明治座 『五月花形歌舞伎』 (昼の部)

夜の部が『伊達の十役』で、昼の部は、『義経千本桜』(鳥居前)、『釣女』(つりおんな)、『邯鄲枕物語』(かんたんまくらものがたり)である。

『義経千本桜』は文字通り<花形>というよりも、先輩諸氏に言わせれば<花蕾>といったところであろう。かつては、諸先輩方は個人の勉強会などで、勉強の成果をお客様に見ていただくといった時期であったと思う。今、それだけ若い役者さんに期待し早く育って欲しいと思われているのであろう。

『義経千本桜』の鳥居前は、伏見稲荷の鳥居前である。行ったことがあれば、上まで上がるのに結構きつかったなどと思い出すかもしれない。話としては、この前に色々あるらしいが、見ている人は判らないのであるから、弁慶が何か失敗をして義経に怒られているな。『勧進帳』のあの主従関係に比べる、弁慶は軽いな。こんな弁慶の描き方もあるのかと思えばいいのである。静は義経について行きたいのだが、それが許されないのだな。その代り、義経から<初音の鼓>を預かり、お供に忠信を遣わすのか。面白い道化役が出てきて静と忠信の邪魔をするが、やっつけられてしまう。悲劇なのに随分派手な捕り手だなあ。忠信って、花道引っ込むとき、変な仕草をしたように思うが、あれは一体何なの。 義経、イケメンだったなあ。家来の声よかった。静が可愛い。愛嬌のある弁慶で、忠信のほうが動きが大きくて強そうだった。と、こんな見方で楽しめばよいのかも。同じ演目を次に、年配の役者さんで見たときは、緊張感が違うし、一段舞台が高く思える。若さもいいけど、背景に背負っている何かがあるみたい。何なのであろうか。少し調べてみようかな。と、なるかどうか。

忠信・源九郎狐(歌昇)、静(米吉)、早美藤太(吉之助)、義経(隼人)、弁慶(種之助)

『釣女』は狂言の『釣針』を歌舞伎舞踏にした楽しくて明るい出し物である。大名と太郎冠者が、恵比寿様のお告げによって釣竿で妻を釣るのである。大名のほうは美しい上臈(じょうろう)で祝言となるが、太郎冠者のほうは期待に反し醜女(しこめ)である。予想外の結果に二組の男女の違いと、混乱が交差する。

太郎冠者の染五郎さんと醜女の亀鶴さんのコンビは、まだ手探りのところに思われた。亀鶴さんの醜女はふくよかでどこか天然の感じで可愛げもある。そのあたりの呼吸と間があえば、もう少しユーモアの膨らんだコンビになりそうである。

太郎冠者(染五郎)、大名(高麗蔵)、上臈(壱太郎)、醜女(亀鶴)

『邯鄲枕物語』は、船の櫓を作る職人の清吉夫婦が、義理ある主人が紛失した御家の一軸を質屋で探し当てるが、それを請け出すお金がない。引っ越し先で茶店をし、大家さんの知恵をかりるが、うまくいかない。客の荷物の取り違えから、客の置いていった箱を枕に清吉は昼寝をする。清吉が目を覚ますと彼は違う世界にいた。この世界のお金の扱い方が、いままでのの世界と反対の世界で、清吉はお金の使い方の違う苦労をすることとなる。歌舞伎の他の演目のパロディー も入り、役も入り乱れ、おかしな世界が出現する。歌六さんは、今回の明治座で女形に目覚めるかもしれない。『吉田屋』に見立てた場面がある。清吉が花道を二つ折りの深編笠で顔を隠し、伊左衛門よろしく出て来る。紙子の着物のデザインを取り入れた、白地に文字が入り水色が加わり、所々が光るのである。この時の染五郎さんの体の形の美しさには驚いてしまった。ここは和事の出として難しいところであるが、夢の世界にふさわしい出来であった。実は、清吉の見た夢の世界に観客は連れていかれるのである。『櫓清の夢』。

市川染五郎、中村壱太郎、中村歌昇、中村米吉、澤村宗之助、中村亀鶴、中村歌六

 

明治座 『伊達の十役』

『伊達の十役』を見ていて、五日市の大悲願寺<伊達政宗白萩文書>のことを思い出した。仙台と花の萩は昔から縁があるのであろうか。仙台市の市の花は萩であるらしい。伊達騒動は「樅の木は残った」(山本周五郎著)や「赤西蠣太(あかにしかきた)」(志賀直哉著)等にも書き表され、さらに歌舞伎には「伽羅先代萩(めいぼくせんだはぎ)」というのがある。<伽羅>は<きゃら>で高価な良い香りを放つ香木である。それを<めいぼく>と読ませ、<先代>は<仙台>の事である。

歌舞伎では、時代は鎌倉時代とし、奥州の足利頼兼が伽羅の下駄をはき、廓に通ったことからきている。頼兼が花魁の高尾に入れ込み、その遊蕩からお家がぐらぐらと怪しくなるのである。今上演されるもとを作ったのが桜田治助で、それを改訂して四世鶴屋南北が『慙紅葉汗顔見勢(はじもみじあせのかおみせ)』(伊達の十役)をあらわし、その原本が残っていないのを復活させたのが、三代目猿之助さんである。その役に染五郎さんが初役で挑んだ。

先ず、始めに口上で『慙紅葉汗顔見勢』は文字通り、恥も外聞もなく顔を紅葉のように真っ赤にして汗をかいてお見せしますと述べられ、演じる十役を写真によって善と悪のグループにわけ説明された。善グループ〔足利頼兼・絹川与右衛門・高尾太夫・腰元累・乳人政岡・荒獅子男之助・細川勝元〕 悪のグループ〔仁木弾正・赤松満裕・土手の道哲)である。この十人の登場人物を演じ分けるのである。そのため、40数回の早変わりである。

舞台装置の関係であろうか、早変わりに心奪われて、内容が判らないということはなかった。通しであったり、単発であったりで『先代萩』『伊達の十役』を見ているが、ダイジェスト版としても良く理解できた。口上の説明もよかったと思う。

