南座3月歌舞伎『壇浦兜軍記』『太刀盗人』『傾城雪吉原』

壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき) 阿古屋』は、おそらくこの後しばらくは上演がないであろうとの予想で南座へ。2月に文楽の第三部でも上演されこちらも観劇したので「阿古屋づくし」の感がある。

 

文楽では人形が三曲の演奏者(寛太郎)の音に合わせて手や指を動かすのである。国立劇場のHPに阿古屋をつかう桐竹勘十郎さんが動画で説明されているが、観劇してから動画を見た。その説明によると、いつもの右手と違う、お琴と三味線と胡弓のための右手に替わり、左手も指が動く手に替えるのだそうで納得でできた。右手つかいう方と左手つかいの方は別の人であるが、同一人物が動かしているような息の合い具合であった。そして愛らしい人形の指がよく音に合わせて動くのである。演奏方法身につけておられなければあそこまで出来るであろうかと思えた。見惚れてしまった。

 

人形の阿古屋は詮議の途中で髪に右手をちょっとさわるところがあり、これは人形だから爽やかであるが役者さんがやっては変な生々しさが出て合わないなと思わせる箇所もあり、それぞれの違いが多少なりとも目にとまる。人形が不自由でありながら軽快に動かすのであるから、責めとしては人形のほうが健気に見える。そのあたりも役者さんの表現と違う印象を受けるが、人形の遊君阿古屋もやはり意地を感じさせてくれた。文楽の岩永左衛門は人形であるが、歌舞伎の人形振りのような動きではなくもっと自然の動きに近い。

 

文楽の三部のもう一つの演目が『鶊山姫捨松(ひばりやまひめすてのまつ)』で、当麻寺の中将姫の話しである。中将姫が継母にいじめられ雪の中で責められるのであるが、侍女のはからいで責め殺されたことにして命を助けられるというどんでん返しがある。こちらは「中将姫雪責の段」で二演目めが「阿古屋琴責の段」とそれぞれ難局を乗り越えることとなる。面白い並べ方である。

 

歌舞伎の『阿古屋』であるが、京都南座ということもあり、景清が清水寺へ参詣にきたとき五条坂で出会ったという様子が場所柄もあり、物語がずうっと近く感じられる。景清が平家の勢いを無くした時に五条坂の自分のような浮かれ女に心を寄せたとあっては弓矢の恥である。そっと別れはすませましたと言い切る遊君阿古屋の覚悟のほどが遠い時間空間を越えて伝わってくる。

 

若手に伝えるべきことは伝えたということでもあろうか、玉三郎さん、東京の歌舞伎座よりも少しゆったりとして観える。彦三郎さんの重忠のセリフも強弱が出てきていてさらに味わいがでてきそうである。坂東亀蔵さんの岩永もその場その場の可笑し味が出ていて、六郎の功一さんもすっきりとしていた。南座は微かな音も響き阿古屋の髪飾りのゆれてぶつかる音や、懐紙で胸をたたく音も聞こえた。ある面では怖い劇場であると思った。不味い音も捉えてしまいそうである。先ずは『阿古屋』とのお付き合いも満足の中で無事終わらせることができた。

 

太刀盗人』は、彦三郎さんの抜け目のない太刀盗人・すっぱの九郎兵衛の愛嬌振りが出色であった。吉之丞さんのどちらの太刀であろうかの詮議も年寄りすぎて詮議の方法を従者の玉雪さんの意見に従いゆったりとしているのも、すっぱの九郎兵衛にとって都合がよい。それを正直に答えて太刀を盗まれたことを証明しようとする田舎者万兵衛の坂東亀蔵さんも、ついに、自分が先ではそのマネをされると気づく。そこはかとない可笑し味が観ている方の気分を『阿古屋』の緊張感から解放してくれる。

 

傾城雪吉原』は、やっとその世界に浸ることができた。透かしの黒傘で打掛けを広げた形良い玉三郎さんの傾城が中央のセリから上がって来る。黒塗りの高い下駄の足さばきが際立つ。下駄の底についた雪を軽く払うしぐさのようにも見える。雪の白と黒。南座の広さにあっている踊りに思える。透かしの幕が上がると後ろの長唄と囃子の方々の姿が現れ、その後ろに仲之町が遠近法で続く。そこに並ぶ提灯。

 

この提灯だけ赤の透光性のある染料で塗られているそうで、さらに裏から明りをあてる明るさを出すのだそうである。傾城の打掛を脱いだ下の着物の赤と呼応する。舞台はその後、辺りを暗くしてこの提灯だけが灯され、劇場の客席の提灯と一体化する。その他、下手からのライトが傾城に微かにあたり夕陽を想像させ長唄の詞と重なる場面などもある。そして楽し気に音に誘われ傾城が踊る場面では今回気が付いたがお囃子にチャッパとうちわ太鼓が加わっていた。

 

傘の扱い、手紙の扱い、打掛を脱いでの打掛けに気持ちを伝える扱いなどたっぷりと傾城の情感を味わうことができた。最後に重いであろう打掛けを事も無げに着ながら見せる所作の美しさにはまたまたさすがであると思いつつ締めとなる。踊りの中の情景に誘われるヒダの膨らみが深くなっていた。最初にこの踊りを観た時の気分が払拭されて嬉しい事このうえなしです。(「坂東玉三郎特別公演」)

 

歌舞伎座3月『雷船頭』『弁天娘女男白浪』

雷船頭』と『弁天娘女男白浪』は奇数日と偶数日で配役が変わるのである。近い日にちで見比べると役者さんによって踊りや芝居の雰囲気が変わるのがよくわかる。それぞれに培ってきたものが基本に加味されて造形されているのである。

 

雷船頭』は踊りで、吉原に客を運ぶ船頭が、地上に落ちてきた雷とのやりとりを見せるのである。奇数日、猿之助さんは女船頭で雷は弘太郎さん。偶数日、幸四郎さんは男船頭で雷は鷹之資さんである。女船頭と男船頭ということもあって見せ所も違っていた。弘太郎さんの雷は少し太めでちょっとドジで落ちてしまったという感じで、粋な女船頭に軽くいなされて遊ばれている感じである。鷹之資さんの雷はすばしっこくて下界をのぞき過ぎて落ちてしまったという感じで、いなせな船頭の幸四郎さんに面白がられて遊ばれている感じ。

 

