テレビドラマ『砂の器』(1977年)

テレビドラマ『砂の器』(1977年)は簡単に終わるとおもったのですが、脚本が伏線を挿入していて、ラストは長嶋茂雄さんの引退と重なるという思いもよらない展開でした。このドラマが放送された1977年に見た方は、1974年のプロ野球の勝敗の様子が浮かんだかもしれません。野球にそれほど興味の無い者にとっては伏線の濃厚さんに驚かされました。脚本は仲代達矢さんのかけがえのないパートナーであった隆巴さんでした。

第二話と第三話には役者・宮崎恭子さんとしても出演もされていました。早くに役者をやめられていましたので宮崎恭子さんの演技が観られなかったのですが、今回観ることができました。舞台役者さんとしてしっかり基礎を身につけられ演出もされていますので短い出演ですがやはり間の流れの切れがいいです。

昭和49年(1974年)7月10日払暁 大田区蒲田電車区でレール上に遺棄された死体が発見されます。顔は意図的になのかわからないほど壊され残忍なことから怨恨説が考えられました。 

この事件を担当し、捜査本部解散のあともコンビで捜査に当たるのが、西蒲田署の吉村弘(山本亘)と警視庁捜査一課の今西栄太郎(仲代達矢)です。

この今西がプロ野球の巨人ファンで、巨人の勝敗が何よりの関心事で、事件に対する真剣味にかけるのです。単なるそういう人物設定かと思いましたらずーっと野球の勝敗がでてくるのです。時間と共に今西の野球に対する熱心度に変化が出てきます。今西は事件の難解さにのめり込み、次第に謎に熱中していきます。事件が野球と同じ位置になり、事件解決が野球よりも上になっていきます。

面白いのは、事件の経過報告の日にちが知らされていたのが、それよりも野球の途中経過の日にちが知らされるようになります。世の中もう事件のことなど忘れていて、中日と巨人の優勝争いに沸き立っています。みんなが違う方に目が移っているときもコツコツと真実と向き合っている人がいるということの裏返しのようにおもえました。

この事件の手掛かりは、殺された人と犯人とのバーでの会話でした。「かめだは変わりありませんか。」「かめだは相変わらずです。」殺された人がズーズー弁だったということで秋田県の羽後亀田が特定されます。しかし、手掛かりがありません。さらに出雲弁もズーズー弁の仲間だということを知ります。そして見つけられたのが島根県の亀嵩(かめだけ)です。『砂の器』を読んだとき松本清張さんはよくこのからくりを探し当てられたなと感嘆し惹きつけられました。

殺された人は岡山に住む三木謙一とわかります。亀嵩で巡査をしていたことがあったのです。ところが善行の人で人から感謝されても恨まれることはなにもないのです。

今西と吉村が羽後亀田に出張したとき秋田美人とも思われる女性に会っており、その女性が蒲田電車区近くで自殺未遂をし失踪します。その女性の二通の遺書から、劇団と関係があるとして東京の劇団を訪ね歩きます。その女性・成瀬は民衆座という劇団の事務局で働いていましたがやめていました。その民衆座で今西の受け答えをしてくれるのが川口(宮崎恭子)でした。

今西と川口のやり取りは相手の台詞の橋渡しが上手く、重要な発見の場をさらっと位置付けてくれます。まだまだ謎は深まるばかりですからテンポが上手く的確なやりとりでした。

今西と吉村が成瀬を見たとき一緒にいたのが劇団の舞台装置担当の宮田でした。宮田は事故か他殺か亡くなってしまいます。この成瀬と宮田と京都の高校で同窓生だったのが天才音楽家の和賀英良(田村正和)でした。しかし、殺された三木とのつながりがありません。

今西にはつらい過去があり、自分の刑事魂の不注意から息子を交通事故で亡くしています。妻も去り、彼は息子の死という過去を消し去ることができないでいました。

一方、善意に満ちた人を自分の過去を消すために殺してしまうという人間もいました。懐かしいという感情は、過去を消した男にとっては邪魔なだけでした。その人が善人であるかどうかなどは判断材料にもならなかったのです。

今西は殺された三木が善人過ぎて犯人がなぜ殺したのか想像がつかなかったのですが、吉村が恋人との電話の受け答えで明るく「困るねえ今頃、そんなこと覚えてもらっていても。」という言葉から、三木巡査が良かれと思ってした善行の結果がこの事件の原因となりはしないかとおもいいたるのです。

そこから三木巡査が面倒を見た巡礼親子・本浦千代吉・秀夫の本籍地石川県へ行き、さらに三木が伊勢参りから急に東京に出てきた原因をさがしに伊勢にいきます。三木はそこで映画を観ていました。映画を試写してもらい観ますが何も見つけられません。

吉村の恋人がニュース映画のことを話し二人はニュース映画のあることを知ります。捜査のきっかけに日常的な会話が重要な役割を果たしています。三木が見たニュース映画に和賀が写っていたのです。

ニュース映画は「中日ニュース」で<熱戦!中日~巨人>首位争いで、我賀が球場で観戦しているのが写っていたのです。我賀には額の左に傷があり、それがしっかり写っていましたった。三木はこのニュース映画を見て立派になった巡礼の子に会いたくなったのでしょう。

昭和49年(1947年)10月12日、今西は和賀の本籍地大阪にいきます。そこは戦争で焼け野原となり、本籍原簿も焼失し本人の申し立てによって本籍再生が認められていました。和賀英良の父母は大空襲の日に亡くなっていました。老婦人からピアノなどの楽器修繕屋の和賀夫婦には子供がなく、戦争浮浪児が手伝いをしていたということをききます。中日が20年ぶりに優勝した日でした。

和賀英良は大臣の娘と婚約していて、大臣宅で海外に演奏旅行に行くまえのセレモニーとして新作曲「炎」を婚約者と二人でピアノ演奏しています。彼は自分の中にいろんな炎があると語っていました。栄光への炎が一番強かったのかもしれませんが、いつかその炎は、過去を消す炎のほうが大きくなってしまったようです。

和賀が逮捕された日、長嶋茂雄さんの引退がテレビで放送されています。今西は「終わった。終わった。全部終わった。」とつぶやきます。事件は解決しましたが、違う幸せから遠のいてしまったようです。

今西にも伏線がありました。過去のことから、妻の妹ととの心の交流があったのです。それも終わりました。

今西には栄光はありませんでした。ただ、再び事件解決への自分の仕事への想いはつながったことでしょう。終わってみればこういう熱い捜査も変わる時期に来ているのかもしれません。ただ一人の後輩にはその道は伝授されたでしょう。

仲代達矢さんの今西はとにかく歩いて歩いて探し出し確かめるという刑事です。夜行の列車での出張で自費で調べに行ったりもします。そのため少しでも手掛かりがあると野球の勝敗よりも手応えを失くしていた勘をとりもどしのめりこんでいきます。ただ理知的根拠に基づいているともいえます。それと同時に義妹との感情のもつれを細やかな振幅で表現されました。

田村正和さんの和賀は全く炎を見せません。ただ人を操る自信はあるようでそれを悟られないように優雅なたたずまいです。なんの苦労もなく才能に恵まれて格好よく生きてきたという感じを崩しません。逮捕されても少し表情を硬くし静かに後姿を見せ去っていきます。炎の内面は、子供時代の子役さんによって伝えられます。

登場人物として和賀の親友で新進評論家・関川重雄の嫉妬という感情もからんでいます。和賀は関川の嫉妬も冷静に受け止めていました。あらゆる感情を自分の物差しで判断しながら善良さということには気がつけなかったのです。

原作とも、映画とも違う社会現象とオーバーラップさせるという手法を使われた脚本でした。その交差の複雑さを丁寧に計算されて展開させた力量が素晴らしいと思いました。

和賀英良、正しくは本浦秀夫の足跡を簡単にたどります。

石川県の寒村に生まれました。父・千代吉はシナ事変に出征し帰還しますが精神を患い働くこともできません。妻はそれを悲観して秀夫を抱いて飛び降り自殺をします。秀夫は奇跡的に助かり、左おでこに深い傷跡を残します。千代吉は秀夫をかわいがるので、親せきは親子を巡礼として送り出します。

亀嵩で三木巡査は困っている巡礼親子の面倒を見、父親は精神病院にいれ、子供は引き取りますが秀夫は3か月後に失踪します。

大阪で戦争浮浪児として生き抜き、新しい戸籍を作り、進駐軍に出入りのバンドボーイからつてで渡米。才能を開花させ、後ろ盾も手に入れていました。彼はもっと光り輝く上を目指していたのです。

脚本に興味を持ちネタバレになってしまいましたが、第1回から第6回で最終回ですので、もし観ることがあれば違う部分に気を取られて忘れていることでしょう。二回観ましたが結構記憶が飛んでいました。

