歌舞伎座11月吉例顔見世大歌舞伎(1)

京橋のフィルムセンターでドキュメンタリー作家羽田澄子さんの2回目の特集がありまして、十三世片岡仁左衛門さんの『歌舞伎役者 片岡仁左衛門』6部作を再び観ることができました。この映画を最初に観たときから20年は経っているわけです。記録とし、自分を啓発するつもりで歌舞伎を観て勝手なことを書いていますが、こちらは20年でこの程度かと振り返ると全部消してしまおうかと思ってしまいます。

しかし反対に、いやいや待て待て、十三世仁左衛門さんの歌舞伎が大好きで冷静で穏やかでいながら熱い芸談をお聞きしますと観客の恥を晒しても受け留めて下さるような気もしてきました。

今回の顔見世は、現歌舞伎界の頂点を極めておられる方々の演目がずらりとならんでいます。『奥州安達原(環宮明御殿の場)』(吉右衛門) 『雪暮夜入谷畦道(直侍)』(菊五郎) 『仮名手本忠臣蔵(五・六段目)』(仁左衛門) 『恋飛脚大和往来(新口村)』(藤十郎) 『元禄忠臣蔵(大石最後の一日)』(幸四郎)

かつて歌舞伎のラジオ中継があったそうですが、今回の顔見世はラジオ中継でもいいと思えるほどの聞かせぶりでした。十三世仁左衛門さんは、晩年緑内障を患われて見ることが不自由になられましたが、その分さらに聞いて発するセリフの調子が冴えわたります。『御浜御殿綱豊卿』の綱豊卿が梅玉さんで、新井勘解由が十三世仁左衛門さんで、仁左衛門さんを映していますから、梅玉さんはセリフの声が中心です。そのセリフを聴く仁左衛門さんの表情がいいのです。教え子に対する満足の気持ちがよく表れていて、綱豊卿が大石の初老を過ぎてからの女狂いも仕事とはいえ面白くなかろうという言葉に笑う顔がこれまた何ともいえない良さです。当然梅玉さんのセリフには満足され、好い役者さんになりますよと言われています。

今回は、十三世仁左衛門さんのお話や映像などの感想と重なるところは重ねて勝手な解釈と想像であらすじは抜かしてダイジェスト版にします。

湧昇水鯉滝(わきのぼるみずにこいたき) 鯉つかみ 』は、染五郎さんのお名前での最後の公演ということもあって、大奮闘ですが、少し不満なのは、この鯉のいわれが知りたかったです。愛之助さんもされていてその時もすっきりしなかったのですが、今回は時間の関係もあるのでしょうが、その辺を避けられ鯉の精と志賀之助の染五郎さんの二役に重きを置かれたわけです。

志賀之助と小桜姫(児太郎)との出会いを踊りにしてしっとりとはじまりますが、障子に映る影が志賀之助のはずが鯉ということで、そういうことかと理解しますが、もう少し鯉との関係を上手く出してほしかったです。

二役は本水の場でもスムーズに見せてくれましたが、忘れ物をしたような残念さがありました。幸四郎襲名となられても、染五郎時代の挑戦は継続されるでしょうから、さらなる再演を期待します。

奥州安達原(環宮明御殿の場)』は、<袖萩祭文>ともいわれます。駆け落ちして盲目となり物乞いの身の袖萩でありながら、父の窮地を知り環宮(たまみや)の門前で歌祭文をかたる哀れさが、雀右衛門さんの新たな境地をしめします。父(歌六)と母(東蔵)の胸中の複雑さ。義家(錦之助)、貞任の弟(又五郎)としっかり脇が固められ、貞任と身をあかす時代物の吉右衛門さんのいつもながらの大きさはお見事です。袖萩の夫が貞任で娘が父を慕う所に時代の中での細やかな情愛がにじみでていました。

映画の中で、十三世仁左衛門さんが、『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の蘇我入鹿(そがのいるか)をされ、大判事が吉右衛門さんで定高が七代目芝翫さんで、<花渡し>の場でこれは初めて観ました。<山の段>の前にこういう場面があるのを知りました。20年前はそんなこともわかっていませんから少しは進歩したのでしょう。

『鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)』の<奥庭>も十三世仁左衛門さんは自分しか知っている者はいないからと丸本から起こされて上演されました。90歳に近いころとおもいます。背景が紅葉で美しい場面で、天狗の面を取ると鬼一で、この場は実際に舞台で観てみたい場面です。

『菅原伝授手習鑑』の<寺子屋>の松王丸の首実検の場を父の型と初代吉右衛門さんの教えを受けた型と、六代目菊五郎さんの型と三つの型を「仁左衛門さんの芸をきく会」で実演をまじえて語られています。違いがよくわかります。『紅葉狩』の山神では六代目菊五郎さんに裸で教えられ、さらに背中に細い棒をあてがって縛って、身体の中心がふらふらしないように指導されたそうです。

穏やかな仁左衛門さんが、「怒られて教えられたことは覚えていますね。」と言われていて教え教えられることの難しさです。

雪暮夜入谷畦道(直侍)』は、始まりからゆったりと力を入れずに観劇できました。直次郎と三千歳の別れに目頭が熱くなったのははじめてです。わかりきっていますが、直次郎の菊五郎さんと三千歳の時蔵さんの情の通い合いが型を超えて自然の流れとして伝わってくるのです。小悪党同士の丑松(團蔵)との出会い、蕎麦屋夫婦(家橘、齊入)、按摩丈賀(東蔵)に対する警戒心と三千歳の情報、そこから三千歳がいる寮であたたかく迎えられての逢瀬。意識することもなく江戸に連れて行ってくれる舞台です。清元も間合いよく情感を刺激してくれました。

 

国立劇場11月『坂崎出羽守』『沓掛時次郎』(2)

沓掛時次郎(くつかけとこじろう)』は、歌舞伎としての舞台は41年ぶりとのこと。昭和3年の作品で同年に初演したのが新国劇の沢田正二郎さんで、歌舞伎では昭和9年に15代目市村羽左衛門さんが初演しています。今回は梅玉さんの初役です。梅玉さんは、品のある役どころですからイメージとして浮かばないのですが、もう一度長谷川伸さんの作品を考えさせてもらいました。渡世人を主人公にした股旅ものは、映画や舞台で華やかなスターが演じて大衆に広まりましたが、本来は世間からのはぐれ者の世界です。

世間とは別の世界の話しなのです。沓掛生まれの時次郎は、助っ人で六ッ田の三蔵を殺すために敵対する一家の三人と襲撃に加わります。六ッ田の三蔵は、かつては大きな中ノ川一家を親分の義理からただ一人名乗っている男です。それだからこそ敵対する一家にとっては、目の上のたんこぶなのでしょう。渡世人の時次郎にとっては、渡世を張るなら相手がどんな男など関係ありません。

三人は三蔵に追い返され、一騎打ちで時次郎は三蔵を切ってしまいます。三人が、三蔵の女房と子供にまで手をかけようとするので、親子を助けます。息絶え絶えの三蔵は、女房と子供を時次郎に託します。強い方が勝つ。それを知っている三蔵は、女、子供を助け腕の立つ時次郎に一縷の望みをかけたのでしょう。

時次郎は親子を連れて逃げることになります。梅玉さんの時次郎は淡々としていてクールです。おきぬは三蔵の子を身ごもっていて、時蔵と二人で追分節の流しをしつつ熊谷宿の安宿で、おきぬの出産を真近に控えていますが出産の費用が捻出できません。宿の主人から博徒の出入りの仕事が持ち掛けられます。時次郎は、八丁徳一家の助っ人の仕事を引きうけ、おかねと太郎吉には追分節の仕事が入ったからと、産気づくおかねに待っていてくれと告げます。

