有料動画配信 歌舞伎『桜姫東文章    上の巻』、文楽『傾城阿波の鳴門』『小鍛冶』

 

歌舞伎『桜姫東文章』は、二幕第二場の「三囲の場」が円熟度満載の仁左衛門さんと玉三郎さんのやり取りが大変気にいり、その場を5、6回観てしまいました。わずか10分の場面なのです。

桜姫東文章』は、かつて「玉三郎の世界」という放送があって、1982年南座公演のダイジェスト版を紹介していてその録画があります。ダイジェスト版なので「三囲の場」はありません。様々な展開がある中でこういう場があったのですね。後半はもっと激動的な流れになるわけですから、ちょっとこの場は全体の流れから雰囲気の違う見せ場でもあります。

世の中からはみ出してしまい、桜姫の子供を抱える清玄と桜姫が三囲神社の土手で出会い、あっ!と思った時には闇となりすれ違って別れてしまうのです。言ってみれば、桜姫と清玄は心が通い合うことのない関係なのです。宿命なのです。その関係をふっと忘れさせるような場面でお二人のセリフは聞いているだけで気持ちの好い響きと抑揚でした。

花道から桜姫、土手から清玄の出で、そこに流れるのが「身にしむる雨にもうきめを三囲の、、、」の唄の独吟なのです。

録画の画面には、権助と桜姫の濡れ場では「恋による花も思いのひとりくも 濡れぬ昔が 結ばれなる闇の髪」の歌詞がうつしだされています。後半の殺しの場面でも歌詞が映し出され、この作品は唄もとらえて見るとぐっと面白さが増すと感じ、それも考慮して見直しました。清玄と白菊の「江の島児ヶ淵の場」も唄を耳にして観るとまた違った味わいがありました。

三囲の場の舞台装置の図

国立劇場で『桜姫東文章』の公演をしています。調べたら2000年でした。当時の幸四郎さんと染五郎さんでした。染五郎さんの女形はまだ少し硬いと感じましたが、『桜姫東文章』の内容はその時わかりました。「三囲の場」は記憶にありません。生き残った清玄が出世して登場し、なるほどこういう流れなのかとそれからは肩の力を抜いて鑑賞した記憶があります。

歌舞伎の『桜姫東文章』がかつての玉孝コンビでが36年ぶりなら、文楽『傾城阿波の鳴門』は国立文楽劇場の本公演では33年ぶりの上演だそうです。よく上演されているような気がしましたがそうなんですね。

親を訪ねてきた巡礼の娘が、誤って父親に殺されてしまうという悲しい物語ですが、母親のお弓の嘆きが身につまされます。娘・つるを祖母に託し、お家の宝刀を探すため、盗賊になっている夫婦。そこへ娘が現れますが、盗賊で追われる身と母は泣く泣く娘を巻き込みたくないと帰すのです。やはりと後を追います。父は娘とは知らず巡礼の子の持っているお金を借りたいと頼みますが騒ぐため口をふさぎ誤って殺してしまいます。そこへもどったお弓。自分が名乗ってととどめておいたならこんなことにはならなかったのに。

これまた浄瑠璃と三味線を中心に見直しました。

小鍛冶』は、もちろん歌舞伎の『小鍛冶』と比較しながらわくわくして楽しみました。相槌のところは火花が出るのです。これは映像だとよく見えて効果抜群でした。それぞれの面白さを観ることができ一件落着です。こちらは床本がありましたのでそれを見つつさらなる鑑賞もできすべて満足の映像鑑賞となりました。

<ユーチューブ 傾城阿波の鳴門>で検索すると、様々な「巡礼歌の段」を鑑賞することができます。

ユーチューブはテレビで見れることが解りましたので、こうして次々と情報がわかると時間がどんどん押されて嬉しいような困るようなです。

西鶴さんに戻らなくては。

追記: 出血大サービスにひかれて映像をみました。浄瑠璃の太棹での三味線演奏家さんの爪の手入れを見たことがありますが、長唄の三味線でも同じように手入れするのですね。長唄の声のためにの荒治療にも驚きました。というわけで『音楽驛』視聴しましてじっくり聞かせてもらいました。

出血大サービス! | 市川弘太郎オフィシャルブログ Powered by Ameba (ameblo.jp)

追記2: 『好色一代男』で主人公の世之介は二十歳の時長屋に住む娘のところに無理やり婿入りしてしまいます。そのあとに「婿入りしたその夜に毒殺された小栗判官にならなければいいけどね。」と西鶴は書き足しています。小栗判官の説教節に例えているのです。小栗判官の話も色々に脚色されていて、歌舞伎でも、スーパー歌舞伎Ⅱ『オグリ』では殺されて閻魔大王にあっています。近松門左衛門の原作も加味した『當世流小栗判官』では死んではいませんが、娘・お駒の嫉妬によって、目が見えなくなり不自由な身体になるという話に変わります。西鶴さんは近松さんの物語を読むか見るかできたのでしょうか。気になるところです。歌舞伎の『當世流小栗判官』はギリギリで視聴でき久しぶりに鑑賞できました。

歌舞伎オンデマンド|歌舞伎美人 (kabuki-bito.jp)

井原西鶴作品と映画『西鶴一代女』(2)

映画『西鶴一代女』では、田中絹代さんが、お化粧もはげ落ちた老醜をさらす夜鷹の演技で評判になったようです。井原西鶴の『好色一代女』では最初の恋から65歳までということになっています。

映画では最初の恋が悲惨なことになり主人公お春ではどうすることもできないその後の人生が続くのです。夜鷹にまでなってしまったお春はお寺の羅漢堂に入っていきます。その中に一人の男に似ている仏像を見つけます。そこからお春のこれまでに至る人生が描かれていきます。

御所勤めをしていたお春は公家の家来の若侍に恋焦がれら拒んでいたお春(田中絹代)も心を許します。その場を町役人にとがめられ身分違いの密通とされてしまうのです。お春と両親は所払いとなり、相手の勝之助(三船敏郎)は斬首という刑罰です。勝之助の最後の言葉が、好きな人と幸せになってくださいでした。恋愛というものが社会の仕組みからはじかれていた時代です。ところが女性の肉体が売り買いされ、子供を産むという道具にされていた時代でもあります。

お春はある殿様の世継ぎのために側室となります。世継ぎも産み安泰化と思いきや、殿様がお春を寵愛し体調を崩され里へ返されるのです。世継ぎの母にふさわしいお手当もありません。

父はその間に商売を考え借金をしていました。そのためお春は遊郭の太夫となります。お大尽がお春を身請けしたいといいますが、持っていたお金は贋金。御用となってしまいます。

