『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(2)

映画『天国と地獄』では、無事もどった進一少年の思い出して描いた絵から、監禁されていた場所が藤沢から鎌倉の間と限定し、犯人の電話の中に電車の走る音を発見します。走る電車は国鉄、小田急線、江の島電鉄です。鉄道関係者により録音された電車の走行音が江ノ電であることがわかります。

誘拐した時に使った車が発見され、その車に魚を洗ったような水たまりを走ったようなものが付着しているというのです。漁港があるのは<腰越>だけということになり捜査の手は<腰越>まで進みます。

漁港から江の島が見えます。しかし、進一少年の絵には島ではなく陸続きになっています。漁港の人が、後ろの小動岬(こゆるぎみさき)と江の島が、もう少し後方の高い所から見ると重なって陸とつながってみえるというのです。

刑事たちが車で進んで行くと、権藤家の車が見つかります。運転手は息子を乗せて息子の記憶から監禁場所を探していたのです。危険なことはするなと刑事は注意しますが、進一少年は監禁された場所を探しあてます。しかし共犯者は殺されていました。そこから見ると、江の島と小動岬が重なり江の島は陸続きになっていました。

姿を出さなかった犯人である竹内銀次郎の山﨑努さんも登場し、逮捕し身代金を取り戻すべき捜査陣の包囲網が次第にせばまってきます。

さて江ノ電は藤沢、石上、柳小路、鵠沼、湘南海岸公園、江の島、腰越となり、<江の島>と<腰越>間は道路中央を走る路面電車となるところでもあります。腰越駅はホームが短く一両目はドアが開かないとの放送があり、途中の駅でホームを降りて二両目に乗り替えました。混んでいて車内の移動は無理です。土曜日に行ったのが間違いでした。外の景色も乗客で見えません。

江ノ電には何回か乗っていますが、今回は特に外の景色に注目でしたが、またの機会にします。

無事、腰越駅に降りられました。<生シラスあります>の表示に、やはり生シラス丼でしょうと食事をしてから、<満福寺>へ。このお寺のすぐそばを江ノ電が走っていまして、お寺に上がる石段から江ノ電の通る姿を見ることができます。今までの旅の中でお寺と走る電車の近いのはここが一番と思います。

 

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東海道本線の興津にある清見寺は、敷地内を線路が通っていて階段の途中に踏切があるというお寺でしたが、線路から本堂までは距離がありました。

平家物語』で義経は壇の浦で捕えた平宗盛父子を連れて鎌倉にやってくるのですが、頼朝は会ってくれず<腰越>にとどめられる鎌倉には入れてもらえません。そこで、義経は自分の胸の内を書状にしたため大江広元へ送ります。これが「腰越状」といわれるものです。

しかし、兄頼朝の勘気は解けず逢う事叶わず、平宗盛父子を連れて再び京を目指すのです。

満福寺>の案内によりますと、このお寺は、天平16年(744年)に聖武天皇の勅命で行基が建立したと伝えられ、義経がここを宿とし、「腰越状」は義経の心を汲んで弁慶が下書きされたとしています。この「腰越状」は、『吾妻鑑』『義経記』『平家物語』など文字に表される前から語られていたようです。

 

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判官びいきは、この「腰越状」の文も大きな役割を担っているのかも知れません。

お寺には弁慶ゆかりのものもあり、鎌倉彫の襖絵もあります。江ノ電の紹介記事がおいてあり、それによりますと<腰越駅>は4両編成の電車だと鎌倉方面の一両がホームからはみ出してしまい、こういう駅を電車愛好家は「はみ電」の駅と呼ぶそうです。駅名板が鎌倉彫だそうですが見落としました。

そしてなんと、太宰治さんが1930年(昭和5年)に心中を図り、彼だけ命を取り留めた場所が小動岬と書いてあり驚いてしまいました。漠然と鎌倉の海岸でと思っていて詳しく探索もしませんでしたが、ここだったのです。思いがけないことをしりました。

満福寺>には「義経庵」という茶房があってしらす料理が食べられるようです。残念食べたあとでした。お寺脇のトンネルを抜け、そこからお墓のある高台へあがっていくと、テラスのようになったところがあり、そこから見ると、江の島とすぐ近くの小動岬が重なるのがわかります。しかし、江の島は島に見えますから、もっと鎌倉寄りの高台だと進一少年の観た風景になるのでしょう。

映画『天国と地獄』の脚本は黒澤明さん、菊島隆三さん、久板栄二郎さん、小国英雄さんの四人の名前があり、凄いことを組み合わされて書かれたものだとおもいます。

こちらは『平家物語』から太宰治さんまでも繋がってしまいました。さてつぎは、小動岬です。岬といっても樹木に覆われた小さな岬です。

 

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(1)

腰越>は、『平家物語』にも出てきまして、歌舞伎にも『義経腰越状』という作品があり気になっている場所ではあったのですが、<腰越>一箇所ではと思い組み合わせ場所を探さなければと考えていたのです。ただ歌舞伎の場合、現在上演されている部分は<腰越状>とはあまり関係ないのです。

ところが、黒澤明監督の映画『天国と地獄』を見直していましたら、<腰越>が出てきました。それではと、観光も兼ねて江ノ電腰越駅へと出かけることにしました。

映画『天国と地獄』は、誘拐犯と警察の攻防で、誘拐された子供が会社重役の子供ではなくそこの家のお抱え運転手の子供で、身代金を要求された重役は、苦悩のすえ身代金を払うのです。重役は、靴職人の見習工からのし上がった靴製造メーカーの常務である権藤金吾で、お金をかき集め自分が会社のトップになれるという時に身代金3000万円を要求されるのです。

犯人の要求通り、身代金の入っている鞄を特急の「第二こだま」から酒匂川(さかわがわ)の土手へ投げ落とし無事、子供は取り返すことができました。この場面までが、権藤の人生が大きく変わる起点でもあり、ここからが警察の捜査陣と犯人との闘いとなるのです。

身代金を投げ落とす場所が酒匂川に架かる鉄橋からで、この場面に関して新聞の映画記事になったこともあり興味深い場所でもありました。旧東海道を歩いた時に国道1号線の酒匂橋を渡り歩きました。鉄橋の位置からする東海道は駿河湾に近い位置にあり、権藤が警察の車で誘拐された進一のもとに訪れる時後方に映っているのが酒匂橋です。今は酒匂橋と東海道本線との間に小田原大橋ができています。そして、東海道本線の横には東海道新幹線が走っているのです。