追記: 舞台『左の腕』のパンフレットでも、松本清張さんの原作ではないのですが清張さんが出演されている映画として『白と黒』(堀川弘通監督)が紹介されていました。橋本忍さんのオリジナルシナリオで手の込んだ展開で奇抜な作品です。弁護士の仲代さんが不倫相手に手をかけてしまうのですが、犯人として別の人が捕まります。弁護士は罪の呵責から真犯人は他にいるのではというので、担当検事である小林桂樹さんが調べ直すのです。仲代さんと小林さんによる、白と黒の目の出どころが見ものです。

追記2: 松本清張さんがチラッと出演するのがNHK土曜ドラマ「松本清張シリーズ」(1970年から1980年代)です。その中の「遠い接近」(脚本・大野靖子、演出・和田勉)は小林桂樹さんが、選ぶ人の感情に左右されて招集されもどってみると家族は広島で亡くなっており招集担当者への復讐を誓います。ここでもサラリーマンシリーズとは違う小林さんの演技がひかりました。仲代さんの映像出演作品には共演者の演技にも目がいきその役者さんの作品を追ったりします。今追うことができる方法があるのが嬉しいです。

追記3: 映画『すばらしき世界』(脚本・監督・西川美和)。<すばらしき映画>でした。長いこと刑務所暮らしをしていた主人公(役所広司)が出所して普通に生活していけるかどうか。観ている者も<怒るな!怒るな!>と祈るような気持ちになりますが、怒らない方が正しいのであろうかと疑問に思わされる映画でもありました。西川美和監督作品の切り込み方は鋭くて深いのですが優しさがあります。

追記4: 『TV見仏記4 西山・高槻篇』を観ていたら、ある仏像の手の美しさを褒めていて、「ピアニストの手だね。『砂の器』系だね。」のみうらじゅんさんの発言には笑ってしまいました。お二人の発想のみなもとの多様性がうらやましいです。

追記5:  みうらじゅんさんの文庫本『清張地獄八景』を書店で横目でみつつ通り過ぎています。引きが強いです。

              

仲代達矢・役者七十周年記念作品『左の腕』

左の腕』は松本清張さんの原作で、柳家小三治さんの朗読をCDできいたことがあります。淡々と語られていき、卯助とおあき親子にきびしい世間の風がすきま風のように忍び寄り、その風は強くなりつつあり立っていられるかどうか危ぶまれる状況となります。卯助は違う風にすっくと立ち向かい、その風によって救われるのです。この後半をどう持っていくかが重要な所でしょう。

小三治さんの朗読も無名塾の『左の腕』も後半まで上手くもっていき情を持って卯助を浮かび上がらせ、左の腕のもの悲しさを表していました。

舞台は江戸時代で、料理屋・松葉屋の裏口の土間と板の間です。舞台装置のこの板の間の板の感じのリアルさがよかったです。よく磨かれているが長い時間が経った板の感触がしっかり伝わる細やかさがありました。

その土間を借りてお昼の弁当を食べている飴細工売りの卯助。疲れの見える年齢です。飴細工の屋台を背負いつつ一日中売り歩くには重労働の年齢になっていました。そんな時、おあきに惚れている板前の銀次が女将さんにおあきをお手伝いとして働けるように紹介してくれます。女将さんは、卯助も一緒に下働きとして雇ってくれます。卯助親子にとってそれは大助かりなことでした。

時代物にはこういうささやかな庶民の幸せに横槍を入れる人物が登場します。それが目明しの稲荷の麻吉です。人の弱みを嗅ぎ付け脅しやたかりをくわだてるあさましい人間です。麻吉は卯吉の布を巻いた左の腕に目をつけるのです。

後半の展開は松本清張さんの推理小説をおもわせ、違う世界から卯助に光を当てるという形をとります。仲代達矢さんはその変化をしっかりと見せてくれます。かつての仲間の熊五郎の語りとその雰囲気も役によくでていて、それを黙って聞く卯助の存在感はそこにいるだけで大きさを感じさせます。

この世の中で生きずらい人を救ってくれるのは、やはり人なんだという当たり前のことを再認識させてくれました。ただそれがもっとも難しい時代となっているのを知らされている今の時代でもあります。

ロビーに展示されていました。

プログラムに下記の記念誌がついてました。仲代さんのお顔の絵は、隆巴さんが描かれていて、よく特徴を捉えられています。

演劇、映画、テレビの仕事を合わせると膨大な量の仕事をされています。それも全力でぶつかられた仕事ばかりです。今もその道は続いているのです。

松本清張原作作品では、テレビで『砂の器』と『霧の旗』に出演されたようで、『砂の器』はレンタルでも観れますので鑑賞する予定です。

1010ギャラリーでは『仲代達矢七十周年記念展』を開催されていたようですが3日~9日までと短く、残念ながら見ることができませんでした。

その分、日光街道の千住を少し散策してきました。

追記: テレビドラマ『砂の器』は田村正和さんとの共演でした。田村正和さんのテレビドラマはあまり見ていないのですが、『告発〜国選弁護人』はレンタルで選び、気に入りました。松本清張さんの作品をもとに、国選弁護人である田村さんが事件の真相を解明していき弁護するのです。どうして国選弁護人をするようになったかという背景もあり演技としてもいじりすぎない好演でした。あの『砂の器』がお二人の共演でどんなことになるのか楽しみがふえました。

四国こんぴら歌舞伎(1)

金丸座での歌舞伎復活は、テレビ番組で復元した金丸座へ吉右衛門さん、藤十郎さん、勘三郎(当時勘九郎)さんがトーク番組で訪ねてここで歌舞伎がしたいねという話が出てそれで実現したのです。そのテレビ番組を後で見て知りました。(昭和60年・NHK特集『再現!こんぴら大芝居』)

1985年(昭和60年)に第1回の上演が三日間ありその時は吉右衛門さんと藤十郎さんが出演され、次の年の第二回目は吉右衛門さん、藤十郎さん、勘九郎さんの三人が出演されています。

第20回目(2004年)に、金丸座で歌舞伎を観ることができました。お練りも見れました。切符のとり方など面倒なので、切符付き、琴平宿泊のフリーツアーセットで申し込んだと思います。友人と二人でお練りの道筋などを検討し、お練り見物に参加、宿泊所から金丸座の位置確認と所要時間などを確認したりと果敢に琴平の町を移動しました。次の日は芝居見物と金毘羅さん参りだったとおもいますが。

第20回記念公演で、さらに「二代目中村魁春襲名披露」というお目出たい舞台でした。さらなる金丸座修復で江戸時代の「かけすじ」という舞台での平行移動の宙乗りの仕掛けがみつかり「羽衣」ではその仕掛けを使ったのですが、残念ながら第一部の観劇でしたので見れませんでした。

演目の『再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)~桜にまよえる破戒清玄~』は、一回目での演目でもあり、「清玄清姫もの」の『遇曽我中村(さいかいそがのなかむら)』を吉右衛門さんが改編し20回目でさらに手を加えられたものです。吉右衛門さんの祖先は芝居茶屋を営みながら松貫四の名前で芝居を書かれていた人で、二代目もこの名前で作品を新しくしています。

清玄(せいげん)と桜姫の恋人の千葉之助清玄(きよはる)の同じ文字でありながら読み方の違うことから清水寺法師・清玄(吉右衛門)の悲劇がおこるのです。桜姫(魁春)と千葉之助清玄(梅玉)の逢引の手紙から同じ名前の清玄が罪をかぶります。当然破戒僧となるのです。そして、桜姫に恋焦がれてしまうということになり、これは叶うこともなく清玄は殺されてしまいます。清玄の霊は鎮まることがなく亡霊となってあらわれるのです。

小さな芝居小屋のほの暗さの華やかな舞台から、亡霊の場というおどろおどろしさを現出させようとの取り組みがわかりました。

平場での芝居見物は動きが制限され慣れない姿勢で窮屈だったような記憶もあります。今調べますと随分観やすい雰囲気になっているようで、今年も開催できないのは残念です。

それからです。切符さえとればなんとかなるのだということで、愛媛県の内子座などでの文楽などを鑑賞したのは。

いずれは出かけることも少なくなり、家での鑑賞になるのかなと思っていましたら、新型コロナのために早めに予行練習させられることになりました。これも気力のあるうちでないとできないということを痛感しています。

というわけで、初代、二代目吉右衛門のDVD鑑賞となりました。

二代目が主で二代目の得意とした21演目のダイジェスト版です。2時間強ですが、好い場面ばかりで、やはりお見事と休むことなく鑑賞してしまいました。戦さの悲劇性、虚しさなどが歌舞伎でありながら伝わってくるのです。現代にリンクする芸の深さです。

追記: 浪曲「石松金比羅代参」。次郎長が願かけて叶った仇討ちの刀を納めるために代参の石松の金比羅滞在模様は一節で終わり、大阪へと移動します。大阪見物を三日して八軒屋(家)から伏見までの30石船の船旅です。おなじみの「石松三十石船道中」となります。上り船で関東へ帰る旅人が乗り合わせての東海道の噂話という設定なわけです。