お春は次に商家の笹屋に奉公にでますがそこの女房に嫉妬されまたまた里帰りです。

実家に出入りしていた真面目で働き者の扇屋の弥吉(宇野重吉)にこわれ嫁ぎます。今度こそ幸せになれるはずでした。ところが弥吉は物取りに殺されてしまいます。これでもかという追い打ちでお春ではどうすることもできない流れなのです。

お寺に入りますが誤解が生じお寺から去ることになります。そこへ笹屋の使用人が店のお金を持ち出し一緒に逃げてくれと言われ、行くところのないお春は共に逃げますがつかまってしまいます。

お春は三味線を弾いての物乞いとなっていました。夜鷹の女性たちが弱ったお春をみかねて自分たちの住処に連れていってくれ、どうせなら働いてみたらといわれ、夜鷹にでます。そして羅漢堂で、勝之助に似た仏像に出会うのです。そこでお春は倒れてしまいます。

母がお春を探していて訪ね当て告げます。お春の生んだ若様が父の死によって当主となり、その生みの母親をないがしろにしておくわけにいかなくなり迎えがくるというのです。子供のそばで暮らせるというこの上ない喜び。ところがお春の今の姿から若殿に一目会わせるがそのあとは別の場所で謹慎させるというのです。どちらが理不尽で勝手なのか。お春は自分の前を進む息子の姿をみつめます。抑えきれずに追いかけますがさえぎられます。そしてお春は逃げます。

お春は一人巡礼の旅に出ていました。彼女の意思に関係なく彼女の人生は翻弄されてしまいました。

西鶴一代女』とされていますが、西鶴の『好色一代女』のほうが自分の気に食わないことには肘鉄をくらわしています。そのことがさらに生き方を難しくさせるのですがそこらへんが違います。

田中絹代さんは、日本での女性映画監督の二番目ということで、最初の女性映画監督は坂根田鶴子さんです。この方も溝口健二監督のもとで仕事をされていた方です。田中絹代監督の『月は上りぬ』(1955年)をみたのですが、小津安二郎監督の映画なのと思わせられて驚いたのですが、小津安二郎監督が後押ししていたのです。『乳房よ永遠なれ』(1955年・脚本・田中澄江))は、乳がんを患い、生活との闘いの中で短歌を作り、女性の性に対してもぶつかっていき亡くなられた中城ふみ子さんの生き方を映画化したものです。田中絹代さんは女優として仕事をしていて、女性を描く映画を自分の手で作りたいとおもわれていたのです。田中絹代さんもやはり時代の中で闘われていた方なのです。

DVD『西鶴一代女』のパッケージの写真です。髪型と衣装なども興味深いです。

追記: 西鶴さんは『好色五人女』『好色一代女』(1686年)を出版し、『好色五人女』の三巻目「おさん茂兵衛」を浄瑠璃『大経師昔暦』(1715年)にしたのが近松門左衛門さんです。そして四世鶴屋南北さんは『桜姫東文章』(1871年)で因果応報、輪廻転生の世界を加えて桜姫をつくりあげました。桜姫は愛欲をきっちり清算して再生するのです。そのためには時間が必要で新たな物語の誕生でもありました。そして近代的解釈が加わっていきます。

追記2: 歌舞伎座4月歌舞伎『桜姫東文章 上の巻』と大阪国立文楽劇場の第三部『傾城阿波の鳴門』『小鍛冶』の有料動画配信を観ました。観れなかった作品が観れるのと、何回か見直せるのはいいのですが、パソコンの映像の鑑賞はなじむのに時間がかかりそうです。見方をかえてまた鑑賞します。

追記3: 少し長くなりますが、山内静夫さんの著書『松竹大船撮影所覚え書 小津安二郎監督との日々』で映画『月は上りぬ』について書かれてありましたので記しておきます。

 昭和29年、日活が映画製作を再開。五社(松竹、東宝、大映、東映、新東宝)は、非協力、日活ボイコットの姿勢を打ち出す。同じ頃、女優田中絹代の日活での監督ばなしが進んでいて、その題材として、小津先生が、戦後第一作の『長屋紳士録』の後に書いたシナリオ『月は上りぬ』を取り上げることになった。日本映画監督協会(理事長・溝口健二)は、五社の日活ボイコットに反撥していた。

田中絹代の監督作品を支援するべく、監督協会が製作者となり、小津先生はそのことで先頭に立って奔走した。立場を鮮明にさせるために、松竹との契約をその年度は行わず、フリーになった。松竹の高橋貞二を使おうとしたが、高橋貞二と松竹との契約内容を見て断念した。高橋は泣いて口惜しがったが、先生は筋目を通して、高橋を説得した。

月は上りぬ』は、その年の十二月に完成した。監督二作目の田中絹代にとって、どれ程心強いバックアップであったか、想像に難くない。

小津監督の一面を知る貴重な資料となりました。山内静夫さんは映画プロデューサーで里見弴さんの四男です。( 里見弴原作の小津監督作品 『彼岸花』『秋日和』) 

井原西鶴作品と映画『西鶴一代女』(1)

映画『西鶴一代女』(1952年)は言わずと知れた溝口健二監督と田中絹代さんの記念すべき作品です。お二人とも色々あってスランプを乗り越えられた作品なんですね。

今回この映画の元になった井原西鶴の『好色一代女』を読んで、読んだ感じと映画が違うので井原西鶴読んでよかったとおもいました。ただ、現代語訳ですが、訳されたのが富岡多恵子さんだったのがよかったのかもしれません。大阪出身で詩人でもありますから、文章のリズムや言葉に関しても富岡さんならではの俳諧師西鶴に対する想いも強く、その辺を信頼してスラスラと読ませてもらいました。

女一人生きていくのはいつの世も大変ですが、江戸時代に恋をしてしまった若き娘がそのことでつまずくと崖っぷちに立たされ、死ぬも生きるもどちらの選択もしんどい事なのです。『好色一代女』の主人公は、自分の過去を語りますが客観的にさばさばとした語り口です。それは西鶴がそう筆を進めているわけです。

最初の恋が身分違いゆえ、相手の男は命をとられてしまうのです。

主人公はとにかく色々な仕事につきますがどうしてもそこには肉体関係がからんできてしまうのです。そのことも隠し立てなく語り、そこに金銭関係もきちんと書かれているのです。そうすると読む方もそういう仕組みになっていて、そういうふうに搾取されてしまうのかと身一つで生きていく主人公の大変さが垣間見られ、さらに時には手練手管もご披露してくれますから、苦笑してしまったりします。