映画『天国と地獄』は、1963年公開で、初の電車特急「こだま」が運行したのが1958年、東海道新幹線が開業したのが1964年ですから、特急こだまの前面部分と内部を見れる貴重な映画ともいえます。

黒澤監督の助手であった野上照代さんの話しによると、本物の「こだま」を編成ごと借り切っての撮影で、犯人からの電話が「こだま」の電話室にかかります。電車は国府津駅を通過したところで、次の鴨宮駅が左にカーブした土手に進一がいるから顔を確かめて鉄橋を渡ったらお金の入った鞄を洗面所の窓から投げろとの指示なのです。

同乗して車内を警戒していた警察もその時点で初めて知るわけで、それぞれが、映写のため車内を走り位置につきます。犯人があと2、3分で鉄橋にさしかかると言っていまして、その間に行動するわけです。映画ですから、台詞をいいつつきちんと演じなければなりません。車内場面だけでも、3カ月リハーサルをしたそうです。

進一の顔を確かめて鞄を投げる権藤の姿は、戸倉警部が権藤という人物を全面的に信頼する場面でもあるとおもいます。そして犯人に憎悪を燃やします。権藤はお金がなくなり、これで、会社から追い出される人間になったのです。権藤金吾が三船敏郎さんで戸倉警部が仲代達矢さんです。三船さんの鞄を投げたあとの緊張感のゆるみが、演じ切ったというところでしょうが、そのまま権藤が進一の姿を確認でき犯人の言う通りに出来たという安堵感と重なって観ているほうの臨場感もたかまります。

警察役が映写していると同時にその姿を映画スタッフも撮影しているわけですから、その時の動く外の風景そのままなのです。橋を渡る時間は1分位です。

先ず東海道線の在来線で酒匂川の確認です。鴨宮駅から小田原駅まで車中のドアから見ましたが、ガラス部分の丁度顔あたりに広告が貼ってあり、変な格好で酒匂川をみることとなり、小田原から鴨宮にもどるときは、対向電車とすれ違いよくわからず、再度、鴨宮から小田原へ向かいもどり二往復しましたが、風景が変わっていてよくわかりませんでした。ただ、在来線の電車でも短い時間ですから、「こだま」の速さにすると、本当に緊張するとおもいます。今の在来線で鴨宮から小田原まで3分です。前の1分が川を渡る時間と考えていいでしょう。

土手に進一と共犯者が立っている場面は、実際にはその前に二階建ての家があり二人の姿が「こだま」から見えないため二階部分を壊してもらい、その日の内に大工さんを連れて行き元にもどしたそうです。映画で、屋根の部分の木材が格子のように見える家がありますが、それのような気がします。

権藤と警察は横浜から「こだま2号」に乗ったでしょうが、横浜15時41分に出発して小田原を通過して熱海到着が16時37分です。熱海まで警察は動けません。「はと」ですと横浜を13時22分に出て、小田原に14時01分に着き、熱海に停まらず沼津までいきます。小田原で停まられては逃走する時間ががないので都合が悪いのです。なぜ「こだま」に乗るように指示したかがわかります。20分位は時間稼ぎができます。

いかに頭の働く犯人かということがわかります。ここから警察と犯人の攻防戦となるわけです。

さてこちらの旅は、藤沢駅にて江ノ電に乗り換え腰越駅へと向かったのです。

 

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

歌舞伎座6月歌舞伎『浮世風呂』『一本刀土俵入』

浮世風呂』は澤瀉十種の一つです。猿翁さんが猿之助時代に書かれた『猿之助の歌舞伎講座』の澤瀉十種のところを読み返してみました。「猿翁十種」が『二人三番叟』『酔奴』『小鍛冶』『吉野山』『黒塚』『高野物狂』『悪太郎』『蚤取男』『独楽』『花見奴』で、「澤瀉十種」が『二人知盛』『猪八戒(ちょはっかい)』『隅田川』『夕顔棚』『檜垣(ひがき)』『武悪』『三人片輪』『浮世風呂』『連獅子』『釣狐』で、自分が選んだと書かれています。

猿翁さんは、祖父である初代猿翁さんの踊りをさらに工夫して『浮世風呂』に関しては、曲は長唄で、最初風呂屋の前を大勢の人が通る群舞があったのをとってしまい、長唄を常磐津にかえ、木村富子さんの原作にある、小唄、端唄、民謡が入る部分を初代が省いていたのを復活させたとあります。

この小唄、端唄、民謡部分は現猿之助さんの見せ場ともなり、音楽的にも楽しい場面でもあり、初代さんの踊りがどんなであったかはわかりませんが、猿翁さんの工夫の『浮世風呂』は、身体の舞踊性もあり楽しく、踊り手四代目猿之助さんの上手さをも引き出させています。

風呂屋の三助が仕事の合い間に踊るという趣向で、ナメクジが出てくるというのも可笑し味がありますが、ナメクジの種之助さんがそばに寄られると嬉しいような、いやいややはりナメクジであるからと思わせる好い雰囲気で、新たな愛嬌のあるコンビを楽しませてくれました。そして、猿之助さんの踊りを存分に味わわせてもらえました。

一本刀土俵入』も茂兵衛の幸四郎さんとお蔦の猿之助さんは、少し差が出過ぎてギクシャクするのではと思ったのですが、そんな心配はありませんでした。茂兵衛が、お蔦を美しいと思い、あばずれだと船戸弥七の猿弥さんがいうと、そんなことは無いとムキになって言い返す茂兵衛の言葉が映えるお蔦さんでした。

夫を死んだと思っても女の細腕で娘・お君(市川右近)を育てる生一本のところもあるのですから、一時の生活苦からくる自棄な部分の中に、お蔦の本質は見えていたともいえます。有り金から櫛、簪までくれた恩からくる美しさだけではないお蔦を茂兵衛は心の中に刻んだのだなというおもいにかられました。そう思わせる猿之助さんのお蔦でした。

そして十年。お腹を空かした取的の茂兵衛は渡世人なっていました。取的の情けない可笑しさから一匹狼の風を切る渡世人の違いを幸四郎さんは、すぱっとすっきりとみせてくれます。

長く音沙汰のなかったお蔦の夫・辰三郎の松緑さんがいかさま博打をやって追われてお蔦のもとに帰ってきます。そんな中でもしっかりしているお蔦。後悔しつつもお蔦とお君との再会に心震わす辰三郎。この親子の関係が情ある場面となっているので、お蔦が逃がしてくれる茂兵衛に何度も頭を下げるのが実をもっての茂兵衛への土俵入の花向けとなります。