仁木弾正(染五郎)は亡き父・赤松満祐の亡霊(染五郎)から、鼠の妖術を授かり特殊な能力を持つこととなる。そして、高尾太夫(染五郎)と累(かさね)(染五郎)は姉妹で、絹川与右衛門(染五郎)は累の夫であるが、主君・頼兼の事を思い高尾を殺してしまう。その高尾は妹・累にのり移りそのため与右衛門は累を殺すこととなる。与右衛門は子年、子月、子日、子の刻生まれで、その生き血で仁木弾正の妖術を破ることができるため、自ら鎌で自刃し、その鎌を渡辺民部之助(亀鶴)に渡し、民部之助は仁木弾正の妖術を破るのである。ここの筋だけでも、亀鶴さん以外は全て染五郎さんであるから、その早変わりがどうなっているのかと疑問に思うところであろうが、きちんとそれぞれの役になって現れるのである。

染五郎さんの累はどこか儚くて、この人に不幸が覆いかぶさるなと想像できた。高尾太夫の花道の出も艶やかでありながら、累と通じるものがあった。科白はきちんとは判らないが、ちょっと太夫をも演ってみましたというような表現があり、他の場面でも、舞台装置の工夫を科白として言及したり、土手の道哲では、だからこういう役はやめられなとの悪戯もあって、客に媚びるのではない流れでクスッと笑わせてくれる。

乳人政岡と、その子千松が幼君に代わって毒菓子を食べる御殿の場は、仁木弾正の妹・八潮を歌六さんが、栄御前を秀太郎さんが演じられ整った場面となった。

細川勝元の評定では、先輩のあの役者さんはもっと上手かったなあと思わせられたが、そのあともろもろの事があり、最後、渡辺外記左衛門(錦吾)に、外記左衛門の言い分が通り目出度く決着が付き「外記、よかったなあ」と声をかけるあたりは情がありほろりっとしてしまい、いい終わり方であった。

評定の後から亀鶴さんも大活躍で、だれることなく引っ張り最後にこの情がでたのが、染五郎さんの『伊達の十役』の一番のお手柄と思えた。そして、それぞれの役の鬘が染五郎さんの顔によく合っていたのもすっきりとした流れに一役かっていたと思える。

これからも女形に挑戦していただきたい。『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』の累が見てみたいものである。

 

歌舞伎座 『鳳凰祭四月大歌舞伎』 (昼の部)

『寿春鳳凰祭(いわうはるこびきのにぎわい)』  <鳳凰>を、かつて歌舞伎座のあたりを<木挽町>といわれていた事にかけて読んでいるのである。<木挽町> 字といい響きといい残しておいてほしかった町名である。歌舞伎座松竹経営百年・先人の碑建立一年を記念しての<鳳凰祭>をことほぐ舞踊である。平安朝を舞台とする帝、女御、大臣、従者が艶やかに優雅に踊る。帝の我當さんの舞を観ていると、映画 『歌舞伎役者 片岡仁左衛門 (全六部)』(監督・ 羽田澄子)の十三代目仁左衛門さんが浮かび上がる。眼が不自由になられてから、身体は芸を覚えつくしていて、その立ち位置だけを歩数を数えて確認されていた。二十代の方々が映画に対し次のような感想を残されている。

<体の自由がきかなくなりつつも老いを感じさせないのがフシギでした><最初は老いていく現実をとらえたドキュメンタリーだと思って見ていたのですが、次第に芸の部分に引き込まれ、舞台の映像を見ながらいつの間にか涙があふれていました。>

来月は十四代仁左衛門さんも舞台に戻られるようで何よりである。

『鎌倉三代記』  これが難しい。三姫(「 本朝廿四孝」の八重垣姫、「祇園祭礼信仰記」の雪姫、「鎌倉三代記」の時姫) の一つである。八重垣姫と雪姫は、雀右衛門さんが印象的であったが、時姫は記憶として残っていないのである。今回は魁春さんであるから歌右衛門さんの形なのであろう。家康の大阪城攻めを鎌倉時代に置き換えている。三浦之助(梅玉)は城を抜け出し重態の母に暇乞いにくる。母・長門は未練がましいと逢おうしない。そこに許嫁の時姫(魁春)が長門の看病にきている。時姫は敵将時政の娘である。父の使いの藤三郎(幸四郎)が向かえくるが帰らない。三浦之助に夫婦の契をとくどく。三浦之助は夫婦になりたくば、父時政を討てという。時姫は父を討つことを決意する。藤三郎は実は佐々木高綱で、時姫に時政暗殺を仕向ける計略であった。高綱の戦話となる。

時姫の口説きが見せ場であるが、三浦之助に夫婦の契をと長門のいる部屋を気にしつつせまるが、その後、父を殺す決心をする所がさらーと流れて、もう決心してしまったのという感じであった。もう少し濃くてもよいのではないか。そのため三浦之助の受けも薄く感じた。高綱に なってからの幸四郎さんが時代味があってよかったが、もう少し時姫が濃ければ計略の意外性に見る側も驚きが強くなりドラマ性が出ると思うのだが。

『寿靭猿(ことぶきうつぼざる)』  三津五郎さんの歌舞伎復帰である。主人から矢を収める靭を猿の皮で修理するように命じられた女大名・三芳野(又五郎)と奴・橘平(巳之助)の前に猿が現れる。猿の主があるであろうと奴の巳之助さんが<ぬしに早く会いたいものである>というのが合図で猿曳寿太夫(三津五郎)が花道から現れる。一つの芸が戻ってくるということは本当におめでたいことである。猿曳きは猿は渡せないという。猿のしぐさがなんとも可愛いのである。三芳野は、では弓で射るという。猿曳きはムチで打ち殺す急所を知っているため自分が殺すという。ここからの猿曳きの苦しい心の内を三津五郎さんは猿を相手に情を出し丁寧に表現される。猿が舟を漕ぐ芸を無心に繰り返すのを見て、三芳野は猿を助けることにする。ホロりとさせ最後はほのぼのとさせてくれる。巳之助さんの奴の踊りを観て、奴凧を思い出す。奴というのは奴凧の体つきが必要なのだと気付かされた。

