さんは格好良さが決まっていた。助六は自分というモテモテ男をもっと格好良くみせようとしているのである。よく先人の役者さんはこうでもかというしどころを考案したものである。助六は、どうしたら相手に刀を抜かせられるか、その場その場でアドリブで考え行動しているのである。芝居として形になっているが、ちょっとそれを横に置いておくと現代のコミックも真っ青の行動である。

 

  • お兄ちゃんがまた助六に輪をかけて可笑しい。お兄ちゃんが勘九郎さんだからまたまた可笑しい。この兄弟メチャクチャである。これが成り立って名作となってしまうのであるから、歌舞伎おそろしやである。それに付き合う髭の意休が歌六さんで、ばかめと助六を甘くみていてはいけません。ほらね、やはりはまってしまった。

 

  • 助六に遊ばれるくわんぺら門兵衛の又五郎さんも喜劇性がなじんできました。朝顔仙平の巳之助さんはこういう役はやはり上手い。若衆とはいかにの片岡亀蔵さん。勘三郎さんの通人みましたよ。同じ役の重責を担って彌十郎さんが勘三郎さんに舞台から中村屋兄弟の活躍を報告をされていました。まだ少し繊細な千之助さんの福山かつぎ。男伊達もずらーっと男でござると微動だにしないで脇にひかえていました。さりげなく役目をはたす白菊の歌女之丞さん。大阪で見かけないと思いましたら竹三郎さんは遣り手お辰で江戸でしたか。さすが引き締め役の三浦屋女房の秀太郎さん。傾城はつぼみがはじけそうな白玉の児太郎さん。舞台の板にしっかり根を張り始めた宗之助さん。お名前わからないが堂々とした傾城が声もよくそろっていた。

 

  • 兄弟の母の玉三郎さん。このしっかりした母親だからこそ、こういう兄弟に育ったのか。こういう母親にいいところを見せようと思うからこそ、早く刀を見つけてと無理を通すのか。凄いですこのお母さん。こんな状態では、父に申し訳ないからお墓の前で自害するという。こういう母には勝てません。そして、紙子の着物を助六にお守りとして渡す。無理をすれば破れるのである。考えることが凄いです。こんなにハチャメチャ楽しい芝居だったのだ。そこを格好良くみせてしまうという表と裏の一体感。これだけだまされたら許せます。愉しみました。

 

  • 兄弟の母の玉三郎さん。このしっかりした母親だからこそ、こういう兄弟に育ったのか。こういう母親にいいところを見せようと思うからこそ、早く刀を見つけてと無理を通すのか。凄いですこのお母さん。こんな状態では、父に申し訳ないからお墓の前で自害するという。こういう母には勝てません。そして、紙子の着物を助六にお守りとして渡す。無理をすれば破れるのである。考えることが凄いです。こんなにハチャメチャ楽しい芝居だったのだ。そこを格好良くみせてしまうという表と裏の一体感。これだけだまされたら許せます。愉しみました。

 

歌舞伎座10月『三人吉三巴白浪』『大江山酒呑童子』『佐倉義民伝』

  • 10月の歌舞伎座は、十八世中村勘三郎七回忌追善公演である。一階ロビーに勘三郎さんの遺影が飾られている。『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』は、お嬢吉三の七之助さんとお坊吉三の巳之助さん、味が薄かった。台詞やしどころは教えを受けていればその通りに、あるいは相当丁寧に練習されているとは思うが引きつけられなかった。和尚吉三の獅童さんは勘三郎さんの台詞を練習されたように響き、上手く自分の中に取り込まれたように思えた。和尚吉三がでてきて三角形になったように思う。おとせの鶴松さんは生活からくる哀れさが欲しい。可愛らし過ぎた。

 

  • 大江山酒呑童子(おおえやましゅてんどうじ)』は面白かった。勘九郎さんの酒呑童子がいい。こんな童子のお人形があるなと思わせられる。国立劇場で『舞踏・邦楽でよみがえる 東京の明治』の中に『茨木』があった。録画で歌右衛門さんのと茨木童子、松緑さんの渡辺綱を先に観た。歌右衛門さんが最初の伯母真柴のところで、こちらが茨木童子に変わるのだと知っているのに、そのことを忘れさせるくらい綱を想う真柴であった。国立劇場での花柳寿楽さんの茨木童子と花柳基さんの綱も踊りの心の骨格がしっかりされていて良かった。ただ観る条件として、前の方が背の高い方で視野がさえぎられ残念であったが、こればかりは仕方のないことである。

 

  • 国立劇場で、鬼人などに変わるものは、観る方も先ず最初の役の踊りに没頭し、演者も没頭させてくれなくてはいけないのだと確認できた。勘九郎さんの酒呑童子はまさしくその条件にかなっていた。その稚気さ、気持ちをそらさない動きなど大変気にいった。ただ勘九郎さんは膝大丈夫なのであろうかと気になる。かなり以前ドキュメンタリーで膝を悪くされていたのを見て以来、好い踊りを見せられると気にかかるのである。使い続ける箇所なので大切にされてほしい。舞台にでると無理を承知で動かれてしまうことになるのであろうから。

 

  • 扇雀さんの頼光は、八月の『花魁草』のお蝶とはガラっと変わる声質である。頼光が出れば四天王で、平井保昌の錦之助さんを先頭に颯爽とした四天王であった。童子に捕らえられていた女たちの踊りが花を添える。初めて観るような新鮮な『大江山酒呑童子』であった。

 

  • 佐倉義民伝』は、何回観ても泣かされる。命をかけての直訴。命と引き換えても訴えなければならない窮状なのである。二階ロビーには、御本尊宗吾様像が祀られていた。直訴を決めて最後の家族との別れに向かう白鷗さんの宗五郎。お咎めを覚悟で渡しの舟を出す歌六さんの甚兵衛。家に帰ってみると、子供の着物も困っている同郷の人に持たせ、夫の離縁に抗議する女房おさんの七之助さん。七之助さんが芯のしっかりしたところを見せて白鷗さんの慈愛に満ちた宗五郎と上手くマッチして大きな仕事を支える様子がよい。

 

  • ぱっと舞台が紅葉に赤い渡り廊下となる東叡山の場面。苦しむ農民の生活と余りにも違うこの明るさと赤は、血潮さえ思い起こさせる。そこに現れる将軍家綱の勘九郎さんが凛々しく大きい。宗五郎の直訴文を読む松平伊豆守の高麗蔵さん。上書きは投げつけ、直訴文は袂にしまう。安堵する宗五郎。観ている方も涙する。将軍を囲む武家たちの長袴の裃姿の若手さんも美しくきまっていた。

 

  • 友人が『宗吾霊堂』に行った事がないというので夏、甚兵衛渡しまで行くことにした。半日コースと『宗吾霊堂』まえでお蕎麦を食べてからお参り。境内には『御一代記館』があり佐倉惣五郎の一代記が見れる。人形をつかった場面、場面に音声解説がついている。歌舞伎の場面と相似している。『宗吾霊宝殿』には惣五郎ゆかりのものと、様々な方の色紙などがある。確か、幸四郎時代の現白鷗さんと勘三郎さんの色紙もあったように思う。漫画家やイラストレーターの方の色紙の「義」の文字に対するアイデアがやはりユニークである。

 

  • 『宗吾霊堂』から甚兵衛渡しまで「義民ロード」というのがあり、その地図をダウンロードして検討を付けて行ったのだがどうも違うらしく戻って地元の方にきく。その地図では地元の人も説明できないと丁寧に教えてくれた。途中に『麻賀多神社』があり、そこまでももう一度地元の方に尋ねた。『麻賀多神社』は、なかなか趣のある木々に囲まれた古い神社で気に入ってしまった。ただ常時人がいるわけではなく、御朱印は日にちがきめられていた。空が真っ黒な雨雲発生で、途中で降られては大変とひきかえした。もし行くことがあったらバスで甚兵衛渡しまで行きもどるコースとしたい。道に迷った時、一日一便のバス停があった。一日一便は初めて見た。どんなひとがどんな使い方をするのかと友人と首をかしげてしまった。