茂兵衛がお蔦を探しあてるのが、お蔦の歌った越中小原節を娘のお君が父の辰三郎に聞かせるのを耳にしてというのも上手くつながっている作品です。

そこに、その土地を仕切る任侠の歌六さん、松也さん、猿弥さん、船頭の錦五さん、巳之助、船大工の由次郎さん、酌婦の笑三郎さんなどが加わり、水戸街道の様子を芝居とともに登場人物で構成してくれました。

歌舞伎座5月歌舞伎で書いていなかったのですが良い舞台でした『魚屋宗五郎』について少し書きます。菊五郎劇団の手堅さが出た芝居で、笑いを取ると言った方向は押さえて、市井の人々の生活の中での悔しさをお酒という力をかりてしか表すことの出来ない悲しさと可笑しさ、そして醒めてみれば、やはり殿さまを前にすると何にも言えなくて、お金を頂戴してしまうという身につまされる、何とも言えない生活感覚を見事に作りあげました。

魚屋宗五郎の菊五郎さん、女房おはまの時蔵さん、父親太兵衛の團蔵さん、小奴三吉の権十郎さんの長い間の積み重ねが抵抗感のない自然の動きですんなりと気持ちよく流れ、受け入れていました。作っているという感じのない、魚屋一家のつながりでした。

無理に笑わそうとしていなくても、芸の積み重ねでみせてくれる味わいでした。

あとは辛口気味ですが、『吉野山』の海老蔵さんと菊之助さんは美しいお二人なのに花見遊山ような舞台装置は不要とおもいました。『伽羅先代萩』も想像していたのとは違い芝居の山場の緊迫感の締めが甘かったようにおもいます。申し訳ありませんが、期待していたので辛めです。

思いました。舞台という狭い空間でも、その時代性の空気が見えたり、感じたりできるかどうかということ。これって大事なことなのではないでしょうか。

 

歌舞伎座6月歌舞伎『曽我綉俠御所染』『名月八幡祭』

曽我綉俠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ) 御所五郎蔵』は両花道を使っての、御所五郎蔵と星影土右衛門の出会いがあり、それぞれの子分を加えたつらねがあり男伊達の見せ所でもあります。

この場面は、台詞と立ち姿が良いかどうか試されるところで、御所五郎蔵の仁左衛門さんに並んでの男女蔵さん、歌昇さん、巳之助さん、種之助さん、吉之丞さんがしっかりした子分でした。若手の皆さんも安心して観ていられる姿、形になってきました。星影土右衛門の左團次さんの何かありそうな雰囲気と、臆病な子分たちも好調です。この二組の一発触発のところを収めるのが、甲屋与五郎の歌六さんできっちり収めます。

星影土右衛門の家来のほうが出番と台詞が多いです。それは、御所五郎蔵の女房・皐月の雀右衛門さんが傾城になっており、星影土右衛門が皐月を我が物としようとしているからです。五郎蔵は皐月のことを信頼していて、土右衛門に好きなようにしろと啖呵をきりますが、土右衛門とその家来のいる前で皐月から退き状をつきつれられたのですから逆上してしまいます。皐月を待ち伏せして、間違って主人の惚れている傾城・逢州(米吉)を切り殺してしまうのです。

逢州の身請けのお金を工面するため、心の内を隠しつつ愛想尽かしをする雀右衛門さんと男の顔をつぶされた仁左衛門さんの対比に躍動感があり侠気の華やかさがありました。その間に坐す左團次さんが鷹揚に構えているのが、一層男と女の心情を複雑にしています。

米吉さんも絶対評価では、『弁慶上使』でのしのぶとは違う傾城に変身していましたが、仁左衛門さんの怒りを静める大役なので、相対評価では少し辛い点数となります。点数よりもやれるということほうが幸せなことと思います。

 

名月八幡祭』は、祭りの中を狂って女にだまされた男が復讐する話です。場所は深川で、芸者・美代吉の笑也さんに惚れた、越後から反物の行商にきている真面目で仕事一筋の縮屋新助の松緑さんが美代吉に翻弄されてしまうのです。

新助は仕事を終え越後に帰ろうとしますが、お得意の魚惣の猿弥さんに祭りを見てから帰るべきだと引き留められます。ところが、魚惣は、引き留めるのではなかったと後悔するようことが起きてしまうのです。美代吉は悪い人間ではないがあの女には深入りするなとも忠告していました。

松緑さんは、低姿勢で信用第一にお得意を大事にし、それでいながらしっかり品物を売っている行商人だということがわかり、だまされたと知るや狂気してしまうのももっともだという人物像を上手く表現されました。

美代吉には、ばくち好きの船頭三次という情人の猿之助さんがいます。さらに旗本である藤岡慶十郎の坂東亀蔵さんがいます。この藤岡から国元へ帰るからと手切れ金を百両渡され、新助の女房になると約束した美代吉は、あんな田舎者とわたしがなんでと一時の気まぐれの本性をあらわしてしまうのです。田畑を売った新助には行き場がありません。本気にするとはと軽くあしらう美代吉と三次。

田舎と深川の色町の金銭感覚の違いをあらわした作品でもあり、その辺も伝わってきます。笑也さんには、台詞に深川芸者の男勝りな言葉もでてきますので、もう少し気風の良さと粋さが増して欲しいです。藤岡は、包容力がありさっぱりした旗本で亀蔵さんの台詞もいいので、顔のつくりがもう少し優しさがあってもいいようにおもえました。

猿之助さんの三次は、美代吉からお金の代わりにもらった簪を挿し、遊びにいくところに無頼さの色気がありました。

松緑さんがこういう役にあっているとは思いませんでした。ただ、3月の歌舞伎座での『どんつく』で表情や顔のつくりから違う面がでてくるのかなという感じはありました。そんな松緑さんや猿之助さん、猿弥さん、亀蔵さん、さらには、竹三郎さん、母役の辰緑さんに囲まれ、国立劇場歌舞伎俳優養成所出身の笑也さんが大きな役に挑戦され、芝居としても面白くなったことは、観ているほうとしても嬉しいことです。

 

 

歌舞伎座6月歌舞伎『御所桜堀川夜討』『鎌倉三代記』

雀右衛門さんの快進撃です。立役に吉右衛門さん、幸四郎さん、仁左衛門さんをむかえて、しっかりした舞台を展開してくれました。その間に挟まって、猿之助さん松緑さんが健闘され見どころのある芝居を見せてくれました。

御所桜堀川夜討 弁慶上使』は、弁慶が生涯に一度だけ契りをむすんだ女性とおもいがけないところで遭遇し、そのときできた娘を忠義のために身代わりとして殺してしまうのです。