美形で稼ぐ太夫のところでは次のようにあります。「情目(なさけめ)づかいといいまして、知りあいでもないひとが辻に立って太夫の道中を見物しておりますと、そのひとを振り返って好きな男のようにおもわせます。また揚屋で、夕方店先に腰かけております時、知ったひとがやってきますと、遠くからそのひとに目をやってうっとりとながめます。」

前の方は歌舞伎の『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとのえいざめ)』の八ツ橋が浮かびます。江戸みやげにと吉原見物で花魁の八ツ橋が自分に微笑んでくれたと思い込んでしまう佐野次郎左衛門なのです。たしかにそうなんですがね。

その他幇間(ほうかん)にもきちんと手をつくしておくとお金持ちの客との間を上手くとりなしてくれたりします。そして「頭の悪い遊女はこの程度のこともおもいつきません。」とかいております。ところが、主人公は太夫から位がおちて天神になってしまいます。それは自分の出自を鼻にかけたゆえです。

文化・風俗研究家のように立場立場によって女性の着物や持ち物なども事細かに書かれていて、そちらにも感心してしまいます。何となくおぼろげで、ぱっぱっと脳裏に浮かんでこないのが残念です。髪型しかりです。島田とか兵庫などはわかりますが主人公の好みなどもあり微妙に変えたりするのです。髪飾りなども違いそういうカラーの映像がその場その場であるといいのですが。さらにお客の身なりの様子などもきちんと書かれています。

小説『阿蘭陀西鶴』でも西鶴が読みながら作品を書いているのを聞いているおえいが、父は随分着物のことをよくしっていると感心しています。

時代劇映画なども監督さんや俳優さんの好みなどでちがいますから、時代考証にはなりません。

富岡多恵子さんの『西鶴のかたり』では、『俳諧大句数』の一部分からその句のつながり方を解説してくれています。さらに独断で短くします。

「蘆間(あしま)を分けて立ちさわぐ波」の波は、「白波五人男」のように泥棒や盗賊をあらわします。そこでさわぐ波をうけて次の句は「盗人と思ひながらもそら寝入り」(泥棒だとわかるが怖いので寝たふりをしている)。盗人から恋の盗人にして夜這(よば)いが親子のあいだに足をさしこむことになります。「親子の中へあしをさしこみ」。足をさしこむのが置炬燵(おきこたつ)と受けて「胸の火やすこし心を置ごたつ」。

ただやみくもに詠んでいるのではなくつながっているのです。富岡多恵子さんは夜這いなどと「芭蕉ならおそらくこういう下世話なのはきらいでしょうね。」としています。しかり。

好色一代女』の主人公は宇治の出らしいのです。そして京を始め大阪、さらに江戸にも行っており、ある時、松島へも行っておりその時の感想を語っています。

「当初はなるほどと感心して「こんなところをこそ、歌人や詩人にみせたい」と思っておりましたが、朝に晩に眺めておりますと、美しく散らばった島々も磯臭く思えてきますし、末の松山の波も耳にうるさく、塩釜の桜もみにゆかずに過ごしてしまいました。金華山の雪の朝にも寝坊して、雄島の月の夕べも別になんとも思わず、入江に散らばる白黒の小石を拾っては、子供相手の五目並べに夢中になってしまうていたらくです。」

その前に結論が書かれています。「美人でも美景でも、いつもいつもみておりますとかならず飽きるのは、経験しますとよくわかりますね。」

西鶴さん、松島を美人にたとえた芭蕉さんに対抗して書いているのではありません。『奥の細道』はあとに書かれているのです。

西鶴さんと芭蕉さんは目指す新しさが違いますから読者にとっては大変ありがたいことです。

富岡多恵子の好色五人女わたしの古典16

富岡多恵子さんの本は『好色五人女』と『好色一代女』に二作品の現代語訳が載っているのです。これから『好色五人女』のほうに入りますが、井原西鶴の本や、『好色一代男』の訳本などが積んでありまして、さらに有料配信などが数多くでておりまして時間のやりくりに大変な日々なのです。

追記: <「不易流行」部屋子の部屋 総集編> 無頓着さと生真面目さの落差に爆笑しました。後見の後見って弥次さん喜多さんのアルバイトと同じではありませんか。

【GW特別企画】「部屋子の部屋」総集編 配信決定 | 部屋子の部屋|市川弘太郎主催「不易流行」オンライントークイベント (fueki-ryuko.org)

追記2: 1682年に仙台の大淀三千風が松島を詠んだ千五百句を『松島眺望集』にまとめました。そこに西鶴さんと芭蕉さんが並んで載っているのだそうです。

松しまや大淀の浪に連枝の月  西鶴

武蔵野の月の若ばへや松島種  芭蕉

西鶴さんは選者の大淀の名前を詠みこみ、芭蕉さんは武蔵野の月も松島の月が種としていてそれぞれの作風が出ていて面白いと思いました。(大谷晃一著『井原西鶴』より)

『阿蘭陀西鶴(おらんださいかく)』(朝井まかて著)

奥の細道』の酒田のところで解説に、井原西鶴の『好色一代男』と『日本永代蔵』にも酒田が出てくるとありました。松尾芭蕉と井原西鶴。同じ時代に生きていたのです。西鶴というと浮世草子作家、今なら大衆小説家というような印象だったのですが、俳諧から始まっていたのです。

たしか大阪生國魂神社に像がありました。何かをここでやったと解説文がありましたが覚えていませんでした。1673年(寛文13年)生國魂神社で万句俳諧を興行したのです。12日の日数をかけて一万句を巻きました。200余人が出句、それを『生玉万句』として出版します。大阪で出版した初めての俳書です。

芭蕉はその次の年1673年に江戸へ出ます。西鶴の行動は知っていたと思います。芭蕉は芭蕉で俳諧の新しい道を暗中模索の状態だったと思われます。京、大阪ではなく江戸に出た松尾芭蕉。大阪で何とか注目を浴びたいと様々な試みをしていた井原西鶴。面白いではないですか。ありました。朝井まかてさんの『阿蘭陀西鶴』。

この作品、織田作之助賞を受賞しています。織田作の銅像も生玉にあり、面白い組み合わせと思いました。遅れて近松門左衛門も文楽で出てきます。超面白い時代です。絵師の排出した若冲の時代みたいです。