この仕事を紹介した宿の亭主・安兵衛とおろく夫婦もかつては博徒に関係するような立場のような気がします。三蔵襲撃の時、仲間を切られ時次郎を追いかける百助と半太郎が踏み込んで来た時、女房おろくが追い返しますが、そうした意気はおろくの過去を思わせますし、話しをもってきながらそれを止めようとする安兵衛にも自分と投影しているように思えます。勝手にそう設定して観ました。時次郎たちに対する情の深ささがどこか同類とみえたのです。

安兵衛とおろくは、部屋でおきぬの供養の花の前にいます。八丁徳の親分が時次郎の男気を気に入り訪ねてきますが、おきぬと赤ん坊の死に際に間に合わなかった時次郎は、百姓になるため太郎吉を連れて旅だったことを告げます。

八丁堀の親分は子分に屋根の上から時次郎の後ろ姿に別れを惜しませます。ここが、姿のない渡世人時次郎を大きく見せる場面です。それは同じ渡世人だった時次郎へのはなむけでもあるのです。八丁堀の親分の楽善さんの出のいいところで居ない時次郎を映しだしました。屋根を借りてすまないと安兵衛にいう台詞も長谷川伸さんの計算をおもわせます。

最後の場面。小さな祠の前で、太郎吉が「ウン字を唱うる功力には、罪障深き我々が造りし地獄も破られて忽ち浄土となりぬべし」とうたいます。おっかちゃんがおいらの声を聞いて安心するからといいますが、昔の道中のわびしい雰囲気があっていい舞台です。

時次郎がおきぬに対する気持ちを表すのは、おきぬに待っていてくれと告げるときの声のトーンと、最後に太郎吉がおかっちゃんに会いたいというとき、俺もだというところです。セリフの上手い梅玉さんですので、こういうところはすっーと無理なく観る者の心に浸透してきます。

おきぬは三蔵という博徒の女房ですから、三蔵に相手を斬っておしまいというくらいの強さがあり、太郎吉は私が守るという芯のある女性です。もしかすると、この博徒の生き方を知っている女と夫婦になれたらと時次郎は思ったことでしょう。長谷川伸さんは、素人の世間と渡世人の世界とをきっかり区別していたと今回思いました。はぐれ者の中で人知れず心に残った生き方をしたひとの話しです。

最後、三度目の正直だと、百助と半太郎が切り込んできますが、太郎吉が殺さないでといいます。太郎吉は時次郎が自分の父親になってくれればと言うところがありますが、ここで思いました。そうだ、太郎吉は斬った張ったのない父親になってと言っているのだと。父を殺されながら、そういう世界ではないところにいる男に父親になって欲しかったのだと。

作・長谷川伸/演出・大和田文雄/出演・沓掛時次郎(梅玉)、六ッ田の三蔵(松緑)、三蔵女房おきぬ(魁春)、三蔵の息子太郎吉(左近)、安兵衛(橘太郎)、安兵衛の女房おろく(歌女之丞)、百助(松江)、半太郎(坂東亀蔵)、八丁徳(楽善)

上演の後アフタートークのある日でした。梅玉さんが、もしかしておきぬという女に巡り合い幸せになれるかと思ったが、やはり駄目だったのかという想いということを言われていましたが、やはり駄目なのかという情感が心に残りました。映画で萬屋錦之介さんや雷蔵さんの時次郎がありますが、自分はクールに演じるようにしていますと。それはわかりました。映画のようにおきぬと時次郎の関係を匂わせて色を添えるという濃さは出していません。そこが、映像と舞台の違いだとも思えますし、想像させるほうに持っていく舞台の難しさでもありジャンルの違う楽しさでもあります。

梅玉さんは、まだまだ自分のなかで完成されていないと言われていましたが、観る方は梅玉さんの時次郎像はしっかり感じとれました。

松緑さんは、三蔵について、斬られた男に妻子を頼み、その後の時次郎の生き方を変えるので出は短いですが重要な人物です。林与一さんの三蔵を参考にし年齢的にそれを小さくするように工夫しましたとのことです。

梅玉さんと松緑さんのお二人の参加なので、魁春さんのお話は聞けませんでしたが、三蔵の女房としてのおきぬの描き方が観客にとっては大事な人物像になるところで、博徒の女房という存在感がありました。この脚本ではそこが重要だとおもえました。

梅玉さんも『坂崎出羽守』は演じてみたいといわれてましたが、坂崎の台詞は挑戦されたいだろうと思います。司会のかたが松緑さんの坂崎は5日ぶりに拝見しましたが違っていましたとのことで、松緑さんは、まだまだ変化しますのでまた観に来てくださいとのことですが、基本はこのまま変えてほしくないと思います。この坂崎でいいとおもいます。

アフタートークはまだまだ楽しい裏話もありましたが、主語を間違えそうなので少しだけにします。

 

国立劇場11月『坂崎出羽守』『沓掛時次郎』(1)

坂崎出羽守(さかざきでわのかみ)』は、大正十年九月に、六代目菊五郎さんで初演されていて、山本有三さんが依頼をうけて六代目さんのために書かれたものです。そのあとを、二代目松緑さん、三代目松緑(初代辰之助)さんと受け継がれ、今回当代松緑さんでの上演となり、36年ぶりとの事。

観ていて坂崎出羽守の内面が写し出される作品で、大正という時代に歌舞伎にもこういう作品が必要だと六代目は感じられていたのかと時代という流れを垣間見る作品でもあります。演じられるかたも様々に思考錯誤されるでしょうが、観ている方もあれこれ登場人物の内面が想像されて面白いです。

筋としては、千姫を大阪城落城の際、命を賭けて救った坂崎出羽守ですが、家康に千姫を救ったものには、千姫を娶らせるという約束に翻弄されます。武骨者の坂崎は、千姫に惚れてしまうのです。本心のわからぬ家康との葛藤、何よりも自分のほうを見ることもなく違う相手と結婚してしまう千姫。最後に坂崎の本心が爆発してしまうのです。ここまでに至る作者のさばき方もかなり手が込んでいます。登場人物のおもいはどこにあるのか。

大阪夏の陣での家康本陣では、木の上の物見も徳川優勢を知らせ、兵が真田幸村の首を持参し、本丸にも火の手が上がりますが、家康は落涙します。それは、千姫が大阪城に残されているからです。千姫を救い出すべく送られた者も、淀君が家康のやり方に激怒して千姫をそばから離さないことを報告しています。こちらは、10月歌舞伎座での舞台『沓手烏孤城落月』(坪内逍遥作・明治38年初演)が浮かびます。

そこへ名乗りでたのが坂崎出羽守です。彼は武勇を立てることを第一とする男なのです。自分の出番がないと引っ込んだのですが、そこへ再び来合わせたのが彼の人生を波乱に導くことになったのです。坂崎が全っく思いもしない言葉が家康から発せられます。家康もそれほど重く考えず檄を飛ばすだけだったのかもしれません。この辺から家康さんの狸おやじぶりは介入しているのかも。

千姫を娶らせると言われなくても坂崎は最善を尽くしたとおもいます。約束がなければ千姫に恋するだけであきらめたでしょう。しかし約束の言葉があります。千姫を救出し、千姫を駿府へ護送するための船上で坂崎の前に現れたのは、桑名城主の嫡子・本多平八郎忠刻(ただとき)です。桑名から名古屋までの七里の渡しの護送に加わったのです。この航路は忠刻にとっては手の内に入っていて自分の庭のようなものですから、周囲の案内も弁舌爽やかです。