 

  • 一階、二階のロビーのことを書いたのですから、三階も書かなくては。三階には、亡くなられた名優たちのお写真がありますが、初世齊入さんのお写真が以前よりかなり近くに感じられます。誰かが思い出せばその人は生きている人の中で生きかえります。でも憎らしかったあいつなんていうのは。う~ん、それもありでしょうかね。人間だもの。(相田みつをさん風締めになってしまった)

 

松竹座 十月歌舞伎(二代目齊入、三代目右團次襲名公演)

  • 大阪松竹座の十月歌舞伎は、市川右之助改め二代目市川齊入、市川右近改め三代目市川右團次・襲名披露と二代目市川右近初お目見えの舞台である。昨年(2017年)の1月に新橋演舞場で三代目右團次さんと二代目右近さんの襲名舞台があり、7月に歌舞伎座で二代目右之助さんが二代目齊入さんとなられた。そして今回、お二人の生まれ故郷大阪での襲名披露公演である。

 

  • またまた映画のことになるが、映画『殺陣師段平』の中で段平が自分は右團次のところにいたんだと自慢する。歌舞伎にいたんだではなく、右團次のところにいたと作者が書いたのであるから、右團次という役者さんは言ってわかるような方だったのだとは思ったがそのまま深く考えなかった。そして、右近さんが右團次を襲名されても、三代目猿之助(二代目猿翁)さんのところに部屋子として入られたかたが右團次さんを継がれるのは、お目出度いことであるでとまっていた。

 

  • 今回、松竹座のロビーに、初代右團次(初代齊入)さん、二代目右團次さん、二代目齊入さん、三代目右團次さんの4人のかたの紹介が掲げられていた。それを読んで、初代、二代目とケレン歌舞伎を得意とされていたことがわかった。そしてその芸を受け継いでいたのが三代目猿之助さんで、さらに猿之助さんのもとで修業されその芸を受け継いでいるのが現右團次さんである。

 

  • 右之助さんは、曾祖父の名・齊入の二代目代を受け継がれ、芸がつながっている市川右近さんによって右團次の名前が復活したのであるから、こういう繋がりかたもあるのかと素敵な風を感じる。二代目齊入さんは、三代目寿海さんの部屋子となられ、右之助を襲名し、寿海さん死後は十二代目團十郎さんに入門され現在に至っている。

 

  • 1962年の映画『殺陣師段平』を少し前にみていた。澤田正二郎は市川雷蔵さんで、雷蔵さんが寿海さんのところを離れ映画に移られたのが1954年で、1955年に右之助さんは寿海さんの部屋子となられている。映画での段平は鴈治郎さんである。右團次のところにいたという段平が橋の欄干でトンボをきるが、これは右團次さんのところにいたケレンの芸の一端として見せていたのであったかと気が付く。当時、鴈治郎さんや雷蔵さんの中では、右團次さんの名前は生きていたであろう。

 

  • 今回の襲名口上に藤十郎さんや鴈治郎さんが並ばれ、大阪生まれの齊入さんと右團次さんが大阪で襲名公演をされるというのが、なにか巡り巡って頑張ってこられたお二人にとってとても喜ばしく感じられるのである。そしてそれを支える海老蔵さんと猿之助さん。二代目齊入さん、三代目右團次さんも芸にさらに力が加わることであろう。とてもいい襲名公演である。

 

  • お芝居については、サクッとすかし編みで。『華果西遊記(かかさいゆうき)』は、孫悟空の活躍で蜘蛛の精の姉妹から三蔵法師を助け出すという痛快劇。耳から如意棒を出したり、分身を登場させたりと大活躍である。ひょうきんさは、猪八戒と沙悟浄が担当で、孫悟空は耳から如意棒を出したり、分身を登場させたりと大活躍である。孫悟空(右團次)と分身(右近)は、きんと雲に乗って(宙乗り)三蔵法師を助けに行き無事助けだす。歌舞伎の西遊記ならこれ!として気楽に楽しめる芝居となって定着。

 

  • 市川右近さんも無事挨拶ができ、大きな拍手のなか『口上』も目出度く終了。『神明恵和合取組(かみのめぎみわごうのとりくみ) め組の喧嘩』は、町方の鳶と力士の喧嘩という江戸の華同士の喧嘩を粋にいなせに見せてくれる。江戸の風景が舞台いっぱいのさく裂。鳶は町人で力士は武士のお抱えのためそれを鼻にかけている。鳶たちにはそれが気に食わない。こちらは庶民のために命を張っているのだの意識がある。品川島崎楼で一度は尾花屋女房おくら(齊入)の仲裁もあったが、芝居小屋でも小競り合いがあり、鳶の頭・め組辰五郎(海老蔵)はついに堪忍袋の緒が切れ、四ツ車大八(右團次)らとの喧嘩場面の大詰めとなる。

 

  • これでもかという喧嘩場面で、大勢の鳶が屋根の上に壁伝いに上から差し伸べる手を頼りに登っていくが、一人くらい失敗するのではと思ったが全員無事屋根に上った。つまらぬ期待をしてしまった。力士も力士らしく、鳶も格好良くと転んだりすべったりで、ひとりひとりの役者さんを確認するのは難しいが、ときにはぱっとわかることがある。おっ、頑張っていますね。これを仲裁するのが、喜三郎(鴈治郎)で、町方を取り締まる町奉行と相撲を取り締まる寺社奉行からたまわった法被を見せるのである。江戸の取り締まりの仕組みの一端がみえる。間に、鳶頭の女房・お仲(雀右衛門)と息子とのやりとりがあり、ことここにいたったら覚悟はできているの夫婦のみせどころと親子の情が展開される。

 

  • 玉屋清吉』は、新作歌舞伎舞踏で、海老蔵さんの新作のときはどうも捉えられないことがあり今回も。このように思っているのだろうなとは感じるのですが。江戸の花火師を主人公にしている。愛嬌のある花火師・玉屋清吉が登場。鳶頭・辰五郎の時、鋭利な中にもふっとやわらかさも欲しいとおもったのでこれはとおもったのである。下駄タップになって、そのあと舞台は映像の花火と三味線の音の掛け合い。この掛け合いは、面白かった。少し長い。出ました。花火の精ということなのでしょう。荒事の姿。うーん。個人的要望としましては気風の好い粋さの踊りで埋め尽くして欲しかった。

 

  •  雙生隅田川(ふたごすみだがわ)』は、新橋演舞場 壽新春大歌舞伎 ~ 三代目市川右團次、二代目市川右近襲名披露~ 昼の部 を参照されたい。書かれている中で今回役がかわられているのは、勘解由兵衛景逸(九團次)、局・長尾(齊入)、大江匡房(鴈治郎)である。齊入さんは女形のほうが向いておられるように思う。市川右近さんが成長されて、梅若丸が猿島惣太に折檻される場面で逃げまわる動きがスムーズになられ、最後の松若丸が掛け軸を持つ場面もしっかりしていて、これなら次の当主になれると思わせる。

 

  • 大きく変わるのは、「鯉つかみ」の前に、齊入さんがお家芸であることが紹介され「鯉つかみ」もその芸の歴史が明らかとなる。小布施主税役の米吉さんも小粒できりりとの感じで脇に並び控え頼もしかった。右團次さん本水の立ち廻りの「鯉つかみ」をしっかりつとめられる。伴藤内は新橋でも滝にうたれたであろうか。記憶が定かでない。今回は『黒塚』がないので隅田川での斑如御前の猿之助さんの踊る場面が見どころとなる。

 