『曾根崎心中』。<坂田藤十郎一世一代にてお初相勤め申し候> これで終わりという事ではない。これで終わりと思う性根で勤めますとの意と解した。生玉神社で逢う場面は、お初の若さを強調されているようで違和感があったが、天満屋での縁の下に徳兵衛を隠し、周囲に気付かれないようにキセルを使ったり、足先で心中を決意する時の流れが絶妙であった。以前みたとき、この場面で気持ちがだれてしまったことがあり意外に思ったことがある。友人の九平次(橋之助)が生玉の場面でもいいだけ徳兵衛(翫雀)をいたぶり、天満屋でも言いたい放題で、お初と徳兵衛が次第に追い詰められていくのと上手く重なっていく。女中のとぼけた演技が、観ている者には可笑しいのであるが、悲劇に向かう二人にとっては難所の脱出である。そして、若いだけにどんどん二人だけの世界に入って行き心中へと向かっていくのである。曾根崎の森の場の舞台美術がよかった。森がすごく大きく、二人の人間が小さいのである。森の生命力に比べると若い二人の命が儚く、こんな小さな命が消えてしまうのかと慨嘆してしまう。緑のなかに、徳兵衛は緑系の地に縞模様。お初は白の着物に紫の帯そして赤い襦袢だったとおもうのだが、背景に映える色使いであった。

 

歌舞伎座 『鳳凰祭四月大歌舞伎』(夜)

久方ぶりに『平家物語』に触れたので『一條大蔵譚』からにする。阿呆と本性の行きつ戻りつの演技は、お手の内といった吉右衛門さんの一條大蔵卿である。今回衣装の色が淡く感じた。「物語り」(吉右衛門著)のなかで<初代以来原色っぽい強いものと、やわらかい色の二種類があります。僕の場合は、若いときは強い色にしていますが、最近はだんだんやわらかい色のほうになってきました。>とあり、以前からやわらかい色を使われていたのであろうが、その色が合ってきたということであろうか。一條大蔵卿の密かに一人企む腹が語られるとき、やわらかい色でも芸で伝わるようになったと理解した。魁春さんの常盤御前が品があり梅玉さんの鬼次郎に打たれて、よくやったと褒めるあたりは、こちらもギリギリまで本心を見せない、位の高さがあった。芝雀さんが間者として入り込む隙の無さが、阿呆の大蔵卿と対峙して、阿呆さを一層際立たせた。中村歌女之丞さんが幹部になられたようであるが、鳴瀬として阿呆の大蔵卿をしっかり補佐されていた。

『女伊達』の時蔵さんは大きかった。国立劇場での<切られお富>が色気のある悪婆で、この役をやったことによって線の太さがでてこられたように思う。(3月国立劇場は観たのであるが書こうと思っているうちに日にちが過ぎてしまった。)男伊達は松江さんと萬太郎さんであるが、ここで違いがでた。萬太郎さん頑張っているのだが、松江さんの年輪には負けていた。それは、女伊達の時蔵さんと絡むとき、萬太郎さんの時女伊達が小さくなってしまうのである。これは観ていて相手役によって主役も違ってくる例として勉強させられた。男伊達を翻弄するあたりも大きく血の気もかんじられる女伊達であった。

『髪結新三』は、幸四郎さんは小悪党は無理と観る前から思ってしまった。大悪党で貫禄がありすぎる。手代の髪をあつかう職人である。普段はヘイヘイと頭を下げている髪結いである。柄が大きいだけに損である。弥太五郎源七より始めから大きいのである。大家さんの彌十郎さんが声を大きくして大家の狡さを出して対抗し、幸四郎さんも大家には負けていたがそうへこまされていたようにも思えない。橋之助さんの手代忠七は芝翫さんの忠七をしっかり学ばれたのであろう。台詞まわしなど芝翫さんを彷彿とさせた。しかし、芝翫さんのほうが、新三がさっさと忠七を置いていってしまい、新三を呼び止めるあたりからは、やわらかさがあった。世話物のやわらかさというのは難しいものと思えた。ただ、幸四郎さんの考える髪結新三とはこういうことなのかと思って観ると、これは幸四郎さんの解釈の髪結新三としての楽しみ方はある。そう考えるとバランスが取れていた。ただ時代性をかんがえると江戸からはみ出してしまう。

 

 

旧東海道 戸塚から藤沢 (2)

信号のあるところで渡ろうと信号の前に立つと見えました。浅間神社の石塔が。道路と並行の形で上っていく。古い神社なので樹齢600年の椎の木があるという。しかし、この椎の木、根本に近い幹はもう少しで小さな子供が座れるくらい空洞で、これからどう伸びればよいのやらの状態である。案内板も曲がって上の方は折れている。頑張れ頑張れと撫ぜてあげる。他にも太い椎の木がある。境内に上がると、道路は上着を脱ぐ暑さである。東海道を歩くのも今月末くらいであろうか。境内の緑の中は涼やかで気持ちが良い。

リーダーは焦っている。箱根越えをなんとか早めにしたいと。ただ彼女、夏は陽が長いからと登山に忙しいのでその前と思っていたらしい。小田原から箱根が16.5キロ。箱根から三島が14.7キロ。箱根は二泊の電車つきフリーの安いのを見つけて、これはどうかと案を出したが、これのどの日にするか。皆が3日間、日にちを合わせるのが難しい。でも2日ではきついと頭を悩ませていたようである。こちらはバスの通っていない道の距離と高低が問題である。脱落の場合を検討しておかなければ。今日の戸塚から藤沢が7.8キロである。

藤沢まで半分は来たであろうからと昼食とする。﨑陽軒のレストランがありここにしようかと立ち止まったが、ここに入ったらゆっくりしてしまいそうと隣のとんかつ屋さんへ。予定は終わってはじめて実行結果となるので、途中の油断は禁物である。帰りの電車は通勤時間帯を避けるので、早めに終了としなければならない。美味しくて、適当な値段で、頼んだものが迅速に出てきて、気持ちよく食事ができること。合格点であった。疲れが出ないうちに食事も終わり歩きも快調。