女形の場合、着物のすそで足が見えないためその表現の難しさを感じた。動きの少ない全身でその心持を表現しなくてはならないのである。その点、男船頭の場合、足の動きで軽快さを見せることができる。表現方法がかなり直接的に観客に伝えることができ観客もそのリズム感を簡単に享受できるのである。幸四郎さんは、『傀儡師』より楽しそうに軽快に踊られていて、なるほどなあと踊りによって違うものであると感じさせられた。動きのことを考えてのことか、女船頭の場合は若い者との立ち廻りをいれている。色々考慮しているわけで、それぞれの見方ができて楽しめた。

 

こうした雷と船頭の風景は現実には観られない舞台上のお楽しみであるが、現実には3月18日には浅草で浅草寺の奉納舞「金龍の舞」がある。国立劇場のほうで早々と観覧させてもらった。観音様をお守りするために金のウロコの龍が舞い降りたのだそうである。金のウロコが八千八百八十八枚あり、そのウロコがうごめいて勇壮な動きをみせてくれる。この日は『女鳴神』の龍神龍女たちも誘われて、一層高く舞い上がるかもしれない。そして、雷さんも、またまた、上から覗き込んで雷門に落ちようと思ったのが歌舞伎座であったということになっているかも。船頭さんたちまた遊んであげて下さいな。

 

弁天娘女男白波』は、御存知「しらざぁ言って聞かせやしょう」の「浜松屋店先の場」と白波五人男が勢揃いする「稲瀬川勢揃いの場」である。これも奇数と偶数日で役者さんが入れ替わっている。奇数日・弁天小僧菊之助(幸四郎)、南郷力丸(猿弥)、鳶頭清次(猿之助)。偶数日・弁天小僧菊之助(猿之助)、南郷力丸(幸四郎)、鳶頭清次(猿弥)。

 

幸四郎さんの弁天小僧は、しとやかで猿弥さんの南郷が最初はしきりにかばう感じであるが、かたりが露見すると狩野元信が弁天小僧になった感じでおとなしめの凄味をきかす。猿之助さんの弁天小僧は愛らしくしているが、変わり身はルフィが弁天小僧になった感じでまあ元気な事で、あたりを自分のペースに巻き込んでしまう。幸四郎さんの南郷は勝手にやってくれとまかせている。

 

鳶頭は猿之助さんはすっきりと形を決め、猿弥さんは貫禄ある顔のきく頭という感じであった。これまたなるほどなあと面白がらせてもらった。そういえば、今回四天王もできそうなくらいじっとしていた小三郎の寺嶋眞秀さんは、丁稚の長松をやったことがあり、お茶出ししてましたね。

 

勢揃いでは、日本駄衛門の白鷗さんが若い白波たちの後押しをされ、伸び伸びと若い役者さんの考え方に任せているような感じも受けました。忠信利平(亀鶴)、赤星十三郎(笑也)。心地よくツラネを堪能。夜の部も昼の部と同様歌舞伎初めての人も楽しめる。ちょっと違う配役でも観て観たいなと思った時は、一幕見の経験もどうぞ。

弁天小僧菊之助と南郷力丸にあたふたさせられる浜松屋の人々・浜松屋伜宗之助(鷹之資)、番頭与九郎(橘三郎)、浜松屋幸兵衛(友右衛門)

 

歌舞伎座『盛綱陣屋』

盛綱陣屋』は、小四郎の後ろに父・高綱がおり、盛綱は弟・高綱と小四郎を通して会話しているのがわかる。それだけ小四郎は高綱を背負ってここに登場しているのである。先が長いので早くから子役さんを褒めて負担をかけたくはないが、『盛経陣屋』を面白くさせた勘太郎さんの功績は大きいのである。盛綱である仁左衛門さんの芝居をじゃますることなくむしろ盛綱が高綱の気持ちをさぐる深さを押していた。

 

敵味方に別れて戦う兄弟の盛綱(仁左衛門)は、弟の高綱の息子・小四郎(勘太郎)を自分のほうに捕らえた。ここは大人の世界で思案し、高綱が息子のことを気にして闘う意欲をそこなわれないように小四郎に自害させようとする。小四郎を説得する役目を母の微妙(秀太郎)に頼む。小四郎は母に一目会いたいと逃げまどう。それはここで死ぬことは無駄死にと知っていたからである。自分には果たさなければ役目がある。それが終るまで見抜かれてはならない役目である。

 

ここは観客も子供だからと思って母に逢いたいのであろうと観ている。その役目をわかってもらえるのは、父の首実検をする伯父の盛綱しかいないのである。その伯父に、父の贋首を父・高綱の首と言わせるまでのアイコンタクト。オペラグラスからのサイレント映画のアップである。高綱の首ではないと知ったときのほっとし様子から、さらに不敵な笑みとなる仁左衛門さんの気持ちの変化。真顔になって小四郎をうかがう。小四郎の左手は刀を刺したお腹に、右手は支えとして床についている。そして首をゆっくりと横に振っている。小四郎は何を言おうとしているのだ。そうかそういうことか。「高綱の首に相違ない。」

今回は二回観ることになったが何回観ても生身のサイレント映像は見事である。どう編集しようと絵になっている。

 

小四郎を讃えよと小四郎に会いに来た母・篝火(雀右衛門)に会わせる盛綱。当然、高綱の妻・篝火と盛綱の妻・早瀬(孝太郎)も敵味方であるが、一族、心を一つにできる機会を小四郎は作ったのである。悲しいことである。女たちの嘆きはもっともなことである。なんでこんな悲しい場に居合わせなければいけないのか。褒めてやらなければ小四郎の死を無駄にすることになる。なんという不条理であろうか。

 

盛綱は、高綱の意を解し、小四郎の自死の行動を見て北條時政(歌六)をあざむき自分も切腹することを決心する。ここは腹芸なので小四郎の死後、そうかそう決心していたのかと観客は理解する。贋首とわかれば許されない。時政の後に従った息子の小三郎(寺嶋眞秀)の命もあぶないのである。気持ちを決めて一族で小四郎を見送り、高綱へのエールとするわけである。兄弟敵味方である以上どちらかが滅びなければならない。いや戦である以上両方が滅びるかもしれない。それがこのようなかたちとなって出現したのである。

小四郎を生け捕った時盛綱は小四郎の犠牲だけであとは大人の世界と思っていたのかもしれない。ところが大人の世界観だけで世の中は存在しているわけではない。

 