追記2: 落語で「三十石(さんじっこく)」(「三十石夢の通い路」)というのがあります。上方落語で六代目円生さんのテープを持っていてかつて聴いたのですがインパクトが弱かったのです。今はユーチューブで何人かの上方落語家さんの音声や映像で見れるので便利でありがたいです。落語は京から大阪への下り船で夜船です。

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追記3: 円生さんはまくらで『三十石』は橘家円喬が上方へ一年半くらい行っていた時に持ち帰り、それが円生さんの父五代目に、そして自分につながったと話されます。一度聴いただけではとらえ残しがありますね。

下げは、船で五十両盗んだ男を捕まえてみるとコンニャク屋の権兵衛で、「権兵衛コンニャク船頭の利」となり、「権兵衛コンニャクしんどが利」からきていて、京阪の古いことわざで「骨折り損のくたびれもうけ」の意だそうでそこまではやらずろくろ首でおわっています。米朝さんも権兵衛の下げはつかっていません。

円生さんは船の中の客に謎ときをさせ、沢山の船客を登場させます。客も江戸弁で上方との違いを表し、自分の語り口を生かしています。歌がありそれぞれの落語家さんの味わいのでる噺です。

追記4: 落語『三十石』にも出てくる京・伏見の船宿・寺田屋は坂本竜馬が襲われて難を逃れたのでも有名ですが復元されていて見学もできます。三十石船と十石船にも乗ることができ、十石船に乗りました。落語で出てくる物売りの舟(くらわんか舟)もありましたが、落語のようなにぎやかさではなく穏やかに商売をしていました。

追記5: 「第20回記念のこんぴら歌舞伎」がテレビで放映され録画していました。生で観ていたので録画は見ないでしまい込んでありました。今回見直し大きな誤りをしていました。 「かけすじ」という舞台での平行移動の宙乗りの仕掛け  とおもっていましたら、花道の上を飛ぶ宙乗りでした。映像を見てびっくりした次第です。

 

幕末の庶民の人気者・森の石松

思うのですが幕末の庶民の人気者と言えば、森の石松ではないでしょうか。講談や浪曲で圧倒的人気を得ました。

喧嘩早く、情にもろく、ちょっとぬけているところもあり、都鳥にだまし討ちにあって無念の最後というのも愛すべきキャラクターとしては条件がそろっています。

勘三郎さんの勘九郎時代のテレビドラマ『森の石松 すし食いねェ! ご存じ暴れん坊一代』を観ました。よく動き体全体で感情を表す森の石松です。

観ていたらシーボルトが出てきたのです。シーボルトが江戸へ行く途中で、それを見たとたんに石松は走り出します。江尻宿でしょう。仲間の松五郎の出べそを治療してもらおうとするのですが望みはかないませんでした。

そして次郎長親分の名代で四国の金毘羅へお礼参りに行くのです。そして金丸座で芝居見物です。上演演目は『先代萩』です。前の客’(鶴瓶)がうどんを音を立てて食べていて、石松は「うるさい。」と文句を言います。舞台は八汐が千松に短刀を突き刺しています。石松は芝居だということも忘れて「何やってんだよ。」と騒ぎ立てうどんの客と大喧嘩となります。

舞台の八汐、「何をざわざわさわぐことないわいな。」。勘三郎さんの八汐がいいんですよ。この台詞を聞けただけでもサプライズです。さらに舞台の役のうえでの台詞と、観客席の騒がしさ両方にかけた台詞になっているというのが落としどころ。

石松と八汐。同じ人とは思えません。

政岡( 小山三)が「ちょっと幕だよ、幕、幕・・・」。閉まった幕の前で千松(勘太郎)が「うるさいよ、おまえ。人がせっかく芝居しているのに。」と怒鳴ります。笑えます。と映像は切り替わり、三十石船を映しだし船上へと移ります。知れたことで「江戸っ子だってね。」「神田の生まれよ!」(志ん朝)となります。お二人さんの掛け合いがこれまた極上の美味しさ。

この後、都田吉兵衛によってだまし討ちにあうのですが、江尻宿を通り越した追分の近くに「都田吉兵衛の供養塔」があります。

清水の次郎長一家は石松の仇をここで討ちますが、吉兵衛の菩提を弔う人がほとんどいなかったので里人が哀れに思って供養塔をたてたとあります。

ドラマで浪曲もながれますが、初代広沢虎造とクレジットにありました。私の持っているCDは二代目広沢虎造なのですが。よくわかりません。

追記: 二代目広沢虎造さんの『石松と七五郎』『焔魔堂の欺し討ち』を再聴。名調子の響きにあらためて感服しました。そして、ドラマ『赤めだか』を鑑賞。本が出ていて評判なのは知っていましたが、なぜか読まずにいました。好評なのを納得しました。談春さんはもとより、立川一門(前座)の様子が破天荒で、談志さんの落語と弟子に対する心がこれまた響き、笑いと涙でした。

追記2: 『赤めだか』(立川談春・著)一気に読みました。涙が出るほど笑いました。ラストは緊迫しました。人の想いの踏み込めない深さと繊細さ。落語の噺の世界のような本でした。

追記3: 2006年(平成18年)5月30日、新橋演舞場で談志さんと志の輔さんが、2008年(平成20年)6月28日、歌舞伎座で談志さんと談春さんが落語会を開いています。時期的には談志師匠が闘病中で身体的につらいころと思われますが嬉しそうに見えました。大きくならない赤めだかが大きくなったのですから嬉しくないはずがありません。そして談春さんが、「志の輔兄さんもやらなかった歌舞伎座です。」と言われたので皆さんどっと笑いました。立川一門のライバル意識を皆さん楽しんでいました。

追記4: テレビとかの映像画像は著作権に触れることもあるようなので削除しました。風景はよいらしいのですが、よくわからずにやっていました。申し訳ありません。他もありましたら少しずつ変更していきます。迷惑をかけた方がおられましたら深くお詫びいたします。

幕末の先人たち(4)

勝海舟、福沢諭吉が咸臨丸(かんりんまる)でアメリカへ行ったとき、ジョン・万次郎が同船していました。そうですか。万次郎さんにいきなさいということですか、と好奇心がつのります。

たしか、深川でジョン・万次郎の名前があったような。ありました。小名木川クローバー橋のそば、砂町銀座の近くでした。ここを歩いたときは全然頭にありませんでした。

そろそろ刀から離れましょうかと思っていましたら、ジョン万次郎宅跡(朱丸)の上に刀工左行秀碑(黄色丸)があります。ここは土佐藩の下屋敷があった場所で、刀工左行秀は筑前国(現福岡県)で生まれ江戸で修業し、土佐藩に見込まれ土佐藩城下へ。藩主・山内容堂に従い江戸の土佐藩下屋敷で仕事をすることになりました。実戦用の古刀を重んじた復古調の刀剣は幕末維新期の動乱期に人気があったようです。

では刀と関係のない、漁師で漂流のために人生が一変したジョン万次郎はどうして土佐藩下屋敷で暮らすことになったのでしょうか。

万次郎は土佐の足摺岬(あしずりみさき)の中の浜で生まれました。足摺岬に銅像がありました。その時は観光的感覚でみていて彼の人生を深く知ろうとは思いませんでした。その機会がおとずれてくれました。

万次郎が8歳の時にお父さんが亡くなり、10歳の時には漁船の手伝いをしてわずかな賃金をお母さんに渡し助けていました。14歳の時、中の浜から歩いて4日かかる宇佐ノ浦の船主からスズキ漁に一緒にでてくれないかと使いがきます。漁師仲間の間で万次郎は年が若いのに見込まれていたのでしょう。母の許可もおり宇佐ノ浦にむかいます。

船頭は筆之丞(38歳・後に呼びにくいため伝蔵にする)、伝蔵の弟・重助(28歳)、伝蔵の息子・五右衛門(16歳)、寅右衛門(27歳)、万次郎(14歳)の5人が船に乗り込みました。この船が嵐のために漂流して無人島(鳥島)にたどりつきます。重蔵はこの時足にひどい怪我をしてしまいます。

4か月後アメリカの捕鯨船に助けられます。1841年(天保12年)のことです。「異国船打払令」により、アメリカ船籍の商船モリソン号が日本人漂流民を連れてきて打ち払われる「モリソン号事件」が起こったのが1837年(天保8年)です。

この時、高野長英が「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」で、人民を助けてとどけてくれたのに打ち払うとはなんという国かと世界の人々から人民を大切にしない国としてさげすまられるであろう。」と夢物語として書いたのです。そのことが幕府を批判しているとして捕らえられた原因の一つでした。

福沢諭吉は、後に意見を言い合うことが大切であると新聞を発行したりして討論の重要せいをうったえます。

万次郎たちを助けた捕鯨船の船長ウィリアム・ホイットフィールドはそういう日本の現状を知っていて、このまま航海を続けハワイのホノルルに上陸させて日本へ帰る時期を検討しようと考えました。