左側舗道に、<道祖神・馬頭観音>があるはずであったが、来る途中ところどころに道祖神があり、<馬頭観音>と思いこんでいたのでどうやら道祖神の中に<馬頭観音>があったようである。観音様の頭の上までゆっくり眺めなかった。<諏訪神社>。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0165-1-1024x768.jpg

ここの椎の木が元気で立派であった。囲いがあり幹に触ることができなかった。さてここから先で国道1号線と分れるのであるが、それがどこなのか。途中で地元の人に尋ねる。どうやらこのまま進めばよいらしい。私よりも、他の仲間の尋ねた人のほうが詳しい説明であった。「これから下る道場坂は地元では遊行寺坂と言っている。右手に一里塚跡の案内板があり、左手にもう一つ別の諏訪神社があり、その向かいに遊行寺があり、そのお寺はひろいので、小栗判官・照手姫の墓は、遊行寺の中にあるかもしれない。ゆっくりお寺を散策するといいですよ。」との説明。言われた通りであった。尋ねかたも上手だったのであろう。

舗道には色々の種類の花々が開花して歩く者の目を楽しませてくれる。八重桜も風に揺れている。仲間に教えてもらった<べにばなときわまんさく>の木も桜に負けてはいない。白の花もあり、緑の葉と同化して白に近い薄みどりなのも品がある。楽しんで歩いているがなかなか一里塚跡がない。右手前方に木々が密集している。あそこが遊行寺であろう。とすると一理塚跡は見落としたか。「あった!」突然現れた。

安心して<遊行寺>へ向かう。道路左側にもう一つの<諏訪神社>の旗が見えるが、<遊行寺>を先とする。右手に関所のような門がある。藤澤山無量光院清浄光寺が正式な名前であるらしい。この藤澤山の号からこの地域が藤沢になったという。一遍上人の開いた時宗の総本山である。境内の一本の八重桜が満開である。咲く花に優劣をつけるのは申し訳ないが、八重桜は可愛いいのであるが色が強かったり、ボテボテッとしていたりする。ところが、この八重桜は色も淡い淡いピンクで一つ一つ花も小ぶりで、柔らかく優雅に寄り添って咲き、それが全体に木をおおっているのである。三人とも「お見事!」と感嘆する。今年はこの一本に出会えて満足である。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0167-1-1024x768.jpg

仲間の一人はすでに藤沢から平塚まで歩いていて、この<遊行寺>から始めたらしい。大イチョウの木を見て思い出したようである。樹齢660年、30m以上あったらしいが台風で一部分折れてしまったらしい。<小栗判官・照手姫の墓>は本では点で示されているので<遊行寺>の中とは思わなかったのであろう。探さなかったらしい。小栗判官墓所入口と彫られた石柱があった。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0168-1-768x1024.jpg

行く途中幾つか武家関係の墓や説明がある。お墓の中にも枝垂れ桜がある。枝垂れ桜は、桜の中でも儚い寂しさがある。墓所の上に小栗堂があり、その正面側面に<小栗判官公墓所へ>の表札と板戸の門があり片側が開いている。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0175-768x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0174-1024x768.jpg

そこを入り狭いお堂の脇を入っていくと、お堂の裏側に庭のようなあつらいになっているところに、小栗判官、照手姫、荒馬の鬼鹿毛のお墓がある。お墓の後ろにはツツジが咲いており、説教伝説としての一つの空間を作り上げている。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0169-1-768x1024.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0171-1-1024x768.jpg

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0172-1-768x1024.jpg

歌舞伎にも「當世流小栗判官」「スーパー歌舞伎『オグリ』」として上演されている。

「貴種流離譚(きしゅりゅりたん)といわれるもので、高貴な生まれの男女、小栗判官と照手姫が、諸国を流浪し、すれ違い、大変な辛苦の末に熊野権現の霊験により、ようやく結ばれるという大ロマンです。」「第三幕では、照手姫が足腰のたたなくなった小栗判官を車(木の箱に木車のついたもので手綱で引っ張るようなもの)にのせて熊野の湯に向かい、そこで出会った遊行上人の奇特で元の体に戻り、念願の敵を討ちます。」(「猿之助の歌舞伎講座」三代目猿之助著)

照手姫建立厄除け地蔵尊もあり、照手姫は小栗判官の死後ここで尼となり、判官と家来の菩提を弔ったとされている。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0173-1024x768.jpg

境内にもどり散策する。放生池そばにも桜があり、池の面は散った花びらが細い花筏を作っている。驚いたことに金色の鯉が二回水面からジャンプしたのである。仲間たちと、あれは、花びらを虫だと思ったのではないかと想像する。きっと今頃は、俺としたことが二回もジャンプしてしまって、一回で気が付きそうなものをエネルギーを使ってしまったと後悔しているよ、などと勝手に鯉の吹き出しを作る。その庭の外門が古そうで、門の前の立派な蘇鉄に朱色を少し薄くした実がなっていた。その回りにフェルト布のような薄茶のギザギザしたものが実を囲っていた。

境内に上るもう一つの石段は急であるが両脇に桜が咲き上から見ていても美しい。しかしこの階段を下りると浅間神社まで多少遠くなるので、その元気はない。ゆっくり散策できたのも、あそこで昼食にしたのが良かったと話す。<浅間神社>は上までどうしようかと迷ったが、上ることにする。高いので木々がなければ見晴しもよかったであろうが、森の鎮守の神様にそれを言うのは失礼である。

そこからJRの藤沢駅に向かう。藤沢駅から遊行寺まで20分くらいあるので駅から旧東海道まではたどり着くのは半信半疑だったようである。駅から旧東海道までをもう少し詳しく調べておくほうが良いかもしれない。

 

旧東海道つづき → 「藤沢から茅ケ崎」 2015年5月10日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

旧東海道 戸塚から藤沢 (1)