時政はぬかりなく用意周到で盛綱が裏切ることも考慮し密偵を鎧櫃に隠していた。それを知らせくれるのが和田兵衛秀盛(左團次)であり、盛綱は贋首とわかるまで生きのびることを決めるのである。

 

『盛綱陣屋』は陣屋内での戦さを描いている。そのため注進が外の戦を主人に知らせる役目で、観客にも見えない戦さの様子を知らせる役目でもあり、芝居のその後の展開の変化の風を変えたりする。竹下孫八(錦吾)、信楽太郎(錦之助)、伊吹藤太(猿弥)。そして時政の威風を伝える家臣たち。古郡新左衛門(秀調)、四天王(廣太郎、種之助、米吉、千之助)。

 

『中村七之助特別舞踏公演』で、中村屋ヒストリーとして映像と解説が入る。解説というよりもっと身近な内輪話しという雰囲気である。そこに歌舞伎座で勘太郎さんが小四郎の出を待つ後ろ姿の写真が紹介されたのであるが、その姿にすでに中村屋を背負っている姿があった。

 

父の勘九郎さんは『いだてん』のテレビ出演で、七之助さんは中村屋のお弟子さんを連れての巡業中で、勘太郎さんは一人歌舞伎座出演ですと、七之助さんが話された。小四郎役を観ていたので、その重責をしっかりと自覚しているような後ろ姿である。小四郎を演じられる年代のときに小四郎役が回って来るということはまれである。その機会をしっかりつかんで自分の役になりきっている。勘太郎襲名の時の映像でも同じく襲名した長三郎さんの挨拶の言葉を横でそっと口ずさんでいる。その場その場の重要性を勘太郎さんなりに感じられているのであろう。

 

長三郎さんはハチャメチャのやんちゃさで、ほっといていますと言われ、その様子がわかる。わんぱくがいて嬉しいところもある。岐阜・中津川 かしも明治座は冷暖房無しの劇場だそうで、行かれる方は寒さが厳しい日もあるので気温調整に気を付けて下さいとのことでした。ご注進にてお知らせします。

 

歌舞伎座3月『傾城反魂香』

傾城反魂香』は、今回は序幕がある。序幕「近江国高嶋館の場」「館外竹藪の場」二幕「土佐将監閑居の場」となっていて、上演される時はほとんど「土佐将監閑居の場」のみである。「近江国高嶋館の場」「館外竹藪の場」は<三代猿之助四十八撰の内>とある。三代目猿之助(二代目猿翁)さんが復活されたわけで、大劇場での上演は21年ぶりで歌舞伎座では初上演である。高校生のお客さんにとってはラッキーである。

「土佐将監閑居の場」だけでは解らないところが多くある。先ず幕開きに農民が虎を探しているのである。日本にいない虎がなぜここに居るのか。現代人が観る場合その時代日本に虎がいたかどうかなど考えないので、修理之助の台詞で気が付くのである。そしてこの虎が絵から飛び出したものであることを知り、虎は修理之助の筆で消されてしまうのである。初めて観るとさすが歌舞伎はシュールであると思うが、その後ご注進などもあり、物語がもっと大きい背景があるのだと気が付かされるのである。

しかし、今回は初心者でも観ているだけで流れがわかる。何回も「土佐将監閑居の場」を観ている者もなるほどと、想像部分が舞台として観れるのである。

近江の国の六角家に召し抱えられた絵師・狩野四郎次郎元信(幸四郎)は、六角家の姫君・銀杏の前(米吉)に想われている。この芝居は絵の流派の中の狩野派の宣伝かなと思われるがそれだけではないことが後でわかる。元信は新参者で当然古参・長谷部雲谷(松之助)から疎まれる。そして銀杏の前に頼まれた掛け軸の絵に六角家を乗っ取る印があるとして縛り上げられてしまう。元信は必死の覚悟で自分の身を食いちぎりその血で襖に虎の絵を画く。

この虎が絵から飛び出し悪人の道犬(猿弥)を噛み殺し、元信を助けるのである。おそらく元信は故事に絵から実物として飛び出すことを知っていたのであろう。それだけ念力を込めて描いたのである。犬より虎のほうが強い。歌舞伎には絵から鯉が飛び出したり、桜の花びらを集めてそこに涙で鼠を描いたりという話しもある。

絵から飛び出した虎が超活躍で、これが愛嬌もありどう猛さもある。中に入られている役者さんに拍手である。観ているほうは楽しいが役者さんは大変である。その大変さを忘れさせてくれる息の合った前足と後ろ足である。歌舞伎には色々な動物が出てくるがその中でもヒーローの部類に入る。

銀杏の前とそれに仕える宮内卿の局(笑三郎)は逃れる。そこへ元信の弟子の雅楽之助(うたのすけ・鴈治郎)が助けに来るが道犬の息子(廣太郎)や雲谷によって銀杏の前はさらわれてしまう。この雅楽之助が「土佐将監閑居の場」でご注進として土佐派の長の土佐将監光信に銀杏の前救出を願い出るのである。「土佐将監閑居の場」からは土佐派の話しになるのである。土佐派は今は絵の世界から外されている。ここで登場する光信の弟子・又平は後に土佐光起となり土佐派を再興したといわれる。狩野派だけではなく土佐派も出て来て、絵師の世界が舞台に繰り広げられることとなる。

狩野派のところではお家騒動で、優雅な絵師の幸四郎さんと愛らしく大胆な米吉さんコンビのやりとりではユーモアあふれる仕掛けも織り込まれている。これが「土佐将監閑居の場」では、絵に命を懸ける夫婦の物語へと移っていく。

土佐将監閑居の場」の筋は何回も上演されているのではぶくが、高校生のお客さんがどこに食いついてくれるか興味があった。言葉は悪いが食いついてくれるかどうか。序幕が変化に飛んでいるからどうなるのか。彼らが食いついたのは又平(白鴎)が自死の前に手水鉢に自画像を描くところである。反対側からの絵がこちら側にも観えるのである。ガラス張りではありません。絵がこちら側まで抜けたのです。絵の顔が出てくるあたりで気が付かれた学生さんが口走ったのでしょう。指さす学生さんやフライヤーをみる方もいて次第に興味がじわじわと広まっていくのがわかりました。