あせる坂崎です。坂崎は救出したとき顔に火傷しています。それも千姫に恋してしまった彼にとっては心中を複雑にする原因なのです。惚れなければ、これこそ誉の傷と本来の武骨の坂崎でいれたのです。さらに、家臣の松川源六郎も片目を失うほどの活躍をしていますので、ちゃらちゃら出てくる忠刻が気に入りません。源六郎は、坂崎の中にあるもう一人の坂崎を表出している人物でもあります。忠刻は家康の孫娘の護送の役目を果たそうとのおもいだけで他意はないのでしょうが、千姫は忠刻に心慰めてられていきます。

千姫からみると、坂崎を避けるのは、あの大阪城のことを思い出すのがいやなのかもしれませんし、坂崎に嫁ぐことを知っているならば、祖父によって勝手に嫁ぎ先を決められる理不尽さへの怒りが坂崎を避ける理由かもしれません。そのあたりを想像できるのが、大正時代に入ってから個人の内面を加味して書かれた戯曲の面白さでもあります。

忠刻に対抗し、魚釣りで千姫を慰めようと坂崎は提案します。それを、それとなく止める家老の三宅惣兵衛は、坂崎の性格をよくわかっています。源六郎が坂崎の中にもあることを知っています。ただ源六郎と違うのは、魚釣りでも、白鳥を射る競争でも、忠刻に対する嫉妬から突き進んでしまったことを自分の浅はかさとして感じるところです。自信のある弓においても負けてしまう自分。

坂崎は千姫に対する想いから再三、家康に結婚の催促にいきます。千姫は家康に、坂崎の嫌いなところをはっきりと告げ、嫁ぐなら忠刻のところと言います。今度は、祖父家康の思い通りにはならないと自分を主張します。家康は何んとか坂崎に千姫をあきらめさせようと、金地院崇伝(こんちいんすうでん)にその役目を申しわたします。崇伝に自分の心の内をさらけ出す坂崎。崇伝は姫は髪を下すので結婚できないと伝えます。一時遁れです。それが姫の幸せであるならと坂崎もあきらめます。

ところが家康が亡くなり千姫は忠刻と結婚しその輿入れの行列が坂崎邸の前を通るのです。坂崎は自分をおさえます。源六郎が現れます。もう一人の自分がいます。しかし、坂崎は自分は城主であることを心得ています。それなのに押さえに押さえていた正直な自分が、爆発してしまうのです。

登場人物もよく計算されていて、坂崎を追い込む過程が巧妙です。思っていたよりも長い作品でした。そこを緊迫感をもたせ長台詞もあきさせずに松緑さんは、坂崎の複雑な心情を出されました。武骨な男が、結ばれるなどとは思っていなかった千姫に惚れてしまい、どう対処していいかわからない状況。火傷した醜い自分。約束はあっても、恋敵になりそうな忠刻の存在。のらりくらいの家康側に体よく扱われる自分。ここで黙っていては、意気地のない男とさげすまされるであろうが、家臣のことを思うと我慢しかない。

その場その場の坂崎の心の内を、声の抑揚、強弱、緩慢とあらゆる方法を組み立てられての聞かせどころしどころでした。古典歌舞伎から踏み込んだ新歌舞伎の心理描写を付加して、坂崎の苦悩をしっかり受け留めることができました。時代物の所作の出来ている心理劇、余計な動きの目障りさを意識しないでどっぷり味わわせてもらいました。

芝居は何でもそうなのですが、新歌舞伎はさらに近代人の見方が加わりますから、役者さんのセリフが大きなポイントになります。そしてそれを表す設定場所です。『坂崎出羽守』の船の上というのはこの芝居の成功の一因だと思います。山本有三さんの創作力です。

この芝居に対する思い入れが深くなったのは、名古屋での参加イベントが台風のため中止になったのが、宮から桑名への七里の渡しを船で渡る催しだったので、舞台を観ていて上手い設定だと入れ込みましたし、役者さんたちもその気持ちに応えてくれましたのでこういうときは予想以上の楽しさですし、こちらは、惣兵衛の気持ちで参加してしまいました。あせるな!あせるな!あせると実力が出ないぞ!

<山本有三生誕130年> 作・山本有三/演出・二世尾上松緑/出演・坂崎出羽守(松緑)、家康(梅玉)、千姫(梅枝)、忠刻(坂東亀蔵)、源六郎(歌昇)、惣兵衛(橘太郎)、崇伝(左團次)、萬次郎、権十郎、橘三郎、松江、男寅、竹松、玉太郎

 

新橋演舞場 再演『ワンピース』観劇二、三回目

観劇一回目の時は、猿之助さん休演で代役の尾上右近さん始め皆さんが今までの力を見せつけてくれ愉しませてくれましたが、さて、二回目はいかにです。一カ月ぶりですからどんな感想を呼び覚ましてくれるのでしょうか。

パンフレットの中で、脚本・演出の横内謙介さんが「伝統芸能たる歌舞伎で、現代人を感心させるのではなく、感動させるのだ。」と書かれていて、これは、先代猿之助(現猿翁)さんからの叩き込まれたストーリーに関わる教えです。横内さんは、漫画『ワンピース』を読んで、自分が一番泣けたところを軸に構成を考えたのだそうです。(パンフ買う予定ではなかったのですが、マチネ料金で返金がありましたので購入)

一回目の観劇と二回目の観劇で大きく違ったのは、胸にグッとせまる場面が多くあったことです。おそらく、役者さん達は、この組み合わせでいくのだと腹を据え、自分の役の人物像を再構築して、対する相手の人物像とどう対峙していくかを模索しつつ進まれたのだとおもいます。

白ひげとスクアードとの場面、白ひげとエースら子供たちとの場面、ルフィとエースとの別れの場面、そしてルフィを立ち直らせるジンベエとの場面が大きくかぶさってくるのです。パンフレットは、二回目観劇のあとで読みましたので横内謙介さんの手の内にはまったかと思いました。そして、そこへ、行き着く過程を役者さんたちも通過したのだということを感じました。

ルフィの尾上右近さんも、ルフィの人物像、性格、成長をしっかり仲間と作り上げていました。動きもよく、これが右近ルフィだなと思わせてくれます。ハンコックも、美人である自分を誇示してルフィとの出会いから変化していき、最後は自分の背中の刻印に左右されぬ高貴さへと高めました。あの首のそりが笑わせてくれますが、漫画でもその設定なのが歌舞伎の型とつながりアニメあなどれずです。

エースが仲間の止めるのものも聴かず、サカズキの罠にはまっていくあたりは、エースの性格をよくあらわしています。そこが、ルフィがエースを慕うところでもあります。ロジャーの子として苦悩する自分をみつめてくれた白ひげへの想いが冷静さを越える感情として爆発するのです。

海軍はスクアードのロジャーへの憎しみを上手く操り、白ひげに刃向かわせ、全てを見通しての父としての白ひげの想いもはっきりでました。

海軍はセンゴクを筆頭に、エースにしろ、スクアードにしろその性格を見抜いていて狡猾です。

ジンベエは漁人族で海軍に囚われていますが、エースを助けにくるルフィという人間のガキに興味を持ち、ルフィを立ち直らせます。ルフィを助けてくれるのは、海軍が人間世界からはみ出させた者たちなのです。

麦わら一味白ひげ海賊団海軍女ヶ島アマゾン・リリーニューカマ―ランド漁人族天竜人赤髪海賊団。舞台上での関係は把握できました。覚えきれませんが、それぞれに、不思議な力を供えているのです。ルフィがゴム人間で手が伸びたりするように、それぞれが戦いの場面でもその力は強調されます。