いつになったら京にたどり着くのか、弥二さん・喜多さんよりも覚束ない東海道の旅である。この前に、三島から沼津を歩いているのであるが、違う事を書いているうちに時間がたってしまい記憶の新しいほうからにする。この戸塚から藤沢は、歌舞伎の演目にも縁のあるところがあるのである。さらに、岸田劉生さんが住んで代表的作品を残したのもこの藤沢の鵠沼時代なのである。鵠沼には行かなかったが、坂の多さから<坂道>を題材として取り上げた劉生さんの心の風景が少し見えたような思いがした。

東海道歩きで一番問題なのが、駅から旧東海道を見つけることである。大きな駅であればあるほど駅構内から方向を定めても出口が多く、外に出ると駅の回りはショッピング街やビルであったりする。今回は三人。先ず<清源院>を探す。崖上に木々の緑が集まっている。先ずは当たりである。清源院長林寺は徳川家康の愛妾、お万の方ゆかりの寺である。葵の紋である。朱色のツツジが眩しい。芭蕉句碑 <世の人の見つけぬ花や軒の栗>。何があったのか 心中句碑 <井にうかぶ番(つがい)の果てや秋の蝶>。境内を下り、さてと方向を定めるとなんとなく旧東海道と思いたい道に小店あり。ふらふらと行きかけるが、違う違う、今回は国道1号線なのである。

この清源院から保土ヶ谷方面にもどった吉田大橋の辺りからかまくら道があるらしい。<東慶寺>を目指す人は、ここから東海道からかまくら道に歩みを進めたのであろうか。ただもっと先でも、かまくら道が東海道を横切っていたので、戸塚宿を目安として鎌倉に向かう道が数本あったのかもしれない。

歩道のマンホールの絵がマラソン走者である。箱根駅伝の通過道である。上り坂である。沢辺本陣跡の案内板あり、そばのお宅の表札が澤邊さんとあるので、本陣関係のかたであろうか。道路反対側に<戸塚地区センター>があるはずで資料を調達しようと予定していたが、標識が見えないのでパスして進む。<八坂神社>。<お札まき>の案内掲示板あり。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0163-1024x768.jpg

<江戸時代中期、江戸や大坂でさかんだった踊りで、今ではこの戸塚宿にだけ残っている。7月14日の夏祭りに男十数人が女装して音頭取りの歌に唱和して踊り、踊り終わると音頭取りが五色の神札をまき、人々はそれを拾い、家々の戸口や神棚に張る。歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」とあり、祇園祭と同様な御霊信仰にもとづく厄霊除(やくりょうよ)けの行事である。>

仲間の一人が「ドラマの<仁>もコロリにかかって点滴をしたんだよね。」 残念ながらこのテレビドラマは見たり見なかったりでその場面はみていないが、江戸の人々にとってはコロリは<厄霊>で封じ込めるか、除くかで身を守ることを考えたのであろう。

次が<冨塚八幡宮>でこの地区の<戸塚>の名のもととされている。かつてこの辺りを冨塚郷といい、冨塚一族の人々が住んで居たらしい。<富塚八幡宮>は源頼義・義家が奥州へ向う途中、社殿を造営したといわれ、富塚、戸塚名の方々の守護神となっている。

ここで八百万の神の話になり、仲間の一人が、「日本人は祟りを恐れて人を神様にして、その祟りを封じこめたから神様が多い。」という。なるほど、この世に変な形で出現せずに、見守っていて下さいという鎮魂の意味が強いのであろうが、かつては、私は何々の生まれ変わりだと名乗る武将達もいた。武勇や戦勝を祈るのは神様にとって迷惑なことかもしれない。神様たちも時には、あっちむいてプイをされておられるかもしれない。判らんなら、勝手に殺し合いなさい。ただ八百万の神といえども、神々の世界に次々送りこまないでいただきたなどといわれておられるかどうか。

『千と千尋の神隠し』の話になり、「ジブリは戦記物のほうが映画としては面白い。」と私。つかさず「戦記ものは全て<駿さん>になってしまうのよね。原作と違うのが不満。」と反論される。なるほど、原作を読んでいる人には不満なのか。「映画にすると盛り上がりを作ってしまって方向性が違ってくる。」それはそうであろう。アニメ映画となれば、盛り上がりをつくるか、ほのぼのさせるか、近頃は懐かしがらせるというのもあるからして。原作を読んでいないので退散。

<上方見附跡>が左側歩道にあるので反対側に渡る。見附は宿場の始めと終わりにある。戸塚宿の終わりで上方方面からの参勤交代の一行が戸塚宿に向かって来るのを見つける場所である。<上方見附跡>の案内板も無事みつかる。ここから坂が急になり大坂である。

目指すは<お軽勘平道行の碑>である。散りかけた桜をみたり、背の高いタンポポに、やはりタンポポはあのギザギザの葉に程よい背丈で咲くのが本当のタンポポなどと互いに講釈をしつつ歩く。ありました。<お軽勘平戸塚山中道行の碑>。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: SANY0164-768x1024.jpg

なかなか立派である。歌舞伎の道行に関しては、『仮名手本忠臣蔵』(歌舞伎座12月) (2) の拙い文で参考にされたい。(本当は次の東海道は、保土ヶ谷から戸塚なのであるが、諸事情によりまだなのである。)高い位置に道があり眼下を見下ろせるすき間も少しある。<お軽勘平>が見たであろう富士は、夜中人目を忍んで歩いたので、薄墨富士というのだそうである。薄墨富士、なかなか良い。今日は遠くは霞んでいて霞富士も何もみえない。道の分岐路には松並木の名残の松があるが、ずーと先で当時の松は松くい虫のために枯れてしまったと説明があった。道でさえ今は車の多い道に変ってしまうのである。今、生き残っていること自体が素晴らしいことである。そして<原宿一里塚跡>があり、今度は右側歩道にある<浅間神社>である。

旧東海道 戸塚から藤沢 (2)

朝倉摂さんからスーパー歌舞伎へ

朝倉摂さんの訃報から、その舞台装置をあらためてみたいと考えたらスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』のDVDがあるのに気が付く。さらに、梅原猛さんと市川亀治郎(現猿之助)さんの対談『神仏のまねき』をまだ読んでいないで書棚の中である。DVDを観て、本を読んで、大変面白かったのであるが、疲れも出てしまった。