この前に、もう又平は絵師としては認めてもらえないと絶望の中で、夫の代わりによくしゃべっていた女房おとく(猿之助)もこうなれば夫と一緒に死ぬからちょっと待ってくれという。観客は又平の夫婦愛を知っているので涙させられる。そして絵が写る。元信が虎を出したり、修理之助(高麗蔵)が虎を消して光澄(みつずみ)の名を貰っているので何かがあるであろう。

師の光信(彌十郎)は浮世又平と苗字もなかったものに土佐光起の名と印可の筆を与える。そして銀杏の前を救出にゆけと命じる。夫婦にとって二重、三重の喜びである。おとくは、節があれば吃音の又平はスムーズにしゃべれるといい又平は北の方(門之助)が用意した裃を着用し、嬉しさを胸いっぱいに舞うのである。

この日観劇した高校生の中からいつか『傾城反魂香』の「土佐将監閑居の場」だけを観ることがあったなら、俺は知ってるぞ、このご注進の背景も虎の活躍もとほくそ笑んでくれる人が出てくれるであろう。この場で顔を出す虎はかなりしょぼくれている。農民たちに追い回されて毛並みも散々で、あの虎も苦労したのだなあと同情してしまうかも。

こちらも改めて、絵師の流派を越えた物語にした近松門左衛門の捉え方を目の当たりにした。心中物もその磁場は狭いようで想像力を広げれば相当広いのである。「土佐将監閑居の場」も『傾城反魂香』の広い中での夫婦愛を描いていて、白鷗さんは、その狭さから飛び出す虎のような人間性を現わされ、猿之助さんは、そのきっかけを逃さない女房としての腕の見せ所を押さえられた。昼の部は初心者でもわかりやすく、歌舞伎のエッセンスも充分味わえる。

歌舞伎座三月『女鳴神』『傀儡師』

女鳴神』(龍王ケ峰岩屋の場)は、<女>とあるので『鳴神』の女性版ということであるが軸は同じでも大きく入れ替えている。鳴神尼は、織田信長に滅ぼされた松永弾正久秀の娘・初瀬の前である。舞台が開き『鳴神』と違うのは、鳴神尼が姿を現しているのと、滝のそばの崖の途中に祠があることである。鳴神尼は父の遺言である信長を倒し、松永家再興を一心に祈っている。そのため、家宝の「雷丸(いかづちまる)」を祠に納め、大滝に世界中の龍神龍女を閉じ込めて雨を降らせなくし、世の中を乱して信長を討とうというのである。

 

鳴神』の場面設定は京都の北山ですが、『女鳴神』は奈良のようで、鳴神尼のもとの名前は初瀬の前といい大和に関連づけている。弟子たちも白雲尼、黒雲尼と尼で、当然龍神らを解き放つ役目は男性で雲野絶間之助である。仕掛ける絶間之助は鴈治郎さんで、それに惑わされる鳴神尼は孝太郎さんである。

 

鳴神尼は落飾する前、初瀬の前の時許婚がいたのである。絶間之助は自分には生き別れた恋しい人がいると語り鳴神尼の興味を引きつける。その人の名は初瀬の前と告げる。完全に鳴神尼は許婚と間違ってしまうのである。そしてやっと会えたと夫婦の盃をかわす。いや嬉しやと恋に身を崩していく鳴神尼の見せどころである。

 

絶間之助はそっと庵から抜け出し、祠から「雷丸」を奪い、しめ縄を切り、龍神龍女を解き放つのである。きらびやかな複数の龍が登って行く。絶間之助は初瀬の前の許婚によく似た信長の家臣だったのである。主君信長の命により鳴神尼をおとしいれたのである。許して欲しいという気持ちで花道を去る絶間之助。

 

長唄が入る。ここの音楽が観客の気持ちを高めていき効果的である。終わるとだまされた鳴神尼はすざましい形相となっている。怒り狂う。そこへ、織田の家臣が佐久間玄蕃盛政が荒事の押し戻しで登場である。ここも『鳴神』には無い意外性である。27年ぶりの舞台のようである。ヒッチコック映画のリメイク版ではないがどう変わるか興味津々でたのしんだ。

 

今回、高校生の団体が入っていたが愛憎劇と龍神龍女が放たれるなど何となく解ったのではないだろうか。押し戻しという荒事も登場し、あの形相の鳴神尼を押さえるにはこれくらい隈取でなければ位に想ってもらえればよい。雨と雷で大道具の木の大枝も折れ曲り変化に飛んでいた。『鳴神』は今後、高校生が歌舞伎に興味をもったときには目にすることもあるであろうから、そのとき確かあの時はと思い出せれば幸いである。

 

孝太郎さんは、仁左衛門さんの立役と違い女形で、仁左衛門さんの役を継承するというわけにはいかず地味なところがあった。近頃は、女形・片岡孝太郎として独自の役者さんとしての土台のしっかりさが現れてこられている。鳴神尼と初瀬の前の気持ちにもどるあたりの色香の変化も面白かった。鴈治郎さんの絶間之助とのやりとりも『鳴神』の形よりも柔らかみがあり自然に引き込まれていく。鴈治郎さんの押し戻しもきっちり形にはまっていて驚いた。この演目どうして長い間上演されなかったのであろうか。

 

傀儡師(かいらいし)』は、当時の流行り歌や義太夫節などを人形を使って見せた大道芸人のことらしい。傀儡師は首から箱を下げていてその中に人形が入っているのであろう。小さな人形や指人形なども使ったようで、首から下げた箱が舞台となったりしたわけであろう。舞踏の『傀儡師』は、人形ではなく自分が様々な登場人物になって踊り分けるのである。清元がその様子を語るが伸ばすところがあり、単語のつながりを聴き分けるのが慣れていないと難しい。一応、歌詞は読んでおいたが、聴きながらというわけにはいかず、頭の記憶の流れで踊りを楽しむこととなった。

 

祝言をあげた夫婦に三人の子供が出来その総領息子はと順番に紹介したり、八百屋お七と吉三が出てきたり、ちょんがれ節がでてきたりと変化にとんでいる。そして知盛もでてくる。しかしそこは踊りで表すのでそうかなと思っているうちに次の場面になっていたりする。かなり高度な踊りと思えた。踊り手は幸四郎さんで、下半身の足の動きを丁寧に移動させられているように見受けられた。日本の踊りの鑑賞は難しい。

 