この捕鯨船と船長に出会ったことは万次郎たちにとって幸運でした。特に若い漁師見習いの万次郎は、捕鯨船の大きさ、その漁の方法に目を輝かせました。若さもあり新しいことを学ぶ元気がありました。漁師どおし友好的な交流が生まれ、万次郎は、ジョン・万とよばれ言葉も覚えていきます。

ホノルルに着いた万次郎たちは不便の無い生活が保障されましたが、日本の漂流民の無事帰国したという情報はありませんでした。万次郎だけホイットフィールド船長に誘われ、再び捕鯨船に乗ります。

その時、世界地図を見せられ、実際に航海を通じて世界の広さを実感します。長い航海で万次郎派はクジラ捕りの技術を身に着け、アルファベットの文字もつづれるようになります。寺子屋に行ったことがない万次郎はイロハよりもABC26文字のほうが覚えやすく学ぶということが楽しかったのでしょう。

航海のあと船はアメリカに到着し、船長の故郷のマサチューセッツ州フェアヘブンで桶屋にお世話になり、桶の作り方を学びつつ学校に通います。船長には子供が二人あり奥さんは亡くなっていましたが、再婚してスコンティカット・ネックで農園を開いたので、万次郎も農園に合流します。ホイットフィールド船長が捕鯨船に乗っても家族の生活の保障としての農園でした。

この時期、農園の仕事の合間に数学者から数学、測量を習います。万次郎は周囲の人に恵まれました。差別で教会に受け入れてもらえないと、受け入れる教会を探してもくれました。

19歳の時、捕鯨船で一緒だった船員が船長となりそのデービス船長の捕鯨船に乗ります。この航海は多種多様の人種がいるということをしりました。というものの航海中も日本の好いうわさは聞きません。日本にそって北上し日本の漁船と話しますが話が上手く通じませんでした。日本人は外国船にはかかわりたくないのです。

ホノルルに着きました。7年ぶりで寅右衛門と会います。重助は亡くなっていました。伝蔵と五右衛門は日本に送ってもらいましたがやはり無理でもどってきました。

アメリカはゴールド・ラッシュでわいていました。万次郎は22歳。皆で日本へ帰る旅費を作るためサンフランシスコに向かいます。そして蒸気船にも乗りさらに山奥に入り砂金集めをしてお金を得てホノルルへもどりました。こういう独立独歩で突き進むところもありました。

1850年12月17日、寅右衛門はホノルルの生活に慣れ残ることにし、万次郎、伝蔵、五右衛門はホノルル港を立ちました。次の年の1月末には琉球の近くまでやってきました。

琉球政府のある那覇で鹿児島藩の役人の調べを受け鹿児島に送られました。鹿児島藩は幕府の鎖国政策に反対でしたので、万次郎はじきじきに藩主・島津斉彬にお目通りとなりました。斉彬は万次郎を手元に置きたかったのですが、幕府に報告し万次郎たちは長崎奉行所に送られました。そして初めて牢屋となりました。今までが運がよかったと言えるのかもしれません。やっと日本に着いた漂流民はひどい取り調べで自殺する者もいたのです。

今度は幕府から土佐藩で身元調べをするようにとお達しがあり、やっと故郷に近づきました。琉球に着いてから一年半がたっていました。

土佐は進歩的な考えの藩で、藩主・山内容堂で大目付には吉田東洋がいました。吉田東洋は万次郎の話を熱心に聞いてくれました。そこには少年の後藤象二郎がいました。23歳という若い藩主・容堂も耳を傾けました。ついに万次郎は恋しい母にやっと会うことができました。11年がたっていました。

中ノ浜にいたのは数日でした。藩から教授館の教師を命じられたのです。侍となり名前も中浜万次郎となりました。世界を見てきた万次郎は身分制度はわずらわしいものでした。万次郎は賢い人でしたので人と争うことはしませんでした。アメリカでも日本人として差別されました。しかしそれをおかしいと思ってくれる人もいたのです。かえってねたむ人の多いことも知っていたのでしょう。

教授館には後藤象二郎、岩崎弥太郎も通いました。坂本龍馬は郷士(山内一豊前の領主の長曾我部家関係の侍)の身分なので藩の学校には入れませんでした。しかし、友人を通して知識は得ていました。

浦賀にアメリカのペリーがあらわれ、万次郎は幕府に江戸によばれます。老中筆頭は阿部正弘でした。

万次郎は幕府の高官・江川太郎左衛門のもとで働き伊豆韮山(にらやま)で西洋式の帆船や蒸気船づくりに励みました。幕府直参の侍となっています。幕府のために色々な仕事をしますが、幕府も本当に万次郎のことを信用しているわけではなく表舞台に名前が出ることはありませんでした。ある面ではそれが幸いしたかもしれません。表に出ていれば尊皇攘夷派にねらわれたかもしれません。

その後、築地の海軍学校・軍艦教授所の教官となり、新島襄もここで学んでいます。新島は後に函館港からこっそり渡米します。吉田松陰の失敗を考えて函館港を選びました。10年後帰国し、同志社英学校を創立します。

さらに函館奉行の手伝いも命ぜられ、捕鯨事業を計画しますが失敗し、違う足跡を残します。ジャガイモです。やっとジャガイモも収穫にふさわしい土地と巡り合ったようです。

大老・井伊直弼によって「日米修好通商条約」が結ばれます。これは朝廷の許可をもらわなかったので尊皇攘夷派が激怒するのです。さてその批准書の交換ということが必要です。そのための使節団が送り出されたのです。アメリカの軍艦の他に日本の軍艦・咸臨丸が初めて太平洋を横断したのです。咸臨丸に勝海舟と福沢諭吉と中浜万次郎が同船したのです。1860年、33歳のときです。

ところが、勝海舟も福沢諭吉も万次郎のことは記していないのです。咸臨丸には日本近海で難破して保護された艦長・ブルック中尉と水夫たちもアメリカに帰されるために同船していました。そのブルック中尉の日誌にはジョン・万次郎の活躍が記されていました。

どうも身分制度の弊害があったようで、海の上でまでそのつまらぬプライドが見え隠れしていたようです。海は荒れ狂っているのに。ブルック中尉は万次郎を助けることにし、乗組員の采配をし万次郎がそれを伝える役目をしました。そして秩序と規律を調えていったのです。

艦長の勝海舟は船酔いでほとんど船室に引きこもっていました。万次郎はもめごとのないように相当の神経を使っていたとおもいます。海の上での役割分担をはっきりさせるブルック中尉がいてくれたことは幸運でした。しかし、万次郎がこのことを口にすることはありませんでした。ブルック船長の日誌が公開されたのが1961年です。

この時、ウェブスターの辞書を福沢諭吉と万次郎が一冊ずつ購入して帰ります。英語辞書が日本に移入された最初です。

幕府が倒れ万次郎は土佐藩士に召し抱えられます。そして本所砂村にある土佐藩下屋敷を与えられるのです。41歳の時で11年間ほどここに住んだようです。やっと地図の屋敷跡に到達できました。まだ藩は残っていました。その後、廃藩置県を実行したのは西郷隆盛です。福沢諭吉は身分制度や門閥制に反対でしたので藩のなくなることを喜び、西郷隆盛を高く評価しています。

万次郎は新政府の命令で、開成学校(後の東京帝国大学)の教授となります。フランスとロシアの戦争の視察を命じられヨーロッパにも行きますが病気のためロンドンに滞在し、帰りにアメリカに立ち寄りホイットフィールド船長とも会っています。1870年、43歳。

そして万次郎はその後静かな余生を送り1898年、71歳で亡くなります。彼の功績は日本の外からの光で照らされて初めて知らされるのでした。

幕府や新政府は万次郎の語学力や知識を認めていましたが、そのことで外国に日本の内情が漏れるのを警戒していていたのでしょうか。そんな微妙な自分の立場と漁師だったという身分を万次郎はいやというほど感じていたと思います。そのあたりを「板子一枚下は地獄」の漁師魂の胆力があって上手く抑えられたのかもしれません。

身分に頼っている人よりも彼の生き延びてきた道は、自分の力と周囲の人々の力添えだったことをよくわかっていたのでしょう。そういう点でも賢い人でした。彼の夢は捕鯨船で遠洋に乗り出しクジラを追いかけることでしたがかないませんでした。

ながくなってしまいましたが、主に『秘められた歴史の人 ジョン・万次郎』(福林正之・著)を参考にさせてもらいました。さらに1938年に直木賞を受賞した『ジョン万次郎漂流記』(井伏鱒二・著)を読むことができました。

その他『福沢諭吉 子どものための偉人伝』(北康利・著)、『べらんめえ大将 勝海舟』(桜井正信・著)、『アーネスト・サトウ 女王陛下の外交官』(古川薫・著)