  • 絵から鯉が飛び出し、人買いが出てきて、お金が出てきて、隅田川物がありなどで芝居にどんどん取り入れていくのが近松門左衛門さんさんらしいかななどともおもえた。流れもスムーズで、時間をかけてここまできたのであろう。全体に世代交代も感じられじわじわと役者さんが足跡を残しつつ移行していくのが感じられる。あまり早くに空白ができることなくじわじわ進むことを願う。

 

  • 新橋演舞場では夜の部で『源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき) 義賢最期』が上演された。「布引の滝」の名の滝が新神戸駅から五分のところにあるということで行った。ところがよく調べていなくて少し雨も降っていたので案内もよく見ず「雌滝」のみで引き返してしまった。その上に「鼓滝」「夫婦滝」「雄滝」とありこの四つの滝で「布引の滝」というのだそうである。見晴展望台までいくのがよさそうである。「雌滝」と反対方向に北野異人館に行ける案内石碑が1100メートルと記されそちらも興味ひかれた。駅から近いのでまたの機会である。

 

景勝・布引の滝碑藤原定家歌碑 (布引の滝のしらいとなつくれば 絶えずぞ人の山ぢたづぬる)

 

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藤原基家歌碑 (あしのやの砂子の山のみなかを のぼりて見れば布びきのたき)

 

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藤原良清歌碑 (音のみ聞きしはことの数ならで 名よりも高き布引の滝)

 

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雌滝取水堰堤(めだきしゅすいえんてい)

 

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雌滝

 

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北野異人館方面案内碑

 

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歌舞伎座9月『俊寛』『幽玄』

  • 俊寛』。今回は芥川龍之介さん、菊池寛さん、倉田百三さんの『俊寛』を読んでみた。鬼海ヶ島にひとり残った俊寛は生きのびていてそこへ都で仕えていた童の有王が尋ねてくる。芥川さんのほうは、俊寛は何んとか生きていくと有王をかえす。菊池さんのほうは、成経は島の娘と結婚するが島に置いて行ってしまいう。俊寛はといえば、たくましく魚を採り畑などを耕し、結婚して5人の子持ちとなっている。既に清盛の時代ではなくなっているが、都には未練がなく俊寛は死んだとしてくれと有王をかえす。倉田さんのは、有王は俊寛と共に島で暮らし、俊寛が亡くなるとその遺体とともに海に飛び込むのである。

 

  • 近松門左衛門さんは、迎えの使者として瀬尾太郎兼康を登場させている。俊寛、成経、康頼の人間関係は上手く行っている。成経に千鳥という恋人があらわれると俊寛は祝言の盃事をしてやる。千鳥も、康頼を兄、俊寛を父と想っていると慕う。そこへ、赦免状を持った船があらわれる。その使者である瀬尾がとにかく清盛の権威を全身で背負っているような人である。俊寛赦免の名がないのをざまあみろとばかりの悪態である。頭をかきむしって転がって悲嘆にくれる俊寛。

 

  • そこへ、丹左衛門尉基康が現れ、清盛の子・重盛の情けによって備前国・岡山まで帰参を赦すとの赦免状をみせる。皆喜ぶのである。どうして基康はすぐ自分の持参している赦免状をみせないのか疑問であった。これは、平家のなかにあっても瀬尾のような清盛しか頭にない人と重盛ならこう裁くのだがという人もいたとの権力構成を表しているようにおもえ、とにかくうるさい瀬尾に言いたいだけ言わせないとかえって面倒だとの思惑のようにおもえる。

 

  • ところがここで一つ問題が生じる。千鳥である。成経も千鳥を一心同体と想っている。しかし瀬尾は乗せるわけにはいかないという。三人だけであると。成経は残るといい、それなら皆も残るという。そこで瀬尾のさらなる言葉が飛ぶ。俊寛の妻・東屋は清盛に従わなかったために首をはねられたとつげる。清盛に従わない者は許されないという平家の世を支えているのが瀬尾のような人間なのである。近松門左衛門さんは、台詞少なくとも時代をきちんと表現している。呆然とする俊寛をはじめ三人は船に押し込められてしまう。

 

  • 残された千鳥のクドキである。島の娘である。時代的に言えば主人公になりえない存在であるが、ここも近松さんはきちんと浮き彫りにして千鳥の心情を押し出してやる。その心情を妻の死と重ねたのが俊寛である。帰ったところで自分に何があるのだ何にもないのである。父と慕ってくれたこの娘を幸せにしてやろう。その想いが瀬尾を殺す原動力となる。観客もそうこなくちゃである。基康は、君がごちゃごちゃいうからこんなことになってしまったんだから、僕は見物するよである。しかし、それを成し得て一人残って船を見送った後に俊寛に見えてくるのは・・・

 

  • 心中物にしろ、登場人物を取り巻く世界というものを近松さんはきちんと構築している。無我夢中で自分の道を見つけ出すのであるが、気がついてみればのっぴきならないところにはまっている。そういう道筋のつけかたは観ている者は自然に運ばれていくが、客観的にながめると用意周到に仕組まれているのである。心理劇だけにはしないしたたかさがある。その用意周到さを感じさせないで、それぞれの役にはまって隙間なく埋めてくれたのが下記の配役の役者さんたちである。
  • 俊寛僧都(吉右衛門)、海女・千鳥(雀右衛門)、丹波少将成経(菊之助)、平判官康頼(錦之助)、瀬尾太郎兼康(又五郎)、丹左衛門尉基康(歌六)

 

  • 幽玄』。他の劇場のときとかなり変えられていた。歌舞伎座ということもあってか、歌舞伎役者さんが多数登場し、「羽衣」「道成寺」「石橋」を、「羽衣」「石橋」「道成寺」の順番にして、「道成寺」を夜としたのである。

 

  • 「羽衣」が全く明るい舞台としていて場内がザワザワしているところに奏者さんが現れ、これは前の薄暗い中から現れたほうが神秘的でした。伯竜が三保の松原で仲間と釣りに来て、木に掛けてある羽衣を見つけるのが朝だからでしょうか。釣り仲間がおおぜい出てきたのには驚きました。歌昇さんを中心に11名です。動きは一糸乱れずで綺麗でした。衣裳が上はブルー系で下は白の袴。動きを見ていて、これを波としても生かして欲しかったとおもいました。ひろーい海。役者さんも今回は貴重な経験をされた。(喜猿、千次郎、玉雪、鶴松、種太郎、萬太郎、弘太郎、吉太朗、猿柴、蔦之助)

 

  • 「石橋」は、歌昇さん、萬太郎さん、種之助さん、弘太郎さん、鶴松さんの五人が獅子の精となってあばれます。能の世界、打楽器、歌舞伎役者さんの身体的表現を合わせるとどういう表現ができるかという試みのようでもあり、これが一番わかりやすかったです。打楽器の力強さと一体にになっていた。

 

  • 「道成寺」の花子の玉三郎さんの鞨鼓(かっこ)の音が太鼓の音に負けてしまい全然聞こえなくて、玉三郎さんが動き回って指揮をとっているような感じで残念であった。蛇体が花四天の方達が20人以上であろうが太鼓に合わせて動きこの息の合わせ方はみごとであった。それに対する僧侶もでて、これだけの人数を動かす構成の緻密さにおもいいたる。かなりの実験的舞台であった。秀山祭、自分が初代だと思って若い役者さんは、切磋琢磨してほしいですね。

 

歌舞伎座9月『河内山』『松寿操り三番叟』

  • 河内山』。<上州屋質見世の場>からである。河内山宗俊の吉右衛門さんがいつものように、怪しい棒切れを持参して、これは由緒正しい木刀だからお金を貸せとせまる。いつも偽物を大仰に言ってはお金をせびられるのであろう。番頭はことわる。お店をおもう忠実な番頭である。ところが、宗俊は番頭など初めから相手になどしていなくて軽くあしらう相手でしかない。そこら辺が宗俊の軽口の様子からよくわかる。

 