歌舞伎座2月『暗闇の丑松』『団子売』

  • 暗闇の丑松』も初世尾上辰之助三十三回忌追善狂言である。長谷川伸さん作である。丑松は女房・お米の母と浪人を殺して江戸から逃げる。丑松はお米を信頼している兄貴分である四郎兵衛に頼む。一年後、お米恋しさに江戸にもどり、嵐で立ち寄った板橋の妓楼で女郎になっているお米と再会するのである。責める丑松。お米は四郎兵衛にだまされて身体を汚され、さらに女郎として売られ、それも転々と売り飛ばされていたのである。

 

  • 丑松はお米の話しに耳を貸そうとはしない。自分の身持ちの悪さを兄貴のしわざにして言い逃れしているのであろうと、なお一層腹を立てるのである。お米は怨めし気に丑松をそっと見つめて立ち去ってしまう。そして、嵐の中大木にぶら下がり自殺してしまうのである。店の者が風でお米の身体が揺れて降ろすのが大変であると告げる。丑松はお米の身の潔白を知らされるのである。

 

  • 四郎兵衛の家では、料理人たちが丑松のうわさをしている。丑松の事はお米の母も散々に毒づいていた。板前といっても洗い場や煮炊き専門で包丁も握らせてもらえないではないかと。料理人たちも丑松は親方にいいように利用されていて人がよすぎると。どうも、丑松は人を見る目が甘すぎるようである。それだけに兄貴の表の顔のみ信じていたのであろう。丑松は四郎兵衛の家に押し入り女房・お今から四郎兵衛は湯に行っていることを聞き出す。

 

  • お今は丑松のただならぬ様子から、自分の身体を投げ出すから四郎兵衛の命は助けてくれと言い出す。そんなお今に、いやだいやだ女は、惚れた男のためと自分の身を守るために自分を投げ出すのかと言って、お今を刺し殺すのである。丑松は四郎兵衛とお今の関係と同時に自分とお米の姿もそこに見ているのであろう。そしてそこに陥れたのが自分なのである。そのやるせなさが四郎兵衛を殺した後の花道を去る丑松の姿に重なっていた。

 

  • 何んとか今の生活から這い上がろうとする底辺の俗悪さをお米の母が映し出す。その俗悪さの中で、貧しくとも懸命に生きようとする一組の夫婦が願うような人の世の中ではなかったということである。物悲しい芝居であるが、丑松の菊五郎さんが皆に慕われている丑松であることを世話物のさらっとした感じで表される。板橋の妓楼で仲間内と会うが、丑松に対して好意的で丑松も力で納めるような人間ではない。そんな丑松だからこそお米も惚れたのであろう。それだけに丑松やお米のような人間が足下をすくわれるようないやな世の中が浮き出ている。

 

  • その闇のような暗さを風呂屋の裏方の様子で景気づけるのが湯屋番頭である。これまた元気であるが重労働である。この舞台、いつも井戸から水をくんでためるとき、本水であったろか。記憶が薄い。手の込んだ作りで江戸の人はよく考えたものだと思う。湯が熱ければ裏から水止めを上げて足すようになっている。湯桶も日に干し、個人専属の湯桶もある。そんな人々の触れ合いの湯屋の湯船で丑松は四郎兵衛を殺すのである。庶民生活そのものでの殺しの場面設定であり、後に独特の悲哀感を残す。

 

  • お米が養母に責められる部屋も隣同士がくっついていて、時々住民が窓からあの家らしいがと様子をうかがったりする。江戸の映画『裏窓』ではないかと思ってしまった。そういう点からも舞台装置が面白い芝居であり、粋な江戸のはずが、裏を返せばうら寂しい人間模様が見えてくる。長谷川伸さんならではの作品である。

 

  • 菊五郎さんの丑松と小さな幸せを願っていただけのお米の時蔵さんを軸に、ベテランが脇を固め、さらに次の世代の世話の形が出来てきているため台詞が生き生きとしてきていた。なんでもないような台詞に意味があることに気づかされる。落ちていく人のすがるもののない世の哀れさの機微を見せてくれた。

 

  • 浪人(團蔵)、料理人(男女蔵、彦三郎、坂東亀蔵)、妓楼の客(松也、萬太郎、巳之助)、妓楼の遣手(梅花)、妓夫(片岡亀蔵)、湯屋番頭(橘太郎)、お米の母(橘三郎)、岡っ引き(権十郎)、四郎兵衛女房・お今(東蔵)、四郎兵衛(左團次)

 

  • 団子売』(竹本連中)。江戸の物売りの舞踏で、「景勝団子」という名物があったらしい。くず粉ともち米の粉を混ぜて蒸してついて団子にして砂糖ときな粉をまぶしたもので、今でいう実演販売のようなものであろう。その団子売りの仲の良い夫婦の仕事ぶりと、息の合った様子をおかめとひょっとこのお面も使って踊りでみせるのである。軽快な明るい踊りで、芝翫さんと孝太郎さんコンビである。特に孝太郎さんの足の動きが働き者の女房を現わしていて、夫と一緒に働ける嬉しさを振りまいていた。

 

歌舞伎座2月『義経千本桜 すし屋』

  • 義経千本桜 すし屋』。今回は平重盛(小松殿)の名前が耳に響いた。平清盛の長男で平家の物語の中でも人望の厚かった人として描かれている。その重盛の長男の維盛(これもり)が奈良のすし屋にかくまわれているのである。すし屋の弥左衛門は重盛に恩義がある人である。高い身分の人や有名な事件の登場人物が庶民の生活の場に登場させるための常とう手段である。シチュエーションとして庶民に身近な話として観客に引きつける。そして大きな流れが庶民生活の悲劇へと展開していく。『仮名手本忠臣蔵』の勘平とおかる一家もそうである。

 

  • 『義経千本桜』と言えば奈良の吉野である。そこの名物のすし屋というのもよい設定である。そして、鮨桶が重要な役割を果たすわけで、並んだ鮨桶を間違うところがヒッチコックも使いたくなるかもと思わせるところである。お金が入っている鮨桶と人の首が入っている鮨桶の間違いである。熱心に見ている観客はその鮨桶の取り違いに「あっー!」と小さな声を発する。この首の主は小金吾という人物で、今回は上演されないが『小金吾討死』の場面に登場し、維盛の奥さんの若葉の内侍(ないし)と子息・六台君を守りつつ追手から逃れているのであるが、無念、殺されてしまう。