追記: 人間は核兵器を持つべきではない。人間は間違いを犯す存在でもあるから。やはりそう思います。

追記2: ロシアの侵攻で戦争は原発があるだけで危ういということに現実感を持ちました。

幕末の先人たち(3)

佐久間象山を暗殺した刺客の一人に河上彦斎(かわかみげんさい)がいます。「人斬り彦斎」の異名があり、漫画『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚』の緋村剣心のモチーフといわれています。映画『るろうに剣心』を観ていますが、河上彦斎とつながると知ってもフィクションとしての想いが強いです。

るろうに剣心』(第1作)、『るろうに剣心 京都大火編』(第2作)、『るろうに剣心 伝説の最期編』(第3作)と観ていますが今回は『るろうに剣心 最終章 The Final 』第4作)、『るろうに剣心 最終章 The Beginning』(第5作)を鑑賞することにしました。第5作の『るろうに剣心 最終章 The Beginning』を先に観てそれから第4作の『るろうに剣心 最終章 The Final 』をという逆の見方をしました。

るろうに剣心 最終章 The Beginning』は剣心の頬の十字の傷のいわれと鳥羽伏見の戦いで新しい時代が来たと剣心が刀を捨てるまでが描かれています。そして『るろうに剣心 最終章 The Final 』では、剣心が暗殺した相手の婚約者までも斬ってしまいその弟が姉の復讐のため剣心の前に現れるということで第5作目を先に観ていたので謎もなくすーっと入っていけました。

剣心は高杉晋作の奇兵隊に参加し腕をかわれて桂小五郎のために「人斬り抜刀斎」として役目を全うし、新しい時代と共に刀を逆刃刀として人斬りをやめたわけです。ところが10年後新時代となっても「人斬り抜刀斎」の名は消えることがなく何かと争いに巻き込まれて闘うことになるのです。

そこからまた第1作から第3作までを見直しました。時間がたつと忘れているものです。一応流れがはっきりしました。

『銀のさじ ーシーボルトのむすめの物語』(武田道子・著)の中で村田蔵六(後の大村益次郎)という人物が出てきてシーボルトの娘・楠本いねと交流しています。大村益次郎は大河ドラマ『花神』の主人公ということで、総集編をDVDで観ました。

村田蔵六は山口県山口市鋳銭司(すぜんじ)に村医者の息子として生まれます。大阪の緒方洪庵の「適塾」で学び塾頭となります。長崎にもいっています。

「適塾」の様子が大河ドラマ『花神』では一応着物に袴姿で、テレビドラマ『幕末青春グラフィティ 福沢諭吉』では塾生は上は襦袢の短い下着のような物を着て下はふんどしといういでたちで若さを誇張しているのかなと思いましたら後者の方が本当のようです。さらに食事も立って汁をかけて食していましたが、これは福沢諭吉が「慶應義塾」でも実践していたようです。

「慶應義塾」というとオシャレなように感じますが、福沢諭吉さんはめったに洋服を着ず着流しの着物ですごしたようです。朝早く散歩に出るときは着物を尻はしおりにしていて下駄。庶民そのものだったそうで、塾生が自然に集まってきて、そんな塾生にはせんべいを配り、塾生はせんべいをかじりつつ話をしました。「おなかがすいたまま運動するのはからだによくない。」ということらしですが、もう一つ時間を惜しめということもあるんじゃないでしょうかね。

花神』の話にもどりますと、大村益次郎は父に戻れと言われ優秀なので惜しまれつつ鋳銭司に帰ります。ところが世の中は外国船によって混乱をきたしはじめ、蘭学者知識が各藩で必要だという考えがでてきます。

蔵六は宇和島藩に蘭学者として仕えることになります。蔵六は兵学にも新しい知識をもっていました。ここでシーボルトの弟子・二宮敬作と親交を深めます。二宮敬作は楠本いねの産科医としての勉学の後押しをしており蔵六はいねを紹介され蘭学の医学の講義などもします。

洋式軍艦の試作などもし、軍艦が動いたと藩主たちを喜ばせます。その後江戸で塾も開きますが、今度は長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)に請われて長州藩につかえます。これからが長州藩の倒幕までの激動の時代をともにするわけです。

長州藩の中も佐幕派と討幕派が綱引き状態で行ったり来たりと目まぐるしいです。血もたくさん流されます。ドラマを観ているうちはなるほどと思うのですが観終わってしばらくすると時間の流れの前後があやふやになってしまっています。劇団で鍛えた役者さんも多数出演していてその役どころにも目がいきます。

村田蔵六は大村益次郎と名前を変え、錦の旗を手にした長州藩から今度は明治新政府の軍事改革者となっていきます。実際の戦いの実践はないのですが頭の中には戦さの勝利への青写真はできています。多くの戦さの勝敗の資料が頭の中にあってそれをフル回転して新たな様式の戦術を加え考え出していくのです。

さらに軍隊の中心は日本の中心の大阪におくべきだと主張しそれを実行に移すべきと自分も西にむかいます。京都方面はまだ危ないから行かない方がよいにと注意されますが、いややはり自分の目で確かめなくてはと京都に宿をとります。この西の固めはその後の西郷隆盛が挙兵した西南戦争を押さえることになります。

京都の京都三条木屋町の宿で刺客に襲われ重傷です。命はとりとめましたが傷口からバイ菌が入り左足を切断する手術を受けます。その助手をしたのが楠本いねさんでした。いねは大村益次郎が亡くなるまで看護しました。

そういう人であったかと大村益次郎さんの一生をみたわけです。

河上彦斎はこの大村益次郎暗殺者の一人をかくまったとされ、そのほかの新政府への暗殺の嫌疑をかけられ斬首されてしまいます。河上彦斎は名の知れた人の暗殺は佐久間象山だけで、それを自慢にしていたとか、後悔してその後は人斬りをしなかったとかいろいろ憶測があります。『るろうに剣心』の緋村剣心のような明るい時代は訪れなかったようです。

佐久間象山の子が河上彦斎を敵として仇討ちのため新選組に入ったのは事実のようです。勝海舟が新選組によろしくということでしょうか、お金を送ったようです。

様々なことが交差していました。

ここまででお世話になった本  「銭屋五兵衛著」(小暮正夫・著)、「渡辺崋山」(土方定一・著)、「福沢諭吉 「自由」を創る」(石橋洋司・著)、「佐久間象山 誇り高きサムライ・テクノクラート」(古川薫・著)、「大塩平八郎 構造改革に玉破した男」(長尾剛・著)

追記: 西郷輝彦さんの舞台は新派120周年記念『鹿鳴館』、藤山直美さんとの『冬のひまわり』、三越劇場での『初蕾』などで鑑賞させてもらいました。角の無い、芝居の中に自然に溶け込まれて調和され光を当てるという役者さんでした。(合掌)

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幕末の先人たち(2)

佐久間象山さんを認識したのは信州松代の観光パンフレットからです。どうも幕末に活躍した人らしい。「高義亭」は松代藩家老の下屋敷にあった建物で、二階には高杉晋作など幕末の志士と語り合った部屋があります。それ以上はこちらの興味も深まらず「象山記念館」はパスでした。

その後、勝海舟の妹を妻としていて優秀な人なのですが変わっているらしいということで、象山を知るまでに今日まで時間が経ってしまいました。思い立ったら即実行するという人です。それだけに自分の知識力には自信があり、人を見下すところもあったようです。ただ失敗もします。少しの失敗ではないのですがめげません。

象山は松代藩の下士の生まれです。儒学の朱子学を学びます。朱子学は下から上への無条件な服従が絶対的な善とする教えで、支配者にとっては都合の良い教えで、家康以来幕府公認の学問でした。

象山は優秀で藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)にも期待され、江戸にも遊学しました。真田家は長男・真田信之が徳川家側につき、上田城から初代松代藩主になって真田家は続いていました。

象山は松代藩にもどってから、食糧不足に飢えている人々のために何もしようとしない役人にかわって藩の御用商人を説得して商人が藩にお米を収めて藩が分配するという方法をとらせるのです。

同じころ「大塩平八郎の乱」がおこります。象山は、自分の心ばかりを正しいと信ずる陽明学派の跳ね上がりだと批判します。大塩平八郎。この人もその行動を知っておきたかった一人です。いい機会です。

儒学には朱子学と陽明学とがありました。陽明学は、下の者が上の者に不満を持った場合それが理にかなっていれば不満や反抗心を持たせた方が理に反しているのだから理にあった正しい姿に戻らなくてはいけない、という考えなのです。上の者に絶対服従ではないのです。意見を言っていいのです。

大塩平八郎は、大阪奉行所の与力をしていました。大阪は天領で幕府の直轄地ですから大阪奉行所は幕府の機関です。徳川家に直接仕えているわけですから幕臣の下っ端ということになります。下っ端といえども藩に仕えているのではありません。あくまで徳川家に仕えているのです。

