四国こんぴら歌舞伎(2)

「こんぴら歌舞伎20回目の記念公演」について間違いがありましたので、そのことは<追記:5>で訂正しました。→ 2022年3月9日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

テレビ録画の静止画面からですのではっきりしませんが、宙乗りの雰囲気だけ感じ取っていただければ。

金丸座は江戸時代の芝居小屋ですので、江戸時代は自然光を取り入れての舞台となります。そのため暗くするときは1、2階の雨戸が閉められるわけです。そうすると小屋は真っ暗闇となり、殺された清玄が亡霊となって現れると、キャーとの悲鳴とともに笑い声が起こります。

今は照明も使っていますが、初回は照明を落としてなるべく自然光を利用して上演されました。吉右衛門さんは、江戸時代に書かれた舞台や役者さんの様子や教えがやっと納得できたと語られていました。

再桜遇清水』は<桜にまよふ破戒清玄>とありますから、破戒僧・清玄のはなしなわけです。そのため清玄が桜姫の美しさに次第にのめり込んでいく場面ではお客さんはゲラゲラ笑っていまして映像を見ていましたら楽しそうです。

実際に観劇した私は、雨戸の閉まるのが楽しみで裏方さんの仕事ぶりに注目し、真っ暗闇になるのを体験でき、舞台から客席側に飛び出している「からいど」の使用も観ることができました。これは川に落とされたり、死体が投げ込まれたりというときに使われ、井戸のように小さいのです。

口上の時には枝垂桜の襖がバックで小屋に映えました。舞台と花道に挟まれているピンクの丸の場所が「からいど」です。

再桜遇清水』では時代が鎌倉で場所も鎌倉です。録画を観ていて、桜姫が北条時政の娘となっていたのですぐ『鎌倉殿の13人』が浮かんでしまいました。鎌倉の新清水寺で頼朝の厄除けの御剣奉納があるのです。その寺の僧が清玄です。最初の場面は歌舞伎『新薄雪物語』と重なります。

初演時は吉右衛門さんが二役で活躍したようですが、再演ということで皆さんが活躍される舞台に作り変えています。桜姫と清玄(きよはる)の逢引の手はずをする浪路(東蔵)や奴の浪平(現・、又五郎)、奴の磯平(現・松江)などです。

吉右衛門さんは、金丸座という江戸時代の芝居小屋で歌舞伎ができることに対して、イベントであってはならない、江戸時代の歌舞伎を考証できる機会を生かし、伝統芸能を守るのだという想いにあふれていました。

さて「清玄桜姫もの」でもう一つ観劇していたのが、2013年(平成25年)に国立劇場で公演された通称「女清玄」の『隅田川花御所染(すみだがわはなのごしょぞめ)』です。若手を引っ張っての福助さんの清玄尼でした。

これがあったので、「こんぴら歌舞伎」をもう一度考え、「清玄桜姫もの」をもう少し再考したくなったのです。

隅田川花御所染~女清玄~』は四世鶴屋北南作品ですからかなり入り組んでいて場所も移動し盛りだくさんでドロドロした場面もある芝居となっています。平家再興の話ともからまっていますが、入間家の二人の姉妹の話とし、特に長女・花子が中心と考えたほうがよさそうです。

花子は許婚の吉田松若丸を慕っていますが、松若丸は行方知れずで亡くなったとのことで出家して清玄尼となります。妹の桜姫にも許婚・大友常陸之助頼国がいますが、頼国は殺され、松若丸が頼国に成り代わります。それがわかった時、清玄尼は複雑な心情となります。

局岩藤という名前がありますが、草履が浮かびます。恋路の闇に迷うという金剛草履を清玄尼にはかせるのです。その手下が惣太です。岩藤の兄が平内左衛門で平家の残党です。惣太は松若丸の梅若丸を殺していて、清玄尼にもひかれているのです。

「鏡山」や「隅田川もの」などがかぶさってきているのです。清玄尼は惣太に殺されますが、もちろん亡霊となって現れます。そして桜姫の前で松若丸となってあらわれ、二人松若丸となります。二人の野分姫が浮かびます。

最期は、荒事のいでたちの粟津六郎によって清玄尼の迷いは打ち消されてしまうのです。

舞台としては、複雑さと、鶴屋南北の作品を演じるにはまだ役者さんが若かったという印象でした。いつの日か再挑戦していただきたいものです。

登場する場面や、セリフに出てくる地名が豊富で、経路の地図などを作って散策したくなります。汐入とか橋場などは、「千住汐入大橋」や「橋場の渡し」を思い浮かべます。

「清玄桜姫もの」としては『桜姫東文章』がなんといっても人気です。シネマ歌舞伎で上映中ですので一度は目にしておくことをお勧めします。

追記: こんぴら歌舞伎の22回(2006年)の一部演目もテレビで放送されていました。この公演も小屋の機能を上手く使い芝居を面白くしていました。放送された演目は、『浮世柄比翼稲妻』(「鞘当」あり)、『色彩間苅豆ーかさねー』です。これまた鶴屋北南の作品で、長い物語の一部分が復活されて上演されるようになったものです。恨みよりも人の想いが叶わぬ大きな力のなかで儚く散っていく感じで、これも小さな小屋だからこその浮かび上がる哀惜でしょうか。

追記2: 『浮世柄比翼稲妻』。名古屋山三(三津五郎)は下女・お国(現・猿之助)と雨漏りする長屋に住んでいます。山三宅へ傾城・葛城(現・猿之助)一行が訪ねてきます。貧乏長屋と花魁の豪華さがよく映えます。お国は顔にあざがあり山三への想いをおさえながらも山三の濡れ燕の着物を質から受けだしたりとけなげです。勝手な山三だなあと思わせつつ、色男ぶりを貫く三津五郎さん。三津五郎さんと猿之助さんの共演はもっと観たかったと思わされました。

追記3: 『鞘当』では天井から桜の花びらがまかれお客様は大喜び。狭い中に二本の花道。大きな劇場では味わえない役者さんの近さ。三津五郎さんの衣装の下の身体の細やかな動きが透けて見えるようでいて見せない技。それに対する海老蔵さん(不破伴左衛門)の荒々しさ。留女が亀治郎さんで女見得。これぞ吉原仲之町。