 

  • その死体に遭遇したすし屋の弥左衛門は、維盛の首の代わりにこの死体の首をと考える。家に隠し持参し鮨桶に隠すのである。これにより小金吾は結果的に維盛を助けることになるのであるから家来としては本望ということになる。さらに、小金吾の首は弥左衛門の息子であるならず者の男のいがみの権太を親孝行者にするのである。しかし、まさかいがみの権太が改心するなどと思わないから父・弥左衛門は権太を刺してしまう。全て忠義につながる悲劇である。

 

  • 弥左衛門には娘・お里がいて、公達の維盛が奉公人としているわけであるから惚れないわけがない。周囲から怪しまれないようにと維盛とお里は明日祝言をあげることになっている。そこへ維盛の奥さんの若葉の内侍と子息・六台君が一夜の宿を求めて訪ねて来る。本妻の登場である。お里は寝ており、出来すぎているがきちんと考慮された設定である。

 

  • 一つの部屋に低い二つ折り屏風で仕切られていて、この屏風の置き方に注目である。屏風の内側は外からは見えず、内の者は外の様子がわかるのである。その後も屏風はしっかり役目を果たし隠したい人を隠す。そうした道具の扱い方も役者さんの役になってのしどころである。

 

  • 一つの舞台で行われる舞台劇であるが、ヒッチコック映画にもこうした一つの部屋で起こる殺人事件の映画があるがそれは先に伸ばすこととする。この一部屋に出たり入ったりして活躍するのが、いがみの権太である。歌舞伎は花道があるので、その出入りもみえるのが強みで、そこが役者さんの見せどころでもある。登場人物の特色をみせなければならない。松緑さんは何かありそうなヤツだなあと思わせる出であった。母親をだます自分自身がオレオレ詐欺のような人物である。ところが観客も家族も見た目で見事にだまされるのである。そして、父に刺されてからの権太の謎解きの告白になる。松緑さん、解ってくれよ親父さまの語りである。

 

  • 自分の妻子をも巻き込んだ梶原景時をだます大博打である。しかし、頼朝はそれを見抜いていたという更なる展開となる。清盛の継母・池禅尼が重盛を通して頼朝を助けたということから維盛を逃がしてやるのである。台詞の中にこうしたことがちりばめられている。これは夜の部の『熊谷陣屋』で義経が敦盛を平宗清に預けるのと類似している。観客もこうした情を好んだためでもあろう。

 

  • 初世尾上辰之助三十三回忌追善狂言の一つである。松緑さんのいがみの権太はもう少し悪の強さが欲しい気もするが、母親をだませても頼朝はだませず、親孝行で終わるという悪さ加減からいえば正解なのかもしれない。菊之助さんの奉公人の弥助から維盛になる変わり身の変化が、手ぬぐい一つの扱い方、袖の扱い方などを通してなるほどと思わせられた。お里の梅枝さんの身体も綺麗に動いていた。若葉の内侍の新悟さんはもう一歩貫禄が必要で、亀三郎さんの六代君の可愛らしさに助けられていた。母・おくらの橘太郎さん、父・弥左衛門の團蔵さん、梶原景時の芝翫さんと役どころを押さえられているので台詞を堪能でき、『すし屋』の構造が明確になった。(梶原の臣・吉之丞、男寅、玉太郎、橋吾)

 

歌舞伎座2月『當年祝春駒』『名月八幡祭』

  • 當年祝春駒(あたるとしいわうはるこま)』。洋画を見続けていたので長唄の八丁八枚、お囃子が心地よく響く。中央のセリがあがり、工藤祐経(梅玉)、小林朝比奈(又五郎)、大磯の虎(米吉)、化粧坂少将(梅丸)が登場。人数は少ないが長唄お囃子連中をバックに梅の華やかさと相まってパーっと明るい。花道から曽我十郎(錦之助)、五郎(左近)が春駒の門付けで登場。

 

  • 左近さんの節のないすっと伸びた素直さがさわやかである。踊りでの工藤に対する仇の気持ちもむき出しではなく、それとなく伝える。それを押さえる兄の十郎と朝比奈。十郎はあくまでも気品をもって、それに添う朝比奈の踊りにユーモアが加わる。大磯の虎は少し威厳をもって、化粧坂少将は愛らしく、曽我物のキャラの雰囲気をそこはかとなく描いている。工藤が狩場の切手を「切って」に掛けて投げ与えて大きさをみせて幕となる。曽我物が続く中、ほど良いリズム感に梅の香りを感じる舞台である。

 

  • 名月八幡祭』。真面目で真っ直ぐな考え方の越後の行商人縮屋新助が深川芸者美代吉に百両用意してくれればいっしょになると言われる。ひたすら信じて家、田畑を売り払い百両こしらえる。田舎には老いた母もいるのであるが、美代吉と二人で働いて頑張れば取り戻せると考えている。コツコツと働いて生きてきた新吉と美代吉では世界が違い過ぎていた。

 

  • 美代吉には藤岡慶十郎という旗本の旦那がいる。この旦那が良い人で、美代吉には船頭三次という情夫がいるがそのことも知っている。お金に綺麗な旦那で美代吉の旦那である以上、美代吉が三次にかんざし与えたのを知って、そんなみっともないなりじゃ俺が笑われるとお金を渡す。申し訳ないといってかしこまる美代吉だが、お金を貰い、三次が現れるとこのお金でぱーっと飲もうよという。お金がないのだがはした金では仕方がない、宵越しの金はもたないよの性格なのである。

 

  • 土地を抵当にでもして百両こしらえ、八幡祭りの用意をして美代吉姐さんの粋をみせてそのあとはどうとでもなれの生き方である。そこに美代吉に惚れこんでいる真面目な新助があらわれる。新助が気になっていた三次が現れるが、美代吉は啖呵を切って三次を帰してしまう。これも美代吉の気分屋のあらわれで、なんとでもなるという性格なのである。新助は美代吉が困っているならと一生懸命になる。その真面目さを深く考えることもなく一緒になることを約束する。美代吉には新吉のような行商人にお金が作れるわけがないという投げやりなおもいもある。

 