生玉万句』が出版された頃本流だったのが貞門派で、新しい句を打ち出す西山宗因(のちに談林派)の宗因流に対し面白さを求めて軽すぎると揶揄され阿蘭陀流と言われたりしていました。それを受けて西鶴(この時は鶴永)『生玉万句』で何が悪い自ら阿蘭陀流であると宣言したのです。その後、西山宗因の一字をもらい西鶴とし阿蘭陀西鶴として次々と新しい試みに挑戦していくのです。

井原西鶴に関しては資料が少ないらしいのですが、朝井まかてさんは、西鶴の盲目の娘・おあいが自分の父・西鶴の人となりを語るという形にしています。盲目ゆえに耳から聞いた父の作品は全て覚えていて、訪れる人や父の外での話から父の人をたらしこむやり方などよく心得ていて客観的にみています。その娘・おあいの想いと同じに読んでいる読者はある時点からおあいと一緒に方向転換させられます。

人は自分の顔が物を言っているのを知らないものです。そのことをおあいは歌舞伎役者の辰彌から知らされるのです。美しいだけを求められている役者ならではの冷めた意見だったのです。おあいはいつも父に対して批判がましい顔つきをしていて、西鶴のおあいに対する愛情をちっともわかっていない顔だと彼はスパッと指摘するのです。

その後、ほかの人からもおあいが父に対して勝手に思い込んでいたことが違っていたのだということに気づかされます。この展開が作家の力加減の上手さです。こちらもほろりときます。

西鶴の成してきた作家活動と、その中で翻弄されてきた家族の感情やそれを恨みにしないで生きていく生き方が静かに当たり前のように進んでいきます。西鶴も新しさを求めて突き進み最後は庶民の生活を描く『世間胸算用』で締めとなるのです。

世間胸算用』の出版された1692年におあいは亡くなり、次の年の1963年(元禄3年)に西鶴も亡くなります。

芭蕉さんから西鶴さんにいくとは『奥の細道』を読み始めたとき思いもよりませんでした。そんな道筋にありがとうございますです。西鶴さんには一度は近づきたいとおもっていましたので。『阿蘭陀西鶴』が新たな道しるべとなってくれました。

阿蘭陀西鶴

えんぴつで書く『奥の細道』から(12)

市振から出立した芭蕉は大垣まで様々な所に寄っています。それがオレンジ色の丸です。森敦さんの『われもまたおくの細道』から地図をお借りしました。

黒部四十八か瀬 → 那古の浦 → 卯の花山 → 倶利伽羅峠(くりからとおげ) → 金沢 → 小松 → 多田神社 → 那谷寺 → 山中温泉 → 全昌寺 → 吉崎の入江 → 汐越の松 → 天竜寺 → 永平寺 → 福井 → 敦賀 → 気比の明神 → 色の浜 → 本隆寺 → 大垣   

黒部四十八か瀬ではうんざりするほどの川を渡り那古の浦に着きます。古歌にある担籠(たご)の藤波にも行きたかったのですが土地の人に大変ですよと言われて卯の花山倶利伽羅を越えて金沢につきます。

芭蕉は死後義仲寺に自分を葬って欲しいと残したほど木曽義仲びいきです。倶利伽羅峠は『源平盛衰記』にも義仲の活躍が書かれています。牛の角に松明を結び付け数百頭の牛を先頭にして野営中の平家軍に奇襲をかけ勝利するのです。このことに芭蕉は一切触れていません。

金沢で悲しい知らせを受けます。再会を楽しみにしていた期待の若い弟子小杉一笑(いっしょう)が亡くなっていたのです。この悲しみの中、小松多田神社に参拝します。ここで、斎藤実盛が源義朝から拝領したという兜と直垂の錦の切れ端が納められていてそれを目にします。

実盛は最初源氏に仕えます。その時、幼少の木曽義仲を助けます。その後実盛は平家に仕え倶利伽羅峠で敗走する平家のために戦って篠原の戦いで討ち死にします。実盛の髪が黒く義仲はいぶかります。家臣が首を洗うと髪は真っ白で黒く染めていたのです。義仲は涙し、実盛の遺品を多田神社に奉納したのです。

太平洋側は義経、日本海側は義仲ということでしょうか。義経ゆかりの場所があってもぷっつり語らなくなり、義仲についてはここだけです。そしてここで愛弟子一笑の死と実盛の死を重ねて、それに涙する自分と義仲を重ねているように思われます。

実盛は歌舞伎では『実盛物語』、文楽では『源平布引滝』での<九郎助内の段>、能では『実盛』があります。興味惹かれるのが能で、実盛が亡くなって230年経ったころ加賀国篠原で遊行上人が実盛の幽霊を弔ったという話が巷をにぎわし、世阿弥がさっそくそれを曲にしたというのです。前シテが早くも幽霊となって表れるのだそうで異例なことです。世阿弥といえば超お堅い人と思っていましたが、作品のために様々な情報から制作していた一端がうかがえました。

山中温泉へ行く途中で那谷寺に寄り趣のある寺であったとし、山中温泉で湯につかり有馬温泉の効能に次ぐといわれているとしています。ここの宿主は久米之助と言いまだ小童(14歳)です。父が俳諧をたしなみ、その思い出を記しています。曾良がお腹の具合が悪く伊勢の縁者を頼って先に旅立ちます。

金沢から同行してくれた北枝と共に全昌寺に泊まり、吉崎から舟を出して汐越の松を見物、天竜寺の大夢和尚を訪ねます。ここで北枝と別れここから福井まで芭蕉一人旅となります。永平寺を詣で福井へ入り古い友の等栽をやっとのおもいで訪ねあてます。貧しい住まいで出てきた女性もわびしい感じで、主人はでかけているのでそちらへお尋ねくださいといわれ、等栽の細君らしいのです。古い物語で読んだような場面だと芭蕉は感じます。

等栽は再会を喜び旅の続きに同行してくれ敦賀に着きます。次の日は中秋の名月で、着いた夜は晴れていたのでその夜気比の明神へ参拝に出かけます。月の光で社前の白砂が霜のようにみえるのを見て<遊行の砂持ち>という故事について語ります。気比明神がお参りしやすいように草を刈り、土砂を運び整備したのが遊行上人だったのです。

次の日の中秋の名月は雨となります。さらに16日は晴れて、天屋なにがしという人がお酒や、お弁当ををそろえてくれて天屋の使用人たちと一緒に色の浜へ舟をだします。色の浜にはわずかに漁師の小屋と寂しげな法華寺の本隆寺があるばかりで夕暮れ時がさらに寂しさをかきたてます。