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追記4: 『かさね』。江戸時代は花道と舞台前面に並んだであろうローソクのあかりも今は電気ですが、ローソクの炎のゆらぎをあらわすこともできます。暗さとほのかな明かりが与右衛門(海老蔵)とかさね(現・猿之助)を儚い美しさで映し出します。これまた金丸座ならではの『かさね』です。かつてはとんぼを切る方も小屋ごとに専門がいたそうで、その技は高度であったようです。

白髭橋から千住大橋へ

千住大橋を中心に千住宿の北から南に進みましたが、今回は隅田川テラスを歩いた時の荒川区に接する白髭橋(しらひげばし)から千住大橋までです。荒川区南千住まちあるきマップをながめていてここを歩いたのだと思い出しました(2019年)。歩いているときはこんな風に町が隣接していたとはしりませんでした。ひたすら隅田川とそこにかかる橋とその近辺の案内板をながめていたのです。

水色の点線が隅田川。黄色が白髭橋。緑が水神大橋。茶色が千住汐入大橋。黒がJR常磐線の鉄道橋。赤が千住大橋。ピンク丸がJR常磐線の南千住駅で矢印の方向へ進むと都電荒川線の始発・終点の三ノ輪橋停留場があります。バラの咲く時期はこの沿線は美しく様変わりします。荒川区の北が足立区。南が台東区。東が墨田区。

先に見えるのが墨田区からみた白髭橋です。覆いがかかり東京オリパラ前のお化粧直しでしょうか。

よく覚えていないのですが、工事中でも人は渡ることはできたようで台東区の「対鷗荘跡」の案内板があります。そして荒川区の「対鷗荘跡」の案内板も。白髭橋が墨田区、台東区、荒川区の境界線のようです。

この辺りはかつては風光明媚で対鷗荘は明治時代の政治家・三条実美の別邸でした。橋場の渡しがあったところで、白髭の渡しとも呼ばれ、さらに古くは隅田川の渡しと呼ばれ『伊勢物語』の在原業平も渡ったとされています。大正3年に白髭木橋がかかりました。

荒川区側から振り返って見た白髭橋。先には何やら神社が見えます。

石浜神社。聖武天皇の命によって創建された神社で、源頼朝が奥州征伐に際して祈願し大勝したことから社殿を寄進したそうです。

道なりに瑞光橋がありました。素盞雄神社で瑞光石のことを知りましたのでそれにちなんでの橋名でしょうか。歩いていた時には仰々しい名前だなあとおもいました。

ブルーのアーチの水神大橋

千住汐入大橋

足立区側に渡りました。前にJR常磐線の鉄道橋。鉄道橋の下を通ることができまして、その間から見えるのが千住大橋

千住大橋際上り場。徳川家や日光門主など高貴な方の船着き場。

下の図は、小金原でおこなわれた鹿狩りに向かう将軍が千住に到着した様子で、将軍の船には葵紋が付いた吹き流しがたなびいています。(12代将軍・徳川家慶)

千住小橋。ここを渡ると、あの壁屏風が現れるわけです。

三年ぶりで同じ場所に行きついたことになります。

隅田川テラスを歩くのも対岸には違う案内板もあったりして、なかなか根気のいることですが、その時の気分で目線を変えて風まかせで歩く散策もいいですね。

追記: 『孤独のグルメ』。荒川区が気になります。シーズン3・エピソード10・第10話。都電がでてきて荒川遊園地が。今月、リニュアールオープンした模様。古き荒川遊園地の貴重な映像になるかも。そして宮ノ前駅でも井之頭五郎さん下車。二つのメニューは無理なので迷います。それにしてもゴックン。シーズン7・エピソード5・第5話の三河島駅の麻婆豆腐と杏仁豆腐もひかれます。落語に口にしたくない『酢豆腐』がありましたね。

追記2: 芭蕉さんは遺言で木曽義仲のそばで眠りたいと望んだのですよね。義仲寺(滋賀県大津市)を訪れ初めて知りました。希望通りになりました。翁堂には芭蕉さんの像があり、天井には若冲さんの絵の複製が再現されていました。境内はそれほど広くありませんが、植物も多種類あり見どころが多いです。

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追記3: 義仲寺で手に入れた小冊子です。旅の時はこうした小冊子が荷物にならず電車の中でも気軽に読めるので助かります。

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其角さんは歌舞伎『松浦の太鼓』などにも登場しますが、実際は芭蕉さんとは違うタイプのかただったようで、それを芭蕉さんは認めていたようです。其角さんは井原西鶴さんと会っていますから面白い方だなと思っていましたので納得できます。

歌舞伎座4月『天一坊大岡政談』

天一坊大岡政談』は河竹黙阿弥作で、初世神田伯山の人気講談をもとにして明治8年(1875年)に新富座で初演されたといいます。歌舞伎も明治の文明開化の波は当然受けているわけで、今回の芝居では明治という時代が意識され、それと現在の新型コロナの現状とも重なって感じられるものがありました。

神仏分離による素戔嗚神社。そこに仏師が神輿屋となって初めて納められた御神輿。明治という時代があっての大きなかわりようです。芝居に対しても明治政府が推奨したのは勧善懲悪もの。黙阿弥さんはそうした中でも大衆のほうに寄り添って人気講談を取り入れるという歌舞伎戯作者としての何かがあったように思えるのです。感じるだけで説明はできませんが。

そんなこんなとおもい巡らしていますと、御神輿と『天一坊大岡政談』のことがつながってきたのです。

神輿はそれぞれの職人さんが作るパーツの組み合わせです。この組み合わせの寸法が違っていては出来上がりません。今回の『天一坊大岡政談』は御神輿に似ているなと思えたのです。通し狂言と言えども短縮しています。そしてセリフ劇で派手さはありません。登場時間の短い役者さんもいます。その短さの中で、今までの技をしっかりはめ込んでいってくれました。それがさすがでした。