  • 取込み中らしいが、宗俊はお構いなしで奥へ行こうとする。後家の女将・おまきが出て来てその取込みの説明をする。思案にくれて、宗俊に頼まなければならない意思を腹におさめて魁春さんはしっかりと説明する。娘の浪路が奉公先の松江公に妾になれと閉じ込められているというのである。商家ではどうすることもできない。そこをイチかバチかで宗俊なら何か考えだしてくれるかもと期待するのである。宗俊は引き受けて、200両を要求する。手付として100両。その100両は和泉屋清兵衛の歌六さんが差し出す。女将と清兵衛に頼まれて宗俊は引き受けたのであるが、ことによると自分の命と引き換えの大仕事と覚悟を決める。上州屋の場があるといかに危ない仕事であるかがわかる。

 

  • 松江邸に行く時はすでに覚悟のことゆえ、こちらの策略にいかに相手を乗せるかであり、堂々と相手が怖れるのを確かめつつの演技と口である。松江邸では、腰元までが浪路の苦境を心配している。皆ピリピリしている。特に主人の松江侯は面白くない。主人をいさめるものと、主人をたきつけるものとに分かれている。そんなところへ上野寛永寺からの使僧がやってくるのである。何事か。どんな些細な事でも外に知られてはならないと戦々恐々の家臣たちである。そこも宗俊のねらいどころである。

 

  • 取り繕うとする弱みに付け入ろうとの魂胆でもある。しかしそんなそぶりは見せない。僧として人望を感じさせる吉右衛門さんである。家来たちも何とかしなければの心もちであるが、主人が姿を出さない・・・。そこへ不快という松江侯があらわれる。家臣に対する時とは違う表向きの顔の幸四郎さんである。宗俊はその表の顔を体よくはがしていく。相手の心理を読みつつ、使僧の役目を果たさなければ私も困るのですよ、まあお互い上手くやりましょうよの方向にもっていく。なんとも裏に通じている方であるから言い回しが上手いのである。松江侯は深入りしないように申し出を承諾。

 

  • 家臣たちも、お家大事であるからお金で済むならと、要求にこたえる。事なきようにと取り仕切る家老の又五郎さんと数馬の歌昇さん。それに従う種之助さんに隼人さん。この芝居のときは、そのほかの従者の動きも失敗しないかと気にかかるのである。家臣の動きは松江家の格式を感じさせるところであり、そこがしっかりしていないと河内山の大きさも出せない。そして玄関先で北村大膳の吉之丞さんに見破られてがらっと態度をかえる河内山。しまった!と思いつつもからっと明るくその場の空気を変える。松江侯も出て来て厄払いである。そこに持って行けた河内山の笑いは小気味よい自画自賛でもある。

 

  • 黙阿弥さん、松江邸の場は幾つかの展開を考えていたのではないだろうか。悪人であるのに観る者がやったー!と溜飲を下げる落ちの腕前は作者も役者もさすがである。河竹黙阿弥住居跡が浅草の仲見世のそばにあり、思いつつ浅草に行くと訪ねるのを忘れてしまう。先頃、突然思いもかけない時にその石碑に遭遇した。肝心なものを忘れてはいませんかってんだいと言われたようであった。

 

  • 黙阿弥さんは浅草から本所へ移るが、司馬遼太郎さんは『街道をゆく』の「本所深川散歩」で、今の墨田区亀沢二丁目だが、私にはさがしあてられなかったと書いている。今は「河竹黙阿弥終焉の地」としての表示がある。

 

  • 松寿操り三番叟』。理屈ぬきに楽しかった。国立小劇場の『音の会』で『寿式三番叟』を観て、「三番叟」のテープなかったかなとさがしたら、「操り三番叟」が出てきた。9月の演目にもあるのでと聴いていたので気分は上昇。後見の吉之丞さんが箱から操り人形の三番叟を出してくる。出されているように見せかけるのは三番叟の幸四郎さんである。吉之丞さんの所作台を踏む音も気に入ってしまう。テープのなかでも聞こえていたがあの通りなのであろうか。聞き直してみたら足で調子をとるがなかなか難しい。歌舞伎ギャラリーなどで、映像を映して、足を下すとあのような好い音をだしてくれる装置を考え出してくれないであろうか。足を踏み鳴らすところをしらせてくれて。気分爽快とおもう。上手く出来ればの話しであるが。

 

  • 幸四郎さんは、幸四郎という名跡を継がれて、変声期のような変わり目を通過中のような気がする。役者さんとして大きくなりつつあり、人を楽しませるということも大事にされているので、それを同時にと思われているような気がする。襲名という立場に委縮されていないのが頼もしい。

 

歌舞伎座9月『金閣寺』『鬼揃紅葉狩』

  • 御存知、初代中村吉右衛門さんの俳名をとっての「秀山祭」である。一代で中村吉右衛門という名前を世に残されたのであるから、凄いことである。その「秀山祭」が十一回目となるのであるから二代目吉右衛門さんの「秀山祭」にかける意気込みもうかがい知ることができる。役者さんも初役などで大活躍である。

 

  • 金閣寺』。三姫のひとつ雪姫を児太郎さんが初挑戦される。将軍・足利義輝の母・慶寿院尼を福助さんが舞台復帰での出演となり児太郎さんにとっても、嬉しさと緊張の舞台となりこの先忘れられない舞台の一つとなるでしょう。観客も児太郎さんが、雪姫を演じるたびにこの舞台のことを思い描くことになりそうである。

 

  • 慶寿院尼を人質にとり、雪姫に横恋慕するのが松永大膳の松緑さんでこれまた初役である。雪姫の夫・絵師・狩野之介直信が幸四郎さんで、演じられたような気がしていたが初役だそうである小田春永(信長)を見限って大膳の味方になる此下東吉(秀吉)が梅玉さんで胸を貸すかたちである。
  • 面白かったです。児太郎さんの雪姫はお姫さまの可愛らしさというより理知的な雪姫でした。自分がどう行動したらよいかを状況に合わせて判断していく。捕えられている夫・直信の命を助けるため大膳の要求を受けいれることにし、大膳に金閣の天井に龍の絵をかけといわれると手本がないと描けないと拒否。大膳が、ではと所持していた刀を抜くと滝に龍が映る。雪姫はそれが父を殺して奪われた名刀とわかり、父殺しが大膳であることを見抜く。そのことを、殺される夫に知らせるために縛られた縄をほどく方法として、祖父・雪舟が自分の涙で鼠に絵を描いた故事を思い出し、桜の花びらを集めつま先で鼠の絵を描き、絵の鼠が本物の白鼠に変身。鼠は縄を食いちぎり、雪姫は夫のもとに刀を持ってかけ出していく。途中ふっと刀に自分の顔を映して髪をなでつける。大膳の悪に翻弄されつつもひとつひとつ自分の意志で決めていく感じが爽やかである。

 

  • 夫・直信の幸四郎さんも縛られて引き出される出に憂いと品があり、雪姫が夫のために、自分を犠牲にしてもと想うのがうなずける。短い出の人物像の力量がでた。大膳は悪の碁石を沢山持っているような人物で、松緑さん手の内を見せるような見せないようなところがある。ゆうゆうと碁をうち、雪姫に自分の要求を次々と押し付け、さらに此下東吉にも難題を提示しその知恵者ぶりを確かめる。名刀の力で龍の手本を見せ、それによって自分の所業が雪姫に露見しようとそんなことではびくともしないでせせら笑うごとき底なしの悪である。

 

  • その大膳に味方するとみせかけて雪姫を助け、慶寿院尼を救いだす、実は真柴筑前守久吉のあざやかな梅玉さん。慶寿院尼の福助さんは将軍の母という気品と人質でもおそれない凛としていながら、穏やかなセリフでさすがお見事。兄にぴったり寄り添う大膳の弟の坂東亀蔵さん。味方とおもわせて春永側の彌十郎さん。此下家の家臣の橋之助さん、男寅さん、福之助さん、玉太郎さんもきっちりと主人に仕えていた。