  • お金の使い方を心得た旦那の藤岡から手切れ金が届く。そこへ三次が恥をかかされたと刃物をもって現れる。美代吉は三次が自分を本気で殺しに来たとは思っていない。三次もそのつもりで一種の二人の戯れなのである。美代吉の母も二人にはあきれてしまうほどなのである。そういう世界の二人なのである。そんな二人のところに新助が息せき切ってもどってくる。美代吉は新吉にお金は出来たからもう大丈夫という。利子をつけて返しておくれと軽く云う。新吉が思い込んでいるような美代吉ではなかった。新助の帰る場所はもうないのである。

 

  • 八幡祭りを見て帰りなと越後に帰るのを引き留めた魚惣は心配してやってくるが、まさかこんなことにまでなるとは想像しなかった。どこかで新吉が美代吉の性格を知って深入りしないであろうと思っていたのである。面白おかしくその日を暮らす美代吉。自分の生き方を通す美代吉は、新助とは世界が違うが客商売ゆえ軽くその場その場であしらっているのである。ところが、新吉は美代吉も自分と同じ世界に生きてくれる人間になってくれると思い込んでしまっていたのである。

 

  • 切れると言って切れない男女の仲、お金に対する価値観など美代吉の住む世界と新助の世界は違い過ぎた。その亀裂に挟まって狂ってしまう新助のその先は。新助は美代吉を殺すしかなかった。高々と笑い、祭りの若い衆に担がれて花道を去る新吉。三次のような男を情夫にして好きなように生き、お金が転がりこみ何とかなってしまうような生活をしている者には、新助の実直さは通じなかったのである。月の明るさもどこか妖艶である。

 

  • 深川の花街で繰り広げられる人間模様。美代吉に明るく声をかけられる新吉。そのずれに観客は可笑しさを感じる。魚惣の心配がわかる。藤岡の遊び方。その中での美代吉と三次の仲。苦笑がおこる。そこへ飛び込んだ新吉。信用が第一と商売してきた新吉には泳ぎ切れない人の流れであった。

 

  • 初世尾上辰之助三十三回忌追善狂言である。初世辰之助さんが縮屋新助を演じられた時、今回同様、芸者美代吉は玉三郎さんで、船頭三次は仁左衛門さんだったそうである。その先輩たちに挟まれての松緑さん初世辰之助さんにどんな報告をされるのであろうか。

縮屋新助(松緑)、芸者美代吉(玉三郎)、魚惣(歌六)、魚惣女房(梅花)、美代吉母(歌女之丞)、船頭長吉(松江)、藤岡慶十郎(梅玉)、船頭三次(仁左衛門)

 

歌舞伎座2月『熊谷陣屋』

  • 熊谷陣屋』。文楽のガイダンス版のDVDを観ていたので、文楽と歌舞伎の違いが興味深かった。文楽ではで相模の出が上手側の部屋からで障子を開けてである。浄瑠璃でもそう語られる。歌舞伎では正面の襖が開いて相模の登場である。竹本では障子からと語られるので、これは役者さんが演じることによって正面になったのであろう。そのほうがインパクトも強いし相模役者を見せるためにも効果がある。ここも文楽とは違う役者を見せる歌舞伎の特色であると思える。幾つかの違いがでてくるが、そこが歌舞伎の先人たちが工夫してきた足跡でもあろう。

 

  • ヒッチコックの映画を観たあとだったので、『熊谷陣屋』をサスペンス感覚で観ていた。熊谷直実は敦盛を討ちとったと妻・相模と敦盛の母・藤の方に明かすことになるが実は、敦盛を生かし実子・小次郎を身代わりにしているのである。そのことを相模と藤の方に発覚させないで敦盛として首実検に臨まなくてはならない。なんとか二人を納得させ首実検へ向かうが、義経が出向いてきていたのである。熊谷ピンチ。首実検のとき、相模と藤の方を騒がせずに収めることができるのか。

 

  • 熊谷は花道の出から深い苦慮の中にある。手に握った数珠を袖奥にしまい気を変える。自分でわが子を殺したことに対する複雑さが現れている。陣屋に帰ってみれば、妻の相模がいる。動揺し怒る熊谷。しかし、ここから悟られぬトリックの語りが始まる。サスペンスの極みである。心理劇でもある。相模に小次郎が戦死したらどうするかと尋ねる。現実を知らない相模は初陣での誉であると答える。熊谷はでかしたと相模の心構えを褒める。敦盛を討ったと聴き敦盛の母の藤の方が熊谷を殺すため障子から現れる。それを押さえ、藤の方の出現に動揺するが、熊谷の語りが始まる。

 

  • 敦盛の潔さを語りつつ藤の方の気持ちを静めていくが、それは相模にも自分の子であったらとの想いを含んで語り、現実を知った時の相模の嘆きを押さえるための語りでもある。そのことが伝わる。それでいながら義経を前に首を見たときの二人の動揺。あたりまえである。それを制札を使って大きくその場を押さえる熊谷。目撃者を共犯者にしなければならないのである。黙らせるのである。制札を使っての形がなければ肉体的に二人を押さえることができないのが納得できる。だれが聞き耳を立て盗み見ているかわからないのである。そして制札の意味を二人に投げかけているのであるがそれは観客へも投げかけている。ここまでの経緯わかりましたかとこの制札の重み。

 

  • 「一枝を切らば一指を切るべし」と制札は弁慶の文字である。見事な桜を眺める人はこの制札をみることになる。弁慶の文字と知って人々は見事な書であると話す。比叡山で修業もしており書も立派なのであろう。最初に観客はこの制札の文字がみえないから見物人から聞くこととなる。桜の一枝を切ったならば、おのれの指を一本切るべしということであるが、熊谷はこれを義経の本心として、敦盛を助け身代わりをと読むのである。敦盛は帝の子なのである。熊谷は大変である。この解釈が間違っているかも知れないのである。実行して陣屋にもどれば、相模が来ており、さらに藤の方の出現である。

 

  • 義経からの制札の身代わりの解釈も間違いではなかった。役目を終えた熊谷。まだサスペンスは続くのである。梶原がこれを知って注進しようとするがどこからか石が飛んで来て殺されてしまう。殺したのは弥陀六となって身を隠す平宗清の出現である。身代わり仕掛け人の義経は宗清と見破る。宗清は幼い頃の義経を助けた人である。思いがけない出会いである。義経たちを助けたことが平を滅ぼすこととなったのであるから。敦盛を助けてまた平氏との争いか。しかし熊谷はもう自分にはそんなことは関係のない世捨て人となっているのである。ただ胸に残るのは無常観。

 