弁慶は、義経の正室・卿の君(平時忠の娘)が懐妊したため、頼朝から首を討つよう命令されていました。おさわは腰元となってつとめる娘・しのぶが犠牲となることを拒みます。その理由が、顔を見ていない父親に会わせるまではという理由でした。ところが、その父親であり夫である弁慶にしのぶは殺されてしまうのです。

弁慶も身代わりになるのが自分の娘とは知らなかったのですが、おさわの娘を守る様子を陰で聴いていて知るのです。弁慶の表と裏の心のうち、おさわの夫が解ってもその手で娘を殺されてしまう悲しさ、喜びと悲嘆が同時に訪れるのです。そのあたりを、吉右衛門さんの荒事風の弁慶と、雀右衛門さんのおさわで、それぞれの気持ちの変化をじっくりとみせてくれます。

竹本に乗った雀右衛門さんの動きから目が離せませんでした。気持ちと動きがしっくりとしていました。

脇を又五郎さん、高麗蔵さんが手堅く押さえられ、米吉さんの娘・腰元しのぶが目が見えなくなって父の顔もわからず、可憐な哀れさが、時代に翻弄される悲しさを際立させました。

鎌倉三代記 絹川村閑居の場』は、三姫の一つ時姫の出てくる作品です。お姫様でありながら、恋に対しては一途で大胆なところがあるのです。そこを、お姫様の様相は崩さずに表現しなくてはならないのです。何をしてもお姫様なのです。

<絹川村閑居>というのは、三浦之助義村の母・長門が病床の身で住んでいるところです。源頼家に仕える三浦之助は味方が劣勢なので母・長門に別れにきますが門前で気を失ってしまいます。

ここに三浦之助の許婚である時姫が長門の看病のため来ていて、倒れている三浦之助をみつけます。時姫の出と、三浦之助を介抱する動きが重要で、かいがいしくもお姫様である品と色香と恋する一途さが、雀右衛門さんは芝雀時代よりも芸道が太くなっています。ここも目が離せませんでした。

ところがこの一途なお姫様は、三浦之助の敵側の北條時政の娘なのです。このお姫様の気持ちは三浦之助と佐々木高綱によって利用されてしまいます。佐々木高綱は『盛綱陣屋』で自分の贋首を息子に自分の首だといわせたあのかたです。

ここでも、自分と似ている百姓・藤三郎を自分の影武者として時政に近づけさせ、時政はそれを見破って、藤三郎と女房・おくるに時姫を連れ戻すようにと命じるのです。高綱は今度は、自分が百姓・藤三郎になりすまし、時姫の前にあらわれますが、時姫は父のもとにはもどらないことを宣言します。

しかし、三浦之助はさらに、自分のことを想うなら父・時政を討てというのです。時姫は承諾します。そこへ藤三郎実は高綱があらわれ、高綱の計略だったことをあかします。可愛そうな時姫。そしてもう一人は藤三郎の女房・おくる(門之助)は百姓であった夫が武士となって死ねたことは誉であるといって自刃します。これまた時代に翻弄される身の処しかたです。

時姫さんはそういうことは考えてはいません。一途ですから、恋の一字しかありません。三浦之助を相手に恋のクドキ。父・時政と三浦之助の間に立っての苦悩のクドキ。それでも、選ぶ道は恋の道で、そこを演じきるのが時姫役者さんなのです。

三浦之助の母・長門もしっかりもので、母のことなど心配する時かと息子とは会わないのです。秀太郎さんが、しっかりこの場は押さえられます。三浦之助も色々な役割があるのですが、手傷をおっていますから、大きな動きをせずに堪えつつ、心の内を隠さなければなりません。松也さんは、美しい若武者の姿、形はいいですが、この難役が身につくにはもう少し時間が必要です。

策略家の高綱の幸四郎さんは、藤三郎になりすまし、実はで高綱の大きさをみせられました。この大きさに見合う、時姫役者として雀右衛門さんは最後まで通されました。

最初に、阿波の局(吉弥)と佐貫の局(宗之介)と富田六郎(桂三)が出て、六郎が捕えた高綱はよく似た百姓・藤三郎で顔に入墨を入れられ侍に取り立てられ時姫を連れ帰るように言われ、自分たちも時姫を連れ帰る役目をおおせつかったことをかたり、高綱と藤三郎の関係を説明するかたちをとっています。

それにしてもややこしい話で、時姫は三姫の一つといわれて観てきましたが、今回やっと筋道がたち、雀右衛門さんの時姫を楽しむことができて良かったです。

北条時政は徳川家康、佐々木高綱は真田幸村、三浦之助義村は木村重成、時姫は千姫をモデルとしているそうです。

 

映画『海辺のリア』からシェイクスピアへ

四苦八苦しております。

やはりシェイクスピアですか。苦手なんですよ。あの台詞。道化なども出て来て、その台詞がもっとわからない。もう少しストレートにはっきり言ってくださいよといいたいところです。いつかはサラッとでもなぞってみなくてはと、DVDは少しづつ集めていたのですが、今がやりどきなのかと多少覚悟した次第です。

フレッド・アスティアからオードリー・ヘプバーンとつながって映画『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』のレンタルで『ローマの休日』へと好い繋がりとなり順調だったのですが、シェイクスピアという岩盤が顔を出しました。

映画『海辺のリア』は、小林政広監督が仲代達矢さんをとにかくスクリーンの真ん中にドーンと撮りたいという映画です。そこにシェイクスピアの作品の台詞もいれて、<リア>とありますから『リア王』なわけでしょう。人物設定も状況も『リア王』を意識していて、その中心が認知症のかつての大スターというわけです。

『リア王』を御存知なら、それとの比較をして楽しむのもいいでしょう。知らなければ知らないで疑問に思ったり、はぐらかされたり、現実の認知症老人と家族の話としてはリアルさに欠けると思ったりしても良いでしょう。

とにかく舞台のような台詞劇映画とも言えます。主人公の桑畑兆吉は、かつては大スターだったらしく、そのために周囲は彼に振り回され、引退後は周囲が彼を振り回し、さらに彼も認知症ということで周囲を振り回し、さらにさらに観客のこちらも振り回されます。登場人物の主人公との関係を映画の進行に従って観る方は組み立てていかなくてはなりません。そうしつつ役者さんたちの演技力にもチェックをいれなければなりません。

振り回せなければこの映画の味もないことになりますから大いに振り回されましたが、認知症の桑畑兆吉は、認知症の世界の中で決めるんです。壁の中にいるのはいやだ。認知症の役者・桑畑兆吉を自分の納得した場所で、彼の中の観客に向かって演じることを。