クザンの吹雪を起こす力。(見せ場です) ルフィが氷つき、それをエースの炎が溶かすのです。この能力は、その能力を発揮する実があり、それを食べると備わることができ、その実の一つが最初の奴隷市場でも売られています。最初はこの意味がわかりませんでしたが、も重要な意味があったのです。

エースとサカズキのマグマの炎と炎の対決。(見せ場です) 指揮をとる赤い大きな旗と小さな旗。踊り狂う炎とマグマ。またこの場面進化していました。旗の間で飛び回っていた人たちが、前面であるいは対角線状で飛び回ります。最後のカーテンコール最初出られる赤い衣裳の6人がそのかたたちだと思います。

本水もやはり見せてくれます。こちらでの看守は、カーテンコールの赤い衣裳の6人の両脇8人のかたとおもいます。ブラボーと叫びたいほどの活躍です。

この本水の大うけの後でのボン・クレーでの花道、きついですが、いえいえ見事に引きつけます。「大当たり!」と大向うがかかりましたが、駄目なおかまが花道を制覇するとは、ワンピース歌舞伎ならではの快挙です。

ルフィの宙乗りも、10月とは違う満面の笑顔で、ここまできた一カ月の時間をおもい起こさせてくれます。

観劇三回めは、高校生に囲まれての観劇となりました。こういう状況はどう楽しもうか。埼玉の高校だそうで、お行儀のよい生徒さんで、「面白いからしっかり手を叩いてね。」と声をかけました。始まってしばらくすると、「はっちゃんか。」の声が聞こえます。普段なら「静かにしてください。」というところですが、耳をそばだてます。漫画を読んでいるのでしょう。「監獄所長の」で「マゼラン!」と即聞こえます。若い子のワンピース大向うが成立しそうです。「あれは?」ピサロはちょっとわからないようで、「あれがイナズマか。」三幕目あたりからは、芝居に引き込まれたらしく話し声がありませんでした。

ファーファータイムでは、後ろの高校生に、「立ちますので、見えなかったら立ってね。」と伝えました。後でおもったのですが、もしかすると、観劇中は立ったりしないようにと指導されていたかもしれませんね。宙乗りは見えていたと思いますがごめんねです。終わったあとは、スーパータンバリンをあげました。「もう出番はないけどね。」いえいえ太っ腹ではなく細っ腹です。隣の初演をみたというご婦人と、ここから若い人が歌舞伎に興味を持ってくれるといいですニョンと。(ニョンはご愛嬌ニョン!)

休憩時間、スマホで「これがジンベエだ。」と数人で検索しつつ覗いているので、家で検索しました。一気に漫画の登場人物がでないかと<ワンピース>で大まかに検索していたのですが膨大すぎてやめていたのです。そうか一人一人で狙い撃ちがいいのだと検索しました。

顔だけでなく全身の絵もあり、役者さんが衣装や顔の作りにそれぞれの工夫をしているのと比較でき、キャラもわかり一層面白さを増してくれました。若さの実の試食のお陰でしょうか。

ウソップの衣裳に赤い鹿の子があり、囚人のボーネスの頭には太い鉢巻が歌舞伎的要素を取り込んでいます。その他沢山あります。

一幕の休憩から「面白い。」の声が聞こえていましたが、おばさんはおばさんの実を食べなくてもおばさんですから、「面白くなるのはこれからだから楽しんでね。」「ありがとうございます。」と素直な返事。アマゾン・リリーの微妙な女の子たちよりやはり可愛いい女子校生でした。

一回目のとき、アマゾン・リリーで、スーちゃんのカツラが取れてしまうのですが、イワンコフがルフィを見て「あっ!笑ってる。」といったのです。これはスーちゃんのアクシデントで、イワンコフがルフィの気持ちをほぐすためだったのかなとおもいましたが、今回もかつら事件はありましたから最初からあったのでしょう。かつら事件もう一件あります。

人形のチョッパーの名前も映像にきちんとありました。花道のチョッパーも小さいながら存在感たっぷりで愛らしいです。

序章の声も勘九郎さん、七之助さんきちんととらえられました。勘九郎さんは、かなり感情を込められた語りとなっていました。

あれもこれもと浮かびます。若い人たちの感想ももっと聞きたかったのですが、この後は、若い人たちの感覚で盛り上がってくれることを想像して静かにします。

(サンジに過酷な過去があるらしい。好奇心の実より)

新橋演舞場 再演『ワンピース』観劇一回目

 

国立劇場10月歌舞伎『霊験亀山鉾』(2)

この作品は、国立劇場では平成元年、平成14年、今回の平成29年と三回目の上演で、平成14年に上演されたものを踏襲されています。平成14年はどう変化させたかというと、70年ぶりに復活させた駿州の<弥勒町丹波屋の場><安倍川返り討ちの場><中島村入口の場>で、そこから<中島村焼場の場>につながるのです。丹波屋は揚屋で郭なのです。

そこで、水右衛門、香具屋弥兵衛に身をやつしている源之丞、源之丞の子を宿す芸者・おつま(雀右衛門)、八郎兵衛(仁左衛門)が入り乱れるのです。八郎兵衛は水右衛門にそっくりなため、おつまは源之丞の敵の水右衛門と勘違いして八郎兵衛に快い返事をします。ところが、人違いで本物の水右衛門がこの丹波屋の二階にいると知り、八郎兵衛を袖にします。八郎兵衛はそれを逆恨みし、さらに水右衛門も源之丞とおつまの関係を知るのです。

弥兵衛実は源之丞の町人としても身のこなし、同一人物と思われるくらい似ていても小悪党の八郎兵衛、そのあたりがまた見どころです。

そこには、丹波屋の女将・おりき(吉弥)、飛脚早助(松十郎)が関係していて、全て水右衛門の仲間でさらに、源之丞をおびき出し落とし穴まで掘って闇討ちにするのです。落としいれるならどんな手でも使うという水右衛門です。観客のほうは、水右衛門の悪を忌々しいと思いつつ、こうなっていたのかと愉しまされる結果となるのです。

まだ悪は続きます。水右衛門は姿を隠すため棺桶に入って焼き場へ運ばれます。殺された源之丞も棺桶で焼き場へ。何か起こらないわけがありません。当然棺桶の入れ違いがあります。焼き場でまっているのは、実は焼き場の隠亡である八郎兵衛です。

おつまと八郎兵衛は顔を合わせ、襲い掛かる八郎兵衛をおつまは殺してしまいます。ところが、棺桶から現れた水右衛門は、稲光の雨の中(本水)凄惨にもおつまを殺し、不敵な笑いを浮かべ、悪が流す血は増すばかりです。

場面は明石で源之丞の隠し妻・お松のいる機織りの家です。源之丞には二人の隠し妻がいたことになります。まあそれは置いといて、お松は品物を高い値で買ってくれる商人・才兵衛(松之助)にその上乗せ分を貯めて置いて返そうとします。貧しいのに大変律儀な人柄で、商人はそれは、源之丞の養子家の母・貞林尼からであったことを明かします。

そこへ貞林尼(秀太郎)が現れ、お松と源之丞を祝言させるといい、喜ぶお松です。ところが、源之丞は位牌となっていました。敵討ちが出来るのは血のつながっている者で、残るは、源之丞の息子の源次郎ですが、腰が立たない奇病です。

この奇病を治すには、人の肝臓の生き血がきくのです。貞林尼は自らの肝臓に短刀を刺し命と引き換えに源次郎の奇病を治し、その姿に貞林尼は安堵して亡くなるのです。悪が続いたあとに、情の場面となり若い観客も涙したのでしょうが、しっとりといい場面でした。