DVDは1995年(平成7年)4月の新橋演舞場での公演である。私が『ヤマトタケル』の舞台を観たのもこの年が初めてである。この作品の初演は1986年(昭和61年)2・3月の新橋演舞場である。その時の配役は猿之助(現猿翁)さん、延若さん、児太郎(現福助)さん、宗十郎さん、門之助(七代目)さん等が参加されていた。舞台装置は朝倉摂さんで、音楽に文楽の鶴澤清治さんの名もある。『神仏のまねき』には、初演に至るエピソードやスーパー歌舞伎を目指した猿翁さんの思いや、哲学者である梅原猛さんが劇作家となった経過などが猿之助(亀治郎)さんとの対談を通して明らかになる。そして、今から10年前いやもっと前から現猿之助さんが新しいスーパー歌舞伎を目指していたことがうかがえる。

1995年の10年後の2005年には市川右近さんと段治郎(現月乃助)さんがヤマトタケルとタケヒコの交替ダブルキャストで公演されている。この時は右近さんのヤマトタケルで、2008年には月乃助さんのヤマトタケルで観ているが、猿翁さんのヤマトタケルとは違う意味で楽しめた。それは何かと言うと、猿翁さんの時は、当時の猿之助さんとしての猿翁さんの生き方イコールヤマトタケルが密着していて、「 天翔ける心 それが この私だ 」の科白を聞いてるこちらが気恥ずかしくなってしまったのである。わかっている事を面と向かって言われどうしたらよいのやら。今回、DVDを観ててもその感覚は同じであった。しかし、右近さんと段治郎さんのときは、芝居の中のヤマトタケルの科白として素直に容認できた。若い世代に受け継がれる事によって、芝居と演者の間に観客にとって必要な想像の空間が生まれたのである。

『神仏のまねき』のなかで、縄文人と弥生人にふれ「縄文人というのはたいへん精神的に高い人間で素晴らしい文化を持っていた。しかも人間的に非常に立派だった。しかし、弥生人が入ってきて、生産力の違い、それから武器の違いのために滅んでいった」と梅原さんは考えられる。ヤマトタケルは弥生人である。最初に猿之助(猿翁)さんが脚本を読んだとき、これではヤマトタケルが悪い事をしているようだとして、自分にも好い科白をといってできたのが「 天翔ける心」の科白ということである。

2005年のパンフレットには、鶴澤清治さんのお名前がないので、音楽も1995年と変化しているのであろう。そのあたりどのように変ったのか記憶に残っていない。1995年の太棹の音は琵琶にも聞こえ哀切と猛々しさが交差する。

残念ながら、現猿之助さんの『ヤマトタケル』は観ていないのである。『神仏のまねき』を読んでいると残念さが増すが、いずれ出会える事もあろう。

朝倉摂さんの舞台装置も思い出した。あかね雲や富士山は忘れていた。2005年のパンフレットには、1986年スーパー歌舞伎の原点として舞台写真が載っていて、舞台装置もしっかりみることができた。舞台転換などの時に観る者の気持ちを変えてくれ、その後は芝居に集中させるものであると朝倉さんは考えたであろうし、舞台装置が残るようでは役者さんの演技の意味がない。

『神仏のまねき』のなかで猿之助(亀治郎)さんが梅原猛さに尋ねられている。<今の若い世代が孤独に耐えうるために、西洋でいう一神教の神のような、そういうものに代わるのは例えばなんだと思われますか><怨霊が一番いいんだけどな><怨霊を鎮魂するという行為に向かえばいかがでしょう><そう、鎮魂です> あまり簡略化してはいけないのであるが、スーパー歌舞伎Ⅱの『空ヲ刻ム者』の若き仏師・十和の求めていた答えとも受け止められる。

観る対象者がいることからすると仏師も演技者も類似するところがあるかもしれない。

舞台美術から飛躍したが、朝倉摂さんはきちんと歴史を捉える事を大切に思っていた方だから、舞台を通じて通過した時代を眺めることを若い人達にも推奨するであろう。

朝倉摂さんの舞台美術でもう一冊パンフレットがあった。『6週間のダンスレッスン』である。2008-2009とあるので地方公演もされたのであろう。草笛光子さんと今村ねずみさんの二人芝居である。室内の白い籐椅子がクッションの色、草笛さんの衣装の色を引き立てる。パンフレットの表紙があまりにも素敵なお二人で思わず買ってしまった。もちろん舞台のお二人も魅力的でした。

 

 

歌舞伎座 『鳳凰祭3月大歌舞伎』 (身替座禅・壽曽我対面)

『身替座禅』   狂言の『花子』を歌舞伎にしたもので、気を楽にして観劇できる舞踏劇である。ある大名(菊五郎)が、他の土地で花子という女と知り合い契を交わした。その女が京に出てきて会いたいと云ってよこした。どうやって屋敷を抜け出すか。大名の奥方(吉右衛門)は夫の勝手は許さないのである。そこで、屋敷にある持仏堂で一夜だけ座禅を組むことが許される。自分の替わりに家来の太郎冠者(又五郎)に頭から座禅衾(ざぜんふすま)の小袖をかぶせ、首尾よく抜け出し夢心地で帰って来てみると、奥方に身替りがばれていて、大騒動となるのである。

奥方はしこめの設定で、時には観る人の笑いを誘うように、頬を真っ赤にしたりするのであるが、吉右衛門さんはお化粧は派手にはせず、嫉妬深きはあるが、そもそも夫のことを思うあまりの悋気として作られた。菊五郎さんは恐妻家で、それでいながらなんとかして花子のところへ行きたい気持ちを現し、帰ってきての花道で花子との逢瀬に身も心もぼーっとしている。花子の小袖まで身に着けている。