バレーダンサーで振付師のニジンスキーが、精神障害となり病院生活を余儀なくされます。そこでの最後のインタビューで、一切言葉での反応がなかったのですが、最後に素晴らしいジャンプをして見せるという映像をみたことがあり、それを思い出してしまいました。桑畑兆吉の見事な台詞のジャンプでした。

観てからが大変です。オーソン・ウルズの映画『リア王』(監督・アンドリュ―・マカラ)をみて、雑誌『月刊 シナリオ』(7月号)に『海辺のリア』の脚本が載っているのでそれを読みました。映画はこのシナリオから変更になっている部分もあります。『ヴェニスの商人』の台詞も出てきたのを知って、アル・パチーノの『ヴェニスの商人』(監督・マイケル・ラドフォード)を観ましたら、シャイロックの亡き妻の名前がリアとあり偶然の一致なのか暗示なのかとちょっと気に係りましたがそこまでとします。

アル・パチーノさんもシェイクスピアはお好きなようで初監督作品に『リチャードを探して』というがあります。この映画は、『リチャード3世』を演じる俳優たちとの討論する場面もいれるというドキュメンタリー要素もあり面白い設定でした。

黒澤明監督の『乱』も見直しました。『リア王』の三人の娘を三人の息子に置き換えた日本版といえる有名な作品ですが、自然の雄大さ、戦闘場面、人物描写など観た回数だけ発見があります。『海辺のリア』の原田美枝子さんの長女、次女の黒木華さんが私はコーディリアではないと言い切り、長女の夫の阿部寛さん、そしてこの人はどんな関係なのかとそれこそ「あなたどなたさま」と思わされた小林薫さん。映画を観ていた時よりも人物像がはっきりしてきました。

圧倒的に仲代達矢さんが主人公の映画ですが、後になって台詞の少ない人物も気にかかって場面場面を思い出してしまいます。そして、84歳の仲代達矢さんに、観客が刀を使わない<果し合い>を挑んでいるようで嬉しいです。

小林政広監督と仲代達矢さんの映画はこれで三本になりました。『春との旅』『日本の悲劇』『海辺のリア』。『春との旅』は、孫の春に最後には生き方を教えるという好作品でした。『日本の悲劇』も今回見ましたが、こちらのほうは、日本の大きな社会性を一点に集中させました。リストラ、離婚、母の介護、東日本大震災、父の最後の選択。不幸なことが重なることは誰にでも起こりえることなのです。部屋に閉じこもった父の仲代さんのアップの表情の一つ一つが息子への気遣いであることがよくわかります。特に電話の音に耳をそばだてるのが、観る側の気持ちと一致します。

小林政広監督の『愛の予感』は、監督自身が出演していて台詞が全くない映像が続きますがじーっと見続けてしまうという映画です。

さてこんな映画鑑賞状況から、シェイクスピアさんの映画を今回は忍耐をもって一本一本見て行こうと思ったのも、桑畑兆吉さんの念力でしょうか。

追記 : 今夜(11日)7時からBSフジで「役者 仲代達矢 走り続ける84歳」があります。

日本映画があらゆる輝きを放っていた時代の中を歩かれてこられた役者さんですから、お話しが面白かったです。『果し合い』で佐之助が次第に忘れていた剣術を身体に思い出させていく場面など、現場での仲代さんの緊張感も見どころでした。

シェイクスピア映画の『ロミオとジュリエット』(1936年ジョージ・キューカー監督)に、ロミオ(レスリー・ハワード)の友人・マキューシオ役がジョン・バリモアさんでした。おしゃべりで陽気で、こんな役も演じていたのかと仲代さんの『バリモア』のしぐさを思い出していました。そして、桑畑兆吉さんはスター時代、喜劇も演じていたような気がします。

無名塾『バリモア』(再演)

 

『幽玄』 玉三郎✕鼓童

先週は観劇週間でしたが、風邪のため、先ずは観劇優先と何とか制覇できました。季節がら温度差がありすぎ、身体は温度調整が壊れているようです。そして書くという行為が体調の悪いときには疲れが襲います。

オーチャードホールでの『幽玄』では、玉三郎さんの世界が圧倒的な空気で包んでくれました。来ました!

映画『セッション』『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼル監督にこの舞台を観てもらい是非感想をお聴きしたかったです。どう評されるか。

薄暗いなかを奏者が裃で静かに下手から進んでこられたときは、平等院鳳凰堂から雲中供養菩薩が奏者の中に降り立ったような空気が、奏者の動きに従って舞台の下手から上手に向かって流れていきます。

修練の苦しさなど微塵も表出させない規則的な太鼓とバチで響く音のリズムと一体感。こちらはただただ音を捕えようと美しい単調な動きをながめつつ見つめていましたが、そのうち音の魔法にかかったように、ただただその音の世界に漂っていました。

音のなかで舞われる羽衣、道成寺、石橋の獅子たち、それぞれの場面にそれぞれの幽玄さをこめられた舞台演出。太鼓を芸術の域に高めたいとする玉三郎さんの意志が伝わってきます。

チラシには、玉三郎さんの羽衣の写真がありましたので、羽衣を舞われるのだなとの予想はしていましたが、道成寺と獅子の登場の舞台の展開は新鮮でひたすら楽しませてもらい、あらためて舞台構成のながれに感嘆していました。

ロウソクの灯り。

玉三郎さんの小さな腰鼓の羯鼓(かっこ)と太鼓のセッションも素敵でした。あんなに小さい羯鼓がと驚きました。

道成寺の鐘から出現した蛇にも驚きました。こうくるのですか。日本の古来からの祈りなり祭りなり、人々が守り大切にしてきた心と音を伝えてくれます。

獅子たちの登場では、この音を聴けば獅子たちもその音のありかを探して訪ねてくるであろうと思いました。獅子の毛のゆれが、言葉を交わしているようにふわりふわりとゆれて頷き合っています。音に満足した獅子たちが、それを讃えるように毛ぶりとなります。その世界に無心に遊び遠吠えしているかのようでした。獅子が遠吠えするかどうかはしりませんが。

『セッション』『ラ・ラ・ランド』を観たあとでもあるためか、東洋と西洋の文化、芸術の違いが舞台の作り出す中で感じられました。

歌舞伎はもとより、中国の崑劇、琉球舞踏などを肉体に取り込み体感されている玉三郎さんならではの、鼓童太鼓集団を導いての太鼓の音を集約することで出来上がる<和>の世界の舞台化でした。