 

  • 鬼揃紅葉狩(おにぞろいもみじがり)』。鬼女が美しい姫君に化けて登場し貴人をだまして襲うという解りやすい内容である。ところが姫の侍女たちも鬼女となり、あれっ!侍女たちまでも変身するのとおもった。鬼揃いとある。これは、中村吉右衛門劇団が1960年(昭和35年)に初演されたのだそうである。『紅葉狩』は黙阿弥作とされるが、萩原雪夫作となっている。

 

  • 平惟茂(これもち)が戸隠に紅葉狩りにくる。平家が東国で紅葉狩りとおもったら、この方信濃守で、関東で武勇として知られていたのである。さすが平家の勇者・惟茂の錦之助さん美しくさっそうと登場。従者は隼人さんと廣太郎さん。そこへ更科の前の幸四郎さんがあらわれる。戸隠山の鬼女である。初々しい姫かと思ったら、お化粧のしかたであろう。かなり意志的に罠にはめるぞうの姫の印象である。侍女は、高麗蔵さん、米吉さん、児太郎さん、宗之助さん。宗之介さんがこのところ躍進している。

 

  • 惟茂と従者をお酒と侍女と更科の前の舞で酔わせて眠らそうとする。更科の前の二枚扇もさらさらと、途中鬼女を表す表情も出の印象からすると強く感ぜず、様子をうかがうと予定どおりと去っていく。眠る惟茂たちを起こしに登場するのが、男山八幡の末社の東蔵さんと玉太郎さん。油断するなと舞いで知らせる。山神の印象が強いので少し物足りない。

 

  • そして現れたのが戸隠の鬼女たちである。侍女も鬼女となっているので、立ち回りの組み合わせも派手である。鬼女になる初役の役者さんもいるであろうなと思いつつながめる。最後は、男山八幡の神刀の力によって鬼女は惟茂に退治されるのである。女形の侍女までもが最後まで息を抜けない鬼揃いの形となった。

 

第20回『音の会』(国立小劇場)

  • かなり日にちが過ぎてしまいましたが。『音の会』というのは、国立劇場での歌舞伎音楽の研修修了者が成果を発表する会である。歌舞伎俳優養成研修者の終了者の発表は『稚魚の会』でこちらは観た事があるが、『音の会』は初めてである。竹本、鳴物、長唄の研修修了者さんたちである。『稚魚の会』と同じように若手の先輩たちや、熟練された先輩達も助演ということで手をかしてくれる。そして、歌舞伎の役者さんたちも参加しての舞台もあり、聴いたり観たりするほうもめったに主では観れない役者さんたちの演技を楽しませてもらった。

 

  • いつもながらの解説と詞章ありのパンフつきなのがこれまた嬉しい。鳴物・義太夫『寿式三番叟』。本来は鳴物・義太夫の方々を紹介しなければならないのであるが、人数が多いので演者紹介とします。詳しくは「伝統歌舞伎保存会」を検索してください。翁・中村吉兵衛さん、千歳・市川蔦之助さん、三番叟・市川新十郎さんです。いつもは脇を守っておられる役者さんですが、さすが身体がしっかりしていて、どうどうとされていて驚きました。格式高い三番叟でした。鳴物も義太夫もしっかりしていて浄瑠璃のかたりは硬いかなと思わせられましたが、緊張感に負けることなくこなされていました。

 

  • 解説によりますと、人形浄瑠璃の三番叟は、二世豊沢団平さんが従来のものに増補作曲したものを主に上演していて、それを歌舞伎に移したものを踊ったのが二代目猿之助さんだそうである。二世豊沢団平さんは、『浪花女』で映画や芝居にも描かれていて、新派の若手でのアトリエ新派公演で観たことがある。

 

  • 長唄『矢の音』、長唄『俄獅子』は演者無しなので、詞章をながめつつ聴かせてもらったが、若い方ながらの綺麗な声であるが、助演者のかたの唄になると、何かやはり違うのである。長く声を使ってきたかたの粘りであったり、軽さであったり、重厚さがすっーと挿入されたりと、その差が味わえてなかなか経験できない体験でもありました。『矢の音』などは、メチャクチャ面白い詞章の連続である。今度『矢の音』を観る時は、もっと長唄と演者とが一体化して楽しめるとおもう。おせち料理や、七福神の棚卸は耳にしていたが、兄の十郎が夢に現れて、そりゃ大変だ、飛んでいくぞとの勢いが、大根を積んだ馬にまたがるという場面が浮かび、改めてアニメの世界かと思ってしまった。歌舞伎十八番といわれるとずしっとくるが、結構裏をかいているようでおもしろい。

 

  • 俄獅子』は江戸吉原の俄(にわか)を題材にしているのだそうで、吉原俄というのが興味ひかれる。「俄」というのは即興劇の意もあり、各地にあって大衆演劇の原点のような気がしているのである。作曲した四世杵屋六三郎さんは、吉原のにぎわいが好きで、引手茶屋の二階で本曲を作ったと伝えられている。現代では絶対に作れない曲で、想像の世界だけではなかなかつかみづらい唄である。三味線の音によって、その世界を味わった気分にさせてくれるところがこの長唄のよさでもある。

 

  • 歌舞伎『傾城反魂香』は、浮世又平・中村又之助さん、女房お徳・中村京蔵さんで、お弟子さんに京屋と播磨屋の芸が伝わっているのだと確信した。そばでずーっとみているのであるから当たり前のことではあるが、話しの中とかでは聞くことはあっても、その身体で実際に観る機会がないので、貴重な現場をみせてもらった。おそらくこの場面のこの姿はいいなあとか、そう動くのかとか観られていたことであろう。家の芸というものは、こうして伝わっていくものでもあるのかと納得した。こちらも観るのに力が入ってしまった。近頃の脇の役者さんたちは、上手くなっている。百姓の役者さんたちもそのやり取りの間がうまく、小劇場だったのでじっくりとながめさせてもらった。しっかりとした芝居になりました。(雅楽之助・京純、修理之助・吉二郎、北の方・竹蝶、光信・宇十郎、百姓・吉兵衛、音之助、蝶三郎、仲助、吉助)

 

  • 歌舞伎演技の方が、音よりも上手、下手がわかりやすい。素人にはその楽器などの演奏の微妙さはとらえきれない。その微妙さと闘いつつ修了生のかたはこれから長い道のりを歩かれるわけである。息ながく頑張ってほしいものです。でも面白かったです。素浄瑠璃と同じで、それぞれの声と音を堪能するのもいいものだと改めて思わせてくれました。今回は『稚魚の会』はスルーしてしまいました。

 

録画歌舞伎『梅初春五十三驛』『四天王楓江戸粧』

  • 鶴屋南北さんの作品は、表だけではなく裏も書いてもいるので、新劇の方たちも挑戦されたりする。脚本の鶴屋南北賞などもあり歌舞伎のみならず視線の熱い作者さんである。鶴屋南北といえば四代目をいうが、五代目は四代目のお孫さんにあたるひとで、『盟三五大切』にも出てきた、深川の二軒茶屋の息子に生まれているのである。役者から狂言作者に転向し、四代目の作品の改訂や補作をしたようである。2007年国立劇場開場40周年の初春公演に『梅初春五十三驛(うめのはるごじゅうさんつぎ)』を166年ぶりに上演しているが、五代目鶴屋南北(合作)作である。四代目鶴屋南北さんの『獨道中五十三驛』をもとにしている。

 

  • 四代目鶴屋南北さんの『獨道中五十三驛』は最近では、2016年の地方公演でも、猿之助さんと巳之助さんがダブルキャストで上演されている。『獨道中五十三驛』は南北さんらしく、十返舎一九さんの『東海道中膝栗毛』にお家騒動を加えて『獨道中五十三驛』としたのである。岡崎宿で化け猫がでてくるところから通称「岡崎の化け猫」と言われたりもする。観た人は、行灯に顔を突っ込み魚油をぺろぺろ舐める猫の顔が映りだされたり、化け猫の妖術によって娘がくるくる回されたり、飛んだり、転がったりとする場面が思い出されるであろう。