大塩家が代々徳川家に仕えていることを平八郎は誇りにしていました。そして徳川幕府とは人民を守り善政をおこなうところであると信じていたようです。大塩平八郎は38歳で隠居し養子・格之助が与力となります。隠居の5年前から陽明学の私塾「洗心洞」を開いています。

飢きん打開に対しては格之助を通じて意見書を出していましたが、大阪奉行は困っている人々を救うどころか幕府の命令で大坂の米を江戸に送っていました。新将軍の儀式の費用のためです。跡部奉行は、老中・水野忠邦の実弟でした。ついに大塩平八郎は塾生たちと決起することにします。困っている人々に大商人の蔵から米などを放出させるのです。さらに大阪奉行所を襲い奉行を討つことによって徳川幕府に反省してもらいたいとの望みからでした。平八郎は、徳川幕府が気が付いてくれると信じていたのです。

面白いことに大丸には手を出すなと伝えたようです。平八郎にとって大丸は良識ある商人と認めていたのでしょう。

平八郎は決起と同時に一度はひっこめていた事実を報告書にして幕府に送ります。それは幕閣たちが発起人となって不当にお金を集める闇無尽(やみむじん)の実態でした。そのことを書状にして幕府に送ったのです。どうして大阪で決起したのかを江戸の幕閣たちが「そうであったか、江戸城はなんという腐敗状態なのか」と気が付いてくれるのを願ったのです。

決起はその日のうちに鎮められますが、平八郎と格之助は身を隠します。幕府から何か言ってくることを期待したのです。幕府はそんなことで浄化されるような状態ではありませんでした。平八郎親子は見つかりその場で命をたちます。

平八郎の書状は握りつぶされたのですが、ひょんなことから伊豆の代官所に届けられ、時の代官・江川英龍(ひでたつ)によって書き写されていました。そのことによって後の人が検証できることとなったのです。

握りつぶされたものがどれだけ沢山あることでしようか。どういうことであったのかはそれを検証し後の世の人々の考え方の参考になる重要なものなのですが。

陽明学は考えることだけではなく実行することも必要なこととしています。しかし、老中・松平定信の「寛政の改革」の「寛政異学の禁」で朱子学以外は公には禁止されてしまい陽明学はすたれていくのです。

松代藩主・真田幸貫は松平定信の長男で真田家の養子になった人です。

象山は江戸神田お玉が池に儒学塾を開きます。彼は朱子学です。ただ象山は自分の考えたことは実行に移す人でした。学校を建てて朱子学を中心とした教育に力を入れるべきだ意見書をだしてもいます。象山の場合まだ藩のためであり相手は自分をわかってくれる藩主です。ここらへんが大塩平八郎と違うところでもあります。ただその後、象山は幕府に許可をもらうこともあり、幕府の頭の固さにがっかりします。

幸貫は老中となり幕府の海防係となります。象山は海防係顧問を命じられ、ここから彼の西洋式の砲術の勉強が始まります。蘭学が必要になってきたわけです。象山は渡辺崋山と交際があり、崋山から蘭学を習わなかったことを残念におもいつつ、オランダ語の猛勉強開始です。

高価な蘭書の「百科事書」(現在の400万円)の購入を幸貫は許してくれます。優秀であると同時に弁もたったのでしょう。当然藩の財政から考えて舌打ちしていた人も沢山いたでしょう。

そして実行する人象山です。ガラス器、電気医療器などを作ります。さらに豚の肉を食べることをすすめます。日本人は仏教の教えで動物の肉を食べないのですが象山は自分から食し、それにジャガイモが合うことを知り、藩の農民に養豚とジャガイモの栽培を指導します。あの高野長英がすすめていたことです。色々なことを知り実行にうつします。

その中で大ががりなのが、自分が完成させたオランダ語辞書を出版して売ることを思いつきます。みんな書き写したりして勉強しているのですから、印刷して売れば藩の収入となります。印刷といっても木版刷りです。その企画は幸貫に認められます。資金は自分の知行100石を担保にしたのです。ところが幕府の許可がおりませんでした。

大規模な出版は、その後福沢諭吉が慶應義塾の資金源のために自分の本を出版しています。たしかに上手くいっていれば相当の収入になったことでしょう。

さらに松前藩に依頼されて千葉の姉ヶ崎で青銅の大砲を作り試砲しますが大砲は壊れ失敗します。そんなこともありながら象山は洋式の兵術家として有名になり深川の藩邸で砲術を教えます。その中に幕臣・勝麟太郎(勝海舟)もいたのです。

下図のが深川の松代藩邸で象山の塾があったところです。が平賀源内がエレキテルの実験を行った所で、「初春は平賀源内から」と思い立ったときは佐久間象山にたどりつくとは思ってもいませんでした。

さて、さらに木挽町に洋学の塾をを開くのです。儒教の朱子学塾から洋学の塾になりました。ここに入塾するのが吉田松陰です。さらに「米百俵」の長岡藩の小林寅三郎、坂本龍馬らも加わります。象山は開国論者となっていきます。

下図の11が築地本願寺。14の木挽町5・6丁目に山村座、河原崎、森田座の三座が許可を受けて興行していましたが、江島事件で山村座は廃座。天保の改革により芝居小屋は浅草に移転。その後、木挽町5丁目に象山が開塾するのです。

象山は吉田松陰が外国に行くことに賛成します。ただし密航だったわけで失敗し松陰と象山は投獄されます。その後象山は松代でのちっ居生活となります。この時松代で地震があり、家老・望月主水が下屋敷を貸してくれたのです。そこへ松陰の松下村塾の弟子の高杉晋作が訪れたのです。松陰は「安政の大獄」ですでに処刑されていました。

井伊直弼暗殺のあと吉田松陰をはじめ、高野長英や渡辺崋山らの名誉が回復されますが、象山はちっ居をとかれません。彼を認めてくれた藩主の幸貫はすでに亡くなっていました。松代藩は象山を厄介者と考えていたのです。

象山が9年にわたるの幽閉が許されると他藩から来てほしいと誘いがありますが象山は断ります。松代藩の象山きらいは強く、なにかと足を引っ張られます。そんな時幕府からお声がかかります。朝廷の攘夷派懐柔作戦と開国の必要性を説明してもらうために適任とされたのです。

象山は京で公家や一橋慶喜とも会い過激な攘夷思想を正し公武合体と開国論を述べます。京都は外国を忌み嫌う攘夷派がうろうろしています。象山は京の三条木屋町で一人愛馬にまたがっていたところを襲われ暗殺されてしまいます。また血が流されました。

さらに松代藩は象山の知行・屋敷を没収、佐久間家は断絶します。その後名誉は回復されます。それにしても象山さん松代藩の重臣たちに嫌われたものです。朱子学の通り、藩や幕府の命令には反抗の行動はしませんでした。ただ自分の学んだことに対しては絶対なる自信がありました。それを分からない人に対しては苦々しい態度でのぞんだようで、そのことが災いしたようです。

松代に行くとそこから激しくて行動的な佐久間象山が誕生したとは思えない静かさでした。といっても10年前の旅ですが。長野電鉄屋代線も残っていて松代から須坂に向かったと思います。須坂で散策時間が足りず、再訪しますが。

真田邸(新御殿)。江戸後期松代9代藩主・真田幸教が母のために建てた隠居所。↓

幕末の先人たち(1)

深川の地図から伊能忠敬さんの日本地図の話になって児童書がどんどん幕末の全国版へと運んでくれます。先ずはかつての築地外国人居留地へ。

外国人居留地というのは明治元年にできた外国人が住むための治外法権の特別区域という場所です。現在の明石町がその跡地で今は様々な記念碑などがあります。

朱丸の「浅野内匠頭屋敷跡」「芥川龍之介誕生の地」「蘭学事始めの地」「シーボルト記念碑」。緑丸は「慶應義塾発祥の地」。紫丸は中央保健所集合施設6階に「タイムドーム明石(中央区立郷土天文館)」があります。

「蘭学事始の地」と「慶應義塾発祥の地」というのはここに豊前中津藩奥平家の中屋敷があり、中津藩医の前野良沢が杉田玄白らとここで「解体新書」を完成させた地とし、さらに中津藩の福沢諭吉がここで家塾を開いたのに由来しているようです。

「シーボルト記念碑」は江戸に来たことで追放されるということになりましたが江戸蘭学への功績は大きかったということなのでのしょう。聖路加病院のそばというのも医者としてのシーボルトにとっても好い場所なのかもしれません。

この近くにはミッション系の学校が多くあったようでその学校の発祥の地としての碑があるようです。かつて私が行ったときは「タイムドーム明石(中央区立郷土天文館)」が見たかったのでその他はなるほどなるどと軽く立ちどまる程度でした。