映画『ホワイトナイツ 白夜』のミハイル・パリシ二コフさんとの舞台、その他、アンジェイ・ワイダ監督、モーリス・ベジャールさん、ヨーヨー・マさんなどと組んで仕事をされ、東洋のみならず、西洋文化にも深く入り込んでおられる玉三郎さんが、太鼓という打楽器から生み出した最新の舞台が『幽玄』でした。

花道がないのがかえって舞台と観客席との境がはっきりしていて舞台上の幽玄さが際立ち、オーチャードホールという場所も微妙な音を伝えてくれる環境としてベストだったのでしょう。

もう一回この音の世界に浸りたいです。

歌舞伎座の團菊祭五月大歌舞伎についても少し。

見どころは、彦三郎さん改め楽善さん、亀三郎さん改め彦三郎さん、亀寿さん改め坂東亀蔵さん、新彦三郎さんの子息の亀三郎さんへの襲名披露ということでしょう。新彦三郎さんも新坂東亀蔵さんも脇役が多く、新彦三郎さんは、国立劇場での『壺坂霊験記』での沢市で役者さんとしての印象を強めました。今回は『石切梶原』の梶原、『寿曽我対面』の曽我五郎で荒事などもこれからの活躍が楽しみなかたです。新坂東亀蔵さんも、『四変化 弥生の花浅草祭』で、松緑さんと組んでの舞踏で、こんなに身体の動くかただったのかと、これまた今後の修練の花開く日が楽しみな役者さんです。この勢いに新亀三郎さんも巻き込まれていくことでしょう。

七世尾上梅幸二十三回忌ということもあってか、菊五郎さんのお孫さんの寺嶋眞秀さんの初お目見得もあり、十七世市村羽左衛門十七回忌でもあるためゆかりの盛りだくさんな月となっています。

十七世市村羽左衛門さんに関しては、偶然目にした30年まえの雑誌『演劇界』に先人の芸をふくめたお話しが載っていて興味深く、連載されているようですので、このあたりを今後探索したいと楽しみがふえました。

 

映画『ラ・ラ・ランド』

映画『ラ・ラ・ランド』は、かつての映画に対するオマージュで溢れている映画です。観た人の観た映画によってあの映画ねと想起させます。

ミュージカル映画に対して自分の中で混濁した部分があって、『メリー・ポピンズ』に到着した時、一枚のチラシから、千葉文夫さんというかたの話しを聞く機会にめぐまれました。聞き手の方がいるのでトークショーといっていいのでしょう。

話し手の千葉文夫さんも聞き手の郡淳一郎さんも全く知らない方です。そのチラシは「千葉文夫のシネマクラブ時代」とあり、千葉文夫さんというかたは、早稲田大学の教授で今年の春大学を辞められ、最終講義の最後『踊る大紐育』の I’m so lucky to be me を口ずさんで終わったということで、『踊る大紐育』に反応しました。

世の中がゴダールとか言っているときに、アステア&ロジャースなどについて語っておられてもいたようなのです。これは面白いかもということで参加したのです。

三つの映像を見せてくれまして、一番目が、アステアとロジャースの優雅なダンス場面でした。完璧なんです。カメラに納まって踊るということは、計算尽くされた動きでないとできないと思います。ステップを踏んですっと横に飛んだとしてもその一歩は決められた通りでなければ映像からはずれてしまいます。

千葉文夫さんも、この二人を乗り越えられないでしょうと言われていましたが、本当です。私の中にミュージカルといえば、フレッド・アステアやジーン・ケリーなどの歌と踊りが古典のごとく光輝いていて、それが新しいミュージカルを弾き飛ばしてしまうようなのです。千葉文夫さんの話しは、もっと深いところにあると思いますが、私にとってはアステアとロジャースのダンスで充分でした。

その映像の中でジンジャー・ロジャースさんのドレスが光で透けて、足の付け根から踊る足が見えるのですが、それがまた美しいのです。制作側はサービス精神でお色気もと考えたかもしれませんが、ロジャースさんの足は踊っていてもこの美しい足を維持しているのを見なさいという自信に溢れてみえました。どこかで次のステップのために力を入れたりもするでしょうが、不自然な形とならないのです。すーすーと流れるように動き、カメラの長回しでそれをやってのけるのですからミュージカルスターの頂点です。

アステアさんにしろ、ジーン・ケリーさんにしろ、少し高い所に乗ったり下りたりしても、あくまでも美しくダンスのリズムと身体が崩れるということがありません。

『ラ・ラ・ランド』でも、アステアさんたちに比べれば短いですが、主人公二人のダンス場面があり、アステア時代の優雅なダンスを意識して入れているなと思いました。

『ラ・ラ・ランド』は、評判が高過ぎて観ていなかったのですが、トークショーでこの映画を観た人が多く、好きか嫌いかということでは好きの人が多かったようでした。観ていないのでやはり観ておかねばならぬかと映画館をさがした時は一回上映が多く、一度目は一時間前で満席で、時間調整と映画館の場所に苦労して観るかたちとなりました。

ジャズ演奏の店を持つ夢を追いかけるセブ(ライアン・ゴズリング)と映画のオーデションを何回も受けて女優の夢を追うミア(エマ・ストーン)の二人が恋に落ちて、それぞれの夢のために別れて、再会するというありふれた展開ですが、そこには観る者がかつての映画を思い起こす材料が一杯詰まった映画で、それと話しの流れが上手く重なっている作品でした。

映画の『理由なき反抗』がでてきたり、ミアが何回もオーデションを受ける場面では映画『コーラスライン』を思い出したり、セブがジャズにこだわるところでは映画『ニューオリンズ』などのジャズの音楽映画を思い出したりしてました。

再会するところでは、『シェルブールの雨傘』が浮かんだり、朗々と歌い上げないので上手くこちらの遊び心を浮遊させつつ、映画自体を楽しませてくれます。

挿入歌の[City Of Stars]などのメロディーも心地よく音楽と映像に突入です。

映画の冒頭が高速で渋滞する車の列の中で、車体に乗ったりして踊るという群舞で、導入としては、さすがハリウッドのミュージカル映画やりますねという感じです。こういう感じが続くのかなとおもうと、しっかり主人公二人の現在の状況を映し出し、ふたりを引き合わせていきます。衣裳も身体に合ったきちんとスタイル線を見せるもので、踊っても優雅なダンスになります。

ミアはハリウッドの撮影所のカフェで働いていて、スター女優が立ち寄ってコーヒーをテイクアウトしてミアは「お金はいいです」というのですが、スター女優は「そうはいかないは」とお金を置いていき、憧れの眼差しで女優を追います。そのスターの立場になったミアも同じことをするのですが『イヴの総て』がぱっとひらめきます。