座禅衾をかぶっているのは奥方なのであるが、太郎冠者だと思い、思いっきり花子とのやり取りののろけ話を始めるのである。そこが見せ場である。酔いに任せ言いたい放題で花子に語った奥方の悪口まで話してしまう。もうその衾を取れととってみると、怒り心頭の奥方であった。吉右衛門さんは、夫の体の事を心配するうるさい世話女房が、裏切られた怒りを爆発させ、菊五郎さんは、そのうるささから逃れてやっと楽しんだ一夜もばれ、喧嘩しつつも再び恐妻家となるであろう事が想像できる一組の夫婦像を可笑しくも表現されていた。

『壽曽我対面』   様々な人物がでてくるので、役者さんが多く並ぶには都合のよい出し物であるが、これが、それぞれの役がなかなか難しい出し物である。五郎(孝太郎)、十郎(橋之助)はしどころがあるから良いが、しどころも少なくその役柄を判らせなくてはいけないのである。しどころがあっても、特に十郎は難しい役だと思わされた。どのように言えばよいか言葉が見つからない。橋之助さんの場合は声と台詞の抑揚が不満であった。観ているほうが、身体と声と上手く融合させられなかったのである。仇討の敵の工藤佑経(梅玉)に兄弟を合わせる取次をする小林妹舞鶴の魁春さんと遊女大磯の虎の芝雀さんはきちんとはまって観る事ができた。

敵の祝いの席に突然その敵を仇討する兄弟が出てきて対面するのである。佑経はこの兄弟の顔を見て自分が討った河津三郎の息子たちであると分かるのである。兄弟は名乗りを上げる。兄弟の性格の違いもここでの見せ場である。この祝いというのが、富士の狩巻の総奉行を任された祝いで、その大役がすんだら工藤はいずれは兄弟に討たれる覚悟らしい。曽我兄弟の仇討は当時の人々にとっては人気の話で、その敵役を大きく見せる事によって、曽我兄弟をも、理想化させての舞台なのであろう。様式美と言う事か。そう考えるとやはり納得していない自分がいるのである。と同時にこういう舞台の捉え方がよく判らない自分がいると言う事でもある。

歌舞伎座 『鳳凰祭3月大歌舞伎』 (封印切)

『封印切』 近松門左衛門の『冥途の飛脚』の改作である。心中物と言う事になるが、今までの自分の解釈の固定化から忠兵衛の捉え方が甘かったように思える。忠兵衛を二枚目として捉えていたが、藤十郎さんの忠兵衛を観ていて、いやいやそんな単純なことではないと思わされた。

大阪の飛脚問屋の養子忠兵衛(藤十郎)は、遊女梅川(扇雀)と深い仲で、梅川を身請けする手付金50両は払っているが、残りのお金が出来ない。忠兵衛の友人の八右衛門(翫雀)は梅川の身請け金として250両を梅川を抱えている槌屋治右衛門(我當)のところに持参する。そして、梅川の前で忠兵衛の悪口雑言の言いたい放題である。先に井筒屋に来ていた忠兵衛は二階の座敷でそれを聞いていて激昂し飛び出してくる。そのうち八右衛門は持参のお金を見せびらかし、忠兵衛が自分も持参していると言ったお金を出して見せるように迫る。忠兵衛が持参のお金は、武家屋敷に届けるお金であった。その公金の封印を八右衛門とのやり取りで誤って封印を切ってしまうのである。封印切りは死罪である。忠兵衛は死を覚悟して、そのお金で梅川を身請けして二人大和へ落ちるのである。

梅川と忠兵衛の味方をして仲を取り持つのが井筒屋の女将おえん(秀太郎)である。この若い二人をなんとか首尾よく結ばせようと細々と世話を焼く。秀太郎さんのこの一つの方向性の動きがよい。おえんは良い方にしか見ていないから、封印切りのあとも、喜びだけがあり、その様子が忠兵衛にとって辛いことともなるのであるが。

忠兵衛の花道の出である。梅川に会いたいと手紙を貰い忠兵衛も残りのお金は払っていないが会いたいとおもいつつ、武家屋敷に届ける300両を届ける途中であり、行きつもどりつする。ここで届けていれば死に至る道筋とは成らなかったかもしれない。泣く泣く梅川が八右衛門に身請けされ、梅川と八右衛門が忠兵衛に恨まれて済んだかもしれない。花道で何処からともなく、「鳥辺山」の唄と三味線の音に縁起でもない鶴亀鶴亀と忠兵衛はつぶやくがそれが前触れになってしまうのである。さらに忠兵衛が鎌倉時代の色男・梶原景季を気取ったりして、なかなか愛嬌のある人物で、おえんから気にいられているのもこんなところがあるからのようである。

単なる色男と言うだけではないところを、藤十郎さんはさらさらと時には、すっーと停まったりして忠兵衛の人間性を出される。おえんの計らいで二人で合わせてもらうが、真っ暗な中に置き去りにされてしまう。そこで抱きあってはそこでチョンとおしまいになってしまうが、そうならずに、じゃらじゃらとたっぷり、上方の芝居を見せてくれる。この部分がよく判らなかったのであるが、今回は、忠兵衛のお金をを払えないすっきりしない心持がよくわかったのである。その気持ちをストレートに言えない色男のつらさ、可笑しさがにじみ出て、梅川を反対にいじめて泣かせてしまうのである。忠兵衛は惚れている梅川にはあくまでも格好良く見せたいのである。

封印切りもそれが第一の原因である。八右衛門にとってはそれが気に食わない。八右衛門は悪役であるが、忠兵衛の弱い部分も分っている。そこをグイグイ押してくる。誰が観ても聴いても八右衛門に歩は無い。しかしそこまで嫌われている八右衛門にとって怖いものはない。その八右衛門に対し梅川を始めとして自分に味方してくれる人々を裏切るわけに行かないのが忠兵衛の立場である。それをお金を持たない忠兵衛は受けて立たなければならなかったのである。観ている者はこの八右衛門の台詞に時には笑いつつ、忠兵衛には震えて怒る姿をみる。これが自分のお金であったなら。そして、自分から封印切をするのではなく、八右衛門との押し問答をしている間に弾みで封印が切られてしまうのである。