寺の小坊主が、自分と同じ誕生日の子で亡くなってはいるが八代将軍吉宗のご落胤(らくいん)であるという話を聞かされます。自分とのあまりの違いにふっと虚しさからか心の中の闇を見てしまいます。その闇を思わず握ってしまうのです。その子に入れ替わろう。

偽りを偽りでなくするためには次々人を殺め、だまし、落とし入れていかなくてはなりません。歯車が回りだしたら回り続けなければなりません。その歯車を面白いと一緒に回してくれる人も現れます。

しかし、何かおかしい。これを命を投げ出しても止めねばならぬという人も現れます。正義の人です。悪が勝つか善が勝つかこれいかに。講談らしい引っ張りどころです。

悪は天一坊(猿之助)。善は大岡越前守(松緑)。天一坊側には山内伊賀亮(愛之助)という軍師がついています。この三人の組み合わせに対し、さらにどんどん役者さんたちが物語を組み立てて行ってくれるのです。その演技が確かでその場その場の雰囲気をどんどん生かしてくれるのです。

小坊主・法澤を村から送り出す人の好い村人たち。法澤の悪事など全く知りません。

かつて「客はおれをみにくるのだから、、、」といった役者さんもいたようですが、今はそういう時代ではないのかもしれないと思わされます。役者さんたちの意識も変わってきています。この芝居を面白くするためにはどうしたらよいかという一人一人の意識が組み合わさっていくのがわかるのです。

また劇中主人公である役者さんが登場する役者に「やっとましな役者がでてきてくれた」言ったとかというような話もあります。これは自分の芝居の見せどころを上手くみせていけるかどうかということなのでしょう。

たしかに観ていて雰囲気を壊してくれるなという方も時にはあります。セリフ劇なのに今回はそれがありませんでした。

自分はどこのパーツを組み立てればいいのかを心してのぞんでいるようにみえました。世話物に近い化粧なので一人一人の役者さんが誰であるかがわかりなるほどと楽しませてもらいました。

今の歌舞伎界の中堅どころと若手は一体になってこの時期を乗り越えなければならないという生き込みを感じられました。

どんどん悪にはまって面白いぐらいだまされていく周囲に快感を覚えていく天一坊。その大胆な性格に自分の話術をもってやってやろうじゃないかの山内伊賀亮。そしてその仲間たち。

いったんは伊賀亮の論法に屈するも、天一坊を将軍と会わせるわけにはいかないと天一坊の空白の時期を埋めるべき証拠固めに乗り出す大岡越前守。そしてその知らせを待つ部下たち。

左近さんには泣かされました。大岡越前の家族が死をかける場面です。左近さんは芝居の場面状況をとらえる力があるように思えます。そしてその雰囲気に自分を置くことができるのです。近頃の様子からそう感じました。

皆さん立ち居振る舞いが身にそなわっています。

そして、大岡越前守は長袴を格好よくさばき、気持ちよく善が勝つのです。ここまでだまし通してこられたことに満足ともおもえるふてぶてしい表情の天一坊。浮世絵の大首の絵のようです。江戸の世界です。山内伊賀亮がどうなるかは歌舞伎座でご確認ください。

明治11年新富座が西洋建築の劇場となり、明治政府高官を招いての開場となります。そうした流れの中で黙阿弥さんはその後、悪をも描き、庶民の好みに寄り添った立場を貫かれたと思っています。

そして歌舞伎も制限されている今だからこそ若い芽がどんどん力をつけ神輿を担ぐ人々が増え、観客がそれを心置きなく楽しめる状況になることを願うばかりです。

もちろん本物の御神輿もです。

追記: 天一坊の身元調査に出かけた人物がなかなか戻ってこず、ヤキモキする大岡の家来が柱に寄り、花道奥をのぞき込みます。え!もしかして柱に絡みつくんですか。柱巻の見得にいっちゃうんですか。その時は緊迫感が漂っているので何ともなかったのですが、今思い返すとその部分だけアップになってクスッとしてしまいます。デフォルメご苦労さまでした。思いもかけないことが起こるから面白いのです。舞台上でわね。

追記2: 歌舞伎オンデマンドを久しぶりにのぞくと、平成24年4月の新橋演舞場での『仮名手本忠臣蔵 5段目、6段目』が配信されていました。観ていない配役の組み合わせです。6段目が上方の型でした。じっくり観れて東京の型との違いがよくわかりました。映像であっても話で聞くだけより納得がいきます。

追記3: 大河『鎌倉殿の13人』(15回)の驚くべき展開に新作歌舞伎『頼朝の死』が観返したくなり昭和49年(1974年)5月歌舞伎座の録画を鑑賞。見事な深き心理を表すセリフ劇。頼朝の死の秘密と頼家(現梅玉)の苦悩。尼御台政子(六代目歌右衛門)の貫禄。大江広元(二代目鴈治郎)。畠山重忠の息子・重保(二代目吉右衛門)。小周防(現魁春)。中野五郎能成(二代目小太夫)。小笠原弥太郎(現歌六)。高い道標の一つです。

追記4: 『鎌倉殿の13人』(16回)ではついに木曽義仲も滅ぼされてしまいました。興味があれば下記の場所へどうぞ。 ↓

木曽義仲の生誕地 埼玉県嵐山町 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

追記5: 国立劇場(2018年)での『名高大岡越前裁(なもたかしおおおかさばき)』の台本を購入していました。このところ色々出てきてくれて再考できて楽しめます。

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感想はこちらで  →  2018年11月17日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

日光街道千住宿から回向院へ(4)

今度は広重の「江戸名所百景 千住乃大はし」の案内版です。少し汚れていました。

階段を上り橋詰めテラスからの隅田川。桜が咲いています。(3月28日)

橋詰めテラスを反対側に降りますと壁を屏風に見立てて、与謝野蕪村筆の奥の細道図屏風としています。

千住大橋の下にかかっている千住小橋。

千住小橋は渡らずもどって千住大橋を渡ると千住河岸の案内板がありまして、秩父から運ばれた材木などを扱う材木問屋が並んでいたようです。やっちゃ場に材木問屋と商人の町ともいえます。ただこちらは現在は荒川区となっています。碑を撮るのを忘れました。