色の浜では西行の歌にある「汐染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあるらん」の<ますほの小貝>を拾うのが目的でもあったのです。芭蕉が詠んだ句です。「波の間や小貝にまじる萩の塵」(波が引いたあとにますほの小貝が見え隠れしそこにまじって萩の花びらが散見している。面白い組み合わせである。)

私的には遊女との句の<萩の月>と<萩の塵>が呼応しているように感じます。そう思わせる芭蕉の構成力があちこちに散逸しています。そこで別れて新しいことに向かっていてもどこかで呼応していてさらにもっと古いものにも近づいていて考えさせられます。そしてさらに新しさに向かって進んでいきます。<不易流行>と通じるような気がします。

露通が敦賀へ迎えに来てくれて一緒に美濃の大垣に入ります。そこには伊勢から曾良も先についており、その他多くの弟子たちが顔をそろえてくれます。まるで蘇生した人に会うかのように喜んでくれます。芭蕉も満足だったでしょうが、旅の疲れもいやされぬうちに伊勢の遷宮を拝するためとまた舟にのるのでした。

⑪蛤の ふたみに別れ行く秋ぞ

・蛤が殻と身に分かれるように再会した人々とまた別れていくのです。秋も深くなったこの時期に。

ついに『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』も最終回となります。黛まどかさんと榎木孝明さんは、敦賀色浜(いろがはま)に行かれました。

敦賀では気比神社へ。芭蕉は月がキーワードの一つであり、中秋の名月をみるためにここに日にちを合わせています。敦賀は歌枕の地でもあるのです。十五夜前夜の月を<待宵(まつよい)の月>といい、雨の月でも、<雨月>とか<無月>という詞があるのでそうです。

気比神社

奥の細道』は柏木素龍によって清書を頼み、それが芭蕉の兄に渡り、さらに敦賀の西村家に代々嫁入り本として伝えられたそうで、森敦さんは西村家で見せてもらい、黛さんと榎木さんは敦賀市立博物館で見させてもらっています。それが『おくのほそ道』素龍清書本です。芭蕉が書いたと言われる表紙の短冊に書かれているのが<おくのほそ道>の仮名なのです。どうして森敦さんの本が『われもまたおくのほそ道』で『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』なのかちょっと気にかかりましたがこれで納得しました。

さて黛さんと榎木さんは色浜に行きます。色浜は小さな漁港でここで<ますほの小貝>を拾われました。赤ちゃんの爪くらいのかすかにピンクいろの小貝です。

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の映像で『奥の細道』を読み続けるための楽しい刺激をたくさんもらいました。

スケッチも俳句もしませんが、旅の途中で写真とは別にスケッチするならどこが良いかなとか、キーワードの単語を探したりすれば旅の新たな視点が見つかるかもしれません。

私的には日本海側の旅の写真が保存されないまま消滅。私的旅はおぼつかない記憶で頭の中で組み立てるしかありません。これで『奥の細道』は何とか終了です。『奥の細道』の関連本は数多くあります。それらを眼にしてもこれで少しはあそこの場所のあの事だなと気がつくことが出来ることでしょう。

追記: 旅行作家の山本鉱太郎さんの『奥の細道 なぞふしぎ旅 上下』は疑問を出しつつ答えを見つけていき、しっかり歩かれて写真も地図も豊富で『奥の細道』の貴重な参考書です。

えんぴつで書く『奥の細道』から(11)

奥の細道』も、日本海に沿って歩き始めることになります。下の地図の市振の関の右横のの丸印は親知らずです。

私的な旅は芭蕉さんの旅とは違っていて、東京から佐渡へ、金沢へ、能登へと観光が目的で重なる部分が少なくなります。

ある方は酒田までを一部とし、酒田を立つときから二部に分けられるといわれていて、私の感覚もそれに近いです。森敦さんは酒田から越後路あとを起承転結の<>としています。

芭蕉は酒田が名残惜しく日を重ねますが、金沢までは130里ということで出立を決して再び歩き始めます。ところがしばらく記述がなく次に記されているのが、鼠の関(念珠の関)を越えて市振(いちふり)に着いたと書きます。ここまでの9日間は暑さと湿気に悩まされ病が起こって筆をとれなかったとしています。そして市振で二句載せています。

⑨文月や 六日も常の夜には似ず / 荒海や 佐渡に横たふ天の河

・今夜は七月六日七夕の前の夜であると思うといつもの夜と違うようにおもえる。

そして、「荒海や 佐渡に横たふ天の河」の雄大でいながら流人の島に対する繊細さも感じられる句がきます。おそらく出雲崎で眺めた佐渡と荒海に七夕の天の河を組み合わせたからでしょう。

市振りに着く前に難関の親知らずを通ってきています。そのことはこの後宿で寝るときに書いています。

「今日は親知らず、子知らず、犬戻(いぬもど)り、駒返(こまがえ)しなどいふ北国第一の難所をこえて疲れはべれば、枕引き寄せて寝たるに」

<に>ときました。どうしたのでしょう。隣の部屋から若い女の話し声がしたのです。女は二人でどうやら新潟から来た遊女らしく、伊勢参りの途中らしいのです。年配の二人の男が同行してきたらしいのですが男たちは明日引き返すようです。自分たちの身の上を嘆き悲しむのを夢うつつに聞きつつ疲れている芭蕉は寝入ってしまいました。

次の朝、女性たちは女二人では先の旅が不安ですので芭蕉たちの後ろからついていかせてくださいと涙ながらに頼みます。芭蕉はあちらこちらと留まるので無理です。人の流れに任せていけば、神明の加護があり伊勢に導いてくれるでしょうといって先に出立してしまうのです。つめたい。途中までならとでも言ってあげればよいのにとおもいましたが芭蕉もしばらくは気がかりだったようです。

⑩一つ家に 遊女も寝たり萩と月

<萩と月>はもの悲しさを感じさせます。遊女とのことは曾良に話をしたら書き留めたとしていますが、曾良の日記には記されていないそうです。ゆとりのない自分の老いを改めて感じてあえて記したのかもしれません。それとも終盤の旅に色をそえたのでしょうか。 

黛まどかさんと榎木孝明さんが『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』で出雲崎親不知市振を紹介してくれました。知らない地域でしたので大変参考になりました。

出雲崎は佐渡島から運ばれた金で栄えた街で、金の輸送にたずさわる廻船問屋が100軒近くあったそうです。街道筋には間口が狭く細長い妻入りと呼ばれる家並みが続いています。

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親知らずの海岸線

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今は海上を高速道路が通っています。

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親知らずを無事通過できると市振にて海道の松が迎えてくれます。