お松の兄・袖介(又五郎)が助太刀をし、ついに亀山城下での敵討ちとなるのですが、これには水右衛門の親・卜庵(松之助)が盗んだ鵜の丸の一巻が関係していて、水右衛門をおびき出すための亀山家重臣大岸頼母(歌六)の計らいだったのです。名を変えて現れた水右衛門は正体がばれ、ついに源次郎は母・お松と叔父・袖介に助けられ敵討ちをはたすのでした。

実際の敵討ちの困難辛苦を、舞台の上では歌舞伎独特の悪の華を開花させ、そこから情を含めつつ、溜飲をさげさせるという手法を無理のない強弱で展開させてくれました。友人も言っていましたが、セリフの声がよく、この互いのぶつかり合いが効果てき面でした。

役者さんたちの役どころの配置もよく、それぞれの役どころもその所作や台詞回しでよりはっきり浮き彫りにされ、その上に立つ仁左衛門さんの悪が稲妻のごとく怪しい光を放っていました。

お松の父・仏作介(彌十郎)、兵介に従う若党・轟金六(歌昇)、大岸頼母の息子・主税(橋之助)、石井家乳母・おなみ(梅花)、その他(嶋之亟、千壽、孝志、仁三郎、折乃助、吉太朗、延郎、吉五郎、吉三郎、蝶柴、又之助、錦弥、幸雀)

 

亀山の照光寺には、藤田水右衛門のモデルで討たれた赤堀水右衛門(五右衛門から改名)のお墓があるそうで、知っていれば寄ったのですが。

亀山宿~関宿~奈良(1) この時は志賀直哉さんのことで、その後、桑名から関宿まで歩いたときも亀山宿はまだ志賀直哉さんでした。『霊験亀山鉾』で<石井源蔵、半蔵兄弟の敵討>が加わりました。

この観劇のあと「あぜくらの夕べ 漱石と芸能」という催しがあり参加しました。漱石生誕150年の記念の年で、漱石さんは謡を習っており、小説にも謡曲や一中節のことがでてきて、漱石さんは芸能とどんなふれあいかたをしていたのであろうかと想像しつつ、能楽・森常好さんと一中節・都一中さんのお話をお聴きしました。(聞き手・中島国彦さん)作家の作りだす文字の世界と楽しんだ音の世界との関係。谷崎潤一郎さんに続く国立劇場ならではの企画かなと思います。

あぜくら会会員の催しは、なかなかいいものがあります。無料ですし。あまり言いたくないのですが。なぜなら人数が増えると抽選に落ちる確率も高くなり近頃よく落選しています。歌舞伎好きなかたには楽しみ方の参考になるとおもいます。

漱石に関する公演が12月には国立劇場で『演奏と朗読でたどる 漱石と邦楽』(12月2日)が、国立能楽堂では『特集・夏目漱石・と能ー生誕150年記念ー』公演があります。

国立劇場わきの「伝統芸能情報館」では、「弾く、吹く、討つー日本の伝統音楽の魅力」を開催していまして、関連映像が黒御簾からの舞台を見つつ演奏されるお囃子方さんの様子や、歌右衛門さんの舞台稽古での様子など、音楽中心に見ることができます。歌右衛門さんの身体自体が音楽の宝庫です。玉三郎さんの阿古屋もあります。もう一回観たいと思っていましたら、10月27日までなんです。残念!

 

国立劇場10月歌舞伎『霊験亀山鉾』(1)

もっと早い日程で観劇する予定が用事が入り友人に行ってもらいました。国立劇場初めて、通し狂言初めてで大丈夫であろうかと気にかかりましたが、面白かったとの知らせにホッとしました。

一つの芝居を4時間も観ているのとちょっと引いたそうですが、観ているうち引き込まれ長く感じなかったそうで、「立つことの出来ない孫のためにお婆ちゃんが、自分の臓の生き血を飲ませて孫が立てるようになるんだけど、私も物語に入っていたけど、あなた、近くの若い女の子は泣いていたわよ。」とのことでした。お芝居の展開がスムーズで分かりやすく、涙を誘うまで高揚させる舞台であったということでしょう。

さて、観劇の感想ですが、やはり何んといっても、色悪の仁左衛門さんの魅力がお芝居の流れに添って大きくなっていく楽しさです。二役ですが、両方ともに悪役で、その違いもくっきりと演じられました。実際にあった伊勢亀山城下での敵討を題材にして四世鶴屋南北さんは4つも作品を書いていて、その一つが『霊験亀山鉾(れいげんかめやまほこ)』で、鉾は、お祭りのほこで、亀山八幡祭りの日に敵討がなされ、威勢よく傘鉾が出てくるのです。

敵討ですから色々な場所へ話しが飛びます。甲州石和(いさわ)は石和温泉が有名ですし、播州明石となれば源氏物語、駿州安倍川となれば静岡の安倍川近くで、ここでは遊郭と焼き場が重要な場面となります。そして、勢州亀山となります。旧東海道を歩いた時、亀山宿で確かにこの敵討をした<石井兄弟敵討の碑>があったのです。ながめつつ聞いたことがないけれどずいぶん立派な石碑だことと思ったのです。江戸時代には曽我兄弟と重ねて語られるほど評判の敵討だったようです。

藤田水右衛門(仁左衛門)は、遠州浜名で石井右内を闇討ちにし、その弟・石井兵介(又五郎)が石和で掛塚官兵衛(彌十郎)の検使のもと仇討ちをしようとしますが、水右衛門と官兵衛は懇意な中で、兵介のほうの水盃に毒をもり、兵介は無念なことに死んでしまいます。

敵討ちは、右内の養子の源之丞(錦之助)に引き継がれます。源之丞は実家は明石なのですが、お松(孝太郎)との不義から右内のところへ養子にだされていたのです。お松との間の長男・源次郎は、腰の立たない奇病で、お松は機織りをして子供を育てており源之丞が帰ってきました。兵介を心配する二人ですが、兵介が返り討ちにあったことをしります。

そしてこの源之丞も、水右衛門にまたまた闇討ちにあってしまうのです。水右衛門は二人も返り打ちにしてしまうのです。それも汚い手をつかって。如何に水右衛門が悪党だかわかりますが、色悪は、悪いやつだがちょっとその悪には、ぞくっとする色気があり華があります、とこなければいけないわけです。その色悪ぶりをしっかり仁左衛門さんは見せてくれるわけです。

さて、若い女の子が泣いたという場面までどう展開するかは次といたします。読むより観たほうが面白いとおもいます。

 

歌舞伎座10月『沓手鳥孤城落月』『漢人韓文手管始』『秋の色種』

沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)』は、大阪夏の陣での豊臣家最後の状況を坪内逍遥さんが脚本化したものです。(石川耕士 補綴・演出)

見どころは、淀君の心の動きということになりますが、玉三郎さんがその荒れ狂う機微を表現されることです。事に至って、秀頼(七之助)の正室で家康の孫である千姫(米吉)が、奥女中常盤木(児太郎)の導きで大阪城から脱出しようとしている現場を淀君は目撃します。

淀君にとっては、裏切りと家康の指図に煮えくりかえり、千姫にその気持ちをぶつけます。常盤木は舌を噛み切り、導いた局は斬られます。さらに、淀君は自分に仕える奥女中たちにも何をしていたのかと叱責します。そんな事がありながら、庖丁頭・与左衛門(坂東亀蔵)が台所に火をつけ混乱の中から千姫を城外へ逃がします。

淀君は、刻々と豊臣家の滅亡の中で、秀頼を守れない母としての想いと自分のかつての栄光などが入り乱れて、苦しい葛藤が起っているのであろうか、正常な状態を保てなくなっています。そんな母を前にして秀頼は母を殺し自分も死のうとしますが周りの説得で開城を決心します。