素盞雄神社。江戸名所図会では「飛鳥杜 小塚原天王宮」とあり、素盞雄神社となったのは明治の神仏分離によるものです。古いものを守りつつの盛りだくさんな境内でした。あちらこちらにおひな様が飾られていまして、桃の鉢植が並べられていました。『新・三国志』の桃の花びらが飛んで追いかけてきたみたいです。

桃の願い札。これは初めてみる光景です。

「奥の細道」にちなんだつくられた千住大橋。杖と傘が置いてありまして、もしよかったらかぶってみてくださいとあります。

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大きな銀杏の木には子育ての絵馬が奉納されています。この銀杏の木の皮を煎じて飲むとお乳がよくでるという言い伝えがあり今につながっているのです。

小塚原富士塚です。「瑞光石」についての説明がありました。素盞雄神社の祭神が翁の姿にかえて降臨した奇岩で、この塚を「古塚」と呼んだことから小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もあるとしています。

飛鳥の森 御神水」。

社務所に人がいませんでしたので、浅子神輿店の御神輿のことは聞くことができませんでした。いろいろ工夫されていて親しみやすい神社でした。

今回の散策の締めの小塚原回向院へ。1667年(寛文7年)に住職・弟誉義観(ていよぎかん)が行路病死者や刑死者の供養のために開いたお寺で、当時は常行堂と称していました。そして、蘭学者・杉田玄白、中川淳庵、前野良沢が腑分けをみたことによって「解体新書」が出来上がったことを讃える観臓記念碑があります。

観臓記念碑。1922年(大正11年)に建立されましたが戦災をうけたので、解体新書の絵のとびらをかたどった浮彫青銅板だけここへ移し、あらたに建て直しました。

小塚原の刑場は日光道中に面していましたが、周囲は草ぼうぼうで浅草山谷町と千住宿の街並みが途切れた場所に設置していました。明治初期に刑場の機能は廃止され回向院は顕彰記念地となりました。橋本左内や吉田松陰のお墓があります。

荒川区南千住まちあるきマップ。ありがとうさんです。

(5)→     2022年5月27日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

追記: そういえば歌舞伎『桜姫東文章』の桜姫がつとめにでたのが小塚原の女郎屋でした。「風鈴お姫」と人気となります。お姫様がばくれんのような独特の話し方になるのが見どころ聴きどころです。詳しくは上映中のシネマ歌舞伎でどうぞ。(5月4日現在)

日光街道千住宿から回向院へ(3)

山梨は富士山が美しい姿を見せてくれることで有名ですが、北千住からもかつてははるか彼方に見えたようです。

北斎の富嶽三十六景のうち「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」の碑があります。

武州千住 冨嶽三十六景と千住|足立区 (city.adachi.tokyo.jp)

隅田川関屋の里 冨嶽三十六景|足立区 (city.adachi.tokyo.jp)

さらに富士塚のある神社が三つあります。大川町氷川神社千住神社は登ることができます。柳原稲荷神社の富士塚は通常非公開です。

特に見学したかった「千住宿歴史プチテラス」はお休みでした。地漉紙問屋・横山家の内蔵(土蔵)を移築して歴史展示館となっています。

土日に開館していることが多いようですが、あくまでも参考です。

千住のやっちゃ場だけに投師(なげし)と呼ばれる店を持たない商人がいました。仲買人の店先を借りてセリに参加して、大八車で東京市内の全市場へ駆けつけて売りさばきます。昭和初期には150人くらいいたそうですが、一人一台とは限らず、四、五百台の大八車が朝明けないうちからガラガラ音を立て、手ブラ提灯の光とともに天の川のようだったそうです。

昭和20年4月の空襲で焼け幕を閉じますが、その子孫が築地や北足立などの市場で仲買商として脈々とつながっているということです。

凄い光景だったでしょうね。映像とかで残っていないのでしょうかね。

さらに千住には日本に一つしかない長ネギ専門の卸売市場があるそうです。「千寿ねぎ」は薬味にするとぴりっと辛く香りよしで、煮ると甘いとのことです。

千住宿奥の細道プチテラス」。

矢立初めの芭蕉像」。矢立て初の句「行く春や鳥啼き魚にの目に泪」を書きとめているのでしょう。芭蕉さんの足元の敷石はやっちゃ場に敷かれていた御影石とのことです。

千住大橋が見えてきました。

千住公園にある「奥の細道矢立て初めの地碑」。

ここで北斎さんの「従千住花街眺望ノ不二」の碑にお目にかかれました。

この近くに「石洞美術館」がありました。二回ほど行っていますが、美術館に行ってもどるという行動でしたので、千住大橋に近かったのだとはいやはや驚きです。大千住マップ、ありがとう。

ではこの辺りで小休憩です。距離的に短いのによく休憩があります。

北千住駅前のマルイ10階には千住宿の模型があるそうで、灯台下暗しでした。北千住は飲食店も多いのにそちらには全然貢献していません。古い建物の板倉家は人が中にいまして和食やさんとなったようです。そうした古い建物の利用も盛んのようで、次の機会には入ったつもりではなく、味わいましたとなりたいものです。

日光街道千住宿から回向院へ(2)

どうして甲府に飛ぶかと言いますと、千葉佐那さんのお墓が甲府にあるのです。千葉佐那さんは、北辰一刀流の開祖・千葉周作の弟・千葉定吉の娘として生まれ、剣術の腕は確かなようです。この佐那さんのことを知ったのは、太宰治さん関係の甲府市小冊子からでした。

甲府市朝日町は太宰治さんが新婚時代に住んだところです。結婚前には佐那さんのお墓のある清運寺のすぐそばの下宿・寿館に住んでいました。散歩好きの太宰がおそらく佐那さんのお墓のあることは知らずに散歩で寄ったであろうということでした。ここに佐那さんは眠っているのです。