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芭蕉が市振で宿泊した桔梗屋の跡

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出雲崎といえば良寛さんです。良寛関連の施設が幾つかあるようです。良寛は芭蕉が亡くなって60数年後に誕生されていて、芭蕉を敬愛していた文章がのこっているようです。禅僧として芭蕉さんとは違う視点での句を残されました。

えんぴつで書く『奥の細道』から(10)

三山巡礼を終えた芭蕉は鶴岡城下に入ります。鶴岡と云えば藤沢周平さんの小説の世界とつながるのでしょうが、考えてみれば映画やテレビドラマは観ていましたが小説は読んでいないことに気がつきました。先に映像でみてしまって藤沢周平ワールドが固定化してしまっています。原作に触れるともっと細かな機微も見えてくるのかもしれません。

芭蕉はここで庄内藩士・長山重行の屋敷に迎えられ俳諧一巻を巻いています。次に舟で酒田に入ります。ここでは医者の家に逗留します。酒田は北前船の西廻り航路の要港として繁栄を極めていましたので文化や俳諧に通ずる人々も多かったようです。記されてはいませんが当然俳諧の会も催されました。

今も豪商の屋敷などが残されており、明治に建てられたお米の保管倉庫だった山居(さんきょ)倉庫など見どころが多いところですが、私的旅では『土門拳記念館』が目的で他を見学していません。酒田駅からバスで『土門拳記念館』へ行く途中で最上川を渡りました。大きな川でした。

西廻り航路ですが、これを開拓したのが河村瑞賢という人で1672年(寛文12年)のことでその17年後に芭蕉が酒田を訪れているのです。驚くべきにぎわいだったのではないでしょうか。石巻ではにぎわう港の様子を記していますがここでは何も書いていません。さらに石巻では宿を貸してくれる人も無かったとしています。こういう書き方は芭蕉の強調の文学性の特色でしょう。

芭蕉の旅は酒田から象潟へと進みます。芭蕉の気持ちは象潟に飛んでいます。しかし海岸沿いの道はとぎれとぎれで、さらに天候も悪く雨となりますが「雨も奇なり」と次の日に期待します。思っていた通り翌朝にはしっかり晴れて朝の光の中を舟で能因法師が三年閑居したという能因島に舟をつけるのです。そこから西行法師が詠んだ桜の古木が残っている蚶満寺(かんまんじ・かつては干満珠寺)に渡り、ここで松島同様に象潟をほめます。

さらに芭蕉は松島象潟を比較しています。松島では中国の洞庭湖や西湖とくらべても引けを取らない景色とし、美人に例えています。それを受けて記しているのでしょう。「松島は笑ふがごとく、象潟は憾(うら)むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。」松島では句はできませんでしたが象潟では詠みます。

⑧象潟や 雨に西施(せし)がねぶの花 / 汐越や 鶴脛(つるはぎ)ぬれて海凉し

・美しい象潟である。雨の中の合歓(ねむ)の花は有名な中国の美女西施のようである。

・汐越しには鶴がいて、鶴の足が波のしぶきに濡れていて、涼しそうである。

西施は中国の春秋時代、越王の勾践(こうせん)が呉王の夫差を惑わすため送り込んだ愁いをふくんだ美しい女性で、夫差は西施を溺愛し国がは傾むいてしまうのです。松島が笑顔の似合う人であれば、象潟は愁いさが惹きつけられる人ということなのでしょう。

さてその象潟も今は芭蕉さんが眺めた風景とは全く違うのです。1804年(文化元年)の大地震のため、湖底が隆起し一面陸地となってしまったのです。今は水田となり、水田のの中に多くの岩礁が点在し「九十九島」と呼ばれ、違った景観を楽しませてくれているのです。

ここからは『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の黛まどかさんと榎木孝明さんの旅のほうに移動します。

お二人は鶴岡では郷土料理を食します。その中に長山重行が歓待してくれて芭蕉が食したものがありました。民田(みんでん)なすびです。3センチになったら収穫し漬物にするなすびで芭蕉は句を残していました。

現在の象潟の図と画像

芭蕉のころの象潟の図。 能因島から蚶満寺(かんまんじ)へ。

現在の能因島

すべての島に名前がついていて、今はお散歩マップを手に散策できるようです。ここで黛さんは榎木さんの指導のもと苦手なスケッチを試みられました。的確なアドバイスで素敵な絵ができあがりました。旅の記録として俳句とかスケッチはよく観察するため、その時の風を五感で感じており深く残るそうです。

象潟は歌枕の地であり、芭蕉さんは存分に古の人々の世界に浸ったことでしょう。それらすべてを鳥海山は知っているわけです。そんな鳥海山をお二人は絵の中に描かれていました。

追記: 文楽の吉田蓑助さんが今月の国立文楽劇場公演での引退を発表されました。DVD『人形浄瑠璃文楽 名場面選集 ー国立文楽劇場の30年ー』を鑑賞しましたが、何体の人形に命を吹き込まれたのでしょうか。観客と同様に感謝している人形が静かにみつめていることでしょう。これからも文楽のためにアドバイスをお願いいたします。

えんぴつで書く『奥の細道』から映画『月山』と刀剣月山派

森敦さんの小説『月山』が映画になっていたのを知りました。ダメもとでと検索しましたらレンタルに入っていました。そして現代の刀剣月山派の紹介映像も借りれたのです。

小説『月山』では月山と出羽三山について次のように表現しています。

「じじつ、月山はこの眺めからまたの名を臥牛山(がぎゅうざん)と呼び、臥した牛の北に向けて垂れた首を羽黒山、その背にあたる頂を特に月山、尻に至って太ももと腹の間の陰所(かくしどころ)とみられるあたりを湯殿山といい、これを出羽三山と称するのです。出羽三山と聞けば、そうした三つの山があると思っている向きもあるようだが、もっとも秘奥な奥の院とされる湯殿山のごときは、遠く望むと山があるかに見えながら、頂に近い大渓谷で山ではない。月山を死者の行くあの世の山として、それらをそれぞれ弥陀三尊の座になぞらえたので、三山といっても月山ただ一つの山の謂いなのである。」

主人公がひと冬思索の場所として過ごす注連寺は湯殿山の裾にあるお寺である。かつて人々は鶴岡から十王峠を越え七五三掛(しめかけ)の村を通り大網を抜け湯殿山詣でをし、帰りには大網の大日坊か七五三掛の注連寺に泊まり、酒を飲み博打をして帰って行ったのである。