自分で切ったなら一瞬、見てみろの快感もあるかもしれないが、はずみである。観ている方はこのほうがどきりとしてしまう。この時は忠兵衛とともに顔面蒼白である。忠兵衛の混乱しつつも気を取り直し残りのお金も封印を切ってしまうその一連は、やはり見どころであった。

そして、死を決意して梅川を受けだし、先に大門の西口に行かせ廓から足をあらわせ待たせるのであるが、どの方向の大門から出るかというのもまとめる場所があるらしく、おえんが行って西を当ててくるのである。それは、皮肉にも西方浄土の方角とも受け止められるのである。

おえんにまた顔をだしてくださいよと言われ近いうちにと答える忠兵衛。あの花道の出が、今度は、何とも言えない足の動きの去り方の花道の入りとなるのである。二枚目としての忠兵衛ではなく、人間の弱さ悲しさどうしょもなさのあらゆる人間味をもった忠兵衛であった。

藤十郎さん、我當さん、秀太郎さん、扇雀さん、翫雀さん、の作り出す上方の味をたっぷり味わわせて頂いた。

歌舞伎座 『鳳凰祭3月大歌舞伎』 (日本振袖始・二人藤娘)

夜の部の『日本振袖始(にほんふりそではじめ)と昼の部の『二人藤娘』について。

玉三郎さんが勘九郎さんや七之助さん世代を育てようとの思いの演目であろうと思われる。

『日本振袖始』は、あまり好きではない演目である。後半の大蛇に変身する玉三郎さんは観たくないというのが本音であるが。(笑) 原作が近松門左衛門である。近松といえば心中物をイメージするが、これは、八岐大蛇(やまたのおろち)伝説がもとのようである。一年に一度八岐大蛇に娘を差し出さなければならない。今年は稲田姫(米吉)である。村人はなんとかして八岐大蛇を退治したいと思い、八岐大蛇が好物のお酒に毒を入れて酒壺を八つ置いておく。大蛇の化身・岩長姫(玉三郎)が現れ大好きなお酒を壺から次々と飲み干していく。このお酒をどう飲み、それによってどう酔っていくのかが見どころである。ここが、藤娘の酔い方と違い、時々大蛇の本性を現しつつ、姫としての妖艶さも出すのである。壺にもたれかかったり一気に飲む様子であったり、一つ一つの壺に立つ玉三郎さんを追いかける。

そして後半は、スサノオノミコト(勘九郎)によって退治されてしまうのである。後半は勘九郎さんの生き生きとした立ち回りが見せ所である。大きな動きで、ジャンプ力も効いていた。米吉さんは自分の役をひたすら努めるという感じであった。

『二人藤娘』 玉三郎さんと七之助さん二人での『藤娘』である。一月に大阪松竹座
でお二人で踊られ、テレビでも生中継されたので観たいと思って居たら、歌舞伎座での再演である。テレビで一つ気になったのが七之助さんの眉を八文字にした泣き顔であったが、歌舞伎座では踊った回数にもよるのか、しっかりとされた顔つきになっていて安心した。着物の色の違いなどから、七之助さんの持つ黒の塗笠に対して玉三郎さんは黒地の着物の袂を傍に寄せるという工夫もあり、ここはこうなってこうなんだと思って居るうちに変化するので、その場その場で堪能しつつも終わってみれば書く表現の力がないのである。

真っ暗な中で長唄の<若紫に十返りの花をあらわす松の藤波>の独吟がある。まずははこの詞と声にしびれる。そしてパッと明るくなり、舞台中央に藤の一枝を肩にかけ黒塗笠の藤娘が立っている。今回は七之助さんが舞台中央で白い藤を、玉三郎さんが花道からせり上がり薄紫の藤である。『藤娘』の詞はかなり艶っぽい空気がある。<若紫に十返りの花をあらわす松の藤波>も、若紫は藤のことで、十返りの花は百年あるいは千年に一度花が咲くというたとえで松のことである。松に藤の花が巻きついているとうたわれているのである。舞台装置は大きな松の大木に見事な藤の花房が幾つもしだれ下がっている。その情景を、暗闇から長唄で始めるという大胆さである。これは六代目菊五郎さんの新演出といわれている。そして、この美術は小村雪岱の原案とあり、さすが雪岱さんと思う。(初めて雪岱さんを知る 腕に抱え込んだ継続 (小村雪岱) ) 今回は、いつもの舞台装置より派手さを押さえたおとなしめであった。

『藤娘』に関しては、二人だとどうしても散漫になり、藤の精が人間化した面白さや色香が薄れてしまう。それとお二人の身体のつくりに差があり、身体的訓練の差を感じてしまった。七之助さん一人だと可憐であるの表現になるのであろうが、玉三郎さんの藤娘をDVDや舞台で何回となく観ているものにとっては物足りないのである。

『藤娘』は近江八景と、男に対する女の恨み言を重ねたり、言葉遊びがあったり、松にお酒を飲ませ自分も飲んで酔ってしまうなど、詞と音色と藤娘にこちらも酔わされてしまうのであるが、酔い足りなかったのである。もう少し鍛錬の時間が必要に思う。

などと生意気なことを言うと玉三郎さんに、私の教えることに何か文句があるのかしらとお叱りを受けそうである。勘三郎さんが「道行旅路の嫁入」「山科閑居」で、玉三郎さんが戸無瀬、勘九郎さんが小浪、勘三郎さんがお石のとき、勘三郎さんは勘九郎さんにもう少しこうした方がいいのではと注意されたら、玉三郎さんに<私の教えることに何か文句があるのかしら>のようなことを言われ<兄さんがそういうんだよ>と嬉しそうに話されていたのをどこかで目にしたことがある。勘三郎さんは迷惑をかけないようにとの親心だったのであろう。それに対する玉三郎さんの全て承知で預かっているのだからの気持ちとして、勘三郎さんは受け取られたのかもしれない。本当に嬉しそうであった。

勘三郎さんの『藤娘』はかなりご自分が酔いい過ぎる『藤娘』の時もあった。

七之助さんも次の時には、覚え込んだ身体から、また新たな『藤娘』を作られるであろう。