山梨県立文学館に再訪したときさらに教えてくれたのが、坂本龍馬と佐那さんの生き方の小冊子でした。これらは甲府市の「つなぐNPO まちミューガイドブック」です。

薄くて中には表紙のような絵が描かれてあってきちんと調べていますが親しみやすい内容です。太宰さんのことから千葉佐那さんを知りました。

文学館が企画しているものもあり手元に10冊ほどありますが調べたら興味惹かれるものがまだまだ沢山あるようです。さらに改定されてもいるようです。

龍馬が剣術修行に江戸に出てきて定吉の千葉道場に通うのです。龍馬18歳、佐那さん16歳の時です。龍馬も姉・乙女に手紙で佐那さんのことを書いていますから、ほのかな恋心はおたがいにあったようです。ただ佐那さんのほうは、後に小説や新聞記事で龍馬の許嫁としてしられるようになりました。佐那さんもそう思っていたようです。

龍馬との関係があろうとなかろうと佐那さんの生き方は素晴らしいと思います。有名な千葉一門に生まれながら明治維新はそのブランドは何の価値もなくなったわけです。

その後佐那さんは学習院女子部の舎監を務めたこともあります。千葉家には千葉周作が水戸藩に仕えていた時、水戸斉昭からおそわったという灸の施術があり、千葉家が開いた千葉灸治院での仕事で佐那さんは生計を立てていたのです。

明治維新によって価値観が変わり生活が全く一変した女性は沢山いました。佐那さんはそうしたなかで自立の道を切り開いたのです。龍馬との関係で名前が知られようと知られまいと立派に時代を生きぬいた一女性としても魅力的な人だったとおもいます。

なぜ甲府にお墓があるかです。千葉灸治院には板垣退助も治療をうけにきました。甲州の自由民権運動家・小田切謙明は脳卒中の後遺症に悩み、千住まできたのです。その後佐那は甲府まで治療に行き、謙明の妻・豊治とも交流がありました。

ある日、豊治さんは谷中にある佐那さんの墓地を訪れましたが、お参りにきている人もないようで無縁仏になってはと、分骨してもらい小田切家の墓所に埋葬したそうです。ご主人の墓の一角に、佐那さんのお墓を建てました。その時、「千葉さな子墓」とし、裏に「坂本龍馬室」とあり、「室」は妻を意味します。豊治さんは佐那さんの想いを大切にして上げたのかもしれません。谷中墓地のお墓はその後わからなくなったようです。

今では剣道大会に「千葉さな子杯」が甲府で開かれているということで、佐那さんの魅力アップです。

というわけで甲府へ飛びましたが、千住での佐那さんが仕事をして暮らしていた町の様子が少し見えたようでつながって安心しました。

もう一つ明治に入って仕事を変えた人々がいました。市川市行徳へ飛びます。かつて仏師だった人々が、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、仏師の仕事がなくなり、御神輿(おみこし)を制作するようになりました。すでに廃業されていますが行徳にある旧浅子神輿店の店舗兼主屋は、行徳ふれあい伝承館として中を見学することができます。ボランティアのかたが解説してくれまして心おどりました。

このことは「塩の道」で書こうと思っていたのですがなかなかやりはじめませんのでここで少し記しておきます。これから行きます千住宿の千住大橋を渡った南千住にあります素盞雄神社 (すさのおじんじゃ)が浅子神輿店が最初に納めた御神輿なんだそうです。

それを聞いて素盞雄神社に親近感を覚えたのですが、河原稲荷神社にあります千貫神輿にも惹きつけられます。どこでどなたが作られた御神輿なのでしょうか。作る人や神輿店によって特色があるようですが、依頼主の好みということもあるようです。

もともとは御神輿つくりを専門にしている家はなく、それぞれの専門の職人さんが御神輿を頼まれると同時に神輿のために自分たちの専門部分の仕事をして、それを組み立てていったのだそうです。そのため、専門の神輿屋となっても職人さんたちは同時進行で仕事をしていたそうです。きちんと組み合わせられるという自信ある技術を身につけていたわけです。神輿店ができたのは明治に入ってからです。

行徳では、中台製作所さんが神輿店を続けているようで、神輿ミュージアムとして日曜日見学できるということでしたがこの時期ですのでどうでしょうか。日曜日ではなかったのでお邪魔しませんでした。

行徳ふれあい伝承館で行徳のことなども結構時間をかけてお話してもらいました。塩の町からどう変わってきたのかなども。また違う日に来ると違う人から違う話が聞けますよと言われていました。今年の7月頃には地元の人たちによる行徳の本ができるということでした。どんな本か楽しみです。

では千住宿に戻ってまた歩き始めます。

追記: 浅子神輿店では富岡八幡宮にも納めていて、この神輿は神輿庫に収まっていて見れるようです。鳳凰の翼が左右に大きくひろげられているのが浅子神輿店の特色なのだそうです。ミニチュアと違って迫力ある翼です。

日本一の黄金大神輿 (tomiokahachimangu.or.jp)

日光街道千住宿から回向院へ(1)

日光街道千住宿 日光街道千住宿 からの続きです。歌舞伎座観劇の後、日比谷線でむかいました。今回は、日本橋に向かうという反対方向に進んでいます。

先ず、まん延防止が解除されましたので、観光案内所が開いていてパンフレットと「千住宿 歴史ウォ―ク」のガイドブックをゲット。ガイドブックの内容を少し紹介しますと「名倉医院」は江戸時代の明和期から「骨接ぎ名倉」として開院。大正時代には一日630人の患者が来院した記録があり、患者のための治療兼宿屋が五軒あった時もあります。宿屋の主人が医師や接骨師なわけです。戦後、法が変わりこのような形は廃止されました。

千住街の駅はお休み処とありますが、中は狭く、外の几帳で休むのが好いかとおもいます。

千住宿本陣跡碑。商店街にあるためか小さいいのでよく見て探さないと見逃します。一回目は見逃がしました。

黄色の矢印から本町商店街になります。前回より人出が多く自転車の人が多いです。

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では進みます。

金蔵寺。解説版によりますと、本尊は閻魔大王様です。ここには天保の大飢饉の餓死者の供養塔と、千住宿で亡くなった遊女の戒名を刻んだ供養塔があります。千住宿に本陣、脇本陣の他に55軒の旅籠があり、そのうち食売旅籠(遊女屋)が36軒ありました。