タイムドーム明石」の常設展の記憶が薄らいでいますが、楽しめました。たしか外国人居留地に建てられた日本で最初の洋風ホテル「築地ホテル館」の模型があったような気がするのですがどうでしょうか。一番の興味をひかれたのは長谷川時雨さんです。彼女が日本初の女性歌舞伎脚本家であると知りました。

この辺りは江戸時代に築地鉄砲州と言われていた場所です。

浮世絵と現在を写真で比較する素敵なサイトを見つけました。地形が残っているとこういう楽しみ方ができるのですね。『鉄砲洲築地門跡』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第72回 | nippon.com

新しい知識を学びたいとしても武士の場合所属していた藩によって様々な経緯をたどります。そして時の老中によっても方針が違ってしまいます。幕府の財政は立て直しが必要で、もちろん各藩もひどい状態でした。次々と改革方針が出されますが、それにより藩はさらに圧迫されそれがお米で税金を納めている農民に押し付けられます。

藩は豊かになった商人から御用金を要求し、商人は献上することによってさらに商売のための権利を得ていきます。さらに外国との密貿易へと進んでいきます。藩は都合が悪くなると落ち度をみつけおとがめとし財産没収となります。藩は違う商人に権利を与えさらに上納金を納めさせるという構造になっていきます。

そんな構造がみえたのが加賀の商人の銭屋五兵衛に関する本を読んだからです。夢をもって商売に成功したかにみえた銭屋五兵衛もその構図にからめとられます。

各藩が恐れたことが起こりました。それに間宮林蔵がかかわっていました。1836年(天保7年)竹島を舞台にした浜田藩(島根県)の密貿易がおもてざたとなりました。藩の御用をつとめていた廻船問屋・会津屋清助と藩の勘定方・橋本三兵衛が死罪。さらに藩主は奥羽の棚倉藩(福島県)に国がえとなったのです。間宮林蔵の密告によるものでした。藩にまで類が及ぶとなれば由々しき事と商人は使い捨てとされるわけです。

加賀藩が銭屋から没収した額は10万両で500億円といわれます。幕府も貿易を考えなければ成り立たない財政状況になっていたのです。

大飢きんもあり農民は自分の食べるものもありません。飢えないためにジャガイモの栽培をすすめたのが高野長英です。サツマイモは甘さがあるのですがジャガイモは味がなく人気がなかったようです。

高野長英は岩手県奥州市水沢で生まれ勉学に燃え、シーボルトの鳴門塾で学び塾の中でも優秀でした。シーボルトが追放されたあとオランダ嫌いの水野忠邦が老中となり蘭学者たちはにらまれます。そして幕府を批判したとしてとらえられます。これが「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」です。長英ははじめは逃げますが、捕らえられた仲間のこともあり無実を訴えるため自首します。

しかし捕らえる側に許すなどという考えはありません。終身牢の中という永牢と決められてしまします。牢が火事になったとき長英はそのまま逃亡してしまいます。逃亡しつつ多くの蘭学の書物を訳します。蘭学に理解のある薩摩藩主島津斉彬や伊予宇和島藩主伊達宗城にも認められ庇護をうけますが、脱獄していることもあり江戸で見つけられ捕り手に囲まれこれまでと自刃してしまいます。

高野長英と共に蘭学者の集まり「尚歯会(しょうしかい)」に参加していたのが渡辺崋山です。渡辺崋山は画家として目にするのでどうして「蛮社の獄」と関係するのかわからなかったのですが、崋山は三河国田原藩(愛知県田原市)の藩士で家老にまでなるのです。ジャガイモの栽培で農民の餓死をふせぎ藩主からも認められました。

田原藩上屋敷内で生まれますが貧しく、絵で収入を得ようと祭りの灯篭絵のアルバイトをしたりして絵の勉強もします。その絵も洋画の手法で日本画を描くということを探求し、人物画もその人の本質を見据えて描くという新しい考えでした。蘭学も学び、藩の役職が上がるにしたがって日本の先行きを心配するようになるのです。

もう少し前の時代なら藩から抜けて画家として立つこともできたでしょうがそういうこともままならぬ時代でした。「尚歯会」参加者は皆にらまれていて渡辺崋山は田原藩でのちっ居と決まり田原に送られます。ずっと江戸暮らしで田原藩では崋山は大罪人としてしか受け入れられませんでした。彼はついに命を絶ってしまいます。

テレビドラマ『河井継之助 ー 駆け抜けた蒼龍』を観てみようという気になりDVDをレンタルしました。勘三郎さんの間の良いリズミカルなセリフと演技に、これでしたねと堪能しました。この勘三郎さん好きです。

ひょんなことで知り合った女性の吉田日出子さんが、継之助に言うんです。あんたは両目だと見えすぎちゃうから片目で見るくらいが丁度いいよと。なんか勘三郎さんの歌舞伎の先が見えて急ぐのとぴったり当てはまるような気がしました。

継之助は戦さを何とかして避けたいと思っていたんです。理想論と言われますが、理想がなくてあの時代を生き抜けるでしょうか。藩の上に立つ者が。そして領民を戦さから守るためには。

三津五郎さん、彌十郎さん、七之助さん、勘九郎さん、獅童さんや現代劇の勘三郎さんの役者仲間の方々も出演していて一つの時代だったなあと感慨深かったです。そして新しい時代が続くんですね。

河井継之助の映画が作られたのですね。楽しみです。

映画『峠 最後のサムライ』公式サイト 2022年公開 (touge-movie.com)

追記: 福沢諭吉さんて有名度の高さでの部分で知っていますが、本当はよく知らないのです。勘三郎さんが勘九郎時代にテレビドラマ『幕末青春グラフィティ 福沢諭吉』で福沢諭吉を演じているので観てみました。大阪の緒方洪庵の「適塾」での青春群像の一団から選ばれて中津藩の江戸での蘭学の家塾を任され、さらにアメリカへ幕府から派遣されて使節団として渡米し身分にとらわれない「自由」を握りしめるのです。

ドラマとしても面白かったのですが、勘三郎さんの演技は受けも良いのだと気づかされました。受けがいいのでそこからの踏み出しもいいのです。踏み出しの自由自在さが観ている者に負担を掛けず引き込んでくれます。そして理屈抜きのエネルギッシュさです。

新しいことに挑戦・平賀源内、伊能忠敬、間宮林蔵(4)

シーボルトは、滞在期間の5年がきて帰国をすることになりました。そして荷物を船に積み込みました。ところが大きな台風がきたため、船は港の外に押し出され、再び湾内に押し戻され浜に乗り上げてしまいます。船を海に浮かべる復旧工事のため船内の荷物は陸地に移動。

空き地に保管された荷物を長崎奉行所が調べはじめたのです。今までなかったことでした。荷の中から持ち出し禁止の品々がでてきたのです。もちろん日本地図は禁止です。景保は捕えられてしまいます。

その以前に林蔵のところに景保からシーボルトからの林蔵へ渡してほしいという荷物が届きました。その時林蔵は勝手に開けないで奉行所へ届けてそこで開けました。怪しい物はなく手紙には林蔵の偉業をたたえることが書かれていました。

当時異国人との手紙のやり取りもおおやけには禁止されていました。奉行所は景保とシーボルトの親しい関係に疑いをもったのです。そして船の荷物から出てきた地図です。他にも捕えられた人々が多くいました。これが「シーボルト事件」です。

景保は牢死してしまいます。その遺体は塩漬けにされ判決が出て死罪と決まり遺体の首をはねられました。

このむごたらしい処置などもあり人々の同情が景保に集まり、林蔵は密告者とされ裏切者よばわりされてしまいます。林蔵は蝦夷探検でロシア人との戦さも体験していて外国人が嫌いでした。信用していなかったのです。

世間というものに林蔵は鬱屈した気持ちにさせられたからでしょうか。その後、隠密の仕事につき幕府にたてつく者、法にふれる者を探し出しました。隠密を辞めた後は深川でひっそりと暮らしたようです。

ヨーロッパでは産業革命により商品を売る先をアジアに求めていたのです。通商で門戸を開き新しい知識を得る時期に来ていたのです。

シーボルトは故国に戻ってから『日本』という本をあらわし、その中に間宮林蔵の樺太探検のことも書き間宮海峡の発見者として紹介しました。間宮林蔵の名は世界中に知れ渡ったのです。なんとも皮肉なことでした。シーボルトは万有学者としての立場に立ってのことだったのでしょう。業績は業績として認めたのです。

新しい知識を得た若者たちがその後も幕府の弾圧に会います。明治までの道のりには血なまぐさいこともたくさんありました。

シーボルトは日本の動物誌や植物誌も発表しています。日本を追放されたシーボルトは30年後追放令を解かれ再び日本にきます。そして、日本で最初の女性産科医となる娘のいねと再会するのでした。その頃日本は尊皇と佐幕で混乱していました。

1853年アメリカのペリーによって開国となりますが、ペリーはシーボルトの著書を読み日本についての知識をおさえていたといわれます。

楠本いねに関しては四国の宇和島で出会っていました。さらなる出会いの機会が訪れ嬉しいです。宇和町・大洲町散策  四国旅(5) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