 

  • 梅初春五十三驛』のほうもその場面はもちろんある。さらにパロディ化されていて、八百屋お七を思わせる木戸開けの櫓太鼓の打ち鳴らしもある。『盟三五大切』なども、「忠臣蔵」という誰もが知っていた事実を念頭にいれそこに集約される観客の意識を違うほうから持って行くという発想は、さすが大南北(おおなんぼく)である。『梅初春五十三驛』の映像は、生中継で時間が長く、録画の設定時間を間違えたらしく途中で切れてしまった。山川静夫さんが案内と解説をされておられ今観ても参考になる。芝居の中に田舎芝居の劇中劇があって、そこは、日によって変わるらしくネタばれなしということで公開されなかった。劇場にてということである。

 

  • 以前はお正月にこうした一つの劇場での生中継があったが、今は各劇場からのダイジェスト版である。ところが、初春ということもあって、録画しつつこれを観る時間がなく、実際に劇場で観て映像はそのままということが多い。時間が経過しているから芝居のことは忘れていることが多い。今回も、芝居の内容よりも10年前の役者さんの演技に目がいく。特にもう観ることのできない十代目三津五郎さんの台詞や体の動かし方などに目を凝らす。幕間の田之助さんのお話で脇役のかたで楽屋にもどって身体を振ると衣裳がバラバラっと解けて、そのくらいゆったりと着られていたというのも面白かった。花柳章太郎さんの着崩しかたを写真で研究される役者さんもおられ、芝居をしてもそれ以上は着崩れない着方は難しいという話も聞いたことがある。

 

  • 若い役者さんの10年前も面白い。お化粧のしかたや動きなどこうであったのかとその変化がわかる。今の若い役者さんでも、自分より年上の役などで、出てきて、誰?と思わせるかたもいる。そのあとの演技までは続かないが、研究されたなというのは分かる。芝居のほうは初日であるから、数日の稽古である。今までの蓄積からすっとー動く役者さんの身体はお見事である。出ておられたのであろうが、現彦三郎さん、坂東亀蔵さん、萬太郎さんなどが録画切れで観られなかったのが残念である。
  • その他の出演/菊五郎、時蔵、菊之助、團蔵、権十郎、片岡亀蔵、秀調、松也、梅枝、松緑 、八代目彦三郎(楽善) etc

 

  • 四天王楓江戸粧(してんのうもみじのえどぐま)』は、国立劇場開場30周年の公演である。1996年、20年前ということになる。この時に出ている役者さんで、変ったなあと思わせる方は、亀治郎時代の四代目猿之助さんと、弘太郎さん。現在のお名前で書きますが、猿之助さん21歳で、花園姫を演じられていてこの姫が今のような活躍をするとは想像できない姫君ぶりです。歌舞伎の姫君はとんでもない行動にでますがその血を受け継いでいるのかもしれません。弘太郎さんは、13歳で懐仁親王で身分を隠している時は禿で可愛らしく、2014年の明治座では、坂田公時。

 

  • 段四郎さんの碓井定光は「しばら~く」と荒事で花道から登場しますが、段四郎さんの荒事はそこはかとない鷹揚さがある。猿翁さんとは太陽と月のような関係でおもだか屋をここまでにされている。国立から18年後の明治座での、役も交代を紹介する。辰夜叉御前、蜘蛛の精、平井保輔、良門(猿翁→猿之助)、小女郎狐(笑三郎→猿之助)、左大臣高明(歌六→彦三郎)、石蜘法印(猿弥→猿三郎)、花園姫(猿之助→笑野)、坂田公時(右團次→弘太郎)、和泉式部(田之助→笑三郎)、七綾姫(田之助→尾上右近)、碓井定光、渡辺綱、(段四郎→右團次)、卜部季武(段四郎→猿弥)、保輔の母(歌六→秀太郎)。変わらないのが、さぼてん婆の竹三郎さんと、和泉式部の妹・橋立の笑也さんと、頼光の門之助さんです。さらに国立では登場しなかった卜部季武の弟として團子さんが登場し活躍する。かなりの世代交代となっている。

 

  • 国立劇場のほうの録画『四天王楓江戸粧』から一通り整理しておく。昼夜通しなので7時間ほどの上演時間である。そのため映像は「戻り橋の場」までダイジェストでみせて、そのあと3時間ほどの映像となっている。天下を狙う左大臣高明は、懐仁親王(やすひとしんのう)を失脚させようと、死んでいる姉の辰夜叉御前を石蜘法印の術で生き返らせ、蜘蛛の魂をやどらせる。辰夜叉は夫を源氏に討たれ、自分も自害したのである。追ってきた渡辺綱を翻弄し、宙乗りで姿を消す。『将門』の滝夜叉をおもわせる。高明は自分が即位に必要な刀を、名刀・小狐丸を手本にして作れと刀工(実は大宅光国)に命じる。これは『小鍛冶』に通じそうである。

 

  • 坂田公時(金時)は、東下りの頼光から不思議な力をもった二本の矢を探すように命じられれ、母の住む足柄山にむかう。母は実は山姥であった。ここは『山姥』の挿入である。母は術を使い二本の矢を公時に渡すがその術は自分の死を意味していた。

 

  • 辰夜叉は平井保昌に紛失の宝剣を見つけることを命じ、見つからなければ頼光の首を差し出せという。保昌と保輔の母は、弟の保輔の首を頼光の代わりにすることを決める。保輔は刃ものを見ると体が固まってしまう奇病をもっている。そのため、兄の保昌は妻の和泉式部に梅の一枝をもたせ、その切り口で死ぬようにと暗示する。その奇病は暴れ者の保輔を封じる手立てをしてあったがそれを解いてやり、保輔は自刃する。保輔への想い人で和泉式部の妹・橋立は嘆き悲しむ。刃ものをみると気が狂う『蘭平乱心』と類似。

 

  • ここでだんまりが入る。名刀子狐丸が誰の手に渡るかである。だんまりは役柄を表すとともに次の話しの展開に便利な場面でもある。名刀小狐丸は卜部季武が手に入れ、さらに良門と七綾姫が赤旗を首にかけ垂らし、この二人は平氏であることがわかる。ただ説明なしで観ているだけでは誰が誰とわからないこともある。今回も役の字幕紹介があってそうなのだとわかったのである。(大宅光国、相馬良門、卜部季武、七綾姫、小女郎狐)

 

  • 和泉式部は、頼光の身代わりの保輔の首を辰夜叉の前に差しだす。首実験となるが、橋立と頼光の許嫁・花園姫が首との哀しみの対面となる。ここは『熊谷陣屋』の相模と藤の方を思い起こす。窮地に陥ったところに現れるのが碓井定光で『暫』の登場である。碓井定光によって辰夜叉は骸骨となり消え、高明も退散する。辰夜叉に宿っていた大蜘蛛が現れ、頼光、公時、定光が退治する。ここは『土蜘蛛』。

 

  • 「紅葉ヶ茶屋の場」は今までの流れから登場人物も変わり、四天王の一人、卜部季武と将門の息子の良門とその妹の七綾姫と小女郎狐の話しとなる。それも町人などにやつしての登場となる。季武は茨木五郎、その居候に良門の伝七、七綾姫は五郎の女房・おまさ、小女郎狐は後からの押しかけ女房・おつなとなっての、良門、秀武、七綾姫、小女郎狐が中心である。季武は、七綾姫と小女郎狐を女房とする。七綾姫と小女郎狐は酔いつぶれて寝てしまう。夢の中にそれぞれの父が現れ、ふたりの正体がわかり、季武はふたりを離縁する。ここで七綾姫は兄・良門と合う事が出来、赤旗を渡す。