  • サスペンスの謎解きとして観ていたので、登場役者さんの一つ一つの演技が事細かく鑑賞できた。その動きからあらわす表と裏の心。何を隠しどうしようとしているのか。役者さんがそろったので、その鑑賞に細かく応えてもらえて熊谷の無常観に到達した。正面から毅然として現れた相模。くどきがあり自分の気持ちを吐き出すがその辛さがいやされるのはいつであろう。何処から切っても血のにじみが観える舞台であった。仕えて立ち働く者たちまで全て立ち振る舞いが綺麗で心みだされず緊迫感を味わうことができた。

 

  • 熊谷直実(吉右衛門)、相模(魁春)、藤の方(雀右衛門)、義経(菊之助)、弥陀六(歌六)、堤軍次(又五郎)、梶原(吉之丞)、義経家来(歌昇、種之助、菊市郎、菊史郎)

 

新橋演舞場初春歌舞伎

  • 十三代目市川團十郎と八代目新之助襲名が2020年と決まり新橋演舞場は賑わっていった。ただ十三代目市川團十郎白猿とあり、白猿は俳名でもあるらしくそれも継ぐということらしいが、十三代目市川團十郎(俳名・白猿)とかでは駄目なのであろうか。すきっとした名前につぎ足しましたという感じである。このあたりがよくわからなかったが、その後皆さん十三代目團十郎と記しているのでそれでいいのであろう。

 

  • 今回の舞台を観ていても思ったが、「團十郎」という名前は知名度が高く重い名前である。それだけ芸の歴史のある名前である。歌舞伎が芸を伝える古典文化とするなら、一つの家では伝えられないほどの重量がある。一代の一生は、成田屋全ての芸をその時代に伝えるには短いのである。そのため成田屋だけでは無理である。歌舞伎界全体に拡散されて伝わってきているのである。一代がその家の芸一つをを身につけるだけでも年数がかかるのである。そうした中で受けついだ当代さんが当代はこんな團十郎であると認識されるまでが大変でもあり、楽しみでもあるわけです。

 

  • 今回も海老蔵さんが大奮闘(人気は堀越麗禾さんと勸玄さんに奪われていたが)で夜の部は『俊寛』の後に『鏡獅子』という並べ方である。『鏡獅子』を生で観るのは久しぶりである。綺麗な弥生であった。ただ二枚扇でもこれといった印象はなく獅子頭へと移る。獅子は予想通り勢いがあった。

 

  • 俊寛』であるが、これが泣かせられたのであるが疑問が浮かんだ。その泣かせ方が、俊寛は千鳥の父の立場であるが芝居の方では、もっと年齢的に近い位置に観える。千鳥の児太郎さんのくどきがいい。よくここまで身体の使い方を練習して作り上げたと感心して観ていた。その後、俊寛が船から降りて千鳥を自分の代わりに乗せようとする。自分には都に帰っても愛する妻はもういないと話す。この時点で、父親的立場でなくて、千鳥に聞いて欲しいという感じなのである。同じ年代に切なさを語っているように見える。

 

  • 瀬尾の市蔵さんがこれまた憎たらしい敵役で、隠れていてこちらも砂を投げつけたいくらいの好演である。そして俊寛は瀬尾を殺すことになるのであるが、清盛に対して妻の仇をとったぞのような雰囲気となる。俊寛の中にその気持ちがわき上がるのもわかるが、あくまでも芯は娘とも思う千鳥を少将成経と共に船に乗せて添わせてやりたいと想う親心であるが、どうも私憤を晴らしてやったぞと伝わってくる。こちらもその気持ちに引きずられて気持ちが入れこむ。最後は俊寛が満足して菩薩の世界に到達したように思えて涙してしまったのである。

 

  • 人間の悲しさ、寂しさというものが飛んでしまった。こう受け取ったこちらの見方がおかしかったのか。海老蔵さんは個人的想いを盛り込み過ぎたのではないだろうか。古典は私的感情に偏るとちがったものとなり、受けつがれるべきものが不確かになってくる。受け継ぐことを基本にするならその芯はしっかりさせるべきである。こちらは観る側であるからいくらでも解釈はでき勝手に鑑賞するが、歌舞伎を受けつぐことを伝統文化とするなら、演じる側の立場は全く違ってくるとおもう。そのことが今回の海老蔵さんを観ていて疑問にも思ったところである。

 

  • 幡随院長兵衛』は、やはり柔らかさの余裕が欲しい海老蔵さん。長松の勸玄さんの「おとっつあん、はやくかえってきておくれよ」のト~ンがいい。女房お時の孝太郎さんの身体での動きから気持ちが伝わってくる。ドーンとしている左團次さんの水野十郎左衛門。長兵衛の子分たちの出来は経験の差あり。『三升曲輪傘売(みますくるわかさうり)』は海老蔵さんが登場したとき、ずいぶん着ぶくれしているなと思ったら傘を次々と手品のようにだす。芝居のなかでこれが挿入されればそれなりの効果があるとおもうが一つの舞踊としては軽すぎる。

 

  • 義経千本桜 鳥居前』は、忠信の荒事である。『道行初音旅 吉野山』の舞踊との違いに驚かされる演目である。弁慶も『勧進帳』と比較するとあれあれである。『勧進帳』は能を取りいれているので別物であるが。歌舞伎は役者さんが荒事の衣裳で出てくればそれに合わせて楽しむしかない。見得があり、引っ込みがありで荒事の勇壮さを愉しませてくれるかどうか。獅童さんは愉しませてくれた。弁慶の九團次さんと静の廣松さんが少し軽すぎであった。

 

  • 鳴神』の児太郎さんの絶間姫の手練手管がいい。そして、絶間姫が亡くなった夫とのなりそめを語るとき、夫からもらった歌の下の句が出てこない。(この句は『伊勢物語』によるらしい)経験はないが教養のある鳴神上人はこの下の句がスラスラでてしまう。これが言霊の恐ろしさでもある。右團次さんの鳴神上人ここから、話しから実体験へと入り込んでいくのである。お二人の息も会っていて楽しませてもらった。

 

  • 牡丹花十一代』は十一世團十郎生誕百十年を寿いでの舞踏である。その舞台に麗禾さんと勸玄さんが元気に出演し明るい舞台となる。十三代團十郎、八代目新之助の襲名を控え、その名跡の重圧に負けることなく一歩一歩、歩まれてほしい。