赤門寺勝専寺にも閻魔大王様が鎮座してまして、こちらは1月と7月に閻魔開きがありお姿が拝見できるようです。

橘井堂森医院跡(森鷗外旧居跡)。手の込んだモニュメントがあります。周囲には鷗外の小説に出てくる植物が植えられています。ここでの鷗外の様子は短編小説『カズイスチカ』(臨床記録の意)に書かれています。「鷗外」という号は、現隅田川の白髭橋付近にあった「鷗の渡しに外」という意味で、林太郎が住んでいた千住を意味していますとありまして初耳です。

千住中居町公園には大正時代に建てられた鷗外の大正記念碑があります。鷗外がこの碑のために依頼されて書かれた文が刻まれているようです。

問屋場(といやば)・貫目改所(かんめあらためしょ)

チェンソーで彫られた芭蕉像がありました。材質は鹿沼の杉で、足立区と鹿沼市は友好都市だそうです。木のまち鹿沼も芭蕉さんの紹介には熱心です。

鹿沼市の屋台のまち中央公園にある掬翠園(きくすいえん)の芭蕉像。

一里塚跡高札場跡

屋号が記されています。この辺りは青物市場(やっちゃ場)の問屋の並んでいた場所です。

昭和5年千住市場問屋配置図。黄色丸が屋号の問屋の位置と合致。

途中で「是より西へ大師道」の道しるべがありました。西新井大師への道です。

道しるべの上に河原稲荷神社の案内が書かれています。千貫神輿、神道厨子、区内最大の狛犬は浅草神社と同じ作者とあります。河原稲荷神社やっちゃ場の鎮守とされています。

河原稲荷神社の近くに千葉灸治院跡があるようです。後になって知りました。坂本龍馬の婚約者とも言われている千葉佐那さんが施術をして生計を立てていたのです。佐那さんについては甲府まで飛びますので、一時ここで休憩です。

歌舞伎座3月『新・三国志 関羽篇』(2)

アニメ『三国志 三部作』を観て、あらすじは把握しておきました。劉備が戦いのためにほんろうされる民を苦しさから救うにはどうしたらよいかと考えます。戦さを終わらせ民が安心して住める国を作ることだと思いいたるのです。同じ志を抱く関羽と張飛に巡り合い、義兄弟となり、生まれた日は違うが、同じ年、同じ月、同じ日に共に死のうと桃の木の下で誓います。

諸葛孔明という軍師が、魏は曹操、呉は孫権、蜀を劉備が治めて均衡を保つのが好いといいます。その足がかりとなったのが荊州でした。戦いの間には関羽が曹操に捕えられます。曹操は関羽を気に入り自分のもとに置きたいし殺したくないとおもっていました。関羽は手柄をたてたら劉備のところに戻るという条件を出しました。受けいれられます。関羽は命を惜しんだのではなく、劉備と張飛との同じ時に亡くなるという約束をまもりたかったのです。

関羽は曹操の許可を得ず黙って去ります。

このことによって、後に曹操が窮地におちいり、関羽が曹操の命を奪える時、関羽は曹操を逃がすことになるのです。

ただ戦さが進んでいけばいくほど観ている方はむなしくなっていくのです。劉備も関羽も張飛も民のために戦っているはずなのに、それぞれの国のおもわくは裏切りや策略や領土を広げる暗躍が入り混じるのです。猿翁さんはおそらくこの虚しさを違う方向に持っていけないかと考えられたのではないでしょうか。戦さの無い世界への夢を劉備を女性にして託すということによって展開させられたのでしょう。そんな風におもえました。

スーパー歌舞伎の時は『三国志』の流れを知りませんで、そのスペクタクルな舞台に圧倒されてそこで止まっていました。劉備が女であるということが話題でもあったようですが、ロマンス物語にしたのかなという感覚でした。

今回は『三国志』そのままでいったら虚しさか英雄を讃えて終わりになったかもしれないと納得できました。

新・三国志』では、劉備の民の国のためにの夢をともに共有する証として関羽は荊州にとり残された民と引き換えに自分の身を投じるのです。

三国の衣装を色分けして、それぞれの国内での話の時には上手に国の名前を映し出し、わかりやすくしていました。は赤の衣装、は紫色の衣装、は青の衣装。衣装が豪華ですからその国の色に染まり、対峙するときにも鮮やかに区分けされましたので、心置きなく台詞を堪能できました。

主な登場人物は、が関羽、劉備、張飛、軍師・孔明、養子・関平(團子)、黄忠(石橋正次)。が曹操(浅野和之)、軍師・司馬懿(笑三郎)、医師・華陀(寿猿)、が孫権(福之助)、義母・呉国太(門之助)、妹・香渓(尾上右近)、軍師・陸遜(猿弥)です。

劉備は実は玉蘭という女性で、笑也さんは、女形でありさらに男性に成り代わるという難しい役どころですが、境目がなく劉備になったり玉蘭になったりされていました。劉備、関羽、張飛との「桃園の誓い」で、三人が並びよい形になるとき真ん中で短い右袖をくるくると回してきっとして坐るところは決まっていて、思わず玉蘭も垣間見えたようにおもわせられました。

張飛は特に関羽を兄貴と呼び慕っていて一本気であるが憎めないところのある人物です。その可笑しみを中車さんは呉の香渓の右近さんと一戦交えたり、呉の軍師・陸遜の猿弥さんが劉備は女ではないかと疑って張飛に探りを入れるときなど、事実を隠そうとする様子が緊張感を解きほぐして可笑しみに変えられていました。

中車さんは、最初に天下争いの時代の説明を、役者さんの動きに活弁士のように解説する役もありまして、弁舌さわやかにやられていました。役者さんのパントマイムが笑わせてくれました。