 

  • 小女郎狐は季武が持っている名刀小狐丸を手に入れたかったのである。「狐忠信」が浮かぶ。良門は、雪の中に隠してあった名刀小狐丸を見つけ出し、宙乗りで下りてきた小女郎狐に花道の梯子の上から手渡す。感謝する小女郎狐。このあと、平家の良門と源氏の季武の争いとなるが、七綾姫と小女郎狐が間に入り、大団円となって終わる。主なる登場人物でのあらすじである。

 

  • もっと、他の歌舞伎作品を思わせるところがあるのかもしれない。それにしても南北さん散りばめてくれました。実際にはもっと長い作品だったのでしょうから、まだまだ何かが隠れているのかもしれません。二本の矢がどう使われたのかもダイジェストの部分だったのでわかりません。おそらく7時間にやっと短縮したのでしょう。さらに短縮したのが明治座での公演です。これまた思い切って短縮したものだとおもいます。明治座の『四天王楓江戸粧の感想はこちらで参考まで。明治座 11月 『四天王楓江戸粧』

 

歌舞伎座8月『盟三五大切』

  • 通し狂言 盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』 鶴屋南北さんの作品である。南北さんは、もとある作品を書き換えているものが多いが『盟三五大切』も、先輩戯作者並木五瓶さんの『五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)』を借りて、そこに「忠臣蔵」を混ぜ、さらに「四谷怪談」の民谷伊右衛門が住んでいたという長屋の一室も出てくる。「忠臣蔵」も出てくるので登場人物に<実は>という展開がある。

 

  • 『五大力恋緘』は観た事があるであろうかと脚本を読んでみたら観ていないようだ。「五大力」と三味線の裏皮に書いた芸者小万の源五兵衛に対する心の誓い。それがやんごとないことにから三五兵衛に「三五大切」と「三」と「七」が加え書き換えられ、源五兵衛は裏切られた思い小万斬るのである。これに、「忠臣蔵」の敵討ちが重なっているのが『盟三五大切』である。登場人物の名前が二つの作品に重なっているひともいる。

 

  • 浪人の源五兵衛の幸四郎さんは、芸者・小万の七之助さんに惚れている。ところが小万には、三五郎という夫がいる。三五郎は獅童さんである。大川が流れ込む佃沖で、小万が乗り三五郎がこぐ舟と、小万を身請けしようとする伴右衛門(片岡亀蔵)が乗り伊之助(吉之丞)のこぐ舟が出会う。そして、源五兵衛が乗る尾形船が近づき、小万は源五兵衛に愛想をふりまく。

 

  • 源五兵衛は小万にお金をつぎこんでいて家来の八右衛門(橋之助)は心配している。家財道具のなくなった住まいに小万が、芸者・菊野(米吉)、幸八(宗之介)、虎蔵(廣太郎)らを連れてやってくる。そして小万が腕に「五大力」と彫って源五兵衛に心中立てしたと告げる。そこへ源五兵衛の伯父・(錦吾)が百両のお金を持参し、遊び過ぎるなとたしなめて帰る。小万たちは、八右衛門に追い返される。

 

  • 小万から源五兵衛がお金を持っていると聞いた三五郎はお金目当てで、小万の誘いの手紙をもって迎えに来る。幸四郎さんは、好いた小万の腕に「五大力」と彫られるなど恋に気を奪われた男そのものである。獅童さんと七之助さんは、お金のことしかない。深川の二軒茶屋では、伴右衛門、伊之助、長八(男女蔵)などがいて、伴右衛門の小万の身請け話で、小万はこばんでいる。源五兵衛は心を決め、伯父からの百両をだす。ここへ伯父が現れ源五兵衛を勘当する。源五兵衛が小万を連れて帰ろうとすると、三五郎が小万はおれの女房で、全て金を巻き上げるためのウソだという。これで恨まなければウソである。

 

  • 伴右衛門、伊之助、長八は三五郎の仲間であった。三五郎は、小万の腕の「五大力」を「三五大切」に書き換える。その夜、源五兵衛が現れ次々と斬っていく。しかし、三五郎と小万は逃げることができた。源五兵衛は実は、不破数右衛門で、元塩谷判官の家臣であったが、御用金紛失の咎(とが)で浪人の身。伯父は富森助右衛門で、源五兵衛に仇討に参加したいと頼まれ百両用意したのである。仇討より小万にかけたのである。こうなれば、小万と三五郎を殺すだけである。このあたりから南北さんらしい展開となってくる。南北だぞと期待がたかまる。

 

  • 四谷の長屋に八右衛門が越してきますが、幽霊がでるので引っ越すことにする。大家・弥助の中車さんは、ここには伊右衛門がすんでいたのでお岩さんの幽霊がでるのだという。一日でもひと月分はいただくという。八右衛門は番屋に休ませてもらう。そこへ新しく引っ越してきたのが、三五郎、小万。里親(歌女之丞)が赤ん坊を抱いている。二人には子供もできたのである。驚いたことに大家は小万の兄であった。さらに三五郎の父・了心(松之助)が通りかかり、三五郎は百両を父に渡す。百両は助右衛門→源五兵衛→三五郎→了心へと渡りそこからどこへ。了心の元主人である不破数右衛門へである。

 

  • 源五兵衛が三五郎と小万の前に現れる。新たな付き合いをしたいとお酒を差し出す。役人が五人殺しの犯人として捕らえに来るが、八右衛門がじぶんがやったとして身代わりとなる。大家の弥助がしきりに樽代という。何かと思ったら入居時の礼金であった。その為ニセ幽霊で樽代と二重の家賃を儲けようとしていたのである。妹さえもだまそうとする欲張りであったがばれて酒を飲んだところこれが毒酒であった。源五兵衛が許すわけがないのである。三五郎は樽の中に隠され、父・了心の愛染院に運ばれる。

 

  • 源五兵衛は、二人の様子を見に来る。怖れる小万。小万の腕をみると「三五大切」と書き換えられていた。子供だけはと頼む小万の手に刀を握らせ子供を殺してしまう。そして小万も。人とは思えない状態の源五兵衛の幸四郎さんである。御用金紛失も弥助であった。その罪をきせられそれでも主君の仇討に参加しようとしていたのである。自分が小万に迷ったためではあるが、それにだまされるとは。

 

  • 源五兵衛は小万の首を持って隠れ家の愛染院にもどる。了心は、三五郎が手に入れた高野家の絵図面と百両を渡す。不破数右衛門は源五兵衛であったのを、樽の中で知った三五郎は、出刃で腹を突いていた。全ての罪を背負って。源五兵衛・不破数右衛門は目出度く討ち入りに参加することができたのである。目出度くかどうかは死んだ人にとってはどうなのであろうか。目出度くにしないと浮かばれないということである。もっと早くに事実がわかっていれば、死ななくて済んだかもしれない。そして「色に耽ったばっかりに」にも通じるかな。幸四郎さんを中心にそこのあたりが浮き彫りになった。

 

  • 郡司正勝著『鶴屋南北』に面白いことが書かれていた。近松門左衛門が其角に送った書簡を南北さんが所有していたのである。赤穂浪士事件の評判を、堺町の勘三郎座で曽我の仇討の中に組んだ知らせを、近松が其角に送った手紙であった。南北宅の床の間に掛物として掛かっていたのだそうだある。驚きの組み合わせである。

 

歌舞伎座8月『東海道中膝栗毛』『雨乞其角』

  • 東海道中膝栗毛』 再伊勢参? YJKT! (またいくの こりないめんめん) 筋はなるべくさらにしてどう観せてくれるのかという愉しみかたをすることが多いのだが、今回は前もって読んでおいて、ここではこの役者さんをとチェックしておいた。筋を読みつつ笑ってしまった。そう来るのかと。筋を知っていても実際の芝居は立体的になるわけで、もっと笑ってしまった。

 