バスが通るようになって十王峠を越えるこの道を通る人々もいなくなり、雪が降り大網まで来ていたバスも通らなくなれば村の人々は十王峠を越えて鶴岡へ行く方が近いのでその道を使う。七五三掛の村は雪にすっぽりと閉ざされ雪に抱かれるようにして吹きを避けて暮らす。

主人公を迎えてくれた注連寺もいまでは傾いて、足の不自由なじさまが一人守っている。バスを降り寺に向かう時、何んとなく村人からうさん臭く思われるのはよそ者が入って来たからでもあるが、村では闇酒を造っていてかつて密告者がいてもめたことがあり税務署の人間とおもわれたようである。

主人公は二階の自分の寝屋があまりにも寒いので祈祷簿の和紙で蚊帳を作りそこで寝ることにする。村の女たちはその話を話題にし、カイコがやがて白い羽が生えるのは繭の中で天の夢を見るからだと言う。若い女はその中で寝て見たいという。主人公が二階に上がると女は和紙の蚊帳の中で眠っていた。

主人公は村の人々の過去と現在を知らされながら、ただ現実の事であるようなちがうような感覚で受け入れ、流されるにまかせ漂うように眺めている。そんな主人公を脅かすような力は加わらなかった。大網にバスが来て、春が訪れた。主人公の友人が自分を忘れずに訪ねてくれて、じさまは友人と一緒にこの村を去ることを勧めてくれる。

じさまが途中まで送ってくれ、もう来ることもないであろうからとよくみてくれという。ふり返るとそこには月山が臥した牛のような巨大な姿を見せていた。

月山が見えて、周囲から隔絶されて、ささやかな宗教的行事がある狭い村社会で実在の場所。その設定が現実であるようなないような雰囲気をかもしだしている。表現不可能な閉ざされた世界の情念やあきらめや欲望などが雪の舞う吹きの中でうごめいている。

映画ではこのあたりを人間関係を変えたりしてサラリとした感じで整理され、じさまがこの主人公を大きな人だとして一緒に一冬過ごせてよかったと涙する。よく心惑わされずに過ごせたということでもあるのだろうか。人間の煩悩をも淡々と表現している。主人公のこれまでの人生との重ね合わせもそれとなくあらわし、村人に対する主人公の感想や意見もなく、聞かされる村の話なども本当か噂かなども明らかにしない。主人公は自分がそれにかかわる資格がないようにもみえ、そのこと自体も置き去りにしている。

即身仏(ミイラ)についても主人公は何か考えさせられるところがあるようであるが何もない即身仏の厨子の中に、波で削り取られて丸くなった石を置く。ここで自分はとげとげしい感情を洗い落とされたということであろうか。この石は、注連寺に来る前に何を想ったのか主人公が手にしたものである。その時の想いを置いていけるようになった自分がいたということであろう。

村が雪に包まれていく映像は七五三掛の村や注連寺でロケをしているのでそのあたりを映像で観れたのでその地域に親近感が増した。よく撮られていた。とらえ方が様々にできる小説なので、映像では無駄をはぶいてじっとみつめて黙する主人公にしたようにおもえる。友人も出さずに、じさまの同級生の源助が十王峠まで送り、主人公が月山と村を眺めおろして終わるのである。

映画『月山』(1979年)監督・ 村野鐵太郎/脚本・高山由紀子/出演・河原崎次郎、滝田裕介、友里千賀子、稲葉義男、小林尚臣、井川比佐志、片桐夕子、菅井きん、河原崎長一郎、北林谷栄

刀剣の月山派は芭蕉の『奥の細道』の鍛冶小屋から知ったのですが、森敦さんは、月山派の二代目月山貞一さんと息子さんに会っていました。そのことは『われもまたおくのほそ道』で書かれています。

「月山家はもともと修験者で、月山麓北町八幡宮に、その顕彰碑があります。いまは大和三輪山の麓狭井を挟んで、山の辺の道あたりに、月山日本刀鍛錬道場を開いていられます。歴代天皇家の刀を打たれ、ご当主月山貞一さんは人間国宝です。」

DVD『現代月山伝 日本刀鍛錬の記録 百錬精鐵 刀匠 月山貞利 ~綾杉の系譜~ 普及版』の月山貞利さんは二代目月山貞一さんの息子さんです。

鎌倉時代に鬼王丸という刀鍛冶が月山の東のふもとで刀をきたえはじめ、月山派の祖といわれています。月山物の特徴は、刀全体にあらわれる鍛え肌で、大波がつらなったような模様、波の間に渦巻きのような模様があり、これを綾杉と呼ぶようになったのです。

月山一派は何度か一門の存続の危機にさらされます。出羽三山が武力を持たなくなると勢いを失います。再び注目を集めたのは幕末の時で、月山貞吉が大阪月山派の祖となりその系譜をつなぐのが現在の月山貞利さんと息子さんの貞伸さんです。

戦後のひところは鎌や包丁をつくっていた話を森敦さんは貞一さんから聞いたと記しています。

槌を打つことだけでできる模様の不思議さ。ひたすら打ち鍛えるのです。

刀工月山の歴史はこちらで → 月山日本刀鍛錬道場|刀工月山の歴史 (gassan.info)

出羽三山に関しては色々さがしましたがこのサイトが七五三掛や注連寺のある地図もあり位置関係がわかるとおもいます → 日本遺産 出羽三山 生まれかわりの旅 公式WEBサイト (nihonisan-dewasanzan.jp)

森敦さんは1983年(昭和58年)に放送されたNHK『おくのほそ道行』の撮影のため芭蕉の歩いた道を訪ねられています。71歳のときです。その後『われもまたおくのほそ道』を書かれたわけですが、月山へは八合目から二度とも登ることができませんでした。湯殿山の撮影のあと、注連寺に連れていかれました。寺の裏を上がるともう尾根になり月山になっていったのだそうです。森さんは何回も注連寺に来ていて知らなかったそうです。

「とにかく、ここをちょっと歩いてくれれば、月山に登ったように撮れると言われて、ちょっとだけならと歩きました。しかも、放映されたところを見ると、わたしがちゃんと月山らしいところを歩いているから不思議です。」と映像のマジックを明かしています。湯殿山では撮影秘話も記されています。

森敦さんは、『奥の細道』を<起・承・転・結>に分けられ、最初の部分を<序>としています。小説家ならではの発想ということでしょうか。ちょっとわたくしには手がおえませんので、森敦さんのご登場はここでお終いにさせていただき、こっそり考えることにします。

森敦さんが師とした小説家・横光利一さんの碑が芭蕉の生まれた伊賀の上野城にありました。突然の出現に驚きましたが。お母さんが伊賀市の出身で三重県立第三中学校(現三重県立上野高等学校)で学んでいたのです。しめは芭蕉の生誕地にもどりました。