ここまでくると、観た舞台や映画などが思い浮かび再度見かえしたものもあります。

大黒屋光太夫では、映画『おろしや国酔夢譚』があります。歌舞伎『月光露針路日本 風雲児たち』があり、シネマ歌舞伎にもなりました。シネマ歌舞伎では8月にまた劇場で上映されるようです。

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三谷かぶき 月光露針路日本 風雲児たち

映画『天地明察』。主人公・安井算哲が、後に渋川春海となり初代・天文方となったとラストに字幕があり、今回は天文方に即反応しました。役職として前回より身近になりました。

天地明察 [DVD]

明治時代はとにかく西洋を手本に新しさが正しいこととして進みます。暦も太陽暦に変わります。明治5年12月3日が新暦で明治6年1月1日になるのです。師走が2日しかありません。そんなときの庶民の動向を描いた舞台が前進座創立80周年記念公演『明治おばけ暦』です。今までのものは旧弊とされ、新しさをきちんと説明もなくどんどんどんどん進んでいくのです。

時代の流れは、新しいものを求めればダメだといい、今度は古いものに安住しているとダメだという。とかくこの世は生きにくい。そこをしたたかに生きましょうか。もう一度観劇したい作品です。

明治おばけ暦

児童書の旅は知らないことがザクザクでてきました。何かあったらまた児童書にお助けを要請することにします。

楠本いねさん、上手く髪を結えないため、父のシーボルトが残してくれた薬を測るさじを巻き上げた髪の髪留めにします。これは事実かどうかはわかりません。創作かも。アニメの『本好きの下剋上』のマインを思い出しました。この髪留めが評判になりマインは髪飾りを作り、新しいつながりを持つことになるのです。どこに出会いが待っているのかわかりません。

『天と地を測った男 伊能忠敬』(岡崎ひでたか・著) 『星の旅人 伊能忠敬と伝説の怪魚』(小前亮・著) 『間宮林蔵』(筑波常治・著) 『シーボルト』(浜田泰三・著) 『銀のさじ ーシーボルトのむすめの物語』(武田道子・著) 

追記: 一月に国立劇場で公演された歌舞伎『南総里見八犬伝』が、明日2月6日(日)23:20~1:54、NHKBS プレミアム「プレミアムステージ」で放送予定です。『八犬伝』を始めて舞台で観たのは1994年新橋演舞場での『スーパー歌舞伎 八犬伝』でした。2015年(平成27年)にはやはり国立劇場で菊五郎劇団の『南総里見八犬伝』を観ていて上演台本も購入しましたので、今回はどう変えられたのかも注目したいと思います。曲亭馬琴さん、地図の中でおとなしくはしていませんでした。

追記2: 今回の『南総里見八犬伝』は伏姫の場面をなくし、そのほかも短縮して八犬士の出会いをはっきりさせ、躍動的な部分を強く印象づけていました。左近さんが下半身が安定していてシャープな動きが美しかったです。12月歌舞伎座『信濃路紅葉鬼揃』で先輩たちに混じって頑張っていましたからね。

新しいことに挑戦・平賀源内、伊能忠敬、間宮林蔵(3)

間宮林蔵は、茨城県筑波の貧しい農家の子として誕生しました。読み、書き、計算は得意で、道の幅や川の深さなどを竹ざおで測ったりして調べるのが好きでした。彼もまた出世を夢見る子供でした。

ラクスマンが漂流民・大黒屋光太夫たちを連れて根室に来航したのは、1792年10月です。漂流民を帰す事と通商を求めることが目的でした。松前藩は通商ついては長崎に行ってくれといいます。ラクスマンは黒太夫たちを降ろしロシアへ帰っていきます。

日本にもどった漂流民は光太夫の後にもいましたが有名にならなかったのは体験を表現する力が弱かったからとされています。

こうした状況もありよくわかっていない蝦夷地を幕府も知りたいと思っていました。そのため忠敬の蝦夷地測量の願いも許されたわけです。

そのころ世界の探検家が行っていないのは北極と南極と樺太(からふと)を中心とした一帯でした。

林蔵は測量術にたけた幕府の役人・村上島之丞の従者になります。林蔵は島之丞に従って蝦夷に行き函館で忠敬に会うのです。忠敬は身分は農民で役所はそれに浪人と加えました。農民では許すわけにいかないからです。林蔵は蝦夷地御用雇(えぞちごようやとい)という低い地位でした。二人は意気投合し、林蔵は忠敬を師とし、忠敬は林蔵を「親せきのごとき者」とし測量をおしえました。

そして林蔵は樺太が島であるか陸続きの半島であるかを自分で確かめたいと思うようになります。

択捉(えとろふ)と国後(くなしり)は忠敬の測量でわかりましたが樺太がわかっていないのです。一回目の探検は、先輩の松田伝十郎と二人でした。一応島としましたが実際に船で通ってはいないのです。林蔵は一人で二回目の樺太探検に出かけます。そして間宮海峡発見者となるのです。さらにシベリアまで渡り江戸へもどり『東韃地方紀行(とうたつちほうきこう)』を表します。

伊能忠敬も同じですが、林蔵の探検は簡単には言い表せられない苦労にみちていました。それだけに有名になった林蔵は体験談をことあるごとに話、絶頂期でした。しかしねたみもありました。そんな中、忠敬はもっと難しい測量術をおしえます。林蔵は忠敬が途中までしかできなかった蝦夷の測量をし終え無事忠敬に届けます。

しかし、「大日本沿海與地全図」の完成を待たずに忠敬は亡くなり、完成させたのは至時の息子の天文方・景保で忠敬の作成した地図として1821年に幕府に提出したのです。

長崎の出島では、オランダ、中国、朝鮮の船の入港を許していました。西洋でどうしてオランダだけかといいますと、オランダはキリシタンの宣教師を連れてこず、貿易だけをしたからです。

シーボルトがドイツ人でありながらオランダ陸軍軍医少佐として出島のオランダ商館医師として入港したのが1823年です。シーボルト家はドイツでも知られた名門でシーボルトは日本のことを知りたくてオランダ国王に願い出て許可をもらってオランダ人としてやってきたのです。

シーボルトは医学だけではなく万有学者でもありました。歴史学、地理学、動物学、植物学、物理学、化学と分けられていなくてそれら全てを万有学者は勉強し研究していたのです。

シーボルトは、自分の医術や学問を新しい知識を求める日本の若者に教えました。その中心が出島の外にある鳴門塾でした。貧しいものや各地の大名のおかかえ医師たちも派遣されて学びに来ていました。

オランダ商館の人々は5年に一度江戸にいる将軍お目見えのための江戸参府がありました。もちろんシーボルトも参加します。自由に行動できないシーボルトは長崎から出て日本を見れるのです。

医学の勉強をしつつ弟子たちは万有学の助手としても協力していました。江戸までの道すがら弟子たちが珍しい植物や動物や鉱物などをもってきてくれました。その中にオオサンショウウオがありました。場所は鈴鹿峠を越えた坂下宿でした。

私がこの情報を得たのは東海道を歩いていた時の鈴鹿馬子唄会館だったとおもいます。

シーボルトはサンショウウオを初めて見ます。それもオオサンショウウオです。偶然出会わしたのかと疑問に思っていましたが、やっとナゾが解けました。オランダの博物館でオオサンショウウオは名物になりました。30センチくらいのものが十年ほどで80センチ以上になったそうなんです。

シーボルトは沢山の物をオランダに送っています。帰ってから色々調べ本にしようとおもっていたのです。外国から日本に入ってくるときは厳しかったのですが出ていくときは調べがなく、船で送る荷物も調べなかったようです。

シーボルトの医術の素晴らしさや博識なことは有名になっていますから、江戸滞在中訪問する人が多数いました。訪問者の望む資料や器具などを与えつつ、シーボルトの欲しい物も要求しました。

高橋景保もシーボルトと会いました。そして世界情勢から「世界一周記」(クルーゼンシュテルン著)の書物や地図を譲ってもらいたと伝えました。シーボルトは、伊能忠敬の日本地図のことは知っていましたから、条件として日本地図を要求しました。

日本の地図を持ち出すことは禁止されていました。「伊能地図」も幕府が管理し公表してはいないのです。景保は、日本にとって世界の新しい情報は必要だと考えシ-ボルトの条件を受け入れ日本の地図を渡しました。

追記: 映画監督の恩地日出夫さんが亡くなられました。恩地監督の講演を聞いたことがありますのでその時の様子が目に浮かびます。講演のあと『「砧」撮影所とぼくの青春』も読ませてもらい、映画『四万十川』も観ました。四万十川の暴力的な氾濫の描写と人のいとなみのけなげさが見事でした。(合掌)

水木洋子展講演会(恩地日出夫・星埜恵子) (1) | 悠草庵の手習 (suocean.com)