曹操は関羽の男気が気に入っていて、それを甘いと思っているのが軍師・司馬懿です。曹操の浅野和之はもうおなじみで、関羽の猿之助さんとのやりとりにもそれぞれの想いを伝えあうセリフに息があっています。そこへ水を差すのが笑三郎さんの軍師・司馬懿。悪役に近いのですが怪しさの雰囲気をもかもし出し、『ナルト』のオロチマル以来の変身ぶりでした。これを押さえるだけの貫禄が体の細い浅野さんの曹操にはありました。

曹操は病気を患っていて、医師・華陀の寿猿さんにいつまでの命かと尋ねると寿猿さんは一年と答えます。情報が漏れてはいけないと、曹操は医師を殺してしまします。寿猿さん刺されて階段を上っていきます。大丈夫かなどう倒れるのであろうかと思っていましたら、ふわっと倒れられました。その倒れ方が綺麗だったのには驚きました。それに負けじと黄忠の石橋正次さんも意気盛んな老武将でした。

呉の国の孫権の福之助さんがさっそうと威厳もある若きリーダーとして舞台を大きくしました。堂々とした義母の門之助さんの呉国太は、そんな息子のため、呉を揺るぎない国とするため、香渓を劉備のもとに嫁がせることに賛成します。ところが後に娘は思いがけずその命を絶ってしまい深い悲しみを表します。

誇りだけは捨てずに劉備に嫁いだ香渓の右近さんは気の強さを表しつつも動きは優美で、さらに劉備の夢を共有したあとの真実を隠しつつの変化もよかったです。このあたりの笑也さんと右近さんの女形としては難易度の高い部分であり、女形の魅力を大いに伝えてくれました。

関羽の養子である関平の團子さんはは凛々しい姿をみせてくれました。セリフが気に入りました。勇ましいセリフだと「何々だ」で力強くおさめればいいのでしょうが、関羽が死を覚悟である状況に対する気持ちを表すため、語尾が静かに細くなっていき、それでいながらその音がきちんと歌舞伎座に広がりました。かなり研究されたのではないでしょうか。

そして、軍師・孔明の青虎さんの「天下三分の計」に始まり、それぞれの軍師の重要な役割のポイントが押さえられていて国というものをしらしめていました。

関羽は関平や部下たちとの最後の別れに好きな女性の名前を打ち明け合います。関羽は玉蘭の名前をあげます。だれも知らない名前です。そして最後はにぎやかに笑いとなりますが、次第に関羽の猿之助さんの泣き笑いの声が響き渡ります。歌舞伎独特の笑いです。そうした古典の手法も入れつつ『新・三国志』は展開されました。

少ない立廻りの動きもよかったです。他の武将たちもセリフは少ないですが歌舞伎の言い回しが身についていますので場を押さえてくれます。

関羽篇だけあって曹操にも玉蘭にも張飛にも関平にも部下たちにも愛されるという一人勝ちの感もある魅力的な猿之助さんの関羽でした。

この後にあのスペクタクルなスーパー歌舞伎『新・三国志』を観れたなら深い意味とわくわく感が相まって魅了されるであろうと夢見る次第です。

追記: 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(13回)に大笑い。テレビドラマ『風雲児たち〜蘭学革命(れぼりゅうし)篇〜』で愛之助さんの前野良沢の真面目さに無事対応した杉田玄白の新納慎也さん、今度は阿野全成の隣に猿之助さんの得体のしれない文覚が居座りました。笑うしかないです。そして木曽義仲の息子・義高の染五郎さんが美しく登場。これからの悲劇性にはまりすぎです。悲喜劇満さいです。

歌舞伎座3月『新・三国志 関羽篇』(1)

歌舞伎『新・三国志 項羽篇』のポスターが気に入りどうしようかなと思っていましたらクリアファイルがありましたので一応手元とに置いておくことにしました。皆さん一人一人の気力みなぎる充実感と緊張感が広がり、千穐楽で解放感があるのかなとおもいましたらそんな気分のゆるみなど無い舞台でした。

『三国志』は壮大な物語ですが、条件が制限されるためセリフ劇となりましたが、それがかえって何十年後かの再演ということによって役者さんたちにとって新たな挑戦の場となったのではないでしょうか。

スーパー歌舞伎『新・三国志』は、新橋演舞場での1999年と2000年の上演の時、両方見たのかどうか記憶にないのです。中国の京劇俳優さんも参加しての立廻り、大掛かりな戦いの舞台装置、本水の使用、音楽は加藤和彦さんによる全面的洋楽の使用と、そして関羽の宙乗りと、あれよあれよの驚きと感動の舞台でした。衣装がまたすごかったですしね。今回音楽を耳にしてもこれだったという感覚がないのです。今回改めて細やかに変化にとんだ入れ方をしているなと思いました。

今回のほうが舞台装置の簡略化とかもあり目よりも耳が敏感になっていて、さらに一人一人の役どころにも冷静に目が行きました。

その中の二点だけ感想を記します。よき軍師を求めて、関羽(猿之助)と劉備(笑也)と張飛(中車)が諸葛孔明(青虎)の住まいを訪ねます。舞台の背景が竹でした。竹に虎。憎いですね。市川弘太郎さん改め二代目市川青虎さんの襲名にふさわしい舞台装置でした。家の中も竹の棚。背景の何本も伸びる太い竹を見たとき、竹の間から姿をあらわしている大きな青い虎の絵を勝手に描いていました。想像の絵ですから格好いい虎が描けました。

関羽が孔明に向かって「青い虎となって駆け巡ろう」というようなことを言うのです。この場面は忘れないでしょう。襲名の口上はどれがどれだかわからなくなりますが、これは記憶に残ります。上手くはめ込まれましたね。これを考えた人こそカブキモノの軍師かも。それにしてもおめでたいことです。

もう一つは宙乗りですが、舞台の背景がこれまた美しいのです。飛び立つ関羽の姿と舞台の桃の咲き誇る風景をかわるがわる眺めて合成して楽しませてもらいました。ただ桃の花びらが大量に舞い散りますので、実際の背景となるお客様が邪魔にはなりませんでした。白い衣装のマントを翻して消えていく関羽の猿之助さん夢をまき散らして去りました。