玉三郎さんの淀君の気魄に、周囲の役者さんも淀君に平伏したり、言上したり、なだめたりと必死さが出て、緊迫感がでていました。そういう点ではリアルさも増幅された芝居となりました。

淀君と秀頼は炎に包まれての自害や死までが描かれることが多いので、心理面での場面で終わる逍遥さんのこの作品は、難しく、やはり淀君の玉三郎さんの大きさで支えられた芝居となりました。

正栄尼(萬次郎・あの独特のお声で押さえがきいていました)、大野修理亮(松也)、饗宴の局(梅枝)、氏家内膳(彦三郎)

漢人韓文手管始(かんじんかんもんてくだのはじまり)』<唐人話>は、江戸時代におきた朝鮮国の使節が殺された実際の事件を題材にしていますが、場所を長崎に変えています。芝居の見どころは、役として「ぴんとこな」、「つっころばし」、「たちやく(立役)」がはっきりと印象づけられる芝居であるということでしょう。

「ぴんとこな」の代表は『伊勢音頭恋寝刃』の福岡貢のような色男の和事でありながら武士の心意気もあるという役どころのようですが、鴈治郎さんの十木(つづき)伝七は、さらに一生懸命なのであるが観客側からするとその一生懸命さに可笑し味と愛嬌も見え隠れするという味も加わるという役柄でした。

唐使接待役を仰せつかった相良家の若殿・和泉之助(高麗蔵)は、例によりまして頼りなく女にもてて身請けしたい名山太夫(米吉)がいますがお金がなく、さらに唐使に献上すべき家宝の槍先の菊一文字を紛失しているのです。色男だが頼りない、お金がない、家宝紛失の三無いづくしの「つっころばし」で、高麗蔵さんです。十木伝七は、相良家の家老で高尾太夫(七之助)と恋仲です。

「たちやく(立役)」は、通辞の幸才典蔵(こうさいてんぞう)の芝翫さんで、伝七と高尾太夫の深い仲を知らず、高尾太夫との取り持ちを伝七が引き受けてくれたと勘違いして、唐使呉才官(片岡亀蔵)が横恋慕している名山太夫の身請けの金も用立て、偽物の菊一文字も本物だと偽ってやると請け合います。

そこまでの経緯がそれぞれの役柄で演じられ、なんとかここまであたふたとして道筋をたてた伝七は柔らかさと懸命さで働きます。

ところが、高尾太夫と伝七の仲を知った典蔵はがらりと態度を変え、菊一文字を偽物だといい、名山太夫を呉才官に渡します。この変化を芝翫さんは上手くあらわし、それにあたふたする高麗蔵さんとそれを補佐する鴈治郎さんがそれぞれの役どころを掴み繰り広げてくれます。上方独特の持ち味です。

辱しめを受け我慢が爆発し、伝七は典蔵を殺してしまいます。そこへ奴光平(松也)が本物の菊一文字のありかを知らせに来て、伝七は本物を手に入れるため走ります。

話しは他愛無いですが、三役が上手く演じわけられ面白い舞台となりました。

千歳屋女房(友右衛門・珍しく女方ですが違和感ありません)、珍花慶(橘太郎)、須藤丹平(福之助)、太鼓持(竹松、廣太郎)

 

秋の色種』は、現実の気候はおかしいですが、舞台は理想的な秋の装いでした。背景が薄い水色系に秋の草花が程よく描かれ、玉三郎さんは高島田の前には輝きを押さえた金の花櫛で、着物は薄い紫のぼかしから薄い水色にかわり、袖と裾に秋の草花が刺繍されています。扇が秋風にここちよいほどに優雅に遊び、秋の虫の音に聴き入ります。

静かにしましょうとそっと梅枝さんがピンク系で、児太郎さんが朱色系のぼかしをいれた着物姿で花道からあらわれます。

あの扇使いは無理であろうから使って欲しくないなと思っていましたら、そこでお二人は使われませんでした。

終盤近くで、玉三郎さんが上手に消えて、梅枝さんと児太郎さんはお箏の前にすわります。誰もいないお箏が最初から気にかかりましたが、そういうことですかと、やはりサプライズありです。何事でもないようにお二人は箏を演奏されます。

それが終わり出て来られた玉三郎さんは黒の着物で、櫛と笄のみの名前はわかりませんが好きな髪型です。がらっと雰囲気が変わりこれまたサプライズです。三人で静かに扇を使われて終わりました。谷崎潤一郎も好んだと言われる『秋の色種』、堪能しました。満足感でいっぱいです。

 

歌舞伎座10月『マハーバーラタ戦記』

<新作歌舞伎 極付印度伝>とあります。「マハーバーラタ」は世界三大叙事詩の一つで、あと二つはギリシャの「イーリアス」と「オデュッセイア」だそうです。原作は膨大で手も足もでませんから、歌舞伎座の舞台で触れさせてもらうことにします。(脚本・青木豪/演出・宮城聡)

チラシ置きコーナーに、『マハーバーラタ戦記』の神たちと人物相関図がありました。この図がなくても、セリフを聴いていると何が起ろうとしているのか、どういう人物が出てくるのかは大体わかります。国立劇場で上演される菊五郎劇団の新作歌舞伎をイメージしていましたら、それとは違うセリフ劇でした。動きが少ないだけにセリフは聴きやすいです。

神の世界と人間の世界に分け、当然神様たちが人間界を眺め、人間は戦さを始めるらしいがどうするかと話し合いがもたれます。主なる神は、那羅延天(ナラエンテン・菊五郎)、シヴァ神(菊之助)、太陽神(左團次)、帝釈天(タイシャクテン・鴈治郎)、大黒天(楽善)、多聞天(彦三郎)、梵天(ボンテン・松也)の7神です。

古代インドの神々は知りませんので、シヴァ神や太陽神と並んで帝釈天、大黒天、多聞天が出てくるのが不思議な気持ちでした。話し合いの結果、様子を見ようということになり、太陽神は争いをさけ和をもって平定する自分の子を、帝釈天は力をもって支配する自分の子を人間界に送りだします。ここから人間界となるわけです。

子を宿すのが、(ここから人間界の人物はカタカナにします)クンティ姫(梅枝)で太陽神の子・カルナ(菊之助)はガンジス川に流され、帝釈天の子・アルジュラ王子(松也)は、クンティ姫の三男として育てられます。弓の名手に成長したカルナは王位継承の争いに巻き込まれ、結果的にはこの異兄弟同士の、一騎打ちの戦いとなります。

象の国のクンティ姫(時蔵)の夫は亡くなり、夫の亡き兄の先帝の長女・ヅルヨウダ王女(七之助)は自分に王位継承権があるとしてと弟王子(片岡亀蔵)とともに主張し、仙人クリシュナが仲裁に入ります。

カルナは自分がこの世を救う者であることを夢で知り、育ての親(萬次郎、秀調)のもとを離れて弓技を磨く修業にでて、この王位継承争いの中に係ることとなります。ヅルヨウダ王女はカルナを自分の永遠の友人となることを約束させます。ヅルヨウダ王女の本質を見抜けないカルテの呑気さが少々きになるところです。

クンテ姫には五人の王子がいます。ユリシュラ王子(彦三郎)、ビーマ王子(坂東亀蔵)、アルジュラ王子、双子のナクラ王子(萬太郎)、サハデバ王子(種太郎)です。ヅルヨウダ王女はユリシュラ王子を賭け事に誘い、いかさまで全ての兵力やアルジュラ王子の婚約者・ドルハタビ姫(児太郎)まで賭けのかたに奪おうとしたり、五人の王子を招待して焼き殺そうとしたりします。