えんぴつで書く『奥の細道』から(9)

出羽三山の羽黒山は現世で、月山は過去世、湯殿山は未来世と言われています。過去世は死の世界ということでそこから新たな未来世に生まれ変わるということのようです。浄化され再生されるということなのでしょう。

芭蕉は羽黒山から月山湯殿山へとたどり参詣し引き返しています。湯殿山神社の御神体については語ってはいけないという教えに従い「よりて、筆にとどめてしるさず。」としています。

月山に関しては厳しい道のりとなったようです。行者の白い装束を身にまとい強力の先導で雲か霧か分からないような状態の中を雪を踏みつつのぼります。「息絶え身凍えて、頂上に至れば、日没して月あらわる。」

羽黒山に拝した私は、月山に行きたいとその後で吾妻小富士、鳥海山、月山のツアーに行きました。月山は八合目までバスで運んでもらい、月山の頂上まで登れない人には、月山中之宮に御田原神社が鎮座してまして、月山神社の遥拝所(ようはいじょ)でもあるのです。ここでお詣りをしまして、その後少し紅葉の弥陀ヶ原散策を楽しみました。

八合目がこんな感じですから頂上は濃い霧の中でしょうか。ここから登るのだとおもったのでしょうか登山口の道しるべを撮っていました。

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の黛まどかさんと榎木孝明さんは案内をしてくれる方とともにここから登られたのだとおもいます。

黛さんは三度目だそうで、前の二回は天候不良で断念したようです。三回目で黛さんの願っていたことが叶いました。芭蕉は月山で笹を敷いて篠を枕にして眠り、次の日湯殿山に下ります。その途中で桜に出会うのです。今まで目にしていたであろう桜に触れなかったのはこの山中での桜を強調したかったと勝手に想像しています。その桜との出会いを願った黛さんは月山登山の途中で会えるのです。

「これ桜では!」とみつけられました。

黛さんは、月山登山の『奥の細道』は少し誇張があるのではと思っていたようですが体験してみて実際に大変であることを納得されてました。ただ芭蕉は雪月花をキーワードとしてもいたので、それがそろった月山でもあったそうです。

森敦さんの『月山』を読みました。『奥の細道』を読んでいなければこの本を開かなかったでしょう。

庄内平野をさまよっている主人公の男が、豪雪で行き倒れとなるところを助けられその時月の山と遭遇するのです。月山に導かれるように注連寺(ちゅうれんじ)にお世話になり、そこの村人たちと交流し、村の知られざる伝説のような話を聞き、その村を去るまでのひと冬が描かれています。

森敦さんやはり『奥の細道』に関する本を出しておられました。『われもまた おくのほそ道』。

芭蕉は月山から湯殿山に下る途中で鍛冶小屋について書いています。

「谷のかたはらに鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶、霊水を選びて、ここに潔斎して剣を打ち、ついに月山という銘を切って世に賞せらる。」

鍛冶小屋跡が地図に載っています → 志津(姥沢小屋裏)口コース【中級】 | 月山ビジターセンター (gassan.jp)

そこに鍛冶稲荷神社があるようです → 鍛冶稲荷神社 (yamagata-npo.jp)

小鍛冶が刀つくりなら大鍛冶は。製鉄業をあらわすのだそうです。<小鍛冶と狐>、やはり相性の合う最高の組み合わせです。

追記: 

<吾妻小富士・鳥海山・月山>の私的旅はこちらで → 2015年9月26日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

えんぴつで書く『奥の細道』から(8)

芭蕉は最上川を下るため大石田につきます。水運が盛んになったのは、関ヶ原の戦いの後、庄内地方を領有した最上義光が五百川峡(いもかわきょう)、碁点峡(ごてんきょう)、最上峡(もがみきょう)の難所を開削したことによるようです。

尾花沢の紅花もこの川から酒田へ運ばれ、酒田から北前船で京に行き、京で美しく布に染められたりお化粧となって戻ってきたのでしょう。

摘んだ紅花は紅餅と呼ばれるものに加工されます。その紅餅を並べるムシロを花筵(はなむしろ)といい、花笠音頭の踊り手がかぶる笠は花筵に並んでいる紅餅を表しているのだそうです。

体験したくなる映像です → 芸工大生が紅花摘んで紅餅作り – YouTube

大石田で細々と自分たちで俳諧をする人たちがいて、よき師がきてくれたと頼まれて連句一巻を巻きます。この時最初に詠んだのが<五月雨を あつめて涼し最上川>ですが、最上川を舟で下った時には<涼し>が<早し>に変っています。

⑦五月雨を 集めて早し最上川

奥の細道』では、大石田から舟に乗ったように書かれていますが、実際はここから移動して元合海(もとあいかい)からの舟下りのようです。これも<五月雨を 集めて早し最上川>の句をだけを載せて際立たせるためでしょうか。

「最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点、隼などといふ恐ろしき難所あり。」そして酒田の海に入るのです。

最上川の源流 (mlit.go.jp) ←山形と福島の境

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』のお二人も川下りをしています。黛まどかさんが、芭蕉が<凉し>から<早し>にしたのは、新しい土地を訪れたり、どこかに呼ばれたりしたときは、挨拶の句を詠み、句会に招かれた家に、最上川からの涼しい心地よい風が入ってきたのを詠われ、そのあと舟下りの実感が句を変えさせたのではとされています。

梅雨の時期だったので川の水量も多かったのでしょう。『奥の細道』は旅が終わってから時間をかけて書いていますから色々な脚色を探すのも一味違う旅の楽しさとなるでしょう。

黛さんと榎木さんは6回目に月山登山もされていまして最上川下りは、案内人の船頭さんと楽しく談笑されての短い舟下りでしたので少し付け加えます。

「白糸の滝は、青葉の隙々(ひまひま)に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎって、舟危ふし。」

白糸の滝は『義経記』にも出てきていて、仙人堂は義経主従が奥州に逃れる時立ち寄ったともいわれ、家臣の常陸坊海尊は生き延びてここで修業し仙人になったとも伝えられています。

羽黒山についても少し。芭蕉は羽黒山で別当代会覚阿闍梨(べっとうだいえがくあじゃり)により厚いもてなしを受け俳諧の会もしています。

出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)は、月山と湯殿山は冬は雪のため閉ざされるのでいつでも拝観できるように羽黒山山頂に三神が合祀された「出羽三山神社」があります。

個人的旅についてはこちらで → 2014年7月3日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

さて次は月山です。