その他のことは続きとしておきます。

追記 1999年のフライヤー。

2000年のフライヤー。

1999年と2000年のフライヤーがありましたが2000年のほうが折れ線があり、観劇の時持ち歩いたものとおもわれます。やはり観劇したのは2000年のほうでしょう。

日光街道千住宿

北千住駅は多数の路線の電車が止まる駅です。それでいながらこの駅で乗り換えはしても降りるということのなかった駅でした。東京メトロの千代田線日比谷線、JR東日本の常磐線東武伊勢崎線

商店街が元気なのには驚きました。千住宿日光街道から奥州街道へもつながる最初の宿場でもありさらにここから水戸街道佐倉街道(成田)、下妻街道にもわかれるのです。旧日光街道の通りとぶつかる駅前商店街もあって昨今の商店街の状況から考えると元気な商店街と思えました。

通りの多くの狭い路地には家がひしめき合って下町の生活も残っています。全て開発されて無味乾燥でないのがいいです。

宿場町通りにある千住街の駅は観光案内所を兼ねたお休み処ですが、まん延防止中とあって閉まっていました。ここで案内地図を手に入れるつもりでしたが残念。100年前に建てられた魚屋さんを利用しているそうです。

旧日光街道の宿場通り商店街

公園に陶板の案内がありました。

右が隅田川で左が荒川ですがこの荒川は昭和初期にできたもので江戸時代にはありません。真ん中の黒い線が旧日光街道です。赤丸は北千住駅で青丸が京成線の千住大橋駅です。隅田川に架かっているのが隅田川に一番最初に架けられた橋の千住大橋です。ここから芭蕉さんは「奥の細道」の旅に出発しました。そして徳川慶喜さんはこの宿から水戸にもどられたのです。今回は荒川のほうに向かいました。

再生紙を取り扱う地漉紙(じずきかみ)問屋である横山家住宅があります。江戸時代後期の建物で、戸口が街道から一段下がっていて、下で上からの客を迎えるということです。

屋号が松屋で、外蔵が2棟、内蔵、紙蔵、米蔵と5つの蔵がありました。今は外蔵1棟が残っています。外観のみの見学です。

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横山家の前にあるのが千住絵馬屋・吉田屋です。

吉田家は江戸中期から代々絵馬を描き、地口行灯(じくちあんどん)や凧なども描いてきた際物問屋(きわものとんや)です。千住絵馬の特徴は、縁取りした経木(きょうぎ)に胡粉(ごふん)を塗り、極彩色の泥絵の具で家伝の図柄を描く小絵馬で、その種類は三十数種類あります。こちらも外観のみ。

日光街道と水戸街道・佐倉街道の追分

日光街道と下妻海道の追分

江戸時代から接骨院をしている名倉医院。平屋木造建築で現在も診療をしています。

名倉医院から旧日光街道から一本線路側の道を引き返しました。

氷川神社めやみ地蔵尊長圓寺長円寺など寺社が並んでいます。

駅前までもどりそれからは適当に散策。駅前商店街には大橋眼科の素敵な洋館が。

赤門寺(あかもんでら)で親しまれる三宮神山大鷲院勝専寺(さんぐうじんざんだいしゅういんしょうせんじ)。京都の知恩院を本山とする浄土宗寺院。日光道中が整備されるとここに徳川家の御殿が造営され、秀忠、家光、家綱らの利用がありました。

鐘楼、法然上人御詠歌碑(月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ)

旧日光街道を南に千住大橋のほうに進むと、森鴎外旧居跡があります。鴎外の父が橘井堂(きっせいどう)医院を開業した場所で、鴎外がドイツに留学するまでの三年間を過ごした家です。江戸時代の旅の痕跡もあります。千住宿問屋場貫目改所跡高札場跡一里塚跡。勝専寺までは行きましたがここからは歩いていないのです。

千住大橋を渡りさらに南に進み、コツ通りに入り進むと小塚原回向院(こつかっぱらえこういん)があり常磐線を渡った先には小塚刑場跡があります。常磐線南千住駅からが近いです。

医学書『ターヘル・アナトミア』を手に杉田玄白さんと前野良沢さんが腑分け(解剖)の見学に来た場所です。

三谷幸喜さん脚本のテレビドラマ『風雲児たち〜蘭学革命(れぼりゅうし)篇〜』(原作・みなもと太郎)は面白かったです。『ひらけ蘭学のとびら 「解体新書」をつくった杉田玄白と蘭方医たち』(鳴海風・著)を読んでいたので、杉田玄白さんが全然語学がダメで、前野良沢さんが訳語にきびしく、こんな翻訳では出版などできないと言ったのを知っていましたので誇張ではなくこんな風の中で頑張っていたのだろうなあと共感できました。

凄いですよね。訳にこだわったことで、神経などの言葉が今も使われているのですから。

旧日光街道の千住宿は半分しか歩いていませんが、千住大橋は両国から隅田川テラスを歩き千住大橋までたどりつき帰りましたので、そこにある千住宿半分を短時間で散策できたのは予定外の収穫でした。

まだまだ歩くところが膨大にあって、前野良沢さんの真面目さと、杉田玄白さんの今の医学のためにの信念を少しお借りして、楽観的なおおまかさで少しづつ進むことにします。

追記: 落語の『三十石』でお客が船に乗り込むとき、若い娘の売り子が「おちりにあんぽんたんににしのとういんがみいらんかね~」と声をはりあげます。人の顔見てあんぽんたんとは失礼なというと、もう一人の仲間がおちりはチリ紙におをつけて、あんぽんたんはあげたお菓子に砂糖をまぶしたもので、西の洞院紙は再生した紙だと説明します。西の洞院紙は関東でいうなら浅草紙のことと付け加えることもあります。千住の横山家は浅草紙の問屋だったのでしょう。再生紙は浅草で作られていたのが足立や千住に移ったと言われています。 

追記2: 上記写真の目やみ地蔵堂の両脇に奉納されている絵馬は絵馬屋吉田家の絵馬だそうです。残念なことにそこまで見ませんでした。

2022年4月5日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)