ラストの捉え方は、観る者にゆだねられているのでしょうが、別れても、別れてなくても人生は素晴らしいのさという、ちょっと甘い感じですが、観る人の年齢層によっては、やり直せる力をもらえることでしょう。

面白そうなので映画『セッション』をレンタルしていたのですが、『ラ・ラ・ランド』と同じデイミアン・チャゼル監督作品だったのには驚きでした。『セッション』も面白い作品でした。

『セッション』に出てくる、有能なミュージシャンを育ってるのが夢で、異常ささえ感じてしまう指導者・フレッチャー役のJ・K・シモンズさんが、『ラ・ラ・ランド』にも出ていて、『スパイダーマン2』にも新聞社の編集長役で出ていたのです。スキンヘッドということもありますが、フレッチャーの強烈な演技から同じ人とは気がつきませんでした。『スパイダーマン』3部作全部に出ているようです。

エマ・ストーンさんは『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の主人公・落ち目のハリウッド俳優役のマイケル・キートンさんの娘役でして、印象的な演技だったのでこの人はと思っていましたが、まさかミュージカル映画にでるとは思いませんでした。そしてなんと『アメイジング・スパイダーマン』というのがあるらしくそこにでているらしいのです。『アメイジング・スパイダーマン』、見ない訳にいきません。蜘蛛の糸の粘着力は予想以上に強力でした。

バットマン!救出にきておくれ!どのバットマンでもいいわけではありません。好みがありますから。検討中です。マイケル・キートンさんは『バードマン』からブレイクしていてイメージが変わっていますので除外します。

自分で脱出できることに気がつきました。映画の帰り神保町の本屋さんでフレッド・アステアさんのDVDBOXを手に入れたのです。映画料金二回分で2箱、18枚のDVDです。まさしく有頂天時代です。蜘蛛の糸などなんのそのです。

映画『ダ・ヴィンチ・コード』出演者のなかで抜かしていましたのがジャン・レノさんですが、なんと言いましても『レオン』ですね。教育を受けていなくて、少女マチルダに何かやってよと言われて、チャプリンの真似をしてわかってもらえず、ジーン・ケリーの『雨に唄えば』をやってもわかってもらえず、あの場面最高でした。

『ラ・ラ・ランド』で[City Of Stars]を歌う時のセブの帽子、あれってチャプリンかもしれませんね。ほんのちょとしたことで思い出させてくれるのです。懐かしいのではなく、それを土台にどう次につないで、新しい楽しい世界が展開できるかということです。そして、これまでの映画人に敬意を表しているようにもとれる映画でした。

 

 

映画『ダ・ヴィンチ・コード』から映画『メリー・ポピンズ』(4)

ウォルト・ディズニーの約束』は、ウォルト・ディズニーさんが、『メアリー・ポピンズ』を映画化したくて原作者のパラ・L・トラヴァースさんと交渉するのですが、なかなかその許可を得られないのです。やっと許可がおり契約するのですが、その契約にはトラヴァースさん側からのと色々な制約があり、トラヴァースさんとウォルト・ディズニーさんとのそれぞれの主張が交差し、さらにそこに携わる音楽関係、美術関係のかたなどの制作過程などが描かれていて、予想以上に面白く楽しいものでした。

パラ・L・トラヴァースさんがエマ・トンプソンさんですからもうしっかり見せてくれます。そこにウォルト・ディズニーさんのトム・ハンクスさんが何とかしようと奔走するのですから面白くないわけがありません。

最初から、トラヴァースさんとディズニーさんの感覚の違いがわかりどうなることかという感じです。されに実写映画にアニメが入るわけですから、トラヴァースさんにとっては考えも及ばないことです。あなたは何をかんがえているのというところです。こういうところは、エマ・トンプソンさんならではの雰囲気です。エマ・トンプソンさんは上手さを突き抜けた好い女優さんです。

トラヴァースさんの少女の頃が明かされていきます。お父さんが社会の中で上手く対応して生きていける人ではなく、お父さんが大好きな少女は悲しい場面にも遭遇するわけです。そんな中、お父さんが亡くなり、失意の家族のもとに現れたのが母方の叔母さんでした。実務的な人で、どうしてよいかわからないお母さんを中心とした残された家族に代わって実務をこなしていくのです。それが、ファンタジーな話となって完成したのが『メアリー・ポピンズ』なのでしょう。

それをさらに、明るく楽しいディズニーの世界として展開していくのが『メリー・ポピンズ』なのです。ディズニーの世界しかないようなウォルト・ディズニー役のトム・ハンクスさんの行動が自信たっぷりで、これまたトラヴァースさんとの感覚とずれていて可笑しいです。

その間にはさまり、駄目だしを出されながら、ひたすらいい曲と歌を作ろうとする制作スタッフの様子も必見でした。

ウォルト・ディズニーの約束』と『メリー・ポピンズ』は、二作見ればそれなりに面白さが加わりますが、見なくても、それぞれの映画をそれぞれに楽しめる作品だと思います。

メリー・ポピンズ』は、深く考えなくて楽しめる映画ですし、音楽、動き、アニメが上手く総合された映画です。ジュリー・アンドリュースさんの動きも歌も自然で違和感なくその世界に入らせてくれます。ミュージカル映画というものを、あらためて考えさせられました。

ミュージカルという映画も舞台も、個人的には冷めてしまうんです。深刻になって高らかに歌われるとどうもそこで芝居が途切れてしまい歌を聞いていなければならない。これでもかという感じで歌で訴えられるのは苦手なのです。ミュージカルと名がつけば、歌って踊れなければ不満なのです。そうでなければ、音楽劇として欲しいです。これは、『ラ・ラ・ランド』に繋がりますのでこのことは別にします。

締めとしましては、DVD『新約聖書 ~ヨハネの福音書~』を見ましたので、そのことを少し。

映画の冒頭に次ぐように記されています。

「ヨハネの福音書はイエスが十字架にかけられた後、次の世代に書かれた。ローマ帝国がエルサレムを支配していた時代である。十字架につける刑はユダヤ人の処刑方法ではなくまさにローマ人の処刑方法だった。イエスと初期の信者たちはユダヤ人だった。

「ヨハネの福音書」には台頭してきた教会とユダヤ人の宗教制度の間に起きた論議と対立が反映されている。

この映画は「ヨハネの福音書」を信仰的に再現したものである」

映画の最後には次のように記されている。

「このDVDの日本語版はアメリカ聖書教会の翻訳の「Good News Bible」を基にドラマの台詞用に翻訳した。」

福音書は四つありその一つの「ヨハネの福音書」に則って作られた映像で、初心者には判りやすいものとおもわれますが、イエスの語る言葉が中心なのでそれを深く考えようとすればそう簡単ではありませんが流れはわかります。