それでもカルテはヅルヨウダ王女を永遠の友として、自分の倒すべき相手は、力で治めようとするアルジュラ王子であることを知り二人の対決となるのです。対決すべきアルジュラ王子が、帝釈天が言った力でおさえる性格より優しくて、自分がカルナと血のつながった兄弟であることを知っていて最後は、カルナもそのことがわかり、わざとアルジュラ王子に殺されて死ぬのです。

何かすっきりとしませんでした。その後神々があらわれて、象の国はユリシュラ王子が国を治めたといい、なぜなら彼には欲というものがないからであるというのですが、賭け事で物に対する執着心なく次々賭けていきますが、それが欲が無いとは違うであろうと思えました。

一応、まだ人間たちを生かしておいていいであろうということで、人間界は滅亡することなく続くということに決まります。

考えてみますに、太陽神の子カルナが自分の力を過信し、帝釈天の子アルジュラ王子が力ではなく情があり、それは人間界で生きていくうちに変わっていったことで、最後にカルナがそれに気がついたということなのでしょうか。そういう結論になってしまいました。

和だけではない楽器の生演奏も入り、古代インドの雰囲気も加わりました。ただ、両花道のつらねのときの音はいらないとおもいました。リズムが頭に響いて歌舞伎ならではのつらねのセリフの良さを邪魔されてしまいました。

舞台の大きな屏風様の背景が圧迫感があり、カルナとアルジュラ王子の一騎打ちになって初めてこの屏風が畳まれ、その回りを馬の引く一人乗り戦車機でカルナとアルジュラ王子が走りまわります。初めて観る舞台光景で新鮮でしたが、このためだけだとすれば勿体ない気もしました。せっかくの舞台空間なのですから。

シキンピ(梅枝)とビーマ王子のところは、二人で踊ってもいいのにとも思いました。ヅルヨウダ王女側と五人兄弟との対立が、神の子であるカルナとアルジュラ王子の一騎打ちで代表され、歌舞伎的大団円がなく、スペクタクルさにかけたのが少し寂しかったです。

叙事詩的であったということでしょうか。セリフ的にも聞きやすかったのですが、歌舞伎的セリフ術を味わうというわけにはいきませんでした。若い役者さん中心の世界三大叙事詩の一つの歌舞伎化ということでしょう。若い役者さんあっての歌舞伎化といえるのでしょう。

その他の出演/ドルハタ王と行者(團蔵)、修験者ハルカバン(権十郎)、シキンバ(菊市郎)、ラナ(橘太郎)

 

 

新橋演舞場 再演『ワンピース』観劇一回目

2015年の『ワンピース』が帰って来ました。ただ猿之助さんのルフィが難破したらしいとの情報が入り心配でしたが、白い島に無事漂着したらしいので先ず一安心です。その次の日に尾上右近さんの代役二代目ルフィ(二代目といってよいとおもいます。)を観劇することとなりました。

実は、チケットを取る日が遅れて、特別マチネの券は購入できなかったのです。仕方がない、マチネは11月と思っていましたら、10月に観れることとなりました。11月にはマチネの役者さんもかなり役が身についているでしょうとおもっていたのですが、何んと10月の始めからこの出来上がりなのかと驚きました。

結果的に、猿之助さんの演出家としての力を見せつけられたのと、初演の『ワンピース』が練り込まれてバージョンアップして個々の役が濃厚になり、その中で鍛えられ、二代目ルフィを持ち上げて舞台に飛ばすことができたわけです。事故は突発的なことですが、舞台はそれに対処できるように積み上げられていました。

2015年の感想で 新橋演舞場 『ワンピース』 <2年後には船長ルフィと仲間が船出できることを祈る。>と書きましたが、それはこの歌舞伎演目、海外に船出できるとの想いからだったのです。それが新橋演舞場に再上陸して観劇し、そうかここまでバージョンアップできる可能性を秘めていたのかと納得しました。

ハリウッドで実写映画が作られるということですから、実演で海外に船出するチャンス到来とおもいますが、宙乗りは海外では無理なのでしょうかね。猿之助さん白い島で考えて下さい。

ニコ・ロビン、ナミ、ゾロ、ブルック、ウソップ、サンジ、フランキー、チョッパーの見得のあと後方に名前が出ます。これは大助かりです。ウソップに抱かれたチョッパーに関しては名前が出たかどうか定かではありません。(11月にしっかり注視します。)

尾上右近さんのルフィでわかったのは、猿之助さんはルフィをゴム人間としてゴムまりのような動きを考えられていたようです(勝手に)。狐忠信は人間の姿で狐の習性を見せそれが形となっています。ルフィもそでに去るときゴムまりの弾むような走り方をするのを見て思った次第です。

手が伸びるところで手だけを見せる何人かの黒い衣裳の人と組み合わせて手を伸ばすときのルフィが、間で踊りのような手を使った綺麗な動きを見せますがこのあたりもただ手が伸びるだけではない歌舞伎ならではの動きでした。

ルフィは、兄エースや白ひげや仲間たちに対する想いが膨らむと物凄い弾みがでます。そして自由にどこでも転がって忍び込んだりします。しかし、その対象がなくなると空気が抜けたように動けなくなってしまいます。空気を入れてポンと弾ませてくれる力が必要なのです。その場面も後半の女ヶ島で丁寧に描かれたとおもいます。

ボンクレーと出会う大監獄インペルダウンも前回より印象的になっていますし、ニューカマーランドは、イワンコフを中心にやはり可笑しくて楽しくて愛すべき集団世界でした。

エースを捕らえたセンゴクを頭とする海軍一団も、つるが数回でることによって、人数が増えた白ひげ海賊団とのバランスもとれました。白ひげとスクアードの関係にプラスされて白ひげ海賊団がマルコなど登場人物がふえていました。尾上右近さんは、マルコとサディちゃんで大阪の松竹座から参加されたわけですが、こちらは、隼人さんのマルコで観ることとなりました。宙乗りありで羽根のような衣装がぴったりで、マルコが芝居の中に上手くはまっていて白ひげをより大きくしました。

エースは福士誠治さんから平岳大さんで、赤犬サカズキとの戦いの場のドグマの映像はなかったように思うのですが、(二年前に一回の観劇でしたので、反省し今回は11月も観劇します。)迫力がありました。岩の崩れるところ、他の海賊船が現れる映像も今回印象的でした。

平さんのエースは福士誠治さんのエースより大人っぽい感じで、シャンクスは恰好よく決まっていました。

本水も相変わらず頑張っていて、マゼラン前回あんな高い所から飛んだっけ、体重大丈夫かな。客席への水かけサービス多くなったような。看守役の人たちこんなにすべったかな。お風邪には要注意です。

初参加の新悟さんも前から参加されているような感じで、ニョン婆と三人姉妹のこともよくわかりました。冷静なマリーゴールド、それに従う新悟さんのサンダーソニア、サデちゃんで発散しています。『弥次喜多』で七之助さんに診断されていた竹三郎さんが女医ベラドンナで名医です。

ルフィとハンコックの早変わりもスムーズで、何の問題もありませんでした。元気いっぱいの尾上右近ルフィですが、これからもう少しゴムの弾みと、稚気が加わるといいなあと思いました。まだ少し尾上右近さんの演じるルフィですが、次第に尾上右近ルフィになっていくことでしょう。

ということは、猿之助さんは安心して白い島の駕籠の鳥として、もっと遠くの海と空を眺めていてもいいということになります。さらなる風を集めて帆をあげるために。

『TETOTE』のこの部分速くて波に乗りそこないそうになるんですよね。もちろんファーファータイムはスーパータンバリンで盛り上がりましたよ。マーガレットさんとスイトピーさんごめんなさいです。そちら見る暇なくて自己流で叩き続けていて、終わってみれば左手が痛かった。来月はきちんと指導に従います。以上。