  • 呼び込みの一つは、猿之助さん、獅童さん、七之助さん、中車さんの早替わりである。早変わりも多すぎると何だったのということになるだけで逆効果のときもある。4人もの役者さんが早変わりである。ここを上手く考えた。獅童さん、七之助さん、中車さんの三人をセットにして6役受け持たせたのである。昨年の弥次喜多のパロディあり、歌舞伎の演目のパロディあり、老若男女あり、将軍・武士・商人・庶民ありで、短時間にこの役になって観せなければならないのであるから役者さんにとては忙しいのと同時に難易度である。観るほうは、意表をつかれつつその役に身体が表現されているかをチェックしつつ笑うのである。

 

  • 猿之助さんの喜多八は亡くなっているのであるから大きな遺影と幽霊だけではちょっとということなのであろう。赤尾太夫の二役である。弥次郎兵衛の幸四郎さんが喜多八の死をあまりにも悲しむので、忘れさせてあげるには、美しい太夫が一番との設定である。それも『籠釣瓶花街酔醒』の八ツ橋と佐野次郎左衛門との出会いのパロディである。場所は神奈川宿。弥次さんを元気づけようと、賢い二人の梵太郎の染五郎さんと政之助の團子さんがお伊勢参りにさそったのである。五代政之助?あっ!團子さん五代目なのだ。気がつくのが遅すぎ。「ボーッと生き てんじゃねえよ!」チコちゃんに叱られそう。

 

  • 赤尾太夫は今宵は箱根五日月屋とのこと。上手い。泣きつづけの弥次さんじゃ箱根まで登れません。赤尾太夫がいるならなんのそのでしょう。追いかけてくる幽霊の喜多さん。五日月屋は前の伊勢参りの時幽霊の出た宿。そのためお札がはられている。番頭の廣太郎さんが主人になっていた。お札をはがしてくれるのが犬と猫。幽霊の姿の見えるむく犬(糸あやつりの弘太郎)と三毛猫(糸あやつりの鶴松)。幽霊との言葉も通じ合う。

 

  • 五日月宿では、お金のない弥次さんを可愛いいとして、身請けをしようとしていた阿野次郎左衛門(あの)の片岡亀蔵さんは怒り、女将・おさきの米吉さんも赤尾太夫の勝手さに怒る。女将怖い。二人を殺すようにそそのかす例の早替わりの三人組。さてこの三人の本当の正体は。これだけの人数のだんまりも初めてであろう。

 

  • 三人の正体は地獄への使者。獅子堂獄之助(獅童)、鬼塚波七(七之助)、暗闇の中治(中車)だ!冷静な梵太郎と政之助は、例の名刀・薫光来でむく犬と三毛猫の言葉を理解、地獄へ落ちた弥次さんと喜多さんを助けるため、地獄につながる洞穴に飛び込む。

 

  • 地獄の閻魔庁では、年に一度の祭りの日。観客も好い日に閻魔庁を見学でき、楽しい歌舞音曲に閻魔大王の右團次さんと楽しめました。赤鬼(橋之助)、青鬼(福之助)、黄鬼(歌之助)、大鬼(鷹之資)、中鬼(玉太郎)、小鬼(市川右近)、さらい女歌舞鬼(千之助)がひきいる一座の華やかな踊り。これをひとりひとり確認するのが大変である。キラ星のごとく三鬼踊り、大中鬼踊り、座長の「藤娘」ら次々とつづく。

 

  • 歌之助さんは久しぶりである。鷹之資さんには富十郎さんの踊りを引き継いでほしい。右近さんの阿波踊りも愛嬌たっぷり。もう一人のチョッパーの猿さんもいて可愛い舞妓である。(『ワンピース』<チョッパー登場 冬島編>から見始めた。チョッパー、本当にトナカイだった。)少しだけ先輩格の舞子さんもいます。最後は、にぎやかに阿波踊りである。さすが話題は逃がしません。

 

  • 無事、洞穴から現生に戻った弥次さん、喜多さん、梵太郎、政之助。弥次さんしこたま頭を打つ。喜多さんの言葉が通じる。それってもしかして。えっ!基督の門之助さんが。確か喜多さんのお葬式のときはお坊さん。基督の横には日光天使(染五郎)と、月光天使(團子)。もうひとつの呼び込みの幸四郎、猿之助、染五郎、團子の4人宙乗り。2人プラス天使2の行先は・・・・

 

  • この芝居の川は富士川でした。今月の芝居で舟が足りないのか、歩く舟もありました。そしてとっておきは、そもそも喜多八はなんで死んだのか。それは高麗屋さんの襲名に関係していたのです。そして、幸四郎さんと猿之助さんにも関係していました。まあ喜多八がドジであったのが一番の原因ですが。しかしこれは一番笑えます。

 

  • 舞台番・虎吉(虎之助)、舞台番・竹蔵・閻魔庁の書記官(竹松)、茶屋娘お稲・閻魔妻(新悟)、閻魔庁・泰山府君(片岡亀蔵)、町名主伊佐久(寿猿)、後妻お紀乃(宗之助)、家主七郎兵衛(錦吾)

 

  • 休憩時間のロビーでは、筋書を開いて今のはここで今度はここへいくわけで、あれはだれだれさんでと確認しておられるご婦人たちもいる。ご家族で観劇なのであろう。お父さんが娘さんに注意されている。聞くともなく耳にしたが、どうやら娘さんが遅れてきたらしい。役者さんも集中できないし観ている方にも迷惑だし、この時間に入るためにはどのくらいの時間をとったらいいか計算できるでしょう。ごもっともです。インターネットに頼ってかえってぎりぎりな計算になるときもある。幕間まで立っていてもいいのだが、親切に案内してくれるので、ごちゃごちゃ言っても仕方がないとそれに従ってしまう。いやいや、余裕をもってである。

 

  • 雨乞其角(あまごいきかく)』も初めてであったのでたのしみであった。『三囲神社』に碑があるが、それを題材にした舞踊があるとは。俳諧師宝井其角さんは、歌舞伎では『松浦の太鼓』でお馴染みで忠臣蔵がらみでの登場であるが、『雨乞其角』は「夕立や 田をみめぐりの 神ならば」の句を詠んだところ雨が降ったということに由来している。隅田川の様子を彷彿とさせる舞踏である。

 

  • 舟遊びをする其角のそばを大尽の舟なども通り過ぎる。三囲の土手に上がれば、弟子たちが雨が降らず困ったことですと。そこで其角が雨乞いの一句を献ずると雨が降り、皆踊り出すのである。其角の扇雀さんと船頭の歌昇さんと虎之助さんがお酒を酌み交わしてののどかさ。大尽の彌十郎さんは芸者の新悟さんと廣松さんをお共に楽しんでいる。土手に上がるとおおぜいの弟子たちがまっている。

 

  • 雨が降って、橋之助さん、男寅さん、中村福之助さん、千之助さん、玉太郎さん、歌之助さん、鶴松さんら弟子たちの総おどりである。今度は閻魔庁とは違った江戸の粋さのなかでの踊りで、気分を変えて楽しませてもらう。

 

  • 三囲神社には、其角さんの「山吹も柳の糸のはらミかな」の句碑もある。また老翁老嫗の石像がある。元禄の頃、三囲稲荷にある白狐祠を守る老夫婦がいて、願いごとがある人に変わって狐を呼び出し願い事をかなえてもらっていた。この夫婦の呼び出しにしか応じなかったのである。その老夫婦の死後、像が建てられた。それを其角さんは、「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と詠んでいる。コケが綺麗なところがあり、草取りされているかたが、手をかけなくてはと言われていた。何事も陰の力あっての美しさである。ただ人手が少なくなっているのは現実である。

 

  • 其角さんは芭蕉さんの弟子であるが、お酒も好きだったようで、ヒナよりも江戸の粋な風俗を好んで詠まれたようである。鷲神社には「春をまつことのはじめや酉の市」の句碑がある。