ヨハネの前にイエスが現れ、ヨハネはイエスの洗礼をおこない、この方が道を示すかただと宣言します。ヨハネは神の使者で、イエスが、神のただ一人子であることがわかります。ここから、イエス自ら神の子であり自分の言葉が神の言葉であり、自分を通して神に近づくことができるのであるから自分を信じなさいと説きます。

そして病人を治したり、目の見えない人を見えるようにしたりし、最後の晩餐、ユダの裏切り、磔刑、復活などが描かれているのです。三時間という長さで、イエスの言葉が多いですが、「ヨハネの福音書」にはこういうことが書かれているのだなということがわかり、読むことを考えると楽をさせてもらいました。

今まで観てきた絵画の構図なども思い出され、こういう場面を描いていたのかということなども浮かびます。一応、「ヨハネの福音書」の基本線はこれとして一つのピリオドとすることにします。

次の行先は、スパイダーマンのように蜘蛛の糸を投げ、ビューンと飛びたいものです。

 

 

映画『ダ・ヴィンチ・コード』から映画『メリー・ポピンズ』(3)

ロード・オブ・ザ・リング』は見始めてからすぐ、この映画を見なくてはならないのかと気分が乗りませんでした。美術が綺麗じゃないのです。我慢して見ていました。イアン・マッケランさんのガンダルフが出てきました。ガンダルフは真っ白い衣裳で白馬に乗り、妖術も使えるらしく格好いいのです。

どうすりゃいいのさと思っていましたので助かりました。ひたすらガンダルフが出てくるのを待ちます。判断力あり、統制力あり、台詞もいいのです。ガンダルフのお陰で最後まで見ることが出来ました。

セットとか、美術とか、特殊メイクなど凄いとはおもいますが、これは好みの問題でしょう。そして長いです。現実の戦争には正義などなく殺し合いです。ゾウの大きいのが出て来て兵士を踏みつけたり、投げ飛ばしたりしますが、踏まれたりとばされたりするあれって自分だなと思いました。戦争で犠牲になるのはヒーローではなく多くの一般の人々です。近頃ファンタジーなのに現実味を帯びて見てしまい楽しめません。

アリンガローサ司教のアルフレッド・モリーナさんは、『フリーダ』に出られていたのです。この映画、都民劇場から券が届いていたのですが見に行く時間が取れず、友人に見に行ってもらった映画で、映画を観たと聞いたことのない友人がとても良かったよといっていましたが、素通りしていた作品です。良い作品でした。フリーダさんは実在のメキシコの女性画家で、アルフレッド・モリーナさんはフリーダの夫の役でした。

フリーダは感性豊かで情熱的で気性の激しいかたで、18歳の時バスの事故に遭い、何回も手術を受け、生涯で30回以上受けているということです。痛みとの闘いでベッドで絵を描き、歩けるようになり結婚した相手がアメリカのロックフェラーにまで依頼される人気壁画家・ディエゴで、その壁画家の夫役がアルフレッド・モリーナさんなのです。

こちらは、美術も美しく、CGも使われますがこの映像にマッチしていて効果的です。音楽もメキシコの色と香りが伝わってくるような良さです。

<太鼓腹さん>の夫のディエゴは浮気ばかりしてフリーダを悩ませますが、フリーダの絵の才能とその感性を一番理解しているのがディエゴで、フリーダ役のサルマ・ハエックさんの夫役はアルフレッドさん以外に考えられない雰囲気の演技でした。フリーダさんが伝説的な女性画家らしいのですが、映画を見ると伝説になってしまいます。

アルフレッド・モリーナさん『スパイダーマン2』では悪役だそうでこの映画も見ない部類で、アルフレッド・モリーナさんが悪役なら見ないわけにはいきません。スパイダーマンは普段は大学生で、そこがこちらにしてみれば若すぎて物足りなく、『バットマン』のほうが面白かったです。モリーナさんも味薄かったです。この映画はスパイダーマンの蜘蛛の糸と、人工的装置が主役ですね。

トム・ハンクスさんは沢山ありますが、ロン・ハワード監督は<トムと僕はジョークを言ったものだよ。>といわれています。

「僕らは水の中で『スプラッシュ』を撮った。それから10年後には、宇宙を舞台に『アポロ13』を撮った。そして今回はルーヴル美術館だ。僕らは極端な場所でばかり、映画を作る運命にあるようだね(笑)」

スプラッシュ』見ていませんでした。『アポロ13』のころは、『フィラデルフィア』『フォレスト・ガンプ/一期一会』が出てましたから、初期のは見る気がしなかったのですが、この際と見ました。そしてトム・ハンクスさんが動きがよく映画の撮り方の力もありますが、身体にリズム感がありあらためて喜劇役者さんとしても一流と思いました。

ビッグ』の子供が突然大人になってしまうとか、『ターナー&フーチ/すてきな相棒』のブルドッグとのコンビは最高でした。ブルドッグのほっぺたの下にあんな大きな口があるとは。突進してくるフーチの凄さと、すてきな相棒になるまでの過程と別れ。そうなるであろうと想像していましたが見せてくれます。台詞のユーモアが笑えてしゃれています。

スプラッシュ』の人魚姫と人間の青年の恋物語ですが、人魚姫の泳ぎ方がリアルなので驚きました。下半身を魚の衣装で押さえこまれたかたちで優雅に上下に動かすのですが、これは大変な撮影だったと思います。演じるほう撮るほうも。そこに登場した海老と小太りの魚のキャラが特殊な二人の関係を楽しいファンタジーを加えていました。海老ちゃんの名前メモしていませんでしたのでわからないのですが、海老が厨房に紛れ込み調理されそうなりながら上手く逃げるのがこれからどうなるのという現実感に息抜きを与えてくれました。

違う世界に来てしまった人形姫の悲しさも出ていて、まさかトム・ハンクスのほうが海の世界にいってしまうとは予想しませんでした。この映画、どこも引き受け手がなくて、ディズニーが引き受けてくれたらしいのです。それで『メリー・ポピンズ』かな。ちがいます。もう一つクッションがあります。トム・ハンクスさんの映画がお気に入りのかたには、そんなの知ってるよとブーイングされてるでしょう。

ウォルト・ディズニーの約束』です。ウォルト・ディズニーを讃える伝記映画かなとおもいましたら『メリー・ポピンズ』の原作者との関係を描いたもので、いかにして映画『メリー・ポピンズ』が出来たかという内容なのです。