追記: 昨年、シネマ歌舞伎『ワンピース』 見ていたのだ! ぽっかり抜けていました。ショック! 今回の実際の舞台を観つつ脳が探していたのは映像ではなく2015年の舞台の残像なんですよね。しかし、映画を見た事を忘れていたというのはかなり問題ありです。

11月に観に行った時、尾上右近さんのルフィ忘れていて、尾上右近さんのルフィ初めて観ましたと書いたら完全に問題ありです。しかし、猿之助ルフィがうかんだとしてもそれは問題ありとはいえません。

結論です。舞台は自分の眼でとらえたいように主体的に観ていますから記憶として残りますが、映像は誰かさんの勝手な眼ですから記憶としての濃度が薄いのでしょう。そういう事にします。呂上。

 

 

歌舞伎関係イベント

かなり時間が過ぎてしまったのですが、歌舞伎関係のイベントを二つ。一つは早稲田大学演劇博物館での「第80回逍遥祭 シェイクスピアの上演と翻訳」で、歌舞伎俳優の中村京蔵さんのお話と朗読で、もう一つは、歌舞伎学会の企画講演会「演劇史の証言 山川静夫氏に聞く」です。

「第80回逍遥祭 シェイクスピアの上演と翻訳」(早稲田大学演劇博物館主催)

 歌舞伎俳優の中村京蔵さんは、蜷川幸雄さんの『NINAGAWA・マクベス』の魔女を演じてこられ、亡くなられた蜷川さんの追悼公演で海外を回られ、埼玉での追悼公演を目前にしておられました。蜷川さんのマクベスは観ていないのです。残念ながら埼玉の公演も観れませんでした。

蜷川さんの練習には何時くらいに入ればよいか経験者に聴いて二時間前くらいと教えられその時間に行ったところ、蜷川さんがもう来られていて、ほんとどの方が入られていて慌てましたと話されていました。観ていないためお話を聞いても想像圏内を遠くまで広げられませんが、先に魔女役をされた嵐徳三郎さんを踏襲してとのことで、蜷川さんから物が飛んでくることはなかったそうです。

聞き手が児玉竜一さんで、京蔵さんしっかり調べられていて小田島雄志さんと坪内逍遥さんの訳の違いなども話されました。こちらの勉強不足で、その違いについての面白さを上手く書けません。

その後、坪内逍遥訳の『ヴェニスの商人』法廷の場の朗読がありました。これには、尾上右近さんと江添皓三郎さんが加わわられました。

シィロックを中村京蔵さんが、アントーニオほかを江添皓三郎さんが、ポーシャを尾上右近さんで、尾上右近さんは女方ということになります。聴きごたえがありました。その前に、映画『ヴェニスの商人』を見ていましたので法廷の場の展開は楽しみでした。

シャイロック(アル・パチーノ)、アントーニオ(ジェレミー・アイアンズ)、ポーシャ(リン・コリンズ)ですが、映画の映像も飛んでしまう濃い朗読でした。かなり間をとるなと思っていましたら、右近さんが、次は京蔵さんと思い京蔵さんならではの間かなと思ったら自分が勘違いしていたとの朗読後の報告がありました。いやいや、京蔵さんも目くばせすることもなく落ち着かれていて、右近さんも表情が変わらず続けられましたので、大きな問題なしです。

児玉さんも言われましたが、シャイロックは財産を没収されるだけでなく、宗教もユダヤ教からキリスト教に改宗させられ映画を見てそのことが新たな驚きでした。シェイクスピアさんはやはりただ者ではありません。『もうひとりのシェイクスピア』という面白い映画もありました。シェイクスピアさんとのお付き合いはゆっくりとです。

京蔵さんは、京屋の三姉妹(京蔵、京妙、京紫)のお一人でもあられるのですが、そのお一人京紫さんが先月亡くなられました。(合掌) 昨年の国立劇場での研修発表会で『仮名手本忠臣蔵』の二段目の格の高い戸無瀬をされていたのが印象的で、若い役者さんたちにとっても早すぎるお別れでした。

京蔵さんは、個人的にも色々な歌舞伎に関する催しをされているようでチラシをいただきました。秀山祭では、『極付 幡随長兵衛』の長兵衛宅の女中およしとして、女房お時、長松をおぶる子分の清兵衛といっしょに花道からでてこられます。

京妙さんは、『再桜遇清水』で、病に苦しむ清玄に薬を与えながら、清玄に殺されてお金を奪われる富岡の後室をされています。

歌舞伎学会の企画講演会「演劇史の証言 山川静夫氏に聞く」は、聞き手が神山彰さんと児玉竜一さんで、お二人が質問されることに即答えられ、二対一でも負けないほどの歌舞伎通で、さらに、役者さんたちの声色もできてしまいますから、楽しくて二時間が短かったです。

山川静夫さんは、静岡浅間神社神主の長男で、神主になるべき勉強をされながら歌舞伎にはまってしまわれ、神主の研修の祝詞がつまらないので、声色で祝詞をしたというのですから極め付きです。

NHKのアナウンサーになられ、アアナウンサーの地方局勤務のお話から紅白のお話、名物アナウンサーのお話などまで巾が広いのです。ラジオで劇場中継をしていて、担当アナウンサーによって歌舞伎の情感も違ってきたようです。小津安二郎監督の映画にも田中絹代さんが歌舞伎のラジオ中継を聴いていて、かつては聴くだけで歌舞伎がわかったのか凄いなあと思っていましたが、アナウンサーに導かれて鑑賞していたのですね。一度聴いてみたいです。

導かれたといえば、こちらは、NHK衛星第二『山川静夫の華麗なる招待席』で歌舞伎など先導のあとについていったほうですが、衛星放送が始まり、番組編成にゆとりがあり長時間の『山川静夫の華麗なる招待席』(1994年から)が生まれたのだそうで、いや好い時に遭遇しました。今でもこの時に録画したものは観させてもらっています。三階席からの大向うで今も時々お声をききます。「あっ!山川さん来られているな。」とわかりますが、ふっとそう思ってさっと頭から消えるような絶妙な掛け声です。

三階から声をかけると、下に届くまでにわずかな時間差があり一呼吸おくれてしまうとのことで、そんな些細な時間差まで考慮されるのかと驚いてしまいました。アナウンサーという限られた時間を進行されるかたならではです。

2000年には脳梗塞にて失語症になられますが、言われないとわからない弁舌でした。苦言もありました。『勧進帳』の弁慶の引っ込みで手拍子がおこるのはいかがなものか、手拍手の間ではありませんと。

もっと時間があっても愉しませてくださったとおもいますが、著作も沢山ありますので続きはそちらでということで。

『山川静夫の華麗なる招待席』での録画とは別の録画で、『極付 幡随長兵衛』がありました。長兵衛が吉右衛門さんで水野が仁左衛門さんの時で、子分が染五郎さん、松緑さん、松江さん、男女蔵さん、亀寿(改め坂東亀蔵)さん、亀鶴さん、種之助(改め歌昇)さんでした。驚いたのは、児太郎さんが同じ役で大きく変わられていました。柏の前が福助さん。お時が元芝翫さん。

清兵衛が歌六さんで、花道で舞台番にこしかけた坂田金左衛門の吉之丞(吉之助改め)さんが腰かけられる側舞台番でした。京蔵さんは水野側の腰元で、役が敵味方逆転するなど時間がたつと役者さんの役どころの変化もおもしろいものです。

山川静夫さんは、もっと沢山の役の違いをみておられることでしょう。